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純粋経験 [気づき]

青空書院「善の研究」(西田幾多郎著)

第一編

第一章 純粋経験

  経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。

<省略>

 他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘(そのまま)の現在意識あるのみである。

第二章 思惟

 思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動するのである。我々の意志に従うのではない。対象に純一になること、即ち注意を向けることを有意的といえばいいうるであろうが、この点においては知覚も同一であろうと思う、我々は見んと欲する物に自由に注意を向けて見ることができる。


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ブログ「父母未生以前の本来の面目 (2)」を先にお読み下さい。

 禅に「父母未生以前本来の面目」という公案があります。勘違いして取り組んでいる方も多いことかもしれません。問題の出し方が悪いと「自分の父母が生まれるより前の自分は何者か」だと思い込んで途方にくれて投げ出してしまいます。どこまで遡ればいいかというと、「父母」(=客体)だと認識する以前に自分(=主体)という者が存在したのかと問うてみてくださいということです。聴力はお腹の中にいるころから備わっているそうですが、視覚が使われて認識できるようになるには時間がかかるそうです。生来備わっている動物としての感覚(=仏の働き)で生きていたということです。成長するに従って二項対立として世界を見る癖がついてしまっている自分に気づきません。あまりにも当たり前に物事を分別して生きてはいないでしょうか。存在は存在としてあるだけなのに、自分にとってどうなのかを取捨選択するようになっています。



 「純粋経験」は分別以前の、ただ聞こえている見えているだけの主客未分の「それ」(=父母未生以前本来の面目)かもしれません。言葉で表そうとすれば、振り返ったことになり記憶を見ていることになります。「純粋経験」は刹那にあるのですが刹那に消え去っているので、あるでもないでもない。掴めることも捉えることもできません。ましてや「純粋経験」を達成することでもありません。誰にでも備わっている働きです。仏の働きそのものかもしれません。一切の存在と働きが「それ」と表現してもいいかもしれません。

 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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「体験」を伝える [気づき]

 禅僧であった、一休宗純と仙厓の最期に言い残した言葉は「死にとうない」だったそうです。禅僧であるからには、威厳や教訓となるような言葉を聞けると期待していた人には出鼻をくじかれたような言葉かもしれません。何十年も修行して我々と同程度なのかと思ったり、「死ぬのがこわい」「この世に未練がいる」とガッカリする人もいるかもしれません。

  「死にとうない」という言葉だけ取り上げれば、何も達成していないし人生にやり残したことが多くありそうに感じられるのも当然かもしれません。

 ポイントは考えて発した言葉なのか、身体(=たった今の体験)から発した言葉かということにあります。生死一如は「紙の表裏・明暗・正邪・・・」と同じで二項対立の言葉です。分けることのできない一体のことです。生と死はセットであり別々にすることはできません。頭は身体の一部であり、頭の働きである思考も私たちの一部です。それぞれが切り離すことができない働きです。一如は、一体ですが「生」と「死」が同じということではなく、「生」は「生」であり「死」は「死」であり区別はあります。

 

 私たちは、思考によって物事を成就しようとします。思考が優先されて身体は二の次だと考えてはいないでしょうか。日常の行動を観察してみます。思考が日常の行動のあらゆる部分を制御しているのではないと気づきます。それどころか、ほとんどの行動が思考せずにできています。思考によって立ったり歩いたりしていません。思考にしたがってどこかを見ているのではありません。勝手に聞こえたり見えたりしています。
 一生懸命に思考を使って歯を磨いてはいません。日々の行動が「私(=思考)」の指示によっているのでしょうか。気づけば、身体が勝手(=主)に動いているのではないでしょうか。身体がすべきことが実現されているというのが本当のところです。頭(=脳)で体調をどうのこうのできるものではありません。身体を安心・安全・快適にし体調を保ち良くしようとしています。頭(=脳)が主であり身体が従として行動しているわけではないと気づきます。只、辛いときに「なんとかしたい」という思いがあるので頭(=脳)が主として働いていると感じてしまいます。

