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純粋経験 [気づき]

青空書院「善の研究」(西田幾多郎著)

第一編

第一章 純粋経験

  経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。

<省略>

 他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘(そのまま)の現在意識あるのみである。

第二章 思惟

 思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動するのである。我々の意志に従うのではない。対象に純一になること、即ち注意を向けることを有意的といえばいいうるであろうが、この点においては知覚も同一であろうと思う、我々は見んと欲する物に自由に注意を向けて見ることができる。


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ブログ「父母未生以前の本来の面目 (2)」を先にお読み下さい。

 禅に「父母未生以前本来の面目」という公案があります。勘違いして取り組んでいる方も多いことかもしれません。問題の出し方が悪いと「自分の父母が生まれるより前の自分は何者か」だと思い込んで途方にくれて投げ出してしまいます。どこまで遡ればいいかというと、「父母」(=客体)だと認識する以前に自分(=主体)という者が存在したのかと問うてみてくださいということです。聴力はお腹の中にいるころから備わっているそうですが、視覚が使われて認識できるようになるには時間がかかるそうです。生来備わっている動物としての感覚(=仏の働き)で生きていたということです。成長するに従って二項対立として世界を見る癖がついてしまっている自分に気づきません。あまりにも当たり前に物事を分別して生きてはいないでしょうか。存在は存在としてあるだけなのに、自分にとってどうなのかを取捨選択するようになっています。



 「純粋経験」は分別以前の、ただ聞こえている見えているだけの主客未分の「それ」(=父母未生以前本来の面目)かもしれません。言葉で表そうとすれば、振り返ったことになり記憶を見ていることになります。「純粋経験」は刹那にあるのですが刹那に消え去っているので、あるでもないでもない。掴めることも捉えることもできません。ましてや「純粋経験」を達成することでもありません。誰にでも備わっている働きです。仏の働きそのものかもしれません。一切の存在と働きが「それ」と表現してもいいかもしれません。

 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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「体験」を伝える [気づき]

 禅僧であった、一休宗純と仙厓の最期に言い残した言葉は「死にとうない」だったそうです。禅僧であるからには、威厳や教訓となるような言葉を聞けると期待していた人には出鼻をくじかれたような言葉かもしれません。何十年も修行して我々と同程度なのかと思ったり、「死ぬのがこわい」「この世に未練がいる」とガッカリする人もいるかもしれません。

  「死にとうない」という言葉だけ取り上げれば、何も達成していないし人生にやり残したことが多くありそうに感じられるのも当然かもしれません。

 ポイントは考えて発した言葉なのか、身体(=たった今の体験)から発した言葉かということにあります。生死一如は「紙の表裏・明暗・正邪・・・」と同じで二項対立の言葉です。分けることのできない一体のことです。生と死はセットであり別々にすることはできません。頭は身体の一部であり、頭の働きである思考も私たちの一部です。それぞれが切り離すことができない働きです。一如は、一体ですが「生」と「死」が同じということではなく、「生」は「生」であり「死」は「死」であり区別はあります。

 

 私たちは、思考によって物事を成就しようとします。思考が優先されて身体は二の次だと考えてはいないでしょうか。日常の行動を観察してみます。思考が日常の行動のあらゆる部分を制御しているのではないと気づきます。それどころか、ほとんどの行動が思考せずにできています。思考によって立ったり歩いたりしていません。思考にしたがってどこかを見ているのではありません。勝手に聞こえたり見えたりしています。
 一生懸命に思考を使って歯を磨いてはいません。日々の行動が「私(=思考)」の指示によっているのでしょうか。気づけば、身体が勝手(=主)に動いているのではないでしょうか。身体がすべきことが実現されているというのが本当のところです。頭(=脳)で体調をどうのこうのできるものではありません。身体を安心・安全・快適にし体調を保ち良くしようとしています。頭(=脳)が主であり身体が従として行動しているわけではないと気づきます。只、辛いときに「なんとかしたい」という思いがあるので頭(=脳)が主として働いていると感じてしまいます。

 

 頭(=脳)が体調を制御しているわけではありません。体調(=身体)が頭を使わせているということではないでしょうか。心地よいことを求めたり、休息することは身体が要求しています。実に頭が身体に従っているということに気づかれると思います。
 問題は言葉や文字で提起されるので、答えも言葉や文字を使って出すようになってしまっています。思考によって答えを探し出しているのではないでしょうか。思考である心境に達したり何かを得ることができるでしょうか。それとも身体の解放感や五感からの感受に感動するのでしょうか。問題を解くというのは、問題が無くなる(=No problem)ということです。「1+1は?」と問われて悩むことはありません。「なんとかしよう」というのは必死に頭を使っていることです。お腹が空いたときに「なんとかしよう」と考えたところで、「絵に描いた餅」を食べることはできません。実際に食べ物を食べるという行動によって空腹を満たすことです。何だ考える前から、見えているし聞こえていることに気づきます。

 

 「香厳撃竹」というお話があります。何に気づいたかは書かれていません。頭で聞いて頭で何かを達成したり何かを得たのではないようです。思考で気づいたのではなく、思考以前に体験していること「それ」が「それ」だということに気づきます。「隻手の音声」も頭で聞こうとしても聞こえません。「隻手の音声」を頭で聞こうと考えている以前に、様々な音が聞こえていませんか。思考(=主だときめつけている)より以前に五感(=身体)で感受しています。思考で達成できたり得たりできるのなら、誰もが達成したり得たりできるようにできないような仏法は偽物だということになります。教えを説いていながら教えられないというのはどうしてでしょうか。個人的な体験を頭で理解して、同じ体験を得ることはできません。満腹成りたいからと言って「満腹」を1万回書いたり唱えて達成させるようなものです。

 

 もうお分かりかもしれませんが、思考して出した言葉に実体はありません。「辞世の句」はそれなりに体験を伝えることができます。絵に描かれた餅(=辞世の句)をどうやって食べればいいのでしょうか。身体が発する声は、身体の状況(=たった今の体験)を伝えることになります。「死にとうない」は頭で考えてひねりだしたモノではなく、「体験」そのものを伝えています。聞いていた人が「体験」そのものを受け取ることができていればいいのですが・・・・。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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生死一如 [気づき]

 多くの哲学者が「死」について考察し言葉を残しています。いくつか列挙させていただきます。

 

「死は、人間のもっているすべての恵みの中でも最高のものである」(ソクラテス)

 

  永遠に「生」が続くことが幸せでしょうか。老いることも病気もなく健康でエネルギッシュに生きているという夢のような楽園を思い描いているのでしょうか。何もかも思いの通りになるということは、思いの通りにされる対象があるということになります。自分の望みだけが叶う楽園であれば自分一人だけの楽園でなければなりません。楽園に多数の願いが同時に叶うのなら、どうしても優先順や優劣や格差が生じてしまいます。自由と平等が同時に成立するでしょうか。好き勝手ができて平等であるとうのは理想であって不可能なことです。
 表現できるということは二項対立があるからです。対立するモノによって表現が可能となっています。無人島で自分一人しかいなければ、善人も悪人も存在しません。どこにも光がなければ「暗黒」もありません。北極点に東西南北はありません。臭覚・味覚を失えば「美味しい」も「不味い」もありません。「上手な人」は比べられる「下手な人」のおかげで上手として評価されます。様々な形や色があるので美しい、様々な味があるので美味しいという感覚を得ることができます。様々な楽器によって異なる音色が混ざって素晴らしい音楽となります。
 「死」がどうして最高の恵みなのでしょうか。誰もが老いや病気や事故よって身体機能の働きが不全となれば自動的に「死」を迎えます。自然に逆らって「生き続ける」ことは恵みではないということです。
 

 

「死は、もろもろの災厄のなかでも最も恐ろしいものとされているが、実は、われわれにとっては何ものでもない。なぜなら、われわれが生きて存在している時には、死はわれわれのところには無いし、死が実際にわれわれのところにやってきた時には、われわれはもはや存在していないからである。」(エピクテトス)

 

 他人の「死」を目の当たりにすれば、どれほど苦しんだのかをわが身で想像してしまうので恐ろしくなります。
 生きている時は私たちに「死」はありません。私たちは「死ぬ」ということを体験することができません。他人が「死んだ」という事実を認識することができますが、自分が「死」を体験して蘇ることはできません。自らの「死」がどうであったか認識できる人は存在したためしはありません。誰一人として「死」を体験できないので、「死」は誰にもないということになります。例えば、「眠った」という感覚は目覚めている自分がいるからです。もし目覚めることがなければ、最後の「眠った」という感覚はありません。「眠った」と同じように「死んだ」ということも、「死」から蘇らなければありません。蘇ったら「死」ではありません。死んでいないで、仮死状態であったということになります。
『いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。』論語

 

「人間が死ぬのはいつも早すぎるか、遅すぎるかのどちらかである。しかし、一生はちゃんとケリがついてそこにある。」(ジャン=ポール・サルトル)

 

   生まれたばかりの赤ちゃん自身は他人の死を見ることが無く死を認識することもできません。赤ちゃん自身には「死」という概念はありません。眠っているのと死との区別がつくようになるのは、自身の身体の仕組みを理解できるようになる4歳以上のようです。身近な人の「死」によって、いつも会えていた人とお話ができなくなる。自身の生活の場から消えてしまったという認識が得られることができます。私たちが生きている世界では、物理法則(エントロピー増大)に反する例外は一つもありません。「死」は必然であって誰一人として「死」から逃れることはできません。

 

「全生涯は、まさに死に至ることと、その死を成就すること他ならず」(プラトン)

 

 ジャストのタイミングで「死」が訪れることはありません。もう少し生きてれば良いことがありそうだと思うし、こんなにつらく何もすることがなければ迎えにきてもらえばありがたいのに・・・。自分の都合で「死」が訪れることはないようです。
 死に至り死を成就する直前までが「生きていた」という全生涯です。

 

「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」(マルティン・ハイデッガー)

 

 他人の「生」を生きることもできないし、自分の「生」を代わってもらうこともできません。今の自分が生き続ける「魂」というものがあるというのなら、今生きている自分も生き続けている「魂」ということになります。世界人口は2010年の70億人から2022年に80億人に達しました。10億人分の「魂」はどこから来たのでしょうか。
 子供のころに過去や未来に生まれ変われたら、どんな人に成りたいと聞かれたことを思い出します。学生の頃にも「将来やりたい職業」はなんですかということも考えさせられました。自分のままで、過去のある偉人でいられるわけがありません。自分とその偉人の二つの人格で生きることなどどうしてできるでしょうか。自分という何か(=魂)が選んで生まれてきたわけではありません。自分は物心ついて起こっている感覚であって、説明のために後づけしているのではないでしょうか。赤子のころから変わらない自分であり、これからも続くのではなく、その時々に生まれては消えているので同じだと思い込んでいるかもしれません。常住不変の「私」のような感覚があり、それを自分としている。
 

 

 「生きている」先に「死」という区切りがあり「生」は「死」によって閉ざされ「The End」となります。その「死」がどのタイミングなのか誰にも分かりません。「死」を問うことは「生」は何かということと同じことになります。「死」を問題として解決することはできません。自然に生きて「死」をコントロールすることなどできません。
 私たちにできることは、「生」というダイナミックな体験をリアルに実感し感動する以外ないのではないでしょうか。困難・感動・痛み・快感・感動・怒り・悲しみ・・・・どちら側に触れるかもしれませんが同じ「生」の体験です。味わい尽くすしかありません。逃げられるものではありません。起こしていることも起こっていることも一切が自分の体験です。
 死ぬことができないのなら、我に振り回されずにあるがままの「生」に任せてみることも必要かもしれません。

 

<注:勝手な個人的な解見の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 


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流転 [気づき]

 食べ物を摂取すると、体内の中で消化(=消え去り)されエネルギーとなり残りは排泄されます。どのように分解されるか自分の意志の介入はできません。自然界でも空気中の水蒸気は雲になり雨や雪になり大地・海へ降り注ぎ循環しています。モノが作られ消費されたり飾られたり保管されたりしますが、何時かは分解されて消え去ります。

 私たちが見聞覚知するモノは瞬時に消えるモノから永遠にあるかのように感じるモノまで多様なモノにかこまれています。瞬時から永遠までの認識は人間が感じる時間の観念を当てはめて推測しているにすぎません。過去の記憶と比較したり、思い描いている未来と比べると時間という概念が使われます。実際は過去は記憶だけであって消滅しているのでどこにもありません。未来は思い描いているだけでどこにもありません。「たった今」だけが明滅して続いているだけ。 

  私たちが「たった今」見聞覚知している世界だけが自分の認識(=感受)している世界です。高齢になって聞こえなければ聞こえない音があったとしても、聞こえない人には音はありません。紫外線・赤外線が見えている生命体が見えている世界と人間の見えている世界は異なっています。各々の五感の能力によって感受できている世界が異なっています。同じ世界に生きているようですが、環境・イデオロギー・宗教・教育・社会制度等々によって全く異なる思考回路(=観念)が働いて行動していることになります。実際に感受している世界と記憶や予測で思い描いている世界があります。芸能人が逝去した後に、街頭でインタビューすると必ず驚きます。自身の記憶の中では逝去した芸能人は生きていますが、実際は亡くなられているので齟齬があります。自身の記憶の世界と事実の世界が異なっていることが分かります。事実の世界がちっぽけな世界でしかないということが分かります。リアルタイムで感受できている世界は宇宙全体からするとほとんど無に等しい世界だということになります。我々の存在も無に等しいということが納得できると思います。

 自身の体内で起こっていることのどれだけのことを知っていると言われれば、はなはだ心もとないのではないでしょうか。

 

 二人の人が同じ場所に隣り合わせて同じ光景を見ていたとしても同じ思いが湧き出てくるわけではありません。湯沢スキー場の前でスキーに来た人はどのように楽しもうかと思い、地元の人はどうやって雪を始末しようかと思います。他人がどう思っているかなど知りようもありませんし、これから自分にどのような思いが浮かんでくるかも分かりません。分からない中で生きてきたし生きているし生きていくことになります。自分の未来を事細かくあてることのできる占い師などどこにもいません。

 過ぎ去ってしまった過去を思い出して落胆して現在がよくなることがあればいいのですが・・。希望に満ちた未来を思い描いて思い通りになればいいのですが・・・。

 

 どうにもならない過去・未来を「なんとかしたい」という思いをきっぱり諦めれば、葛藤の火種は少なからずおさまっていくはずです。無に等しい自分の世界・無に等し自分の存在です。どんなことが起こっても取り合わない(=湧きおこる思いに付き合わない)時間(=例えば坐禅)には、「なんとかしよう」という自分が不在となっているかもしれません。

 

仏道をならうというは、自己をならうなり。

自己をならうというは、自己をわするるなり。

自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。

万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

(正法眼蔵現成公案)

 


自己をならう:自分自分という自分にどんな思いが湧きおこっているのかを只傍観する。

自己をわするるなり:湧きおこってる思いにとらわれない。

万法に証せらるるなり:あると思っている世界がほとんどで、「たった今」の世界は無に等しい。自己も「無」であり他己も「無」。

 


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不知証明 [気づき]

