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脳と腹 [気づき]

 脳は自己保身のために、目の前の状況に対して瞬間的に反応するような仕組みが備わっているかもしれません。

 直面する状況ごとに扁桃体の下す「逃避か闘争か」の二者択一を瞬時に判断する。その判断によって自動的に視床下部からホルモンが分泌されて身体が反応させられている。「私=自我」が入り込む隙間などなく本能で行われている反射的なもの。思考以前の組み込まれたプログラムが勝手に働いて処理されるプロセスがある。

 下された決断で身体が動いてしまった後で、思考がどうのこうのとしても後の祭り・・・。どうして◯◯してしまったとか、どうして◯◯しなかったか・・・後悔することがありますが、そこに行為者なんていなかった。

 

 レストランのメニューで思考が選んだことになっていますが、実際は体調や匂いで身体がすでに決めているものが脳に教えていて、思考が追随して「口」から言葉が出ている。さらに後づけの「私」が「私」が決めたとしている。

 自分が決めたのに、後から食べなきゃ良かったとか、違うものにすればよかったと自分を責めるのはどうして・・・・。身体が主で思考は従ということ。食べ終われば身体はもう満たされているので静かになっている。胃は味を感じない。食後に感じる料金と味の違和感に思考が反応して、思考がケチをつけたい。そこで後悔や愚痴が起こっているだけといういつものパターンを繰り返しているだけ。

 

 ギャンブル依存症も理性では分かっているのに、身体が優先されてついついはまり込んでいる。分かっちゃいるけど止められないのでつい自己正当化してしまういつものパターンの繰り返し。

 突き詰めると身体が納得しないと脳の癖から脱することは不可能。薬物も身体が欲しているので脳でどうすることもできない・・・。

https://www.weblio.jp/phrase/%E8%85%B9_3

・腹が立つ

・腹に据えかねる

・腹を割って

・腹癒せ

・腹が黒い

・腹に落ちる

・腑に落ちる

 三毒(貪・瞋・癡)は脳ではなく、腹から来ていて腹に落ちないと解消できないのでは。理性がどうして腹に勝てるのか?

 生命の働きは何かを取り入れ(=入力)エネルギーに変換して活動(=出力)して不用なものを排泄しているだけの単純な機能。口と排泄口の一本の消化器(=腸・腹)から様々な臓器(=心臓・脳・・)が派生的に特有の機能を分担しているだけ。大元は腹が中心なので腹に従わざるを得ないかもしれません。

 思考の理解から腹での理解へ、腹にあるものを発散するか断ち切るかの方が有効かもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


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探求と探究 [気づき]

探求:ある物事をあくまで捜して得ようと努める。

探究:物事の本質や意義を探って見きわめようとする、明らかにしようとする。

諦:つまびらか。明らかにする。仏:まこと、真理。また、それをさとること。

 

 何らかの縁で「道」に入ってこられた人が、勘違いするのは探求によって「その何か」を掴めるとか得れると何かになるという感覚があるということかもしれません。

 超人になるわけでもなく高潔な人格者に変容するわけでもなく身体が金色に光輝くわけでもなく後光がさすわけでもなく・・。何かを得るのではなくすっからかんにだったということに気づくのですから・・・。

 

 道の人が「その何か」を予め知っているか見ているかがないのにどうして「その何か」を見つけ出すことが出来るでしょうか。「金」が何かをしらないで闇雲に土を掘り返すようなものかもしれません。「金」を知らずして「金」を見つけることなど不可能かもしれません。

 「その何か」を知らなければ掴むことも得ることもできないことすらよく分かっていないようです。「その何か」を知るために、仏典とか覚者の書いた「文字」から推測するしかありません。しかし「文字」自体に「その何か=伝えたい真意」は現れていないので「不立文字」・「教外別伝」・「見性成仏」・「直指人心」と言われる所以のようです。

 

 「その何か」は実体がなく掴むことや得ることができないからこそ、感得した人の感覚でどんな表現でも可能ということのようです。特定の姿形があればいいのですがそんなものは無いのでうまく提示はできないようです。「水」を表現してくださいといってもできないし、「海」を見たことのない人に「海」を文字で表現することはできないのと同じことのようです。

 

 覚者は自らの独特の言い回しで表現しているのですが・・・。「沈黙」へといざなわれるように多くを語ってくれているようです。「沈黙」は得るのではなくそうなるしかありません。

 

 大事なことは「探求」ではなく「探究」だということにあるのではないでしょうか。「沈黙」へ至る障害となっているのは「自我さん」の理想の世界でのお遊びにつきあってしまうことのようです。「自我さん」の理想の世界は「安心・安全な安楽」でいたい。「自我さん」は大変な努力家であり勉強家ですから主役として活動しています。「自我さん」の理想の世界での物語に飽きてくれないと「自我さん」はおとなしくしてくれません。

 

ガム(=苦い経験・楽しい経験・悲しみ・・・)を噛むと次第に味がしなくなり、とうとう捨ててしまいます。どんな経験も味わい尽くすと味気ないものとなり捨ててしまいますこだわりがなくなるようです。「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」「活人剣」「守破離」「目付け、切りつけ、納刀、残心」

「触れずして投げる」「水に文字を書く」「一輪車」「筆を使わずに絵を描く」・・・。物事に精通しやり尽くすようになると、無駄や無理な力は必要なくなりついには道具にもこだわらず、道具もいらなくなってしまうようです。

 

 よく眠ると「私=自我さん」から解放されてスッキリすることに気づいたり、「スポーツ観戦」で我を忘れていて応援して身体は疲れたのに、サッパリして充実感だけが残っている。犬と戯れてはしゃいで遊ぶ、友達と遊ぶ・・。遊んでいる時に「私」は遊びそのものになっていて「私」が遊んでいるという感覚はなかった。遊びの中では日頃の問題なんかすっかり忘れさられていた。遊び終わって、残っているのは爽快感だけ。「私=自我さん」がいないって素晴らしいという体験でチョット気づく。

 「スポーツ観戦」も「遊び」も何かを掴んでもないし得てもいないただの体験なのに爽快であったり満たされていた・・。何かになったわけでもない。

 何かと一体となっていた時には「私=自我さん」が不在であったとチラッと見抜かれた瞬間かもしれません。「私=自我さん」がいなくても生きていた、いやかえって活き活きしていた・・。そんな日常のちょっとした経験を見逃さないのがいいかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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100点と0点 [気づき]

 「頭の体操」という本のなかで「答案でまったく同じ答案があったのですがそれはどういう答案でしょうか?」という問題がありその回答になるほどと感心したことが記憶にあります。
 100点満点の人と白紙の答案だそうです。名前が違うと突っ込まないでください。
 3歳頃から自我が芽生え時間と他人と自分の物という概念ができあがっていくそうです。「私」という何かが繋がっていて過去の「私」が所有していたということを記憶していなければ所有という概念はなりたたないようです。過去に所有していて今も自分の物だということを主張できます。「自我さん」は自身の外から持ってきたものではなく、大人とのやりとりや「自分かわいい」という感覚によって徐々に構築されていくようです。


------興味の無い方は飛ばしてください。 
 日常で自己を守ってくれるのは親ですが常にそばに寄り添っているわけではありません。なんとか自分自身を守るために仮想の「私=自我さん」が頼りになるなるようです。「言葉」を憶え感情に巻き込まれ対処できなくなったときにかわいそうな「私=自己憐憫」を癒やしてくれるのは「自我さん」だったかもしれません。「自我さん」との会話が始まり、困らないようにするにはどうしたらいいか「自我さん」が答えるようになっていったかもしれません。
 いつもそばに寄り添いたよりがいのある「自我さん」を「私」というリーダーの座に置くようになったかもしれません。頼られる「自我さん」はどんどん「知識」をため込んでイメージ力によって仮想の世界を構築していきます。「言葉と文字」を使って思考すれば何でもできるように教わり、実際考えれてできるようになると自信がついてきます。「夢・希望」というワクワクする言葉で「自我さん」の力を発揮しようと試みるようになっているようです。
 「何かを掴んだり何かを得て」満足しようという飽くなき衝動に突き動かされ、常にエネルギーを補給して働き続けます。実体がないのに動き続けることで実体があるように感じてしまいます。
-------


 対極を持ったままの個人としての「自我さん」は自身の仮想の世界で100点を目指します。太極を見性すべく全体として働きたい「自我さん」は空っぽで無である0点を目指します。最高の口伝は沈黙(=無)であり最高の仏典は白紙(=無)なのかもしれません。


 物知りの方で「花」の名前がポンポン出てくる人がいますが、現実の花をチラッとみて花の名前を教えてくれます。その方は現実の花より「花図鑑の写真の花」の方を見ているようです。私たちは「花」の名前を知らなくても見た瞬間にどんな色でどんな様子であるかを既に知っています。「花」の名前を知る必要などまったくありません。花の名前テストで100点を取るために花を見ているのではないということです。


 仏典の専門用語の解釈や解説の試験のために生きているわけではありません。苦しみの本体である個人的・二元的世界で働いている「自我さん」の働きが幻想であるというこをと見抜くことにあります。また「自我さん」の見ていた世界も無常であり実体のない世界であることを見抜かなければならないようでうす。
「一切空不可得」


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。




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自我さんの働き [気づき]

  そもそも「自我さん」と呼ばれている「実体のない働き」はどうなっているのでしょうか。何時何処でどんな形をして生まれてきたのか。自らが作り出しのでなければ何処からやってきたというのでしょうか。今どこにいてどんなタイミングで出てくるかもコントロールできません。どこに潜んでどんなスイッチでどのように出てくるのか。何の為にどのように働いているでしょうか。

 生命としての根本煩悩である「自分かわいい」が前面にでます。自己保身・自己保存のために自然に作られた。実体のない仮想の何か。実体が有るのなら煮るなり焼くなり調理できてもいいようですが誰もできていません。

 「私は自我を知っているし、私の意志で私が思考している。私は気づきだと分かっている。」これ全て「自我さん」。個として認識している全てが「自我さん」のようです。

 

 どんな働きをしているのか列挙してみます。心当たりがあるかと思われます。

 

自我さんの特徴

・探求している私。

・良いところまで来ている。

・もうすぐ分かるところだ。

・全てを分かるといつか知ることができる存在だ。

・努力すれば何かに成れる。

・頑張れば達成できる。

・良い手法が見つかれば達成できる。

・楽しいことが大好き。

・邪魔されたくない。

・自分が自分を一番良く知っている。

・至福を手に入れることができる。

・自身こそが正しい。

・自身こそが主人公。

・願いを叶えたい。

・負けたくない。

・特別でありたい。普通のままでいたくない。目立ちたい。

・自身こそ優れている。

・努力すれば達成できる。

・嫌なことは後回しにする。

・思考でなんでも解決できる。

・楽をしたい。苦しむのはいやだ。

・何かになるには苦しみも受け入れる。

・何者でもないことを見破られたくない。

・せっかく作り上げてきた「世界」をみすみす無いことにはしたくない。

・自身が構築してきたこの自身の「世界」で安住したい。固定観念を守る。

・ともかく自分(=自我さん)が主役であり主人としてこの「世界」で生きていく。

・承認されたい。認められたい。

・知識を誇る。

・けなされるのがいやだ。自身を誇りにしている。

・人の話に耳を傾けたくない。自身の世界が最優先。

・思考だけでは何も変わらないことを知っている。

・何か何かと落ち着かない。

・何かをしていたい。

・実体がないことを見破られたくない。

・常に目標や目的を持ってせっかちに動き回る。

・とにかく動いて主体として君臨していたい。

・他人と比較したい。

・抵抗するのが一番のご馳走。

・何でも手に入れたい。

・感情こそが正直な自分だとしている。

 

<「自我さん」が仮想であることがバレそうになる時、自我さんが嫌うこと>

※自我さんのエネルギーの行き場が無くなることを恐れます。活動できないと自らの存在価値がなくなります。とにかく頑張り屋で働き者の「自我さん」です。※

 

・達成感や開放感や自由を感じる時。何も無かったと気づかれそうになる。

例:登山で山頂に到達した時には達成感よりも開放感や自由を感じる。

すぐに現実の引き戻す。明日の予定は?心配事は?と思いを巡らす。

・嫌なことをすぐに片付ける。ホットして切迫感を感じない。

・苦しみを甘んじて受ける。「刀折れ矢尽きる」

・諦めてしまう。自我さんのエネルギーを注ぎ込む対象が無くなる。

・無能だと認める。頑張らなくても良いと思うこと。

・思考が止んでしまう瞬間。

・苦しみを乗り越えてしまった場合。グレートレースでの限界を超えた挑戦。

・自らが無価値の状況に置かれた時。宇宙ステーションから地球を眺めた時に感じる無力感。呆然と観ていることしかできない、自我さんが働きようのない状況。

※苦しみを超えても何も手にするものなど無いと気づかれる。「私=自我さん」が存在しなくても何も問題はないと気づかれる。見抜かれる。※



 

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本来のあるがまま [気づき]

 私たちは些細な出来事(=異常)の方に注目(=心が向かう)するようにできているかもしれません。

 身体で何らかの感覚を感じているのも身体の僅かな部分の感覚でしかないように思われます。生きている限り身体内部での働きは一瞬も止まることはありません。臓器は休むこと無く働き続け、血液は身体を巡りホルモンが分泌され免疫機能が働いているようです。脳神経での化学物質や微弱な電流によって情報伝達が行なわれているようです。自身の身体なのに何が起こっているのかまったく感知もできないし制御もできないようです。血液の流れも見えずエネルギーがどう取り出されどのように身体を動かしているかもサッパリ分かりません。

 私の身体といいながら自身の身体で起こっていることはほとんど知らずに生きていると言っても過言ではないかもしれません。血液検査によって数値の比較することでしか各臓器がどのようになっているのかを少なからず知らされる程度です。

 身体の変化に気づくのは爪や髪の毛が伸びたとか、皺が増えたとか、足腰が衰えたとか、太ったとか痩せたとか目に見える部分や節々が痛くなったとか目眩や歯痛のように実感することでしか気づけないようです。

 身体で気づくような不快感や痛みがないかぎり、身体は何の痛みも不調もなく正常に働いています。

 

 晴天だといいながら雲を見てしまうのは雲の方が目立つからのようです。晴天なのですから青空が広がっているのに青空よりも雲に視線が向かいます。夜空に月が出ていると月に注目してしまいます。夜空全体を見る人は天文学者くらいかもしれません。散歩中に何かの音を感知してそれが鳥のさえずりであると気づくことがあります。

 普通は鳥のさえずりだと聞いてしまうのですが、詳しい人はツグミの鳴き声だと即座に聞き分けるようです。

 音(=空気中を伝わる振動)が聞こえているだけなのに、勝手に分別が働いてしまいます。すでに発信元には音は存在していないにもかかわらず、良い鳴き声だとかうるさい鳴き声だとか二元対立の妄想が湧き起こっているようです。ある人にとっては心地よくてもある人にはうるさい音として聞き分けられます。

 ただ空気中を伝わってきた何らかの振動でしかありません。振動に良いも悪いもついていません

 人の言葉も善悪などついていないただの振動です。文字もただ反転して判別できる何らかの形です。アラビヤ語やアラビヤ文字を見て何が善で何が悪かなどサッパリ分かりません。勝手に識別して概念を当てはめ、善悪を決めているのが人間生活での仕組みになっているだけではないでしょうか。

