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格言名言ー4 [格言名言]

<労働・仕事>

・もしも人間の価値がその仕事で決まるものならば、はどんな人間よりも価値があるはずだ。 馬はよく働くし、第一文句を言わない。 ゴーリキ(ロシアの作家)

ーー

 一般的に誰かを値踏みするには、あなたのお勤め先はどちらですか?どのような仕事をなさっていますか?という事を聞きだして確かめているようです。

 大企業かどうか、大体の年収はどれくらいか、綺麗な仕事か、どんな役職か等々。 その人(=価値)を仕事で決めている傾向があります。

 我々は他人を一目見ただけでは何者だかさっぱり分かりません。人はレッテルを貼って生きているわけではありません。そこで名前や出身地や出身高校や趣味・嗜好や年齢や家族構成を聞き出して情報を入手します。そこで今までの経験や知識で大体の当たりをつけて相手のイメージを作り上げ勝手な概念で定義しているようです。


 初対面の人は脳内に映し出された物体でしかありません。その物体に名前や職業などで概念を構築して自分なりのイメージを作り上げます。人間も無常であり無我ですから恒常不変の「わたし」など存在していないので定義しても時間が経てば定義を再構築せざるを得ません。

 小学生の頃から数十年ぶりに出会う人の容姿は別人となっています。生滅変化し続けているのですから当時の小学生ではありません。まったくの別人であるのは当然のことです。寝る前と翌朝起きた自分は同じではありません。極端に言えば10秒前の自分と今の自分も異なっています。1秒前の自分が全く同じであって変わらなければ死ぬ人などいないし成長して大きくなる人も存在しません。この世で変わらないでいることなどできません。常に電子が動いていのですから。病気もしなければ老化もしない命などどこにも存在しません。


 達磨大師の逸話:武帝が色々問いただしても「無功徳」「廓然無聖」と答える始末。「いったいお前さんは誰じゃ」(=何様だ)と言われる。達磨は「不識」(知りません)と答えたという話があります。

 あなた(=武帝)が知りたい(=出身はどこで、どのような修行をして、どのような境地にいて、私の功徳を認めてくれたり、私の来世を約束してくれたり、有難い話を聞かせてくれる能力があるのか。その能力や徳をもった坊さんの証明はあるのか。お釈迦様の教えを受けた偉い方なのか。等々)ことで、来たのではありません。

 仏法を聴く耳を持ち、仏法を真に受け取り実践する人を探しに来たのです。偉い人の威光を利用して布教するために来たのではなかったようです。仏法が正しく伝わっていくには、仏法を伝える側の問題ではなく、受け取る側の力量にかかっている。命を懸けて受け取ろうという人でないと伝授することはできない。自らも命がけで法を受け取る人を探していたと推察されます。

 武帝の知りたいことはただの権威づけのように思えた。武帝に出身や修行過程等々を教えても武帝はただの知識として記憶するだけ、記憶することを聴いても何も起こらない。知っただけでああそうかと納得して何になるのか。それなら知らないほうがいい。知らせないほうがいいかもしれない。

 真の仏法を理解しようということでもなさそうであり、時間の無駄であると思ったかもしれません。また、仏法を受け取ろうとする人でなく真に仏法を志す人ではない人に、本来の私(=真実の自己)を言葉で語り伝える術がないので(=不識)と答えたのではないでしょうか。

 我々は何でも知りたがりますが、知らなくてもいいことも知りたがります。知ったことでかえって苦しみの種を植え付けることにもなりかねません。

 遠距離で直接介護ができない人もおられるかもしれません。親と子、お互い知らないほうが幸せかもしれません。子供が60代になって90代の親に心配されるのも情けない話ですし、90代の親を無理やり100まで生きてほしいというのもいかがなものか。

 真実の自己は自己のみが知り得るものであり、言葉で表現できるものではありません。自らが自らを知り、他人が知ることはできない。他人に知らせることもできません。体験してもらい直知してもらうしかないものです。知るものもいないし知られるものもいない。見る者も見られるものもいない。主体や客体という分離のない一体。今ここで移り変わり続ける実体のないもの。


