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老子−51 [老子]

道生之、徳畜之、物形之、器成之。是以萬物、莫不尊道而貴徳。道之尊徳之貴、夫莫之命而常自然。故道生之、徳畜之、長之育之、亭之毒之、養之覆之。生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。

 

畜:やしなう

 

「道」が万物を生み出し、徳が万物を養い、物が形となり、器となる。この道理が理解できれば「道」を尊び、徳を貴ばなければならない。「道」が尊ばれ、徳が貴ばれるのは自然のことである。だからこそ「道」は万物を生み出し、徳が養い、万物を成長させ育てている。万物を結実させ成熟させて種を為す。万物を養い保護して万物を循環させているのだ。それでいながら「道」は万物を自分の物とせず、偉大な事をしてもその事に頼らず、万物の長であるのに取り仕切ったりせずあるがままにさせている。この「道」の働きは「玄徳」すなわち自然の働きという。

 

<他の翻訳例>

「道」が(すべてを)生み出し、「徳」がそれらを養い、物それぞれに形を与え、環境に応じて成熟させた。それゆえに、あらゆる生物はすべて「道」をうやまい、「徳」をとうとぶものである。だが、「道」と「徳」がうやまいとうとばれるのは、(何か権威のあるものから)任命されたからではなくて、それらはつねに自ら然(そう)なのである。こうして、「道」は生み出し、徳は養う。そして生長させ育てあげ、凝縮させ濃厚にし、食物を与えかばってやる。生み出しても、自分のものだと主張せず、はたらかせても、それにもたれかからず、その長(かしら)となっても、それらをあやつることをしない。これが「神秘の徳」とよばれる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 哲学の一部門である「存在論」を論じてたのでしょうか。古代ギリシャ以前は「存在は生き生きと変化し生まれ出る、自然に出てくる」ということのようでした。プラトン・アリストテレス・ デカルト・カント・ヘーゲルでは神秘的な力や神の力によって作られ、作られてあるというのが存在でした。20世紀最大の哲学者とい言われているハイデッガーは今まさにここに在る私を「現存在」と定義しています。「神」という超越的な創造主という概念を取り去り自然になり出てくるというところへ回帰したのでしょうか。

 また、存在者の中でも「私はなぜ在るか」と自分の存在を自分に問える特別な存在者(=人間)が「現存在」ということのようです。この自らの現存在によって、あらゆる他の存在を存在させている。認識する者がいなければ存在は無いということに気づいたのでしょうか。

 プラトンは、人間が存在していなくても「存在」は、存在し続けるという考え方のようでした。

 存在が「神」によって創造されたとすれば、一切の役割も「神」の意志で決められているということへと発展します。さらに自由意志の問題が起こってきます。

 存在を存在としてあらしめているのは、現存在である各自が存在に対して「存在」との関係性によって決められるということなのでしょうか。

 存在(=モノ)を徹底的に使い切ることでモノの存在としての価値と一体となります。だたモノと接するだけでなくモノが自身の一部であるとすれば一切は自身のように大切だと感じられるかもしれません。

 

 宇宙の根源であり名のないものをあえて「道Tao」と命名しています。「道」の働きは「玄徳」と命名しています。宇宙の根源(=道)から全ての存在が生み出されては消滅しています。現代ではエントロピー増大によってあらゆる存在は解体し消滅するということが分かっています。「道」には何らかの意志はなく為さずして為されているというところに落ち着いたのでしょうか。「存在」はどうして生じたのか、自分は何者なのか生きる意味はあるのかという問があります。新しい概念を定義して真剣に答えようとしている人がいます。

 「誰もいない森の中で木が倒れたら音がするか」という問いで音はしないということは周知の通りです。現存在がそこにいなければそこにあるであろう「存在」は、あるであろうという想像でしかありません。庭の小石でさえその場で観察しなければ「存在」としてあるだろうというただの想像でしかありません。超越的な「誰か」が存在してほしいというのが頭の中で描いている幻想でしかなく、その「誰か」に出会ったり声を聞いたりということはただわき起こってきた幻聴かもしれません。「誰か」の声を聞いたから世界を変えることもできるわけではありません。

 「神秘」ということも、神秘的に感じるだけであって人間の感受性の違いによって生ずる素晴らしい体験の一つかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−50 [老子]

出生入死。生之徒十有三、死之徒十有三。人之生、動之死地亦十有三。夫何故。以其生生之厚。蓋聞、善攝生者、陸行不遇兕虎、入軍不被甲兵。兕無所投其角、虎無所措其爪、兵無所容其刃。夫何故。以其無死地。

 

徒:ありきたり、無益

攝:ととのえる

兕:一本角の獣

死地:命を危険にさらす

 

人はこの世に出現しいつかは死の世界へに入っていく。生をありきたりに生きる人は十人に三人、無益に死を迎えるのは十人に三人だろう。人の生で、危険に身を投じる人は十人に三人。どうしてこうなるかと言えば、この世に生まれてきて生だけを重んじているからである。残る十人に一人のことで聞くことは、善く生をととのえることのできる人であり猛獣にでくわすようなことはなく、軍隊に入っても鎧や兜を身につけることはないということです。猛獣の角や牙によって傷つけられることもないし、敵兵の刃で斬られることもない。どうしてこうなるかと言えば、命を危険にさらすようなところに身を置かないからである。

 

<他の翻訳例>

生きのびる道と、死におもむく道があるときに、生きのびる仲間になるものが十人のうち三人あり、死んでしまう仲間になるものが十人のうち三人ある。人が生命をたいせつにしすぎ、その妄動の結果、(逆に)死地におもむくものが、(やはり)十人のうち三人ある。それはなぜかといえば、生命を豊かにしすぎるからである。私は聞いている、「生命を守ることにすぐれたものは、陸地を旅行して犀や虎に出会うことはなく、軍隊に加わっても甲(よろい)や武器を身につけない。(こういう人には)犀もその角を打ちつけるすきがなく、虎もその爪をかけるすきがないく、武器もその刃を打ち込むすきがない」と。それはなぜかといえば、(かれには)死地(弱点)がないからである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 私達は概念を使ってさまざまな妄想をしています。”心”・”魂”などの概念によって”個”として永遠の生命があるかのように信じている人もいます。見る者・聴く者・感じる者・・・という自己という主体があって、この自己が感受しているという思い込みです。見える対象が存在し、見ている”私”があるという二元の世界で生きていると確信しています。本当は見ているのではなくただ見えている、聞いているのではなく聞こえています。ただ身体的な働きによって受動的にそうなっているにすぎません。

 何度も記述していますが”私”を指し示めすことはできません。誰もが一致するわけではなく、てんでバラバラのただの概念として抱いています。都合よく”私”をあとづけしているだけのようです。”心”・”魂”がどこにどのようにあるかはまったく分かっていません。単なる働きに都合のいい名称をつけているだけかもしれません。

 だれもその(=心・魂)存在がどこにあるかを証明できません。自身のモノなら思いの通りになるのですが、自身さえ生滅していてる幻のようなモノなのに”心”・”魂”を探そうとしても見つかりません。名前をあてがっているということではないでしょうか。

 「誰もいない森の中で木が倒れたら音がする?」という問いがあります。感受できて聞いたと認識できる人がいなければ、音がしたとは認められません。この文章を書いていると思われる”平凡な生活者”が存在しているかどうかはただの憶測でしかありません。ただのニックネームであって、どこに存在しているのか本人以外はわかりません。”平凡な生活者”の存在を確認することができません。存在しているだろうという憶測でしかありません。

 ”たった今”自身の五感で認識できているモノだけが存在であって、それ以外の存在は想像上のモノでしか無いということになります。昨日見た川辺の花はただの記憶にすぎず、今現在の実際の花がどうなっているのかは分かりません。”火星”と名付けられている惑星も存在しているだろうという想像の惑星ということになります。

 ”たった今”認識できている以外は想像であって、幻ということかもしれません。何が言いたいかと言えば”たった今”だけが真実であり、それ以外は妄想ということです。多くの妄想に振り回されて生きているかもしれません。また、感受された事実(=思考した時はすでにその現象は消滅しています)を分別して迷っています。

 

 極端に言えば一切は刹那の間に変化変容しているので、変化前と変化後では全く違った存在だということになります。”ついさっき”の身体は死滅していて”たった今”の身体へと生まれたことになります。死んでいるからこそ生きているということでしょうか。(生死一如)私達は共通概念で”死”を定義し受け入れているので”ついさっき”と”たった今”が連続しているとみなしています。熟睡していれば”存在世界”はどこにもありません。

 

 言語で表現すればなんとでも表現できます。”灼熱の氷”・”コップに大海が入っている”・”月を飲み込んだ”・・・あり得ないことで惑わすことができます。獰猛な獣に襲われないとか、刀で傷つけられないとか”大袈裟”すぎても何ら違和感を感じません。物理的にありえないことでも言語にすることは可能です。読み手に問題があるのでしょうか。好き勝手に書いている方に問題があるのでしょうか。それとも言語自体に問題があるのでしょうか。言語はただの言語であって存在を証明するモノではないということです。”火星”という言葉を唱えたり書いたりしても”火星”を垣間見ることはできません。思いはただの思いでしかありません。思いを”言語”にして自らを惑わすことのないようにしたいものです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−49 [老子]

聖人常無心、以百姓心爲心。善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善。信者吾信之、不信者吾亦信之、徳信。聖人之在天下、歙歙焉、爲天下渾渾。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。

 

百姓:人々

歙:和合する、縮こまる

渾:まじる、湧き出る

孩:赤子

 

聖人は常に無心でいて、人々の心を自身の心としている。善人を善とし、不善人も善としている、これが善というものである。信じる者が信があり、信じない者も信がある、これが信というものである。聖人は天下(=統治下)にあって和合し、人々と混ざり合うことができている。人々は見聞覚知したことで分別するが、聖人は赤子のように分別無く見たまま聞こえたままにしている。

 

<他の翻訳例>

 聖人には定まった心はない。人民の心をその心とする。「善であるものを私(聖人)は善(よ)しとするが、善でないものも私はやはり善しとする。(こうして)善が得られる。信義のあるものを私は信ずるが、信義のないものも私はやはり信ずる。(こうして)信が得られる」。聖人が天下に対するやり方は何もかも一つに集めるのであって、天下のためには、かれの心を見分けにくくする。人民だれもが(かれに)耳と目をそそぐ。聖人はかれらを赤子のように扱う。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”私”・”心”が何処にあるのなら指し示すことができるでしょうが指し示すことは出来ません。何処にあるかも知れない”私”・”心”を捉えたり掴んだり得たりしようとしています。これが”心”だというものを捉えたり掴んだり得たりできることがあればいいのですが・・・。そもそもそんなことができないので、どうしようということになっています。

 ”心”はあるようで無いのでいかようにも定義することができます。自身の事だからなんとかく分かっていると思っているだけで実際は何も分かっていないということでしょうか。目の前の鉱物であれば触れたり分析できますが、縷々変転して捉えることができなません。どこから出てきてどこに消え去るかもサッパリ分かりません。どのように働いているかもハッキリ分かっていません。自らの”心”の源泉やどこへ行ったのかも分からないのにどうして他人の”心”が分かるのでしょうか。瞬時に現れては瞬時に消え去っています。

 いつどんな思いが沸き起こってくるのか予測も予想もつきません。音楽・詩・絵画・演劇・イメージ・感性・・・自分の”心”を自由自在に思い通りに操作できるのなら”心”は対象化され自身の”心”ではありません。この操るという”私”も幻想であって、”私”を操ろうとしている”私”は何かというと自我という幻だということを見抜く必要があります。

 

 人それぞれの個人的な固有な感覚があり、他人には分かりません。誰かと同じ”感性”があるのなら何人ものショパンがいてもいいのですが・・・。あらゆる存在がユニークであって二つとない別物として存在しています。

 ”私”・”心”は不生(=どこからどのように生まれたのか不明)であって掴むことも捉えることも得ることもできません。実体がなくどのようにして生まれどのようにして消え去るのかも不明です。あるように思えるのは”たった今ここ”だけかもしれません。”たった今ここ”以外は幻のようなものでは?

 

<聖人常無心、以百姓心爲心>

 無為(=無心)のままに生きている時は誰もが聖人と呼ばれてもいいということでしょうか。私達はどのように唇を動かしてどのように言葉を発しているかも分からずに話しています。驚くことに無心で言葉を発して会話しています。同じように見ようとして見ているのではなく無心で見えています、無心で聞こえています、無心で香りが分かります、無心で味わい、無心で感じています。

 有為(=計らい)でセピア色に世界を見ることは出来ません。有為(=計らい)でエコーがかかったように聞こえようとすることは出来ません。なんでも甘くするようにもできません。芳しい匂いに変換することもできません。何もしなくても(=無為無心)で”あるがまま”を”あるがまま”に感受しているのでだれもが既に聖人かもしれません。

 時々、”どうしよう”・”何とかしよう”という思い(=有為)が出てきます。”どうしよう”・”何とかしよう”と思うことは悩んでいることになります。”あるがまま”から離れて”どうしよう”というありもしない何かを掴もうともがいていしまいます。無心を壊しているのが自身の計らいということかもしれません。この計らいも自身の”心”が働いているとういことです。良いも悪いもなく放っておければ聖人で、放っておけずに追いかけて振り回されるのが人民ということでしょうか。人民の放っておけない”心”も自身の心と確証できていればそれで問題ないのですが・・・。

 大雨の時に川の増水を見に行く人がいますが、どうにもならないこと(=増水を止める)を知ってもただ困惑するだけです。火星がどうなっていようがまったく関係ないかもしれません。意味の無いことを知ろうとしたり追いかけているのが我々凡人かもしれません。大いに反省するところかもしれません。極端に言えばあらゆる事や存在に意味や価値が無いので、勝手に意味や価値がつけられるということかもしれません。どこの外食チェーンで誰が何が一番好きかなども意味や価値をつけられるということです。この世界で、意味や価値がないということは素晴らしいことです。意味や価値から自由であり解放されているということになります。

 

<善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善>

 ”善”という思いと”善”という行いがあるとして、”不善”の思いで”善”なる行いをしても”善行”となります。”善”の思いで”不善”を行えば”不善”の行いとなります。行為を見て善か不善かが決まるということでしょうか。

 様々な争いで、当事者はそれぞれ”大義名分”を持って争うことになります。どちらが”善”か”不善”かはよく分かりません。それぞれが自らが”善”であると言い張っているだけです。正しい方が勝つのではなく、勝ったほうが正しいとしているだけです。いわゆる「勝てば官軍負ければ賊軍」ということであって、争いに勝利したという結果をもって正義だというこのようです。根底にあるのは、”勝利したいという欲望”に従っているということのようです。

 人間以外の生命体からすれば、人間がいなければそれなりに生きていけるのに・・・。人間ほど厄介者はいないということかもしれません。”善”も”不善”もその時々で各人の思い込み。俯瞰して見れば”善”も”不善”もなく、地上で何らかの動きがあった程度かもしれません。

 

<百姓皆注其耳目、聖人皆孩之>

 人民は見聞覚知したことを自身の固定観念(=フィルター)を通して瞬時に分別するものです。自身が裁判官であり二元に振り分け”善悪”・”美醜”・”好き嫌い”・・・・あらゆる対象に意味や価値づけを行っています。

 赤子のときは見えるまま・聞こえるまま・・であって、意味や価値はなく”そのまま”にある何かです。執着と忌避を行ったり来たりの騒動に巻き込まれているかもしれません。

 

心:体に対し(しかも体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。

人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。知識・感情・意志の総体。

 

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老子ー48 [老子]

爲學日益、爲道日損。損之又損、以至於無爲。無爲而無不爲。取天下常以無事。及其有事、不足以取天下。

 

益:増加


学問に精を出せば、日毎に知識・有為(=計らい)が増していく。
道に精を出せば、日毎に知識・有為(=計らい)が減少していく。
知識・有為(=計らい)に頼ることを減らしていくことで無為に至る。
無為となれば、自然に為される。
天下(=国)を治めるには、常に無事(=戦争がないように)であるようにする。有事(=戦争)で天下(=国)を治めようとしても、うまくいくわけではない。

 

<他の翻訳例>

学問をするときには、日ごとに(学んだことが)増してゆく。「道」をおこなうときには、日ごとに(することを)減らしてゆく。減らしたうえにまた減らしていって、最後に何もしないことにゆきつく。この何もしないことによってこそ、すべてのことがなされるのだ。天下を勝ち取るものには、いつでも(よけいな)手出しをしないことによって取るのである。よけいな手出しをするようでは、天下を勝ち取る資格はない。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 科学技術の進歩によって作為的な人工物の中で生きていくことを強いられています。ビルが乱立する都会で自然とともに生きていると感じることには無理があります。自然との接点は”空気・空・日差し”だけかもしれません。黄砂に覆われた北京の映像を見る限りでは、”空気・空・日差し”でさえ遮られています。作為的なモノで満ち溢れている世界(=人工物)から無作為な世界(=自然のまま)へ回帰したいと思うのは当然のことかもしれません。人工的な癒やしはバーチャルであって真の癒やしではないと感じます。

 

 作為的な世界(=有為の奥山)で立ち回るには、学(=知識)を修めなければなりません。教養を身につけ作為的な世界(=人間社会)で人格形成し、作為的な世界(=人間社会)で生きていかなければなりません。この世に先に生まれた先輩達が様々なルールを作り上げてきました。文化・法律・しきたり・生活様式・・・・。先輩たちもルールに従い、次代の子どもたちにもルールに従わせるようにしています。何故ならルールを変えることは大変なことであり、ルールに従って生きていくほうが容易だからです。好き勝手に生きたくても暗黙のルールによって強制されています。特に農耕民族である日本人の村意識のもとではルールが絶対となっているようです。

 作為的な世界では作為的に生きることが身の安全です。作為的な世界にあっても作為的であることを見抜くことができればいいのですが・・・。作為的ということは分別こそが自分であると思いこんでいることです。学んで得たことは上辺だけの知識でしかありません。分別以前のあるがままを感受している我々の自性は清浄だということです。”六根清浄”という言葉がありますが、分別した後の意が作為であるのにもかかわらず支持しています。分別以前の”意”は清浄だということを見抜けば、六根は汚れてはいません。(自性清浄心)

 

 学ぶということは作為的な人間社会に迎合しなけれなりません。知らない・分からない・出来ない・その状態でない・・・ということが学ぶ対象としているということでしょうか。学問がどんどん増えているということは、どんどん無知になっているのでしょうか。学ぶべきことが減るどころか増え続けているということは、混迷し続けているということでしょうか。日々人工物を作り続け不要になれば捨てなければなりません。必然的に空気中や海洋への投棄となります。過去に描いていた理想的な未来の姿が現在の姿でしょうか。

 

 学ぶ対象は学ばなければ現実にならないという認識があるからです。学ばなければならないということは、学ぶ対象を何にも分かちゃいなということです。最初に泳ぎを学ぶということは、まったく泳げないということを知っているということです。(無知の知)

 人より頭一つ抜きん出るためだけに多くの時間を費やしてはいないでしょうか。作為的な人間社会で、チッポケな望みを叶えるために生きているのでしょうか。羨望されたい権威を持ちたいというだけで、それに見合う以上の犠牲(=精神的・肉体的)を払っているかもしれません。犬・猫や他の動物からしたらどうでも良いことなのですが、必死に作為的な世界の中で頑張っている姿が痛々しいかもしれません。名刺に書き込めるアイデンティティも期限付き(=定年まで)の単なる文字だったと気づいても後の祭り。結局は我欲に振り回されていたとはたと気づく。介護施設での日々がなんとも重苦しい。

 

 自然のままに無為としてあるにはただ坐る(=只管打坐)しかないのでしょうか。普段の生活で作為的な思考を追わずに放っておけば霧散して消え去ります。作為を教え込まれ作為に慣れている”癖”をとらなければなりません。作為的に生きることで疲れてしまいます。幸せホルモンのセロトニンやエンドルフィン・オキシトシンが分泌さることで幸せを享受できます。思考することで幸せホルモンが分泌されるどころか、かえって”うつ”へと向かっているかもしれません。学ぶことより深く静かな腹式呼吸と、散歩や朝の日を浴びることのほうが効果的です。

 

 学んで幸せになるということは、ある条件を満たすことかもしれません。その条件が欠落した時に幸せは逃げていくとしたら条件付きの幸せということになります。科学では実証性・再現性・客観性という条件によって成立しますが、幸せは主観です。思いや思考によって導出された概念による心境が幸せの条件ではなく、身体的な幸福感の実感そのものが幸せかもしれません。学びと身体的な実感には大きなズレがあるようです。

 

 

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老子ー47 [老子]


不出戸知天下、不闚牖見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人、不行而知、不見而名、不爲而成。

 

闚:うかがう

牖:窓

弥:ますます、あまねく

名:あきらかにする

 

家から出なくても世間のことを知り、窓から外をうかがうことなく天の道理を知ることができる。遥か遠くに行けば行くほど知ることは少なくなっていく。聖人は出かけていくことなく知ることができ、見ずしてあきらかにできる。何もしないでも為されている。

 

<他の翻訳例>

戸口から(一歩も)出ないで、天下のすべてを知り、窓の外をのぞくこともしないで、天の道をすべて知る。出てゆくことが遠くなればなるほど、知ることはいっそう少なくなる。それゆえに、聖人はでかけて行かないでも知り、見ないでもその名をはっきりいい、何の行動もしないで(万事を)成しとげる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”私・心とは”と問うても”私・心”を見出すことは出来ません。瞬間瞬間に変化変容しているモノは掴んでいることも捉えることもできません。”たった今”ここ”も変化していて恒常不変ではありません。

 慧可(えか)が「私の心は不安で仕方ありません。安心させて下さい。」と問いかけると、達磨は「その不安で仕方ない心を私の前に出しなさい、安心させてあげるから」との答えたそうです。「達磨安心」

 私達は生命体を通して働いている”生命”そのもの。”私(=社会的な自己)”という言葉は、今日の◯◯(=世界・天気・ニュース・株価・ゲーム・夕飯・体調・気分・・・)と同じで有為転変しているものを表象しています。恒常不変の”天気・体調・気分・・”なんてどこにもありません。ただ、伝えるため理解したいために表象として使われているだけのことではないでしょうか。

 

 私達は、存在は自身の外にあってその存在が”世界”であると教わってきました。もし存在を認識する生命体がいなかったら、”世界”は存在しているでしょうか。”世界”は生命体によって”世界”となっています。”思い・知識・観念”によって”世界”としているだけであって、”思い・知識・観念”が想像上の存在をイメージしています。”たった今ここ”で感受されている現実だけが”世界”ではないでしょうか。

熟睡しているときに”世界”は認識できないので”世界”はありません。感受している我々の内に”世界”が展開されています。まぶたを閉じれば音と感覚だけの”世界”が展開されています。”世界”の中で生きているのではなく、生命が生命体として生きていて感受している”世界”があります。

 2000年前の人達に”火星”や”土星”は存在(=イメージさえできない)していません。今現在でも、人間以外の生命体には”火星”や”土星”は存在していません。私達も”火星”や”土星”が存在していると思いこんでいるだけです。存在していたとしても”幸せ・健康・・・”を直接もたらしてくれるわけではありません。