 

 頭(=脳)が体調を制御しているわけではありません。体調(=身体)が頭を使わせているということではないでしょうか。心地よいことを求めたり、休息することは身体が要求しています。実に頭が身体に従っているということに気づかれると思います。
 問題は言葉や文字で提起されるので、答えも言葉や文字を使って出すようになってしまっています。思考によって答えを探し出しているのではないでしょうか。思考である心境に達したり何かを得ることができるでしょうか。それとも身体の解放感や五感からの感受に感動するのでしょうか。問題を解くというのは、問題が無くなる(=No problem)ということです。「1+1は?」と問われて悩むことはありません。「なんとかしよう」というのは必死に頭を使っていることです。お腹が空いたときに「なんとかしよう」と考えたところで、「絵に描いた餅」を食べることはできません。実際に食べ物を食べるという行動によって空腹を満たすことです。何だ考える前から、見えているし聞こえていることに気づきます。

 

 「香厳撃竹」というお話があります。何に気づいたかは書かれていません。頭で聞いて頭で何かを達成したり何かを得たのではないようです。思考で気づいたのではなく、思考以前に体験していること「それ」が「それ」だということに気づきます。「隻手の音声」も頭で聞こうとしても聞こえません。「隻手の音声」を頭で聞こうと考えている以前に、様々な音が聞こえていませんか。思考(=主だときめつけている)より以前に五感(=身体)で感受しています。思考で達成できたり得たりできるのなら、誰もが達成したり得たりできるようにできないような仏法は偽物だということになります。教えを説いていながら教えられないというのはどうしてでしょうか。個人的な体験を頭で理解して、同じ体験を得ることはできません。満腹成りたいからと言って「満腹」を1万回書いたり唱えて達成させるようなものです。

 

 もうお分かりかもしれませんが、思考して出した言葉に実体はありません。「辞世の句」はそれなりに体験を伝えることができます。絵に描かれた餅(=辞世の句)をどうやって食べればいいのでしょうか。身体が発する声は、身体の状況(=たった今の体験)を伝えることになります。「死にとうない」は頭で考えてひねりだしたモノではなく、「体験」そのものを伝えています。聞いていた人が「体験」そのものを受け取ることができていればいいのですが・・・・。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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生死一如 [気づき]

 多くの哲学者が「死」について考察し言葉を残しています。いくつか列挙させていただきます。

 

「死は、人間のもっているすべての恵みの中でも最高のものである」(ソクラテス)

 

  永遠に「生」が続くことが幸せでしょうか。老いることも病気もなく健康でエネルギッシュに生きているという夢のような楽園を思い描いているのでしょうか。何もかも思いの通りになるということは、思いの通りにされる対象があるということになります。自分の望みだけが叶う楽園であれば自分一人だけの楽園でなければなりません。楽園に多数の願いが同時に叶うのなら、どうしても優先順や優劣や格差が生じてしまいます。自由と平等が同時に成立するでしょうか。好き勝手ができて平等であるとうのは理想であって不可能なことです。
 表現できるということは二項対立があるからです。対立するモノによって表現が可能となっています。無人島で自分一人しかいなければ、善人も悪人も存在しません。どこにも光がなければ「暗黒」もありません。北極点に東西南北はありません。臭覚・味覚を失えば「美味しい」も「不味い」もありません。「上手な人」は比べられる「下手な人」のおかげで上手として評価されます。様々な形や色があるので美しい、様々な味があるので美味しいという感覚を得ることができます。様々な楽器によって異なる音色が混ざって素晴らしい音楽となります。
 「死」がどうして最高の恵みなのでしょうか。誰もが老いや病気や事故よって身体機能の働きが不全となれば自動的に「死」を迎えます。自然に逆らって「生き続ける」ことは恵みではないということです。
 

 