・聴くこと多くし、語ること少なくし、行うところに力を注ぐべし。

「歩歩是道場」我々の人生の多くの部分が仕事によって成り立っています。仕事を通じて色々な人と出会い刺激を受けて成長できる場でもあります。仕事を通して社会に貢献したり人の支援を得ることも出来ます。

 ゴーリキの生きていた時代のロシアの仕事がどのようなものかは分かりませんが、仕事に序列をつけていたかもしれません。ゴーリキは序列をつけるような輩に対して自省を促し、仕事より(=序列をつける)馬(=実際に世の中を支えてくれているかどうか)のほうを見ることによって確かめてほしかったのかもしれません。


  ーー

・仕事が楽しみならば人生は極楽だ。苦しみならばそれは地獄だ。

 人生の多くの時間を仕事にとられています。その時間が苦しみなら地獄のようです。

・節制と労働とは、人間にとって真実なる2人の医者である。

 欲望のおもむくままな怠惰な生活から自制を持ち続ける。労を惜しまず他己のために捧げる生活をすれば心身ともに張りのある生活を送ることができるのではいでしょうか。恪勤精励

・人は働くように、鳥は飛ぶように、創造されている。(エストニア)

・下手な仕事師は道具と口論する。

 技術・能力・力量の無い人は道具にケチをつける。

・肥えた豚には痩せた豚の考えが分からない。

 食べたい時に食べられる人は、食べる余裕も食べる時間もない人のことには思いは至らない。 苦労した人にしか苦労はわからない。人の苦労話を聴いても経験がなければなかなか理解することは難しい。

・卵を食べる人は鶏の苦労を考えない。

 漫然と目の前の食べ物を食すときにも、生みの苦しみがあることを知らなければなりません。現前しているあらゆる物は縁があって現前しています。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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格言名言ー3 [格言名言]

<学ぶ>

1.学びて化せざるは、学にあらざるなり。

・学ぶことは変わること。Learning is changing.

2.学べばすなわち固ならず。

・心を直さぬ学問して何の詮かある。

・玉みがかざれば器と成らず、人学ばざれば道を知らず。

3.学問なき経験は、経験なき学問にまさる。

・経験があるものは、学問あるものよりも優れている(スイス)

・我の性格は、我の行為の結果なり。

4.学を絶てば憂い無し。

・聞かざるはこれを聞くにしかず。これを聞くはこれを見るにしかず。これを見るはこれを知るにしかず。

これを知るはこれを行なうにしかず。学はこれを行なうにいたりて止む。

・学の難きにあらず、学を解すること難きなり。

・日に習えば、則ち学忘れず。--毎日の繰り返し。

・学は博きを貴ばず、正しきを貴ぶのみ。--博識ではなく、正道を学べ。

・学は必ず覆う所無くして後可なり。--迷うような所がまったく無くなってはじめてよいと言える。

・聖人には常の師無し。     

誰からでも何でもどんなことからでも学ぶ

5.疑いの心既に生ぜば、解を得るの義有るべし。          《聖徳太子》

・愚かなる者思うこと多し。            (芭蕉)

・学者とは研究によって時間をつぶす怠け者である。 (ショウ)

・知性を誇る知識人は、自分の広い独房を自慢する囚人のようなものだ。

ーー

1.わかるにも、分かる・判る・解るがあります。see・sence・understand・realize・no problem 分かるは、子供でも燃えるゴミと燃えないゴミの分別ができるように簡単に見分けることができる。 判るは、意味を理解して判別・判断できるような理解度。 解るは、理解しているので問題自体が解体されてしまって問題とならない理解度。  できる段階でも、手取り足取りしてもらってできる段階、手本やマニュアルを見て何とか一人でできる段階、マニュアルなしでできる段階、人に指導する段階があります。剣道での「守破離」の段階を参考にされればいいかと思います。

 挨拶が大事だと学んでも、頭で判っていても行動ができなければ学んだことにはなりません。行動ができてこそ学んだという証明になります。只管打坐は仏の姿といわれています。何も考えずに何も期待しない坐禅(=仏の姿)になりきる。修行(=行動ができている)そのものが仏です。