 

 何が言いたいかといいますと、あるイベント(=出来事)によってトリガーが引かれそのイベントに注目してしまう。脳の習性(=癖)として、とりあえずイベントに対処するようになっているということです。音が気になるということは通常(=平常時)は静寂の中にいるということ。身体の異変が気になるということは身体は正常に働いているということ。味を感じるということは本来は味のない状態であるということ。匂いを感じるということは普段は匂いがないか匂いに麻痺している状態が続いているということ。見ているものが気になるということは気になるもの以外はよく見えていないかもしれません。

 脳はすべての情報を逐一処理するよりは、イベントだけに使ったほうが効率がいいかもしれません。

 本来は平安・静寂・無事であるのに、異常・喧騒・異変の方が気になってしょうがない。イベントをなんとか解決したいと必至になっているということのようです。解決するのに慣れ親しんだ思考が頼もしい助っ人だという思い込みから抜け出せないというカラクリのようです。自身でコツコツ作り上げてきた習慣であり、自身の習慣を疑いなさいといわれてもピンとこないようです。

 

 起こるべきことが起こっているだけなのに、常に「自分かわいい」が最前線で対処します。自己保身が第一であり、些細な事に注意が向いて解決したい。全体はぼんやりと感じ、何か起こったら逃げれるようにして生きているのが我々の習性のようです。

 

 お釈迦様は王子として平穏無事な(=勝手な想像)日々を過ごしていたかもしれません。城外に出て老病死という現実を垣間見て衝撃を受けたと推察されます。一般人は病死など日常のことで驚くに足りないのですが、日々平穏無事の中で過ごしている人にとってはかなりのショックだったのではないでしょうか。仏道はネガティブな教えのように言わていますが、通常は平穏無事だからこそ「苦」が注目されたというのが出発点のように思われます。

 

 火事などがニュースになるというのは、日常では火事はほとんどないということの裏返しではないでしょうか。何事もない平常より異常の方に注意が向いてしまうようになっている。

 何かに気づくということは、その出来事が些細なことでしかないかもしれません。本当はどうでもよかった・・。深刻にならなくてよかった、そうやってやり過ごしてもいいんだ。いろんなことがあっても今こうやって生きていられる。ちっぽけな身の回りのではなく、宇宙全体に思いを馳せてみる。宇宙ステーションから地球を覗いて見ると、広大な空間が広がっていて平穏・静寂・無事のままなのかもしれません。歯が痛いということは今まで何事もなく歯が使えていたということです。様々な悩みに悩んだとしても、本当はなにごともない平凡な生活のほうが全体を占めていたかもしれません。いくら考えても目の前のゴミ一つ動きません。考えても現状が変わらないということです。考えても変わらないのなら湧いてくる思いをいじらずに放っておけが自然に消え去るようです。



<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


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なぜなぜゲーム [気づき]

日本大百科全書に「問題」について次の記述があります。

 一般に答えを必要とする問い、課題をいう。事象のあり方や生起の理由、原因などを「なぜか」と問うように、人間にはおのずと問いが生まれる。だが、問題は、文化、文明や主体の関心、探究心の程度によりさらに意識的となり、また、実用性を離れて純理論的となる。問題は答えを要求するが、一つの問題の解決は進んで新しい問題を生みやすく、ここに知識や認識の深化・拡大がみられ、さらに解決の方法、手段の確立、体系化により、問題は諸個別科学の分野を生んだ。

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 ヒトにおいて「知る」というのは本能のようです。現状を「知る」ことで安全なのか危険なのかを察知しなければなりません。知らなければ生存が危ぶまれます。

 疑問は本当かどうかわからない時、問題は現状と希望・期待されるあるべき状態とのギャップではないでしょうか。

 問うことを英語では次の単語を使っているようです。ask,question,inquiry,query,doubt,suspect,wonder,suspicion,examine,problem,issue,subject,work,matter,trouble等。

 また「答え・応え」にもいろいろあるようです。

answer,aware,agree,fit,coincide,correspond,get together,reconcile,reply,response,

talk back,solution,formula,solvent,cure,suit,serve,result,acknowledge,rejoin,break,read,riddle,deduce等。

 

 質問には、相手の力量を試す質問・自身の能力があばかれてしまう質問・相手の真意を聞き出す質問・自身の欠点を指摘してもらう質問・何を聞いたらいいかの質問・急所の質問・動作の質問・解決につながる質問・話題をそらす質問・ご機嫌をとる質問・気づかせる質問・やる気を起こさせる質問・見方を変える質問・恥じ入る質問・けなす質問・上辺だけの質問・技術的な質問・精神的な質問・健康状態の質問・好みを知る質問・・・数えればきりがないようです。言葉として湧き起こってくるようです。全ての質問は自身の自然な「知りたい」という願望のようです。

 

 問いも答えも自身で完結して腑に落ちなければなりません。「分かる」段階は子供にゴミの分別が分かる程度の理解。「判る」はどうしてなのかの根拠を知っていて判断できるという判る。「解る」は原因と結果を周知していて問題とならないほどの理解に達している。最終的には問題にならない・問題にしないという状態であれば「No Problem(=解明・解消・霧散)」となり頭を悩ますことにはならないようです。小学生の低学年では掛け算が曖昧であり解ったとはいえないかもしれませんが、大人にとって掛け算は問題にはならない範疇のようです。大人に2かける2は?と質問したら怒られます。すっかり解かっていて問題になることはありません。

 

 私たちは小さい頃から「思考」することで問題を解いてきました。学校では知識を得て思考によって答えを導く練習をしてきました。多くの知識を「教科書」から学び、記憶(=詰め込んで)して正確に速く吐き出すことが求められました。数学や物理や化学では、表象(=記号)や公式や方程式や解法を使って問題を解いてきました。学校で出される問題は「教科書」に書かれたことだけであり模範解答と合致していれば点数化されて評価されていました。

 しかし、各個人で異なる特有な問題があります。「教科書」にはない、学校や家庭での生活環境での他人との関わりがあります。当然固有の問題であり「模範解答」を教えることや提示することもできないようです。専門の相談員でなければ対処できるようなものではありません。先生にそこまで期待していいものか・・・。子供ながらに自身で解決しなければならない精神的な問題であったことを思い出します。「社会的な自己=自我」に翻弄されている当事者が他人を思いやるなどできるのか、だれもが葛藤の中で青春時代を過ごしてきたのかもしれません。

 身体の成長と精神の成長のアンバランス。頼るのは思考と意志でしたが「やるべき自分」と「できない自分」の葛藤があったような記憶があります。

 

 巷では、思考術とか思考力を高めればなんでもできるかのようにハウツー本が多く出回っています。「思考」は万能であり必ずや答えを見つけ出す最高のツールとしてクローズアップされています。「知識と経験と度胸と思考」があれば恐いものなど無いのでしょうか?思考ですべてが解明できるのでしょうか?

 もし「思考」で精神性の問題をすべて解決できるのであれば、誰も悩みもしないし思想家や哲学者や宗教家も必要ありません。単に知識を得たり経典の書かれている事は読めばそれなりに理解できます。文章を理解できても腑に落ちないので思索は止みません、頭では分かったつもりでも「思考」が「思考」の性質上解ったと言って引き下がれないようです。

 「思考」しなくてもいい状態にあることが解った状態です。思考する限り解っていません。思考しない状態にすることでしか思考は止まないということではないでしょうか。

 

 「思考」の役割は「思考」することですから、腑に落ちるまで自らを自らが止めることはできません。「どうすれば?」ということがすでに「思考」であって油を注ぐことになります。

 釣り堀の魚はよく釣れますが、常に餌をやっているのですぐに餌に食いつきます。寒い時期の渓流の魚はほとんど食べないで過ごすそうです。何も食べないので何もいらない。餌が眼の前にあっても食べない。瞑想に入っているようです。「思考」する癖がついていれば、すぐに「思考」して葛藤・混乱となる。「思考」しない癖を身につければ、必要なときにだけ「思考」する。メリハリが効いた無駄のない脳の活動ができるかもしれません。

 

 「思考」が問題を解くものだとしているのは実は「転倒」であって、「思考」のない言葉の出る以前が「本来の自己」。それには何もしない「只管打座」か、思考のない「今ここ」にある「ヴィッパサナー瞑想」か「無字の公案」・・・。何もしないからこそ、普段何をしているのか気づけるようです。

 

 「思考」によってコントロールしているのではなく、五感から感受されて身体に起こっていることが先にあります。体調が悪くなって「どうしよう」と考えるのであって、「どうしよう」と考えている身体が先にあるわけではないようです。思考以前に感受があり感受以前に五感があり五感以前に身体がある。思考は最後の最後であり、思考に到達する以前に全てが解っています。

 まず問題があるのではなく、消滅している過去を思い出したり存在していない未来を心配することで「今ここ」と比較しているようです。この「妄想」が「今ここの自分=現実」と「虚仮の自分=妄想」を作り出して分離を作り出しているかもしれせん。「今ここ」にありながら二人(=現実と妄想)の人間がいる。思考を使うべき時に思考すればいいだけなのに、常に何らかの思いに振り回されているのでは?

 

「今ここ」はただ起こっていることが粛々とただ起こっているだけではないでしょうか。

 痛いという感覚がただあり、痒いという感覚がただあり、見えているという事実がただあり、聞こえているという事実がただあり、指が動いているという事実がただあり、歩いているという事実がただあり・・・・。何の問題もなく起こるがままに起こっているだけ。「今ここ」に問題なく生きています。

 

 製造現場では時短や品質向上のためにあえて「なぜなぜ」を繰り返し真の原因にを探し出します。これから作られる製品の品質向上のためです。人間は現在進行形であり、思考によって向上させる対象(=自身)とするのは「社会的な自己」です。「本来の自己」は思考や分別や妄想以前であり着色や汚すことができない純粋・透明であり手がつけられない。だれもがすでに「本来の自己」なのですが、分別する自己以前に立ち返らなければならないようです。

 

「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。これすなはち坐禅の要術なり」『普勧坐禅儀』

 

 「なぜなぜゲーム」で宇宙開闢まで遡っても、生命の起源の有機物や細胞を見つけても、宇宙の果に行き着いても・・、どこにいって見聞覚知しても「今ここ」であることに何も変わりがないようです。知識や思考で生きているのではなく、生きていて五感が働くことで知識・思考が使えます。

 何故私は存在する?生きている意味は?生きている価値は?等々。お釈迦様は「毒矢の喩え」でも無記であり答えを明示しませんでした。もし答えを出してどちらかに盲目的に従ったり観念として信じ切ることの弊害のほうが大きいのではないでしょうか。誰かの思考で導き出した何らかの答えは、検証ができません。個人的な概念の組み合わせであり実体や現物などつかめません。知ることよりも現実に「今ここ」で起こっていることと共にある感覚。

 意味や価値など評価されなくてもどうでもいいかもしれません。

 

※問題として悩んでいるのは誰でしょう。自分で問題を作って自分で解決しようとしている矛盾に気づく(=見抜く)。アル中(=分別・固定観念でガチガチ)の人がアルコール(=思考)でアル中を治せるでしょうか。頭の中の喧騒(=問題)に仲裁(=思考)として割って入ることで喧騒を鎮めようとするがかえって大きな喧騒となる。青春時代の喧騒(=問題)は「今ここ」に存在しているでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 


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真理は探せない [気づき]

 哲学者ではないので、わかり易く定義することはできませんのでご了承ください。人間が言葉で定義するのは、頭の中の単なる概念を組み合わせたものであり妄想でしかないかもしれません。概念を掴んだり取り外して物体として出すことはできません。概念は何らかの感覚を言葉としているだけで実体がない。他人の頭の中の言葉をどうやっても見ることはできず捉えることもできません。文字にしたり音として発せられた時に初めて見たり聞いたりすることができるようです。

 私たちは対象とするものを勝手な概念を定義して「名前(=命名)」をつけているようです。その概念(=妄想)を言葉として互にやりとりしています。本当に伝えたのか伝わったのかも確証がありません。自身が分かっているだけで文字を見たり言葉を聞いただけで本当に伝わったと思っているようです。

 日本語で「りんごringo」英語で「apple」ですが猫や鳥や他の生物が人間の発音を聞いても、口から泡を吹き出して何やら振動を伝えているだけでさっぱりわからないようです。

 

 ある問題の解決策を崇高な文章にしたとしても、母国語を理解できない外国人や動物が聞いたり見たりしてもまったく訳がわかりません。言葉(=妄想)を組み合わせた文章は、新たな妄想が生み出されただけかもしれません。言語や文字は便利な道具ですが、道具に翻弄されいるのではないかと立ち止まることも必要かもしれません。

 「冬」という言葉で「冬」がどこに現前するのでしょうか?「冬fuyu」という音を何回唱えようが何回聞いても、「冬」という文字を何回見ようが何回書こうが頭(=脳内)では「冬」という概念だけであって「冬」を体験することができないことは誰でも分かっています。概念のお遊びを夢中になって飽きもせずにやり続けている。「今ここ」で展開されている現実以外で頭が一杯のようです。「今ここ」を見失って頭の中のお喋りに付き合っていて「今ここ」と離れて浮遊しているかのようです。過去や未来を思い煩うことが自分でありご飯もおろそかになっていることはないでしょうか。ご飯を食べている時はご飯を食べているだけでしかないのに・・・。

 

 言葉や文字は「社会的な自己」にとっては欠くことのできない大切なものです。人間だけが「言葉と文字」を使うことで現実には存在しないものを現実に出現させることができるようです。

 

 真理は宇宙そのものであり現前の一切。哲学では知られる対象と知る主体(=人間)という分離があって、知る主体(=人間)が検証できなければならないようです。知る者と知られるモノという分離。「万物斉同」など念頭にないようです。

 哲学で「真理」を知る対象とするということは、知る主体(=人間)が「真理=対象」を知ることができるということのようです。人間は何でも知ることができるという大前提。知ることで何でも解決できるという思考回路(=脳の癖・習性)から逃れられないようです。なんでも知ることができる主体(=人間)である「私」がいるということのようです。人間が「真理」を知るというのですから、人間自身は「真理」ではないということでしょうか。

 人間は「真理」を知るために、何故か知るべき「真理」を知る前に定義しているようです。「金」を探すためにには「金」というものがどういうものか分かっていなければならないのと同じことなのでしょうか。人間は何かの現象や状況を概念化して「名前」をつけます。リンゴが地面に落ちる目に見えない力に対して「重力」と命名するのと同じことのようです。

 目に見えない「真理」を発見したのでしょうか。「真理」を体験していなければどうして定義できるのでしょうか。

 知られる対象を先に定義するということはすでに「真理」を知っているか、まったく「真理」が分からないにもかかわらず「定義」しているかのどちらかのようです。

 すでに「真理」を知っていて定義するのなら「真理」がどこにどのような形であるのか明示すれば済むことのように思われます。この場合すでに「真理」が既知であるので探求の対象にはならないようです。