 

 生命体の本能は「自分かわいい」であり、保身第一です。五感が自動的に働いて、外で起こっていることを感受して効率的に対処するようになっています。起こっていることをできるだけ多く詳しく知る必要があります。知識を持つことで多様な状況に対処することができるということで、知識人は重宝され厚遇されるということでしょうか。

 

<不出戸知天下、不闚牖見天道>

 聖人であろうが凡人であろうが”たった今ここ”だけが”世界”であれば、外に出れば外での”たった今ここ”の”世界”が感受されています。道理はどこでも働いています。

<其出彌遠、其知彌少>

 自身の見の上に起こっている”たった今ここ”だけがあり、全てだということです。”たった今ここ”から離れれば離れるほど、迷妄の中に入って行くばかりです。知るべきことがどんどん増えるばかりであって、”本来の自己”から離れれていくのではないでしょうか。

 ”たった今ここ”で働いている道理は地の果てでも同じように働いています。個々の生命体や存在を個別に知り尽くすことはできませんが、自身を観察すれば生命の働きを知ることが出来ます。

<不爲而成>

 道理は動きは働きがあることであり、聖人であろうが凡人であろうが変わりありません。ただ有為の奥山で”なんとかしよう”ともがいているかぎりは、なにかしていると思い込んでいるということでしょうか。

 

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老子−46 [老子]

天下有道、却走馬以糞、天下無道、戎馬生於郊。罪莫大於可欲、禍莫大於不知足、咎莫惨於欲得。故知足之足、常足矣。

 

却:退く

糞:肥やし

戎馬:軍馬、戦で使われる馬

郊:都市の周辺

禍:わざわい

咎:あやまち

惨:いたましい、みじめ

 

 統治下で恣意的でない”道”の統治が行われている時は、足の速い馬より農耕用の馬の方が重宝される。統治下で恣意的で”道”に従っていない統治が行われている時は、統治下の近郊で軍馬が必要とされる。(戦争の準備が必要となる)

 大きな罪が生まれるのは欲があるからであり、大きなわざわいは足るを知らないからである。欲を満たすモノを手に入れようと欲することほ、いたましいことは無い。だから足るを知ることで満たされ、常に満足していられる。

 

<他の翻訳例>

 天下に「道」が行われるとき、足の速い馬は追いやられて畑を耕すのに使われる。天下に「道」が行われないとき、軍馬が都市の城壁のそばにまで増殖する。欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないことほど大きな災いはなく、(他人のもちものを)ほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに(かろうじて)足りたと思うことで満足できるものは、いつでもじゅうぶんなのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 生命には生命の働き(=道)に従っています。生き続けていることで生命と言われる所以です。受精せずに分裂(=コピー)する「無性生殖」と受精による「有性生殖」とに分かれています。生殖様式にも卵生と胎生があります。また昆虫では、卵・幼虫・さなぎ・成虫へと変化する変態という形があります。生命の多様性には生態系の多様性・種の多様性・遺伝子の多様性があります。生命は模索を重ねながら自らは変化を受け入れて生き続けています。ヒト以外の生命体は生殖が終われば役目を終えて生命体という個体は”死”によって分解消滅します。

 ヒトは生態系だけ環境から農耕・文化・道具・言語によって社会を形成してた生命体と生きています。ヒトという生命体は生殖を終えても”余生”というものを生きています。未熟なままで生まれてくる”子孫”を世話できる家系が存続することができます。存続できる家系だけが遺伝子を次代へ繋げることができたようです。余裕があり援助ができる組織が生き残れたのでしょうか。

 生命体は「自分かわいい」が最優先であり、自らを保身するために攻撃性がなくなることはないのではないでしょうか。生命体同士は弱肉強食の世界であり争いがなくなることはありません。生態系の中で自らの遺伝子を残したいというのが本能として備わっています。

 今生き続けている生命体は最強の遺伝子を持った個体だということでしょうか。

 

 地球上の生態系の中での生命体を見れば、あらゆる現象は必然的な道理で起こっています。個々の生命体を善悪・罪・災いも・称賛・・・・という人間的思考で分別すべきことではないかもしれません。捕食者は自らの生命を維持し生殖して子孫を残さなければなりません。かわいい小動物を食べることが罪となるでしょうか。満腹になればそれ以上狩りはしないようです。ヒトは欠乏感や比較によって”足りない”という感覚があり、必要以上のモノを欲して苦しむことになるのでしょうか。

 

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老子−45 [老子]

大成若缺、其用不弊。大盈若沖、其用不窮。大直若詘、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。清靜爲天下正。

 

缺:欠ける

弊:すたれる

盈:満ちる

沖:むなしい、うつろ

窮:きわまる、行き詰まる、身動きできない

詘:折れ曲がる、屈服する

功:手柄、はたらき

拙:まずい、つたない

訥:くちべた、口数が少ない、どもる

躁:さわがしい

 

 人として完成した人は、どこか抜けているように見える。その人の働きは尽きることはない。全体と一体となれば何もない空っぽのようだ。その働きが行き詰まることはない。本当に正しいことは屈折しているかのようだ。最高の技はつたないことのようだ。最高の語り手は何も語らない。騒がしく動き回れば寒さをしのげ、静かにしていれば暑さをしのげる。清らかで静か(=無為自然)であればあるがまま(=正しい世界)とともにあることができる。

 

<他の翻訳例>

最も完全なものは何か欠け落ちているようにみえるが、それを用いても破損することはない。最も充満したものは空虚なようにみえるが、それを用いてもいつまでも尽きることはない。最もまっすぐなものは曲がっているようにみえ、最も技量のある人は不器用にみえ、最も雄弁な人は口ごもっているようにみえる。動き回れば寒さに勝てるが、静かにしていれば暑さに勝てる。清らかに静かであるものが、天下の長(かしら)となるのだ。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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<大成若缺、其用不弊>

 完全なままであり続けるには、エントロピーを減少させなければなりません。何もせずに手を加えなければエントロピーは増大し消滅崩壊することになります。現象界で働いている法則ですから例外はありません。壊れたモノが勝手に元通りに戻ることはありません。何もしないで若返ったりシワが無くなって美肌になることないということのようです。

 自分たちの決めごとで規律通りにできることが完成した人間としていれば、規律に縛られた人間ということになります。自然という流動性の中で生きているのですから、自然のままに生きるということが完成されているかもしれません。

 完全・完璧・完成となったということは放物線の頂点に達したことであり、最盛期・絶頂期ということは衰退の始まりです。完璧だということはそれ以上の状態がないので落ちていくばかりということになります。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ。」平家物語

 

 完成とは、これ以上望むことが出来なく並び立つものがないということでしょうか。最高(=これ以上望めない)の経験を望んでばかりいると、日々の何気ないことは大したことではなくなってしまいます。この瞬間も次の瞬間も比べることはできません。あらゆる瞬間は”一期一会”であって望もうが望むまいが体験されます。瞬間は繋がっておらず前後裁断されています。時間が糸のように繋がっていれば糸を遡ってある時間に出会えるのでしょうか。時間は存在しているのではなく”たった今”が生滅して”たった今”だけがあるということでしょうか。

 

 苦々しい・悲しい・辛い・怒りがおさまらない・・・・望まないことが起こったとしてもその時の感情を精一杯味わうのもいいことかもしれません。辛酸を思いっきり味わい尽くす。”飴玉”同様に、その辛酸は消えてなくなるという当たり前の通りに気づくかもしれません。

 味わうことなく避け、一時的にしのいだとしてもまた同じような状況に出くわします。薄っぺらな逃避グセに気づき、辛酸を味わい尽くすことで動じないようになるかもしれません。

 

<大直若詘、大巧若拙>

 真っ直ぐな棒を水の中に入れると曲がって見えます。屈折によって曲がって見えるだけです。誰もが”あるがまま”の実相を見ています。その見えている世界を自身の固定観念で評価分別してしまいます。その結果、異なる世界観で生きてしまいます。思考によって”あるがまま”を変化させることはできないのに、変化できると教えられました。思考は”未来・希望”というものを持ち出して変化させることができるかのように思い込んでいます。思考によれば問題を解決できるという”癖”から脱することは難しいことです。思考しなくてもいいということが問題がないということです。坐禅・ヴィパッサナー瞑想で”思考しない・自分を持ち出さない”ということを実践します。

 

”自我”は”思考しない”でいられません。思考して”なんとかしたい”と頑張り続けます。”何もしない”ということができません。”自我”にとって”自分を持ち出さずに何もしない”ということは負けてしまうということです。どうあがこうが、”たった今”・”あるがまま”を変えることはできないのですが・・・・。一度だけ自身(=社会的な自己)が完全なる敗北(=大死一番)をしてみるのもいいかもしれません。

 

<大辯若訥>

 五十六章にありますが”知者不言 言者不知”(知る者は言わず 言う者は知らず)、禅語で”不立文字”というのもあります。

 私達は言葉にする前に現象・存在を既に認識しています。”言葉”は認識した後であり、現象・存在が先です。寒さを感じて”寒い”と言葉が出てしまいます。”寒い”と言葉として発したところで寒さを感じるのではないのですが、”寒い”とつぶやいて”寒さ”を感じてしまいます。どうしても感覚よりも言葉が主である癖がついてしまっています。

 私達は先にある現象・感覚を音・形(言語)という後づけの表象にしているだけです。言葉で本質を探求する学問がありますが、本質そのものではない言語で本質を捉えられるでしょうか。”水”という文字で”水”の本質を体得できたり喉を潤すことはできません。言語で現実が出現したら大変なことです。”飛べ”と言っても飛べはしません。子供がマントをつけて飛んだ気になっているようなものです。

 言語なしに見えたり聞こえていることが真実であり、言語に変換されたものはダイレクトの直知ではありません。言語で表現されるものは、社会的な同意によって名付けられたものです。言語化するということは一律に扱える便利な代用品かもしれません。感覚は”冷暖自知”であって、言語で教えられたり言語で感じるようなものではありません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−44 [老子]

名與身孰親。身與貨孰多。得與亡孰病。是故甚必大費。多藏必厚亡。知足不辱、知止不殆、可以長久。

 

孰:いずれか

親:身近、大事、中心

多:ありがたい

病:悪い

愛:めでる、おしむ

厚:ゆたかさ

辱:はずかしめ

 

 名誉・権力と身体のどちらが大事なのか。身体と財貨のどちらがありがたいのか。獲得するのと失うのどちらが悪いことだろうか。名誉・権力を追いかけ回せば、必ず大きな出費(=痛手)を受けることになります。財貨を蓄えようとすれば心身の豊かさを失うことになる。名誉・財貨の獲得に邁進することなく足ることを知れば辱めを受けることはない。行き過ぎることがなければ危険な目に合うこともない。名誉・財貨にこだわらすに安らかに暮らせるほうがいい。

 

<他の翻訳例>

 名誉と身体、どちらが(人にとって)より切実であるか。身体と財貨、どちらにより多くの価値があるか。獲得と損失、どちらがより大きな害悪であるか。それゆえに、(物を)あまりにも愛惜することは必ず過度の浪費につながり、(あまりにも)多く貯蔵することは必ず巨大な損失に導かれる。(どの程度で)満足すべきかを知れば、屈辱を免れ、(どこで)とどまるべきかを知れば、危険に出会わない。(そうすれば)いつでももちこたえられる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 私達の身体(=老・病・死)が思い通りにならないことを誰もが分かっています。それでも社会的な自己(=自我)は思考によれば”なんとかなる”と諦めることができないようです。”自分かわいい”が最優先の課題として重くのしかかっています。

 名誉・権力に執着するのは、配下にある人に命令して自身の思いが実現できます。”私(=自我)”が社会に対して”自分で考えたことを自分で実現”できるような気になることができます。”私”の思い(=思考したこと)が実現できるということは社会的な自己(=自我)にとって最高のことです。

 コミュニケーションの道具であった”言葉(=音)”が他人を思い通りに動かせるのです。他の動物であれば危険を知らせるとか威嚇するとかですが・・・・。

 ただの”言葉(=音)”が人を動かすことができます。驚くべきことです。集団が”言葉(=音)”に概念・観念・意味があるということを受け入れていることで成り立ちます。

 我々は常に”言葉(=音)”を使っているので、”言葉(=音)”が万能のようになってしまったかもしれません。現実を”言葉(=音)”に変換しているのに、”言葉(=音)”が現実を解き明かしたり現実となるかのように思い込んでしまったようです。

 ”若いままでいたい”・”健康のままで長生きする”・”平安で過ごす”・・・何億回唱えようが無常に逆らうことできません。私達が生かされている現象世界のエントロピーは増大し続け、一切は分解し消失します。

 財貨の”力”で他人を動かすことができます。多くの財貨を所有することは自我の欲求(=なんとかしたい)を満たしてくれます。

 

 私達は何が起ころうが”平安”でいられることが一番の幸せかもしれません。名誉・権力・財貨がなければ”平安”でいられないのでしょうか。あらゆる条件が揃わないと”平安”が実現できないのか、それとも自ら色々考え過ぎて”平安”を撹乱しているのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−43 [老子]

天下之至柔、馳騁天下之至堅。無有入無間、吾是以知無爲之有益。不言之教、無爲之益、天下希及之。

 

至柔:最も柔軟なもの

至堅:最も堅いもの

馳騁:思い通りに支配すること、自由に展開すること。自由に動き回る。

無有:形の無いもの


 この世で最も柔らかな物が最も堅い物の中を自由自在に動き回るとか思い通りにコントロールできる。形のないものは隙間の無いようなところにも入ることができる。私は無為が有益であることを知っている。言葉のない教えと、無為である行いの有益さに並び立つものはこの世に無い。

 

<他の翻訳例>

あらゆる物のなかで最もしなやかなもの(水)が、あらゆる物のなかで最も堅いものを(無視して)突進する。実体がないから、それは何のすきまもないところにはいりこむ。そのことから私は知る、行動のない行動に価値があると。だが、ことばのない教え、行動のない行動に価値があることに比べられるものは、天下にまれである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 空気(=風)や水によって岩や山も削り取られたり粉々にされてしまいます。エントロピー増大によってどんなに強固に結ぶついた分子構造であってもことごとく無秩序へとなります。法則ですから贖うことはできません。あらゆるモノは放っておけば分離分解されて消滅していきます。

 機械・ロボット(ハードウェア)にソフトウェアが組み込まれエネルギー(=力=電力・空圧・油圧)によって動くことができます。ソフトウェアもエネルギー(=力)も目に見える実体として存在しているわけではありません。私達の身体(=物体)も意識とエネルギーによって営まれています。

 よく知られた”我思う故に我あり”という言葉があります。”我思う”から”我”があるとしています。”思わない”時は”私”はどこにもいません。入浴中に寛いでいるときには”私”はどこにもいません。無我夢中であれば”私”が入り込むすきはありません。”私”は振り返ったとき(=思った時)にだけ”私”が出てくる癖があります

 

 「達磨安心」という話があります。弟子の慧可(えか)が「私の心は不安で仕方ありません。安心させて下さい。」と問いかけると、達磨は「その不安で仕方ない心を私の前に出しなさい、安心させてあげるから」との答えました。 不安な心とは、実態の無いもので、移り変わり定まったものではありません。捉えたり掴んだりできない幻想(=心)をどうすることもできません。何かを動かす力をエネルギーという言葉で表しただけで、エネルギーそのものを見ることはできません。エネルギーが働いた結果を目にすることができます。心そのものを見ることはできませんが、心が働いた結果を感じることができます。

 

 ”私”が身体そのものだったら大変なことです。子供の頃の身体(=私)はもうどこにも存在していません。子供の時の”私(=身体)”は今(=大人)の”私(=身体)”にどのタイミングで入れ替わったのでしょうか。”私”(=身体=体重)は増えたり減ったりしているということでしょうか。身体も心も”私”であると教え込まれたもので、社会で普通に使われているただの観念(=思い込み)かもしれません。実体としての”私”はどこを探しても”これだ”と確定できません。ただの便利な表象だということではないでしょうか。

 何人かの人に”私”を指さして下さいと言うと、誰もが様々なところを指さします。その指も”私”ではなないのでしょうか。”私”が”私”を掴んだり指さしたり知ったりすることはできません。できるとしたら対象(=客体)とされたモノですから、掴んだり知られたものは客体であり主体そのものではありません。目(=主体)がその目(=主体)を見ることはできません。歯がその歯を噛むことはできません。刃がその刃を斬ることはできません。指がその指に触れることはできません。髪がその髪に触れることはできません。

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<いろは歌>涅槃経 雪山偈

色は匂へど 散りぬるを:諸行無常
我が世誰そ 常ならむ:是生滅法
有為の奥山 今日越えて:生滅滅己 
浅き夢見じ 酔ひもせず:寂滅為楽
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 存在から光・音・匂い・味・圧力などの情報が五感で感受されてから、何らかの感覚・反応があって様々な思いが沸き起こります。その中で印象が強い”思い”が選択されます。この思いに気づくと、後づけで”私”が思っているというふうに解釈されます。思いに気づいている”私”がいるということになります。選択された”思い”ですから”なんとかしよう”が働き、自動的に分別(=有為)することになります。

 無為とは”なんとかしよう”を追いかけずに放っておきます。何故なら気づいたときには気づいたことは消え去っています。また、身体的な気づきはすでに終わっています。寒いということは既に感覚として感受された後から”思い”が”寒い”という言葉が頭に浮かんだということです。

 思いや言葉は後づけであって、現象があって感覚があって最後にいくつかの思いの中で”寒い”というのが選択されたということになります。

 有為の奥山:有為(=自意識・分別)で”なんとかできる”という”迷い”から抜け出せないほどの奥山にいます。

 今日越えて:”たった今”だけしかないと気づき、”迷い”の奥山を越えてみる。何もしない(=”なんとかしよう”につき合わない)ただの今(=ただいま)に何が起こっているかを観察する。痛いは痛い老いは老い生は生という当たり前の現実があります。何も間違っていない現実にどっぷり浸かればいいだけのことです。老いたくないとか死にたくないとか苦しみたくないと全精力を使わなくても為されるままでいいではないでしょうか。

 ”思い”が頑張っていて、その”思い”に付き合っていたら大変だということです。こうあるべきだという”思い(=固定観念)”をスルーしても何ら支障がないことを日々実感していくことでしょうか。

 

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老子ー42 [老子]


道生一、一生二、二生三、三生萬物。萬物負陰而抱陽、沖氣以爲和。人之所惡、唯孤寡不轂。而王公以爲稱。故物或損之而益、或益之而損。人之所教、我亦教之。強梁者不得其死。吾將以爲教父。

 

沖氣:和なり、深なり

強梁:強者

不得其死:普通の死とならない

教父:師匠

 

「道Tao」から一が生み出され、一から二つ(有無)が生み出され、二つ(有無)から三つめの万物が生み出された。万物は陰(=無)の気を背負い、陽(=有)の気を胸に抱いて、これらを媒介する沖気(=同出)によって調和(=陰陽図)している。人々は「孤(みなしご)」「寡(ひとりもの)」「不穀(ろくでなし)」などと呼ばれる事を嫌うが、諸国の王達はこれらを命名し、自らの高い身分を保っている。つまり物事は損して得したり、得して損をする事もある。人が教えてくれることを教えとしよう。強者として生きる者は、普通の死とはならない。私も師の教えとして肝に銘じよう。

 

<他の翻訳例>

「道」は「一」を生み出す。「一」から二つ(のもの)が生まれ、二つ(のもの)から三つ(のもの)が生まれ、三つ(のもの)から万物がうまれる。すべての生物は背を陰(ひかげ)にして陽(ひかり)をかかえるようにする。そして(陰と陽の2つの気〔生成の力〕の)まじりあった深い気によって(万物の)調和(平衡)ができる。人びとが何よりも憎悪することは、それこそ孤(みなしご)や寡(ひとりもの)や不轂(不幸なもの)などである。ところが王や公たちは、それら(のことば)を自称とするのだ。まことに「ものはそれを減らすことによって、かえってふえることがあり、それをふやすことによって、かえって減ることがあるものだ」人びとが教えに用いることを、私もまた教えとしよう。「凶暴なものはよい死に方をしない」。このことを私は教えの父とするであろう。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 混沌とした「道Tao」(=道理・働き)という源泉が何らかの意図をもって”一(=全宇宙)”を生み出したのでしょうか。”一”なる全体は「道Tao」によって”一”としてある。全体として不可分の”一”は、陰陽一体の”二(有無)”となる。”有”は命名によって万物となる。人が”一”なる存在を形・色・大きさ・・などによって人為的に分離・区別・差別して命名することで万物となります。ある”モノ”を有るとすれば無いということがあり陰陽図のような図で表されます。

 人としての本質に差異があるでしょうか。何らかの目的を持って生まれてくれば意味や価値があるように感じられます。でもそれはあと付けであって、生まれた瞬間に目的を認識している人がいるでしょうか。生まれた瞬間に、戦争を主導し大量殺戮が目的なら大変なことです。ヒトは生態系や地球環境に有益な存在でしょうか。動物を虐げているので愛護団体が必要とされます。苦しいと感じるので救ってくれるなにかにすがりたい。ストレスを抱いているから、発散のために様々な仕掛けを提供してくれます。欠乏感が欲望を生み出しているかもしれません。人と比べて(=通常は羨む人)自身がもっと恵まれたいと思い葛藤することになります。人と比べるよりも今ここで与えられている自身の生活を味わうほうがいいに決まっています。

 何とか苦しみから逃れられるようにと宗教・哲学・科学が自然に起こったのでしょうか。仏教では苦を滅すると言っていますが、苦をそのままありのままに受け入れるというのが苦を滅するということかもしれません。老・病・死がどうして滅することができるでしょうか。何か修行をして、老いない・病気にならない・死なない人がいたら大変なことです。四生諦は十二縁起を真に納得するということではないでしょうか。無明とは、何とかできる何とかしようと考え続けて何とかなると思い込んでいることが無明(=迷い)。無明(=迷い)によって、”何とかしよう”と煩悩が起こります。無常であるを常とし、苦であるを楽としたい、無我であるを我とし、不浄であるを浄としたい。諦めきれず(=迷い)にあがき続けてしまうようです。思考によって老・病・死がどうかなったら「道Tao」(=道理・働き)に反することになります。何ともできないことを何とも出来ないと真に納得する、何とかできるという思っていることが幻想であったと笑えればいいかもしれません。

 哲学や思想によって、人間(=独裁者)の支配から人民の代表が法を作って、法によって統治ていこうということでしょうか。

 科学技術やモノ(=家電等)によって物理的な利便性や安心・安全を提供してもらい労働時間や苦痛を和らげてもらうことでしょうか。ヒトは本当に苦が嫌でしょうがなく、どこまでもいつまでも楽をしていきたい”自分かわいい”ということでしょうか。

 宇宙に何らかの目的があるでしょうか。宇宙には意味も目的もなくただ生滅を繰り返しているだけかもしれません・・・・。当然宇宙と一体となって存在している我々に目的というものは・・・・

