SSブログ

生死一如 [気づき]

 多くの哲学者が「死」について考察し言葉を残しています。いくつか列挙させていただきます。

 

「死は、人間のもっているすべての恵みの中でも最高のものである」(ソクラテス)

 

  永遠に「生」が続くことが幸せでしょうか。老いることも病気もなく健康でエネルギッシュに生きているという夢のような楽園を思い描いているのでしょうか。何もかも思いの通りになるということは、思いの通りにされる対象があるということになります。自分の望みだけが叶う楽園であれば自分一人だけの楽園でなければなりません。楽園に多数の願いが同時に叶うのなら、どうしても優先順や優劣や格差が生じてしまいます。自由と平等が同時に成立するでしょうか。好き勝手ができて平等であるとうのは理想であって不可能なことです。
 表現できるということは二項対立があるからです。対立するモノによって表現が可能となっています。無人島で自分一人しかいなければ、善人も悪人も存在しません。どこにも光がなければ「暗黒」もありません。北極点に東西南北はありません。臭覚・味覚を失えば「美味しい」も「不味い」もありません。「上手な人」は比べられる「下手な人」のおかげで上手として評価されます。様々な形や色があるので美しい、様々な味があるので美味しいという感覚を得ることができます。様々な楽器によって異なる音色が混ざって素晴らしい音楽となります。
 「死」がどうして最高の恵みなのでしょうか。誰もが老いや病気や事故よって身体機能の働きが不全となれば自動的に「死」を迎えます。自然に逆らって「生き続ける」ことは恵みではないということです。
 

 

「死は、もろもろの災厄のなかでも最も恐ろしいものとされているが、実は、われわれにとっては何ものでもない。なぜなら、われわれが生きて存在している時には、死はわれわれのところには無いし、死が実際にわれわれのところにやってきた時には、われわれはもはや存在していないからである。」(エピクテトス)

 

 他人の「死」を目の当たりにすれば、どれほど苦しんだのかをわが身で想像してしまうので恐ろしくなります。
 生きている時は私たちに「死」はありません。私たちは「死ぬ」ということを体験することができません。他人が「死んだ」という事実を認識することができますが、自分が「死」を体験して蘇ることはできません。自らの「死」がどうであったか認識できる人は存在したためしはありません。誰一人として「死」を体験できないので、「死」は誰にもないということになります。例えば、「眠った」という感覚は目覚めている自分がいるからです。もし目覚めることがなければ、最後の「眠った」という感覚はありません。「眠った」と同じように「死んだ」ということも、「死」から蘇らなければありません。蘇ったら「死」ではありません。死んでいないで、仮死状態であったということになります。
『いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。』論語

 

「人間が死ぬのはいつも早すぎるか、遅すぎるかのどちらかである。しかし、一生はちゃんとケリがついてそこにある。」(ジャン=ポール・サルトル)

 

   生まれたばかりの赤ちゃん自身は他人の死を見ることが無く死を認識することもできません。赤ちゃん自身には「死」という概念はありません。眠っているのと死との区別がつくようになるのは、自身の身体の仕組みを理解できるようになる4歳以上のようです。身近な人の「死」によって、いつも会えていた人とお話ができなくなる。自身の生活の場から消えてしまったという認識が得られることができます。私たちが生きている世界では、物理法則(エントロピー増大)に反する例外は一つもありません。「死」は必然であって誰一人として「死」から逃れることはできません。

 

「全生涯は、まさに死に至ることと、その死を成就すること他ならず」(プラトン)

 

 ジャストのタイミングで「死」が訪れることはありません。もう少し生きてれば良いことがありそうだと思うし、こんなにつらく何もすることがなければ迎えにきてもらえばありがたいのに・・・。自分の都合で「死」が訪れることはないようです。
 死に至り死を成就する直前までが「生きていた」という全生涯です。

 

「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」(マルティン・ハイデッガー)

 

 他人の「生」を生きることもできないし、自分の「生」を代わってもらうこともできません。今の自分が生き続ける「魂」というものがあるというのなら、今生きている自分も生き続けている「魂」ということになります。世界人口は2010年の70億人から2022年に80億人に達しました。10億人分の「魂」はどこから来たのでしょうか。
 子供のころに過去や未来に生まれ変われたら、どんな人に成りたいと聞かれたことを思い出します。学生の頃にも「将来やりたい職業」はなんですかということも考えさせられました。自分のままで、過去のある偉人でいられるわけがありません。自分とその偉人の二つの人格で生きることなどどうしてできるでしょうか。自分という何か(=魂)が選んで生まれてきたわけではありません。自分は物心ついて起こっている感覚であって、説明のために後づけしているのではないでしょうか。赤子のころから変わらない自分であり、これからも続くのではなく、その時々に生まれては消えているので同じだと思い込んでいるかもしれません。常住不変の「私」のような感覚があり、それを自分としている。
 

 

 「生きている」先に「死」という区切りがあり「生」は「死」によって閉ざされ「The End」となります。その「死」がどのタイミングなのか誰にも分かりません。「死」を問うことは「生」は何かということと同じことになります。「死」を問題として解決することはできません。自然に生きて「死」をコントロールすることなどできません。
 私たちにできることは、「生」というダイナミックな体験をリアルに実感し感動する以外ないのではないでしょうか。困難・感動・痛み・快感・感動・怒り・悲しみ・・・・どちら側に触れるかもしれませんが同じ「生」の体験です。味わい尽くすしかありません。逃げられるものではありません。起こしていることも起こっていることも一切が自分の体験です。
 死ぬことができないのなら、我に振り回されずにあるがままの「生」に任せてみることも必要かもしれません。

 

<注:勝手な個人的な解見の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 


nice!(34)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 34

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

流転「体験」を伝える ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。