麻三斤 [公案]
無門関第三十七則 庭前柏樹 [公案]
非風非旗 [公案]
二人の僧が、風になびいている旗を見て議論しています。事実は見えたままの一つですが、「旗が動いている」「風が吹いている」と意見が割れてしまいます。そこに慧能大師が「心が動いている」と指摘したというお話です。
何の問題も無い見えたままなのに、二項対立によって分けてしまい混乱・苦悩を自らが作り出しています。私達の頭の中で勝手に行われている問答を指摘しています。
痛い・痒い・苦い・老いている・病気である・・・という二分する必要のない事実そのものでしかありません。痛いを考えても痛いはどこかへ飛んでいくことなどありません。歯が痛くてしょうがなければ、歯科医院に行って治療してもらう他ありません。痛いを考えて、考えで”何とかしようと”と考え続けるても考えを巡らせて続けているだけのことです。
旗が動かなくなったら、「旗が止めた」「風が止んだ」と議論するのでしょうか。自分ではない他の力によってこの状態になったと言って他人や他の存在に責任転嫁するのでしょうか。
見られるモノ(=客体)と見る者(=主体)として分けてしまう癖があります。認識されるモノと認識する者の二つに分けてしまうと混乱・葛藤・苦悩が生じることになります。起こった事実があったということが永遠に続いています。事実に対して、比較・評価・意味づけ・価値づけ・・・を行うと良いとか悪いとかの二項対立となり混乱・迷いとなります。
私達は、見られるモノは自分以外の存在であると学習されて思い込まされています。多分、赤ん坊のときは自分(=我)という観念がないので、自分以外というモノが存在していなかったかもしれません。見えたまま・聞こえたままだけの事実で生きていた。自分(=我)が生成されると、見ている自分(=我)と見られるモノという二元対立としての見方によって見るようになってしまっています。普段の生活で見ている自分が、どこかにいるでしょうか。私が見ているというのは、後づけであって私に関係なく見えているだけです。私がセピア色で見ようとしてもセピア色で見ることなどできません。見ること以前に私を働かせて私が関与することなどできません。そこに私などどこにもいないということになります。
「バーヒヤ経」を参照してみてください。
赤ちゃんの頃は、見ている何者(=自分・我)として見ているのではなく、見ているという意識もありません。見たまま・聞こえたまま・・・・そのままがあるだけ。
成長するに従い、見られるモノという存在と見る者という自分という分離が起こります。考えている時だけ自分(=我)がいることになります。見たとか聞こえた何かを振り返って評価すると、見た自分・聞こえた自分がいなければなりません。ただスポーツやTVを見て聞いているときには、自分(=我)などどこにもいません。評価・意味づけしなければ、見えているまま・聞こえているままです。普段は、本来の自己(=意識)が働くままです。対象(=客体)を評価するときに、どうしても自分(=我)を使わなければなりません。あるがままに起こっているだけなのに、こちら側に自分(=我)がありあちら側に対象がある。その対象を議論の対象としていじくり回して遊んでいるということです。
考える対象がある限り、混乱・悩みが静まることはありません。
無門慧開和尚は、「風動くに非ず、幡動くに非ず」更に「是れ心動くに非ず」と言っています。「心」を対象として探したら悩みの種をまいていることになります。何でもかんでも思考の対象とするこぎりは混乱・悩みは尽きません。見えたまま・聞こえたまま・考えたままです。評価して、自分の評価を正当化して自分(=我)の思い通りにしようとするから苦しむことになるのではないでしょうか。評価・意味づけ・価値づけの癖があります。
真理はどこかにあって、掴んだり得たりすることができるのでしょうか。修行した誰かや聖なる書を読んだ人が真理をが掴んだり得たりするのでしょうか。いつでもどこでも真理そのものです。いつでもどこでも真理でなかったら、宇宙のどこに真理と不真理が存在しているのでしょうか。