 

 命名権を持った王族によって”孤・寡・不穀”などの差別的な名がつけられたのでしょうか。貧しいとか卑しい人がいるということは、対立概念として富んでいて高貴な人がいることになります。自らを優秀だと主張できるには劣った人の存在が必要であり、勝利者となるには敗者が必要です。

 損をするということは得をする人がいるし、得をするということは損をする人がいるということです。

 強者は自身と同じようなレベルの人と戦うことになり、段々と戦いがエスカレートして壮絶な戦いとなる。弱いもの同士の争いはたかが知れていますが、お互いに強いもの同士の戦いは悲惨な結果をもたらします。

 大木は大風や大雪で耐える限界を超えると真っ二つに折れることがありますが、小さな草木は風に身を任せ折れることはありません。人間も強情を張りすぎると自ら変調を招きます。どうでもいいことにいちいち関わっているとろくなことがありません。知らなくても良いことは知らないままでいるのが幸せかもしれません。何でもかんでも知ることで幸となるなら学者は幸せということでしょうか。何でもかんでも問題として思考し続けることが幸せなのでしょうか。何も考えずに何も問題とせず、知らなくてもこまらない人は苦しみの中で生きているのでしょうか。無心で草取りや掃除やスポーツ観戦をしていて悲しんだり苦しんだりするでしょうか。

 

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老子−41 [老子]

上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇。上徳若谷、廣徳若不足、建徳若偸。質眞若渝、大白若辱、大方無隅。大器晩成、大音希聲、大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且善成。

 

昧:くらい
夷:穏やか

纇:険しい

建:しっかりした

偸:いいかげん

眞:真実

渝:かわる


 秀でた人が”道”のことを聞くと、”道”の生き方を実践しようと務める。普通の人が”道”のことを聞くと、信じる人もいれば信じない人もいる。劣る人が”道”のことを聞くと、大笑いして相手にしない。”道”が笑いものとならなければ、”道”の生き方を実践する意味はない。このことを言い表す言葉がある。

 明るい道は本当は暗い道であり、道を進むことは本当は退く、穏やかな道は本当は険しい。高い徳と言われるのは谷のように低く、広く行き渡るような徳は不足した徳であり、しっかりした徳はいいかげんにみえる。

 モノの真実は不変ではなく変化する。真っ白な物ほどたやすく汚される。遥か彼方には果てが無く、大きな器になるには時間がかかる。大きな音は聞き取れない、大きなモノは形が無い。”道”は目に見ることができずに名がつけられていない道理である。”道”は万物に影響を与え、万物に働きかけている。

 

<他の翻訳例>

 最もすぐれた士は「道」について聞いたとき、力を尽くしてこれおを行う。中等の士は「道」について聞いても、たいして気にもとめない。最も劣った士は「道」について聞いたとき、大声で笑う。笑われないようなものは「道」としての価値がない。それゆえに「建言」に(次のように)ある。「明らかな道ははっきり見えず、前へ進むべき道はあとへもどるように見え、平坦な道は起伏が多いように見える。最上の徳は(深い)谷のようであり、あまりにも白すぎるものは汚されたようで(黒ずんでおり)、広大な徳は欠けたところがあるように見える。健やかでたくましい『徳』は怠けものに見え、質朴で純粋なものは色あせて見える。大きなる方形には四隅がなく、大いなる容器はできあがるのがおそく、大きなる音楽はかすかな響きしかないし、大きなる『象(かたち)』には(これという)形状がない」。「道」はかくれたもので、名がないからである。「道」こそは何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”道Tao”は宇宙の道理であって、分離分割できない絶対的な”一”であり見ることも聞くこともできなく言葉では説明できないようです。人間だけが絶対的な”一”から分離して見る主体として独立してあるわけではありません。我々は宇宙の道理とともにダイナミックに動いています。宇宙の動きそのものが我々の動きそのものでなければおかしいことになります。宇宙と切り離されて存在しているものはありません。

 努力しなくても考えても考えなくても全体と一体であり、従いたくなくてもその従わないことがそのまま道理です。どう頑張ってみても”一”でしかありません。分離しているという思い込みが”馬鹿馬鹿しい”と見抜けばいいだけなのですが・・・・。瞑想して一体感を得ようとすることは、分離している前提に立たなければできないことです。海中の魚が海と別であるとにあることを主張する必要はありません。

 道理の中で生きているという当然のことを言われ、素直に聞き入れるか我を張って自身で生きていると思い込んでいるかによって反応が違うということでしょうか。”私=我”という見解が捨てられないと、どうしても”一”なる絶対主観として見ることができません。対象(=客体)と見る主体としての二元的な見解で分別してしまう癖から抜け出すことができません。

 

 全てを自身の思いのままに”going my way”が我が人生として、道理に従った生き方を笑い飛ばすのでしょうか。世界が自身の思いの通りになったら大変なことです。医者も政治家も運送も食料も苦労も何もかも用がなく”神”のような人だらけになります。”邪悪”な人が気に食わない人への思いを叶えたら誰もいなくなってしまいます。誰もが思い通りにできないので生きていられるかもしれません。全員が”善人”でないことが誰もが知っています。

 言語というのは、必ず反対概念が含まれています。”美”には”醜”があり”善”には”悪”が必要とされます。”勝者”がいるということは必ず”敗者”がいなければなりません。

 ”明”には”暗”が含まれていて、どこからという境界を探し出すことはできません。”冬”から”春”になるのではなく前後裁断されており比較対象とされるものではありません。記憶・起点・基準によって時間や移動という概念が作られますが、時間は概念であって存在しているという思い込みではなでしょうか。過去や未来は”たった今”に入り込むすきはありません。”たった今”だけが永遠にあるだけなのですが・・。

 

 

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老子−40 [老子]

反者道之動。弱者道之用。天下萬物生於有、有生於無。

 

反は道の動きである。弱は道の働きである。天下の万物は”有”によって生じる(=認識される)が、"有"は"無"によって生じている。

 

反:かえる。かえす。逆らう。

者:行為の主体

用:働き

 

<他の翻訳例>

あともどりするのが「道」の動き方である。弱さが「道」のはたらきである。天下のあらゆるものは「有」から生まれる。「有」そのものは「無」から生まれる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”道Tao”は天地が生まれる前から存在していた”一”なるものであり宇宙の道理。あらゆる存在の根源は”道Tao”。”道Tao”という絶対一があり、陰陽(=有無)が合体しているとの認識です。陰陽のどちらかを定義すれば他方が自動的に定義されます。万物を”有”とすれば、存在と認識されない”無”という概念がないといけません。コインのどちらかを”表”とすれば反対側は”裏”となります。表だけのコインもないし裏だけのコインもありません。反する一方を認識する動きが”一”なる”道Tao”だということなのでしょうか。(反者道之動)

 ”道Tao”は混沌としていて、理路整然としている儒教に反するものだと言いたいのでしょうか。”道Tao”は人為によって強権をふるって従わせようとする儒教の教えではなく、柔軟で無為であるので弱いと表現しているのでしょうか。(弱者道之用)

 万物の根源は”一”であって、はじめから別々の存在ではなかった。存在を個々に認識することで別々の存在となる。存在が”一”なる全体から接点もなく、空気中に浮いているような存在があるでしょうか。どれもこれも接点をもっていてつながっています、境界もありません。

 物質に光が当たり特定の光を反射し他の光が吸収されますので特定の色と認識できます。反射した光の電磁波が眼の網膜を経由して、脳の視覚野で色や形となっているようです。電磁波そのものは色でも形でもなく光の波長です。色の識別ができない生命体にとってはただの濃淡があるだけかもしれません。個々の存在ではなく全体に濃淡があるという世界です。音も振動であって振動に最初から意味はついていません。

 波・振動そのものが着色されたり形がついているでしょうか?何かを叩いたり見たりして、色や形が向かってくるわけではありません。電磁波自体に色がついてるのなら空気中も色が見えてもいいのですが・・・。勝手に色や形として認識されていて、”私”が”私”の意志で色や形を現出させているわけでもありません。私達の生きている世界には様々な波・振動が飛び交っています。無色透明な波・電磁波はアンテナを経由して携帯電話・TV・ラジオに同調すれば再生されます。  

 世界は見ることも聞くこともできない無色透明な波・振動に満ちています。目のない生き物には色や形が認識できないので個別の存在はなく、温度・湿度などのモノの性質の違いを感じ取っているのでしょうか。

 世界は”一”なる全体であるのですが、各生命体が生きるために個々の存在として認識しています。

 

 哲学では”なぜ世界があるのか?”ということが問いのようです。自意識が自らが主体として勝手に対象を生み出すように働いてしまっているかもしれません。自分の存在を疑うことなく、眼前の”世界”が何かを問うて勝手に迷っています。世界は”知るべき対象”であると決めつけています。思考によってすべてが解決できるという古典的な手法から脱することができません。

 眼前に”世界”があるのではなく、様々な振動を感受して自身の中で勝手に構築された三次元世界を見ているのですが・・・。”世界”は自身と別にあるのではなく、自身そのものの内に展開されている世界をそのまま見たり聞いたり味わったり臭ったり感じたりしています。自身の外にある”世界”というのがただの観念だということを疑いません。

 五感の活動で構築されているそれぞれの世界として認識されています。内的な感覚を感情として変換しています。”一”なる全体を個々の世界として感受していて、自身の感受した”世界”を理解したとしても自身の見た世界でしかありません。哲学者の理解している”世界”を説明されてもなんの共感もありません。人の見ている世界と同じに見えたら大変なことです。小説を読んで小説の世界が自分の世界になったり、映画を見て映画の世界が自分の世界になったり、戦争映画を見て戦争が自分の世界になったら・・・・・。誰もが誰かの世界と同じになったとしたら・・・。世界征服を考えているような人と同じ世界、自然環境よりも自分だけが経済的に恵まれたい世界、どうでもいいことを考え続け他人に自分の理論を押し付けたい世界、あの世を信じて同じように信じて欲しいと願っている世界、筋力を鍛え上げたい世界・・・。自身の趣味趣向はお好きにどうぞですが、同じような世界を強要されることは遠慮したいものです。

 他は他の世界であり、自らは自らの世界です。同じ雑貨を見ても欲しいと感じる人もいれば何も感じない人がいるのが当たり前です。全員が同じ反応をするのは本能的な部分であって、それ以外は別々の世界が構築されているということでしょうか。性格の不一致と言われますが、一致していたら大変です。忌み嫌うようになったら大喧嘩になってしまいます。それぞれが異なっていて、それぞれの世界で生きていけば何も問題がありません。

 

 思考で”一”なる全体世界を解明することが可能でしょうか。自身の内で映し出された映像(=世界)を云々するのは、自身を見て自身について云々することです。思考の中の存在を触れたり掴んだり得たりできないのに分析して解明したかのように勘違いしているのでしょうか。

 

 存在は”命名”によって意味のある”有”という存在とされています。”有”という概念はいつか消え去って消滅して”無”となるという概念があるからでしょうか。”無”から何かが前触れもなく”ポッ”と出現することがあるでしょうか。すでに物質がり、何らかの条件が揃うことで変化変容して感受できる(波・振動)ようになる。認識できない状態を”無”とすれば、”無”から生まれるという解釈でもいいかもしれません。しかし、全くの”無”から何かが突然に出現したら大変なことになります。

 眼の前に予期せずに様々なものが出現していたら困ってしまいます。怖くて歩いていられません。映画のようなファンタジーの世界になってしまいます。”無”から”有”が生まれるのではなく、”無”という対立概念によって”有”と表現しているだけのことでしょうか。(有生於無)

 

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老子−39 [老子]

昔之得一者、天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下貞。其致之一也。天無以清、將恐裂。地無以寧、將恐廢。神無以靈、將恐歇。谷無以盈、將恐竭。萬物無以生、將恐滅。侯王無以貞、將恐蹷。故貴以賤爲本、髙以下爲基。是以侯王自謂孤寡不轂、此非以賤爲本耶、非乎。故致數譽無譽。不欲琭琭如玉、珞珞如石。


現代語訳
 一なるものを感得できる者からすれば、天は天のまま一であれば清く、地は地のまま一であれば安らかで安定し、神は神のまま一であれば霊妙であり、谷は谷のまま一であれば満ちることができ、万物は生じているが一としてあり、諸侯の王は天下を真なるものとすれば一となる。本質に立ち帰ればすべては分離される以前の一のままである。

 天が清くなければ裂けることは避けられない。地が安定していなければ崩れるだろう。神が霊妙でなければ休まることはない。谷が満たされていなければ枯れ果ててしまう。万物が生じることがなければ滅びてしまう。諸侯の王が真の者でなければ治世は覆ってしまう。

 故に貴いということは賤しいということが根本にあり、高いと認識されるのは下に基があるからです。つまり、身分が貴いというのはもとは賤しかったということで、地位が高いというのは最初は低かったということだ。

 だから、諸侯の王は疎遠とか徳が少ないとか不善と自らを呼ぶ。これは賤しいというのが根本にあるということです。

 名誉であるということは褒められることではない。貴重な宝石を欲するのではなく、ただの石が散らばって数多くあるようなものだということです。

 

寧:安らかにする、しずめる。
盈:みちる、みたす、あまりある。
貞:まこと、まごころ、真のもの。言行が一致する。
歇:止まって休む。
竭:かれる。つきる、なくなる。
蹶:つまずく、つまずかせる。たおれる、くつがえる。
孤:遠ざかる。疎遠
寡:少ない。
不穀:不善
琭:数少なく貴重な様。
珞珞:数多い様

 

<他の翻訳例>

その昔の「一」(の原理)を獲得したもののなかでは、(たとえばまず)天はこの「一」を得たゆえに清らかで軽く、地は「一」を得たゆえに重くおちつき、神々は「一」を得たゆえに霊妙であり、谷は「一」を得たゆえに充満している。あらゆる生物は「一」を得たゆえに生みふやす。諸侯や王たちは「一」を得たゆえに天下の長(かしら)となった。それらをこのようにさせたのは、「一」である。天は清くさせるものがなかったから、おそらくは裂かれるであろうし、地はおちつかせるものがなかったら、おそらくはくずれ傾くであろう。神々はその霊妙さを与えるものがなければ、(その力は)発散し、尽きはててしまい、他には満たしてくれるものがなければ、干上がってしまうであろう。すべての西部は生みふやせるものがなければ、絶滅するであろうし、諸侯や王たちは長であることができず、つまずきたおれるであろう。まことに「貴いものは賤しいものを根本にして立ち、高いものは低いものをその基礎とする」。それゆえに諸侯や王たちは、自分のことを「孤(みなしご)」とか「寡(ひとりもの)」とか「不穀」(不幸なもの)などと称するのである。これは賤しいものを根本とするからはないであろうか。そうではないのか。それゆえに、最高の名誉はほめられないことであり、琭琭(ろくろく)たる(平凡なもののなかで)玉のように(光り輝いたり)、珞珞(らくらく)たる(堅いだけの)石のように(人から見はなされて)あることを望まないのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 第二十五章にあるように天地に先立って、混沌とした一なるものがあった。天地が生まれる前から存在していた一なるものであり、名前がないので「道Tao」と名をつけたということでした。宇宙の道理(道)があって天・地・人に分かれ、天は道に従い、地は天に従い、人は地に従う。

 本来一であったものが有無・陰陽・天地・白黒・善悪・・・として分別する癖によって二元対立的に感じてしまうようです。眼前の世界は一様であり善悪のレッテルは貼られていません。人間の都合で後から決められます。

 ”一”であるものから何かを認識して逐一命名すると、存在は無限に分割されてしまいます。雲でさえ意味のある形としてとらえられると”命名”されてしまいます。

 ”一”であるときは混乱はありませんが、無限のものを逐一理解しようとすると混乱は増すばかりです。ヒトは知れば解決するという観念に囚われているようです。知られる対象は限りなくあるので飽きることはありませんが”一”から離れていくばかりです。

 

 天という空間に汚れをつけることはできないので清いということでしょうか。地を動かすことはできないので安定しているということでしょうか。老子の時代に、ヒトの願いを聞き入れてくれる”神”という都合のいい概念があったのかどうかはわかりませんが、概念で作った想像上のものだから霊妙ということでしょうか。人間は見たこともないモノを作り出す天才です。仏も神もただの概念かもしれません。

 自分たちが信じている”神”がいて願い事を実現してくれるなら大変なことです。私達が信じている”神”ではないので”やっつけてほしい”とか、約束された地であり”われわれが専有できるように”とか、虐殺しても神のご意思だとか・・・。いいように免罪符のように”神”にすべてを押し付けます。

 ”神”がどのように振る舞うのかは、”神”を定義している人に委ねられているかもしれません。思いが聞き入れられなければ気にもかけられない使い捨ての名ばかりの”神”なのでしょうか。日本人が中国・英国・中東の”神”を崇拝してもいいし、他国の人が日本の”神”を崇拝しても何も問題がないはずですが・・・。その国の”神”はどうしても自国の人に似ているのはどうしてなのでしょうか。

 形(=文字)や音(=言葉)で願い事が叶えようとしていることは”神”を信じているのと同じことかもしれません。”病疫終息・病疫退散”と文字にしたり言葉で言うことでウィルスに効果があれば”科学”を否定することになります。形(=文字)や音(=言葉)で叶うならば、”科学”は必要なくこんな楽なことはありませんが・・・。揮毫したとしてもウィルスには何の効果もないのと分かっているはずなのですが・・・。ただのパフォーマンスであればいいのですが、真剣にやっているところを見ると・・・。TVで未開の地に行って”祈祷師”のやっていることを取り上げることがありますが、”インチキ祈祷師”と同じレベルのことをやっているかもしれません。

 机の上にあるボールペンに向かって”浮き上がれ”と信じて唱えるでしょうか。もし”浮き上がれ”と真剣に書いたり唱えたりしている人を見たら”頑張れ”と言ってあげるか”おやめなさい”と止めさせたほうがいいのか誰でも迷いません。非科学的なことを真剣にやっているということが多く見受けられますが、ギャクでもなさそうです。

 動物が人間を観察すると、四六時中口をパクパクしていることに驚かされると思われます。人間の頭の中で行われている”おしゃべり=勝手にわき起こる思い”を聞くことができたら、人間を辞退するかもしれません。

 

 肥沃な谷であれば多くの作物を生み出してくれます。分離分割のない”一”から、名によって分離分割されて万のモノとなり万物と言われるようになったのでしょうか。見えているこの有様が自分であるということは、見えているモノ(=映像)は見られているということです。存在を見ている”私”という存在があるというのは観念(=思い込み)であって、見えているだけがあります。壁の向こうに何かがあるというのは記憶と予測です。遠くに住んでいる親が健康であるというのも期待であり想像であり観念(=思い込み)かもしれません。

 記憶と予測によって存在があるだろうと思いこんでいます。熟睡しているときに存在は認識できません。たった今のことだけしか知らなくても何も困ることはなにのですが・・・。たった今の実在より、記憶と予測(=あやふやな思い込み)を信じて混乱しているだけかもしれません。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−38 [老子]

上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲、而無以爲。下徳爲之、而有以爲。上仁爲之、而無以爲。上義爲之、而有以爲。上禮爲之、而莫之應、則攘臂而扔之。故失道而後徳。失徳而後仁。失仁而後義。失義而後禮。夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫、處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。

 

處:いる。とどまる。住む。落ち着く。

不居:腰を落ち着けることがない。

大丈夫 :立派な人

 

現代語訳
 最上の徳の実践者である”道Tao”の人は徳かどうのこうのなど気にしないので、徳のある人です。最低の徳の実践者である”儒教”の人は徳を失いたくないので、徳のない人です。最上の徳は無為であって、意図的にすることはない。最低の徳は作為的であって、意図をもって行っています。最上の仁とされても、作為でなされるので仁ではない。最上の義とされても、作為でなされるので義ではない。最上の礼とされても、礼として儀礼を行うときに相手が礼に応じなければ、腕まくりをして力ずくで強制させる。

 「道」の状態が失われ、分別がはじまるので徳が必要とされる。徳が失われると仁が必要とされる。仁が失われると義が必要とされる。義が失われると礼が必要とされる。最後の礼を重んじざるを得ない者は、忠信が希薄であり社会が乱れる発端となる。仁義礼を前もって知識(=仁義礼の意味・こうあるべき)として教わる者(=儒教者)は、道端に咲く花(=ちょっと目に止まるだけ)のようであり愚の始まりである。立派な人であれば、薄っぺらな知識を選択せずに実のある「道」にとどまる。

 実のある「道」を選択し、ただ見栄えのいいところ(=儒教)にとどまらない。仁義礼(=知識・意図的)という見栄えにとどまらず「道」に従うべきである。

 

<他の翻訳例>

 高い「徳」のある人は、「徳」を自慢することがない。だから、「徳」を保持するのである。低い「徳」のある人は、「徳」のみせかけをはらいのけることができない。だから、(ほんとうは)「徳」がないのである。高い「徳」のある人は、何の行動もしないでしかも何事のなされないということはない。低い「徳」の人は何か行動しても、しかもなされないことがある。高い仁愛の人は行動をしても、動機があってするのではない。高い道義の人は行動するが、動機があってするのである。最もよく礼儀に習熟した人は行動するが、これにこたえるものがないとき、袖をまくりあげて相手を引っぱろうとする。それゆえに「『道』が失われたのちに『徳』がそこにあり、『徳』が失われたのちに仁愛がそこにくる。仁愛が失われたのちに礼儀がくる。およそ礼儀は忠誠と信義のうわべであり、争乱の第一歩である」といわれるのだ。予見することは道の華かしさであるかもしれない。だが、愚行のはじめでもある。だから、大丈夫たるもわが身をおくのは、しっかりした厚みの上であって、薄っぺら(な外郭)にではない。

果実(実りあるもの)に身をおくものであって、花びら(飾りたてたはなやかさ)にではない。まことに、あのこと(外見や予見に従うこと)を斥けて、このこと(道のはたらきに従うこと)をとるべきである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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仁:優しい心、己の欲望を抑えて慈悲の心で万人を愛す

義:強い心、私利私欲にとらわれず、人として正しい行いをし、自分のなすべきことをする、正しい生き方。
礼:感謝する心、社会秩序を円滑に維持するために必要な礼儀作法。

智:正しい心、学問に励み、知識を得て、正しい判断が下せるような能力。

信:正直な心、約束を守り、常に誠実であること。

 

 教養がなく荒くれ者の君主が横行していた時代において、教養をつけ自らの行動を律し人格のある君主が求められていたかもしれません。ヒトは教わることで一人前のヒトとなるということに疑いをもっていません。知識は得ることができ知識の過多で容易に判断されます。詰め込んだもの(=知識)を素早く吐き出せることが学のある人とされているのでしょうか。「学んだことの唯一の証は変わること」

 知るということと思考するということは、生命体にとって安心・安全であるために必要不可欠であるとしてきたようです。知っていることが多ければ危険を回避する可能性が大きくなります。思考することで問題解決する能力も向上するということのようです。脳の仕組みを知って脳を最大限に活用したいというのが望みなのでしょうか。問題を解くはずの思考が問題を作り出している元凶だと解ったらどうするでしょう。(パラドックス)