「無い」を証明することはできないので「悪魔の証明」と言われています。
「宇宙に果てはない」「宇宙人はいない」「神はいない」「恐竜はいない」「竜はいない」
「阿弥陀仏はいない」「神と会話する人はいない」「悟ってはいない」・・・・。動物園で生きた動物を間近で見ることができれば本物の動物が「いる」ということが確認できます。宇宙人・UFO・・・が「存在している」証拠がなくても宇宙全体の精査をすることが不可能なので「いない」ということを証明することはできません。
 誰かが「神の啓示」を受けたと吹聴したとしても、「神の啓示」を受けていないと証明することもできません。そもそも「神」がいなということを証明することもできません。信じたい人が信じているというのが本当のことかもしれません。信じたければご自由にどうぞというスタンスではないでしょうか。
 説明責任を転嫁されて、「無い・いない」ということを証明してみよと言われても不可能です。「ある・無い、いる・いない」と白黒がつかずに平行線をたどりお互いが疲れ果てることが目に見えています。

 

 禅問答は文字の答えを求めてはいません。答えの文面の読んで知識として得るものではないということです。(不立文字)「富士山を荒縄で縛って持ってこい」と言われて真剣に思考します。出発地点が「思考して」解決しようする癖に気づくことです。何でもかんでも「思考・思索」で解決しようとするのが人間の特性です。日々自動的に使われている「言語」は人間を人間たらしめている大きな特徴です。「言語」で問われれば、「言語」を使って解決しようとするのは当然のことです。モノであろうが感情・感覚さえも、五感で感受する一切を「言語化」して知っていたいというのが人間です。「言語化」は留まることはありません。「言語化」の作業が創造であり進化だということかもしれません。
 1986年に「イミダス」という時事用語事典が創刊されましたが年々分厚くなっていったことを思い出します。常に発見・発明・創作があり新しい概念が創造されているということの現れです。
 頭の中の「おしゃべり」に翻弄され続けているかに気づくのが禅問答かもしれません。「思考・思索」で何でも解決できるかというと、そうではないということを体験します。判る→分かる→解ると進み、解るは「no proble・問題なし」であり、「思考・思索」する対象ではなくなります。
 頭の中で解って「おしゃべり」が鎮まる(=無い)という瞬間を重ねていきます。実体験として「無い・いない」を自らが証明することになります。「おしゃべり」が鎮まっているのが「寂静」なのかどうかを確認することになります。他人に証明することではなく、自分自身が証人となればいいということです。

 

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修証不二 [気づき]

 私たちは、親・学校・友人から様々なことを学びます。科学技術の進歩によって便利な生活を送れることを体験しています。便利が必ずしもイコール幸福であるとは限りません。近代社会では疾病が減るどころか新たなウィルスが出現したり、イデオロギーの相違によって戦闘が起こり多くの人命が奪われています。あるリーダーの欲望を満たすため多くの犠牲が出ても意に介さないようです。他人の人命よりも一国のリーダーの”我”が勝ってしまっているということでしょうか。

 私たちが学び続け実践していることはどいうことでしょうか。それは、結果をイメージしてから、今何を行えばいいのかを考え実行することではなでしょうか。過去の失敗を教訓として同じ失敗を繰り返さずに、順調にステップを踏み望む結果を得たいと願っています。

 幼いころは他人と触れ合う場面で、自分の”我”と他人の”我”のせめぎあいを経験します。学校では、人間社会で生きていく最低限の知識として教科書に書いてあることを憶えさせられます。数式を使えばどういう答えが導き出されるかを学んで実際に算出できるようになります。

 


 若い人は、将来の希望を叶えるために何を犠牲にして何にエネルギーを注ぎ込むべきかを考えます。つまり、問題(理想と現実とのギャップ)を解決するにはどうしたらいいのかを考えるように躾けられてきたように感じられます。社会では困ったことだらけで日々その困ったことの対処に追われているというのが現状ではないでしょうか。困ったことを解決する一つに法律があります。法律の専門家であれば社会制度上の問題に杞憂することはないかもしれません。

 数学の問題を解くには方程式を憶えたり、問題文の読解力が必要とされます。記憶するだけの問題は記憶されたものを正確に再現できればいいだけです。「今」の価値は、あたかも過去(=記憶)と未来(=予想される結果)を考えるためのにあるかのように思う人もいます。

 実は、過去は記憶だけでありすでに消滅しています。未来もただの妄想であってどこにもありません。過去を振り返るために「今」があるのでもないし、どうなるか分からない未来の為に「今」があるわけではありません。過去や未来が主役ではありません。今だけが続いています。過去から見れば「今」は未来の「今」であり、未来から見れば「今」は過去の「今」です。「今」は未来でもあり過去でもあるといえます。今が主役であり、過去や未来も「今」だと言えないでしょうか。10分前からすれば10分後の今なので未来の今を生きています。10分後の未来からすれば10分前の今を生きています。

 無常であり一切が消滅しているのに、自分が経験してきた過去が消滅せずに残っていることがありうるでしょうか。エントロピーの法則を無視して素粒子を逆回転することなどできません。もし同じようなパラレル世界が無数にあって、1秒前の世界・2秒前の世界・3秒前の世界・・・1億年前の世界が同時進行で存在していれば行ったり来たりすることもできるかもしれませんが・・・・。自分が生きてきた世界は完全に消滅しているので過去の自分に会うことは不可能です。今の自分は過去からすれば未来の自分であり、未来からすれば過去の自分です。消滅してしまった過去やあるかどうかもあやふやな未来に振り回され憂える必要があるのでしょうか、今を観察して今に生きる他ありません。今を見届け続けることができているだけで満たされていると感じてみるのもいいかもしれません。

 誰もが生まれた瞬間に死を宣告されています。生き続けるという勝者はいません。思いであがなっても負けが確定しています。勝負せずに、諦め(=老・病・死)て受け入れれば勝負にならないので負けない唯一の方法です。

 

 


「一夜賢者の偈」

 

過ぎ去れることを追うことなかれ。

いまだ来たらざることを念うことなかれ。

過去、そはすでに捨てられたり。

未来、そはいまだ到らざるなり。

されば、ただ現在するところのものを、

そのところにおいてよく観察すべし。

揺らぐことなく、動ずることなく、

そを見きわめ、そを実践すべし。

ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。

たれか明日死のあることを知らんや。

まことに、かの死の大軍と、

遭わずというは、あることなし。

よくかくのごとく見きわめたるものは、

心をこめ、昼夜おこたることなく実践せよ。

かくのごときを、一夜賢者といい、

また、心しずまれる者とはいうなり。

(増谷文雄訳『阿含経典第五巻』)


 


 私たちが学んできたことは、何かを成すには行動しつづけなければならないということです。行動するには意志がなければなりません、意志以前に思い浮かぶ(=イメージ)必要があります。修練(=手段)して思い描いたイメージを成就(=目的)できると思っています。剣道では「守破離」と言われています。

 熟達するには何度も何度も修練することで脳が筋肉に指示命令し筋肉を微妙にコントロールするようにできることは当然であって、それ以上に脳の指示を離れて勝手に筋肉が動くようになるようになることです。(ゾーンに入る)”私”が介入していない境地まで高めなければなりません。日々行っている行動で”私”を探し出すことは困難です。空腹は血糖値(血中のブドウ糖の濃度)が低下することがきっかけとなり、空腹という感覚を脳が感知して何かを食べたいという欲求が起こります。身近にある食べ物を探して口に入れて歯で噛み砕いて胃に送ります。この過程で”私”がどこに登場しているのでしょうか。ロボットのようにプログラミングされた”私”が足を動かすように指示命令し、目というセンサーを働かせて食べ物を探し当て手をその食べ物を取って食卓まで運ぶかその場で食べるかを選択する。口をどの程度開くかを指示命令し・・・・・。食べるのに”私”の指示命令が事細かくあるのなら脳は膨大なエネルギーを消費しオーバーヒートして疲れ切ってしまいます。歩くときに何㎝位足を持ち上げ何センチくらい前に出してどれくらいの力で地面を蹴るのかを一々指示命令するでしょうか。そこに”私”はいません。日常生活に”私”が介入し指示命令すれば、赤ちゃんのように疲れて一日中寝ることになります。不安を背負い込んだり全てを思い通りにしようと”私”を働かせすぎると様々なストレスとなります。ただの雑念(=火種)を重大なことのように取り扱ってしまうと大変(=大火事)なことになります。

 


 修練して偉大な”私”を手にいれるのではなく、”私”の介入をそぎ落とし”私”をなくしていくことが大事なポイントです。「無心」とは何も思い浮かばないのではなく、思い浮かぶことに一々関知しないでサラサラと受け流すことではないでしょうか。サッカー観戦に夢中になっているときに”私”を持ち出して、雑念を取り扱っていないので「無心」でいるはずです。ゴール前で応援しているチームの選手がボールを蹴った点が入った、ただその場面と一体となっているはずです。


 


「仏道を習うというは、自己を習うなり

自己を習うというは、自己を忘るるなり

自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり

万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(道元)

 


 禅問答で、仏とはという問いに「麻三斤」「乾屎橛」・・・と応えたとあります。禅問答は考えて分かる問題ではありません。仏に抱いている概念を取っ払って自分で体験してくださいということです。玉ねぎの皮を剥がすように、思い込みを剥がしていくとどうなるでしょうか。仏が「麻三斤」「乾屎橛」なら、「麻三斤」「乾屎橛」に成れるもんなら成ってみてはどうですかと言われたらどうでしょうか。成る何か(=麻三斤・乾屎橛・・)ではないということです。仏に成るのではなく仏であることを体験する。坐禅(=手段・修練)によって仏(=成就・達成)に成れると思い込んでいるのは、”私”が成しえると学んできた思考回路での結末です。

 仏道(=為楽)への過程は、後付けの”私”という実体があるかどうかを観察することにあります。観察していくと過去や未来に囚われて右往左往して悩みを抱えているということに気づきます。坐禅によって自らを強制的に”たった今”に縛りつけます。ただ雑念を観察して「今・今・今・・」にあり続けます。後付けの行為者である”私”の出る幕がなくなります。”私”が何もできない「あるがまま」と一体になるほかありません。立つことも手を広げることも話すこともキョロキョロ見回すこともしません。”我”が手なずけられていきます。”なんとかしたい”ということが押さえつけられて調教された犬のようになっていきます。”なんとかしたい”という衝動がだんだんと減っていきます。坐禅中(=無防備)でも安全であるということが分かってきます。過去や未来との繋がりよりも「今」のままでいることに不安がないということを体験します。不安は自分が作り出している妄想であることに気づいてきます。


 


例:プロスケーターが記憶喪失になって、スケートをしていたことを忘れてしまいました。今までスケートに一生を捧げてきましたが、新たな人生を生きなければならなので多くの困難(=悩み)を抱えるようになりました。彼(=記憶喪失)はスケートが上手いと言われても信じることができませんでした。それではということで、スケート靴の履き方から教えて数回滑ってみると身体に染みついていた技術が開花して元通りになりました。彼がスケートの練習を再開せずに人生をすごしてしまったとしたら・・・・。

「醜いアヒルの子」:実際は白鳥なのに、アヒルだと思い込んでしまっていてはもったいない。坐っている時間がそのまま仏かもしれません。調教はあせらずに結果はすぐにはでませんが、あせらずに積み重ねれば我が剝がれていきます。

 


 

 悉有仏性であるのに、どうして坐禅しなければならないのか。上のスケーターと同じで誰もが仏性をもっているのですが、坐ってみて体験しないと気づきません。不安解消の為に働かせていた思考が、実は不安を増長させていたということに気づきます。


 


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静かでいる [気づき]

 体験しうる達成感を味わうにはどういう条件が揃うことなのでしょうか。私たちが望んでいるわけでもないのに、あらゆる事象を二項対立的に捉えるようになっています。善悪・明暗・貴賤・大小・長短・天国地獄・・・、二つに分かれているのではなく二つに分けているといのが本当かもしれません。「悪」でも極まった極悪があり、極悪からちょっとでもよければ「善」として捉えることもできます。白や黒にも濃淡があって光を反射せずに全てを吸収してしまえば真の「黒」ということになります。「0」と「0.000000001」は全く異なります。ちょっとの違いでも積み重なれば大きな違いということになります。10%の差は同じではありません。100円の10%は10円ですが100億円の10%は10億円となります。基準が異なれば同じ10%ではありません。

 

 「ちょっと」と表現したとしても、「ちょっと」の意味合いは異なります。時速70kmが限界の50ccバイクでは時速69kmからの70kmは限界の「ちょっと」ですが、余裕で時速200km以上だせるバイクにとっては時速69kmから時速70kmは本当に「ちょっと」でしかありません。「ちょっと」の努力も限界に来ている人と余裕のある人の「ちょっと」では異なるということです。
 トップレベルのアスリートが競う大会(=例えばMLBのワールドシリーズ)での優勝と、日本での市内早朝野球大会での優勝とは比べ物にはなりません。全身全霊で打ち込んで勝ち得た勝利と、親交と余暇が目的では達成感に違いがあることは自明のことです。
 時間と労力を費やすせば費やすほど得る満足度や達成感や解放感を味わえるのではないでしょうか。努力に比例して報酬が多いというのは頷けることと思います。困難なことにチャレンジすることで対極にある安楽が訪れるのでしょうか。「空腹は最高の調味料である(Hunger is the best sauce.)」
 4年に1度のワールドカップが終わろうとしています。サッカーエリートの中から選りすぐられ、国を代表して栄冠を勝ち取ろうとしています。大きなプレッシャーと全身全霊をかけてきたことと思われます。持てる力を極限まで出し尽すのですから、最高の達成感を味わうことができるだろうと容易に想像できます。犠牲を払えば払うほど、「ちょっと」のことで大きな満足感が得られます。
 「お釈迦様の苦行」・「キリストの磔刑」・「モーゼの出エジプト」・「香厳撃竹大悟」・映画では「海賊と呼ばれた男」・「沈黙」・「ショーシャンクの空に」・「アバター」・・・・・。必ずと言っていいほど、最強の敵や攻略困難な状況から脱出するという筋書きです。ゲームソフトも困難な状況や敵を倒してステージをクリアして成長していくというストーリーが定番となっています。童話では「シンデレラ」・「みにくい白鳥の子」・「白雪姫」・「桃太郎」・「マッチ売りの少女」・「クリスマスキャロル」・・必ず苦難な家庭・悪役が必要とされています。
 達成感・満足感・解放感・栄光・感動を得るには艱難辛苦・最強の敵というお膳立てが必要となります。

 

頭の中のおしゃべりにちょっかいを出せば出すほど騒ぎ立てます。静観すれば静まるという体験を重ねるほかありません。 「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」意志の力で寂滅為楽とすることはできず、寂滅為楽であることはできます。寝ようとすれば寝ることはできませんが、何もせずに委ねれば寝ていることができているはずです。苦行を放棄して何もしなかったら自ずと寂滅為楽が訪れていたかもしれません。苦難(=雑音)が大きければ大きいほど「ちょっと」した静寂の偉大さに気づくかもしれません。

 