迷っている・苦しんでいる自己を認めると、迷っていない・苦しんでいない自分を見出さなければならなくなります。迷ったなら迷ったまま・苦しいなら苦しいままである。諸行無常ですから同じ状況がいつまでも続くことはありません。泣き続けることもできなければ笑い続けることもできません。分離を作れない赤ちゃんは迷うことはできません。分からない自分を仕立てるので、分かる自分を求めてしまいます。歌が上手くなろうと思わなければ、歌についての悩みは生じません。老いを受け入れて若くなろうとしなければ、老いの悩みはありません。悩みは二項対立を持ち込んでいる自作自演かもしれません。負けた自分が許せないと、自分を負かした相手か自分の不甲斐なさを責めることになります。過ぎ去った負けを受け入れて次に進むしかありません。
公案には必ず二項対立があり、その二項対立を解こうとします。二項対立を持ち込むと混乱・葛藤が生じることに気づきます。二項対立を解決するには二項対立にしないことだと気づかなければなりません。出来もしないことに頭を悩ませていた愚かさに気づかされます。「隻手の音声」片手の音を頭で考えて、頭で作り出すことも見出すこともできません。
問題としなければ問題とならないことに気づきます。「倶胝竪指」という公案があります。何を問われても、問うた人に指を見せたそうです。指に意味や価値や評価はありません。見えたままそのままでしかありません。見えている指には何の問題はないということになります。何の問題もなければ自己(=本来の自己)のままでいることに気づきます。いついかなるときも本来の自己から離れることはできません。あえて自分(=我)を立てて悩み、自分(=我)で解決しようとしている自作自演劇を演じているのではないでしょうか。
「香厳撃竹大悟」竹に石がぶつかった音には何の意味もありません。悟っていない自分を立てて修行していたから、問題にならない音がただの音のまま聞こえました。疑団が大きければ大きな気づきがあったということでしょうか。私が悟ったと言っている私が偽物です。本来の自己(=意識)で無い人はいません。迷っている自分だと分かっているのが本来の自己(=意識)であり、迷っている自分は迷っているという思いそのものです。苦しんでいる自分は苦しんでいるという思いそのものです。落ち込んでいる・苦しんでいる・悲しんでいる・・・・その感情に気づいているその気づきが本来の自己。
修行をしたり聖なる書物を読むことで、気づいている意識を得たり掴んだり目覚めさせたりするのでしょうか。意識はいつ生まれたかわからないので不生です。消えたこと確かめられないので不滅です。見つけたいモノを見つけようとしていることに気づいてる「それ」が「それ」です。探している者が探される者です。見ている者こそが見られる(=探される)者だということです。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
平常心是道 [公案]
趙州:「道とはどんなものですか」
南泉:「ふだんの心が道である」(平常心是道)
趙州:「それをめざして修行してよろしいのでしょうか」
南泉:「めざそうとすると、すぐにそむく」
趙州:「めざさなかったら、どうしてそれが道だと知れましょう」
南泉:「道は知るとか、知らぬとかいうことに関わらない。
知るというのは妄覚だ、知らぬというのは、無記だ。
もしほんとに『めざすことのない道』に達したら、ちょうど虚空のようで、からりとして空である。
そこを無理にああだこうだと云うことなどできない」
趙州は言下に悟った。
-----
般若心経で私達の平常が「一切 顛倒 夢想」であると指摘されているのに、このままでいることが平常心だと納得してしまったらどうでしょうか。このままでいいのであれば、何の気づきもありません。棚からぼたもちを待っていたのに・・・といことで一生が終わってしまいます。
「平常心」を辞書に書かれた普段の心だと解釈すれば、何もしなくてもいいことになります。
「一切 顛倒 夢想」と般若心経で指摘されているので、「平常心」も誤解しているかもしれません。「公案」として残されているのも、後世の人に気づいてほしいのからではないでしょうか。
事実が先なのに「私」が先だと思い込んでいるのことが「顛倒」です。このことを納得させるための実践方法があります。例えば、ヴィパッサナー瞑想の実践によって、事実が先であることにだんだんと気づくようになります。「私」が何かをしているのではなく、ただ起こっている事実に気付かされます。言語には文法がありますが、文法は事実に基づいているものではなく、人間の勝手な都合によって成り立っているだけではないでしょうか。文章の最初に「私」が置かれるのは、「私」が主体であるということのようです。日々の会話によって「私」が主体であり「私以外」が客体であると刷り込まれてしまっています。