 

 孔子は力で治め非道が繰り返され荒廃した国を憂え、教養があり人格の優れた徳のある君主の治世を望み教えを説いたのでしょうか。力では君主には太刀打ちできませんが、口(=言葉)で言いくるめることができるので言葉の方が力より上位であると信じていたかも知れません。

 老子は、言葉で表現する以前の見えたまま聞こえたままの即今のままを主張していたのでしょうか。作為の入る余地のないたった今。即今の事実の世界はそのままのたった一つでしかありません。その迷うことのないたった一つであるものを、言葉で認識すると瞬時に分別が働きます。分別するとは二元対立のどちらかを自然と選択してしまうことになります。誰かの発言が女性を蔑視しているとすぐに反応してしまっている自分に気づきません。只の音(=言葉)や形(=文字)なのに感情を揺さぶり怒りを誘発するということは、それだけ言語に振り回されているということかもしれません。言語に振り回され続けて生きていくことを良しとするかは個人的な問題です。

 ヒトが言語に振り回される特性を脱して生きていくか(=老子)、振り回される特性を利用して教育するか(=孔子)に分かれるところです。

 儒教では所詮人間は人間社会の中で生きているのであって、人間社会で必要な教養を身につけ、人間として自らを律することを修練すれば高徳な人格形成ができるという主張なのでしょうか。初めは作為的にやることも何度も修練するうちに身につき、慇懃な人となり尊敬を集めるに違いない。所詮は言葉に使われているのですから、教養を身につけていけば仁愛も溢れ出してくるはずだということでしょうか。教養も一歩間違えば高慢ちきな人間となるかもしれません。

 

 老子は知識や強制で身につけたものは飾り物であり上辺だけのことでしかない。裏腹な人間を助長し、言っていることとやっていることが異なる薄っぺらな人間ではないか。人間の本性は何者にも汚されていない分別以前の直知にある。言葉にならない以前の見えたまま、聞こえたまま、味わったままのダイレクトな経験に善悪もなにもない。分別を持ち出し”作為”でやっていることは人を欺く欺瞞だと痛烈に批判しているのでしょうか。本性のままでない偽りの礼・義・仁を身につけてどうする。嘘に嘘を塗り固めた人格などまがい物ではないか。

 

 教えるという行為から強制的な側面を排除することは難しいことです。校則・行動訓練・挨拶・礼儀を持ち出して強制して、指示に従わない人を強制的に虐げているというのは昔からあり無くなることがないかもしれません。社会制度の中で生活するには作為的なことが日常的に行われています。作為で作られた人格者と呼ばれることにどれほどの重きがあるのかよくわかりません。

 人格者面して生きていくよりも、おバカのままで生きていく方が気楽かもしれません。幸せに教養は必ずしも必要ないのではと・・・・。

 

参考:西田哲学で「純粋経験」の説明で”反省を含まず主観・客観が区別される以前の直接経験”とあります。

 経験を振り返って反省したときに”我”が現れ(=生じる)て、思考している主体があってそれが”わたし”であるという認識の癖がついているのでしょうか。”我思う、故に我あり”ではなく”我思う、故に我生ず”。”わたし”という表象を自動的に使ってしまっているだけのことかもしれません。

 

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老子ー37 [老子]

道常無爲、而無不爲。侯王若能守之、萬物將自化。化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。無名之樸、夫亦將無欲。不欲以靜、天下將自定。


 道は常に人為とは無関係の働きです。しかも何かが為されるということことも無い。諸侯や王が道の道理を心得ていれば、万物は自然に変化していることを目にする。変化して欲しいと願えば、名づけることのできない本質に委ねる他ない。名づけることのできない本質は、無欲においてである。欲心を持たず静かであれば、天下は自ずと平定されるでしょう。

 

樸:本質、ありのまま

 

<他の翻訳例>

 「道」はつねに何事もしない。だが、それによってなされたにことはない。もし諸侯や国王たちがそれを保持したならば、あらゆる物は自然に変形するであろう。変形した物たちが頭をもたげようとしたら、われわれは「名づけられない樸」の重みで抑制すべきである。「名づけられない樸」は、やはり欲望のない状態をもたらす。欲望を断って静かならば、天下は自然に安らかになるであろう。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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意思:行動のもとになる考えや意見。

意志:実行する能力・行動をとることを決め、かつそれを生起させ、持続させる心的機能。物事をなしとげようとする、積極的な心の状態。

 

 生きているということは即今(=たった今)が続き、過去は”過去”というただの言葉だけであり消え去ってしまっている。未来は”未来”というただの言葉であるでもなく無いでもない。出会っているのは常に即今(=たった今)であって未来に出会っているわけではない。もし過去や未来がどこかに有るのであれば掴んだり得たりできるかもしれないがそんなことはできない。即今を振り返った時に、振り返る主体としての”わたし”を持ち出す必要があります。その”わたし”は記憶・経験と言語が結びつき、思いという何かを掴んだような気になります。思いは、色・味・匂い・感覚はありません。頭の中で自らの言語で思いを追っかけて言語化しておしゃべりしています。思いを追いかけたり言葉にしたり文字にすることで存在しているかのように勘違いします。思いはどこから湧き出てどこに残るのでしょうか。頭の中で組み合わせた言葉を発したり文字にすることができるので実在しているかのように扱ってしまいます。

 ”思い”は無色透明なのですが”思い”が最後の最後に現れて”わたし”が気づきます。思い(=言語)が消えていないと感じ、”思い”が自分だと勘違いしてしまいます。思いがなくても自身(=存在)は在ります。「我思う故に我あり」

 大雑把ですが、道(=道理・働き)・元素・存在・水・有機物・熱・細胞・分裂・進化・管・神経・臓器・脳・五感・感情・言語・わたし・思い・分別という順番ではないかと思っています。最後(=分別)が常に一番最新で全てなので、分別が全てだとされるのは当然のことです。”わたし”という言語がなければ”わたし”は存在しません。”わたし”という言語を使って”わたし”が出現しています。”わたし”という言語のない生命体は、現象からの感覚・感情のままに反応して生命維持を行っているだけではないでしょうか。動物に”わたし”がなくても何も不都合はありません。人間だけが、”わたし”という言葉によって自身が全体と分離した”主体”だとしています。見る者(=主体)と見られるモノ(=客体)と分けて見ることにしています。”わたし”があろうがなかろうが五感で自動的に感受されています。”わたし”は感受したことを分別している”主体”であると勘違いしているかもしれません。

 

 私たちの脳は臓器が効率よく連携し集中管理する役割があり、様々な入力デバイス(=目・耳・鼻・舌・皮膚)から情報が入力されソフトウェア(=なんらかのアルゴリズム)で処理されているようです。情報は頭蓋骨の中に納まった闇の中にあり、神経細胞によって存在・音・匂い・味・感覚として認識されるようです。存在はまさに脳内で展開されていて、目蓋を閉じれば存在は映し出されません。

 脳は身体がなるべく心地よく生存できるように手助けする機能なのでしょうか。身体のために脳があるのであって脳のために身体があるわけではありません。脳は身体の一部であって、身体が脳に従っているのではありません。どうしても一番最後で最新の状況を把握しているのが脳なので、脳が主体のように感じられます。

 身体や臓器の働きが先にあり、その情報を脳に伝えて脳が認識して最適に働くようにしているというのが理にかなった脳の働きではないでしょうか。脳が臓器を常に監視して不都合なことが起って修復するよう逐一命令するのであれば、脳の負担は大変なものです。

 身体のメッセージを脳が中継したり最適化する時に、脳のソフトウェア(=意識)の気づきがあり記憶・経験と思考によって”なんとかしよう”という意志が働くかもしれません。この意志を”自由意志”と言っているようですが、すでに脳はどうすべきかを身体に指示を与えているはずです。もし、思考によって身体の臓器に指示を与えることができるなら大変な事が起こります。ふと心臓が止まれと思ったり、腎臓の働きを加速させよとか腸の動きは後5分後からとか・・・。たかが思考(=頭の中のおしゃべり)にそんなことができるわけがありません。

 脳の為に身体があるわけではなく、生命の保持のためにできてきた臓器の一つが脳。脳は身体の一部であり身体とあいまって働いているということではないでしょうか。脳が行動を逐一微細に指示したり脳が思考しているとしたら大変なことです。思考は言葉を追いかけている行為ではないでしょうか。脳自体が思考しているのではなく、思い浮かぶ言葉が繋がれているただの現象かも知れません。

 何気ない身体の動きを脳がどのように逐一指示しているのでしょうか。また、脳が見ようとしたり聞こうとしたり味わおうとしているわけではありません。脳が聴いているのではなく空気中の振動を音として認識しています。脳が現象をコントロールして感受しているわけではありません。脳が意図して感受しているのではなく、意図しなくても(=無為)感受されています。

 

 ”道”(=道理・働き)は、人間の意図とは無関係な宇宙的な道理であり働きのようです。当然ですが、私たちは自分の目線より高くにあるものは見上げて見るだけで、見下ろしたらどうなっているか分かりません。また見えている裏側見ることはできません。立体で見えているようですが、立体の一部が見えているだけです。当然ですが、自身の五感に感受されていることだけが全てです。

 今ここ以外は見ることもできません、今此処以外の空気も吸うことはできません。今此処以外のモノに触れることはできません、遠くの話し声も聞くことはできません。今此処で起っている現象だけが五感の感受能力の範囲で感受されます。自身の身の周りで起っていることだけが分かるのであってそれ以外は想像だということではないでしょうか。何が言いたいのかというと、私たちが話している殆どが頭の中の想像(=イメージ)であって今此処の現実のことを題材にしていないということです。

 相手から聞こえてくる言葉や見ている文字は現実の音(=言葉)であったり形(=文字)ですが、それはイメージを音(=言葉)としたり形(=文字)として表現したものです。あくまでも相手の頭の中にあるイメージを具現化したもので眼前の現実ではないイメージの受け渡しということです。

 

 意志がどうであれ、どうのように行動したかによって他人に評価されます。その評価も人間だけです。狭い人間関係の中でどのように評価されどのように言われたかを考えるだけのことで、その考えにとらわれなければ大したことではありません。他人の内心がどうなっているかなど分かりません、内心が同じである人もいません一念三千です。何故それほどまでに気に掛けるのでしょうか?思いで何かを掴んだり得たり何者かになるわけではありません。

 

 損得・善悪・美醜というのは、結果に対して人間が言葉(=概念)を割り振っただけであって決まったものではありません。ある時代である状況で判断されたことです。自身の意志で悪となったのではなく、周りが悪としたまでのことです。ある国の国益が善であっても他国では悪と捉えられます。

 大金持ちだといっても、あくまでも人間の社会的な決まりごとです。猫や犬は誰が金持ちなのかサッパリ分かりません。”自由意志”がどうのこうの議論がありますが、右足が先か左足が先かのどちらを選んでも大した差はありません。ラーメンかカレーのどちらを選択しても、自由意志を持ち出すようなことではないのですが・・・。ただの思いを扱っているだけで、自由に考えられるのでそれでいいのではないでしょうか。脳が大事な決定をしているとかしていないとか気にするようなことでもないように思われます。誰が何を思っても自由です。

 ”もし”◯◯していたらと考えるのは自由ですが、時間を遡って思いに振り回されるだけです。現実は瞬間瞬間に移り変わって過去はどこにもありません。

 

<まとめ>

 自由意志があるとしたら、自身で選択したことに全責任があり一喜一憂することになります。たいした選択でもないことに対して思い悩んだり喜んだり悔やんだりするだけのことです。

 自由意志がないとしたら、あるがままをそのままに受け入れて今を生きていけばいいだけのことのようです。

 老子は人為(=自由意志)を使ってはからい悩むよりも、道(=道理・働き)に任せておけばいいということでしょうか。

 

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老子ー36 [老子]

將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。


相手の勢力を小さくしたいのなら、必ず拡大させなければならない。相手の勢力を弱めたいのなら、必ず強くさせなければならない。相手を廃れさせたいのなら、必ず繁栄させなければならない。相手の国土を奪いたいのなら、必ず土地を与えなければならない。これは微妙な真実です。柔弱は剛強に勝つ。魚は水を深くたたえているところから離れてどこかに行ってはならない。国の利器は、人にわかるように見せてはいけない。

 

歙:①息をすいこむ②あわせる ③ちぢめる・すぼめる

淵:水を深くたたえている所

利器:武器・才能・権力

 

<他の翻訳例>

 (あるものを)収縮させようと思えば、まず張りつめておかなければならない。弱めようと思えば、まず強めておかなければならない。衰えさせようと思えば、まず勢いよくさせておかなければならない。奪いとろうと思えば、まず与えておかなければならない。これば「明を微かにすること」とよばれる。こうして柔らかなものが剛いものに、弱いものが強いものに勝つのだ。「魚は深い水の底から離れぬがよい。国家の最も鋭い武器は、何人にも見せぬがよい」

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 過去の文献の翻訳は百花繚乱であり、好き勝手に訳されているように感じる人が多いのではないでしょうか。正解は原作者だけでありそれ以外は全て偽りかもしれません。それだけ各人の解釈や表現が異なっているということのようです。  

 そもそも、2千年以上前の状況やその時代に生きていた人が何を言いたかったのかを知る由もありません。また当時の人が、2千年後の人に思いを馳せて書いているわけがありません。

・盛者必衰

・山高ければ谷深し

・柔よく剛を制す

・琴の弦は、張り過ぎると切れてしまう。緩過ぎては、音は出ない。適度な状態(中道)が一番良いのだよ。

 

 今まさに起っている出来事に直面していながら、個々人の受け取り方や処理してアウトプットされる表現も一字一句同じということはありません。私たちは異なる場所で生まれ異なる環境で育ち異なる情報を得て異なる感受をしています。異なる教え・友人・師・本に影響され異なる思考・アイデア・イメージ・目標・アイデンティティ・行動をとるようななります。外観は似ていますが全く別者として生きています。現象として発せられている電磁波や音波や味や匂い分子に違いはないのですが、感受能力と処理能力と判断能力が微妙に異なります。先天的な本能による反射は同じでも、環境の違いによって出力が異なります。どこかの工場で同じ部品で組み立てられ、同じソフトが組み込まれ同じネットに繋がっていれば同じように出力されます。

 データーベースが変わらずソフトも変わらなければ、同じように検索されます。同じように検索できなければ信頼性のない駄目なデータベースということになります。マシンの素晴らしさは、全く同じように反応し裏切らないことです。同一性・信頼性・平等性・画一性・応答性・従順性(プログラム通り)・・・

 人間の良いところは曖昧・不平等・異なる対応・信頼がない・従順ではない・画一的ではない・異なる表現・異なる能力・繊細・丁寧・感情表現・裏腹・正直ではない・柔軟性・多様性・・・・。

 ある状況が発生し、ロボットに組み込まれたプログラムのように全員が全く同じ方向に逃げたとしたらどうでしょうか。all or nothing. Dead or alive.

 全員が駄目になるよりも、何人かが助かった方が種の保存には適しているかもしれません。異なるモノが入っているということは素晴らしいことです。画一的で何度やっても同じというのは全滅する可能性が大きいということのようです。

 金太郎飴のような同じ顔の俳優や女優が出てくるような映画は面白いと感じるでしょうか。あまりに整いすぎている絵も面白みがありません。平面のキャンパスに立体に見えるものを書き入れたり、アシメントリーにしたほうが味わい深いかも知れません。

 下手な人のおかげで際立つ、不親切な人がいるから親切が際立つ、従順でないから育てがいがある・・・・。失敗するからこそ人間としての生き方を味わえます。差別が悪いと言いながら、差別してくれることで優越感に浸ることができるかも知れません。スイートルーム・ファーストクラス・個室・プレミアム◯◯・贈答用◯◯・会員制◯◯・・。差別するなと言いながら差別・区別を望んでいるのではないでしょうか。性別や年齢や肌の色・髪の色・目の色・・変えられない事象に対して差を持ち出すのは論外のことです。

 

 私たちが見ている存在はただのアイコンだと前回のTEDの中にありました。私たちは三次元の立体をそのままに見えることはなく、立体を想像しているだけです。実際は立体の表面のほんの一部分しか見えていません。立体であるかのように脳が構築しているかもしれません。

 あらゆる存在に名前がつけられています。存在はただ見えているそのものとしてあるだけで名前が貼っているわけではありません。自らが解釈したり人に伝えたりするために、言語という曖昧(=ただの概念)なもので表現しているにすぎません。

 もし言語と関連づけずに記憶や記録しなければ、何事もなくただ瞬間・瞬間だけなのですが・・・。思い返したり、何かを掴もうとしたり何かを得ようとしたり意味や価値を見出そうとすることで思いが重要になってしまいます。ただの思いであって消え去っても問題にはならないのですが・・・。思いの1つに引っかかると、その思いが重要なこととしてクローズアップされていまいます。そのクローズアップされた思いを何時までも追いかけることでどんどん思いが強化されてその思いに引きづられることになります。

 思いに姿形はなく力も無いのですが、思いが身体に働きかけて行動という姿形や力となります。思考が変化をもたらすものとして、重要なものであると思いこんでしまいます。思考と力が結びついて思考力としてもてはやされることになっています。思考(=自我)は思考を愛でてくれると嬉しくてたまりません。”なんとかしよう”ということが自身であり生きているということだと感じてしまいます。思考が主人となって我が身を振り回す力を持ったまま生きることになります。思考しなくても生きているし生きていけるということをどこかで体験したほうが良いかも知れません。

 身体が思考に振り回されていると見抜くことは容易なことではありません。本当は身体(=主)のために思考(=従)させられているのに・・・逆転しているのではないでしょうか。身体の存続のために腸から分化して脳のになっているのであれば、身体のために自然に働かされているということ。身体を安静に(=何もしない)して思い続けていることに違和感を感じ、その思いに取り合わない(=何もしない)。身体に従うように地道に慣らしていくしかないようです。

 

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老子ー35 [老子]

執大象、天下往。往而不害、安平太。樂與餌、過客止。道之出言、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。


道に従い行動すれば、天下へ人々が集う。その天下に集まれば害はなく(=治安がいい)、安泰である。楽しみと食べ物があれば、人が訪れ立ち止まる。「道Tao」のことを言葉にすれば、味気のない淡白なものとなる。目で見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえない。しかしこの「道Tao」は使い尽くせないものである。

 

象:現れたもの、法、道、道理。
淡:あっさりしている。

 

<他の翻訳例>

 大いなる象(かたち)をしっかり握るものには、天下(の人びと)がそこへ向かって集まるだろう。そこへ行っても何の害にもあわない。(すべてが)平和で静かに、また安泰である。音楽(の響き)と(うまい)食物(のにおい)は、通りすがりの他国のものを立ちどまらせる。「道」が人のことばに出されるとき、いかにも淡白で味がない。それは、見つめてよく見るほどのものではないが、耳をすませいて聞くほどのものでもない。だがそれは、用いてもいつまでも使い尽くせないほどである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 今も昔も統治下に住んでいる人民は税に悩まされいたのでしょうか。天下の土地は国王が統治している土地であり、その土地からの収益も国王のものであるということなのでしょうか。人民の生命や土地を守るために軍隊が必要であり、軍隊を維持するにはそれなりのお金が必要となります。その軍隊を維持するために応分の費用を負担してもらわなければなりません。

 租税を物納するよりは「交換価値」があり偽造できない軽くて持ち運びやすい貨幣を流通させるようになったようです。誰かのお墨付き(=信用)がなければただの金属でありただの紙でしかありません。現代ではネット上で受け渡しできるただの数字であり、口座にある貯金が増減されるようになっています。現物の貨幣を見ることなく物品の受け渡しができています。

 「サピエンス全史」に書かれている認知革命で「あるがまま」の事実の世界に「虚構(=フィクション)」という虚構の世界を想像し共有させることで、ホモ・サピエンスが生き残り現在に至っているようです。人間以外の生命体から見れば言語(=音・形)・貨幣・政治経済・・・人間は虚構の中で生きている動物ということでしょうか。

 虚構の中にいるので頭の中での思いが真実だと誤解しているかもしれません。現実に”起っている”ことが真実なのに、現実を否定する”でも・だって”という思考が苦悩を生み出し続ける源泉かもしれません。”でも・だって”は無意識のうちに現実を現実として受け入れることを拒むために発せられる”言葉”かもしれません。

 

 人は知ることや体験によって何かを掴んだり何かを得たり何者かに変わることを期待している部分があるようです。様々な物質を様々な条件で混ぜ合わせても錬金できないように、人間に知識や体験を混ぜ合わせることで別物の何者かになることはできません。世間体のいい頭でっかちの人格者ぶった人や博士や熟練者として大成するかもしれません。

 お釈迦様は自ら人体実験(=苦行)をしても何も変わらなかったと実証してみました。実体験の錬金術が失敗して身心が自分ではなかったと気づいたのでしょうか。明けの明星で覚る身心なんて無かったのかと分かったのでしょうか。”なんとかしよう”というというのが無くなっていたかも知れません。

 人間として生まれてきて、誰もが意味や価値のあるものを追い求めているのですが”ゴールが分かっている”のなら「それ」は一体何なんでしょうか。もし”ゴールが分かっていない”で向かっているのなら既に迷子かもしれません。”ゴールが分かっていない”から意味や価値のあることが”ゴール”であるとしているのでしょうか。すでに”ゴールにいる”のにもかかわらず”ゴール”を探し出そうとしているパラドックス。誰も騙してはいません、自身が自分ゲームをし続けているかもしれません。

 

 「道Tao」は言葉で表現し尽くせない道理と書かれているので、「道Tao」は探す必要のない眼の前の現実そのままということになります。何処にでもあるということは特定することのができないので、あるともないともいえません。「有る」といったら特定してしまうので間違いであり、「無い」と言ったら「有る」を前提としているので「有る」が特定できないのに「無い」は間違いとなります。瞬間は捕らえたと思った時にはありません。瞬間・瞬間はあるようで無いのと同じです。時間は概念であって、あるようで無い。

 生も何処に行っても何時でも瞬間・瞬間です。探す必要のないもので、今まさに感受している全てであり生として取り扱える何かの概念ではありません。

 死も概念上で取り扱っているだけで、死んだのに生きているわけがありません。死の真相を語れる人はいません。死があるとどうして分かるのでしょうか。死んで生きている人なら死を語る資格がありますが、誰一人死んでから語ることはできません。生も死もただの概念であり想像上のことでしかありません。

 

 空気はあるとか無いとか感じることなく、気にせずに生きています。普通に生活しているのなら、空気(=生)を探すこともないし真空地帯(=死)が何処かにあって自ら飛び込むこともありません。生がこれだという感覚はどこにでもあるしどの瞬間でも感じることができます。特定・特別の生などどこにもないということになります。エベレストの空気(=生)が真の空気(=生)であって、今吸っている空気(=生)が偽物なのでしょうか。子供の頃の空気(=生)が真で年老いて吸っている空気は偽物なのでしょうか。昨日の生はもうないし、明日の生がどこか鎮座していることもありません。生は探し出すのではなく瞬間・瞬間の実感そのもの