 「真理」が分らずにただ「定義」するだけなら本当の「真理」ではない。「真理」という言葉であり、単なる概念でしかないようです。概念が先で現実の中から概念と一致するのを探し出そうとするのは本末転倒のようです。我々は現実の中で生きているのであって、概念(=妄想)の中で生きているのではない。現実を概念化するのならまだしも、単なる頭で作り出した概念を現実のどこかで探せると思っているのはいかがなものでしょうか。

 

 「宇宙=真理」という前提でお話(=妄想)を展開したいと思います。

宇宙開闢から宇宙の続く限り「宇宙そのものが真理」でないとしたら・・・。  宇宙での「ある特定の期間・ある特定の場所」だけに真理があるとしたら・・・。

 一体どのようにしてある「特定の期間・特定の場所」を探しうるのでしょうか。もし「真理」が探し出す対象となる期間や場所であれば、「真理」を知っていなければ探し出すことはできません。宇宙物理学者が宇宙望遠鏡や電波望遠鏡と連動したコンピューターのディスプレイで探し出すことができるのでしょうか。いったいどんな電磁波が真理なのでしょうか?もし、「真理」を発見したとしてもその場所に行きつけるわけでもなくただ見つけたということだけに終わるかも知れません。「真理」を探している学者などいるでしょうか。人間のすることですから「真理」が探せないのなら「真理」を作り出してしまうかも知れません。

 

 宇宙において、ある特定の期間やある特定の場所にだけに真理があるのなら。その特定の真理に巡り合うために、予めどういうものが「真理」なのかを知っていなければなりません。真理に巡り合うとするならば、巡り合う自身は「真理」を探しているので自身が「真理」でないということを証明しなければなりません。また、真理に巡り合ったのなら、巡り合うことで自身が真理に変化するとでもいうのでしょうか。真理を探し出して真理に変化する確証でもあるのでしょうか。どうやって真理と合一するのでしょうか。真理でないものが真理に出逢っただけで自動的に真理になるのでしょうか。真理と真理でないものがどこでどう区別されて区分けされているのか想像もできません。真理と真理でないものが混ざりあって真理の方に融合されるのか、真理が真理でないものに融合されるのかもさっぱりわかりません。

 そもそも「真理」と「真理でない」ものに区分があると知っている人はいれば「真理」は既に知られていて探す必要はありません。

 

 地上での話し(=言葉の妄想)に戻します。世界各地の神聖といわれている場所や神社や寺や禅堂だけに真理があるのでしょうか。真理を探しあて神聖な場所に建物を建てたのでしょうか。真理を探し当てるには真理を知っていなければなりません。真理を体得した人はどこで真理を体得したのでしょうか?体得する場所や時間に制限があったのでしょうか。

 

 宇宙そのもの「今ここ」が真理ではないとする場合の問題点を思いつくままに列挙してみます。

1.「今ここ」が真理でないと証明しなければなりません。「今ここ」以外にある真理を指し示すことができるのでしょうか。

2.真理は「今ここ」から離れてどこかにあるという証拠があるでしょうか。

3.真理を証明する人は、自身が真理でないということを証明しなければなりません。自身が真理であれば真理を証明する必要などありません。

4.「真理」を証明するには真理を体現しているか、真理を理解していなければなりません。

5.真理と真理でないものの境目がどこかを指し示す必要があります。

6.「今ここ」以外の特定の期間・特定の場所に真理があると証明しなければなりません。

 

<覚者について>

1.覚者は単に真理を見つけただけなのでしょうか?

2.覚者は真理とどのように合一したのでしょうか?

3.覚者が真理そのものであることをどのように証明してきたのでしょうか。

4.覚者が真理であったのなら、覚者だけが真理を持ち運んでいたということでしょうか。

5.凡夫から覚者に変容したのでしょうか。

6.凡夫と覚者ではどこがどう異なっているのでしょうか?

 

 地球上では場所も時間も関係なく重力が働いています。「りんご」を手放せば地上に落ちます。宇宙そのものが真理であり、常に「今ここ」が真理。

「魚は水中に居て水を知らず、人は妙法の中に在て妙法を知らず。」(東嶺円慈

 

 宇宙そのものが真理そのもの。宇宙のどこでもいつでも真理でないところはない。一切存在はそのまま真理そのもの。自身が真理でないことなどできない。我々が真理そのものでないことをどう証明すればいいのでしょうか。

 立っても真理、笑っても真理、苦しんでも真理、喜んでも真理、怒っても真理、執着しても真理、無知でも真理、煩悩も真理、嘘も真理、妄想も真理、わざとらしさも真理、騙すも真理、騙されるも真理、罵声も真理、飲食も真理、排泄も真理、病気も真理、老化も真理、死も真理、盲信も真理、愚かさも真理、報復も真理、真理でなとしているのも真理・・・・。煩悩も菩提も真理なのですから煩悩即菩提ではないでしょうか。単にコインのどちらを見ているかの違いでしかないかもしれません。美しいと感じる裏には醜悪が隠れています。単に相対してあるだけで、どちらも真理そのものであるということには違いがないようです。

 

 生命の本能は安全・安心でいたい。必要なものが欲しい(=執着)危険から逃れたい(=忌避)自他があるという思い込み(=無明)。一切存在が真理であれば何が起ころうが真理そのもの。言葉と文字を使うことによって思考できるので、「私=自我」という幻影があたかも存在しているように扱っているようです。実体のない幻想の「私=自我=アイデンティティ」が常に前面にあり、「自分かわいい(=自己保身)」が最優先であり降りかかる火の粉(=苦)を払って生きていきたい。現実と思い通りにしたい事とのギャップが「葛藤・混乱」を作り出しているようです。それも単に頭の中での出来事。眼の前にある現実ではない過去の出来事が渦巻いているだけではないでしょうか。

 

 思い通りにしたい(=若くいたい、病気になりたくない、死にたくない・・)というのが現実離れした望みではないでしょうか。あり得ないこと(若くいたい、病気になりたくない、死にたくない)を望んでいて諦めきれない。自身で問題にして、自身で悩み苦しんでいるのが現実のようです。自身は一体で一様です。鏡に表の自分と裏の自分やこうありたい自分と努力している自分がいるわけではありません。数えられないほどの水滴があったとしても、その水滴には全く同じ月がたった一つ映るだけです。水滴に月が二つ映ることはありません。頭の中に善と悪があるとしても映し出されているのは一人だということです。観察するもの(=例えば自分の思考を観察)と観察されるもの(=自分の思考)は同じです。見ている人(=瞳孔が開いて像が自身の内にある)は見られる人(=自身の内にある像を認識している)でもあります。対象を見ているのではなく、映像が映しだされている自身が見られている。風景は自身と別にある外にあるのはなく、すでに自分自身となっています。

聞いている人(=音の振動を受けている人)は聞かれる人(=音を認識している人)でもあります。

 

 「覚り」を発見しようがしまいが真理そのものに何も変化はありません。特別になったり高尚になったりもありません。身体が金色になったり、頭の髪の毛が渦巻くこともありません。偉くなったり凄くなったり立派になったり達成したり成就したり解脱もないようです。何かを知ることや知識を増やすことでもないようです。が増えても食べたり寝たりすることに何も変化はないようです。日々の生活をたんたんと過ごすそれだけ。

 お釈迦様は物理学者ではないので、物理的な輪廻の世界を語っているのではなく精神的なイメージで感覚のことであって実在する世界かどうか。一体どこに餓鬼の世界があるのでしょうか。心も魂も人間が勝手に作った概念であって本当に存在しているのでしょうか?六道は日々の生活で揺れ動く心の現れかもしれません。

 葛藤・混乱は頭の中の自作自演しているという見抜き。「今ここ」が真理そのものとであるとの納得(=決着・腑に落ちる)が必要のようです。

 真理はいつでもどこにでもあるので探し出す対象ではないようです。「真理」というラベルが貼ってあれば探し出せるのですが、「今ここ」も常に転変しているので見つけたり掴まえたりすることはできません。すでに自身も含めあらゆるものが真理。いつでもどこにでもある空気(=真理)、はたして空気(=真理)を握ることができるでしょうか。遍満している空気(=真理)を探す必要があるでしょうか。いつでもどこにでもある空気(=真理)は探せない。ただ空気(=真理)と一緒にある。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 




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「聴いている」のか「聞こえている」のか [気づき]

 私たちはすでに「悟っていて、救われている」。全ての存在が宇宙開闢以来の宇宙物質でできており何一つ宇宙物資でないものはない。「一切衆生悉有仏性=万物斉同」である。ただ顕れとして異なってみえている。このことを常に頭の片隅で気づいている習慣が大切のようです。

 花の一生も芽が出て花となり花が散り枯れてついに朽ちて土に戻ります。

「散る桜残る桜も散る桜」

 人の一生も老いて病気をして死んでいくのも自然のことであって、大騒ぎして「苦」とすることも無いように思われるのですが・・・。どうしても「社会的な自己」が我が身の「死」を「苦」として受け容れられないようです。ただ普通に起こるべくして起こっている循環の一つの変化なのですが・・・。

 

 さて、脳の癖(=煩悩)によって悩まされ「苦」を感じているのが日々の我々の様子です。スポーツでも習い事でも、何度も何度も繰り返し練習することで身につくということは知られていることです。

 利休の道歌に稽古とは一より習い十を知り 十よりかえるもとのその一とあります。一周してまた次の一周が始まりスパイラルしていって大きな円になっているようなイメージです。同じことをやっているのですが、すっかり身につくと無駄な動きがなくなるようです。

 

 我々の生活でも顔を洗うとか、服を着替えるとか、風呂に入るとか、食事をするとか・・・毎日毎日繰り返しやっていることは無意識でできています。同じように、思考も毎日毎日繰り返すこよって固定観念として身体に染みついてしまうようです。この固定観念が裁判官として前面にでてきてしまうようです。

 他人から見て傲慢であっても、自身の習性であって苦もなくしているので何も気になりません。自分が傲慢であるとはまったく思ってもいない人もいるようです。

 私が人を傷つけていたなんて、人に言われるまで分からなかったという人もいます。最初から傷つける意図がある人と、知らない(=無明)ことでやっている人がいるようです。人は自らを直視できないので、自らを省みることが難しいようです。

 

 何度何度も観察しないと「脳の癖」に気づくことは難しいようです。茶道のように稽古(=観察)を続けなければならないようです。今までの人生で、無意識の領域にまで染みついている「脳の癖」を一枚一枚剥がしていくしかありません。それには高価な道具も指導者も必要ありません。いつでもどこでもただ自身に向き合えばいいだけのことです。自身が実験台で自身が先生です。

 

 自我が芽生えたときからの「脳の癖」をひたすら作っているようです。生きてきた年数から2〜3年を引いた年数が身体に染みついているのですから、見抜いて剥ぎ取っていくのは大変な作業になります。長期戦であり、すぐに結果が出るというものではないようです。ピアノの初心者がショパンを奏でるようになるのに何万時間かかるか想像すれば推測できると思われます。セミナーで短時間での効果を期待しても出費と時間の無駄かも知れません。結局は自身と向き合うしかありません。

 チョットずつでも楽になっていければそれでいいという程度の方が長続きするようです。

 

 ここから本編になります。

 鳥の声を聞いているのではなく、音が聞こえてそれがツグミだったということです。音に”ツグミの声”というラベルと一緒に聞こえているのではないようです。「脳の癖」で何の疑問もなく「鳥の声」を聴いたとしているようです。

 何かの音を感知しているのであって、スピーカーから出ている鳥の声かもしれません。

 

 「脳」はいちいち詳しくしろうとはしておらず、簡略化して抽象概念で捉えようとしているかもしれません。脳は面倒な作業をショートカットして「鳥の声」を聴いていることで終わりにしている。

 「脳の癖」を観察してみると何もない全体の中で、些細な変化や些細な対象物にだけ注意が向いて捉えているようです。最小限の注意で済ませ、エネルギーの浪費を節約することで脳の効率使用が達成できているかもしれません。

 無意識で行動できているのもエネルギーを最小限にするようにしているのでしょうか。この脳での「最適化」によって脳は「楽」なのですが、身体の感覚である意は「苦」を感じてる大きな原因かも知れません。

 

 脳は何事もない全体に気づくことよりも”ちっぽけな事”に注意が行ってしまうようにできているかもしれません。その”ちっぽけな事”が「苦」としてクローズアップされてしまい、人生は「苦である」としているのが現状のようです。意での葛藤は一日の内で意が意を見て悩んでいる時間です。意が煩いに油をかけて大きくしているだけのようです。些細の事だったのに、自身で大きくしてはいないでしょうか。忘れていたことふと思い出して悔しく思ったり憎らしく思ったり、一人相撲になっていないでしょうか。全体では何事もないのに、自身の頭の中の些細な思いであればあるほど目についてしまいます。どうしても注意がすべてそこに注がれてしまって、「苦だぁ」として大騒ぎしているだけかもしれません。

小さな棘や、尖った針ほど痛いようです。

 

 

 例:空を見上げると広大な青空よりも「小さな雲」の方に目が行ってしまいます。脳は何もない青空である全体に注意を向けずにいます。「小さな雲」は最小限の注意で対象として捉えられます。同じように、海に浮かぶ船も大海という全体が見えているはずなのに「船」だけに目が行ってしまいます。全体は何もないただの大海。街を歩いていると目が行ってしまっているだけなのに、目立った人を見ていると思っているようです。

 全体が静寂であるのに、瞬間の微々たる鳥の声だけが聞こえてしまう。そして脳がショートカットして「鳥の声」としてしてしまっている。脳が了解すればそれで事は済んでしまいます。

 さて、私たちが注意を向けさせられているのは全体の何%でしょうか?確認してい見てください。聴いているのでしょうか聞こえているのでしょうか?聞こえているだけなら「私」はどこにいるのでしょうか。探してみると・・・。

 

 

 死の瞬間は人生の瞬間瞬間のどの一つの瞬間とも異質ではなく、それぞれの瞬間と変わることのない瞬間の一つではないでしょうか。特別な瞬間が訪れるのか、特別な瞬間としているのかどちらでしょうか。「特別」というラベルが予め貼ってある瞬間が待ち構えて訪れるのでしょうか。何枚かの「特別」というラベルが、密かにどこかでだれかによって用意されてある瞬間に現れることがあればいいのですがそんなことはないようです。どの瞬間もかけがえなく比較する意味もないようです。あらゆる瞬間が途切れること無く続いているので今がある。どれも特別とすれば特別であった、どれも同じとすればどれも同じであった。どれも消滅しているのでどれも無い。

 

 お釈迦様は王子でそれまでの人生のほとんど(=それまでの人生の全体)が安全で安楽であったと推測されます。何の苦も経験すること無く育った王子が、一歩門を出て見たものに衝撃を受けたことは想像できます。城内では見たこともない驚きの光景だったかもしれません。一般の住民からすれば見慣れた光景で何も驚くことではなかったかもしれません。普通の人であれば老いも病気も死も何でもないことでしたが、王子の衝撃は計り知れないほどの大きな「苦」として意が反応した可能性があります。あまり働いていなかった意(=思考)はショックを受けて(=このままではいけないと)目が覚めたかもしれません。

 