有為の奥山で日々繰り広げられている当たり前を観察してみます。瞬時に「私」が出現し、二項対立的な見方をしています。この「私」と二項対立的な見方によって、自らが安楽な状況(=分別妄想以前・あるがまま)を乱してしまっています。このことはなかなか気づくことはきません。
「私」は”自分かわいい”が大前提であり、「私」こそが一番大切で守るべきモノとなっているのが常識です。おかしなことに、「私」が主体であるのに守るべき客体としています。「私」は主体でもあり客体でもあるということは矛盾しています。この「私」というものはただ頭の中で考えられた虚構のモノだということです。対象(=客体)は主体ではありません。主体が主体を知ることができません。自分が自分の顔を直視することはできません。手で手を掴むことはできません。足で足を踏むことはできません。舌で舌を味わうことはできません。対象があっての主体です。片手で音は出せません。
二項対立は事実の後に事実を分別してしまうことです。事実に良いも悪いも汚いも綺麗もありません。事実が間違っているということは宇宙が間違っていると言っていることです。宇宙は私の思っていることにならなければならないということでしょうか。二項対立は人間が頭の中で作り出した観念です。
「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉があるように、戦う前にはお互いが自軍が善であり敵軍は悪であるとしているだけのことです。かつての侵略者が官軍になっているのが人類の歴史です。
自国の正義の対極は悪ではなく他国の正義です。自分の信じる神の対極は悪魔ではなく、他が信じる神です。戦争にも色々あるそうですが、宗教戦争は自らが信奉する神が偉大であればあるほど、他が信奉する神はちっぽけで疎ましく醜く存在を否定され永遠に消し去りたいと願われます。他の神を攻撃することは聖戦とされ殺戮が正当化されて激しいものとなります。どちらも戦うことが悪であるなんて思いもしません。愛国心や選民思想も正当化には役立つようです。自尊の気持ちが大きくなればなるほど、他を虐げても平気でいられるというのが二項対立の恐ろしいところです。
「あの世」が華やかで素晴らしいと誇大に表現されたらどうでしょうか、「この世」がどんどんつまらなく忌避されてしまいます。見たことも行ったこともない「あの世」ですから、どんなに大げさに言ってもバレることはありません。
太極図というのがありますが、陽が極まれば陰となり、陰が極まれば陽となります。また、陽の中に陰があり、陰の中にも陽があって全部が陽であることも陰であることもない。陽がある限界に来ると陰が少しずつ増えて陰が限界となり陽が少しずつ増えるという繰り返しになっている。夜明け前が一番暗く、日が登り初めて徐々に明るくなり日が沈むころにはだんだん暗くなります。絶望のときに小さな光明が差し、絶頂のときに小さなほころびが出始めることもあります。
知るとか修行とか(=外へ向かう)が極限に近づくと、知る以前修行以前への洞察が芽生えてくる。「私」(=我)が全てをやり尽くすと(=お釈迦様の苦行)、「私」(=我)などどうでもよくなる兆候が出始め何もしないでお任せへと向かう。「稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一 」
開くとか得るとか対象にする限りは、開いたり得たりする主体である「私」が隠れ潜んでいます。また、開いた人得た人と二項対立として捉えるのなら、いまだ開かず得ざる人と区別していることになります。誰もが既に「それ」であり経験しているのですが、気づかないだけのことです。主体が主体を知ることはできませんが、働いていることに気づくことはできます。熟睡している時は熟睡していることを知りませんが、起きたときに熟睡していたことが分かります。
”何とかしたい”という思いが「私」であり、”何とかできない”という二項対立を生み出しています。「雪山偈」にある諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽を実践する他ありません。