 「道Tao」とおなじで「生」はなにかなど定義したり知る対象にはなりません。感受されたままに全てがすでに受け入れられているという事実を見抜く。余計な分別が生を思い煩うものにしているかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−34 [老子]

大道汎兮、其可左右。萬物恃之而生而不辭。功成而不名有。愛養萬物、而不爲主。常無欲、可名於小。萬物歸焉、而不爲主、可名於大。是以聖人、終不自大、故能成其大。


 道は広大無窮であり、道はいたるところで働いている。万物は道(=宇宙・自然の理)によって生まれ、尽きることがない。

 道(=宇宙・自然の理)は生みだすが名はつけられていない。

 道は万物を慈しみ育てていながら、コントロールしているわけではない。

 道は欲とは無縁であり、”小”と名づけてもいい。万物は道へと帰っていくが、誰かがコントロールしているわけではない。”大”と名づけてもいい。

 この道理に従っている聖人は、自らを大いなるものとすることはない。だからこそ大いなることをなすことができる。

 

汎:広大無窮、果てしないこと。

兮:助字として使われ語末、句末に置かれる。

左右:いたるところ

肯定・命令請求・疑問の語気を示す

恃:たよりにする
辭:やめる

 

<他の翻訳例>

 大いなる「道」は漂いゆく(船)に似ている。左へゆくことも右へゆくこともできるのだ。万物はそれぞれの生存をそれ(「道」)にたよっているが、そのことを(「道」は)こばまない。「道」は仕事を完成しても(その功績の帰属と)保有を主張しない。大きな衣のように万物を包み養っても、それらの主であること(利権)を主張しない。永久に欲望をもたないから、小さな(卑しい)ものとよぶことができるであろうが、万物がそれに向かっていながら、その主であることを主張しないから、大いなるものと呼ぶことができる。その偉大さをみせびらかすことは決してない。だからこそ、その偉大さが完全となる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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****<辞書等での大まかな意味

◯観念:ある物事がどういうものか言葉で定義したもの。物事に対してもつ考え。

主観的(=自分だけ)であり、頭の中だけで考えていること。

人が物事に関して抱く、主観的な考えのこと。対象物に対して心の働きが加わったもの,つまり認識されたもの。内的・個人的なものです。

※個々人によって対象について考えている内容が異なる。※

類義語:イメージ・考え・心像・想念 対義語:実在

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 私たちは今ここで何かを感受しています。様々な電磁波から色や形を認識し、空気中を伝わる振動を音として認識しています。何かを見て何かを聞いて何かを味わい・・・・。寝て目覚めては食べ排出しています。なぜだか知りませんが身体が動き何かが思い浮かんできます。周りに起っていることに気づき自然に反応しています。知らぬ間に生まれ名前がつけられ名前を呼ばれたり”あなた・君”と言われて過ごし「私」というモノがあると思いこんでしまいました。

 身体と思いがただの観念でしかないのに、”自分”というものがあって誰もが”自分かわいい”によって保身第一に考える癖によって振り回されることになっています。

 何かを知って何かを思って何かを感じて何かを得るのは”自分かわいい”のために行われます。”自分かわいい”が元凶(=苦悩の根源)であると認めることができなければ”自分かわいい”い翻弄されて一生を終わってしまうかもしれません。

 

 宇宙を創造し、今もあらゆる法則として働き続けている。名はないので「道Tao」と名づけたのでしょうか。発見される法則は全てすでにあり「道Tao」が根源。見ることも触れることもできないが宇宙に遍満し働き続けているのが「道Tao」なのでしょうか。

 ニュートンは質量を持った物体がお互いが引き合うという「万有引力の法則」を発見しました。当時の世界観は天上界(=宇宙)と地上界(=地上)と分けて考えられていたようですが、実は別々に分離されたものではなく同じ法則だということを発見しました。

 地上界でのあらゆる物体は地球とお互いに引き合っている。ニュートンは”どれもこれも引き合っている!!なんで気づかなかったんだろう”と驚きの目で世界を見ていたのでしょうか。

 老子も”これもそれも全てに「道Tao」の働きがあるという発見をしたのでしょうか。見るもの聞こえるもの感じるもの全てが「道Tao」だと叫びたかったかもしれません。”どうして気づかないのだろう”と嘆いていたのでしょうか。

 私たちの周りには見えないモノ、触れることのできないモノ、掴むことのできないモノだらけです。エネルギー・圧力・重力・気圧・温度・光・ウィルス・素粒子・電子・本来の自己・・・これらは勝手に働いていています。鳥が囀り飛び回り、魚は泳ぎ、動物は駆け回り、花は季節になれば自ずと花開く。人間の一挙手一投足も自分がやっているわけではなく宇宙全体の動き一つに過ぎない。大海の大きなうねりの中のほんの一滴の動きのようなもの。

 鳥は自身がどうやって飛ぶか分かってるのでしょうか。魚は自身がどうやって泳いでいるのか分かっているのでしょうか。犬は自身がどうやって駆け回っているか分かっているのでしょうか。犬は自身がどうやって背中を掻いているか分かっているのでしょうか。猫は自身がどうやって舌を使って食べているのか分かっているのでしょうか。猫はどうやって鳴き声を出しているか分かっているのでしょうか。蜘蛛はどうやって巣を作っているのか分かっているのかいるのでしょうか。見えている聞こえている味わっている・・・自分がやっているなんていつから勘違いしてしまったのでしょうか。

 人間はどうやって自国語を話しているのか分かっているのでしょうか。声帯を振動させて声の大小をコントロールしたり、口・唇・舌をどのように動かしてどのタイミングでどの程度息を吸ったり吐いたりしているのでしょうか・・・・自分で一語一語確認して制御しながら話しているのでしょうか。「私」がどこにいてどのようにコントロールしているか見つけることができません。眠っている時に「私」はどこにいるのでしょうか。

 一切が何かわからない道理に従っていると言わざるをえません。道理に従うままに生きることが「道Tao」であり、大きなものと一体となる生き方をすべきだと言いたいのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−33 [老子]


知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。

 

壽:長寿、めでたい

 

他人を知る者は智があり、自身を知る者は明がある。

他人を負かす者は力(=権力・武力)があり、己(=自我)の欲に振り回されない者は強い者である。
足るを知る者は富める者であり、欲に振り回されず自分の思い通りに行動できる人には志があります。
自身を見失わない者は久しい。
死んでもなお亡くならない(存続するモノを見抜いた)者は長寿である。

 

<他の翻訳例>

 他人を了解するものが智のある人であり、自己を了解するものが明察のある人である。他人を負かすには力がいり、自己を負かすにはもっと力がいる。(もっているだけのもので)満足することを知るのが富んでいることであり、自分をはげまして行動するものがその志すところを得るのである。自分の(いるべき)場所をまちがえないものが永続する。死ぬときにも(その肉体の一部分さえ)失っていないものが長寿なのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 私たちは”我が身”が「私自身」であるとしていることにより、”我が身”の欲求や忌避に従うことが行動規範となっているようです。”我が身”が主役なので”自分かわいい”に振り回されて人生を送らされていることに気づかずに一生を終えるかもしれません。

 今ここで感受できている世界で生き続けなければならないという本能はどうすることも出来ません。生命誕生から途切れることなく生き続けてきたという結果として今の生としてあります。我々生命体に脈々と宿っている”生き続けたい”ということには贖うことはできません。望んで生まれてきたわけではなく、偶然にこの時代のこの場所にいるというのは稀に見る奇跡の生と感じずにはいられません。

 ”我が身”に縛られて”我が身”のためだけに生を終わるとすれば、動物の一生と何ら変わることがないことかもしれません。生命現象として寝て食べて排出して動いているという表面上の行動だけを見れば動物と大差はありません。

 他の動物と異なるところは多々ありますが、最たるものは「言語」を発明したということかもしれません。何でもない音(=発音)や形(=文字)に意味や価値を割り振り”概念”というもので存在・感情・感覚・思い・・を相互に伝えて共有できるということでしょうか。「言語」の送受信によって分かったかのような錯覚で繋がりを得ているのでしょうか。

 以前も書きましたが、存在・感情・感覚・思いが先にあって後づけで「言語」を当てはめているというのが事実です。”真”・”美”・”善”というものは最初からあるわけではなく、人間の都合で決められるものであって予め何処かにあるとかないとか議論するのは馬鹿げたことかもしれません。自分たちで決めたのに、決める前からあったはずだとしています。”東から太陽が昇る”のではなく、”太陽が昇る方向を東とした”ということです。東が最初からあるわけではありません。

 

 読み手・聞き手の数だけ解釈があります。”痛い”と言われ分かったような気になりますが、言っている人の”痛み”をそのままに感じることは不可能です。書いた人が本当に言いたいことは書いた本人にしか分かりません。

 全部推測でしかありません。真剣に読んだとしても自分の知り得る範囲で勝手に解釈しているだけですのでご了承ください。

 注目すべきキーワードとして”自・智・明・強・志・富・久・亡・壽”があるように感じます。

 他人を知り行いを推測できる人は智者と言われる。他人を理解するには、自身を鑑みるのが一番手っ取り早いかもしれません。所詮は誰もが”自分かわいい”で生きているので何をするかは手に取るように分かるようです。被害は少なくなるべく多く得るというのがどんな生き物でも同じことです。老子さんは自己の本質を明らかにする方が人間として生まれてきた本分があるのではないかと問いかけているのでしょうか。”明”とは何も障害・束縛がなく自由で開けたことなのでしょうか。

 他人は”自分かわいい”なので力で脅せば言うことを聞くとわかっています。自己を制するには、仏教での六波羅蜜のような実践によってもたらされるもの。欲望は限りありません。何故なら掴むとか得るということがないからかもしれません、無常であり一時的な感覚を味わうだけの儚い夢のようなものだから。

 美味しいモノを多く食べ、素晴らしい景色を見て、心地よい音楽を聞き、芳しい匂いを嗅ぎ、居心地のいい空間にいて・・・これらは無常であり消え去ってしまいます。際限なく求め続けることになります。一番解放され幸せだったのが、食べもせず聞きもせず感じもせず何もしていなかった熟睡だったなんて。”自分かわいい”に振り回されているよりも”自分かわいい”から解き放たれていた方が幸せだなんて・・・・。

 求めずとも一人沈黙のままに何もしていないのが素晴らしく心地よく感じるのは年のせいでしょうか。最近はyoutubeで”焚き火”を見ている人が多くいるそうです。なにかしているよりも何もしないということの有り難さを実感する人が増えているのはいいことかもしれません。

 欲することが少なくなればなるほど豊かな時間を過ごせるように感じるかもしれません。何者でもない空っぽの自分であれば広大な空間が広がっています。ちっぽけな世事にとらわれない真の自己。自然な自己を見失わなければ自然の生を全うできるかもしれません。

 

 死んでも存続している本質とは何なんでしょうか。

 私たちの本質は五感、感情、知性、思考、身体、アイデンティティ・・という知られる対象でしょうか。知られるモノは知る者自身ではありません。知られる対象は、生きている間に働いている知覚されるモノです。血液型・性別・趣味・学歴・出身地・体型・体重・血圧・病気・・は私ではありません。これらは取ってつけたものであり自身ではありません。現れの「社会的な私」を説明する一つでしかありません。

 血液型は私ではありません。爪は私ではありません。学歴は私ではありません。趣味は私ではありません。私に付属しているあらゆる属性、ホワイトボードに書けるもの全ては単なる後づけであって私ではありません。ホワイトボードに書いたものを全て消し去ってある何か、それこそが私です。空っぽにしても残っているモノ・・・気づいている何か(=それ)。瞼を閉じればたちどころに眼前にある全てが消え去ります。何かが残っています。次に自身の身体が無いとしてみてください。感覚も思いも感情も消し去っても残っているモノ(=気づいているそれ)。

 

 実際幼少時の身体は消え去っています、昨日の◯時◯分◯秒と全く同じ状態である身体は何処を探してもありません。変化し続けているので同じ状態は決して再現できないので、完璧に消滅しています。それでも残っているモノ(=気づいているそれ)。

 最後の最後に残っているモノ。気づいているという「それ」。汚されもせず限界もなく捉えることもできない言葉にすることなどできない「それ」。自分で作ったものではなく生まれてもいないし、これからもあり続ける「それ」(不生不滅)。手をつけることなどできない悠久の「それ」。誰にもどこでもいつでもすでに備わっている「それ」。考えてどうにかできるものではない、知性とは全く無関係の「それ」。聞こえたままを受け取っている「それ」。探す必要もなく逃げも隠れもしない「それ」。知性は探し出そうと必死ですが、知性を使う以前に働いている「それ」なので、知性では見つけられません。「青い鳥」と同じで今ここで”あなた”を通して見ている「それ」。知覚される以前の知覚者そのものが「それ」です。身体が死んでも、生き続ける(=長寿)のは「それ」のことでしょうか。正月は思い切って、何もしないで沈黙してみてはどうでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−32 [老子]

道常無名樸。雖小、天下莫能臣也。侯王若能守之、萬物將自賓。天地相合、以降甘露、民莫之令、而自均。始制有名。名亦既有、夫亦將知止。知止所以不殆。譬道之在天下、猶川谷之於江海。

 

樸:ありのまま、切り出したままの木

雖:たとえ…でも

莫:ない

臣:使える、従う

賓:みちびく、従う
甘露:天から与えられる甘い不老不死の霊薬

制:とりきめる、つくる

不殆:あやうからず、危険が迫ることはない

猶:まるで〜のようだ。

江海:大河、海

 

「道」とは名のつけようが無いあるがままである。

たとえささいなことでも、天下において「道」を使いこなすことができる者などいない。

もし王や諸侯が「道」を知り守れば、天下の万物は自ずから「道」のままに従うだろう。そして、天と地は統一され、甘露を享受できる。

 

始めに決めごとにより名がつけられ、その名にも根源が有り、その根源を知ることで知は止む。

 

知が止めば殆うからずという所以です。

天下に「道」があまねくあるということを譬えれば、まるで谷川の水が大河や海にそそぐようなものである。

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<他の翻訳例>

道は本来、名付けることもできない。

道は、言葉でとらえようがなく、本来、名付けることもできない。

道に従って生きる荒削りの木のような人は、

身分が低いとしても、これを従属させようとする者はいない。

 

候王が、このようなあり方を守りえたなら、

万物はまさに自ら帰順してくるであろう。

 

天地が調和して、すばらしい甘露をすべての命にもたらす。

民は命令されることなく、おのずから品行を正して秩序を生み出す。

 

名付けようのない神秘たる道を、

樹木の枝葉を切りそろえるように制すれば、

それは名付けの可能な道具となる。

ひとたび、名付けうる道具としたなら、

その作動の限界を知らねばならない。

限界を知っていれば、危険はない。

 

道の天下におけるそのありさまは、

小さな谷が大河や大海の源流となっているようなものであう。

老子の教えあるがままに生きる 安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

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 「道」は宇宙の道理(=働き)でありモノや概念として名をあてがう対象ではありません。赤子の時は「私」という観念がなく、見る者(=主体・私)と見られるモノ(=存在)には分かれていなかったはずです。ただ存在が映し出さてていてただ音が鳴り響いてた。ただ感覚があってただ何らかの感情が沸き起こっていたのではないでしょうか。個としての自分(=私)は認識されず開かれた全体がそのままに在っただけ。赤子は言語を持っていないので、存在に意味や価値を見出すことはできていません。意味や価値は人間社会で勝手に作り上げたものです。人間にとって意味や価値があったとしても、そのモノを使うことも持つこともできなければ意味や価値はありあせん。犬猫が車をもらっても、何の価値もありません。

 自動車やお金や貴金属や絵画・・・人間以外は必要としていません。また、未開の地で物々交換で成り立っている所では一万円札はただの紙でしかありません。人生に意味や価値を見出さしたり探し回っているとしたら、何でも無い人生を虚しいと捉えていることでしょうか。何かを掴むべきであり何かを得るべきなのが人生であると、何かを得れば幸せという安直な思考はどこから来るのでしょうか。誰もが他人の内心を知りえないとうことであり、見た目でしか判断できないという人間の即物的な価値判断が優先していることを象徴しています。

 誰もが同じモノやことに意味や価値を見出してはいません。最初から意味や価値は無かったということです。現代のように、強力な磁石を作るのにレアメタルに価値があるだけで以前はただの鉱物の一種です。有用であったプラスチックが厄介なモノにもなります。意味や価値は時代にもよるし、個人の趣味嗜好に委ねられているのであって、意味や価値が最初から存在にくっついているのではないということかもしれません。

 人間だけが達成すべき何かがあるとしていて、各自に割り当てられたその目的を見出して達成するという物語に酔いしれているかもしれません。誰一人として、生まれようとして生まれてきたわけではありません。人間であると分かった時から人間としての自覚が起こります。各個人に達成すべき目的や何者かに成るということが割り振られていたら大変なことです。生まれた時代や環境が設定された通りでなかったらどうするのでしょうか。カーレーサーという設定なのに江戸時代に漁師の家に生まれてしまった。裁判官という設定なのにAI裁判官で事足りる時代に生まれるかもしれません。

 あらゆる生命体は遺伝子によって決められていて、生まれたては空っぽ。生き残るために他の同種の生き物が食べない”笹”を食べたり、害のある”ユーカリ”を食べたりして生き残ろうとしてきたのでしょうか。動いて食べて排出して寝て子孫を残して死んでいくだけを繰り返しています。

 

 人間だけが「言語ゲーム」によって、意味や価値や目的を達成すべき何かを持っていると頑なに信じているのかもしれません。死の床にある人に、何を掴んだか何を得たか何を達成したかを問うても”Nothing”が正直な答えかもしれません。どの瞬間においていも、何も掴んでいないし何も得ていないということを見抜けばどうなるでしょうか。失うものなんて何もないということに気づくかもしれません。いや私はいろいろなものを所有し様々な繋がりがあると思っているかもしれません。会社組織では、誰かがいなくなっても他の誰かがやってくれます。ある人が死んで、世界が混乱に陥るということもありません。気象が激変するなどということもありません。

 今この瞬間に消え去ったとしても宇宙は何事もなく続いていきます。何も心配することはありません。一時的に周りに混乱が生じるかもしれませんがやがて平穏を取り戻します。

 ”心”・”悟り”・”涅槃”・”私”・”神”・・「言語ゲーム」の産物であって勝手に思い巡らせているだけで”雲”のようなもので掴むことも得ることもできません。  実体のない無常な”雲”を目的にする必要はありません。探し求める対象ではないので”迷う”ということもありません。意味や価値も極端に言えば人間が作り出した”幻想・妄想・幻覚”であった、自身で作ったもので自身が振り回されているだけかもしれません。”尻尾を追いかけている犬”

 

 「言語」は対象を知ろうとするための道具ですが、対象を事細かく分析して言葉を割り振っただけのものです。実体のない無常な対象に仮に命名した程度のものが「言語」です。この曖昧模糊な音と形だけの「言語」で問題を切り刻もうとしてできるでしょうか。空気玉のような概念でできた音と形で、何かを構築したり誰もが目に見える明晰な実体を作れるでしょうか。

 真実(=あるがまま)は五感で感受したままであり、誰もが直知しています。本当のところはこういうことですと「言語」で明らかに示すことのほうが優れているのでしょうか。存在が先で「言語」が後だという現実から乖離しています。          

 例えば、目の前の”水”を分析して、温度・密度・水質・硬度・含有物・・の説明で”水”が明晰になるのかサッパリ理解できません。眼の前の”水”が実物で、分析した結果の数値はただの数値であって数値を見て水を味わうことはできません。一口飲めば「言語」の説明は不要で簡単に明晰な実体を直知できます。

「言語」に意味や価値があるのではなく、存在に「言語」を割り振っただけです。存在に意味や価値が見出された後からその存在に付けられた「言語」が意味や価値を持ったということです。”善”も”悪”も音と形からなう「言語」としては優劣のない等価です。

 

 本当のことを「言語」で解き明かす学問があるそうですが、本当でしょうか。遠回りして、かえって現実から遠ざかっているかもしれません。存在には言葉などついていません。存在に言葉を付けて分かったように思い込んでいるのが実情です。例えば、ある国で”神”の概念も知らぬ子供に「カー」とは”神”と繋がる尊い音だよと教えたとします。願いを叶えてくれる魔法の言葉だと教えたとします。寝ても醒めても「カー」と唱え続けますが、カラスが寄ってくるか逃げるだけで、変な子供だと烙印を押されてしまいました。日本では、共通の認識によって”神”の概念を持っています。日本人が”kami”という音を出して何かが起これば素晴らしいことですが、ブラジル人が”kami”と発音して何かが起こるのでしょうか。もっと極端に言えばオウムが”kami”と発音して神々しいオウムになってくれればいいのですが・・・。

 

 宇宙の道理(=働き)を「道」と命名しただけのようです。「道」の何たるかを説明することができるでしょうか。動きをどうして動きのない一語で語りうることは不可能です。宇宙全体の働きを”Tao”という音や”道”という形で理解できるわけがありません。

 宇宙の働きそのものである我々が宇宙を使いこなすことは、一滴の水滴が大海を動かそうとすることかもしれません。その時代その環境で起っているあるがままに委ねることが宇宙と同期しているということ。「私心」を持ち出して、自らの見解で分別して白黒つけていれば大いに悩むことになります。楽は楽のままに苦は苦のままにあるだけなのですが、追いかけて得るべきものにしたり避けて逃げ回るものとすれば振り回され続けるのが目に見えています。痛みを感じなければ大変なことです、知らぬ間に致命傷となり助かるものも助かりません。苦しみを苦しみとして味わいつくすことは有益です。平常時がいかに救われていたのかを実感できます。何事もない平凡がすでに「それ」だったということに気づきます。180度を行ったり来たりしているメーターの針のように楽と苦を行き来していては平安をかき乱して一生を終えてしまいます。苦なら苦に成り切れば苦は苦でなくなります。比べる楽を持ち出すことで苦が倍増してしまいます。

 名づけは単なる決めごとであって、見たまま聞こえたままで既に了解しているはずです。”なんとかしよう”という思い(=分別)によって静寂を自らが壊していることを見抜かなければなりません。沈黙する他ありません。何が思い浮かんできても相手にしない。勝手に沸き起こってくる自分ではない思いを放っておくしかありません。

 

甘露:天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体。

・宇宙の働きに名はつけられるものではないが、ギリギリのところで「道」

・名は知りたいという欲求によって、存在に割り当てられた曖昧な音と形。

・働きを言葉で解き明かすことなどできないし、宇宙の働きを操ることなどできません。

・分別以前の無為なる自身を見抜いて欲しい。誰もがすでに「それ」。

・あるがままをあるがままにして見解を持ち込まなければ、知は止む。

・存在のほうが教えてくれる、直知があるのみ。

 

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老子ー31 [老子]

夫兵者不祥之器、物或惡之、故有道者不處。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器。不得已而用之、恬惔爲上。勝而不美。而美之者、是樂殺人。夫樂殺人者、則不可以得志於天下矣。吉事尚左、凶事尚右。偏將軍居左、上將軍居右。言以喪禮處之。殺人之衆、以悲哀泣之、戰勝、以喪禮處之。