 我々の現実では、静寂が殆どを占め何でもない光景が殆どを占めているようです。身体の感覚も特に注意を向けなければ全身で何かを強く感じているわけでもなく、ほとんど感じていないのが通常のようです。特に内蔵や血液の流れや腸の動きなどほとんど感じません。口の中の味も味わっていない時間がほとんど舌が舌を味わうことはないようです。臭いを嗅いでいない時間がほとんど鼻は鼻を嗅げない。何かに五感で感受するのは、稀な刺激がある時だけです。全体の感覚が無であるのが初期値ですから、ある刺激に注意が注がれてしまいます。ある刺激に対処することが脳の役割のようです。刺激に対処している部分が全体の自分だとしているようです。全体は全体としてあるのに、対処しているのが全体としている。近くで煙が出ていれば全神経が煙に向かいますが、全体は何事もありません。全体からすれば些細なことが、大騒ぎになるということのようです。

 

 ここから注意深く思索してみてください。

 本来は他の五感と同じように意も「何もない状態=空っぽ・無」が初期設定の状態だった筈です。言葉を使えなかった赤ちゃんには、ただ虚空だけがあっただけかもしれません。成長するに従い、自らが作り出した実体のない「社会的な自己=自我」を維持しなければなりません。意(=勝手に湧き起こる思い、思考)が活動することで「社会的な自己」は延命されています。意(=勝手に湧き起こる思い、思考)は意を追いかけて回転することで姿を保つという癖がついてしまってたようです。

 何もしていなければ(=坐禅中)意は何も起こらないはずです。普段の生活でもただ動いているだけですから意は働かなくても大丈夫なようになっているようです。このことをよく観察してみてください。

 本来は何でもないことがただ起こっている。我々の周りのどこで「苦」が起こっているのでしょうか。脳が「苦」を作って一人相撲しているのではないかと疑ってみるのもいいかもしれません。些細な部分よりも、何事もない全体を見たほうがいいかもしれません。

 静寂が全体のあるがままであり、108回鳴る鐘の音が稀である。脳は稀に注目させられている。「除夜の鐘」はいつも静寂の中で生きている自分に気づくチャンスかもしれません。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 


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「ある何か」とは [気づき]

 年の瀬になるといつも思い出される言葉があります。皆様もご存知の一休禅師が詠んだ句といわれている門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし です。浮かれた気分に冷水をかけられ「今」に引き戻されるような句です。クスッと笑いがこみ上げてくると同時に気を引き締めざるをえません。

 

 さて、見えたり、聞こえたり、感じている正にその時そこに「ある何か」とはなんでしょうか。自然に働いているからなかなか気づかずにいるようです。「当たり前」だからこそ「ある何か」には目が向かいません。

 あまりに瞬間的で「当たり前(=当然のこと)」すぎるので見つけられないかもしれません。言われてみるとそんなの誰でも分かっていると言い出すのが人の常です。

 りんごが落ちるのも、そんなの当たり前でだれもが知っていることと笑い飛ばしていいのでしょうか。風呂に入って水かさ増えるのを一笑に付すことができるのでしょうか。

 今までもこれからも「当たり前」を押し通して見過ごしたままで終わるのはもったいないかも知れません。

 自身の目はちゃんと開いていたし、ちゃんと見ていた。確かに今も見えているし聞こえています。これ以上何を見て何を聞けばいいのか・・・。

 

 すべては習慣や教育や自己保身(=自分かわいい)のために自然と身についた「脳の癖」が支配しているようです。「脳の癖」を悪者ときめるける必要も排除すべき必要もありません。ただそのように働いていると分かって観ればいいだけです。

 

 何時でも何処でも常にはたらいるのに、意識できない「ある何か」とは。見えているとき、聞こえているとき、感じているとき、味わいがあるとき、臭いが嗅ぎ分けられているとき、思いが湧いているとき・・感情が起こっているとき、何らかの衝動が起こっているとき、知が働いているときに観察します。

 自分自身の感覚を緻密に観察します。学ぶべきは自分自身をおいて他にありません。(=仏道をならうというは、自己をならうなり。問うことが答え)

 問題は外にあるもので外からくるのでしょうか。問題は自身が作り出し自身の内にある。問題を無に帰すことができるのは、自身以外のだれができるのでしょうか。病気で外科的な摘出手術や薬で改善するような場合は従わなければなりません。

 

 前置きが長くなりました。ここからが本題となります。

 さて、「ある何か(=脳の癖)」ですが集合写真を見ると、まず自分を探すようです。文章を読んでいると、文章の中に自分(=自分と合致する観念・意見)を探し出しているようです。勝手に気になるものを全体から抜き出すという癖。これが「分離観(=二元対立)」を招いている。万物斉同として観れない原因。

 自身の経験・知識・固定観念・学校での躾・国民性・県民性・風習・習慣・思い込み・・・・が基準として常に照合されているようです。。

 文章の「ここの部分」は私の経験と同じだ、私の考えと同じだ、私の知っていることと同じだ、私は賛成する、私は納得がいかない、私には理解できない、やってみよう、やる価値はない・・・等々。全ては自身の基準と照合して見ています。基準と一致するのか、外れているのか。外れていれば度外視、合致していれば同意するだけ。結局は今までの固定観念はそのまま・・・。束縛(=固定観念)でがんじがらめのままかもしれません。

 

※常に様々な感覚を受け取っています。たとえば文章の中に自分(=自身の固定観念)と同じ部分だけを見つけ出しているようです。自分が自分(=固定観念)に束縛されていることに気づきません。固定観念を否定することなどそう簡単にはできません。なぜなら自身がコツコツと構築してきた大切なものです。簡単に自由(=束縛からの解放)になれないのもうなずけます。しかし、一切の固定観念が自身を維持するための仮想(=幻想)であり必要なかったと・・・。

 

 自身の未体験の部分や分らない部分は、飛ばすか分からないままにしておくようです。大丈夫です。読んでいると意識が気づいています。将来のいつか似たような経験した時に、このことを言っていたんだと「ピン」とくることがあります。

 

 このような自己を研究対象とした文章は知識として憶えておこうとするのではなく、自己のこだわりから開放されるヒントとしてあるという視点が必要とされます。

 何かを掴んだり何かを得ようとするのは知識教育の弊害かも知れません。知識を礎に思考することで何でも解決しよう、解決できるというのが「社会的な自己」がやっていることのようです。もし、知識や思考で解決できるのなら、誰もが達成されて「問題(=悩み・葛藤)」から解放されているはずなのですが。あくまでも自己のことであり、社会全体のことではありません。

 

 大切なポイントは自身の「思考によって解決できる」という思い込みをチョット疑ってみることのようです。思考をいちいち取り扱わない。「どうでもいい思考」を出るがままに。何かスッキリしたという感覚を感じる。「どうでもいい思考」に取り囲まれていたという感覚を味わう。

 自由とは何かを思い通りに(=力を得る)できることではなく、思考しなくてもただあるという自由(=束縛からの解放)。何でも無いことが既に「至福そのもの」。「至福」は求めて得るものではなく、いつでもどこでも「今ここ」にあるという直知。

 

 解るとは問題が解体して問題とならない(=No problem)ということのようです。解れば(=問題は自分で構築して問題となっている。構築しようとしているときに解体する)悩みは最初からなかったとく腑に落ちていく。

 

<実践>

1.経典は後で確認する時に見るものです。従うべき指導書でしょうか。自分一人で戒律は意味をなすのでしょうか。コロニーを乱すので規定されているだけかもしれません。罪悪感を感じて落ち着かないのでやめたほうがいい程度のものかもしれません。こうスべきだという固定観念の方を疑う。

・今現在の自分自身を観察して「どうでもいい思考」が出ていることに「気づく」

 

2.「どうでもいい思考」に手を付けなければ、勝手に消えていっていることに「気づく」。実際どうでもいいことはどうでもよかった。「どうでもいい思考」が無くなって自身の身体に何も変化がかったら「笑ってみてください」何もなくても大丈夫という安心感を実感する。

 

3.一人で「ボッー」としている時間を利用する。何かを得るのではなく、とにかく思考が出るままにほったらかす。「出ているなあと」ただ傍観者としている。

 

4.ざわついて落ち着きが失われそうなら、呼吸を観察して吸う時に「吸っている」と頭の中で言い、吐き出す時に「吐いている」と頭の中で言う。余計な思考が排除されて「今」とともに安住できるようです。

 

「学んだ唯一の証は変わること」

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。




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正伝の仏法 [気づき]

 最初にお知らせします。この文章を書いている人は素性の知れない人であって見ることも会うこともできない幻影のようなものです。ただの文字の羅列であって安易に鵜呑みにしないようにお願いいたします。まずは疑いつくしてみてそれでも試しにやってみて、違うなと感じればすぐに撤退することが求められます。

お金や命がかかっているわけではないので、どこまで真剣になれるかは個人に委ねられているようです。

 

 「四苦八苦」は生老病死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦とあわさり八苦となっています。

 仏教の初心者の方には画一的な説明(=誤解を招く説明)によって、間違った理解で転倒しているようです。お釈迦様は苦(=四苦八苦)のない安心の境地に自らを導くために修行して遂に「悟り」を開いたと説明されています。

 安易に「悟り」を開いたとしているので、思考や知識や努力によって成し遂げられることのように思い込ませているようです。この思い込みによって、大きな誤解を招き全く逆の努力(=何かになるとか、何かを得ようとする)をしているようです。

 

 誰一人として、お釈迦様の心境そのものを知ることはできません。お釈迦様が語った真意については、ただの想像でしかありません。自分がどんな心境なのかを他人に正確に説明できる人がいるでしょうか。心境の説明を受けて、その受け取った心境を確認することもできません。常に変化している心境をどう説明できるでしょうか。固定観念を羅列して書き出すことはできますが・・・・。

 

 「あなたは、同じ川に2度入ることはできない」と言われています。最初に入った川と二度目に入った川は同じように流れていますが、全く同じ水ではありません。最初に入った時の水は既に下流に流れています。二度目に触れている川の水はさっきまで上流の川の水でした。自身の身体も気持ちも全く同じではなく変化しています。心境も川と同じです。互に同じ心境(=川)を確認することはできない。

 

 今から約2500年も前の人の、それも言葉や生活様式が現代とは全く異なっている人の心境を想像することすら不可能なことです。学者がお釈迦様の言葉とされている真意を研究したとしても、その言葉の真意を正確に理解し正確に日本語で伝えることは至難のことのようです。

 

 今までも何度も書いてきたように、「正伝の仏法」は到達したり得たりできるものではないということです。時代や文化や生活環境の違いによって、心境には無限の組み合わせがあります。つまり自身が到達したり得たりした心境は「無限にある心境」の一つであり、その心境も正確に説明できません。他人の心境も正確に受けとることができません。無限の一(=自分の心境)つと無限の一(=他人の心境)つが一致することがはたして可能でしょうか。

例:二人の人に頭の中に何かを一つ思い浮かべてもらって(=物の名前でも、抽象的な言葉でも、数字でも可・・・)紙に書いてもらい一致することがあるでしょうか。もし思い浮かんだものを400字程度の文章に書いてもらい一字一句一致することがあるでしょうか。得る何かや達する何かが一致することは不可能のようです。まったく同じブログが存在しないのと同じことかもしれません。

 

 お互いの心境を確認することが不可能なのにどうして「正伝の仏法」として伝わっているのでしょうか。

 お坊さんだけが発見できるわけではなく誰も(=一般の生活者)が平等に発見できるはずです。お坊さんには「師匠と環境」というアドバンテージがあるのは事実です。誰もがすでに「仏」として生きているのに発見できないもどかしさの中で生きているようです。誰かに発見してもらうことでもできません。この世で自身だけしか発見できません。

 

 連綿と受け継がれてきた「正伝の仏法」として「師匠と弟子」がどのように確認しているのでしょうか。師匠と弟子が完璧に一致するというのは、弟子が「悟り」を開いたということではないようです。到達したり得たりすることではないからです。「無」というのが一致する「それ=正伝の仏法」ではないでしょうか。

 何かの観念が一つでもあれば「正伝の仏法」ではない。何かを得たのであれば「正伝の仏法」ではない。何かに到達したのなら「正伝の仏法」ではない。誰でも全く同じ発見であるからこそ「正伝の仏法=無」とされています。

 「無」が間違って伝わるということはありません。「無」が書き換えられることもありません。「無」が穢されることもありません。「無」が破壊されることもありません。間違いなく確実に伝わりお互いに確認することができます。

 

 我々は何者でもなく、到達する境地もない、得るものもない、つまり「悟り」もないので「開く」ことなどできません。すでに「それ」であるから、なにもかも得ようとしている以前の「本来の自己・無位の真人・本来の面目・・」が「それ」です。

 ただ普通に感受して分別する以前の自分の有り様が「それ」、何かあるのかと探しても何もない(=無)。

 何もないこともさえもない。分別して二元対立が起こり執着と忌避を行ったり来たり。問題が無限に作られていては平安となるでしょうか。

 もう得るとか失うとか比べることもなく、ただそうあることに安住している。

 

 野狐禅(やこぜん)というのがあり、自分は「正覚」を得たという人のことのようです。ネットで私は「悟り」を開いたとか、「正覚」を得たとか、ある心境に達したとか。自らが偽物であると公言しているようなもので、独り善がりと非難されているようです。

 「得たとか・達したとか・開いたとか」はあり得ないということのようです。「無」は得ることができるでしょうか。

 

 なにもしない坐禅で何かを得ることがあるでしょうか。空中浮揚や手からパワーが出たり、超能力がついたり権力を得たりすることを目指すなら欲望が別の形態に変化しただけのことかもしれません。

 

 決して知識ではなく、心境でもないということ。所有できないものであり、誰もがすでに悟っている(=状態)ので悟る(=動詞)ということはない。錬金術ができなかったように人間が別の生命体に変化させることはできません。それも思考や思索するだけで何ができるというのでしょうか。動きの中に人生があるのに、思考や思索だけでは何かしたとか何かなしたことになりません。口だけでは周りに疎まれるだけです。頭でっかちの理屈屋にならずに身体を使って生きているということ。

 気楽に生きていければ有り難い。

 

※表面上の「社会的な自己=自我・アイデンティティ」から見れば、米国大統領もロケットマンも極悪人も王子も違って見えてるのは当然です。しかし、本質は有るようで無く無いようで有るもので「無・空っぽ」であって区別差別のない存在(=万物斉同)のようです。現れが多種多様に渡っていて表面上の「社会的な自己」の活動が目につくようです。

 知ろうが知るぬまいが、普段感受していることにはまったく変化はありません。痛いのは痛く、痒いのは痒いという当たり前。ただチョット気楽になるのは確かなようです。とにかく思考を使って言葉で探してはいけないということ。ボッーとして頭を空っぽにする。愚者に徹しきれるかどうかです。誰もが「仏」だということを頭の片隅にあればと思います。※

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


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「見てる」それとも「見えている」 [気づき]

 私たちが問題にしていることは、頭の中での言葉を操って妄想ごっこをしているかのようなことかもしれません。真剣に悩んでいるようですが、幼児の頃の問題や学生時代の問題にまだ悩まされているでしょうか。すでに消えてしまっているかもしれません。どうでもいいことだったということなのでしょうか。

 