色々な思いが浮かび上がっても必ず消えていきます(諸行無常・雲散霧消)。出てくることをほったらかしにする、これこそが”何とかしたい”を滅する法です。(是生滅法)。自縄自縛が解けて”何とかしたい”が已んでしまう。(生滅滅已)「私」も二項対立も使いたい時は使ってもそれに縛られることはなくなっていくのではないでしょうか。
<語の説明>
◯ヴィパッサナー瞑想
今、この瞬間に自分の心と体が何を経験しているかに気づき、ありのままに観察していくのです。一切の思考や判断を差し挟まずに、見たものを「見た」、聞いたものを「聞いた」、感じたものを「感じた」と一つ一つ内語で言葉確認(ラベリング)しながら、純粋に事実だけに気づいていく……。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
香厳撃竹 [公案]
参考:「香厳撃竹」
香厳智閑禅師がある日、道を箒で掃いていた所、箒に当たって飛んだ小石が竹に当たり、「コツン」と音がしました。香厳智閑禅師はその音を聞いた時、ハッと気がつき、釈尊の教えがどういうものであるかという事を、体験を通して自分のものにすることができたというお話です。
小石が竹に当たった音は、聞こうとして聞いた訳ではないようです。事実を事実のままに感じ取っただけのお話です。自分も事実の世界に生きているということを実感したのでしょうか。分別以前のあるがままの世界の中で生き生きと生きているという喜びを味わったのでしょうか。
<参考>
・盤珪「不生禅」
・衆生本来仏なり(白隠禅師坐禅和讃)
・「無字の公案」有るとか無いとかいう(分別)以前が「それ」
私たちは行動したり思考することで、何かを得たり何かを達成することを見ています。社会的成功と仏道とでは異なります。思考以前と思考後との違いに着目しなければなりません。
例えば、映画での映像とスクリーン。無色透明の空間と山河。画布と油絵。画用紙と水彩画。夜空と花火。静寂と音楽。大地と花畑。鏡と映し出されたモノ。海と船。大空と漂う雲。ホワイトボードと文字。グラウンドと高校野球。半紙と書。茶室と茶。道場と武術。壁と掛け軸。・・・・・。映画はできれば真っ白で凹凸のないスクリーンに光の陰影が次々に変わることで映画になっています。 私たちは、変化している映像を追いかけます。スクリーンが無いことには映像はうまく映し出せません。
「コツン」という音自体には意味や価値はありません。「コツン」以外の、カラスの鳴き声の「カーカー」であったり「ミンミン」「ポチャ」「ヒューヒュー」どんな音でも機縁があれば気づいたはずです。「分別(=思考)以前の音とは?」(=隻手の音声)と考え続ければどうなるでしょうか。
聞こえた音は「何だ」と考える以前の聞こえたままの「音」に成り切る。聞こえている音と聞いている自分が分かれる以前。自らの五感で感受されたそのままの「素」。意味や価値を求める以前であれば客体としていません。つまり聞いている主体が不在のところに立ってみる。
考えないようにと考えていていても、考えないようにとする考えのままに放っておく。同じことを考え続けられないで自然に消えていきます。聞こえていた音を消そうとせずにも消えるし、聞こうとしなくても聞こえていることに同調する。いつでも静寂が横たわっていることに気づきます。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
趙州洗鉢 [公案]
ある時、一人の僧が趙州に問うた。
「私は禅堂に入ったばかりの新参者です。師よ、どうか指示をお与え下さい。」
趙州は言った。
「朝ご飯は食べたか。」
「はい、食べました」と僧は答えた。
「それでは、持鉢を洗っておきなさい」と趙州は言った。
僧は心眼を開いた。
----
この短い公案では、趙州和尚に気づかされた僧のバックボーンも不明であり、何時ころにどこで問うたかもまったくわかりません。趙州和尚が何に気づいてほしいかを探り、僧が何を感得したかを自らの体験と照らし合わせなくてはなりません。普通の小説であれば登場人物の一挙手一投足を事細かく記述して、各人の心境がどうなっているかを記述してくれるのですが・・・・。
----
<無門の評語>
趙州は口を開いてその胆を見せ、心肝を露出してしまった。もしこの僧がそれを聞いて真旨をつかみ得ないならば、鐘をもって壺だというようなものである。
<無門の頌>
あまりにも明らかなので、かえってうなずきにくい。