「死は、もろもろの災厄のなかでも最も恐ろしいものとされているが、実は、われわれにとっては何ものでもない。なぜなら、われわれが生きて存在している時には、死はわれわれのところには無いし、死が実際にわれわれのところにやってきた時には、われわれはもはや存在していないからである。」(エピクテトス)

 

 他人の「死」を目の当たりにすれば、どれほど苦しんだのかをわが身で想像してしまうので恐ろしくなります。
 生きている時は私たちに「死」はありません。私たちは「死ぬ」ということを体験することができません。他人が「死んだ」という事実を認識することができますが、自分が「死」を体験して蘇ることはできません。自らの「死」がどうであったか認識できる人は存在したためしはありません。誰一人として「死」を体験できないので、「死」は誰にもないということになります。例えば、「眠った」という感覚は目覚めている自分がいるからです。もし目覚めることがなければ、最後の「眠った」という感覚はありません。「眠った」と同じように「死んだ」ということも、「死」から蘇らなければありません。蘇ったら「死」ではありません。死んでいないで、仮死状態であったということになります。
『いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。』論語

 

「人間が死ぬのはいつも早すぎるか、遅すぎるかのどちらかである。しかし、一生はちゃんとケリがついてそこにある。」(ジャン=ポール・サルトル)

 

   生まれたばかりの赤ちゃん自身は他人の死を見ることが無く死を認識することもできません。赤ちゃん自身には「死」という概念はありません。眠っているのと死との区別がつくようになるのは、自身の身体の仕組みを理解できるようになる4歳以上のようです。身近な人の「死」によって、いつも会えていた人とお話ができなくなる。自身の生活の場から消えてしまったという認識が得られることができます。私たちが生きている世界では、物理法則(エントロピー増大)に反する例外は一つもありません。「死」は必然であって誰一人として「死」から逃れることはできません。

 

「全生涯は、まさに死に至ることと、その死を成就すること他ならず」(プラトン)

 

 ジャストのタイミングで「死」が訪れることはありません。もう少し生きてれば良いことがありそうだと思うし、こんなにつらく何もすることがなければ迎えにきてもらえばありがたいのに・・・。自分の都合で「死」が訪れることはないようです。
 死に至り死を成就する直前までが「生きていた」という全生涯です。

 

「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」(マルティン・ハイデッガー)

 

 他人の「生」を生きることもできないし、自分の「生」を代わってもらうこともできません。今の自分が生き続ける「魂」というものがあるというのなら、今生きている自分も生き続けている「魂」ということになります。世界人口は2010年の70億人から2022年に80億人に達しました。10億人分の「魂」はどこから来たのでしょうか。
 子供のころに過去や未来に生まれ変われたら、どんな人に成りたいと聞かれたことを思い出します。学生の頃にも「将来やりたい職業」はなんですかということも考えさせられました。自分のままで、過去のある偉人でいられるわけがありません。自分とその偉人の二つの人格で生きることなどどうしてできるでしょうか。自分という何か(=魂)が選んで生まれてきたわけではありません。自分は物心ついて起こっている感覚であって、説明のために後づけしているのではないでしょうか。赤子のころから変わらない自分であり、これからも続くのではなく、その時々に生まれては消えているので同じだと思い込んでいるかもしれません。常住不変の「私」のような感覚があり、それを自分としている。
 

 

 「生きている」先に「死」という区切りがあり「生」は「死」によって閉ざされ「The End」となります。その「死」がどのタイミングなのか誰にも分かりません。「死」を問うことは「生」は何かということと同じことになります。「死」を問題として解決することはできません。自然に生きて「死」をコントロールすることなどできません。
 私たちにできることは、「生」というダイナミックな体験をリアルに実感し感動する以外ないのではないでしょうか。困難・感動・痛み・快感・感動・怒り・悲しみ・・・・どちら側に触れるかもしれませんが同じ「生」の体験です。味わい尽くすしかありません。逃げられるものではありません。起こしていることも起こっていることも一切が自分の体験です。
 死ぬことができないのなら、我に振り回されずにあるがままの「生」に任せてみることも必要かもしれません。