 

夫:そもそも
祥:めでたい

器:才能、使いみち
物:人々、大衆、民衆。
右・左:右を上とし、左を下とした。
恬淡:無欲

尚:とうとぶ、重んじる

偏将軍:副将軍

上將軍:総大将

 

 そもそも軍隊は不祥のモノであり、人々がいやがるモノです。「道」の有徳者は軍隊を拠り所としない。君子は左を尊いとするが、軍隊を拠り所とする人は右を尊いとする。軍隊は不祥のモノであり、君子は軍隊を使うものではない。軍隊をやむなく使っても、欲を出さずに切り上げる。軍隊を使って勝利しても称えられることではない。軍隊での勝利を称える者は、殺人を楽しんでいることになる。

 殺人を楽しんでいるような者が天下を得られることはない。うまくことが運ぶのは左(君子)を重んじる、ことがうまくいかないと右(軍)を重んじる。

 副将軍は左で、大将軍は右にいる。葬儀での作法の配置と言われている。戦いで多くの人命が奪われ、悲しみで泣いてしまう。勝利したとしても葬儀の場にいるのと同じことだ。

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 君主が軍隊を統率できなければ、実質的な統率者は大将軍となります。軍隊は人為的に作られ敵とみなせば破壊し殺戮する暴力的な組織だということは誰もが認めるところです。軍人は大将の命に背くことは出来ず命令を従わなければならないロボットのようなモノでなければなりません。

 統率ができなければ厄介な組織であり、めでたいものではないというのが古今東西で一致しているようです。軍隊によって治世するようでは人民を苦しめることになります。戦いによって弱い人が虐げられ、多くの軍人も死ぬことになります。耕地は荒れ果て働き手は軍に奪われ飢餓となります。

 戦国時代では誰もが君主の座を狙っていたと思われます。信じられるのは血の繋がった人というこのになります。近隣諸国との無益な戦いを防ぐために、婚姻によって繋がりを築いていたようです。

 今まで虐げられた人が権力を得ることになれば、倍返しとなり虐げてきた人たちを根絶やしにしたようです。プライドが高く自尊心を傷つけられたと思う人は、なんとかして仕返しをしたいと思い実行していたかもしれません。

 悔しい気持ちを晴らすことができな自身と向き合い苦しんでいたかもしれません。負けたくないという思いを晴らすために策略を練って時間を浪費していたかもしれません。

 

 いつの世でも人間関係に苦悩します。誰もが主導権をとって思いのとおりに物事を運びたいようです。誰もが幸せを掴もうとか得ようとかなりたいと思っています。幸せは掴めたり得たりなったりするものでしょうか?何かの感覚を掴んだり得たりなったりするのではないかもしれません。わだかまり・苦悩・混乱・錯乱・・から開放されて突き抜ける青空のように何にも束縛されていない自由に浸っているということではないでしょうか。熟睡時に何かに束縛されたり何かの感覚を掴んでいたりしているでしょうか。自身が何者でもなく、何かを得てもいないし何かを掴んでもいない、何もすることがない何もする必要もない・・とことん”無”に徹して”無”であることもわからない。それが「それ」であり、掴もうとしたり得ようとしたりすることではないようです。

 何もしなければすでに「それ」そのもの、誰もが熟睡で日々経験しているはずです。何もしないために、何か(=修行)をしているということです。何もしないために学んでいる、何もしないために経験している。何もしないために苦しんでいる。

 信じられないかもしれませんが、何もせずにボッーとしているのが最高の境地かもしれません。気をつけることは”思い”を追いかけてしまっては台無しになるということです。”思い”は起ってしまったので追いかけてしまっても自分を責めずに”なんとかしよう”とも思わないことです。”思い”は自分ではなく、思いは”なんとか”できません。見えてしまったものを見えてないことには出来ないと同じことです。見なければ良かった、知らなければ良かったと言っても後の祭りです。放っておいて、次にどんな思いがくるか見ていればいいだけのことです。

 

 今ここでは何かを見て何かを感じているだけなのに、どうでもいいことにエネルギーを使っているかもしれません。なんとかしたいという物語(=虚仮)で頭が一杯になっているのではないでしょうか。”負けるが勝ち”です。プライドでご飯が美味しくなるわけではありません。誰かに宣言する必要もないし、誰も自身の思いなど分かりません。自身の持っているプライドなど全部捨てて”バカになってみる”のもいいかもしれません。

 天才バカボンの”バカボン”は仏教では”薄伽梵(バキャボン、バカボン)”でお釈迦様という意味だそうです。”これでいいのだ”は悟りの境地で”あるがまま”そのままがすでに「それ」ということ。

 

 私たちは自身の物語でまわりを動かせるかのように思っているようです。結局は他人をどうにかしようと疲労困憊し、自身をおろそかにしています。自身の生活を楽しむどころか、他人に振り回されているということに気づきません。自身がコントロールしているようですが、実際は自身で自身を振り回して苦しんでいるだけです。些細なことを晴らすために無駄な時間と労力を使っていないでしょうか。愚かなのは他人ではなく自身だったということのようです。ただの”思い”に振り回されず、気にかけずに放っておけば消えるということです。

 

 世界が”思いの通り”になったら大変なことです。幸いにも”思いの通り”にならないのがこの世です。存在は”言葉=思い”からできてはいません。存在が先にあって、次に”言葉=思い”があるのです。”言葉=思い”が先にあって、次に存在があるのではありません。有り難いことに、椅子に坐っていて”浮き上がれ”と思っても身体が浮き上がることはありません。恨みが現実になったら・・・恐ろしいことになります。

 私たちは、順番を間違って理解しているかもしれません。味わった後に味が分かりますが、味を感じてこれこれの味だと判断しています。判断によって味が分かったかのように感じています。

 白い物質を舐めて味覚細胞から脳に電気信号が伝わり、もうここで感受して終わっています。しかし、自動的に記憶と照合されて”しょっぱい”という言葉と一致して”塩”と断定します。そこで”塩”と呼ばれる物質がここに存在しているとなります。そうではなく、何でも無い白い”存在”を”塩”という言葉と認定したということです。

 ”塩”があるのではなく、そこにあるものを”塩”と言葉に変換しているということです。

 ”言葉”が先にあるかぎり、存在のなんたるかを”言葉”で理解しようとしてしまいます。”私”という言葉が先にあることで、”言葉”で”私”を分かろうとします。”言葉”は便宜上のものであってそのものではありません。”平和”という言葉は”平和”でもなんでもなく、本当はたんなる音と形でしかありません。

 

 存在は一様であり何らかの意味も価値もないただ存在としてありました。何らかの意味も価値も無いからどうにでも意味や価値を付与できます。何でも無い(=予め意味や価値づけされていない)ものです。ただの光の波長によって色があり、音の振動や硬さや質量や温度や・・存在には様々な性質があるだけです。

 存在は、個々人によって瞬時に言葉に変換されてしまいます。何でも無い存在が、見る人の分別によって何らかの意味や価値のある存在となってしまいます。あるがままの存在が瞬時に言葉に変換されて、言葉が貼り付いている存在だとされます。この勘違いから脱しないかぎり意味や価値に振り回されます。一切の存在は区別・差別のない万物斉同(=等価)なのですが・・・・。私たちは思い以前のあるがままを感受していますが、どうしても思い(=気づき)が意識されます。どうしても思いが先にあって存在があるという循環から抜け出せません。何もしないを体験してはどうでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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老子−30 [老子]

以道佐人主者、不以兵強天下。其事好還。師之所處、荊棘生焉、大軍之後、必有凶年。善者果而已。不以取強。果而勿矜、果而勿伐、果而勿驕、果而不得已。是謂果而勿強。物壯則老。是謂不道、不道早已。

 

「道Tao」によって君主を補佐する者は、武力に頼って天下(=国)を治めない。武力に頼ればいずれその報いを受けることいなる。
軍隊(数千人規模)が駐留すれば土地は荒れ野となる。

大きな戦いの後には国土は荒れ凶作になる。

※別の解釈:大きな軍隊(数十万〜)を維持することになれば、若い働き手は徴兵され作物のつくり手が減るが、消費する人が多くなり飢饉となる。消費>生産※

優れた者は目的を達成してからさらに武力に頼ることなく。
結果を出しても尊大にならず、自慢せず、驕らず、避けることができずに戦っただけである。

目的を達したら無理なことはしない。
物事が盛んであれば衰退するものだ。
この様な(=自尊・驕り)ことは「道」をわきまえない行為であり「不道」と謂う。
この様な(=自尊・驕り)ことは「不道」であり、長くは続かない。

師:軍隊

荊棘:あれた地

矜:ほこる

伐:うつ

驕:おごる

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<他の翻訳例>

道理に従って君主を補佐する者は、兵力を用いないで、天下に強勢を張ろうとするので、その政事はうまくまわる。

その国の軍隊は、守備一辺倒となるため、基地の周辺にバリケードのための茨が植えられる。

優れた者が考えることは、成果を挙げることだけである。

戦場での殺傷によらないで、強勢を張る。

成果を挙げても傲慢にならない。

成果を挙げても誇示しない。

成果を挙げても自己顕示しない。

成果を挙げて仕事が終わったというのに、

必要もなく長居してはならない。

これを『成果を挙げても、強者にならない』という。

物は盛んであれば老いる。これを道にかなわない、という。

道にかなわなければ、すぐに行き詰まってしまう。

老子の教えあるがままに生きる 安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

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 武力を増大すれば行使したくなり、刀を持てば切りたくなり、弓を持てば射たくなり、車があれば乗りたくなり、身体を鍛えれば見せたくなり、知識があれば自慢したくなり、高価なモノを持てば見せたくなり、人より優れたところがあれば誇示したり行使したくなる・・・・優れたところを見せたり誇ったり、優れたところを見たり称えるのも人間だけができる特筆すべき点かもしれません。

 宇宙から俯瞰すれば、人間はいったい何のために自らを誇り他を辱めているのかと不思議に思うかもしれません。

 武力を増強すればその武力を維持しなければなりません。そのために他国を侵略しなければならなくなります。昔の君主は自己の権勢欲のままに侵略に明け暮れていたのでしょうか。戦争によって潤うのは限られた少数の人だけであり、ほとんどの人が悲惨な生活をしいられます。戦争とは、理性や人間的な思考の通じない本能レベルの感情に振り回されているとしか思えません。

 個人でも国でも自己正当化(=固定観念)によって対立が生み出すされています。物事はただ過ぎ去り変化しているだけなのに、自らの観念を固辞しようとします。ただの思い出あり消え去るものです。自らの正当性を固辞しなければいいだけなのですが・・・。

 どうしても”自分かわいい”が主役となり自己正当化してしまいます。自己正当化は”苦”を生み出す源泉です。観念とは自らを守っているようで実は自らを苦しめることになっているかもしれません。”我が身(=自分)かわいい”は結局自らを苦しめ他を苦しめることになっているかもしれません。

 人為(=個のはからい)以前に大道(=無為自然)が働いています。”自分かわいい”の人為による自己正当化は、流れに逆らって泳ぐようなことであり苦しみや報いは自らにかえってくることになるのでしょうか。

 

 戦国時代にあっては、若い人は戦争に駆り出され農地は荒れ、人は家を失い多くの人が犠牲となります。今まで一切の面識がなく、好きでも嫌いでもなかったのです。ただ国境を挟んで平穏に暮らしていたかもしれません。僅かな人の権勢欲に振り回され”愛国心”というわけのわからぬ論理を押し付けられ従わされることになります。境界線を隔てただけで無慈悲にも敵となってしまいます。他国の人命は消し去るべき”敵”となります。戦争が終結するには徹底的に痛めつけられ、戦意喪失するまでにならないと終わることがないようです。

 

 戦国時代であっても、自国民の安全と生活の安定が一番であるべきです。自国民を守る最低限の軍備に満足すべきであり、強大な軍備を持たないことが人民のためになるとの進言かもしれません。強大な軍備は禍を招くことになります。

 戦争は理性というブレーキが効かず、人間の欲望をさらけ出してしまうのでしょうか。動物は必要以上の狩はしません。人は必要以上に虐げます。これほどまでに残虐なことが平気でできるとは驚くべきことですが・・・・。戦国時代を目の当たりにしていた人は、辟易していたかもしれません。軍隊は有益ではなく、度を超すと害をもたらす組織だと肌で感じていたかもしれません。

 

 当時は、神と通じることができるのは特別な人(=神官・道師・司祭・・)であり王だけが願い事ができたのでしょうか。一般庶民が願い事をするなど許されません。神とのパイプは一本だけで、他の者が神とのパイプを持つことは王を侮辱することになります。高貴でない者の願い事など聞く耳をもたない神であると考えられたのでしょうか。時を経てることで神が変わったのか神がこうあってほしいと人間の考えが変わったのか定かではありません。社会制度の変遷によって、庶民の願い事を聞いてくれる寛容な神へと次第に変容したのでしょうか。

 

 争いは絶えることがありません。イデオロギー・宗教・信念・個人的な固定観念・好き嫌い・主義主張・社会制度への反発・上司と部下・先輩後輩・同僚・道路での優先・スピード競争・乗車マナー・接客・医療での患者と医療従事者・近隣住人・納税者と公務員・・・・。自身の思いと他との思いが食い違いどちらかが自らを正当化して譲らないことで争いとなります。自らも現状(=あるがまま)を是としない限り葛藤がおさまることはありません。

 世界中の至るところで争いが繰り広げられています。争いのない場所や時間を探し出すほうが不可能なくらいです。せめて”あるがまま”にケチをつけて争いうことのないようにしたいものです。自身の内で争わない状態(=涅槃)を実現したいものです。

 自らの内に争いごとがある人がどうして国内の争いごとを鎮めることができるでしょうか。何千年を経てもヒトの性根が根本的に変わることはないようです。教育環境や社会環境や生活環境・・・等が改善されても問題が尽きることはありません。問題解決能力を鍛えたりAIを使ったとしても問題が無くなるわけではありません。問題とする本体(=自我・〜でありたい)が不在であると見抜くことで問題とする意味を考えてみるのもいいかもしれません。

 何もしていない時(=坐禅)に、本当に何もしていない(=思いを相手にしない)ことを体験してみる。

 

・自己正当化が葛藤を作り、自らも他を苦しめている。

・”あるがまま”に対して”こうあるべきだ・なんとかしよう”として放っておけない。

・勝手に沸き起こっている思いを取り扱い続けている。思いは自分のものでしょうか。

・結果はそうならざる事をしてついてくることです。

・自尊心(=プライド)を持ち驕り高ぶれば、自らが苦しみ他を苦しめることになります。功績など忘れて日々淡々と過ごしている方がいいかもしれません。

 

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老子−29 [老子]

將欲取天下而爲之、吾見其不得已。天下神器、不可爲也、不可執也。爲者敗之、執者失之。凡物或行或随、或歔或吹、或強或羸、或培或隳。是以聖人去甚、去奢、去泰。

 

將:まったく

已:やむ、やめる

爲:作為的になす

執:執り行う

歔:すすり泣く

羸:つかれる。よわる。

培:養い育てる。

隳:壊す。やぶる。崩す。

 

 天下(=国)を我がものとして好き勝手にしようとしますが、そんなことはできないし不可能です。天下(=国)は神器であって、人が作為でコントロールできるようなものではないし、執り扱うようなものでもない。人為的に天下(=国)をコントロールしようとすれば禍を受けて失敗することになり、我がものとして執り行えば天下(=国)を失うことになる。

 物事の性質として誰かが行う(=天下を取れば)と真似をする人(=天下を取りたくなる人)が出てくる、一方が穏やかにしていても他方は激しくする、一方は強壮であるが他方はおとなしい、一方は育てるが他方は破壊する。

だからこそ「道」に従う聖人は極端な行いを避け、奢りを避け、極端な安らぎ避けなければならない。

 

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 世の中、思っていることが叶ったら大変なことになります。「私=自我・社会的な自己」が「本当の私」であったら大変なことになります。「私=自我・社会的な自己」が思ったことを実行したり、思ったことに身体が従ったらどうなるでしょうか。小さい頃に親から叱られて、”もういいや・こんな家出ていこう・・・”という思いを実行したら今ここに生きているでしょうか。気に入らない事や気にいらない人に苛立って、その苛立ちが現実になったら誰もが生存できていないかもしれません。血圧を勝手に思い通りにしたり、血流を変えたり心臓を止めたり思いのとおりにできないのでこうして生きていられるかもしれません。

 思いのとおりにするのは映画の中のキャラクター”スーパーマン・悪魔・神・・”だけであって、何を思うかもわからないのに、あるときは”悪魔”になりある時は”神”になったり世の中はメチャクチャになってしまいます。誰もが自身の思いのとおりにならないからこそ、他人を傷つけることも稀で他人から傷つけられることも稀に済んでいるかもしれません。「私=自我・社会的な自己」が「本当の私」でないから救われています。ごく稀にヒトラーのように権力を得て思いのとおりにしようとして他の人を巻き込んでしまうことがあります。愛国主義を唱えるということは他を避難するために作られた子供じみた思考かもしれません。

 国も家も私も神器であり、私物化して思いの通りにはできないので救われています。私達は、とにかく何かを掴んでいたい生き物かもしれません。それは何も掴むことができないからこそ沸き起ってくるようです。掴まれる実体もないし掴む実体もないという証拠かもしれません。部分は全体に付き従って動いていますが、部分の視点では全体の中で自(=部分)らが意志を持って動いていると感じています。因果というものも、これが結果だと断定することで原因を探して特定しているだけのことです。ただ起っては消滅しているだけで無理に原因をこじつけているだけかもしれません。あるがままに善悪をつけさえしなければただ”あるがまま”でしかないので原因をどうのこうの詮索する必要がありません。

 

 歴史上多くの為政者(=俯瞰して見ればちっぽけな人間)が身の丈を超えた制服欲に振り回されてきました。未だに制服欲を丸出しにしている国もあります。神器である天下(=国)を牛耳りたい、思いのままにしたいのでしょうか。戦争になれば誰が苦しみ国がどうなるか、何度も何度も歴史で証明されているはずなのですが・・・。

 

 掴むということを考察してみます。冷静に自己の手を観察してみます。手が塞がるのは何かしているときであり、それ以外はほとんど”空手”です。もし”空手”でなければ物を掴んで持ち上げることはできません。当たり前のことですが、何かを掴めるということは握っていないということです。握っていない状態であるので何かを掴めます。手には何もないということです。コップも空であるから飲み物を注ぎ飲むために使えます。空っぽだからこそ使えます。私達がいつも水が入ったままのコップのように思いが詰まっていたらどうでしょう。他のことを味わえなくなってしまいます。常に消え去って空っぽだから見えたり聞こえたり味わえたりできます。匂いが消えなかったり、味がいつまでも残っていたら大変なことです。滅によって一期一会を楽しむことができます。思いに執着せず手放せれば憂いは減っていくかもしれません。

 

 戦国時代の武将は、武将の家柄か戦績を認められた成り上がり者かのどちらかなのでしょうか。側近には戦略・戦術にたけた智将もいたかもしれません。成り上がり者であれば、家来に見下されたかもしれません。成り上がりの武将は自らの力だけが頼りです。とりあえず力に従うものを従える他ありません。力でしかコントロールする術がなければ”暴君”とならざるを得ないのでしょうか。暴君であれば、家臣に疎まれ常に命を狙われていたかもしれません。

 信じられるものは忠臣であり、忠臣を重用することになります。暴君は相当なストレスを抱え混み、治世より保身に明け暮れたかもしれません。軍に見透かされないように軍の士気を維持し続けなければなりません。戦わない軍備はタダ飯ぐらいの”無用の長物”となります。必然的に勢力を拡大していくしかありません。結局は無理な勢力拡大を行い、無謀な戦いになり自滅していくことになるようです。国土は荒れて多くの人が犠牲になります。

 取り巻きが適材適所で働き、地方の武将が将軍を引き立ててくれれば長期政権も可能かもしれません。しかし、誰にでも死が訪れすべてを奪い去ってしまいます。どんなに気をつけても自然の掟(=死)に逆らうことはできません。”おごれる人も久しからず、 ただ春の夜の夢のごとし”です。

 

 無私無欲で寝食を忘れ自己犠牲を払って国のために働くような人は多くはいません。兵士が戦うために農民から食料を上納させ、戦地で戦利品の略奪を繰り返します。ある国の博物館には略奪品が多く飾ってあります。略奪品を誇るようなことをしたのか甚だ疑問を感じる人もいるようです。

 

 ある人が天下(=国)を取ったと聞けば、他の武将はいても立ってもいられず同じように戦争を仕掛けます。穏やかにしていれば、他の武将は戦争の準備に勤しみます。農地を耕せば、他の武将が乗り込んで奪おうとします。

 極端な行いは敵に知られ、栄華を誇ればすきができます、のほほんとしていれば攻め入られてしまいます。老子さんは、目立つようなことはせずにいなさいと忠告したのでしょうか。

 

 世界中から戦争ごっこが終わり、平和のもとで暮らしてもらいたいのですが・・。

 中国での戦国時代では、識字のできない人に教えるよりも君主に無為自然や徳を促す方が効果的だったかもしれません。人間の制服欲が消える日は訪れるのでしょうか。

 

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老子−28 [老子]

知其雄、守其雌、爲天下谿。爲天下谿、常徳不離、復歸於嬰兒。知其白、守其黒、爲天下式。爲天下式、常徳不忒、復歸於無極。知其榮、守其辱、爲天下谷。爲天下谷、常徳乃足、復歸於樸。樸散、則爲器。聖人用之、則爲官長。故大制不割。

 

知:物事の本質を知る

守:否定せずにとどまる

谿:細くて狭い山あいの谷

嬰兒:赤子

式:手本、模範

忒:疑う

樸:自然のまま、あるがまま

 

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雄の本質を理解し、雌の本質を否定せずに保持していれば、あらゆるモノが流れ込む谷のようである。あらゆるモノが流れ込む谷というのは、その人から「徳」は離れることはありません。赤子のような純真無垢へと回帰する。白の本質を理解し、黒の本質を否定せずに保持していれば、天下の模範となる。天下の模範であれば、疑うことのない「徳」が身につき、無分別へと回帰する。繁栄の本質を理解し、屈辱の本質を否定せずに保持していれば、あらゆる事を受け容れる大きな谷となることができる。あらゆる事を受け容れる大きな谷であれば、「徳」に満ち足りて自然の状態へ回帰する。無為自然の人が国中に散らばり、様々な役割を担う人材となり活躍する。

聖人が無為自然の人を登用すれば、それぞれの役割を担う指導者となる。

統治を大成するには選り好みで選ばずに、「徳」のある人を配置することである。

 