燈は火であることをすぐに知るならば、食事はとっくに出来ている。
-----
キーワード:無我無心、仏性、分別以前、気づき
修行僧ですから、日々の一切の所作が「仏」の行であるとの認識でいなければなりません。修行僧は、有為(=分別・知っている)以前が無為(=無分別)の働きであることに気づいてはいないようです。日々の所作をただ当たり前の所作としていたり、先輩の所作を真似すればいいとしていては無為での自覚がないようです。食べかたを真似ていたのか、絶対主観で食事をしていたのか。無我無心の「本来の面目」のままに鉢を洗っていたのか、それとも単に所作として洗っていたのか。無心か二心かでは大違いです。
修行僧の一日は、起床・坐禅・読経・朝食・掃除・作務・・・就寝。当時のことは分かりませんが、朝食を食べ終えて、食器を洗わない人などいません。「洗っておきなさい」とそのまま受け取っては間違いです。言われたとおりにすることで救われるならだれもが救われていると感じるはずですが・・・・。
※「師よ、どうか指示をお与え下さい。」
新参者が和尚に問うことは勇気が必要なことです。
修行を一歩でも進めるための特別な何かが聞けると期するところがあったのかもしれません。
何をどうすれば悟りの機縁となるのでしょうか。
※「朝ご飯は食べたか。」
24時間自己が働いているのではないか。「朝ご飯は食べたか。」と這固(=即今のこれ)を経験しているはずだが・・と僧に聞きました。修行僧が漫然と食事をするわけがありません。作法にのっとて日々の食事に向き合っています。分別心が入る余地もなく「無我無心」で食べているその姿がそのまま「本来の面目」ではないかと逆に問いただされました。ここで修行僧が「無我無心」で食べていたことに気づけばよかったのですが・・・・。日々「本来の自己」を見性しているではないか。主観で生きているのに、自分を客観として見てはいませんか。
和尚が食べたか食べないかを聞いてどうするというのでしょうか。僧の一人一人の健康管理を任されているわけではありません。 和尚が食べたか食べてないかという二項対立で「はい・いいえ」を聞くわけがないのに、分別心で「はい、食べました」と応えてしまいました。修行僧はただの会話だと勘違いしてしまったようです。
「趙州は口を開いてその胆を見せ、心肝を露出してしまった。」
「ご飯は食べたか」[←]「それ、それ」全て「本来の面目」が働いているではないか。と胆を見せています。答えを言っています。
※「それでは、持鉢を洗っておきなさい」
「はい、食べました」と自らを客観として答えています。「はい」と「いいえ」の二項対立で応えてしまいました。僧が聞かれたことを理解できずに的外れの答えをしたので、「それでは、」と間髪を入れず次の問(=答え)を発しました。「掃除をしておきなさい」でも「草取りをしなさい」・・・何でも同じです。あえて、食事が終わってすぐにやっているはずの「持鉢を洗っておきなさい」と言いました。「持鉢を洗っている」その時の「本来の面目」を自問自答するように促しました。
食事によって命を繋いでいるのですから、大事な鉢でないわけがありません。「無我無心」のままに巧に「洗う」が行われてしまっているのではないでしょうか。
※ 鐘をもって壺だというようなものである。
「露堂々」であり隠されていることなどありません。「ご飯をたべたか。食器を洗っておきなさい。」という問い(=答え)が叩けば良い音を出す鐘なのに、叩いても音のしないこと(=ただの会話)のように解釈してはなりません。例えば当たり前のこと当たり前にすることだと解釈しては壺を叩いていることになります。日々のことを黙々とやりなさいという道徳的なものにすり替えてはいないでしょうか。何を聞かれ何を答えるべきかという日常会話ではありません。
<三昧(=禅定)では迷えません・混乱もありません>
無心に花に水をあげている。無心で食器を洗っている。無心に太鼓を叩いている。無心に踊っている。無心に蝉の声を聴いている。無心に剪定している。無心にコーラスで声をだしている。大笑いしている。無心に草取りをしている。一心不乱に土を耕している。寛いで湯に浸かっている。料理を作っている。ラジオ体操をしている。趣味に没頭している。・・・このような自分に迷ったり混乱するでしょうか。
<事実に気づきましょう>