<まとめ>
・感動的なストーリーには難敵・困難・苦境・努力が背後にあります。困難と栄華は対極ではなく一体。天国と地獄は対極ではなく一体。W杯勝てば天国、負ければ〇〇。米国の大統領の対立候補の名前を知っている人がどれほどいるのでしょうか。
・敵対する相手・困難な環境であればあるほど、すばらしいストーリーになります。
・弱い相手に勝っても達成感は大きくはないかもしれません。井上尚哉対バトラー
・巨悪であれば倒す方が偉大だと感じます。
・対極が遠いほど振り幅が大きくなります。信じていたものが嘘だと気づくと落胆も大きい。〇〇教会、〇〇の科学
・知性で「静かにしよう」とすることはかえって混乱が増幅されます。静観して「静かでいる」しかない。
・静寂(=無)をどこからか持ってくることはできません。得るモノでも掴むものでもありません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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サラサラと受け流す [気づき]

 私たちの世界とはどんな世界なのでしょうか。地球上のすべての場所。活動可能な場所。知識として知っている世界。イメージとして抱いている世界。物理的に存在していると思われる世界。歴史が刻まれた結果の世界。認識しうる世界。情報が飛び交う世界。あるがままの生々しい世界。たった今が生滅している刹那の世界。自分だけが知っている世界。既知の世界・未知の世界。認知できる世界・認知している世界。認識できる世界・認識している世界。

 

 私たちが見えている映像は電磁波から得られる情報が自動的に処理されて三次元的に描かれています。自らの創意工夫によって作り出された映像ではありません。脳内での化学物質や電気信号によって構築された固定されたスクリーンの上に展開されているかのようです。例えば家にあるTV画面がカタールに行ってW杯の映像を映し出しているのか、それともカタールでの光景を電磁波として入力され、その電磁波を家のTVのドットに色として変換しているのでしょうか。TVのスイッチを入れてチャンネルを合わせるというのは、自身の瞼が開くと電磁波が勝手に映像となるのと同じことかもしれません。自宅のTVがどこかに動かないと同じように、私たちの脳内のTV画面が動きまわるということはありません。私(=肉体)であるとの認識であれば、私がカタールに行かなければ見えないということになります。動くことのない根源としての絶対主体である「それ」は、認識が働く以前に認知できて見えています。見えていると気づく以前に勝手に映像として見えています。

 

 映画館のスクリーンは映画館から動くことはありません。脳内で描かれている脳内スクリーンも動くことはありません。映画館のスクリーンには光が投射されて映像となります。あたかも瞼が開かれると脳内スクリーンに電磁波が投射されるかのようです。私たち(=肉体)が物理的に移動したとしても、脳内スクリーンは脳から動くことはありません。脳内スクリーンはただ電磁波を映像として映し出しているだけのことです。目から入ってくる電磁波(=光)を逐一変換して映像としています。
 例えばニューヨークを出発して京都の清水寺を観ているとします。数時間前に成田空港に到着して京都に到着し清水寺に今いるという行程を記憶しているので、時間を費やしこの場所に到着することができ観ることができていると思っています。移動している間でも脳内スクリーンは動くことはありません。様々な景色が脳内スクリーンに勝手に映しだされて記憶されています。一般的には、目を向けると自動的に映像が映し出され、その映像を認知します。次に清水寺という知識と照合されて清水寺と認識されます。記憶を遡って、私が清水寺に来て清水寺を観ているという認識を得ます。一方で、たった今にフォーカスしてみます。ある情景が脳内スクリーンに映し出されます。次にその光景が清水寺であると認識します。目を向けると清水寺の光景が展開されます。
 どこがどう違うのでしょうか。私(=肉体)が意識を持ち運んでいく先々で観ているのでしょうか。肉体が意識を持ち運び、その時々で働かせている?。感動したり落胆する意識などありません。私が肉体であると思い込む前から意識はあります。赤ちゃんが成長し感覚・感情・肉体・認識・思考が自分であると思い込む以前に気づいてる「それ」。「それ」は自分というものが確立する以前に、聞こえているし見えているし気配を感じ取っていました。たった今が「それ」に対峙していて現状を認識して言葉に出す以前に、「それ」は見えているし聞こえているし味わっているし感じています。寒いと言葉に出す前にすでに寒さを感受しています。
 私が清水寺に来て清水寺を観ているのではなく、「それ」は映像として映し出されている光景に気づいています。次に自意識が清水寺を観ていると認識し、私を後付けして私が観ているとしています。

 

 私たちの世界は”たった今”見聞覚知できている事象だけ。その他は知っているかイメージとして想像できる範囲であり認識できない思い込みで作られているのではないでしょうか。ある俳優が3月に死んでいるのに12月に知ることになり驚きを隠せない人が多くいます。事実を知らされるまでは記憶に依存しています。事実によって記憶を書き換えていかなければならないのが自分の世界だということです。当たり前のことですが、”たった今”認識できている以外は不明であり経験則によって構築されている世界だということになります。
 家の中でくつろいでいる時に、数十m先で何が起こっているかも知ることはできません。数千年前の聖者が何を人々に伝えたかったなど、どうして知ることができるのか知る必要があるのかサッパリ分かりません。
 仏とはと問い、”麻三斤”と言われたり「富士山を荒縄で縛って持ってこい」とか「瓶の中に大海を入れてみよ」とか・・・。言葉は何とでも言えます。言葉を聞いたり文字を見たりある言葉を唱えることで、人体が変化するならそれこそ錬金術かもしれません。 

 

 私たちは広大無辺の世界(=認識できない世界)にいるのではなく、無限に続いている”たった今”という刹那に生きています。”たった今”に得失が入り込む隙はありません。この何かが入る余地も無い世界の中で、何かを得たり何者になったりできるのでしょうか。自分(=我)が作り出した世界で特別でいたいのが、”我”の働きです。この”我”に関係なく、身の周りで起こっていることは宇宙そのものが動いていることです。何が起きようと、起こるがままを楽しんでみる。
 過去の聖者が〇〇と説いていた、〇〇を推奨していた・・・。頭の中で自分なりに解釈しているだけのお遊びかもしれません。”たった今”見えている聞こえている感じていることだけが世界であり、この世界をじっくり観察している「それ」になりきってみるのもいいかもしれません。頭の中でどんなおしゃべりが起こっても取り合うことをせずにサラサラと受け流し、目の前の認知のままにいてみる。

 

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無達成の達成 [気づき]

達成:目的を成し遂げる。大きな物事を成し遂げる。目的:実現しようとしてめざす事柄。
目標:目指す地点・数値・数量などに重点があり具体的である。
解脱:束縛から解き放たれる、迷いの苦悩から抜け出て、真の自由の境地に達する。あがきからの脱却。
涅槃:すべての煩悩の火が吹き消されて、悟りの智慧を完成した境地。迷いや悩みを離れた安らぎの境地。
悟り:迷いを去って真理を知ること。生死の世界を超越すること。
心境:心の状態。
境地:ある段階に達した心の状態。

 

 達成とは物事を成し遂げるとあります。例えば、太りすぎは様々な病気を誘発する原因であると医者から指摘された人がいるとします。その人は、健康でいたいという目的のために、体重を5kg減量するという具体的な目標を設定します。この減量のために期日を設定し減量のため、日々の食事制限や運動の目標値を掲げます。遂に、1年後の健康診断でA判定となり目的を達成しました。健康維持の習慣が身について健康でいられるようになればめでたしめでたしということです。
 アスリート・技能士・仕事・研究・学習・習い事・趣味・・・等々で、自らが望むレベルに達成するためには、日々の修練や教えを受けなければなりません。自身がレベルアップしたという確証を得て自信を得るには、大会に出てることで評価や記録を更新することが必要となります。
 さて、自身の精神性の向上は怒ることが少なくなったとか他人と比較することが減った、他人を羨んだり嫉妬することが無くなったということで少なからず分かります。苦という厄介な出来事を滅して愛に満ちて安楽に生きられれば最高の人生を達成できるのではないかと思っている人もいるのではないでしょうか。

 

 お釈迦様は修行によって、肉体を徹底的に痛めつけ「刀折れ矢尽きる」という状態まで追い込みました。自我が求める何かを達成することはできませんでした。そこで、求めたり得たり掴もうとする一切の苦行を放棄して”何もしない”(=何とかしたいをただ観察する)ということに徹底したかもしれません。今までは、”何とかしたい”という自我の声に耳を傾けて様々な事を実践してきました。”何とかしたい”が自らを苦しめる根源であると気づいたのでしょうか。物事を二項対立として見てしまうと、見る者という”私”と見られるモノという対象の二つに分かれてしまいます。これは単なる癖であって、見る者も見られるモノもなく、見えているという事象だけがあります。本当は、ただ聞こえているただ味わっているただ匂っているただ感じているただ思っている・・というだけで客体はないので主客未分の状態が生滅しつづけています。
 自分の外側に対象物があるという前提で生活しています。対象としているモノも自身も恒常不変ではない無常だということです。在るのですが、刹那の出来事の連続なので在るように扱っています。一切は止まっているようですが、動いています。素粒子が縦横無尽に飛び交っているというのが本当の姿かもしれません。それぞれが何らかの働きをしています。自分の願望で世界が動いているのではなく、勝手に動いているだけのことです。誰かの言うことを聞きいれてくれるちっぽけな”神”と言われるような何かが存在してくれればいいのですが・・・。残念ながら宇宙は宇宙の法則によって動かされています。
 「悟り」は、阿含経に「<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、さらに迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである」」と書かれています。また、「悟り」の最終段階は阿羅漢果であり「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」とあります。三解脱門という教えがあり、「わたし」という実体は存在しない、一切を空と観ずる空解脱。一切は無常であり固定した相のないことを観ずる無相解脱。一切は苦であり渇愛という願求(がんぐ)の念を捨てる無願解脱の三つです。
 再三再四書いていますが、「悟り」を得るとか掴むとか成るということがあるのなら誰もが得たり掴んだりできていても不思議はありません。学校教育では知識を得て活用することを教えられてきました。仏教の研究者も多く日々研究もされています。もし、「悟り」が得たり掴めるものであればだれもが効率的に得る手法を提示できるはずです。また、ほとんどのお坊さんが「悟り」を受け継いで今に至っているはずです。もし、継承されていなければ葬式のための葬式仏教だということでしょうか。
 知識で迷いが解消し苦が消滅するでしょうか。どうやら知識ではなさそうです。真言や滝行や山を駆け巡ることでもなさそうです。修練の積み重ねによって身につくようなことでもなさそうです。技を磨いて習得するようなものでもありません。
 
 どうやら獲得するものではなく、すでに「それ」であって逆に取り払えばよかったということかもしれません。あるがままでなんの問題もなく、余計な二項対立としなければいいだけかもしれません。何とかしたいという自我を相手にしなければそのまま”自性清浄”ということ。達成するということではなく、塵(=二項対立からくる何とかしようという思い)を払えばいい。苦しいを二項対立の楽の反対として否定せずに、単なる事象の一つであり一体としてそのままにいただく。苦い味を味わうように苦を排除したり逃げたりせずにそのまま苦を徹底的に味わいつくし、苦そのものになり切る。
 達成などできないので、「無達成の達成」ということになります。

 

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Tell me why [気づき]


youtubeで”Tell me why”という曲を見つけましたのでご紹介させていただきます。





 生命体(=生き物)の本能は生存・繁殖です。生命体として生き残るには「戦うか逃げるかの反応」が自動的に行わなければなりません。脳内のホルモンが勝手に分泌して行動するようになっています。多くの餌を獲得することができ、繁殖力が旺盛である必要があります。我々は生き残れる素養が備わっていたからこそ今ここに生存しています。私達が目にすることができる個体は、生き残る術を身につけた個体だということが言えます。

 木々や花々や昆虫・・・あらゆる生命体が生存競争に打ち勝って存在しています。全ての生命体が生存競争の末に存在しています。この生命体(=自身)と他の生命体を愛おしく感じることができます。

 一人の人間が寿命をするのにどれだけの生命体からの恩恵を受けることになるのでしょうか。生まれてから今までに、数え切れないほどの生命体が自身の身体の中に入って(=水・酸素・窒素・肉・植物・・)きたのでしょうか。接してきた一切がエネルギーに変換されてきました。私達は地球にある物質を取り入れているので、地球の合成物だと言うことができるのではないでしょうか。自分で身体を作ったのではなく、周りから作られたモノです。

 

 原始の生命体は、膜に囲まれてその中に一本の筒があって、その筒の入口(=口)から食料を取り入れエネルギーに変換し、使えないものを出口(=肛門)から排出する。個体の行動を制御する神経が集まり脳となり、出口に近い筒から腸ができ更にエネルギーを効率的にするために腸から様々な臓器ができたのでしょうか。

 所詮、人間も生命体であって食って寝て(=脳の休息機能)動いて排泄しているだけのものです。高尚なことを言う前に、機能としての肉体を直視する必要があります。人間以上の何かになることなどできません。

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 人間の欲求には「食欲・性欲・睡眠欲(脳の機能)」さらに、承認欲求または知識欲求があるそうです。欲求は満たされればおさまるのですが、欲望はいつまでも火種となって燃えています。マズローは生理的欲求・安全欲求・社会的欲求・承認欲求・自己実現欲求という5段階説を提唱しました。”Tell me why”とは、知っていたいという欲求から出る言葉です。現実がどうしてこうのようになっているのか、誰も説明できる人はいません。因縁和合して現実があるだけで、ブラックボックスになっています。

 「どうして」を探求しているうちに人生は終わってしまいます。「無駄な探求」と言っているのに、一生をかけて探求している人もいます。たった今を生きているということが素晴らしいのであって、何が起こっても不思議ではありません。苦と言ったり楽と言っているだけのことで、起こっていることを否定したり坑がなったりしてもしょうがありません。

 

 愛と憎しみはコインの表裏です。信頼と裏切りもコインの表裏です。裏切る人がいるおかげで信頼されることができます。不味い料理のおかげで美味しいということがわかります。闇があるのではなく、光の不在が闇です。愛や憎しみなんてどうでもいいというのが最高に愛に満ち溢れているかもしれません。迷いも悟りもどうでもよければそれが涅槃ではなでしょうか。

 悟りの境地に52段階あるとか、探したり得たりする対象としてしまいます。ただ見えている、ただ聞こえているということにどんな違いもありません。お釈迦様が桜をただ見えているのと、凡人が桜をただ見えているのにどんな違いがあるというのでしょうか。ただ見えていることに違いはないのですが、頭を働かせて雑念との鬼ごっこに振り回されているだけが違うかもしれません。考える癖がいつまでも残っているかいないか。考えてもどうしようもないと分かっているか、考えればなんとかなるとしているかの違いかもしれません。

 極端な話しですが、”Tell me why”と誰かに聞いて知ったとしても、行動しなければなにもなりません。立派な言葉や美辞麗句を言っている教えがあるのに、世界から争いが絶えることがなにのはどうしてでしょうか。行動しない役にたたない教えだからかもしれません。立派な服を身にまとった聖者は口ではもっともなことを言いますが、何も行動には移さないということが白日の下になっています。

 人間が行動するのは生存欲によっているからです。誰もが「自分かわいい」のですから、自己の生存を第一に考えて行動することになります。

 戦争を主導している人物が為政者だと分かっていても、生存(=生活)のために従ってしまっています。独裁国家では幼少期から洗脳されて「神」と崇めさせられているかもしれません。