2.学べば固(=観念)で自らを縛ることは意味のないことだと理解するはずです。「無」は虚無でもないし有無の無でもない。自己を知るには自己そのものになりきる。見つける人と見つけられる人という主体と客体があれば一体ではありません。仏性を探し回っているということは自己が仏性でないということを宣言しているのと同じです。

 すでに水と一体になっている魚が水の中にいると知ることができるでしょうか。仏性そのものと共にある魚が、水中で渇を叫んでいるようなものです。(参考:坐禅和讃)

3.経典や知識に頼っていては先には進みません。坐禅や観察瞑想によって本来の自己に出会うという体験が必要です。知識はあくまで第三者の体験です。第三者はそれぞれの時代や育った環境も異なります。全く同じ道を歩くことがあるでしょうか。自らの体験こそが嘘のない真実として実感されるはずです。

4.学問をやめてしまえば、人生に苦悩はなくなる。人間の苦しみは、教養を積み、認識可能な世界が広がるにつれて増してくる。嬰児のような素朴な心に戻って無為自然に生き、憂いを絶つほうが生きやすい。

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5.修行には三つの要諦がある。

「大信根・大疑団・大勇猛心」の三つです。2つめの大疑団は「大疑無くして大悟無し」と言われています。真実の自己(=本来の面目)とは、意識とは、愛とは、魂とは等々という疑問です。  私であるのに私とは何者かよく解らない。人間とはいったい何かということを知りたい。自分のことなのに人から教わらなければならないのでしょうか。他人が考えた答えが自分自身のことなのでしょうか。参考にはなりますが似て非なるものです。

「他は是れ我にあらず」

 死とは何かを教わりたい。死んだ人に聞ければいいのですが死んだ人は話すことができません。愛し合っているのに愛とは何かを考えようとする。意識があるのに意識とは何かとつかもうとする。仏とはなにかと別のものとして見つけようとする。仏性とは自分とは別のものとして見つけようとする。見つける私がいるなら私と仏性は別々の分離独立した何かです。

 これらの疑問を言葉で追求していくのが哲学のようです。体験で直知するのが仏道。 残念なことに、言葉は実物や事実ではなく人間が勝手につくりあげた概念です。新たな概念で言葉を作っても実体のないものの組み合わせです。言葉で書かれたものは、よくできた砂上の楼閣のようなものかもしれません。

 「皮膚に針を指した時の痛さ」を言葉で説明しても痛くも痒くもありません。実際の針で突けば解決します。「冷暖自知」  言葉で納得できるなら多くの仏典を読んだり、成就されたと思われる方からお話を聴けばそれで解決できます。知識だけでは納得できない。実践修行で智慧によって体験しないと腑に落ちないものです。だれもが仏道修行することで真理の体験をするようになっているようです。

 聖徳太子が言われているように疑いを持ち続けなければなりません。真理を体得しなければならないと自らに言い聞かせ続けるしかありません。


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格言名言−2 [格言名言]

・生を殺すものは死せず、生を生ずる者は生せず。(荘子 大宋師)

・人の天地の間に生くるは、白駒の隙を過ぐるが若く、こつ然たるのみ。(荘子 知北遊)

・万物は皆機より出(い)でて、皆機に入(い)る。(列子 天端)

・露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 (豊臣秀吉)

ーー

 生を死に追いやるもの自体には死というものがない、生を生み出すもの自体には生というものがない。万物の生死を司るものは、自らは生死というものを超えたものである。(不生不滅)

 人の生まれ方は同じですが、死に方は様々です。死ぬことは明らかですが、どのような死に方なのかは想像もつきません。死には計り知れない力が作用しており、あがなうことはできないようです。

 どの時代にどの場所にどのような家族を選んで生まれたいと願うことも叶わない。人間の生を受けるかどうかも怪しいものです。生として結実する力にはあがなうことはできない。生も死も及びもつかないところでおこなわれています。生を受けている今が我々のできうる場ではないでしょうか。

ーー

 人が天地の間に生きている時間は、白い駿馬が隙間を走り過ぎる間のように、あっという間に過ぎ去ってしまうようだ。  この現世に出現している人間には常住不変の「わたし」など存在していない。