私たちは知らず知らずのうちに捉えている(=捉えられている)世界は、自らが主体であって「私」以外全てを客体であるとみなしています。「私」が主人公となって働きかけていると思い込んでいて疑うことがありません。事実は「一切転倒」です。
自らが構築したバーチャルの世界で、自らが主体として動いているかのように認識しています。
私(=バーチャルの中の主体)が花に水をあげていると認識します。事実は花に水をあげているだけのことです。事実の後に分別からなる「私」が何かをしていると認識してしまいます。「花に水をあげている」という事実の後に、事実を振り返って私(=バーチャルの中の主体)が「私が花に水をあげている」と事実を客観として解釈します。
手と口が勝手に食べているのに、私の手と私の口を使って私が食べていることにしています。
「ご飯を食べた」という事実だけなのに、二項対立では主体と客体が登場し「私がご飯を食べた」ということになってしまいます。
自分の名前を呼ばれて、「無我無心」に「ハイ」と応えただけが事実です。その後、主客があると振り返えり「私がハイ」と応えたと認識しています。分別もなく「ハイ」と応えたのは「本来の面目」の働きのままですが、振り返って考えた後には「私がハイ」となってしまいます。
ただただ分別なしに「お茶を飲んでいる私(=本来の面目)のまま」ですが、すぐに「私がお茶を飲んでいる」となってはいませんか。
「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべし」(千利休)心を込めてを通り越して自ら(=分別心)の所在なくただ茶の湯と一体となって・・・・。
「稽古とは 一より習い十を知り 十よりかへる もとのその一」(千利休)
子供は分別心なく(=無我無心)お茶をいただきます。稽古はこの子供のような振る舞いにまで昇華するということでしょうか。
目覚めた直後は「よく寝た私(=本来の面目)」であって、その後に「寝た」ことを振り返り「私がよく寝た」と言ってしまいます。「私」がという主語は分別後の「私」です。「私が考えている」のではなく、「考えている」ことで「私」をあとづけしています。考えを追認している「私」がグルグル回っているだけかもしれません。
******
前回の「父母未生以前の本来の面目」を復習してみます。
「父母」とは分別(=二項・相対)のことであり、「未生以前」とは分別(=考え)で「私」が出現する以前であると想像してみてください。
「見ている」を分析すると、「私」という実体のある何かが見ているのではありません。10人に「私」そのものを指さしてもらっても、それぞれ異なる所を指さしていることと思われます。だれもがここが「私」の所在であるとの確証はないようです。「私」はあとづけであって、何にでも「私」をつけることができます。
見えているという「事実」が先にあります。「倶胝竪指」という公案があります。一指でもグーでもパーでも同じです。眼の前に出されたモノに対して「これなんだ」という認知そのものが「本来の面目」。
私たちは見えていることを認知(=本来の面目)したあとに「私」をくっつけています。「私」が見ようとして見ている訳ではありません。主も客も出現する以前の「あるがまま」が眼前にあり、それが認知されているその意識。
「私」が見ているのなら見たくないものを見ないようできてもいいはずですが・・・。美も醜も分別なく勝手に見えています。見えている事象(=現象)に「私」は必要ありません。見えた後に美だとか醜だとか分別して自らの感想を言っている「私」を出現させています。
熟睡しているときに「私」はどこにいるのでしょうか。「私」が心臓を動かしたり脈拍と調節したり消化したりしているでしょうか。「私」が身体であれば病気になる前に対処できてもいいようですがそれはできません。「手」は対象として認識されるので「私」ではありません。対象となるものは「私」そのものではありません。
「父母未生以前の本来の面目」とは、分別が起こる前(対象を認識する「私」)に認知しているだけの意識(=本来の面目)。分別後は「本来の面目」ではなく普段のあとづけの「私」が使われています。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
父母未生以前の本来の面目 (2) [公案]
同じような内容が何回もでてきますが、体験が重なると気づきも変わってくると思われます。