<他の翻訳例>

雄鶏のような力強さを知り、雌鶏のような柔らかさを守り、天下に時を告げる鶏となる。

天下に時を告げる鶏となり、自分の本質から常に離れない。

自分の本質から常に離れず、赤ん坊のような柔らかさを回復する。

潔白な人々のあり方を知り、汚辱にまみれた人々のあり方をも受け止めれば、

天下の人々の思いの流れ込む谷となる。

天下の谷となり、その本質が充足する。

その本質が充足し、荒削りの木のような純朴さを回復する。

言葉で表しうる明白な議論を理解した上で、

言葉では表し得ない神秘を守れば、天下の模範となる。

本質は常に歪まず、極まることのない境地を回復する。

荒削りの木を、分割してバラバラにすれば、それぞれが小さな器となる。

果てしない潜在力を持つ人間の本性をそのまま活用せず、

都合に合わせて切り取れば、何かの役を果たす「人材」になる。

そういう人でも、聖人が用いれば、

官吏の長を勤めさせることくらいはできよう。

しかし、そもそも立派な制度のものであれば、荒削りの木を割くことがない。

つまり、ありのままの人間を活用して、役割に押し込めることなどない。

老子の教えあるがままに生きる  安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

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 生まれてきた生命体は「死」から逃れることはできません。自ずから制御できず必ず訪れる「死」という不安がつきまといます。生きている間も様々な困難辛苦があり不安と背中合わせで生きてかなくてはなりません。動物は進化の過程で身を護る術(=毒・派手な身なり・堅牢な外皮・・)と固有の繁殖方法で少しでも安全に生きられるように変化しながら命を繋いできています。動物界は弱肉強食の世界のままです。人間は言語を発明し、存在に意味や価値を定義したり現実に存在していなものを想像し伝達し同じ認識を抱くことができるところが大きな違いでしょうか。誰一人見たことのないただの概念である「神・魂・心」を想像し不安を解消しようと努めています。

 戦国時代にあって、人々は”不安”を抱えて日々の生活を送っていたのでしょうか。弱肉強食の「力」によって権力争いをしていたと想像できます。”不安”の解消には動乱が治まり安定した治世が必要だったかもしれません。リーダーの「徳」による治世となれば”不安”が和らげられると期待したのでしょうか。

 孔子も老子も「徳」による治世を望んでいたと思われれます。孔子は言葉で定義された”徳”を身につけた君主を望み、老子は言葉以前である二元対立以前(=思考以前)の「道Tao」を体得した君主を望んでいたのでしょうか。

 孔子の言う「徳=仁・義・礼・智・信」で治世するより無為自然を実践している「道Tao」の人こそ治世ができると説いているのでしょうか。

 

 孔子さん言葉の世界では言葉に翻弄され続けますよ。思考を超えた先に何かがあるのではありません。言葉以前(=嬰兒)、思考・分別以前(=無極)、誕生以前(=樸)を体得しなければ決めごとや策に溺れてしまうのではないですかと言っているのでしょうか。実際、我々は男でも女でもありません。世間で性別を教え込まれ、区別されるのが当然のことのように育てられてきたからからでしょうか。

 

 二元対立的に考えるのは、人間が存在を好き勝手に分離分割して区別差別してきたことによるかもしれません。二元対立的に分別する癖によって互いに対立する言葉があります。一方の本質を理解すれば他方は〜でないとすれば理解できます。雄の本質さえ理解すれば雌の本質は自明のことです。赤子にとっては雌雄などの区別なくあらゆるものを個(=自身)で受け入れなければなりません。よって”小さな谷”と比喩したかもしれません。赤子には私利私欲や私心がついていないので”徳”が備わっています。私心が芽生え、言葉を憶えることで区別差別するようになり観念で汚れていく事になります。

 

 次に、存在自体には善・悪も垢・浄もなく(=不垢不浄)レッテルも貼っていません。常に両極に揺れ動いていれば平静でいられません。また「清水に魚棲まず」とあるように、清濁・明暗・・のある世界に生きていながら一方を否定することなど意味のないことです。神の概念が通用するのは悪魔の存在によってです。犯罪者がいなければ正義など大威張りすることはできません。困苦を味わっている人がいなければ慈悲心ということすら存在しません。何度も書いていますが、”悪役”や”困難”のない映画など味気ないものかもしれません。TVスタジオで撮影されている、晴天続きのドラマは現実離れしていると思うのは当然ことです。現実は雨や嵐や雷や・・・日々状況が変化しています。日々同じ天候は人工的なものであって、自然のものではないく現実離れしています。変化に富み深みがあることで人生に味わいがあります。”苦”があってもいいし”病気・老化”があってもいい、予想だにしないことが起こっても”あるがままに受け入れ”ることでじっくりと味わってみるのもいいかもしれません。一見意味のないことや不必要なことや忌み嫌うことがあることで、人生が輝いていると知ることがあります。どんなに美味しい料理でも毎日同じでは飽きてしまいます。たまには苦味・渋味・辛味・・・色々の味があってもいいのではないでしょうか。

 

 最後に、瞬間瞬間を前後裁断してその瞬間だけを見聞覚知しているとしたら、その瞬間はただ結果としてあります。その結果である”あるがままの状態”を否定することはできません。否定すれば今の世界(=宇宙全体)を否定したことになります。宇宙が間違っているということは自身の存在も間違っていると言っているようなものです。結局は”あるがまま”を”あるがまま”に受け容れることしかできないということです。それが無為自然の状態かもしれません。計らいのない自然に即した生き方ができる人(=徳)が適材適所に配置できれば国は安泰かも知れません。治世者が言葉で徳を理解し、策略を練って生きている部下が人民の為に働くでしょうか。私利私欲のない真の「徳」を備えた人が望まれていたのは今も変わらないようです。

 

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老子−27 [老子]

善行無轍迹。善言無瑕?。善數不用籌策。善閉無關楗、而不可開。善結無繩約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。

 

善:正しい。すぐれた

轍:わだち、跡

迹:足跡

謫:あやまり

數:算術

籌:数を数える竹の棒
關楗:かんぬきを通す
襲明:大道を明らかにする

雖:ではあるが
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 うまく行う人は跡を残さない。雄弁には滞りはない。すばやく計算できる人は道具を使わない。閂をとおさなくてもしっかりと門を閉めることができる。しかも簡単には開けられない。縄を使わなくてもしっかりと結合することができる。しかも簡単には解けない。このように痕跡もみせず道具も使わない聖人であればこそ、人を救えるし、人は見捨てられない。物をうまく使えれば、捨てることなど無い。このことを「大道を明らかにする」という。故に善人は、不善人の師である。不善人は、善人のたすけとなる。善人を師と貴ばず、不善の者を己のたすけとして愛さないのなら、智慧があったとしても迷ったままである。これを「奥深い真理」と言う。

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 この章で使われている”善”は道理に従って熟達していることを言っているのであって、”善悪”の概念の”善”ではないようです。”善人”も「道Tao」にそった生き方をしている人を念頭にしているのでしょうか。また、万物斉同の視点と無為自然な生活を実践している人のことかもしれません。

 

<うまく行う人は跡を残さない>

 武道の達人となるとどこから手が出るかもわからないし、とらえたと思ったら逃げられています。バレーダンサーは重力がないかのように跳ぶことができます。包丁さばきの達人はどうやって包丁を動かしているのかわからないくらい見事にさばきます。狩りをしている動物も動作を気づかれないように近づきます。

 達人はいつどのように仕上げたかもわからず、痕跡を残さずにやり遂げています。中途半端(=道の途中)な人は、名を残そうとか目立つために”らしさ”を見せびらかすようです。いかにも芸術家・音楽家・舞踊家・・・の外見をしています。(能ある鷹は爪を隠す)

 新潟県で”国際ロマンス詐欺”が新聞の三面記事として掲載されました。カメルーン人の男性が米国人の軍人の写真で信じ込ませたようです。いわゆるなりすましです。かなり昔ですが、軍服やパイロットの制服で詐欺行為をしていた人もいます。私たちはSNSで姿のない人の言っていることを簡単に信じたりしているかもしれません。ここで書かれていることも安易に信じないようにお願いします。

<雄弁には滞りはない>

 山岡鉄舟が三遊亭円朝に「舌ではなく心で語らなければ噺は死ぬと説いた」ことで気づきがあり「無舌居士」の号を得たとの逸話もあります。

<すばやく計算できる人は道具を使わない>

 「名人伝(青空文庫)」で弓を使わずに射ることができ、最後には弓の使い方も弓という言葉さえ忘れてしまった人の話です。画家は筆を隠し、音楽家は弦を切ってしまったという。算盤の達人は算盤を使わなくても計算ができます。自転車を乗りこなしていくうちに、ハンドルもブレーキがない一輪車を操ることができます。その道に通じた人は道具を選ばずに道具を使いこなします。「人馬一体」

 ピアノでも習い始めから「打つ→叩く→弾く→奏でる」というふうに、道具と人間との接点がほんの僅かでも使いこなすようになります。何の力みもなく淀みもなくサラサラと流れるように・・。

 初心者の頃は道具と「私」が分離していて、何とか思い通りにしたい「私」が道具に手懐けようと一生懸命です。次第に道具の特性を理解して確認しながら道具を使うようになります。道具が自身の手足の延長のようになっていきます。次に「私」が消えて一体となれば達人の域(=ゾーン)に入るのでしょうか。

 何かをしている人もいないし、使われている道具もない。ただ音が鳴り響いていたり、ピンポン玉が勝手に弾かれていたり、文字が書かれていたり絵が描かれていたり歌声が響いていたりしています・・。

 噺す人もいないし聞く人もいない、ただ”笑い声”だけがある。動いている選手もいないし見ている人もいない、ただ”大きな歓声”だけがある。選手も「私」が動いていると思っていないし、観客も「私」が観ていると思っていない。選手はただ動き、観客はただ観えていた。ただ自然に歓声が渦巻いている。その”大歓声”があるだけで、「私」を意識すること無くノーサイドとなる。だれもが”無我無心”になりきっていたということかもしれません。

 

 思考によって”無我無心”がもたらされているのでしょうか。それともだれもが既に”無我無心”であるのに気づいていないのでしょうか。もしかしたら、思考を無闇に回すゲームに夢中になりすぎて見抜けないのかもしれません。そう、私たちはすでに「それ」なのに、直視できるわけのない自身の「顔」を見ようと頑張っているだけなのかもしれません。思索した先に何かにたどり着くのではなく、主客未分の直接経験が「それ」であり”青い鳥”は遠くのどこかにいるわけではないようです。

 不思議なままでいいのに、不思議を知ろうとします。不思議の表面上のことが分かったとしても、コントロールすることも本質を変えることもできません。花の開花の仕組みを知っても条件を整えることしかできません。不思議を不思議のままに味わいたものです。甘いものを食べて何故甘いかを知っても、口の中で苦くすることはできません。不思議なまま甘いまま味わえばいいだけではないでしょうか・・・。

<閂をとおさなくてもしっかりと門を閉めることができる>

 塀で囲まれて外から見えない住宅より人目につく住宅の方が泥棒から敬遠されるようです。老子の生きていた時代は閉めるというより開けさせない、結ぶというよりは取られないようにしていたかもしれません。目先を変えて観音開きから引き戸にするとか、結ぶのではなくはめ込み式にするとか様々な工夫ができます。閂や縄を使わなければならないというのは固定観念でしかないということかもしれません。平行動作から垂直動作へ垂直動作から回転動作へと展開していけばアイデアも尽きないかも知れません。

 

 私たちは事象を二元対立(=白黒等)で見る癖がついていますが、玉石混交でありファジーで不確かなのが現実の姿かも知れません。甘い食べ物に塩を入れたり苦味を入れると奥深い味となったり、香水の中にトイレ臭を混ぜると奥深くなりいい香りが引き立ったりするようです。オーケストラに管楽器・木管楽器・金管楽器・弦楽器・打楽器・鍵盤楽器・和楽器・・・様々な音域と音色があり混ざり合うことで迫力のある音として感じられるようです。

 芝居でも脇役が重要なスパイスとなったりします。ボクシングでも捨てパンチが重要であったりするそうです。最高のものだけでは最高を表現できず、無駄なものやとるに足らないものや反対のモノも必要かも知れません。

 

 ビジネスチャンスとは楽をしたい面倒を減らしたい困り事を少なくしたい時間を無駄にしたくない楽に移動したい重いものを持ちたくない快適でいたい、苦労したくない難儀をしたくない・・・。とにかく楽できるモノやサービスを希求しているように感じられます。そんなにも苦と感じて生きているのでしょうか。現代版の不善人は楽をしたい人で、善人はモノやサービスを提供する人のことでしょうか。そうではなく、道の人が善であり道を志さなければ不善と決めつけているのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー26 [老子]

重爲輕根、靜爲躁君。是以君子、終日行、不離輜重。雖有榮觀、燕處超然。奈何萬乘之主、而以身輕天下。輕則失本、躁則失君。

 

躁:動き回る

輜重:軍需品の総称
雖:いえども

榮觀:遊び楽しむ場所

燕:くつろぐ
奈:どうして
万乗:一万の兵車

 

重いということによって軽いということが明白になる、静かでいられるかどうかによって軽薄であるかどうかが明白になります。だから、君主は一日を過ごしていても、彼の後ろ盾となる(=落ち着いていられる)ところから離れることはない。
君主が楽しむ場所で寛いでいたとしても、我を忘れずに静かにして心が動じることはない。
一万の兵車を操る君主であったとしても、天下(=人民)を軽んじることはできません。
慎重さを欠けば天下を失う。自身も浮ついて軽薄であれば君主の座を失うことになります。

 

****

<他の翻訳例>

重いものと、軽いものとを繋ぐと、

重いものが下に来て、両者の根となる。

静かにしている者と、騒がしい者とが共にいると、

静かなものが根となって、騒がしい者の君主となる。

 

大軍をひきいる君主は、

終日旅をしてもその輜重を離れるわけにはいかず、

また取り巻きの者がいつも側にいるが、

それでも、神経を尖らせて、騒いだりせず、

私的空間にくつろげば、すぐに安らかになることができる。

 

何万という戦車をひきいる国の王であるというのに、

天下において身を軽くできようか。

軽ければ根本たりえず、躁であれば君位を失う。

老子の教えあるがままに生きる  安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

****

 老子の生きていた時代の君主は贅沢・軽薄・傲慢のままに好き勝手にやりたい放題だったかもしれません。君主が人格的に優れ人望があれば君主論のような書は必要ありません。今の時代のように企業が大衆へのサービス・娯楽・生活用品等の販売によって収益を上げるという社会システムではありません。物々交換や略奪や人民を武力で守るという代わりに食糧を献上させるということだったかも知れません。力(=武力)によって支配していた。

 人民は操り人形のようであり、君主の命令に従わざるを得ない状況であったことが想像されます。現在のテクノロジーでいとも簡単に、誰かの”つぶやき”がまたたく間に数百万人に伝わることはありません。識字もできない人民に思想を流布するよりも、君主を教化して人民を総取りしたほうが効率的であると考えるのは当然のことです。自らの思想を広めるには、君主にご機嫌をとって重用されるのが一番の近道です。

 

 本来、美醜・長短・善悪・軽重・優劣・是非・・・という対立的なことは人為的に作り出したものかもしれません。比較するものがなければ”あるがまま””そのまま”でしかありません。”美”と感じるのは単に避けるべき違和感を感じずに魅せられるか飽きのないありふれたものに感じる感覚かもしれません。個性的ではなく色々の角度から見れば、色々な見え方ができるだけかもしれません。

 軽いものがあるのではなく、そのものが”そのまま”にあるだけなのに比較対象や基準となるモノがないと真の”そのもの”を確認できないのが脳の癖としてあるかもしれません。動物としての本能である闘争反応・逃走反応(fight-or-flight response)があります。得るべきか避けるべきかを判断しなければならないと思い込んでいます。「私=自我=裁判官」が色々と注文をつけているのではないでしょうか。

 どうしても判断基準となるものが必要とされます。軽いと分かるには基準となるある程度の質量があるものと比較されなければなりません。落ち着きがあり信頼される君主であるかどうかは、静かな佇まいで分かりますよとでも言いたいのでしょうか。

 当時の君主の身の置きどころと言えば、城門から遥か離れ護衛に守られ宝物を背にしていたのでしょうか。現代の一家の主も書斎に籠もったり趣味に熱中したり落ち着ける場所に居たいようです。

 

 君主の怖れることは、自身の軽薄さが人民の噂話によって広がって嘲笑されて信頼を失うことことかもしれません。現代のリーダーも失政によって嘲笑されるようでは政権も長続きすることは難しいようです。

 

 当時の君主は、国を我がモノとして君主に従うことが即ち国の為になる。国の繁栄が人民の繁栄につながる。よって、人民は国の為に命を賭けて戦うのが当然という単純な思考回路なのでしょうか。戦いによって命を失ったり、生活基盤に打撃を受けるのは人民です。実害に苦しんで嘆き悲しむのは人民です。蓄えもないしその日暮らしの人民を軽視していながら、都合の良いときだけ国の為(=人民の為)としているのには矛盾があります。

 宇宙船地球号の中で、覇権争いに何の意味があるのか。いつまで強国としてぶんどり合戦をしていたいのかサッパリ理解できない人も多いのではないでしょうか。土地ならまだしも、海や空や宇宙空間の境界を争っている場合なのか。ありもしない境界を奪い合っている愚かな行為で国の根幹となる人民の生活をないがしろにしてはいないでしょうか。

 

 当時の思想家で戦争の無意味さを説くという発想は無理なことだったのでしょうか。それとも君主に無分別の無為自然という生き方によって理想世界を構築してほしかったのでしょうか。日々の生活に振り回されること無く、自らを見つめることができる時間的余裕があれば内観することを期待していたのでしょうか。

君主よ、私利私欲から無私無欲へ混乱から平静へと変化して国のリーダーと成って欲しいと切実に願っていたかも知れません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−25 [老子]

有物混成、先天地生。寂兮寞兮、獨立不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名、字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一。人法地、地法天、天法道、道法自然。

 

寂:静か
寞:ひっそり
殆:あやうい
逝:いく
反:還ってくる

 

 混成一体なる存在があり、この厳然たる存在は天地と識別(=命名された概念)される前からある存在そのものの有り様です。識別名がなく意味のある音がない世界があり、自らは識別名を変えることはできない。存在は無限に広がり存在がなくなるということはない。

 それ(=存在)は「命名」によって万物の母(=有)となる。識別される以前(=ただ認識され見えている世界)を何と呼べばいいのか分らない(=呼び名などない)、識別される以前(=ただ認識され見えている世界)を「道Tao」と名づけてみたい。あえて名をつけるなら「大」という名になる。「大」はどこまでもあり、はるか遠くまであり、遠くまで行き還ってくる。「道」は「大」であり、「天」も「大」であり、「地」も「大」であり、「王」もまた「大」である。

 この世では四つ(=道・天・地・王)の「大」があり、「王」は四つの「大」の一つとしてある。人は地に従い、地は天に従い、天は「道」に従い、「道」は自然に従っている。

-----

 本来の世界は分別されていない一体である。様々なモノ(=四大)が混じり合って混成された”一”なるものです。誰か(=王)の命名によって全体から分離され、個別の存在として識別(=認識ではありません)されたものが点在している世界として識別されます。木々の葉は色を染めようとして染めているわけではありません。自然にそうなっているだけであって、人間が勝手に「紅葉」と名づけて「紅葉」と識別しているだけです。

 風景写真に映っている何かを識別(=別々の存在としする)し、識別対象を指で触れたとしても指は平面の印画紙そのもの(=風景全体)に触れています。私たちに見えている世界は一枚の印画紙全体(=3次元に見えている)であって、その全体から一部を識別するようになっています。もし識別したモノに触れたとしても、個別のモノに触れたのではなく全体に触れているということです。その触れたモノは便宜上全体から選び取られた、分離した何かとして扱っているという思い込みが出来上がっています。どこに触れても何に触れても全体だということ。例えば地震が起こったとして、家の中の家具やら置物やら衣服などが同時に揺れます。個々にあるようですが一体であり、繋がっているということです。分離した何かという観念(=思い込み)で扱うという癖がついているのではないでしょうか。台風が来ても自分の家だけが風から逃れることもできません。太陽の光は地表全体を照らし個別のモノだけが照らされることはありません。万物は区別・差別なく一様に照らされます。命名されたがゆえに個別のモノとしています。脳は習慣に従って自動的に識別しているだけで、どのように見えてどのように識別しようが全てが繋がっているというのが真の姿かもしれません。

 

 ただ”一”なる世界は、誰か(=当時の王)によって上方を”天”と命名され、立っている所を”地”と命名され”天地”となりました。世界は、過去でも今でも未来でも”一体”なる存在です。あらゆる色や形によって、人間の都合で分離して逐一命名します。その結果"一"なる世界は、個別の命名されたモノの集合体という”森羅万象”とされてしまいました。

 分離したモノの集合であるという世界観を親や教師が知識として子供に伝えています。子供は全体から分離した自分という存在となり、見る主体を確立していきます。見えるものは対象(=客体)となってしまいます。何も疑うことなどありません。個別のモノとして見て扱うようになります。良いとか悪いとかではなく、ただの思い込みが習慣となり、習慣が当然となっただけのことです。分離して見えているのですが本当は錯覚しているだけのことかもしれません。

 存在の一々が命名されなければ、全体があるだけです。ある物を見ても識別名が無いとするなら、頭の中で音として想起しない。物が見えたとしてもただ見えただけです。識別名がなければ、頭の中のお喋りはなく静かなものです。物自体が物の名前を変えることはありえません(獨立不改)。ただ命名によって万物の一つとして追加されていくだけです。万物は命名によって限りなく増えていきます。言葉の数だけ万物があります。赤ちゃんの頃は”ママ”という言葉と母親の顔がリンクして識別されます。赤ちゃんの中では、全体から「母親」だけ分離し、万物の始まりが母かもしれません。

 存在を存在としてあらしめているものは一体何なのか、存在として認識する以前は全体としてあるだけで全体を名づけることはできません。とりあえず名称のない全体を「道Tao」と名づけたのでしょうか。

 宇宙がどうしてできたとか、地球に生命が誕生したのは何故かとか、宇宙は有限か無限かとか。仏教では「無記」とか「毒矢の喩え」で問う必要性の無意味さを指摘しています。折角の人生、限られた時間をどう使うかは個人に委ねられています。今救われていると見抜けなければ、自らを灯明として救われ(=束縛から自由となる)ている自身を発見するしかありません。

 

 不安の元凶は”知らない”・”分らない”・”対処できない”・”解決できない”ということを問題としている自身そのものかもしれません。問題は個々人の問題であって問題の作りても個々人です。自身の思考や誰かの思想や誰かのアドバイスで解決できるのであれば問題とはなりませんが・・・・。

 どんなに社会が進歩しようが、知識が増えようが哲学的に思考しようが個人的な問題は個人でしか解決できていないようです。門より入るもの是れ家珍にあらず

 社会的な問題は科学知識や政治や思考力を駆使すれば何とか解決できるかもしれません。終末時計を見ると人間の欲望を抑えることは難しいようです。

 個人の集合が社会であり、各個人が問題を抱えたままに集まっても全体は混乱したままです。

 老子の思想が、現代の我々の個人的な問題を根本的に解決するわけではありません。過去の人がどのように自然と対峙し、どのように世界を見て生きていたかを想像できる資料とはなります。まったく別の世界を生きている人が二千数百年前に記述されたことを参考にして、個人の問題を解決することには無理があるようです。全体的なモノの捉え方として学ぶことはありますが・・・。