 

 私達はどうしても知識を得て、思考してなにかを得るという思考パターンから抜け出ることができません。なるほど知っていないよりは知っていたほうがいいかもしれません。困ったことに、世間では教えと財産を交換させるような宗教もあります。教えを信じて布教している人は悪いとは思っていない(=自己正当化)ようです。財産よりは教えのほうが価値があると思い込んでいます。教えで救われてご飯が食べられるのは、教えを受ける人から金品をもらえる人だけです。

 思考で何かを得ようとすることをやてみる。(坐禅)なんとかしたいという欲求を相手にしない。あるがままでいいということが少しずつ分かってきます。足し算(=得る)から引き算(=相手にしない)することで、頭のおしゃべりが減っていきます。見えたままが何一つ過不足がないことに気づきます。なんとかしようという自分との関わりが後退したということかもしれません。

 言葉自体に力があるのではなく、言葉を聞いたり文字を見て行動しなければなりません。当たり前の話ですた、スポーツ選手がコーチの言葉を聞いただけで技ができるようになったりはしません。何度も何度も繰り返し練習して技を覚えて使えるようになります。このブログを単なる知識としていては、何も変わりません。文字を見ただけで劇的に変化したら大変なことです。怖くて文字を見ることができません。ヴィパッサナー瞑想を本当に実践すれば効果を実感することができるのですが・・・・。

 

・あるがままをそのままに受け入れる。神も仏もどうでもいいというのが最高の信仰かもしれません。

・言葉で世界が変わるのなら、とっくに世界は変わっています。

・世界の現象を誰かが仕組んでいるのではなく、因縁和合して起こっているだけです。

・天国と地獄は同居しています。野球で9裏満塁、2アウト2ストライク3ボールで3点差で勝っていたのに、最後に逆転サヨナラホームランを打たれたら天国から地獄となります。

 仮想通貨長者だと思っていたのが、仮想通貨取引所が経営破綻して財産が全て消えてしまった。

 

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フィクション [気づき]

 万物(=一切)は流転してとどまることがありません。私達の身体(=体の中の細胞)も思いも生じては消えています。私達の生きている世界は諸行無常であり、恒常不変でありつづける何かはありません。エントロピーの増大という法則によって、確固たる何かにすがりたいという願望はことごとく打ち砕かれてしまいます。執着して手に入れたとしても刹那の出来事でしかありません。期待や願いは叶ったとしても一時的であるので、苦であると感じてしまいます。死を間近で見ることで、永遠の命を願っても無駄だとだれもが理解しています。そこで似たような生命体を残していくしかありません。

 魂や心という概念で継続性を願いますが、ただの言葉であって実体はどこにもありません。どこに不変の魂があるというのでしょうか。永遠を願うことによって発明された定義であって、単なる言葉(=形・音)であり漠然とした呼称です。

 

 当然のこと(=法則・真理)を当然として受けいれることができるのなら、騒ぎ立てることもなく法(=法則・真理=諸行無常)に委ねる他ありません。(諸行無常・是生滅法)

 自然の理に従えば、自然の理に逆らって苦しむこともありません。苦とすることがなければ、苦とはなりません。仏道では、苦を苦としないために八正道というものがあります。正しいというのは自然の理に従うということではないでしょうか。思い・行為・精進・・・を自ら(=我)の努力によって、思い通りにすることではありません。自らの思い通りにしようとすることは、道理に逆らっています。無明とは、法則・真理がありながらその法則・真理に逆らって「苦」を何とかしようとすることではないでしょうか。思い通りにならない諸行無常の世界に生きていながら、苦(=例えば四苦八苦)をなんとかしようと思うこと。

 

 苦は修行や坐禅によって得た力によって消滅できると勘違いしていないでしょうか。修行によって何か得たり掴むことはありません。聖者は、苦に立ち向かって苦をバッサバッサと切り倒して解決するのでしょうか。そんなことは馬鹿げたことは、おとぎ話でしかありません。苦をそのまま受け入れれば、苦は苦ではありません。当たり前のことの一つ(=苦)であり、苦は解決する相手ではりません。あたり前に出会う出来事の一つでしかありません。当たり前のことを二項対立とするので、苦楽となります。苦もなく楽もなく、ただの出来事を苦楽として分けて一方が悪くて逃げたり避けたりしたいと思い込んでしまっています。

 楽しいことが起こって良いのと同じように苦しいことが起こっても良いじゃないですか。

 「ホォ、このような苦しみがあるのか」と歓迎してみる。いくつかある感覚の中の一つの感覚として味わってみる。

 粛々と日々の生活を送る。苦も楽もウェルカム。楽があって楽が気に食わずに苦しむ人もいます。スポーツマンで自分の身体をいじめる人がいます。痛ければ痛いだけ。辛ければ辛いだけ。貧しければ貧しいだけ。・・・どこが間違っているのでしょうか。痛い時に痛くなければ、医者に行きそびれて発見が遅れて致命傷になってしまいます。辛ければ辛さを味わってみることも大切です。辛くないだけで幸せを感じられて感謝することができます。

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 ただ見えている、ただ聞こえているというのは事実であり現実です。しかし、見えているモノ(=客体)と見ている者(=主体)という二つに分けて考えてしまう。そこから現実離れしたフィクションの物語の中で対話することになります。事実と願望という二項対立によって考える癖があります。言葉というフィクションで迷うことになります。

 言葉はどうしてフィクションなのでしょうか。見えているモノである”石”がどうして「石」という文字(=形)であり「イシ」という発音(=音)なのかを考察してみてください。英語では「stone」という文字(=形)であり「ストーン」という発音(=音)です。「石」という文字は固くもないし、「イシ」という音を聞いたとしても石の感覚を味わうことはできません。「甘い」と言われても甘く感じることはありません。

 旧約聖書がフィクションであることは子供でも知っています。「初めに言葉ありき」という有名なフレーズがあります。神の出現する前から誰かが神の出現する場所で待ち伏せしていたのでしょうか。神が聖書の作者を招待していたのでしょうか。

 作者が、神の所業を見ていて神が発音した音が言葉であるとすぐ分かったのでしょうか。作者の方が先に言葉を話すことができていたことになります。神の所業をどこに書き残したのでしょうか。 

 神の言葉が分かったとして、「光あれ」と言う前は真っ暗なので何も見えていないはずですが・・・。子供には面白いかもしれませんが、科学によって証明されていることが理解できている現代人からすればバカバカしい作り話のオンパレードです。

 誰も見ていないことを良いことに、聖者の逸話は大げさに書かれています。ある禅僧が大声を出すと数キロ先まで聞こえた。虎を猫のように手懐けることができる。身体が石のように固くなり火の中から燃えずに出てきた・・・・。よくもまあ、作り話も程々にしてほしいのですが・・・。

 宗教はマインドコントロールであって、人々を統制するのに使われてきたという歴史もあります。元を正せば同じ人間です。特別な能力は映画の中の話であって、どんなに鍛えても限界があります。真言(=マントラ)を唱えてどうにかなったら大変なことです。何かを祈っただけで実現したら世界で戦争は起こりません。苦労することもなく、楽しいことばかりでしょうか。何かを書いて言葉に出すだけでは何も実現しません。行動・行為によって少しずつ変わっていきます。

 

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"気づき"に気づく [気づき]

 私達は、誰もが既に”本来の自己”(=気づきそのもの)であるので、わざわざ”本来の自己”を探し出す必要はありません。絶えず”本来の自己”(=気づき)とともにあります。何とかして”本来の自己”を探し出そうとしますが、”気づき”は気づかれる対象(=客体)となりえないので探すことはできません。気づく主体が客体になりえないのです。眼が眼を見ることができないのと同じことです。

 絶対主体である”気づき”は”苦”を感じている客体ではありません。全ての生命体は”苦”を逃れ”楽”でいたいものです。”苦”と感じなければ”楽”であって、”楽”を求めようとすればどうしても”苦”が立ちはだかります。権力・地位・名誉・財力・・・を求めようとする渇望があるかぎり、その渇望との葛藤(=ギャップ)によって苦しむことになります。権力を失うことが大きな苦痛となる人にとっては、権力に執着することになります。社長を退いても会長として権力を持っていたい。

 「悟る」ということは「悟っていない自分」をこしらえなければ実現しません。幼児は「悟る」ことはできません。なぜなら、「悟っていない自分」がどういうものか定義できないからです。大悟も小悟もないのですが、数十年の月日をかけた大疑団のご褒美として「大悟」と言ってあげなければなりません。  

 何十年も迷ったはてに「悟り」なんてなかったという大きな衝撃を「大悟」と表現してやらなければ報われません。迷いが悟りを作り出していたことに気づきます。悟りを目指しているから向上心があるのではなく、迷っている自分が許せないからかもしれません。「迷悟」は一枚のコインの表裏であってセットになっています。迷いがなければ悟りもありません。

 

 お釈迦様は王子の生活を捨てて、すべてをやり尽くした後で「悟り」を開いたとされています。これ以上ないストーリーによって「悟り」が命の次に価値があるかのようにされるようになっているのでしょうか。キリスト・ムハンマド・・・それぞれに壮大なストーリーがあることによって権威づけされていることに気づく筈です。大きな苦難があればあるほど人の心に訴えることができます。記憶に残り崇拝に値する人物像ができあがることになります。命を削って修行したおかげで不思議な力を授かった特別な人だとか・・。お決まりのパターンです。

 もし、荒行の見返りがなかったらどうでしょう。滝に打たれたり数百キロを走ったりする犠牲があるからこそ見返りとしての達成感があります。他人が敬ってくれます。この艱難辛というストーリーによって、人間心理の深い部分が動かされて操られているかもしれません。

 

 世界は常に移り変わっていて、同じ状況が続くことはありません。エントロピーの増大によって元の状態に戻ることもありません。誰かの心境も常に変化しています。誰かが達成した心境と同じになりたいと考える人がいるかもしれませんが、変化している刹那の心境を保持することなどできないし他人の心境など知るすべもありません。できるとしたら”無”の心境や熟睡時の捉えることのできない状態だけかもしれません。何も思い浮かばずに、只見えている・只聞こえているということであれば同じ体験をしていることになります。見えていることに価値や意味をつけづに見入っていることは体験できます。

 音を聞いたりモノを見たりすることで、ある心境に達したとしても一時的なことであってしばらくすれば消え去ってしまいます。

「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」

 言葉(=音)を聞いたり文字(=モノ)を見たりすることで、何者かに変化したり何かを得たり掴んだりできるというのは思考によって作り上げている物語かもしれません。

 極端に言えば、聞いたことのない言葉は鳥の鳴き声を聞くのと同じようなことです。見たことのない文字は葉っぱの形を見るのと同じようなことかもしれません。ただの音が聞こえてただの形が見えているだけです。フランス語で書かれた聖なる書を見て心境が変わることはありません。フランス語でありがたいお話を聞いてもチンプンカンプンです。母国語の聖典やありがたいお話を聞いて何かを得たり掴んだり、何者かに変化できるのならいいのですが。高等教育を受けた人がどうして何年も修行しなくてはならないのでしょうか。

 聖典は読みきれないほどの数があり、ありがたいお話はいつでもどこでも聞けるようになっています。始祖といわれる人から何千年も経過していながら、言葉や文字で伝えられないということはどういうことでしょうか。伝える人が悪いのか受け取るほうが悪いのでしょうか。言語自体に問題があり、伝える以前に互いに勘違いしていのかもしれません。文字にした時点で偽物ですので、その偽物を見て本物を味わうことはできません。ある人の感覚を”温かい”と文字にして、”温かい”という文字を見た人がある人の感覚をそのまま感じられたら大変なことになります。”苦しい”という文字を見て苦しむのなら、”苦しい”という文字を目にしたいとは思いません。

 苦労(=修行)しなくては達成しなということが刷り込まれているかもしれません。修行や知識や思考によって救われることができると思い込んでいないでしょうか。経典の知識で救われるのなら、救われない人の方がどうかしているということになります。

 選択肢が多ければ多いほど悩むことは多くなるのではないでしょうか。決められた通りに生きていけば選択や執着から離れることができます。問題があるのではなく、問題としていることによって問題となっていないでしょうか。

 遊び回っている小学1年生が大人のように、儲けようとか偉くなろうとか考えることがあるでしょうか。子供には、大人のような悩ましい問題が多くはないようです。

 

 得て掴んで達するという思考を逆転させて、得よう掴もうとしていることを諦めれば掴もうとする執着が剥落します。権力を得ようとすることからかけ離れている人は権力を得ようという渇望から解放されているので、権力を得ようとかしがみつこうという問題はありません。

 禅寺では所作が決められているので、選択する必要が無くいちいち悩む必要はありません。世間から離れているので、世間からとやかく言われることもありません。権力・地位・名誉・金銭・食事の心配・・から解放された環境にいるので、それらは問題とはならずに修行に専念できているようです。

 

・聖者であるには、艱難辛苦のストーリーが必要とされます。

・だれもが変わらない本質である”気づき”が備わっています。誰もが”仏”(衆生本来仏なり)

・向かえば背く。得るようなことではないのに得ようとする。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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正見 [気づき]

「正見」を検索して見ると以下のような見解がありました。(下線部にリンクを貼っています)

 

正見:「見解がない」ことが正見であって、真理なのです。

 (超えるのではなく、誰もが分別以前で生活している「仏」なのですが・・・)

正見:正しく見るとは、正しくものを見ることが難しいと知ること、そして自らの見方を常に改めていくことのできる姿勢を保とうとすることでもあります。

 

正見:「正」とは「正しい」ということです。それはこの世の秩序を守るために 拵(こしら)えられた既成の価値のことではなく、今・ここで起きていることに、利害や打算を抜きにして、「ありのまま」に接するということです。

 

正見:私たちが求めている「正しさ」とは、結局、「大宇宙を創っている根本仏の理法に沿った心のあり方」のことを言っているのです。この正しさのなかには、宗教でなければ近づくことのできない、アプローチすることのできない、信仰心というものが、当然ながら含まれています。

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次に漢字の成り立ちを「漢字/漢和/語源辞典」で調べてみました。

 

漢字/漢和/語源辞典

 

:会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました。

 

:会意兼形声文字です(彳+正)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、「まっすぐ進撃する」を意味する「征」という漢字が成り立ちました。

 

:会意文字です(目+儿)。「人の目・人」の象形から成り立っています。「大きな目の人」を意味する文字から、「見」という漢字が
成り立ちました。ものをはっきり「見る」という意味を持ちます。

 

:会意兼形声文字です(+)。「羊の首」の象形と「ぎざぎざの刃のあるノコギリ」の象形から、羊をいけにえとして刃物で殺す事を意味し、そこから、厳粛な(真剣な)「作法」・「ふるまい」を意味する「義」という漢字が成り立ちました。

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イソップ寓話に「粉屋の息子とロバ」というお話があります。