私たちは、自分で生まれて自分の思い通りに生きているのでしょうか。知らずに生まれ生かされているのでしょうか。「自分」という観念は自意識の成長と共に「自分」が主体であると思うことで意識に根付いてしまっています。「自分」が主体であるということは、自分以外を客体とみなしています。このちっぽけで目に見えない無に等しい「自分」を除いた宇宙全体が客体としているということは・・・。「自分」を除く一切も自己が主体と思っています。個々は客体とされ、また個々が主体でもあります。個々の集合である全体は客体であり、また主体でもあります。個が主体であることを放棄したら見られるモノは客体ではなくなります。主体者でなくなってしまっても(=見る者は何者でもありません)見えているという現象そのものになります。
二項対立以前(=分別以前)では見ている者が不在であって、ただ見られるモノ(=映し出されているモノ)が見ている者そのものと一体です。主客未分において、見る者と見られるモノに相違を見出す誰かは不在です。「本来の面目」(=分別以前)では、一切が「本来の面目」そのものということ。極端に言えば全部が自分だという表現になるかもしれません。聞こえている自己(=分別以前)がいなければ、自己が振動して自己を聴いています。普段(=有為・二項対立)の意識では、聞こえた音は外にあり私が聴いていると解釈しています。私が聞き分けたと思い込んでいますが、何の力も努力もなく「無我無心」で聞こえてしまったというのが事実です。
認識しているのは「自分」であるとしています。何かに没頭していたり、我を忘れて映画・コンサート・演劇・読書・遊び・・・等々に夢中になっている時に「自分」がどこかにいて自らを主動しているでしょうか。自意識が生まれてから、「自分」によって世界を認識しているということが前提となっています。幼かったころの自分・悲しかった自分・楽しかった自分・怒った自分・笑っていた自分・・・同じ自分はどこにもいません。コロコロ変わる変幻自在の自分であり恒常不変の自分であった試しはありません。
「本来の面目」は言わずと知れた「仏性」ということです。「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)「仏性」は無我無心の働きです。
さて、有為(=相対による混乱の世界)の奥山以前が無為(=無分別)であると気づかないでいると、常に既知を最優先にして生きることになっています。知る者(=主体)以外は知られるモノ(=対象)で構築されている。個々人の観念で見ている世界が眼前に広がっています。同じモノを見ても是非が分かれます。ある国では合法で販売もされている薬物がある国で違法となっています。人間の数・集団の数の応じて見方があります。多重層からなる観念の世界の中で生きています。個人的には是であっても地方では非であり上位の国では是であることもあります。タバコは個人では是でも職場や家庭や交通機関では非、国や喫煙指定場所では是。場所や時間や周りによって正しいときもあり間違いということもあります。是非は人間が勝手に決めているだけのことかもしれません。「勝てば官軍、負ければ賊軍」
知覚される一切は客体であり、主体が主体を知覚される客体(=対象)とすることはできません。自身の眼(=主体)は自身の眼(=客体化)を見ることはできません。対象に向けられて今まさに働いている眼の働きは客体ではありません。
知覚されるということは対象であり、知覚する主体がいるということになります。感情や思考も知覚できるので客体であって「本来の面目」ではありません。身体、感情、思考、時空間等々の一切は知覚できる客体となるので、主体ではありません。知覚している主体を知覚することができないということは主体を見出すことはできません。主体を見出すことはできませんが働いていることは確かです。
公案に「奚仲造車」というお話があります。車輪や車軸を外していって「車」はどこにあるのか?車輪や車軸を組み合わせることで「車」になります。車輪は勝手にどこからともなく出現したわけではなく、遡れば「無」から生まれてきたという他ありません。車の部品の一切の根源を遡ってみると「無」に行き着きます。我々も因縁和合してこのような心身となっています。遡ってみると宇宙開闢まで遡ることになります。「無」からでてきたものに違いがあるでしょうか。宇宙物質からできている物体のどこに相違をみいだせるでしょうか。あれもこれも宇宙物質が因縁和合して現前しているだけで、いつか粉々に分解することは明白です。