 何かの知見を得て突出した境地に達しようが人間のやることには変わりがないようです。食べて寝て行住坐臥して排泄して老化して遂には死んでしまうだけのようです。想像を絶する思索を重ねても死に値するほどの苦行を行っても一過性のことであり、現実にもどり日々の生活は続いていきます。特殊能力を身につけられるわけでもなく叡智をひけらかして生きることもできません。何者でもないただの「平凡な生活」のままが「それ」であると日々を生きるだけのようです。

 「らしい」人は途中にある人のようです。芸術家らしい人、音楽家らしい人・・。達人はらしくはないようです。見分けがつくというのはらしく見せて認めてもらいたいのが現れているかも知れません。

青空文庫(無料)にある、中島敦氏の「名人伝」(「不射之射」)で(XHTMLファイル)を一読していただければ納得いくかと思います。

 

 さて、日々あまりにも多くの問題を抱えている現代人は「当たり前」のことなど目もくれないことと思われます。わざわざ「当たり前」にできていることを取り上げ、疑問視する必要性を感じないようです。

 前にも書きましたが「当たり前」にこそ発見しなければならないことが隠されていいるようです。現状をブレークスルーするには、「当たり前」を注意深く検証(=見性)して秘密を発見していくしかないようです。「当たり前(=自然)」にしていることが、実は取り違えている「転倒」なことだと気づくかも知れません。

 

 私たち人間は五感を通して様々な情報が入ってきますが、約80%が視覚だと言われています。言い換えると視覚に80%依存しているかもしれません。「見える」というありふれた「当たり前」のことにフォーカスしてみます。

 私たちの瞼が開いていれば「何かが見えている」のは考えるまでもなく「当たり前」のことのようです。僅か2mmから8mm程度の間で変化する瞳孔から光の振動(=波・光子・周波数・エネルギー)が入り網膜で感知して視神経を通って像として「見える」という現象があるようです。

 

 「見ている」との表現には、自分の意志で自分の見たいものを「見ている」ということかもしれません。自分の意志で見たいものを選んで視線を移動して「見る」という行為を行っているのではないでしょうか。自分の意志で「見る」のなら「見たいもの」だけを見ることができるはずです。しかし、見えている全体は取捨選択できずに全てが視界に入っています。もし、視界に入っているのが部分的に見えないとなると、どこから何かが飛び出してきたり突然の出来事に対応できなくなってしまいます。意志とは無関係に全てが「見えている」ようです。

 

 「鳥を見ている」ということを考察してみたいと思います。私たちが実際に五感で感受している過程はどうなっているのでしょうか。

・何だかわからない物体(=ここでは鳥)が光を反射し視界に入り動いている何かと気づく。(この鳥が主体となっています)

・瞳孔から光の波長(様々な電磁波)が自動的に入ってくる。(見せられて受け取っているので自身が客体)

・常に生滅していて更新されている。前のエネルギーは消えて新しいエネルギーとして常に更新され続けている。

光エネルギーはすぐに消えるますが新たに供給されているようです。循環サイクル(=無常)の中で生活しています。

・網膜に光の刺激(=エネルギー)があり視神経を通って脳に何かの像が作られている。

・今までの経験や知識からその何か認識され「鳥」という概念に一致した。

・「鳥」だと結論づけられ、「鳥」という言葉が浮かび上がる。

 何か(=飛んでいる物体に「鳥」というラベルが貼っているわけではありません)が「鳥」であったということです。「鳥」を見たのではありません。[←]大事なところです。

 「鳥の囀り」を聞いたのではなく、何かの音が「鳥の囀り」と断定したということです。「甘い味」がしたのではなく、何かの味が「甘かった」と結論づけたということです。「金木犀の香り」がしたではなく、何かの香りは「金木犀の香り」と判明したということです。「金木犀」を知らない幼児には「金木犀の香り」を知りません。「香り」と「金木犀」が結びつきません。

 「あんこ」だと決めつけて食べますが実は「塩あんこ」ということもあります。「あんこ」を食べたのではなく「何か」を食べてそれが「塩あんこ」だったということのようです。友人が酒の席で頼んだ「ウィスキー」に見えるものを飲んでみると「ウーロン茶」だった。「何か」を飲んだら「ウーロン茶」だった。

ただ見えただけで自分の知識や経験で脳が先に「決めつけている」ということ。すべては名前のない「神秘的な何か」であり136億年(=宇宙開闢)以来一度も起こっていないことでありこれからも起こらない現象と出会っているということ。似たような経験が起こったとしても状況も自身も全く異なっている。

 「胃が痛い」のではなく、痛い箇所はたぶん「胃のどこか」だろうということです。五感で感じるのが先であり、その後に記憶や知識から導き出された答えと結びつけているということです。我々は対象としている名前があってそれから五感でその対象から何らかの感覚を得ているとしているようです。[←]認識の転倒はないでしょうか。

 

 「見る」と「記憶の再生」・「思考」・「断定」が瞬時に行なわれていて、「間」がほとんどありません。脳の癖であり「間」がないので「間抜け」かもしれません。脳の癖によって自分が主体であり「鳥を見た」としているようです。

 

 ここは何度でも確認しなければなりません。脳の癖で「◯◯を見ている」が「当たり前」なのでしょうか。分別が先でいいのでしょうか?「何かが見えている」が必ず先ではないでしょうか。区別・差別(=好悪・・)が先にきて対立を起こすことになり、社会生活で問題が尽きないかもしれません。

 全てはなんでもない「万物斉同」であり特別な何かで満たされてはいないということのようです。本質は「鳥」も「雲」も「空」も「木」も「花」も一枚の像として自身とともにあり、そのままに「見えている」だけ。紅葉を綺麗だと感じるのは自然の感覚です。執着しすぎて振り回されたりしなければ何の問題もありません。

 本来は全く区別差別のない全体(=視界に入る全体)が勝手に光を反射してエネルギーを放っているようです。存在が自らの意志とは無関係に主体であり客体となっているようです。我々は取捨選択できない客体(=受容体)としてあり、同時に発信(=自身の姿や音(=声))している主体でもあるのではないでしょうか。

 

 「鳥を見ている」のではなく何でもない全体から何かを抜き出して認識したものを「鳥」と認識します。「鳥」を「見ている自分」に気づいて「鳥を見ている」としている。何かを見て、見たものが「鳥」だということが本当ではないでしょうか。

 「見えているもの」は取捨選択されることはありません。まさに「あるがままの全体」を見せられています。「見えている全体」は分離などしていません。頭の中での像に名札がついている像があるでしょうか。善も悪も美も醜も長短もありません。人間の分別によって、像から分離させてレッテルを後づけして決めつけているのではないでしょうか。

 

 分別が働く以前(=幼児の自分・自我が芽生える前・固定観念のない自分)を想像してみてください。画像がデジタル記憶された状態はただの16進数の羅列であり0と1の(有無)の表現であり色も形もないようです。

 「ミミズ」を初めて見た子供は親にこれは何と聞くだけです。「ミミズ」ではなく、何かうごめいている生き物として見えている。「気持ち悪いとか汚いとか食べられないとか」はないようです。生まれたばかりの「雛」は何の概念もないので平気で口を開けて親鳥の与えた餌を飲み込むようです。人間も何でも口に入れて確かめます。

 私たちは「見えているもの」しか「見ることができない」のです。[←]当たり前ですがよく考察してみてください。

 

 目においては「見えているもの」が今の自分そのものです。つまり、「見えている」のが「私そのもの」ということのようです。「見えている」という現象が自分を作り出していますが「現象そのもの=自分」。「現象」はその場で消えていってしまうので「現象=私」は有るでも無いでもない。色(=現象)即是空(=実体がない)。

 もし「見えているもの」が「私そのもの」でなければ、取り外したり「見えている」以外の景色をくっつけたり「見えている」ものを誰かに渡すことが可能ではないでしょうか。「見えているもの」が「私そのもの」なので何も手がつけられずにただ「見えている」。

 「見ている」のではなく「見えている」のではないでしょうか。見ている者(=自身)は「見えているもの」だけしか見えていないので、「見えている」ものを見るしかありません。自身が自身(=脳での像)を見ているので、自身は見られる者として存在しているようです。

 

 全ての存在は宇宙物質から形成されているはずです。エントロピーの増大によって分解されますが、分解されて物質は宇宙から出ることはできないようです。分解された物質は何かの縁で結合され他の形体(=姿)に変化し続けているようです。様々な姿となって存在となり出現しては消えていく。存在はそれぞれのエネルギーで様々な働きあるようです。存在の意志ではなくまさに宇宙のエネルギーと同調して動いていのではないでしょうか・・・・。

 

 まず自分の意志とは別に「見えている」という実感に気づくには、なるべく思考にかからわず(=言葉が浮かんでも放っておく)にただボッーと「見えている」状態でいるしかないようです。

 思考で分かろうとすることで問題を作っているようです。「見えている」のは「見えるまま」で一切が知られているということ。「見えているまま」から次(=分別)にいかない経験を積み重ねていく。

 「見えている」現象そのものが自分だということのようです。一生懸命に探し回っているこの自分がすでに「見えている」現象そのものであり探される「自分そのもの」であり見つかっています。「見えている」ことからどうやって離れて何が見つかるのでしょうか。すでに出会いたい「それ」であるということ。我々が抱いている「悟り」があるとしたら既に達成されていて「悟り」から離れることのほうが不可能ということのようです。「悟り」という何かは無いということが分かり日々に安住して一期一会を楽しむ。

 

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


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棚から牡丹餅はあるだろうか [気づき]

 願ってもいないことが叶ったり、全く専門外のことを発見できるでしょうか。残念ながらほぼ不可能のようです。宝くじで一攫千金を得ることに興味のない人は「宝くじ」を買うことはないようです。どうせ当たらないと思っている人は「宝くじ」を買うことはないようです。1等の当たる確率は1千万分の1ですから、5万人入る野球場で200試合(1年50試合観戦するとして4年)で1本しか出ないホームランボールを掴むようなものです。10枚買えば20試合、100枚買えば2試合で済みます。1千万枚(30億円)買えば当選するかもしれません。確率を計算すれば勝馬投票券の方がまだましなようです。

 願わなければ願いを叶えるために動こうともしないので、願いには近づくことができないようです。

 「発見」についても努力がかかせません。例えば新種の蝶を発見するには既存の蝶について熟知していなければなりません。全く見たことがない蝶と分かるためには、未開拓の地に行ったり準備が整っていなければなりません。また、当たり前を当たり前として見過ごすようでは、「観る眼」が開かれないようです。普段の生活の中で当たり前に起こっていることに疑問を抱き、不思議に思わなければ単に「当たり前」で終わってしまいます。

 偶然に発見するのではなく執念によって必然的に発見されるようです。見つけ出そうとする努力を重ねることで、不可能から1億分の1へさらに100分の1へ最後には「刀折れ矢尽きる」ところまでいってようやく偶然が必然の「発見」となるようです。

 

 誰もが「りんご」が落ちるのを見ていたし、風呂に入れば水かさが増える体験をしています。立っていれば地面から押し返されるような力を感じています。教えられるまでもなく誰もが知識以前に知ったり体験していることです。当たり前のことを当たり前とスルーしてしまうのかそれとも「法則」のようなものが隠れているのか。当たり前を観る「些細な違い」はのちのち「大きな違い」となるようです。日々誰もが体験していて誰もが見て知っているのですが「気づかない・発見できない」ことを「神秘」と呼んでいるだけのようです。「神秘」は実は「見逃し・無知」と同意語かもしれません。

 「発見」できたときに、見逃し続けていた自身の滑稽さに気づく。また、自然の仕組みの巧妙(=光明)さに驚くかもしれません。自身(=「社会的な自己」自我)が自身(=「本来の自己」)より優位に働いているので見えていなかっただけのこと。

 「本来の自己」はパラドックスであり「公然の秘密」と言われる所以なのかもしれません。思考や経典や論理や哲学で発見できていれば誰もが恩恵に預かれるのですが、他人の知識ではなく自分自身で自分の身体でしか発見できないようです。お金はかかりませんが努力と時間がかかるようです。棚から牡丹餅はあり得ないようです。

 

 坐禅は脳に染みついた宿便(=固定観念・アイデンティティ)を出してくれるようなものです。日々の坐禅によって、だんだんととらわれから解放され快調(=快腸)になっていくようです。

 何の目的もなくただ坐ることで、脳が身体に従うようになるようです。何もせず何の目的もなく坐っているのですから、湧き起こってくる思いはすべて「偽り=妄想」だということではないでしょうか。身体は何の要求も欲求もなく坐っているだけです。坐禅中では、脳(=身体の一部であり身体そのもの)で起こっていることは単なる感覚の一種であって、取り合う必要のないどうでもいいことではないでしょうか。

 

 坐禅中は、脳に滞っている便(=ゴミ・カス・煩悩)が出てくる垂れ流しておけばいいだけです。便を掴んではいけません。わけのわからない思いが出てきますが手をつけない。

 堰を切ったように思いが出ると対処が難しいことになるかもしれないので5分程度から徐々に時間を伸ばしてやっていくのがいいかと思われます。また不安であれば近くの禅寺でお試ししてからのほうがいいかもしれません。自身と向き合い自身のためにすることです。「本来の自己」は常に働いていて一度も見失われていないことを発見することと思います。片時も離れること無く付き添っていて、「本来の自己」のほうが尋ね人だったということ。

 

 何もしないということは「社会的な自己=自我」にとっては一番の苦痛です。縄を回転(=活動)させることで実体があるように見せることができます。物質も原子の結合であり素粒子が高速で回転しているだけかも知れません。眼の錯覚で実体があるかのように感じているだけかもしれないのです。

 アイデンティティは頭の中でそう思い込んでいる実体のないものです。電車で隣に坐っている人が何者か知るよしもありません。たった1枚の名詞に印刷された会社名と役職と氏名が「自分」なのでしょうか。会社を辞めてしまえば何のアイデンティティに頼ればいいのでしょうか?