 

<注:勝手な個人的な解見の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 


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流転 [気づき]

 食べ物を摂取すると、体内の中で消化(=消え去り)されエネルギーとなり残りは排泄されます。どのように分解されるか自分の意志の介入はできません。自然界でも空気中の水蒸気は雲になり雨や雪になり大地・海へ降り注ぎ循環しています。モノが作られ消費されたり飾られたり保管されたりしますが、何時かは分解されて消え去ります。

 私たちが見聞覚知するモノは瞬時に消えるモノから永遠にあるかのように感じるモノまで多様なモノにかこまれています。瞬時から永遠までの認識は人間が感じる時間の観念を当てはめて推測しているにすぎません。過去の記憶と比較したり、思い描いている未来と比べると時間という概念が使われます。実際は過去は記憶だけであって消滅しているのでどこにもありません。未来は思い描いているだけでどこにもありません。「たった今」だけが明滅して続いているだけ。 

  私たちが「たった今」見聞覚知している世界だけが自分の認識(=感受)している世界です。高齢になって聞こえなければ聞こえない音があったとしても、聞こえない人には音はありません。紫外線・赤外線が見えている生命体が見えている世界と人間の見えている世界は異なっています。各々の五感の能力によって感受できている世界が異なっています。同じ世界に生きているようですが、環境・イデオロギー・宗教・教育・社会制度等々によって全く異なる思考回路(=観念)が働いて行動していることになります。実際に感受している世界と記憶や予測で思い描いている世界があります。芸能人が逝去した後に、街頭でインタビューすると必ず驚きます。自身の記憶の中では逝去した芸能人は生きていますが、実際は亡くなられているので齟齬があります。自身の記憶の世界と事実の世界が異なっていることが分かります。事実の世界がちっぽけな世界でしかないということが分かります。リアルタイムで感受できている世界は宇宙全体からするとほとんど無に等しい世界だということになります。我々の存在も無に等しいということが納得できると思います。

 自身の体内で起こっていることのどれだけのことを知っていると言われれば、はなはだ心もとないのではないでしょうか。

 

 二人の人が同じ場所に隣り合わせて同じ光景を見ていたとしても同じ思いが湧き出てくるわけではありません。湯沢スキー場の前でスキーに来た人はどのように楽しもうかと思い、地元の人はどうやって雪を始末しようかと思います。他人がどう思っているかなど知りようもありませんし、これから自分にどのような思いが浮かんでくるかも分かりません。分からない中で生きてきたし生きているし生きていくことになります。自分の未来を事細かくあてることのできる占い師などどこにもいません。

 過ぎ去ってしまった過去を思い出して落胆して現在がよくなることがあればいいのですが・・。希望に満ちた未来を思い描いて思い通りになればいいのですが・・・。

 

 どうにもならない過去・未来を「なんとかしたい」という思いをきっぱり諦めれば、葛藤の火種は少なからずおさまっていくはずです。無に等しい自分の世界・無に等し自分の存在です。どんなことが起こっても取り合わない(=湧きおこる思いに付き合わない)時間(=例えば坐禅)には、「なんとかしよう」という自分が不在となっているかもしれません。

 

仏道をならうというは、自己をならうなり。

自己をならうというは、自己をわするるなり。

自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。

万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

(正法眼蔵現成公案)

 


自己をならう:自分自分という自分にどんな思いが湧きおこっているのかを只傍観する。

自己をわするるなり:湧きおこってる思いにとらわれない。

万法に証せらるるなり:あると思っている世界がほとんどで、「たった今」の世界は無に等しい。自己も「無」であり他己も「無」。

 


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あけましておめでとうございます

謹賀新年

 

今年もよろしくお願いいたします

 

令和5年 元旦

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