 果てしなく分散離合しては変化を続けて循環しているのがこの万物の相である。無形のうちから形あるものが生まれ、形あるものが無形のうちに帰ってゆく。

ーー 

 機が熟して(=縁起)によって空から五感を備えた物体(=素粒子の集まり)としてこの世に現れただけである。  空から出現したものはエントロピー増大によって自動的に分解されて空へと戻っていくだけのことです。自然の理の中に存在している我々の生死は、循環の中での一現象でしかありません。

 万物はもともと一つの空から生まれ、一つのものの中で循環していてると推測されます。自らの生死は自らの意志の及ばないところで繰り広げられています。生死について悩んだり憂える必要があるでしょうか。次の生を思うよりも今の生でできることを精一杯やって、死ぬときがきたら死にきる。

 この世でできるというのは、自分勝手に好きなことするのではなく心が清浄になるように一生懸命務めるということ。

ーー

 露:空気中の水蒸気が地物の表面に凝結してできる水滴。内部にひそむものが表面にあらわれている状態。隠れなくはっきり目にみえること。わずかなこと。はかなく消えやすこと。

 何の因果なのかこの戦国時代に貧しい農民として顕れ、はかなく消えていくこのいのち。天下人となり大阪での栄華を極めた生活も夢のようであった。一瞬一瞬を命がけで生き抜いてきた、勇猛果敢に戦った私は何処を探してもいない。横たわり死にゆく身体とともに今この時があるだけ。結局は刹那の今の生滅でしかなかった。実体のない夢の如き一生であった。


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格言名言−1 [格言名言]

自分自身を苦しめている元凶は何か?それは頭の中の無駄話ではないでしょうか?

マインドトーク」と言われているようです。その殆どが過ぎ去ってしまった過去のことや勝手に妄想している未来のことのようです。自身の主義主張や意見を否定されたとか、プライドを傷つけられたので恨むというネガテイブなものです。その無駄話(=妄想)に自分が乗っかり同調してしまうと妄想が膨らんでしまいます。妄想と現実の区別がつかなくなってしまうようです。ついには妄想を現実として現実の中で展開することになり、悲惨な結果を招くこともあります。

   頭の中のおしゃべりは勝手に起こっているのでただ観察していれば消え去ります。昨日の夕食時、頭の中でのでおしゃべりを憶えているでしょうか?忘れるようなつまらないおしゃべりでしかありません。1時間前のおしゃべりでさえはっきりと思い出すことも難しいのです。

 自分が考えているのではなく、無意識から沸き起こってきます。自身の所有物ではないというくらいの感覚で「ヨシヨシ」となだめたり、今の呼吸に注意を移せば消えていきます。

 煽り運転なども怒りと同調してしまい現実の行動となって他者と自身が大きな痛手をうけることになります。狭い日本で、1台くらい抜かされても次の信号で同じになります。クラクションはただの音。パッシングはただの光でしかありません。

 爬虫類脳が優位なため、理性の人間脳の静止を聴くことができません。反射脳である爬虫類脳は音や光で自身の安全が脅かされたと感じて反射的に行動してしまうようです。哺乳類脳の大脳辺縁系での扁桃体でもノーという信号を受信して様々なホルモン分泌が起こって怒りの感情で行動してしまう。

 悲しいかなすべて我が身かわいいさの人間という動物の行動ではないでしょうか。自分自身を守りたいが故に他に危害をあたえるという結果になります。

 我々の中に爬虫類(=身体の安全を守るシステム)と哺乳類(=感情的な好き嫌いの判断システム)と人間脳(=理性や理想を言語化するシステム)という複合的なシステムからできていているようです。行動の殆どが無意識(=爬虫類脳と哺乳類脳)が水面下で働いていて身体を自動的に動かしているようです。私(=人間脳)が行動しているとは言えないことを理解しなければなりません。  いくら書物を読んでも「論語読みの論語知らず」で、行動ができていなければなんにもなりません。論語知らずというよりは「論語できず」のほうが適切かも知れません。『その人の性格は、その人の行動の結果である。』(アリストテレス)