 そんな実体のないただの思い込みの中で生きているのが「社会的な自己=自我」かもしれません。「社会的な自己」は常に回転(=活動)していないと実体がないことが見破られます。「私」は◯◯で◯◯をしているということで実体があるかのようにしています。何でもない空っぽの自分を認めたくないのが「社会的な自己」の本当の姿のようです。外見も肩書も所有物も当の本人とは一時的な偶然のただの情報でしかありません。温泉で素っ裸になってしまえば、誰も同じ何でもない「得体の知れない生き物」として動いているだけのことのようです。


 

 脳(=思考・主体)>身体(=コントロールされる客体)という間違った思い込みが染みついてとれないようです。脳は身体の一部であって、一部が全体を統制しているわけではありません。身体の各部位の情報が脳に集められていて仲介役をしているだけかもしれません。

 学校教育では知識を蓄え思考することで解決するという前提で教え込んでいます。スポーツでも戦略や戦術は思考によって導かれ勝利できるという論法です。しかし、脳が身体を動かしているのではなく日々の積み重ねで身体に憶えてこませることで脳を離れてゾーンといわれる領域で動くことが出来るようです。

 脳には処理限界があり、身体を制御するスピードを超えた場合には脳の制御システムから切り離され身体に委ねたほうが効率的に身体が動くようになっているかもしれません。脳は過大評価されているだけで、身体の方が主体となって動いている方が問題なくスムーズに生きられているかもしれない。身体より人生が大事なのか身体があるから人生が送られているのか。生きるために食べるのではなく、食べられる身体であるから生きていることを味わえるし生かされてここに生きているようです。頭が考えて「生きるために食べるとか食べるために生きるのか」とくだらない質問をします。

 どう生きるかではなくすでに今生きています。どう呼吸するかを考える必要があるでしょうか。素晴らしい呼吸も悪い呼吸もありません。素晴らしい生も悪い生もありません。勝手な定義で惑わされずに頭を空っぽにすることに勤めたほうがいいかもしれません。

 まず身体が先で頭での思考を後回しにする。身体に聞けば身体が答えてくれます。一度身体に任せっきりにすることも試す価値があります。自我の野放図で欲望のままや衝動のままということではありません。食べなくてはならない時は頭に身体が伺いを立てるわけではありません。頭は常に後回しに、頭がでしゃばるから問題が起こるのではないでしょうか。

 

 「人馬一体」になる前は、乗られる馬と乗る人と分かれています。徐々に人の意志と馬の呼吸が合致していき乗る人もいなければ乗られる馬もいない状態になり何事も起こっていない間にゴールしてしまった。主も客もなく一体となり、主客がなくなり「走」があったということ。

 

 スポーツ観戦で応援される選手もなく応援している自分もなくただ歓声の中で、気がついたら点が入っていた。観ていた自分もなく観られていた選手もいない。そこに「私=自意識」はなく試合と一体となっていた。温泉で入られる湯もなく入る自分もなく、ただ湯と一体となり「くつろぎ」だけが感じられる。そこに湯を感じる「私=自意識」はなく、ふと気づくと服を着ている自分と出逢う。仕事に集中すると知らないうちにプレゼン資料が出来上がっていた。料理をしていると、具材と自分という感覚がなくなり気がつくと料理ができあがっていた。等々日常の殆どの部分で自意識などないようです。・・・

 

 身体が主であり脳は部分であり従ということのようです。自分の身体に「右足を上げて」と命令してすぐに上がるでしょうか。身体のどこかが痒いと脳が命令しなくても手が自然に掻いているのではないでしょうか。我々の身体の動きは逐一脳がやっているのではなく、身体そのものの働きとして動いているだけのようです。

 

 自身を観察してみると、何でそこに眼がいったのか何で足を動かしたのか何で首を曲げたのか・・・・一体自分の意志で動かしているのかを点検してみる必要があります。

 鳥が枝から枝へ飛び移りどこかに飛んで行きますが、鳥の意志なのか自然の働きで自然に動いているのか疑ってみても損はありません。鳥の動きも我々の動きも同じで自然に為されていることに気づくかもしれません。生命の動きがあって、どうして人間だけ意志をもって動いていると言えるでしょうか?脳がすべての動きを統制しているとするのは人間が脳にすべて従属していることを肯定することになります。脳のプログラムに些細なバグがあったら身体は統制されることなくバラバラに動くのでしょうか。各臓器をコントロールしているのなら病気になるまえに処置できているはずですがそうではないようです。脳を過信することは危険かも知れません。

 

 生命が無為自然に動いているのは宇宙の動きそのものかもしれません。海がうねっている時は海水はうねりに逆らうことなくそのように動いているだけです。1年の季節に合わせられているし1日の周期にも合わせさせられているようです。真冬に頭が命じるから裸で外に出ることはありません、冬にはどんな生命でも従わざるを得ない。

 

 エントロピーが増大するのに、汚れている部屋が自然に整理整頓されて綺麗な部屋になるでしょうか。水に解けた氷が時間が経って元通りになるでしょうか。全ては朽ちて分解され、異なるものに吸収されて変化しながら異なるものに結合されるのが自然の働きのようです。

 自然に分解して消えていくはずの「思い」を後生大事にすることは自然の道理に反しているかも知れません。只管打坐は自然の道理に従い身を委ねてるだけのことのようです。自然が解決してくれます。「思い・固定観念」を溜め込むと問題(=苦)になるようです。小学校の時の問題(=苦)はどこにあるでしょうか。笑い話としてあるだけかもしれません。自然が解消したのか、自然に消え去ったのか、どうでもいいことだったのか、一度振り返ってみるのもいいかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。




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発見する [気づき]

 「悟りを開く」のではなく「悟っていることを発見する」

 

 私たちは知識や概念を手に入れることである境地に達することができると勘違いしているようです。数学の方程式のようにあるデータを入力すると自動的に答えが出る。「覚る・悟る」ことによって、迷うことも苦しむこともなく現実の問題を解決できるスーパー方程式が手に入るという勘違いです。知識を得て賢くなれば社会的な問題を乗り切ることができるというのが学校での教育のようです。

 

 学ぶとは多くの知識を身につけて、知識を駆使して人よりも速く処理できる。心理学や策略を巡らせて表面上の人間関係を構築して世間を渡って行こう。お金を稼ぐことで、あらゆる物やサービスと交換できる。お金は魔法の小槌であって全ての問題を解決に導くことができるという安易な思考サイクルに陥っているようです。

 

 アフガニスタンで活動していた中村哲医師は、「飢えや渇きは薬では治せない」とおっしゃていました。薬という対症療法では限界があり、治水事業によって国土を発展しなければ根本的な解決にはならないと行動に移されたようです。

 私たちの日々の生活も対症療法であり、混乱や葛藤に巻き込まれて生活させられているように感じられます。哲学は概念によってパラダイムシフトを起こして社会の方向性を変換させる力があるかもしれません。個々の人間にとっては「本来の自己・本来の面目」を発見することで自らが何者かを直知することができます。

 

 「覚る・悟る」という能動的なことで「覚り・悟り」という状態を手に入れるとか掴むとかではありません。すでに私たちは「悟っている」状態であるにもかかわらず単に気づいていないだけです。鳥は鳥であって、鳥が努力して鳥になることはできません。鷹が鷲になることもできません。「悟っている」のですから「悟る」こともできません。

 「悟っている」ことを発見することができるだけです。「重力」は見ることも触れることも掴むこともできません。地球上至る所に「重力」が働いて地球に落下しています。「重力」に気づくには落ちてるモノを見ることで見えない「重力」の働きを見ることができます。

 

 「私は悟った」と何かを得たり何かを掴んだように表現するので誤解が生じているようです。得るとか掴むとか達成するということではないようです。特別な存在になるのでもないようです。見性とか大悟と言われ「そうだったのか」と脱力したり愚かな自分がおかしくなって大笑いしたりやっと苦労して探していたのが探されていた。探している自分がいなければそれで良かったという顛末のようです。ただただ妄想で一人芝居をしていたということ。自らがシナリオを書いて自らが演じているのが「社会的な自己(=アイデンティティ)」。それも分かって「社会的な自己」も何にも問題なくOKとなるまで徹底して齟齬をなくして本音と建前のない平凡な生活を送る。

 

 物が落ちることは子供でも経験していますが、何の不思議でもなく当たり前のこととして受け取っています。

 悟りや仏性もどこにあるのか探す意味もないほどいたるところで働いていています。どれが「それ」どれが「それ」ではなく、どれもこれも「それ」であり五感で感受するものすべて(=一切)が仏性そのものです。

 

 例:朝目覚めて、自身の思考によって身体の隅々までいちいち細々と指令をだして「右足の親指をちょっと曲げて、右足の踵をシーツにつけてゆっくりと滑らせて膝を曲げる・・・何十万の細かい指令をいったい誰が出していいるのでしょうか」そこに「私=思考」などいません。「私=思考」なくして日々生きています。

 残念なことに、「私=思考」が「悟り」を開くことができるという大きな間違いをしているようです。この思考(=分別)以前の状態が「悟っている」ということに気づきません。

 私たちには「姿」がありますが「空っぽ」であるからどんな情報でも執着や忌避することなく受け取っているということのようです。

 

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真理と法則 [気づき]

 宇宙=真理=1=0=無限=永遠、永遠で無限ということはどの瞬間もいたるところ真理そのもの。真理でない瞬間も真理でないところもない。全てであるということは「真理が無い」というのが無い。掴むことができないので「真理が有る」ということもない。

 深海で一生を終える魚は海水の中で生きているということを自知できるでしょうか。(深海魚として生きたことがなく推測でしかありません)海水が「有る」ということを自知するには海水から完全に分離した体験が必要とされるのではないでしょうか。真理がない場所にいることによってこそ真理を知り得る条件となる。真理を完璧に知っていて、真理でないことを完璧に知っていなくてはなりません。つまり真理を知ろうとしている人は、実は真理を予め知っていなくてはならないという矛盾があるということに気づかなければなりません。

 宇宙そのものが真理であり、宇宙全てを知り得ないものであるなら真理は0(=無)としてもいいかもしれません。宇宙全てに真理が現れているのなら自身も含めて真理から離れることはできないようです。「宇宙空間」という言葉は「地球空間=宇宙空間と異なる環境」という前提にがあるからあるようです。地球も宇宙空間に含まれ目の前の空間も「宇宙空間」であることに間違いないようです。月まで届いている紐があるとして、その紐にフックを引っ掛けた箱を地球まで持ってきます。宇宙空間と分離してなければ無事に地球に届くことになりますがどうでしょうか。地球空間も実は宇宙空間であり分離されたものという概念を取り除けば、「宇宙空間」という言葉を使う必要性はないようです。「宇宙空間」ではなく単に「空間」でよければ「宇宙空間」という特別な言葉は存在理由がなくなります。「宇宙空間」という概念が無くなれば宇宙空間は無いということではないでしょうか。

 地球という限られた環境に存在している私たちは、入力されたものがブラックボックス(=何らかの処理)を通って出力されるという法則性を発見してきました。科学者によって発見されたのであって、発見される前から「物が落ちる」ということを体験していたし見ていたはずです。浮力やボイルシャルルや慣性の法則・・・上げたらきりがないほどの物理法則が地上のどこでも働いているようです。
 アメリカ大陸も発見(=discover すでに存在しているもののベールをはいだ)されただけで、発見して名づけただけのようです。
 法則は真理のほんの一部の現れや働きを方程式にしただけかもしれません。原因(=入力)と結果(=出力)の方程式(=法則)として表されているということではないでしょうか。
 私たちは未来(=未知)に対して不安を持っていて、なんとかして解決したいので必死に原因と結果の関連性(=方程式)を探しています。コンピューターによって膨大なデータ(=入力情報)を処理して予測(=結果)したいようです。
 真理は全てであり知り得ず探せないし掴めないし得ることができない。法則は方程式で表され、入力データがあれば出力が確定するということではないでしょうか。


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真理はつかめない [気づき]

 真理は探す対象でしょうか。宇宙に真理がないところや真理がない瞬間があったでしょうか。「魚は水中に居て水を知らず、人は妙法の中に在て妙法を知らず」妙法を真理・重力・物理法則・覚り・福・・に置き換えて考察してみてください。

 宇宙開闢以来、宇宙が真理でない瞬間や真理でないところはどこかにあるのでしょうか。真理が無限であって永遠でなく限定された時と限定された場所にあるのなら、どうやって真理を探し出し真理と合一すればいいのでしょうか。宇宙一杯真理であれば真理を探す必要はないし、真理を得たり真理を掴んだりはできないようでう。水中で水をつかむことができないようです。目の前の空気も掴むことがことができません。水中から出れば水をすくうことはできます。真理から分離すれば真理は対象となるかもしれません。残念なことに宇宙(=真理)から離れようにも離れることはできません。

 

 真理とは人間が勝手に定義していることであって、「社会」や「日本人」などどこにいるというのでしょうか。「社会」を掴んだり見たりはできません。ただの頭での概念であり、言葉にしているだけのようです。

日本語を全く知らない人に文字の「日本人」を見せても全くわからないし、「nihonjin」と発音しても通じません。犬に「私は日本人」だよと言っても分からないし、米国人と日本人に並んでもらい「日本人の方へ行きなさい」と指示しても何を言っているのか犬にはさっぱり分かりません。

 同じ言語で同じ教育を受けて、概念を理解している人間だけが本当なのか嘘なのかを判別できます。嘘ではない本当のこと(=真理としているだけ)とは人間の言葉で解釈された限定された真理かもしれません。

 

 宇宙そのものが真理であれば、苦しみも混乱も悩みも平安もすべてが真理ではないでしょうか。極端に言えば戦争も悪人も真理そのものではないでしょうか。嘘の戦争もないし嘘の悪人もいません。様々な形態や働きがあるようにただそのようになっているというだけかもしれません。コインの表裏のように闇もあり光もあります。

 正義という言葉は悪があるからこそ正義があるだけで、悪がなければ正義など存在しません。聖として誇らしげにできるのも悪があってこそかもしれません。悪が無いところには聖は必要ないかもしれません。

 重力(=法則)を見ることも触れることも得ることもできないようです。姿形がどのようなものであろうとも、あらゆる存在に重力が働いています。悟りも重力と同じような普遍的な法則であって、人間本来が備えているものではないでしょうか。物が落ちるのを見て重力という力が働いているのがわかります。

 

 人が五感で認識して分別(=脳内のブラックボックス・固定観念等)する以前の、ただ認識して見えているまま・聞こえるままの無為での五感が働いている状態が「本来の自己」と言われるのではないでしょうか。

 つまり、だれもが悟っていて悟りをひらくことなどできない。人間に対して人間になることなどできるでしょうか。すでに悟り(=コンピューターのOS)を通して生きているのが人間ではないでしょうか。

 

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万物斉同ー3 [気づき]

 何でもないことを「知ったり」「知識としたり」するのが脳の癖であると見抜き、思考はいつか消えていくものとして囚われなければ煩わされない。何者かになるわけでもなし、何かを掴むこともなく、何かを得るわけでもない、何ものにも影響されることのない「本来の自己」。「社会的な自己=アイデンティティ」は何でも付加して比較してばかりいるようです。「社会的な自己」がどんなに頑張っても「本来の自己」を知ることや、掴むことや、得ることなどできないということに気づく。何でもない「本来の自己」が何かである「社会的な自己」であるでしょうか。

 

 私たちは、何故見えて、何故聞こえて、何故感覚があって、何故思考できるのでしょうか。今更、当たり前にできていることをあえて考察する必要があるのでしょうか。

 

 今見ているものから目を移すと、”不思議なことに”さっきまで見えていたものが消えてしまいます。今見ているものだけが見えています。ついさっきまで見えていたものが全く残っていない(=消え去っています)ようです。

 しばらく光を見つめてから瞼を閉じると光の残像が見えます。普段は光の残像は気にならないようです。光源からモノに光が反射することで光の振動(=波長)が発せられているようです。光の波や粒子は光源から反射しなくなれば消滅して「無」となっているようです。

 つまり先ほどもまでの光の波長は「無」になり、新しい光の波や粒子をそのままに受け容れているようです。もし波や粒子が「無」にならず、網膜に記憶されたまま残ってしまったら今の像が重なって見えることになります。

 鏡には何も残るわけでもなくただ前にあるものを映し出すようなものではないでしょうか。

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可視光線の周波数は405–790 THz(THzテラヘルツ:1秒で1兆の波)であり、網膜で1秒間に405兆から790兆の波を感受して色を識別しているようです。目をそらせば異なる光線を感受することになります。波長が短くなる(=X線・γ線・宇宙線)と人体に危険を及ぼす。レーザー光もクラスがあり出力(=エネルギー)が高いものを直視すると目に異常をきたようです。私たちは常に光の波長や音の波長に囲まれているようです。