 「正」は各人が「正しい」としていることが「正」ということです。もし、自己の「正しい」が他人から見て「間違い」であれば、その「正しい」は他人から「偏見」とされます。ある国が「正しい」として行う侵攻や戦争は、相手国も「正しい」のでしょうか。人の命を奪い去る戦争も互いに「正しい」ということになってしまっています。「正しい」はプロパガンダによって容易に変化させられます。子供の頃の「正しい」と大人になっての「正しい」は同じではありません。環境活動家が活動しているという事実は、環境に対して「間違い」を正したいということです。問題・葛藤・混乱があるということは、「正しい」と「間違い」が同居していることに他なりません。「万事塞翁が馬」というお話も、その時の悪い事が後から振り返ってみればそうでもなかったということになります。誰もが真に「正しい」として判断して行動しているのなら争いが起こるわけがないのですが・・・・。争いが起こるということは、個々人の勝手な「正しい」で行動しているからかもしれません。

 法律・条例の施行日の前日までお咎めがないのですが、施行日から罰せられることになります。社会問題として表面化される以前は、選挙応援をしてもらってもよかったのに今では「非難」されることになります。アメリカで以前は犯罪であった薬物使用が、少量であれば合法となっています。「正しい」や「間違い」は行ったり来たりコロコロ変化しています。賭け事(=競馬・競艇・カジノ・・)も国に税金を払えば合法ということです。

 

 漢字の語源から「正」を紐解くと、自分で構築した見方・見解が「正」ということかもしれません。何度も記述してきましたが、「正義」の反対は「他の正義」だということです。「正見」の「正」は見解以前の見えたままということではないでしょうか。  

 包丁は善でも悪でもなにのですが、使った結果に後づけされて評価されます。包丁は見えたままの包丁でしかありません。赤ちゃんには何のレッテルも貼られていませんが、成長して社会の一員としての行動した結果が善悪に分けられてしまいます。

 最近「論破」・「マウントをとる」という言葉を見かけます。「正しい」と主張しているのは、自己の見解や正当性です。自分が「正しい」と主張することは、あなたは「間違い」と言っているのと同じことです。

 日本で「正しい」とされていることでも外国では正しくないことはいくらでもあります。文化・慣習・躾等々として当たり前に行っていて身についているだけのことです。当たり前のこととして苦もなくやっていることが「正しい」となっています。「正しい」からやっているのではなく考えず出来ていることだけかもしれません。合理的・簡便・扱いやすい・道理・・を「正しい」という言葉に置きかえているのではないでしょうか。

 「正しい」と思った瞬間に二項対立としています。「正しい」というのは「間違い」がなければ成り立ちません。「正見」での「正」ということは、二項対立とする以前の状態を「正」ということではないでしょうか。「正見」は分別が起こる以前の”あるがまま”を只見ることかもしれません。

 私達は修行したり教わらなくても、だれもが只見えているし只聞こえています。だれもが「正見」が出来ています。私達は、言葉として思考することで勝手に二項対立になっています。

 「花」が見えると様々な感覚が起こります。感覚の一つを綺麗だと言葉にすると対の概念である汚いが潜んでいます。「綺麗・汚い」という一つのコインの表裏を行ったり来たりしているだけのことかもしれません。「綺麗」な花が枯れてしまえば・・・。

 

・正しく見ようとすることは「正見」ではありません。「正しく」というのは、対極の「間違い」と表裏一体です。宗教はその宗教の「正しさ」を守り通すことに固執しています。他の宗教の「正しさ」を容認することはありません。

・この宇宙での出来事に「正しい」創造・維持・破壊があり、「間違った」創造・維持・破壊があるでしょうか。宇宙に何らかの意図があり、「正しい」と「間違い」を区別して生起しているなんて人間だけができるすばらしい想像力です。起こっていることに後づけしているだけです。使命・意味・価値も後づけであって、混沌とした宇宙の出来事の一つ一つに使命・意味・価値は・・・・。

 陽だまり・川のせせらぎ・蝶の羽ばたき・鳥の鳴き声・桜の開花・舞い落ちる雪・霜柱・ダイヤモンドダスト・鳥の羽ばたき・・・言葉を後から割り振っただけで、意味なく起こっているだけなのですが・・。どうしても意味や価値を見出したいのが人間の衝動かもしれません。 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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無記 [気づき]

 我々は何でもかんでも知ろうとします。知ることで危険を回避したり、問題を解決する手助けになります。「知ること[→]解決」という図式が出来上がっています。人間が作り出した「社会」という仕組みの中でより良く生きていくためには、仕組みを熟知している方がいいようです。知らないよりも知っっていることで機会損失を少しでも減らすことができます。社会での仕組みが細分化されていくと、それだけ専門的な知識が要求されます。

 公的な機関が試験によって最低限の能力を認めて与えるのが「資格・免許」です。ある業務には免許がないと罰則があります。我々が接触する対象人数によって「エチケット・マナー・ルール・法律」と強制力が強くなります。法律では罰則で強制的に従わせ、社会秩序を守るようにしています。各々が好き勝手に行動することがないように、統制しなければなりません。

 動物は誰に教わることなく身についている本能によって行動しています。人間は人間が作り出した仕組みを学ばせる必要があるようです。

 自分は何者であり、何のために生きているのかという問があるのは当然のことです。仏教では、これらの問に言及していないということを「無記」と言われています。「毒矢のたとえ」のお話で、手当(=苦の解消)しようとしているのに毒矢がどこから飛んできたかを知ろうとします。知ろうとしていることは苦の解消には何の助けにもならないようです。

 禅の公案に「祖師西来意」やどのよう修行すれば何かを得られるかのような問があります。私達はすでに「それ」であることにくづけばいいだけなのですが・・・。ある事象がどんな意味や価値があるのかを知ることと、今生きていることと関連づけてしまいます。  

 意味や価値のあることが「それ」だと勘違いしています。意味とか価値は人間が勝手に意味や価値をつけたものであり、あと付けです。石油としての有用性が分かる以前は異臭のするやっかいなモノでした。レアメタルもただの鉱物であって見向きもされませんでした。時代によって意味や価値は変化します。寿司がメジャーになる以前は、生の魚の切り身やタコを食べるなんてと思われていたかもしれません。

 個人によっても意味や価値は異なります。自分にとって価値があるのかないのかで判断するのが人の常です。人間だけが意味や価値を追い求めています。猫にとってダイヤモンドには何の価値もありません、ダイヤモンドよりも猫じゃらしの方に飛びついていきます。ある宗教団体の聖典が3,000万円という価値があるというのは驚きかもしれません。

 ある国のリーダーが他国を侵攻することに意味があるとしています。侵攻する方は人を殺傷することに意味があるすれば、侵攻されている国の人はたまったものではありません。人生の意味や価値は人間が勝手に思い込んでいるだけで、他人にはかえって迷惑なこともあるかもしれません。

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 人間的な知識欲を満たすことと混乱・混迷という苦悩の消滅と相関関係は無いようです。お釈迦様が何を体得したのか知りたい、その体得内容を知ったらかどうなるわけでもありません。体得したのではなく、阻害していたことから解き放たれたら「それ」であったことに気づいただけかもしれません。「何とかしよう」という思いに一々付き合わなければいいだけかもしれません。「何とかしよう」という思いが不安の元凶だなと気づいているだけにして放っておく。不安は不安のままにしておけばいつかは消え去ってしまいます。子供の頃の不安が続いているでしょうか。痛いは痛いだけのことであって、知らぬ間に消え去ってしまいます。諸行無常でありエントリピーは増大します。何もかもが消え去るということは誰もが経験しているのではないでしょうか。消えるということで救われているかもしれません。

 

<何が「それ」> 

・知ろうと思っていることに気づいているのは何でしょう。

・不安だと知っているのは何でしょう。

・意味や価値がなくてはならないと思っていることに気づいているのは何。

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対立概念 [気づき]

 概念は実体がないにもかかわらず、大事なことのように扱われています。その実体のない何かに振り回されているのが我々の実状かもしれません。ある国のリーダーは、自らの価値観によって戦争を起こします。両国で多くの犠牲が生じているにもかかわらず正当化しています。ある人の意味や価値が全員に受け入れられるわけではありません。

 正義の反対は悪ではなく、対立する正義ということになります。宗教戦争では、お互いの正義を旗頭にして戦います。お互いに悪いとは思っていないので凄惨な戦いとなります。国の戦いでは愛国心を持ち出します。愛国心とは裏返せば相手国に対して嫌国心を起こせということになります。自国を愛するということは他国を打ち負かすことに他なりません。

 頭の中にある概念に触れることも出来なければ取り出すことも出来ません。他人の頭の中にある言葉を見ることはできません。誰が何を思い何に迷っているかなどサッパリ分かりません。脳で使われるエネルギーの60〜80%は「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれるどうでもいい雑念に使われているそうです。日中にどうでもいい雑念に脳が使われて疲弊することになります。脳はリフレッシュしなくてはなりません。夜になると五感を遮断して脳を休めなくてはなりません。どうしても睡眠が必要とされるようです。

 

 仏教での「我」は「生滅変化を 離れた永遠不滅の存在とされる本体といわれるもの」です。多分人間だけが使っている概念は、必ずと言っていいほど反対概念と対になっています。「有る」ということは「無い」という概念があることで成り立っています。「無い」という概念があるというのもおかしなことですが、「無い」ということがあると定義しています。空気が「有る」ということは空気が「無い」ということが前提となって使われます。この世で変化しないものはありません。電子が変化しなければ電気として使われることはありません。変化変容することでエネルギーとして使われることになります。宇宙という固定した何かではなく、変化し続けているプロセスが宇宙。恒常不変という概念がありますが、諸行無常である宇宙にあって恒常不変なモノは無いということになります。

 ”無我(勝手な働き)なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。(阿含経)”

 勝手な分別に振り回されることが苦をもたらしていると気づかないことが無明かもしれません。本来の自己(=意識)を分からずに、何とかしようとしている思いを「自己」に振り回されていることが無明。

 一切が変化しているので見えたり聞こえたり感受することができます。空気中を伝わる音の波によって音として認識されます。意図的に見聞覚知している人などいません。誰もが無我無心(=勝手)に聞こえているし見えているということになります。無我になろうとしているのが厄介な「自己」です。この何とかしようと頑張っているのが苦悩の根源である「自己」ということです。

 

 人間が感受している情報量の80%が眼からの情報と言われています。眼によって知るということは、眼によって惑わされているとも言えます。知るということも迷うということも、同じコインの両面(裏表)でのことです。知らないから迷う、迷うからこそ知りたいと頑張ります。不味いと感じるからこそ、美味しいと感じます。不味いおかげで美味しいを味わえます。調子はずれの歌のおかげでプロの歌を聞きたいということです。

 

 分別によって苦悩を作って自縄自縛になっていることに気づかないことが無明。一々の分別に振り回されずに放っておくしかない。沸き起こった思いは必ず滅するので構わない。「無い」という概念によって実在という概念があります。「私・自分」があるという概念が成り立っているということは、「私・自分」というのが単なる概念であって「私・自分」の実在が無いという証明となります。

 

 「私・自分」が見聞覚知しているのではなく、五感が勝手に働いています。見えていることと見ているということはちょっとニュアンスが異なります。顕微鏡や望遠鏡を使えば見えるにもかかわらず、見えるものしか見えていないのです。見たくなくても見えるし、見たくても見えていません。眼が認識したことを、所有物として捨てることもできないし、他人に分け与えることも出来ません。

 「見えている」段階では主客未分の状態であり見る者と見られるモノという分離はありません。見ようとしてみている主体もないし、見られる客体というモノもありません。反射した光の波長は勝手に像として見えてしまっています。

 「見ている」という段階では眼識が働き、二項対立のフィルターを通して分別されます。見られるモノがどういうモノなのかを瞬時に判別します。この判別にこだわり執着することで振り回され迷うことになります。取り合わずに放っておけば消え去りますが・・・。

 

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自己をならふなり [気づき]

 私達は言葉によって迷うこともあれば、分かること(=No Problem)もあります。迷わないということは問題にならない問題にしないことではないでしょうか。幼少期の子供はいたずらに迷うことなく生活しています。比較を持ち出して”なんとかしよう”という我の働きが未だ完成されていなからではないでしょうか。

 言語は二項対立であり迷いを起こします。言語を覚え使う以前では迷うことは出来ません。本来はそれぞれが一つのものであり、比較しなければ”あるがまま”があるだけです。比較することで、長短・美醜・善悪・・・によって迷うことになります。

 刹那の一瞬一瞬が生じては消え去っています。つかむことの出来ない”たった今”という瞬間はあるようでありません。あると思った瞬間に”たった今”は消え去っていますが、消え去った瞬間に新たな”たった今”がありこの”たった今”が永遠に続いています。あるようでなく、ないようであるというのが”たった今”です。変化は止まることがなく”諸行無常”です。たった一回きりの”たった今”が永遠に続いています。あらゆるものは必ず滅します。「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」

 已:やむ、終了する。生滅滅已:生滅を滅し已(おわ)る。比較することがないなら、迷いが終わる。

 己:象形文字であり縄の形状。縄で括られた対象。

思考に括られて縛られた対象である自らを「自己」としているのではないでしょうか。

他己:自己以外の対象。対象として捉えて縛られたモノや事象。対象とされる一切は言葉によって表現される。

 

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」

 「本来の自己」(=働いている意識)は、主体であり対象となりません。自己(=私)は対象となるので「本来の自己」ではありません。自己が何かを知らなければなりません。この自己は思考した後に主体として呼んでいます。常に後づけされているのが自己と呼ばれています。自己が思考の主体であれば思考以前に自己が存在していなければなりません。荷車(=思考)の前に牛(=自己)がいなければなりませんが、実際は荷車の後に牛を配置しています。

 もし自己が思考する主体であれば、思考を自由自在に操ることができるはずです。一時間の間一切の思いを出さないように思考に命じることができるでしょうか。眼は見たくなくても見えます、音は聞きたくなくても聞こえます。思考は考えたくなくても考えてしまいます。それは「無位の真人」(=働いている意識)であり、無分別であり一切が自然に受け入れられてる。

 比較して”何とかしよう”という思考そのものが「自己」の本体であると気づかなければなりません。思考は、危険から身を守り生存したいという欲求によって作られた自己防衛機能です。自己は本体(=本来の自己)ではなく、自己防衛機能として都合よく出現させることができます。これが自己の実体であるというものは見つけ出すことも指し示すこともできません。ただの呼称であり実体はありません。

 <自己をわするるなり>

 比較によって”なんとかしたい”と思考します。”なんとかしたい”という思考そのものが「自己」です。「自己」が思考しているのではなく、思考している主体を「自己」としているのではないでしょうか。”なんとかしたい”思考そのものが「自己」なのに、「自己」が思考をコントロールできるでしょうか。”なんとかしたい”に手をつけない。ただ”何とかしたい”に気づいているだけにしてみる。

<萬法に証せらるるなり>

 「本来の自己」がきづいている自己と自己以外の対象である他己。「本来の自己」は見えたと認識する前に見えている(=認知)し、聞こえたと認識する前に聞こえています。思いに気づいているのが「本来の自己」であり、思いが「本来の自己」ではありません。気づかれる対象は主体そのものではありません。何かを分かろうとする以前にすでに認知されています。一切を対象として説明しようがしまいが、一切はあるがままである。