ーー <世界の格言>

1.小さなポットほどすぐに沸く。

2.怠け者の舌だけは怠け者でない。

3.長い舌は手が短いしるしである。

4.さくらんぼをふた口で食べるな。

5.猫はみな魚好きだが、手を濡らすのをいやがる。

6.肉体の方が魂よりも美しく装っている。

7.賢者が格言をつくり、愚者がそれを繰り返す。

8.すべてに喜びを味わいたいのなら、何事にも喜びを求めるな。 すべてを知りたいなら、何事も知ろうとするな。 すべてを所有したいなら、何物も所有しようとするな。 すべてでありたいなら、何者でもあろうとするな。


ーー

1.弱い犬ほどよく吠える。

2.怠け者はよく喋るが、いっこうに動こうとはしない。人は言葉ではなく行動を見ればどういう人かわかる。 3.手は行動力を表していて、手が短いのはなかなか仕事に取り掛からないし仕事をしない。

4.些細な仕事なら一度でできるものを、二回に分けてやることでもない。今できることを先延ばしにしてはいけない。

5.面倒なことはしたくないというのが人間の心。いつになったら自身と向きあるのだろうか。

6.肉体はいつか衰える、肉体を誇るよりいつまでもついてくる心を磨くほうが先決。

7.先人の愚かさから学ばなくてはならないが、自分も時間を無駄に使ってしまっては意味がない。

8.「すべてに喜びを味わいたいのなら、何事にも喜びを求めるな。」

 特定の物事に喜びを見い出し、その物事に出会った時だけ刹那の喜びを味わうだけです。何も求めなければ、あらゆることと平等に接することができます。何も引っかかり(=囚われ)がなければ悩む必要はありません。日々の体験の中であらゆる出来事に新鮮な喜びがあるということを感じて生きていけます。何も無いから無限の表現が現れます。有限からは無限はでてきません。エントロピーの法則にあるように閉じられた有限の世界では無秩序となり分解され消え去るだけです。

「すべてを知りたいなら、何事も知ろうとするな。」

 特定の事を知ろうとすれば、その他のことがなおざりになります。あらゆる対象を平等に見ることができれば特定の事物に囚われることはありません。何かに出会うことは一期一会であり、あらゆることが一生に一回の出会いです。あらゆる出会いは新鮮であり驚きに満ちています。予期せぬ時に予期せぬ物事に出会いがあります。至る所が宇宙でありあらゆるものが驚きであり神秘がひそんでいます。

 知識で知る(=言葉を組み合わせて概念化する)よりも、あるがままに触れて直知すること。

 宮本武蔵の「五輪の書」の中の眼付けにも観見の二つの目付けがあり、観は心で見は眼(まなこ)でみなさいとあります。  

 1粒の雨粒でも神々しい、小鳥の囀りでも心を洗い清められる。季節の香り感受することもできます。 「リュウグウ」の石があれば生命誕生の謎を解明できるようです。

「すべてを所有したいなら、何物も所有しようとするな。」  所有すれば所有物に自身が所有されてしまう。所有しているようだか心が縛られ心が所有されているかもしれません。

 何物も所有しなけれ、どこに行こうも自由でありすべてが自身の土地のようにみることができます。散歩に出ても他人の庭で育ててある花も自分のために育てていただいているようなものです。  どんなものでも分け隔てなく自分のものと感じられます。宇宙でさえ自分自身そのものであり誰も所有できません。鳥は何も所有していなのでどこに飛び移ろうが自由です。魚も何処に寝ようが自由です。何も所有していなければ自由がてにはいります。ちっぽけな所有物にこだわって生きればかえって不自由に縛られることになります。

「すべてでありたいなら、何者でもあろうとするな。」

 何者かであると自身を限定すれば、日本人の◯◯県出身で名前が◯◯という限定された一つの対象でしかありません。日本人でも男でも女でもない、限定されない無限定なままでいい。

 水は無色透明であり、個体・液体・気体と変化できます。どんな形にも従いどんな色にも染まります。何でもないから全ての役に立つ。元素記号の第一の水素と他の惑星には見つかっていない酸素が結合した奇跡の物質です。


 森に入ったら森の一部となり森そのもとなる、海に入ったら海の一部になり海そのものになる、歩けば歩みそのものになりきる、風の中にあれば風を受けている者ではなく風と一体となりきる、水を飲めば水の流れを全身に感じる、呼吸すれば呼吸そのものになる。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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