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 皮膚感覚はどうでしょうか。触れている時は触れているという感覚がありますが、触れているものを離すと感覚は無くなります。よほど強い感覚でなければ消えてしまいます。

 自身の身体で音・味・匂い・思考について実証してみるのもいいかもしれません。自身の力で「無=ニュートラル」の状態を作り出しているわけではないようです。あらゆる生き物に備わっている「無=ニュートラル」の状態があるようです。

 感覚自体には特別な個性はなく、その生物に特有な見え方聞こえ方感じ方のままに・・入力(=input)されているようです。人間では、固定観念・記憶(=ブラックボックス・処理)というフィルターを通って固有の分別をして異なる表現(=output)となるようです。

 

 あらゆる存在(=宇宙)の根源はビッグバンと言われています。根源が同じであれば存在の本質も同じはずです。存在の本質が同じであれば、是非や善悪や美醜ということがあるでしょうか。顕れや働きを見て勝手にラベルを貼っているのかもしれません。人間の固定観念・記憶(=ブラックボックス)を通過する前においては、区別・差別されることのない同質の存在としてあるだけではないでしょうか。

 

 生まれると同時に備わっている「本来の自己」。「本来の自己」は何ものにも操作されず、汚されず滅することがなく増えたり減ったりすることのない永遠不滅であるもの。見えるまま、聞こえるまま、味わえるまま・・あるがままをそのままに感受している「それ」。

 ブラックボックスを通ることで固有の思いが浮かんできます。その思いが言葉となっているようです。どうでもいい思いに翻弄されて混乱・葛藤しているのは誰(=社会的な自己)でしょうか。思いは取り扱わなければ勝手に消えていきます。知らなくてもいいことを一生懸命に知ろうすることで「ことば遊び」に巻き込まれてしまっているようです。何かを知ることや特別な心境になることで食べ物の味が変わることがあるのならおもしろいのですが・・・。知ることや知識が増えることで五感で感受できる感覚が変わることを経験することはないようです。

 

 禅の公案に「非風非幡」というものがあります。言葉を使って「ことば遊び」の愚かさ(=混乱・葛藤)を見抜いて「ことば遊び」から卒業するというものです。「知る・分析する必要のないこと=妄想=頭に浮かぶほとんどのこと=どうでもいいこと」があり、今ここで実感している生き生きとした生の感覚があります。

 政治や科学や哲学や文学や・・・研究者やそれなりの立場の人が一生懸命に思索して行動しているはずです。私たちの立場で責任をもって考え実行しなければならない状況が訪れたのなら一生懸命に考え実行すればいいだけの話しのようです。国際政治の事をいくら考えても相手国を動かすことなどできないようです。

 風が原因で幡が揺れているのか、幡が揺れているので風を受けることができるとか、主体がどうの客体がどうの、見ている人がいるから起こっているとか、原理や法則を分析しようだとか、誰かに教えようとか、究明することで他のことも理解できるとか、あらゆることを知れば悩みが無くなり平安になるのではなかとか・・・きりがありません。

 

 どんなに白熱した議論をしても、喉の振動を口と舌の組み合わせで発信しているだけのことです。現実を変えることはできません(=幡を風の向きの反対にするとか)。頭の中で祈ったり考えたりしても現実を直接に変化させることはできません。誰もが平和を願っているはずですが、軍需産業がなくならない限り武器は地上から消えないのではないでしょうか。平和を願う(=思うだけで何もしなければ妄想)で、一方の軍需産業は日々武器を作り続けて武器がどんどん増え続けています。宗教界のトップが”すぐに自宅の銃を廃棄して隣人を愛してください。”と訴えれば銃も無くなっていくかも知れません。教会で銃器回収ボックスを設けてはどうかという人もいます。平和を祈っても銃は1丁も減ることはないかも知れません。考えただけでは何も変わりません、実行することで武器は役立つものに変化させることができる。子供に戦争の愚かさや武器を作っている大人は自身を苦しめているということを教育していくことが必要かもしれません。

 

 議論だけで手足を動かさなければ、枯れ葉一枚も動かすことはできません。幡や風についての議論の最中に「熊」が出てきたらどうするのでしょうか。議論どころではありません。自身の身を守ることが最優先です。どうでもいい「妄想」で混乱・葛藤して悩んでいるのは自分自身です。平安をかき乱しているのは当の本人の頭の中の「ことば遊び」かもしれません。考えなくていいことを考え、やるべきことがやれていない。生きることは「考えたり・議論」することではなく、生き生きとした生の感覚を今ここに味わっていることかもしれません。

 

 作務がとどこおりなくできる。やるべきことがいらぬ考えで邪魔されない。「妄想・議論」がなくてもちゃんと生きている自分がいます。自身の体験として肌身で実感できるのではないでしょうか。食材を切り刻んだり、焼いたり煮たりかき混ぜたり盛り付けたりしていると自然に料理ができあがります。考えて身体を動かすでもなく、自然と身体が動いて支度をしている。ゾーンに入っている感覚になるかもしれません。日常でも、掃除や片付けやアイロン掛けやタイヤ交換や車の洗浄や靴磨きや・・・・あらゆる所作でゾーンに入っているかも知れません。

 

 なんだ考えなくても(=妄想しなくても)ちゃんとできるし生きていけるんだ。考えないで行なったほうが充実しているかもしれません。何かを探求しようがしまいが、答えがあろうがなかろうが生は途切れることなく続いていきます。

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荘子32を参照してみてください。議論の対立が起こるというのは、その対立が気まぐれな主観から生じたことを示すものであり、そのような対立は真の対立ではなく、対立がないにもひとしいのである。このようなみせかけの対立を、天倪によって和合させ、自由無碍の境地のうちに包容することこそ、真に永遠に生きる道なのである。

 是非や勝ち負けなどどうでもいいことを永遠と議論しても何にもならないと分かるというもの大事なポイントかもしれません。どうでもいいことを知識だと勘違いしていると気づくことも大事なポイントかもしれません。「知りたい」「知らせたい」という本能があり、脳の癖であるという気づき。脳内での「言葉遊び」からの卒業はいつになるのか待ち遠しく感じられます。

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 TVのコメンテーターさんはコメントするためいに一生懸命にネタを仕入れて話しているようです。ふと「それについて知ってどうする」と自問自答することがあります。誰かの生い立ちや、誰かの趣味や交友がどうのと知ることに何があるのか?

 遠い将来の話かもしれません。人類が火星に移住していると想像してみてください。火星の天気がどうなっているとか暮らしぶりがどうだとか。火星について知りたい人がいて、火星の住人も自分たちの活動を誇らしげに報告したい状況がある。逐一火星の情報を地球に送信してきます。もし火星の基地で不具合が起こって大惨事になったとします。我々地球人がどんなに心配しても助けに行くことは不可能です。大惨事を知ることは大切なことでしょうか。それとも知らないでいたほうがいいのでしょうか。どうすることも出来ないことを知ることに意味があるのでしょうか?

 子供の時は世界情勢や星座の名前や花の名前や鳥の名前も知らなくても、何の引け目も感じずに楽しく生きていたような感覚があります。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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救われている [気づき]

 私たちは自らの意志でこの世に生まれてきたという厳然たる証拠を開示できないようです。望むと望まざるとにかかわらず「今ここに在る」というのは疑いの余地がありません。「地球」と名づけられた「惑星」が「太陽」の周りを自転しながら漂い回っているようです。この太陽系と言われる「系」自体も宇宙空間を彷徨っているかも知れません。宇宙自体もなにかしら回転していたり周回しているかもしれません。何でも勝手に想像できる人間には驚嘆させられます。

 あらゆるものは周回(=循環)しながら生滅しているかもしれません。光も粒子であり波であるといわれています。物質をどこまでも最小にしていけば点(=ドット)のようなものに帰結するかも知れません。

 我々が生きている世界では、エネルギーが波となって伝搬しながら相互に送受信され循環しているといえるかもしれません。生命の誕生は水と熱エネルギーが必要とされ有機物によってもたらされたようです。

 

 植物の「種」は自らの意志などなく、風や昆虫や鳥によって運ばれどの場所に根付くかなど知るすべもありません。植物が発芽する条件は「空気・適当な温度・水」(栄養は種子の中にある)が必要であり成長のためには養分(葉で光合成)・光(エネルギー)・空気(二酸化炭素)が必要なようです。一体何(=ブラックボックス)が生命の発生と成長のシナリオを握っているのでしょうか。私たちが「今ここに存在」して「気づいている」ということを遡っても自らの意志とは無関係なある条件によってもたらされた偶然と考えるのは不合理でしょうか。

 

 過去においては、現代ほど科学的進歩や哲学的思索の進展がみられずブラックボックス(=法則・原理等)の解明の糸口すらなかったかも知れません。一般の人々にとっては批判的思索の必要のない「全知全能の神」というわかり易い概念を使うことであらゆることに対して説明(=ブラックボックス)がつき責任転嫁(=神の怒り・神の恵み・神の試練等々)できるようです。あらゆる生命の直訴を聞いていたら「神」はとうに気が狂っているかもしれません。無数の生命が今この瞬間にも無数の思いで満たされていて、訳のわからない多くの言語で懇願されることに適切にアドバイスをくださるということ。「神」に間違いがなければそもそも懇願する必要もないほどに生きているはずなのですが・・・

 

 現象に対して観察や分析や実証を通して「謎=ブラックボックス」を究明しようと果敢に挑戦しているのが科学者・数学者の方々かもしれません。

 当たり前に現前している事象(=波・流れ・落下・浮力・・・)を数式化することで現実をブレークスルーできるようです。革新的な技術や道具・器具・機械・検査器具が作られ現在に至っているようです。

 

 この世にヒトとして生きていて、五感で認識できているという神秘性に驚かされている人は多いことと思われます。「私は在り・現実を知っている」という感覚がどこから来て、どうして分かっていることを分かっているのかと誰もが一度は自身に問いかけたのではないでしょうか。

 誰もが「存在の秘密」を解明したいと願っています。たとえ解明した感覚があったとしてもその感覚を「そのまま」に他人に伝えることはできていないようです。「そのまま」に伝えることができないので、内心を伝えるために言葉や文字や様々な表現(=芸術・音楽・ミュージカル・演芸・ファッション等々)で見せたり聞かせたり味わせたりしているようです。誰かの出力(=output)を「そのまま」に受けとることができないので指導する人が必要になるようです。

 つまり、誰もが「そのまま」を「そのまま」に伝えられず「そのまま」を「そのまま」に受け取れないということのようです。各自が独立した感覚・意志・心境であり本心は自身だけが分かっているだけのようです。本当の内心を分かってもらいたいが分かってもらえず、本当に分かってあげたいが分らない。しかし、ギリギリのところでお互いにズレていて一致することはない。似て非なるものの送受信を繰り返しているようです。

 神秘家の心境が「そのまま」に伝わって「そのまま」に受けとることができているなら誰もが苦労する必要はなく、理想とされる社会になっているかもしれません。

 

 今生きている世界では、他人の身体の「痛み・感覚」や頭の中での「思考・心境」を「そのまま」自身で再現できないシステム(=安全システム)になっているようです。あらゆることは生身の自分自身の中にあるものでしか感受できず、他から与えられたり他に与えることはできないようです。

 

 過去は消え去っていて未知なるものは現実にはありません。「今ここ」にある「感受や認識」は何が起こるか全く分からず永遠に神秘でありつづけるようです。「今ここ」は飽きることも尽きることもない驚きと共にあるようです。あらゆることが変化しているからこそ生きていられるようです。

 なにもかもが恒常不変であれば、何の変化もなくつまらないものに感じられるかも知れません。音楽は生滅しているからこそ味わえるのですが、同じ音が永遠に鳴り響いていれは何の感動もないのではないでしょうか。

 永遠の喜びや永遠の苦しみが続けば何時かは飽きてしまいます。人間以外の動物で二本足で立っていることは困難なことのようです。人間も自然にバランスをとって立っていますが本当は大変な苦痛を感じているのですが当たり前になっているので「苦」でなくなっているようです。「苦」が当たり前になれば「苦」も感じなくなるようです。単純な仕事を「苦」としていた人も慣れてくると「苦」でなくなるようです。「喜び」が続けば当たり前になり「喜び」でなくなる時点がどこかで訪れるかもしれません。

 「喜び」も「苦しみ」もコインの表裏でありどこかの地点で「無・中道」になったり反転したりすることがあるようです。

 

 近くで苦しんでいる人の「痛み」や意識した人の「痛み」がそのままに自身の身に降りかかったらどういうことになるでしょうか。他人の「痛み」を受け取れず断絶しているので「傷んでいる人に」冷静に対処できます。他人の「痛み」が度を超えた「痛み」で気を失うほどであったとしても、その人の「痛み」と同一の「痛み」とならないので救われています。幸いにも他人の「痛み」を「そのまま」に感じることはないようです。

 他人の思考や心境がそのまま自身の思考や心境になったらどうでしょうか。天才と言われる人と同じになったり狂人と言われる人と同じになったら絶えられるでしょうか?想像してみてください。小学1年生で高等数学を独学でできると気づいたら足し算や引き算の授業や高圧的な教師と上手く接することができないかもしれません。

 したり顔の僧侶の説法が単なる知識でしかないと気づいたときに真剣に聞いていられないかも知れません。

 

 若い時は「老人」になりたくなかったし、老人になったらいまさら「若者」にはなりたくはありません。病気になったからこそ「健康」がわかります。何も気にならないことが「健康」なのかもしれません。

 「今ここ」で何不足もないのですが、「欲しい」が不足を持ち込みます。「今ここ」で誰とも変わることも望まないし誰かと変わることもできません。誰が救ってくれるのか。誰を救うことができるのでしょうか。今この状態(=感覚や心境)を誰かに変化させられることはありません。既に「救われている」のではないでしょうか。

 

 一体誰がどのようにして釈迦様の「心境」を「そのまま」に分かるというのでしょうか。いつも一緒にいる人でも何を考えているのか分かりません。すでに消え去っている過去の人の「心境」をどうして分かるというのでしょうか?他人の感覚や感情は「表情や動作」を見てようやく推量することができる程度です。

 

 身体内で起こっていることは、自分自身の出来事であり他の一切と断絶されているようです。だれの「心境」もだれの「痛み」を「そのまま」に見に受けないのが幸せなことです。

 他人のせいで「痛くてしょうがないし、混乱してしょうがない」という不幸に陥ることになりません。私たちの身体や頭の中は、誰とも同じにならないから「救われている状態」と言えるのではないでしょうか。何を考えても他人にはわからないという「自由」があります。他人にコントロールされず「自身が自身のまま」でいられます。

 

 例:職場で他人の考えていることが全て分かったらいたたまれないのではないでしょうか。分からないから憶測できても本心を知ることをあえてしないから「救われています」

 精神的に混乱している人と同調してその人と同じ心境になったらどうでしょうか。他人の頭の中など知らないほうが幸せかもしれません。自分がその病気やその状態になれば否応なしに自知します。そこときこそ自身の体でしっかり味わえばいいだけのことです。

 