<自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり>

「自己」自分という対象、「他己」自分以外という対象であると認知する以前。自分以外を認知しているのは自分であって、その自分が自分以外を認知しています。自分も自分以外も自分の中にあります。自分以外として認知している対象を「他己」と呼んでいるのでしょうか。私達は身心が自分自身だとしていますが、身心も見られる対象であり「本来の自己」ではありません。自己の身心は働きです。自分が認識している自分以外(=他己)も自分の中にあります。自分と自分以外を対象としなければすでに「脱落している」。

 

 

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無分別 [気づき]

 物事を「相対」として見ることによって混乱・迷いを作り出しています。誰かが自らに向かって混乱・迷いを起こさせているわけではありません。事実は一つであって二つに別れていることはありません。見えているという事実があるだけで、見えている物に善や悪のレッテルが貼り付けられいることはありません。「神 kami」という形や音が善であり、「悪魔 akuma」という形や音が悪であるというのは日本人が勝手に定義しているだけにすぎません。

 眼が”あるがまま”を相対に見えることはありません。勝手に見えているままでしかありません。眼に分別が備わっていることはありません。耳・鼻・舌・身体は音・匂い・味・感覚をそのままに感受しているだけ分けて感受してはいません。相対としているのは意の働きによって二つに分けています。一つの事実をそのままに受け取っていれば、痛いは痛い・寒いは寒い・・・という事実だけです。望む状態になりたいという二項対立を起こし”何なとかしよう”と意が働くと葛藤が生じます。

 「隻手の音声」という公案では、考えている自分を観察することができます。見えている聞こえているという事実があって、その事実に触れています。答えのない問を考えることで自らを混乱に巻き込んでいます。考えることで何かを得たり何者かになるはずだと思い込んでいます。しかし、考えることは静寂をもたらすどころか混乱・葛藤を起こしているではありませんか。

 考え尽くしても静寂は訪れません。熟睡した翌朝の目覚めが清々しいというのは、思考の煩わしさから解き放された結果を享受できたからではないでしょうか。相対の思考から離れていれば”あるがまま”の事実と一体となっています。

 見ている自己や聞いている自己は、我々が考えによってあるとしている自己です。思いの対象となっている自己は対象であって「本来の自己」ではありません。対象とならない働きそのものが「本来の自己」ではないでしょうか。見ている自己として認識しているのですから、対象となっている見ている自己は思い描かれています。

 例えば気づかれている対象は自己ではありません。眼の前の”壁”は気づかれているので自己ではありません。気づかれる一切は対象とされるので「本来の自己」ではありません。考えていると気づかれていればその思考も自己ではありません。

 探しているということが気づかれていれば、探すこと自体は自己ではありません。「汝これ渠にあらず、渠正にこれ汝」(洞山良价禅師)自己探求のために彷徨い、水面に写っている自己。探求していると気づかれているので「本来の自己」ではなく、この探求に気づいている気づきこそが「本来の自己」。

 事実を事実のままでいられない。二項対立を持ち込んで迷いを起こしている張本人は、こうありたいとい事実に逆らっている習慣かもしれません。

 考えによって考えを鎮めることはできません。”何とかしよう”という考えに耳を貸さず放ったらかしにする(=無視)ことを続けていけば・・・・。”何とかしよう”とする声はだんだんと力を失っていくことになります。

 

 

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苦悩の根源 [気づき]

 私達は自己の状況を他人と比較したり望まれる状況にしようと考えるということで自分を苦しめているとは思いもしません。ここで考えるというのは”何とかしよう”とする自分のことです。

 考えて(=何とかしよう)苦悩を解決するはずなのに、考えないで(=相手にしない)どうして苦悩が解決されるのでしょうか。簡単にいえば、問題にすれば問題となるし、問題にしなければ問題にならないということになります。考えるということは考える対象と考える主体という二項対立という構造になります。二項対立になれば混乱・葛藤となります。

 禅では解けもしない問題を提示して意図的に考えさせる「公案」があります。自分自身が「考えている」ということに気づけば、「考え」は見られているので自分自身ではありません。気づいているのが本来の自己であり、気づかれている「考え」は本来の自己ではありません。対象(=考え)は自分自身ではありません。

 

 私達は事実よりも、思い(=こうあって欲しい)を主体としてるのではないでしょうか。あるべき姿に向かわせているのが主体である。なぜその主体が悩み苦しむのでしょうか。「思い」は主体ではなく、観察される客体です。「思い」は気づかれています。気づかれている「思い」は偽りの自己です。

何とかしようと考え続けることこそが「無明」。老病死は「苦」としてとらえる問題なのか、それとも至極当たり前のこととして受け入れるのか。「老い」を何とかしたい問題とすれば苦悩となります。どうして自分だけ病気で苦しまなければならないかと、問題にすれば悩むことになります。誰もが老いて病気になるのは当然だと

、端から承知していれば問題にはなりません。他人と比較したり、元気な自分であるべきだという思いに取り憑かれていると苦悩に陥ることになります。

 自分だけは自然法則を避けて生きられると思い込んでしまったり、自分(=偽りの自己)の思い通りになるべきだと考える続けてしまえば苦悩が離れていくことはありません。

 自分の思っている事と現実に起こっている事実が違っている。宇宙が間違っていて、自分の思いが通るべきだ。自然法則を否定しても自分の思いを通したい。狂おしいまでに”自分かわいい”が優先されてしまっています。「思い」を主体として生きてきたということが言わしめていいます。これでは、いつまで経っても苦悩がつきることはありません。”可愛そうな自分”と”救われるべき自分”が共演して人生を歩いています。

 

 無門関第一則に「趙州無字」があります。「有」の二項対立である「無」を思考によって探し出そうとします。勝手に作り出した概念である「仏性」がどこに有るのでしょうか。

 努力して天才になろうとしている犬や、理想に邁進する犬はいません。

 悟ろうとしている犬がいたら大変なことです。すでにあるがままの犬のままで完璧です。悩みのない「仏犬」になるような仏性など備わってはいません。そもそも迷っている犬はいませんので「無」です。人は習わずとも見聞覚知できています。気づきという意識が働いている完璧な生き物です。しかし、分別という二項対立によって自らが迷いの只中に自らを埋没させています。

 

 そもそもモノを言葉で説明できるというのが間違っているということに気づかなければなりません。モノと言葉を勝手に関連付けています。その言葉のほうが主役のように感じてしまっています。「梅干し」という言葉なのに、唾液がでてきてしまいます。言葉とイメージが結びついて、喜んだり悲しんだり苦しんだりすることが出来てしまいます。

 感情を言葉にして言ってくる実体のない自己(=偽りの自己)は、そもそも存在していなということに気づく。その自己(=偽りの自己)はどんな音調でどんな姿をしてどこに住んでいるのでしょうか。

 

「迷悟一如」:迷っている自分を立てて、迷いのない自分にしようと頑張る。迷っている自分を作り続けて、自分(=偽りの自分)が迷っていない自分を確認したい。自分(=偽りの自分)が「迷い」そのものであることに気づいて放ったらかしにする。自分(=偽りの自分・迷い)は相手にされないと無常によって消えていく。

 財布に入っている金額は、多くも少なくもないのですが他人の財布の中身と比較すると多くなったり少なくなったりします。悩みとしているのは自分自身です。比較したり何とかしたいという偽りの自己に気づくしかありません。何度も何度も偽りの自己を観察して同調しなければ、迷うことから遠ざかることができます。

 

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悪はつくられる [気づき]

 頭の中のおしゃべりに気づいているその「気づき」が「本来の自己」であって、「気づき」自体に善悪・貴賤・・・という二項対立はありません。「気づき」は何にも染められていません。「気づき」を探すことはできないし破壊することもできません。いつ生まれたかも分かりません。不生であり不滅です。

 頭の中のおしゃべりはその時時の状況に応じて勝手に起こっているだけです。おしゃべりを「気づき」によって観察すると、観察された「おしゃべり」は力を失ってしまいます。過去・未来・他者・・を「我」の思い通りにしようとしたり、比較するということは「我」に力を与えて自らが栄養を補給することになります。

 「思い」の全ては「本来の自己」ではなく、勝手に起こっている出来事です。「思い」は自然現象であって責任を負う必要のない天候のようなものです。しかし、天候に二項対立を持ち出して評価すると、ケチをつけたりありがたく思ったりします。何でもない自然現象さえ恨んだり感謝したりすることになります。

参考:「父親と二人の娘」(イソップ寓話)

 自然(=勝手)に働いている「意識」は何かに気づきます。何かを「他」とすることによって、「他」に対する「自=我」が認識されます。「他」を認識している何かに「自」としているだけのことです。ただ全体があるだけなのですが、勝手に自他に分けて考えてしまっています。

 存在は「何か」であって何かでしかありません。名前をつけることではっきりとした「対象」となって認識されます。全体を意識的に分離しているわけではないので、分離されているとしか思えなくなっています。考えることで分離したものとしているだけのことです。

 何かを「他=対象」とすることで、「他=対象=客体」と認識すると、認識している何かは「自=主体」となります。自己は「自分は正しい=自分かわいい」という大前提で「他=対象=客体」と対峙することになっています。「自分かわいい」が行き過ぎて思い通りにならないと、行き場のない思いを自己に向けるしありません。自己憐憫・自己否定となり極端な場合は自死を選ぶこともあります。

 二項対立は分離・分割が前提であり、混乱・葛藤が必然です。事実しかないのに、自意識が二項対立の分別を起こしてどちらかに決めつけてしまいます。事実は一つであって一枚のコインなのにどちらかを表とすれば自動的に反対側を裏となってしまいます。

 言葉はただの形・音でしかないのに、何らかの意味をつけているので振り回されることになります。経典に書かれたことが絶対であるとしています。否定する人々を平気で虐げるような狂気であっても当事者は狂気ではなく正気です。互いが正しいと信じ切っているので「正義の戦い」と言っているのですが「正しいと思い込んでいる」だけでコインの表裏を演じているだけのことかもしれません。

 「老い・病気・死」はただの自然現象であって事実そのものでしかありません。自然現象さえ不条理であると受け入れられないのは「自分が正しい・自分かわいい」という前提で生きているという証拠です。良いとか悪いとかではなく「気づく」しかありません。

 「悪」があるのではなく、自分たちこそ「正義」であって「悪」とみなしている個人・集団・国家によって「悪」がつくられているということに気づく。

 

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事実と言語 [気づき]

 言葉は読んだり聞いたりすることで、その言葉から何らかのイメージをいだきます。頭の中のイメージですから現実のリアルそのモノではありません。「金融(キンユウ)」と聞いて、どこかに存在している「金融」を見たり掴んだりすることができるでしょうか。極端に言えば、現実のリアルなモノと言語はイコールではなく全く異なっています。幼児や外国人に「行政」と言ってもチンプンカンプンです。

 「鉛筆(エンピツ)」と言われた時に抱くイメージの「鉛筆(エンピツ)」と実際に渡されたリアルな「鉛筆(エンピツ)」とはイコールではありません。長さ・硬さ・色合い・先端の形・・・実際の「鉛筆(エンピツ)」はその時のリアルな実物を手に取ってみたそのものしか存在しません。

 実際のモノ・事象・現象・・等々と言語はイコールではなく、言語は大まかで適当でいい加減な代替される表象でしかありません。

 普段の会話での話し手は自分が理解しているイメージを言葉(=音)にして、聞き手は自分の解釈でのイメージで受け取っています。リアルなモノを受け取っているのではないので、全ては受け取っている人の勝手なイメージとなります。

 

 モノ・事象・現象・・・に名前が割り振られ、その名前を当然のこととして受け入れざるを得ない環境に生きています。リアルなモノ・事象・現象・・・と名前とは何の関係もなくどんな名前でもいいということです。世界には6900の言語があるのですから同じモノでも6900通りの呼び名があるかもしれません。

 一つ一つのリアルなモノ・事象・現象を言葉で説明できるでしょうか。試しに「土」を「土」という言葉を使わずに説明できるでしょうか。手を叩いた”音”を説明できるでしょうか。”雨音”を説明できるでしょうか。一切は説明できないモノ・事象・現象であり、見聞覚知しているあるがままが変化変容しています。

 リアルな事実と言葉はイコールではなく人間の約束事でしかありません。事実が先なのに、思考が主役としえ祭り上げられているので、言葉の方が重要視されているのではないでしょうか。

 リアルな現実ではない言葉に振り回されてい苦悩しているということに気づかなければなりません。

 「心」を探しても見つかりません、探そうとしている働きそのものが「それ」です。眼は眼を見ることができません。見るものは見られるものであって分離させることはできません。

 「月を指す指」というお話があります。月を見てほしいのに指を見てしまう。言葉ではないところに気づいてほしいのに言葉の意味を捉えようと一生懸命になってしまいます。

 

 「私」がいないというのを「私」が確認したい。確認しようとしている「私」がいる限り、「私」がいなくなることはありません。もともと存在しない単なるイメージなので、ないものは消す必要はなくなかったと気づけばいいだけのことです。「思考」を「思考」で消すことはできません。火を火では消せません。水で水を蒸発させることはできません。騒音を騒音で鎮めることはできません。

 

「野鴨」という公案があります。

 一切は「リアルなたった今」であり、自己の内に起こっている事です。認識している「あれ」も「これ」も全てが自己そのものであり、言葉にする以前の「リアルなたった今」が展開されています。

 眼の前には百丈がいるのに、眼の前にいない「野鴨」が飛んでいったイメージで答えました。事実とイメージのどちらで生きているのか。鼻をつねられて実感します。

「野鴨と自分という分別を越えたところ」という解説がありますが、越えるのではなく分別以前の「リアルなたった今」(=考える以前)をそのままに感受すること。

 感受している一切は他のどこかでもなく他人の感覚でもありません。自己の感受そのものに外も内もありません。見えている何かがあるだけで、見ている自分はどこにもいません。何かが見ているはずであるという思い込みで自分という主体があってしかるべきとの思い込み。私は見ているという思いによって作り出されています。夢を見ている自分がいるのなら、夢の途中で目覚めるようにしてみてください。意識不明のときに自分はどこにいるのでしょうか。

外(=対象)と内(=主体)とに分けて考える癖があるだけです。

 何かを理解したり、何かが向こうからやってきて素晴らしい心境になったら大変なことです。

 考えることで、”何とかして”寂静でありたいということは実現しません。何故なら”何とかして”が静寂を乱し混乱・葛藤を起こしているからです。

 

・モノ・事象・現象にあらかじめレッテルは貼られてはいません。

・言葉で分離分割した世界が構築されているかのようですが、そもそも境界もなく分離分割されてはいません。境界も分離も人間の都合で決めています。

・「リアルなたった今」の刹那が永遠に続いていて、刹那は滅しているのて過去はどこを探してもありません。

・「リアルなたった今」には何も問題はありません。

・「リアルなたった今」という事実以外に、頭の中であれこれと分別して問題を作り出しています。

・妄想だと気づいて、取り合わずに観察する。

・ネタがばれたら手品は手品でなくなります。妄想だと気づかれたら妄想は妄想でなくなります。

 

 

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自作自演 [気づき]