 

 私たちが二千数百年後のブラジル人に日本での生活を伝えようと文章をしたためるでしょうか。また、二千数百年後の人が二千数百年前の人の世界観や世界経済や望まれる政治家像の記述を読んで、自身の生き方に役立てようとしているのを見たとしたらどうでしょう。喜ぶどころか進歩していない人たちを見てかえって嘆くかも知れません。

 

 知的好奇心を満たすことは、”分かること”で不安が払拭されるとの思いかもしれません。宇宙の成り立ちが解明されたとして、解明した数式を見ることで個人的な問題が解決するわけではありません。数式から食べ物が作られることもありません。個人的の問題を解決することと、知的好奇心を満たすことに関連はなさそうです。

 自身の外の世界を全て知り尽くし、それが知識となったとしても世界が無常であることに変わりありません。既知とされていることは既に消え去った過去のことであり、これからのことは誰にもわりません。未知が永遠くので知識がどんなにあったとしてもどこまでいっても未知に遭遇していくだけで、解決される未来はありません。知りえない未来(=未知)と対峙するしかない今の連続があるだけです。確かな事実は”今ここ”ですがそれも生滅していて有るとも無いとも言えない無常です。
 宇宙はこの瞬間にも滅しています。1秒前の宇宙はあとかたもなく消え去っています。1秒前と全く同じ宇宙を出現させることはできません。飛び交っている素粒子を元に戻すことなどできません。

 

 私たちが見たり聞いたり・・言葉で識別(=認識ではありません)している世界から文字という”形”と、言葉という”音”がある以前のただの認識(=あるがまま)だけの世界。ただ見えたまま聞こえたまま味わったまま・・言葉を使って解釈(=識別)以前の状態では、頭の中は空っぽのままです。

 計らいの及ばない本来の姿(=無為)があり、その無為の世界が「道Tao」であり「道Tao」は宇宙の働きそのもの(=自然)に従っている。無為自然とは本来の働き(=宇宙の働き)と一体となっていて「私=社会的自己・自我」が出る(=有為)以前のことを言っているのでしょうか。

 

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老子ー24 [老子]

跂者不立、跨者不行。自見者不明、自是者不彰。自伐者無功、自矜者不長。其於道也、曰餘食贅行。物或惡之。故有道者不處。

 

跂者:つま先で立つ人

跨者:大股で歩く人

自伐者:自慢する人、格好つける人

自矜者:自負する人、自分を誇りに思う人、プライドの高い人
贅行:無駄な行為。
------
つま先で立っても、いつまでも立っていられない。
大股で歩いても、いつまでも歩いていられない。
自分の目で見たと言っても明らかではありません。

自分が正しいと言っても讃えられることではありません。

自慢するような人は功績に値しません。
プライドの高い人は長続きはしません。

「道」の立場からすると、不自然なことや自分を主張するということは捨てられる食べ物のようであり無駄な行いです。

一切の生き物は無駄なことや無益なことはしません。

「道」に沿った生き方をしている人はそんなところで留まることはない。

******

<他の翻訳例>

無理をして、つま先立つ者は、立っていられない。

無理をして、自分を見せようとする者は、称賛されない。

無理をして、自分で見ようとする者には、事態は明らかにならない。

自分でやったことを、自慢する者に、功績は挙げられない。

高慢な者は、人の上に立つことはできない。

道の観点からすれば、そういう行いを、

『食後のごちそう、余計なお世話』という。

人々はそんなものは好まないものであり、

本当に欲がある者は、そんなことを欲したりはしない。

老子の教えあるがままに生きる  安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

******

 この章では「自」と「不」が対になって表現されていることにお気づきになられたと思います。自(=自己・自我・有為)を働かせることは無為自然ではなく、結局は上手くいかなくなるということを言いたいのでしょうか。自然の道理に逆らって不自然なことをすれば長続きすることができないということでしょうか。

 私たちの考えでは、一つの宇宙の中に様々な存在があり自分という存在が対峙しているということでしょうか。この身(=主体)に感覚器官が備わっていて、逐一感受して反応している。私たちの周りには、知られるべき無限の世界(=対象)が広がっていて、知るべき自身が対峙している。全てを知り尽くすことが使命のように思っている人もいます。周りにある存在を片っ端から何でもかんで知り尽くしたいという知的好奇心でいっぱいなのでしょうか。所詮は「管を以て天を窺がう」ようなことかもしれないのですが・・・・。

 

 私たちのやっていることは、物質を分析したり生成過程を研究したり歴史を遡ったり仮説を立てたり・・・思考することでなにもかもが解き明かされて解決するという思考回路が根強くあります。誰もが幸福を願っています。政治家や思想家や科学者は、社会の仕組みを見直したり新しい思想を提案し、便利で物質的・精神的に満たされる幸福な人生を思い描いているのでしょうか。それとも、自身の権勢欲や主義主張を認めてもらいたいとか知的欲求を満たすためだけに活動しているのでしょうか。木星の探査で知りうることが今生きている人にどう役立つかサッパリ分かりません。

 知的欲求の方向性としていは、外と内という両極端に分かれます。一方は無限に広がる宇宙であり、他方は微細な素粒子の解明という方向へ向かっているのでしょうか。

 極大も極小も無限へ向かいます。無限を手にすることができないので無に等しいということになります。地球上で生活していて空気を吸うことに気づかないくらいに無限に有れば無いも同然です。鳥にとって空は無限であり、魚にとって海は無限です。空も海水も無いに等しく生活しています。釣り上げられた魚は海水が無い状態にあって、初めて海水が有ると気づきます。さて、私たちは有であるのか無限であるのか・・・・。

 

 人間が動物と異なる点としては、物質を化合したり加工して新たな物を作り出すことができることかもしれません。保存・貯蔵することができる技術を手に入れたことで生産=消費(生産即消費)ではなく、タイムラグを生み出すことができたことが大きな違いかも知れません。動物は狩り=食糧=消費=生存があり、食糧を余すとか無駄にすることはしません。

 

 私たちは知らぬ間に地球という環境の中に置かれています。意志の力である程度の動作ができるだけですが言語を使って無限に思考ができます。それもただ自分だけの一身の内だけに起こっていることです。「他は是れ吾にあらず」であり、他人の心境がどいうもので同じものを見ても様々な視点で様々に分別しているはずです。個々人の視覚能力・聴力・味覚・触覚・嗅覚・思考力が異なっているとうのはごく自然なことで分別された結果も異なります。

 共通な部分があるとすれば、分別以前の見える・聞こえる・味わえる・匂う・感じる・思考するという勝手に起こっていることではないでしょうか。分別以前ですから好悪・善悪・美醜などがない「あるがまま」をそのままに感受しています。「純粋な知覚=本来の自己」が誰にも備わっているということです。

 刹那の瞬間に分別が起こってしまい、思考が使われています。事象を振り返った時には、事象は過ぎ去り消えています。既に思考という段階にあれば、事象と出会うことはできません。既に消え去った事象に対して、思考を使ってどうこうしようと頑張っても後の祭りです。「馬の前に荷馬車を付ける」ようなことをしているかもしれません。

 「私」という視点は消えることはありません。思考した後に必ず思考主体としての「私」を持ち出して説明しています。癖なのでどうにもなりません。「私」は触れることも見ることもできないただの観念(=思い込み)であり便利な言葉です。「私の思い」と言っている「私」はどこにいるのでしょうか、一体どうやって「私」を見たり触れたりできるでしょうか。客体化(=対象)としないで「私」を見ることが可能でしょうか。「私」は「私」を見れないし触れることもできません。触れられるということは既に対象であって「私」ではありません。ペンやスマホと同様に「私」が認識できれば別ですが・・・。

 この章で「自分」としているのも観念(=思い込み)で定義された「自分」であり、習慣的に使っているただの表象です。その表象にまとわりついているアイデンティティを自慢しても無駄だといっているのでしょうか。ワンちゃんも猫ちゃんもその時その時で生産と消費が行われ、食べ残しも無駄な行いもありません。将来を悩んだり死後を心配している動物がいるでしょうか。私たちは、思考力の副産物として余計な思い込みに振り回されているかもしれません。

 悩みもがいてもお腹は空くし、泣きっぱなしということもできません。勝手に思いは出てくるし、勝手に身体は動いています。”なんとかしよう”という思いを手放して「あるがまま」に徹底的に委ねてみるのもいいかもしれません。「私」で悩んでいるのも自作自演のジョークかもしれません。

 

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老子−23 [老子]

希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、同於道、徳者同於徳、失者同於失。同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。

 

希:まれ、かすか
飄風:暴風
驟雨:大雨、土砂降り

孰:だれか〜わからない

 

言葉が稀であるのが自然である。

暴風は朝まで吹き荒れることはなく、大雨が一日中降り続くことはない。天地において自然を操作している誰かがいるだろうか。天地で同じ自然現象が長く続くことはない。人間も同じ状態を長く続けられることが出来ないのは言うまでもない。(諸行無常)

 「道」のままに生きる人は「道」に従い、「徳」のままに生きる人は「徳」に従い、道も徳も関心のない人は関心のないままで生きる。

 「道」のままに生きれば、「道」を得て楽しむ。「徳」のままに生きれば、「徳」を得て楽しむ。道も徳も関心がなければ、関心のないままに楽しんで生きる。「道」も「徳」もなく言葉だけで仁義を説いている人たち(儒学者)は信頼されず、不信があるのみである。

------

希言自然”をどのように翻訳するかによって全文が全く違った解釈になります。

<翻訳書籍例>

◯いつもおしゃべりであることは自然に反する。「世界の名著 老子・荘子 中央公論社」

◯世界はあなたに、聞いても聞こえない言葉で語りかける。あなたは、その言葉を、受け取らねばならない。・・中略・・・

それを通じて届けられる、聞いても聞こえない言葉を、受け取らねばならないのだ。

老子の教えあるがままに生きる 安冨 歩 ディスカバー・トウェンティーワン」


 老子は2千数百年後の人を対象に書いたわけではありません。当時の識字能力のない人たちは読むことができません。当時の君主やある程度の教養のある人に向けて書かれたものではないでしょうか。

 2千数百年前に君主が持つべき資質を示し儒教の批判を記した書を、現代の一般庶民の我々に生きるヒントとして読ませるのはいかがなものかという意見もあるようです。

 般若心経も各自が思いのままに解釈しています。普段の生活の指針としたりとまさに「玉石混淆」です。必要として参考にしている人がいて、需要があるので何も問題はありませんが・・・。

 

 一切存在は名もない(=名は認識後に記憶と照合されて思い浮かぶ)ただの一切存在であって、五感によって勝手に感受(=認識・知覚)されるだけです。見ようとせずとも見え、聞こうとせずとも聞こえます。命名されていることで個別に識別(=認識とは異なります)され、分別される対象(=意味や価値があるもの)とされます。認識されるだけでは善悪などの分別の対象ではありません。識別作用以前では万物は区別・差別のない全体としてあるだけです。認識:五感での感受 識別:分別によって二元対立となる

 一切存在は反射・振動・波長・圧力・素粒子・・によって認識されます。存在は人間の都合のいい言葉(=地域によって多くの言語があります)によって、勝手に命名されているだけです。今この瞬間にもどこかで辞書にない言葉が生まれて(=命名されて)います。命名されることで意味や価値を付与されて、全体から分離した認識対象となります。人為で意味や価値をつけているだけで、一切存在の本質は区別・差別のない万物斉同であったはずです。

 「無為」は人為ではありません。人為で意味や価値を与え、人為で人をコントロールすることは「無為」と逆のことをしているかもしれません。

 

 人間は、感受した感覚から様々な思いが勝手に浮かんできます。(思いは自分ではありません)脳内で起こっていることは、様々なイメージが入り混じったあやふやな思いがただの形(=文字)とただの音(=言葉)へと変換されてしてしまいます。誰もが知らぬ間に、感覚・感情から概念(=言語)へと変換させる脳の癖がついてしまっています。

 「痛い」といっても無数の痛みの感覚があります。無数の痛みを単一の「痛い」として表現せざるをえないところに言葉の限外があります。脳が感覚・感情と言葉を常にリンクして処理する癖がついているので、言葉が感覚・感情と一体化してしまっています。

 言葉(=ただの音・振動・空気中を伝わる圧力)によって感情が揺さぶられ、大きなダメージとなることもあります。言葉から受ける苦しみによって自身の命を奪うこともあります。本来は言葉から感覚・感情そのものを体感することなどできないのですが・・・。

 一切存在は、動的でたえず変化して消え去っています(諸行無常)。無常なるモノを静的で固定された表象(=言語)で表現すること自体が不可能なことで間違っているのですが・・・・。

 

 例えば、動的な血流を静的な表象である「血流」という文字(=ただの形)で解るのでしょうか。「血流」と言われても現実に見ることもできないし体中の「血流」を感じることもできません。私たちが、「血流」という言葉から「血が流れている」という概念とイメージを思いう浮かべているだけであって、ただの思い込み(=概念)だということです。

 「血流」という言葉を聞いて、見ているような・感じているような気になっているということです。見てもいないし感じてもいないことを、あるかのような実在として捉えるてしまう妄想力が働いているということです。流れているということは、瞬間瞬間たえず変化して消滅していることです。

 今身体を巡っている動的な「血流」を「血流」という言葉(=概念・静的でたんに形と音)で捉えたり掴んだりすることはできません。身体の中を巡る血流を全て見ることなどできません。「血流」はただの概念であり、「血流」という実体などありません。血管の中に指を入れたとしても「血流」の一部であって「血流」そのものではありません。

 身体の中のほんの一部(=血管)に触れて「血流」としました。家族の一人に触れて長男としました。日本の一部に住んでいて◯◯県としました。地球の一部に居るとして日本としました。太陽系の一部として地球としています。地球は太陽系であり、日本は地球であり、◯◯県は日本であり、家族は◯◯県に住んでいて、長男は家族であり、長男は身体をもち、身体は血管をもっていて、血管には血流があります。

 血流は宇宙の一部ということであり、血流は宇宙そのものかもしれません。

 

 「川」「海」「雲」「鳥」「私」「薔薇」・・・・命名されたあらゆるモノは概念であって直接に掴んだり得たり捉えたりできません。「川」という名づけられた概念で「川」を見ています。本物の「川」は一瞬も同じではありません。常に変化してまったく同じ状況などありません。動的な水が流れている様があるだけです。

 一切存在から名を排除して、そのまま・素のままをただ見る。意味も価値もなく動的に変化しているもの(=宇宙そのもの)でしかありません。極端に言えば、「雲」を見ているのではなく宇宙の動きそのものを見ている。身体が動いているのではなく宇宙が動いているのかもしれません。

 

 「本来の自己=私」が「本来の自己=私」を知ることはできません。なぜなら「私」が知られる対象にならない限り「私」は知られないからです。残念ながら「私」は「私」として分離させて別の「私」を出現させて知られる対象となることはできません。どうして別の「私」が存在しうるのでしょうか。「私」は「私」というひとつであるから「私」と言えます。

 もし知られる対象としての「私」が存在しているとしたら、その「私」は概念であり幻想だということです。

 鏡の前に立っている「身体」を触れてみて下さい。この身体が「私」だとしている、その思いはただの概念でとらえているのが「私=自我」です。だれが鏡を見ている自分を直視しているというのでしょうか。”自分が鏡を見ているに違いないとしている”という思いが「私=自我」というただの思い込みです。鏡を見ている自分を直視できていないので経験上の思い込みで”鏡を見ている”と確信しているだけです。鏡の中の像が本当の自分です。不思議なことに鏡を見ている自分が本当の自分だと疑わないほどに、観念上の私を実在として扱っています。何らかの姿があり五感が働いていて「我=分別」を持っていない知ることのできない何か。実在として掴むことが出来ない働きとして在る、あり続けている、これからも・・・。生まれていないので死ぬことがない何か・・・。

 ”私が見ている”というのが概念です。「私」でもなんでもない五感の働きによって見えているだけということです。

 「川」の水に触れて流れの圧力や冷たさという感覚を感受(=認識・知覚)しているのが「それ=本来の自己」です。識別作用が働き「川」だと分別しているのが「私=自我」だということのようです。

 

 多言は不自然で信用できないということでしょうか。儒学者は多くの「言葉」を使って人間を律しようとしている。人間はこうすべき・こうあるべきと枠にはめて、不自然な生き方を強いていると言いたいのでしょうか。人為的で自然に逆らっているというこかもしれません。

 人間も自然の造形物のひとつの顕れでしかありません。自然をコントロールしている主催者のようなものはどこにも見当たりません。変化し続ける自然を「言語」という「形と音」だけの曖昧模糊な人為的なものでは表現できない。

 人間が動物と大きく異なっている点は、事実・現実とかけ離れた「虚構」や「物語」を作りだすことができるということでしょうか。事実・現実は一つしかないのに、ありもしない妄想の世界にエネルギーをつぎ込んでいるかもしれません。頭の中は、今ここにある一つの事実・現実から離れ、消え去った過去を思い出したり起こってもいない未来を心配していないでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−22 [老子]

曲則全、枉則直、窪則盈、敝則新。少則得、多則惑。是以聖人抱一、爲天下式。不自見故明、不自是故彰。不自伐故有功、不自矜故長。夫唯不爭、故天下莫能與之爭。古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而歸之。

 

曲:部分
則:なれば

枉:湾曲する、まげる
盈:みちる、あふれる

敝:やぶれる、ぼろぼろになる
彰:あきらか
伐:殺す、手柄
矜:つつしむ、うやまう、おごそか、たっとぶ、ほこる
莫:否定

豈:のぼる、願う、楽しむ、やわらぐ
歸:落ち着く

 

部分はすなわち全体である。
曲(線)はすなわち直(線)である。
窪みがあれば満ちるということがある。
朽ちるということは新しかったということである。
少ないと感じれば得ようとする。
多くなれば心が惑う。

故に聖者は「一」のままを抱いて、天下の規範となる。
自身をしめす必要がないので、却って明らかである。
自身を正しいとしないので、却って際立つ。
自身を誇らないので、却って功績を認められる。
自身を自画自賛しないので、却って尊敬される。

これらのことで、他者と争うことのない。
だからこそ、天下の人々は、この様な聖者と争うことはない。
昔から言われている「曲則全」、部分は全体であるという言葉は虚言ではない。
本当に部分である個人は全体に帰すのである。

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 現実・事実は一つであるのに、事象を固定観念によって分別して”なんとかしよう”と思い「苦」を作り出していないでしょうか。物事にはあらかじめ善悪のラベルが貼りついているわけではありません。”1”も”単位”も人間の作り出した勝手な概念であり実体のないただの表象・呼称でしかありません。”単位”はある定義定数から”単位”を作り国際単位として合意したものです。基準となるモノから計測機器が作られ”単位”とされているようです。

 1mは光と時間から算出されますが1mを捉えたり掴んだり見たりすることはできません。メートル・秒・キログラム・アンペア・ケルビン・カンデラ・パスカル・ジュール・・。パスカル(圧力)・ジュール(エネルギー・仕事・熱量)は一体どこにあるのか確かめることもできません。存在も知らずに生きています、これからも”単位”を聞くかも知れませんが、990hpaや100ジュールそのものを見ることはできないと思われます。計測機器で表示された数値は見ることはできますが、熱量そのものは見ることはできません。

 重いという感覚、暑い・寒いという感覚、スピード感、風を受けた感覚、明るさの感覚、距離の感覚・・・、感覚が先にあって単位を聞いてそのくらいだったと納得します。

 言葉だけで”風速30m/秒”と言われてもただの音であり実際には身体で感じることはできません。事実(=体験・体感)が先にあって後から単位(=”風速30m/秒”)を言われて納得しているのが現実です。

 

 私たちは単位など気にせずに生きています。必要な時に単位や数字の”1”を持ち出して使っているだけです。午後3時などどこにも存在していないし、970hpaがどこにあるかもわからずに生きています。歩いていて風速5m/秒を見たり掴んだり得たりすることはできません。

 私たち人間は、存在していないし見えもしないものを言葉をあてがって「虚構(=フィクション)」を作り続けています。「虚構(=フィクション)」を共有することで頭の中のことが優先されてしいます。頭の中の言葉を組み替えて文字にしたり図にしたりというアウトプットができて、実際に手を使って現実に作用することができます。

 困ったことに、教育によって思考する訓練を受けて文字で出された問題を解くことを学びます。また、意志を使って筋肉に働きかけることで些細な運動ができるという成功体験を積んでいます。思考が主であり、身体や意志が従であると自然に感じるようになっています。現実に対しても思考によって働きかければ現実を変容させることができると思うようになってしまったようです。

 意味や価値を勝手に思い描いて”願えばできる病・願えば叶う病=願うだけで現実が変わるという思い込み”と気づかずに思っているだけとなります。思っても身体が動かなければ現実は一つも変わりません。

 事実が常に先にあるということを忘れてしまい、”なんとかしよう”という思いだけに振り回されることになります。何でもかんでも思いだけで現実が変化したら大変なことです。「一念三千」であり、その一念をどうして「私」が介入して操作できるのでしょうか。視線を移すと勝手に見えたり聞こうとしなくても勝手に聞こえてくるように思い(=意・念)も勝手にわき起こってきます。眼・耳・舌・鼻・身・意は「私」無く(=無我)働いているだけです。瞼を閉じれば見えているものが立ち消え、ジッーと見入るとよく見えます。これと同じように「思い=思考」も取り扱わないと立ち消え、「思い=思考」を取り扱い続けると消えるどころかどんどん燃え盛ることになるようです。思いが出たら、思いが出たとして放っておけば消えるという経験を積むしかありません。

 何もせず(=思考にかまけず)に今の自分に参じる(独参)ことが近道かも知れません。見えていれば見えているまま、聞こえていれば聞こえているまま、思いが出れば出たままにして手をつけない取り扱わない次の思いが出るにまかせてみる。

 

 私たちは「私」を気にせず(=無心・無我)に生きているのですが、困らない自分であろうとするときに”なんとかしよう=我”という気持ちがわき起こり”願えばできる病・願えば叶う病”に振り回されてしまうようです。

 各人が勝手な単位(=アイデンティティ)で自らを測定して「私」はこれこれこういうものだという取り扱い説明書でなんとかしようとします。ただ”なんとかしよう”という思いが起こったとしてかまわなければ”なんとかしよう”は自然に消滅するだけなのですが・・・。”なんとかしよう”という意志があればなんとかしているはずですが、なんともできないで何もこもってはいません。いつまでも思いが続くので困っているということのようです。

 

 あらゆる事象を固定観念によって瞬時に二元対立として分別するので葛藤に振り回されてしまいます。身体も心も”1”や”単位”のようなものであり「私」としているただの概念で割りふっているようなものではないでしょうか。聖者は二元的な見方をせずに、部分と全体を比較してどうのこうの分別をしないということなのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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