 人は良い方ばかりに目が奪われていますが、他人ののたうち回るほどの「痛み」や狂気で混乱した精神状態が「そのまま」自身に降りかかったと想像してみてください。耐えることができるでしょうか。

 生気に溢れた元気いっぱいの身体と神秘家の「心境」を兼ね備えた「何者」かでいることができるシナリオを描いているかもしれません。ある状態を願うことは逆の状態のリスクも覚悟しなければなりません。

 それよりも比べようもなく目指す必要のない「今ある誰でもない自分自身」でいられるという幸せ。宇宙で唯一のユニークな「存在」を味わっていると感謝してもいいかもしれません。

 刻々と変化している宇宙と同様に、宇宙でただ自分だけが味わえる感覚をしみじみと味わってみるのもいいかもしれません。

 

 お釈迦様と全く同一の「心境」を体験することなどできるでしょうか。もしできるとすれば「何でもない=無」地点しかないようで。無分別や無識別の只在るという状態。お釈迦様も生身のヒトであったことは間違いありません。我々と同じ、刻々と変化しているこの世という無常の中で生きていたようです。地球上で生きているヒトで、脳内で劇的な変化が起こったとしてもヒトを超えたりヒトから別物の人間になるでしょうか。ヒトを超えた何か(=超人)に変化したのでしょうか。ひと目で分かる「超人」であれば敬遠され近づくこともできず、一般人とは交わらないのではないでしょうか。食べて消化して排泄する機能に変化があるでしょうか。

 

 どのような神秘家でも我々と同じように老化し病気の身体になり死んでしまいます。恒常不変の面白くもない「心境」でいたわけでもないようです。私たちが永遠に死ねなかったら悲惨です。訳のわからない人に囲まれて、何かを得よう必死になっている人に付きまとわれたらどうでしょう。ほどよく体験しほどよく死んだほうが楽だと感じるかもしれません。永遠の生命は永遠の苦しみになり得ることも覚悟しなければなりません。

 寿命があり、常に即今をあるがままに生きていたほうが幸せかもしれません。

 

 我々は「他の誰かやシナリオ通りの何者か」になることなどできないようです。ヒトを超えることもできなければシナリオを描いてシナリオ通りになるわけでもないようです。誰とも比較できないユニークな存在であると自覚して、比較することの無意味さを知ることが必要なようです。あるべき自分や比較することからくる劣等感によって絶望する必要もないようです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験や思索によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

 


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今ここ [気づき]

 私たちは、他人が何を見聞覚知したかどのように感じたかどのように分別しているかについてはまったくの謎であり知るすべもありません。また、他人の「思考過程」は「ブラックボックス」であり知ることはできないようです。同じ人間であるのでかろうじて類推することができます。しかし、他の生物がどのように感受してどのような感覚なのかは予想もつかないのが事実のようです。


 個々の生物の一つ一つが宇宙で唯一無二の固有の感覚を受け取り固有の認識をしているようです。個々が独立した一つの思考体であり分別体であり行為体として存在しているようです。各生命体が特有の相入れない世界を持っていて個別の生を生きていると思われます。


 映画館で同じ映画を見ていてもお互いに異なる思考過程があり固有の思いが湧き上がっているかもしれません。


 


 ここに書いているのも言葉や概念のお遊びであり、個人的な「思考過程」です。何でもないところから何でもない感覚が湧き起こり、人間が意味づけしている概念とやらに乗っかって何でもない陰影として表現しているだけのことのようです。


 


 私たちは目の前に展開している存在と「今この瞬間」を自動的に感受(=見聞覚知)できています。個々人の固有の世界と相容れない世界を持っています。思想家や哲学者や宗教家が自らの世界から感得した世界観を説いたとしてもそのまま自身の世界にシンクロすることは困難なようです。


 生きていた時代や社会制度や言語や文化などあまりに相違がありすぎるかもしれません。発信している人もまったくの的外れであり、受けとる人もまったくの的外れのことをしているかもしれません。


 


<「今ここ」からどこにも行けない・「今ここ」にいる>


 私たちは「今ここ」を「私は今パリにいる」と地名をつけて表現しています。自身の身が地球上のある地点にいると認識でき、他に知らせることが出来ます。無意識に時間の概念を持ち込み現在地(=起点)を記憶して移動先(=終点)との距離と時間を計算しています。


 しかし、移動しながら「今どこ」と問いかけた瞬間に「今いる」その場所が「ここ=現在地(=起点)」です。自分自身に「今どこ」と問うてみてください。必ず「今ここ」にいます、「ここ」を他人に知らせるためや自己がどこにいるかを知るために現在の地点の「地名や緯度経度」によるだけです。


 


 どこでも「ここ」なのですが「ここ」を示すために便宜的に地名を使っているでけではないでしょうか。宇宙空間で昏睡状態から目覚めても「ここ」がどこかなどすぐに分かるでしょうか?また分かったとして移動する燃料が殆どなく通信手段が断たれていたら宇宙のある地点に意味があるでしょうか?


 実際私たちは宇宙空間のどこかに存在しています。宇宙空間のどこにいたとしても自身の身体は常に「ここ=Be here now」に目覚めている。頭で考えて解ろうとする以前に、誰一人残らず「今ここ」から逃れられません。「今ここ」を理解しなくともそうなっています。逆に「今ここ」から分離させられたり離れようとしても離れられないようです。


 便宜上、私たちは「ニューヨーク」へ行くとか「ニューヨーク」に着いたとか「ニューヨーク」から帰ってきたと言います。私たちの身体は常に一つであり「ここ」以外のどこかへ行くなど不可能です。  


 移動したい「ここ」が「ニューヨーク」と名づけられている地点であり着いていまいる「ここ」が「ニューヨーク」と名づけられている地点で帰ってきていまいる「ここ」が我が家です。どこに行ってもどこに着いてもどこから戻ってきても常に「ここ」のはずです。


 


 ある時間(=特定された時間)とある地点(=特定された場所)が記憶され、特定された「今ここ」から順次「今ここ」があり別の「今ここ」になっているだけではないでしょうか。タイムマシンで過去や未来に行けたとしてもその時の「今ここ」が身の置き場となります。時空間を移動する前の「記憶」を起点とすれば「どこかへ」移動したことになりますが、それはどこでもなく「今ここ」にしかいません。


 時間はただの振幅として捉えられうもので、重さや長さや累積された実体のあるものではないのではないでしょうか。実体がないので測る・計る・量るということができません。ただの点滅(=デジタル)や回転(=アナログ時計)によってしか表現できません。定規や重量計やカウンターなどの計器で測定できるものではないようです。メトロノームのように行ったり来たりするだけのもので時間は存在していないかもしれません。時間が存在であれば掴んだり所有したりできなくてはなりませんがそんなことはできません。目に見えない重力のように存在していないのに便宜的に1日を24分割して1時間として1時間を便宜的に60分割して1分を60分割して1秒としている、いまではセシウム原子の移動を基準としているようです。


 最初から◯年ではなく、便宜的に設定された起点をもとに◯◯年◯月◯日◯時◯分となっています。起点は人間だけに使われるだけであって他の生命には◯年◯月◯日などのカレンダーなどありません。光が差してくる角度や温度さえわかれば必要十分なようです。


 過去も未来もなくどこへも行けない。いつかどこかはないので、いつかどこかに何かを得ようとか何かを掴もうとか何かに成ることも出来ないようです。どこまでいっても「今ここ」であり探し物や見出されるのは「今ここ」にあるということではないでしょうか。「今ここ」は理解したりすることのできない境涯であり達成された境地にいます。起点もなければ終点もないので比べる事ができない「今ここ」です。


 


 良いとか悪いとかは比較によって感じることのうようです。比較対象とならない「今ここ」に生きているなら何が起こっていようが比べることのできない人生で初めての出来事で一回かぎりの出来事。いいも悪もない「そのこと」を経験しているにすぎないかもしれません。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 


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只管打坐 [気づき]

「只管打坐」

 ただ坐りなさいと言われても、意味が分からず坐るのは苦痛だけかもしれません。自身で確かめながら坐る方がいいのではないでしょうか。

 目的も達成も願望も結果も何もかも求めないでただ坐る。坐っている時は、何者かである必要もありません。日本人でもなく、男でも女でもなく、若くもなく老いてもいない、信じているものもなく、国籍も無関係、血液型も無関係、学歴も無関係、職業も無関係、収入も無関係、家柄も無関係、出身地も無関係、ありとあらゆる概念もアイデンティも持ち込む必要はない。

 坐禅では、「言葉」も「文字」も「概念」も何もかも不要です。判断する必要もありません。識別する必要もありません。
 思慮分別する以前の世界が「これ」です。「これ」の只中にあるので只管打座。「これ」と共にあるので仏そのもの。修行でありながら結果とともにある。

 身体が固定されているので、物理的に何かを掴むことができません。何も所有できない(無一物)。何も所有することにとらわれない(不可得)。動く必要がないので、自らという意志も持ち込む必要はない。何かを受け取ったり、どんな概念も受け入れることはない(無分別)。

 皮膚の色も関係ない、国境も関係ない、移民とかも無関係。責任もなく、義務もない、権利もない。親でも子供でもなく、達成することもなく、成就することもなく、探求する必要もなく、知る必要もなく、貪る必要もなく、怒る必要もなく、悲しむ必要もなく、嘆く必要もなく、怨む必要もなく、喜ぶ必要もなくあらゆる感情に振り回される必要はない。知識に惑わされない。一切から解放されています。

 只坐るのに人間関係もなく、宗教もなく、信じることもなく、固定観念もなく、比較する必要もなく、奪うこともなく、奪われるものもなく、疑うこともなく、奢ることもなく、プライドを持つ必要もなく、忌避することもなく、何かに帰属することもなく、何かを気にすることもなく、何も考える必要もありません。坐って、ただ吐ききって吸う。呼吸とともに呼吸が呼吸します。

 思慮分別する必要がないので、対立するものはありません。過去を振り返ることもなかれば未来に思いを馳せることもありません。今を憂えることもありません。今を憂えることがなければ今に安住します。今に安住すれば時間を思念する必要はありません。時間の概念を持ち込もこともない。時間が無ければ今だけが続く。今が続けば永遠となります。

 ここ(=坐っている場所)に憂えることはありません。ここを憂えることがなければここに安住します。ここに安住すれば場所を思念する必要はありません。場所の概念はここ(=坐っている場所)にありません。場所の概念がなければ何処でも良い。何処でもよければ無限の空間のどこに坐っても安住する。何処でも安住できれば無限の空間が果無く広がる。
 今ここは、永遠の時であり無限の空間であると解る。

 自己が何者かである必要もない。自己というものを一切持ち込む必要がない。自己が自己である必要もない。自己がいないので問題はない。
 自己がいなければ認識する自己もない。認識する自己がいなければ空っぽ。自己が空っぽなら一切があるがままで何も問題ない。

 自己もそのままで良く、一切がそのままで良ければ、自も他も無いのでなんの問題ない。自も他も無であれば、全くの区別差別がない。区別差別がなければ一つそのものである。自も他も無でありながら、一切とこの身体と心を働かせているのは何だ?
 思慮分別の起こる前にある刹那の働きは、思慮分別を起こさなければ縦横無尽に何時でもどこでも働いている「只今」。何時でも何処でも門は開いている。

 一切が一つそのものであり、永遠であり無限であった。一切の本質は一つである。ただ顕れが異なるだけである。一切が一つで永遠で無限でれば、一切悉有仏性である。
 
 顕れはそれぞれに働きがあるが、一つのものの異なる働きでしかない。手は手の動き、足は足の運び、口は口の動き。動きは綺麗サッパリなにもかも残さない。それでいていつでも動けます。
一切の同根は同じであるが、一切の顕れが異なり、一切の働きが異なっていてもそれぞれの役割に間違った働きはありません。

 あらゆる木々は地球という同じ地に根ざしているが、異なる木々が生い茂る、あらゆる木々は根を張り、幹は上に伸びる。

 すでに仏であったのに、思慮分別する癖によって仏の居場所から出ています。自分(=仏)を探すために自分(=自我)を持ち出して外に自分(=仏)を探し回っています。
 知るものは知られるものでした。意識は意識自身を対象とした瞬間に、もう一つの意識を持ち出すので分かれてしまいます。一つの意識にはなりません。一つの意識のが一つの意識であるには一つの意識のままであるしかありません。意識が意識を知ることはできません。知られる前なので「無」です。知るとは知る対象が無くてはなりません。「これ」は「無」であるので無限の働きが展開されています。

※坐るときだけでなく、掃除、草取り、食器洗い、歩いている時等々・・何人でもなく、男でも女でもなく等々 何者でもない「これ」です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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苦の生起について [気づき]

苦(阿含経 南伝 相応部経部12-43)[阿含経典一巻 P169 増谷文雄著 筑摩書房]

「かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。
比丘たちよ、わたしはいま汝らのために、苦の生起と、苦の滅尽とを説こうと思う。汝らはそれを聞いて、よく考えてみるがよろしい。
 比丘たちよ、まず、苦の生起とは、どのようなことであろうか。
眼と色(物象)とによって眼識が生じ、その三つが相合して触がある。触によって受(感覚)がある。受によって愛(渇愛)がある。比丘たちよ、これが苦の生起である。

耳と声とによって耳識が生じ、・・・

鼻と香とによって鼻識が生じ、・・・

舌と味とによって舌識が生じ、・・・

身と触とによって身識が生じ、・・・

 意と法とによって意識が生じ、その三つのものが相合して触がある。触によって受がある。受によって愛がある。比丘たちよ、これが苦の生起である。」

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 我々は、素粒子(実体のない「空」)でつくられた肉体という物質に感覚器官を備えています。感覚器官を内なるものとすると、外にある認識可能な①対象(色)があります。
 次に、五蘊(肉体と精神の動き)を経て感覚器である②六処によって感知します。次に、感知されたものに対して③識が生じます。①②③が相まって触(接触)したことで入力である受(感覚)になります。

 五蘊では、認識した瞬間に脳内で処理(イメージや記憶との照合)が行われます。あまりに速すぎて処理過程を追うことができないため、瞑想によって実体験するしかありません。(名色分離智)

 一切の感受は思い通りにならないのです。見たいものだけを見ることもできず、見たくないものを見ないこともできません。聞きたいことだけを聞くこともできず、聞きたくないことを聞かないこともできないのです。
 つまり、「あなた」の意志など一切関与されずものごとは起きているので「無我」なのです。起こってほしいことは起こらないし、起こらないでほしい事は起こっています。「諸法」(あらゆる事象)が制御者など存在していない「無我」であると気づかなくてはなりません。

 次に意(心の働き)と法(六境による縁)によって意識が生じ、これも出力である受(感覚)となります。次に、愛となるには、色(物)・声・香・味・触・法(観念)に対する欲望が起こります。この欲望が「渇愛」となります。「渇愛」は満たされることがないので、「苦」が生起するのです。

 「あなた」が意図しようが意図しまいが、すべてが「」へと収束していきます。どんなに抵抗しようが反論しようが、こうあって欲しいという思いがある限り「」となっています。
 「受」によって過去の「記憶」と照合し、未来のあるべき(=あって欲しい)現実を求める限り「思考」が止むことなく(=葛藤が止まらない)「苦」となります。


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