・自己、私:一般的に一人称として使われている言葉。

第三者が自らを表現するときに使う言葉

・「私」:事象を思考で振り返った後に、主体として使われる言葉。頭の中で事象を観察している自分。頭の中で、自らを観察し評価している自分。

・「我」:頭の中でアイデンティティと同一化し、自己正当化(=自分は正しい)しているただの思い。「たった今」に寛げず、この条件を満たしたら幸せになるという観念。比較するために、過去や未来を持ち出して不安・不平不満の元凶。

・無明:「苦しみ」がどう引き起こされているかを知らない。

・エントロピー増大:「それを自然のままにほっておくと、散らばる方向に変化して行き、外から故意に仕事を加えてやらない限り、決してその逆は起らない」

 

 私達は宇宙という大海原の中で宇宙と分離すること無く躍動しています。起こっていることは宇宙の出来事そのものです。極端に言えば宇宙とともに「たった今」を生きていることになります。宇宙=全体=気づいている意識=平常心。

 

 「苦しみ」の原因は、「我」が”自分かわいい”を前提に二項対立的な思考(=平常心ではない)によっているからです。

 手品の種が分からないうちは不思議でたまりません。どうしてそんなことができるのか狐につままれたように感じます。しかし、種が分かってしまえば気づかなかった自分の注意力のなさにガックリするやら可笑しいやらなさけないと感じます。

 「一切顛倒夢想」である現実も、「我」によって展開されている夢想(=妄想)でしかありません。自作自演のトリックですから、他人が自分の頭の中で繰り広げているトリックを暴く事はできません。自分で種明かしをしない限り自分のトリックから抜け出すことはできません。「自縄自縛」というのは「我」によって「無明」となっているということではないでしょうか。

 この世は諸行無常でありエントロピー増大の法則が働いています。老・病・死は「苦」ではなく、至極当たり前のことです。身体は分解して無となるのは必然です。「我」が老いを受け入れずに”何とかしたい”とあがけばあがくほど「苦しみ」となります。

 定年となり会社で築き上げるがアイデンティティは根こそぎ奪い去られてしまいます。アイデンティティは会社に所属していたときに仮に与えられていたただのラベルだということに気づきます。

 「私」だと思っていたアイデンティティはただの自分で思い描いていたでっち上げだということに気づけば、眼が醒めていきます。

 何者でもない空っぽな「私」であれば、プライドもこだわることもなければどうでしょうか。ただのおじさんであれば何を言われても、ただの音が聞こえているだけです。

 「苦しみ」(=無明)は、頭の中で作り出していることに気づくのが第一です。次にその「苦しみ」は頭の中の勝手なおしゃべりであって実体がないので放っておけば消えるということを体験していくことです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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一切 顛倒 夢想 [気づき]

・自己、私:一般的に一人称として使われている言葉。

第三者が自らを表現するときに使う言葉

・「私」:事象を思考で振り返った後に、主体として使われる言葉。頭の中で事象を観察している自分。頭の中で、自らを観察し評価している自分。

・世界:一般的に他者と共通認識されていると思っている世界。

例:ただのガラスのコップは誰が見てもただのガラスのコップという共通認識、ただの熱帯魚、ただの夕食・・・・

・「世界」:「私」が観念で作り上げた固有の世界

例:高価なガラスのコップ、安っぽいガラスのコップ、映えるガラスのコップ、珍しい熱帯魚、三星の夕食・・・・

・事実:たった今のあるがまま

・識別:認知して分別する

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 般若心経に「遠離 一切 顛倒 夢想 究竟涅槃」とあります。私達が気にかけることがない普段の生活を「顛倒」してると指摘しています。当たり前として見過ごしてきたことが、全くの見当違いということでしょうか。

 なかなか気づけないであろうという点を観察してみました。

◯「私」が聞いている「私」が見ているということに何の違和感もないし不思議であるとは思ってもみません。「如」(=そのまま)「ただ」(=事実・あるがまま)がキーワードです。

 本当は見えている聞こえている事実が先であって、「私」は後付け。

 

 事実を観察すると:「私」が聞いているのではなく、「私」が不在であってただ聞かされているのではないでしょうか。聞こうとしなくても、音はどこららともなく向こうから発せられていて勝手に聞こえています。どうやって聞いているかも知らず、耳があることすら忘れ去られています。「如来」(=そのままが来る)であり「ただ」(=あるがまま)聞こえてきます。

「誰もいない森の奥で一本の木が倒れたら音はするか?」(哲学の問題)

 その場に居合わせ、音として認識できた人だけが「音がした」と主張することができます。極端にいえば、自らが感受できている「たった今の事実」以外は妄想(=事実ではない)ということになります。私達は、眼の前にいない人のことを平気で話しています。お互いに妄想しあって話していることになります。事実でもないことをおもしろおかしく話してはいないでしょうか。

 宇宙全体は常に変化変容していてます。生滅を繰り返していてとどまることがありません。頭の中で考えて出現ささているだけの「私」がどこにいるのでしょうか。

 

 「私」は見ているのではなく、見せられているのではないでしょうか。見ようとしなくても勝手に見えています。眼がどうやって見ているかなど知らずにあらゆる光景が見えています。まるで鏡に映し出されるように・・・。見えている事実には「私」を見出すことはできません。見えた事実が先にあって、「私」は後付けです。見えた事実を説明するために「私」という言葉が使われているだけです。

 私達の五感は何の努力も必要とせずに勝手に働いています。「意」も勝手に働いているのですが、「意」の働きを説明するために「私」を後付けさせています。いろんな考えが浮かぶ前に「私」がその考えをいちいち浮かび上がらせているのでしょうか。

 「対象」として認識される一切は「本来の自己」以外ですから、「本来の自己」ではありません。

眼の前のパソコン(=対象)は認識されるので「本来の自己(面目)」ではありません。自らが見ている自らの手(=対象)も認識されているので、「本来の自己(面目)」でありません。頭の中で考えている事も認識されているので、「本来の自己(面目)」ではありません。「本来の自己(面目)」は対象とならないので見出すことはできません。眼は眼を見ることはできません。

 

◯「私」が考えているのでしょうか。それとも、考えによって「私」が出現しているのでしょうか。

 

 「意」が眠りこけているときに「私」は見つかりません。そう「意」が「私」を作っています。「私」が「意」を働かせているかのように考えていないでしょうか。勝手に考えているなんて、「私」の自由意志で考えているはずだ思っていないでしょうか・・・。

 時計を見ながらでもいいですが、ちょうど1時間後に「富士五湖」を考えることができるでしょうか。休みの日に、1時間毎に何を考えるか決めて、朝の9時から夜の21時まで決めたことを考えることができるか実験してみます。「意」は「意」のままではなく、勝手に働いています。何が起こるか分からないのに「意」がどう働くかを決めることはできません。思いがけないこと(=用事・電話・・)が起こったら対応しなければなりません。

 身体も思考もほとんど無意識に使われていますが、「私」が使っているかのような印象があります。動物は無為自然に動いているように感じられます。

 こうあるべきだ、こうするべきだという理想を勝手に描きます。人と比較したり人生に意味や価値があるはずだと決めつけてしまいます。有為の奥山では分別によっています。意味があるということは、意味がないことを暗に認めています。意味がないということは価値がないに繋がります。更に進むと迷惑⇒排除⇒戦争へと行き着きます。分別の世界では「神」だけではなく「悪魔」も同時に存在しなくてはなりません。相対(=分別)で考えて答えを出そうとする限り葛藤が続きます。有為(=分別)の奥山を越えなければなりません。

 

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

 聴いている「私」もいないし、聴かされている「私」もいません。蝉が主で「私」が客でもなく、「私」が主で蝉が客でもない。聴かされてもいないし聴いてもいない。自らも現象と一体となり、現象そのもの。

 主も客もない、ただただ「その」状況があります。全体が蝉の声で満たされています。静けさが入る余地もなく、騒がしさも入る余地もありません。静けさも騒がしさもない。

 「蝉の声」を聞き分けている「私」など不在であり、全一であってどこにも境界はありません。岩も人も寺院も土も木々も空間も何もかも全てが同じ周波数で同調し振動しています。

 静寂と騒音という二項対立が成り立つ以前のまま佇んでいます。思考で処理する以前。あからさまの事実のと出会っています。思考以前なので名前がありません、その状況は名もない「それ」が「それ」としてある。

 

 私達は悩むから考えるのではなく、考えるから悩んでいるのではないでしょうか。考えていない熟睡時には悩みなんてありません。

 「夢想」:思考を使って妄想を止めることはできません。思考で思考を止めようとすることは、火で火を消そうとすようなものではないでしょうか。どんなことが思い浮かんでも追いまわさずに、放っておけば勝手に消えます。何の努力もなく(=意を働かせなくても)、諸行無常の中で生かされています。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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今に生きている [気づき]

 ”老い”は若い時や若い人と比べて自らを見ることで”老い”となります。”老い”を受け入れずに”若さ”を求めて”何とかしよう”とすることで葛藤が起こります。何かと比べると今の自分と、比べた自分の二つに分離してしまいます。今のあるがままの本当の自分と、何とかして達成できるであろうイメージの自分です。現実の自分よりもイメージの自分になろうと私(=我)が働き主導します。現実の自分はさておき、イメージの自分が目標となってしまいます。現実の自分より、イメージの自分の方が本当の自分であるかのように振る舞っています。

 「百丈野鴨」という公案にあるように、知って応答している自分こそが本当の自分だと勘違いしています。”飛んでいる”も”何か”も認知できている自分を振り返ってのことであって、見えているモノは自分自身そのものです。

 教えられた記憶の中から「野鴨」と一致したので応答しただけです。自然に思考しているのが自分だと思い込んでいます。イメージしているのが本当の自分ではなく、今ここで働いている何かが本当の自分かも知れません。一切のアイデンティティのないただ見えている聞こえている何か・・・。

鼻をつねられて自己の所在を知らされたのでしょうか。

 

 今という現実には今・過去・未来が同時にあり、この現実と頭の中にあるただの記憶(=過去)と希望(=未来)が同居しています。今はちょっと前の過去から見ればちょっと未来であり、今はちょっと先の未来から見ればとっと過去です。時間という概念を持ち込めば、たった今は今・過去・未来が同時にあります。過去は過ぎ去ってあとかたもなく消え去ってしまっているし、未来がどこからからくるわけでもありません。新しい未来が今に入れ替わり、その未来が今を行っているわけでもありません。未来を設定し何かを描くことで悩むことになります。

 ”1”はどこにもないのですがヒトが都合よく何かを”1”としているだけです。”1”を持ってきて下さいといわれても持ってくることはできません。”1”は何にでも定義できるのでどこにもあるので、どこかにあるということはないことになります。”時間”もヒトの都合で考え出したものであり、所有することも売買することもできません。

 ヒトは思い(=妄想)の方が主であって現実が従であり、現実を思いの通りに変えたいと願っています。現実は受け入れるとか受け入れられないという前に、すでに現実を生きていることに気づくことがいいのかもしれません。

 

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イメージとの比較 [気づき]

 誰もが”自分かわいい”が前提にあって私(=我)がどうすべきかを思案します。より望まれるイメージと今の自分を比較することからスタートします。イメージが真の姿であってそのイメージへ近づけようとして苦悩することになります。既に現実・事実を生きているにもかかわらず、イメージの方が正しく現実・事実があたかも間違っているかのように分別が働いてしまいます。自己憐憫・自己正当化のスパイラルによって現実・事実を受け入れられないのが原因です。”夢は叶う”と言われますが、実現したイメージが夢であり破壊することを夢として抱いている人もいます。

 赤ちゃんは自分を見ている自分を作り出すこともできないし、イメージされた自分を作ることもできません。現実・事実のままに生きています。比較対象となるイメージがないので、分裂せずに生きています。赤ちゃんには見ている自分もいないし、聞いている自分もいません。見えているだけ聞こえているだけであり、自分(=我)が形成されていないので自分が認知しているということもありません。

 自分(=自分を見ている・自分を分かっている=自我)が自分(=見られている自分)とイメージで作られたあるべき姿の自分(=未来の自分)と比較していないでしょうか。あるべき姿の自分が主であれば、今の自分は何もできていない自分として駄目な自分と見ることになります。

 では、赤子のようにイメージを思考で作ることができないなら、あるべき姿の自分はいないことになります。今のあるがままだけがあって、イメージに振り回されない事実のままの自分として生きています。

 

 独りでいる時には、アイデンティティは何の役にもたちません。比較する必要がないので、何でもない素のままでいることができます。男でもなく女でもなく人間でもなく・・・学者でもなく政治家でもなく主婦でもなく父でもなく・・・。思考以前にある”私は在る”という感覚だけにいてみる。

 働いている感覚のままにただ”在る”に留まって、何かが見えているし何かが聞こえているだけにとどまる。見ている”誰か”が不在であり、主体となる私(=我)がいなければ見えているモノは対象となりません。

 

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、
これはこれ災難をのがるる妙法にて候 」(良寛)

あるがままが事実であり、思い描いている姿(=イメージの自分)は現実・事実の姿ではなく妄想です。災難に逢っていいる時は災難に逢っている自分が本当の姿です。災難に逢っていな前の自分はイメージであって現実の自分ではありません。あるがままをあるがままに正直に受け入れる。災難に逢っている自分として行動する他ありません。災難に逢っているという現実は嘘でほしいと嘆いても以前のように元に戻ることはありません。現実が嫌であっても、思考によって以前のように戻すことはできません。現実を受け入れなければ前に進むことはできません。「覆水盆に返らず」

 死が迫ったら覚悟を決めて身を委ねる他ありません。身体が眠りたいのに思いによって眠りを拒み続ければ不眠症になるかもしれません。何が起こるかなど誰にも分かりません。思っていること(=イメージ)が主ではなく、事実・現実が主です。起こっていることが事実・現実です。事実・現実が間違っているのなら宇宙自体が間違ということになります。宇宙に属している自身も間違いの存在であることを認めていることになります。

 起こっていることを事実として受け入れることができなければ、宇宙で起こっていることが偽りだとして否定していることになります。現実・事実を解釈しているのは私(=我)であって、現実・事実と解釈の差には個々人の主観があります。現実が思い通りにならないということは一切皆苦であり、思いではどうにもならないというのが現実です。

 

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偶然と必然 [気づき]

 私たちは、起こった事象に対して予想外のことが起これば「偶然」と感じます。練習を重ねて技の完成度が高いオリンピック選手であれば確率的に「必然」と言っていいかも知れません。スキルの不足している初心者であれば「偶然」にできたと解釈するかもしれません。また、物理法則に従っていれば「必然」とします。起こった事実は曲げられないので「必然」として受け入れなければなりません。想定外・予定外等の信じられないことでも起こってしまったことは「必然」ではないでしょうか。単に予期しなかったことが起こったと感じて「偶然」という概念で処理してはいないでしょうか。

 極端に言えば起こっていることは「必然」だけで、個々人が出来事を振り返って「偶然」としているだけかもしれません。

 「今」というのは振り返った瞬間に「今」は過ぎ去っているので「今」を知ることはできません。「今」を捉えたり掴んだりすることはできずに、ただ流れのままにあることができるだけ。あらゆる事象が「必然」であれば、「今」は過去から決められたことであって「未来」である言えます。また、決められた「未来」があり「未来」から「今」を観察すれば「今」は「過去」と言えます。つまり、「今」は瞬く間に消え去っていて「未来」でもあり「過去」でもあります。

 100メートルを走るとします。「今」スタート地点にいるとします。スタート地点はゴール地点から見れば「過去」であり「今」です。スタート地点はスタート地点に立つ1分前からすれば「未来」です。スタート地点に立っているのは「過去」「今」「未来」ということかもしれません。

 散歩して、数十メート前のある地点は「未来」の通過地点でありその通過地点のさらに数十メートル前からすれば「過去」です。家に帰ったらただ歩いたという経験があるだけで、歩いていた時の自分は消え去っていて「今」の自分があるだけです。そう、今まで経験したことは何もかも消え去っていて「幻」のようなものです。「今」はあるとも言えるしないとも言えます。あったはずですが全く同じ状況は綺麗サッパリ消え去っています。

 「今」を生きていても過去・現在・未来を経験しているということになるかもしれません。そして我々は実在しているようで縷々転々と変化しているので固定したものではありません。私たちは本当に存在しているのでしょうか?