見出すことのできない主体(=絶対無)仏性の働きによって、見えてたり聞こえたりしています。有の反対の無ではなく絶対無だということになります。
見ているというより見えています、聞いているというより聞こえています。努力して見ていないし努力して聞いていません。目線を動かすだけで先程まで見えていたモノは何の努力しなくても消え去ります。自らの意志で消しているわけでもなく、自らの意志で見えているわけでもありません。
見えているモノ(=対象としているモノ)に善悪・美醜などのレッテルは貼られていません。ただ私たちの個々の観念による意味や評価によって勝手に分別されています。分別以前ではまっさらなあるがままが見えているだけではないでしょうか。無我無心に見え無我無心に聞こえています。仏性は働きであり、仏性を使っている誰かはどこにもいません。仏性は生まれたわけではないので「不生」(=父母未生以前)であり、滅することがないので「不滅」です。
「本来の面目」が「本来の面目」を探すでしょうか。探そうとしているのは分別している私(=自我)です、私(=自我)に実体を見出すことはできません。私(=自我)という思いによってあります。
思いによって作り出されている私(=自我)を思いによって消滅させることはできません。思わなければどうなるでしょうか。
私たちは無我無心(=分別以前)で生きていながら、またたく間に分別してしまいます。仏性(=無我無心)で働いていながら、瞬時に分別心が立ち上がっていることに気づくことは容易なことではありません。あらゆるモノを対象として捉え考える癖が身に染み込んでいます。思考が悪いというのではなく、思考以前にある意識は無我無心に働いているということに気づいてみることに努めます。考えに私(=自我)を没入させて混乱する癖から離れるために、傍観する時間を設けてはいかかでしょうか。
・知識を増やした先に無分別(=無為)にたどり着くのではないようです。
・無分別から瞬時に分別(=二項対立)的な見方が出現し意味や価値を見出そうとする癖がついています。
・思索して進むのではなく直知へと戻らなければなりません。「直指人心」
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
父母未生以前の本来の面目 (1) [公案]
坐禅堂で一日に三度、時間を知らせる「板」に「生死事大、無常迅速、時不待人、謹勿放逸」(しょうじじだい、むじょうじんそく、とき、ひとをまたず、つつしんで、ほういつなるなかれ) と書かれています。この世は無常であって、うかうかしていると無常の風が吹きあっという間にこの世を去ることになります。
『仏説無量寿経』の一節に「独生独死独去独来」(人は独りで生まれ、独りで死んでいかねばならない)とあります。人生の本質は自分でしか明らかにすることはできません。
修行者は「己事究明」(自己とは何かの追求)をしなければなりません。哲学でもコギト命題というものがあり「自分」という存在を解明することに努めます。
デカルトは書籍の中で「私は考える、だからこそ、私は存在する」と書かれた文を、ラテン語で「我思う、故に我あり」(自分の存在を問うこと自体が自分の存在自体を証明している)と訳され有名になっています。世の中のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない。
<主体と客体>
主体とは感覚を受け取るものであり、意識である。
客体とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である。
<主観と客観>
主観:物事を認識し、判断や行為を行う意識の働き。
客観:主観の認識、または主体の行動の対象となるもの。
<有為と無為>
有為(相対によって知っている既知の世界)
無為(考えではない事実の世界)
「本来の面目」の探求だけでは終わらずに「父母未生以前」まで探求しなければならないのでしょうか。「本来の面目」は時空間を包括したり超越しているということなのでしょうか。
つづく
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>