 

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観察し続ける [気づき]

 欲求は満たされていない状態(=欲求不満)があり、欲求を解消するためにに行動を起こす。生理的欲求(食欲・睡眠・排泄・種の保存等)・安全欲求・社会的欲求・承認欲求・自己実現欲求(=マズローの欲求5段階説)

欲望(=desire)は足りていないという思いを満たしたいという気持ちです。

 

 動物は「今」だけに生きていて「未来」について思いを馳せることができず、未来を憂いることはありません。動物には「明日」という概念がなく、人間が抱くような将来に対しての「不安」で悩むことがないのかもしれません。欲求が満たされれば充分であり、明日の分まで捕獲しても腐ってしまうか横取りされてしまいます。植物も1年分の水を根のどこかに貯蔵することはありません。人は思考によって未来設計ができるので、未来に備えたり憂えることができます。夢もありますが絶望もあるということなのでしょうか。

 欲望の反対語は無欲・虚無・無我・無心のようですが、無我の反対語は煩悩(=自我)です。自我は対象を認知する認識する主体があり、自らが境界線を持っていると堅く信じていることです。対象を認知した瞬間に二元対立に分別します。人間も所詮は動物であり状況に反応しなければなりません。闘争・逃走反応fight-or-flight response)によって身を守らなければなりません。

 人間は道具を使うことで効率よく狩ができるようになり、火によって短時間で消化することができるようになりました。狩りと調理の時間短縮によって、多くのエネルギーを脳の発達のために使えたかもしれません。人は未完成のまま生まれてくるので、どのような環境にも順応できるようになってるのかもしれません。周りの人々の庇護の元でどのようにも染められる可能性があります。

 言語を獲得したことで、擬自己としての私(=我)というものが自動的に創られ身体的反応から思考して応答することができます。この思考によって創られた私(=我)は、どんな虚構でも受け入れることができます。過去や未来はどこにも存在しないのに「ある」と仮定して思うことができます。

 何度も書いてきましたが何かを”得たり・掴んだり”というのは思考している間だけであって事実は何も得ることもできないし掴むこともできません。もし掴んだものがあればその掴んだモノを現出できるはずですが・・・。ただの概念であって何も握っていない”空手”のままです。いつでも両手は塞がっていません。握っていては手を働かせることができません。

 

 量子力学では、素粒子がぼんやりとした霧の塊ように存在しており、観測を行なうまではその厳密な位置や速度などの状態を確定できない。人が観測していない素粒子は、見るまでは存在していない。素粒子は我々が観測することで実在として認識できるということのようです。

 素粒子はどこからどこまでという境界はありません。観測した時点で現れるのですから各個人が見えている世界がそれぞれに存在していても不思議ではありません。

 極端に言えば、どこにも境界のない大海の中でひと粒の水滴(=個々人)が様々なモノを見ているのかもしれません。宇宙全体が一つとして存在しているのに、私(=我)だけが分離して存在できるわけがありません。事実、宇宙の一部であり宇宙そのものとして存在しています。どことでも繋がっているのに繋がっていないと証明できません。ウィルスは我々が繋がっているということを教えてくれているのでしょうか。自分だけが感染しないということはありません。欲望や恐怖によって分離感が増長されます。分離しているという思いを追随せずに、出てくる思いをただ観察し続けることで分離の嘘が暴かれるかも知れません。

 

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火種はどこか? [気づき]

 私たちの身体は自律神経と運動神経によって活動があるようです。意識しなくても自律神経が身体を整えています。自分の意志とは関係なく自動的に働く神経であう。呼吸・循環・消化・生殖・排泄など生命維持に必要な機能を勝手に調節してます。自律神経には、身体を活発にする交換神経と、身体を休めるのが副交換神経があります。自律神経は勝手に働いているので”私(=我)”などどこにも見当たりません。”私(=我)”が自らを活かしているわけではなく、ただ生命活動があって生が展開されているとも言えます。

 自分の意思に基づく運動は「髄意運動」と呼ばれています。全ての運動を自身の意図で動かしているわけではないようです。身体を動かしたことを振り返ることで、自らの意図で動かしたとしたと自認しています。身体のある部分に手が勝手に動いて擦ったり掻いたりすることがあります。気になる匂いがあれば自然と鼻を近づけます。聞き耳を立てたり足音がしないように歩くこともあります。”私(=我)”の意志などないのですが、必ず振り返って思い起こすと”私(=我)”がしたことにしています。思いによって作り出された”幻・ラベル”として後付され名前をあてがわれたものです。

 ”私(=我)”が意図して考え出したことではないのに、”私(=我)”が考え出したことにします。朝起きて”夢”を振り返った時に、辻褄の合わない訳のわからない夢があります。もし”私(=我)”が意図しているのなら辻褄のあうことに成るはずですが・・・・。勝手にわき起こってくるイメージに対して”私(=我)”が意図しているのなら恐ろしいことです。

 ”超能力”とか”神”というのがただの概念であって実際には存在してもいないし、機能もしていないというのが”侵攻”によって気づかされます。人類の歴史で、誰もがいつも”平和”を願ってきました。それは世界に”平和”が実現できてこなかった事実が物語っています。超能力者がどんなに頑張っても、たった一人の意志さえも変えることができないということです。スプーンが曲がって大騒ぎして驚いていたことが恥ずかしく感じます。戦争を望む人は、軍需産業や資源を高く売りたい人だけです。多少の犠牲があったとしても、自らの利益が優先されます。それが為政者ということでしょうか。

 ”幻・ラベル”でしかない”私(=我)”に振り舞わされている為政者とその為政者に巻き込まれている人々が犠牲となります。”私(=我)”の囁きに応じないように心がけたいものです。

 

参考:バイデン大統領と息子のスキャンダル

 

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観察者のいない観察 [気づき]

 私たちの問題(=不平不満・苦悩)はどこにあるかと言うと、頭の中で比較することで作り出された思いではないでしょうか。ありもしない過去や未来を頭の中で勝手に想像して比較することで問題を作り出しています。自身の思い(=こうあるべき)という観念(=決めつけ)のほうが優先されることで起こっている個人的なことです。誰が何をどのように考えているかなどサッパリ分かりません。”自分かわいい”を最優先して勝手に問題として勝手に悩んでいるのかもしれません。現実(=事実)は自らの悩みなどお構いなしに変化変容しているのに、自らの悩みは頭の中でグルグル回るばかりで解決することはできません。何故なら、自らの思いの通りに現実が動くことはないからです。(一切皆苦)

 「無い」ことを「有る・在る」として疑わうことなく信じていることが原因かもしれません。本来「無い」という概念は使われるべきではないのですが、「有る・在る」という概念を説明するために必要とされた概念かも知れません。「有る・在る」を打ち消す概念であって、もともと無いモノに「無い」ということはできるでしょうか。

 時間も場所も関係なく、誰かがどこかの「空間」を指さして”無い”と言ったとします。”何が無いのですが?”と聞き返すのではないのでしょうか。何かが”有った・在った”から「無い」が使われるという暗黙の了解があります。「死」があるという前提なので「生」があると思いこんでいます。自らの「死」を認識できれば、死んでいません。自らの「死」を認識できないということは自らの「死」はあるとかないとか分からないということになります。ただ、他人の「死」を認識できることで自らの「生」があるということにしているにすぎません。

 全て頭の中で繰り広げられている「有る・在る」と比較しているだけかもしれません。「得る・成る・掴む」というのも頭の中で描いている妄想であり実体のないことかもしれません。

 この画面に表示されている文字を書いている人が存在している筈であるというのは不確かな想像でしかありません。想像であって入力している人の存在を確かめることはできません。「写真」が掲載されていたとしても、ある瞬間の「写真」であって、状況はまった変化してその写真を撮った瞬間は消滅しています。芸能人の方の訃報を耳にすることで、「生きていた」と思い込んでいた過去の記憶が間違いであると気づきます。

 極端に言えば、他人は存在していると思い込んでいるだけで、確認できた瞬間にだけ存在していると認識されるだけかもしれません。今まで行ったことのない町内を散歩すると、初めて見る家や人を見ることができます。今歩いている道を歩くことがなければ、初めて見た人をもう二度と見ることはないかもしれません。存在していると認識できたのは瞬間でしかありません。記憶はいつしか消え去るので、散歩中に見た見知らぬ人の存在を確認することはできません。つまり、記憶がなくなってしまえばさっきの見知らぬ人が居たということは消滅してしまいます。極端に言えば瞬間瞬間に現れている”幻”を見たり触れたり聞いたりしているだけかもしれません。

 何十年ぶりにお互いに再会してみると、別人だということがはっきりします。頭の中に抱いていた記憶が間違いだと分かります。しかし、私たちは記憶や思いが正しい(=拠り所)ことであるとして比較してはいないでしょうか。世界は変化しているのに、記憶に現実を合わせることは間違っています。

 事実のままが生滅しているだけであって、事実のままに乗っかっるしかないのかもしれません。”頭のお喋り”につき合わずに、ジッーとして何が起こっているのか見守って見るのもいいかもしれません。

 

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意志と行動 [気づき]

意思:気持ち 意志:意欲

 頭の中のお喋りと意識は同じでしょうか。例えば、朝になって”起きよう”と頭で考えたとしても身体が直ぐに従うわけではありません。単に思ったこと(=意思)から行動へと移すように思った(=意志)ことには違いがあります。単なる思いによるお喋りでは身体は言う通りにはなりません。強い意志を持って身体に指示を与えても思うようには動きません。脳内ネットワークと身体の各部位が細かく制御できてはいません。子供の頃は自分の身体であって自分の身体ではありません。制御されていない身体はぎこちなくようやく歩みを進めることができる程度です。身体は意志をそのまま表現することはできないということです。

 熱が出ても意志で下げることはできないし、身体の細胞を意志でどうすることもできません。身体の部位を何度も何度も使うことで覚え込ませるしか方法はありません。アスリートは無意識に反応できるように徹底的に繰り返し練習するほかありません。

 ”手を挙げる”という行為であってもスピードと方向をある程度制御できますが、ロボットのように距離の制御は難しいことです。目をつむって両手の人差し指の先端を正確につけることも容易ではありません。

 身体は意識された”私(=我)”の思いの通りに動かしているというようり、無意識に勝手に動いているほうがほとんどかもしれません。何気ない仕草を思いを使っていちいち身体に指示するのなら脳はパンクしてしまいます。意思や意志とは無関係に、勝手に動いているのではないでしょうか。排泄を促されて身体が従います。自らの意志で好きな時間に排泄するわけではありません。

 アスリートにとっては少しでも自分の思い通りに身体を動かせるようにできればいいと願っているに違いありません。”私(=我)”は自身がなんとか制御できる身体だけではなく、あらゆる願望を成就させたいと願っているかもしれません。自身の身体でさえ言うことを利かないのに、自身のモノでもなんでもないことがどうして思い通りに成るでしょうか。(一切皆苦)

 世界が個々の意識に従うのでしょうか、個々の意識が世界に従っているのでしょうか。宇宙の現象として身体を通して個々の働きが体現されているのではないでしょうか。意識的にできるということは微々たることであって、殆どは無意識に起こっている。思考の言っていることをスルーして、いっそのこと無意識に委ねてみるのもいいかもしれません。

 茶道の経験はないのですが、茶道での所作を意識的に行い尽くすと無意識(もとのその一)にできるようになるのでしょうか。”私(=我)”が働くことのない無意識に任せた所作では”無我無心”で行われ美しい所作が体現される。

稽古とは一より習い十を知り 十よりかえるもとのその一」(利休)ピアノ演奏の初歩から達人に成るまでの過程は、叩く・打つ・弾く・奏でる・奏者なく(=私が奏でているのではなく私不在の無意識でピアノと一体)。

人馬一体。不二一体。主客一体。

 料理を極めれば知らぬ間に料理が出来上がったとか、掃除を極めれば知らぬ間に部屋が綺麗になっていたとか、畑仕事を極めれば知らぬ間に種を植えていたとか・・・。”私(=我)”の働きが排除された無我無心の動作を経験しているのではないでしょうか。

 

 

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放ったらかし [気づき]

 「自分」と呼ばれる何かがどこかにいる。この思い込み(=観念)が前提にあり、「自分」が世界を認識していると考えられています。この「自分」という観念は、感受された対象を説明するために必要とされた仮のモノでしかありません。実体がなく思考で作り出され続けられるのでどこかに「自分」がいると思い込んでいます。

 自分が見ている聞いている味わっている感じている思っている分別している表現している笑っている泣いている嘆いている・・・。「自縄自縛」という言葉がありますが、自分というのは実体がないゆえに、アイデンティティ(=存在証明)・社会的評価・所属集団・国籍・出身地・人種・ファッション・性別・年齢層・ポリシー・固定観念・所有物・・・等と簡単に結びついてしまいます。他人と比べて自分が際立って異なる部分や優劣が自分であるとみなすこともあります。

 「私は誰か?」と自問自答するには、他と比べることによって違いを見出すことが最も手っ取り早いことです。私は若い背が高い資産がある有名である◯◯に優れている・・・。比べる誰か存在しない無人島で唯一の人間であれば、誰ででもない何者でもない存在そのものということになります。

 無人島で私は◯◯であると主張する必要はありません。アイデンティティもポリシーも役にはたちません。社会生活ではアイデンティティが拠り所となるかも知れませんが、一人ぼっちでは体力やサバイバル技術によって生存が左右されます。

 無人島で一人で生きるのに清濁・善悪・貴賤・・よりも日々の生活を成り立たせなくてはなりません。動物の生活は時間単位での生活、生命体の寿命が短くなれば分単位で生きています。自らの遺伝子を次代へ受け継がなければなりません。「私」という架空の何かを創り出す時間もないし、「私は誰か?」と問うこともなく消え去ってしまいます。

 思考によって救われるのか、思考に振り回されて苦悩しているのか確認してみるのもいいかもしれません。無人島で過ごす必要はありませんが、一人の時間を過ごすことはできます。考えには匂いも味も色もありません。考えを徹底的に放ったらかしてみるのもいいかもしれません。頭の中で考えを追いかけ回しているおしゃべり(=自我)はどうなるのでしょうか。

 

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