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老子−21 [老子]

孔徳之容、唯道是從。道之爲物、惟恍惟惚。恍兮惚兮、其中有物。恍兮惚兮、其中有像。窈兮冥兮、其中有精。其精甚眞、其中有信。自今及古、其名不去。以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉、以此。

 

真の徳の姿は、ただ道に従っている姿である。
「道」はおぼろげで、捉えどころがない。
しかし、ぼんやりした「道」の中に実体へと変化する何かがある。
捉えることができず、微妙なものである。
そこには変化して物質となる、深遠で精妙なものである。
その中に真実がある。
過去より現在に至るまで、「道」という名(=現出する働き)が絶えることはない。
万物を主宰している。
私は何によって、万物の根源が「道」であると解るかと言えば、
この「道」が捉えられず精妙であるからである。

 

孔:おおきな

容:すがた

恍:かすか

惚:ぼんやり、微妙
窈:深遠
冥:くらがり、奥深い
衆甫:万物の初め。
閲:しらべる、おさめる。

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 「道=タオ」は「道=タオ」と名づけることなどできない恍惚の状態。「道=タオ」から名(=現出させる働き)が働いて、有無が生まれる。天地は妙(=無の働き)であり、万物は徼(=有の結果=名づけられた結果)としてある。

 

 ここからは知識での観察ではなく、ありのままの観察ですので通常の知識を使っての推察ではありません。私たちの本質がどいうものかで迷わないための手がかりになるかもしれません。知識や思考は社会生活に必要なものですが、こと本来の私たちの探求には妨げになるかもしれません。

 知識や思考や科学技術を駆使して私たちの本質に向かうのは混乱を招くだけであって「百害あって一利なし」ということです。「向かえば背く」

 

 存在は認識体(=生命体)の感受(=見聞覚知)によって認識体での存在となっています。認識体の感受(=見聞覚知)によってのみ存在となります。認識体が認識しなければ存在はありません。認識された存在は認識体の外にある対象物ではありません。見られたものは見た認識体そのものです。しかし、認識体の脳の癖で分離された対象物として扱うようになっているようです。

 大事なポイントです。今この瞬間に起こっている事実は対象ではなく、事実そのものだということです。「私=本来の自己」の外で起こっているのではなく「私=本来の自己」そのものだということです。今この瞬間に感受(=見聞覚知)して確かめられないものは全て思い込みです。いるはずもない「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」を持ち出して「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」が聞いた、見た、味わったとして分別してしまいます。

 あまりにも瞬時の出来事であり、「私=本来の自己」と「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」の境が分かりません。観念を持ち出して分別してなんらかの二元対立的な意見は「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」が使われたという証拠です。「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」がいい悪いではなく、「私=本来の自己」の働きがあるということ見抜くということが主眼となります。

 

 全く同じ状況にあっても、身体的な特性や個性や観念によって反応が異なります。小学生にとって泳げない人にとってはプールの時間は楽しいものではありません。ダンスが苦手な人にはダンスの時間は苦痛でしか無いかも知れません。音痴な人にとっては歌のテストは辱めを受けていると感じるかも知れません。

 各人が各人の観念によって見ているということです。何で泳げないのか、何で踊れないのか、何で歌えないのか、何で数学ができないのか、何で解剖したくないのか・・・・。自身ができることは他人もできて当然のようにしているのが観念(=我)であって思い込みです。自身が自身に対しても観念で勝手に想起していないでしょうか。

 外で車の走る音がした、「カァーカァー」という鳴き声が聞こえた、草むらから「リィー、リィー」と鳴く音が聞こえた・・・。事実は車など見ていません、カラスも見ていません、鈴虫も見ていません。聞こえた声は私であり、外の何か(=対象として尋ね、想起したもの)ではないということです。私なしに聞こえているという事実があって、カラスと決めつけて聞いている私がいるはずとした結果「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」があるように感じられた。

 

 尋ねて分かるとしているのは観念上の決めつけであって、本当の自己を尋ねてはいません。どうして今ここに生きているかなど「私=社会的な自己=自我=アイデンティティ」には分かりません。どうして存在を感受して認識しているのかもサッパリ分かりません。分からないし何でもないものとして有るのが「本来の自己」の真の姿かもしれません。名(=玄)によって有無となり、無(=名がないもの)である存在に一つ一つ名づけることで認識できる存在として認める。

 森の中に入って木々に生い茂る一枚一枚の葉を対象としては見ません。砂漠のひと粒ひと粒の砂を対象としては見ません。識別する意味や価値がなければ対象とならないからです。新発見の植物や魚やウィルスは何でもないのですが、名をつけることによって自動的に対象の一つとして見るようになります。

 万物から名を排除して概念も取っ払って「赤子の目」で観ると、あらゆる存在は恍惚であり捉えられないおぼろげな何かとしてあるだけかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−20 [老子]

二十章

絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。儽儽兮若無所歸。衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、飂兮若無止。衆人皆有以、而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。

 

学ぶことを止めたなら、憂いや悩むことはなくなる。ハッキリ言う「はい」と曖昧な「はぁ」という返事も応諾ということに大差はない。

善と悪にどれ程の違いがあるというのだろうか。

人の怖れることを怖れないでいることはできない。

どこまでも厳しく律していたら際限が無いではないか。

世間の人は屈託なく笑って、ご馳走を食べているように見える。

春の日に高台からあたりを見ているような気分だろう。

しかし私は動くそぶりもなく、生まれたばかりでまだ笑ったことのない時の赤ん坊と同じだ。

私は身じろぎもせずに、何の兆しもない。

世間の人は有り余るほど持っているのに、私は何もかも失ってしまっているようだ。

私は愚かな人のようであり、はっきりしないように見られている。

世間の人は賢く、私一人が愚かなようだ。

世間の人は活発に動き回っているのに、私ははっきりしないなかで生きている。

穏やかな海面にあって、風が吹けば何処へ行くかもわからない。

世の人々は何らかの役に立っている。私だけが何の役にも立たずにいる。

私だけが世間の人と異なり、「母」なる道に養われていることを貴いとしている。

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証道歌に「絶学無為の閑道人」という一節があります。

絶学:学(=知る、分かろう、覚える、未知を既知へ、なんとかしよう)という我の働きに手をつけない重きを置かない。

無為:解決しようとしない、「なんとかしようという思い」に手をつけない。

直訳すれば「学を断って何もしないで、道のままに穏やかにいる過ごしている人」で終わりですが、何を言っているかサッパリ分かりません。

 

 生物の本能・習性(=脳の癖)に執着と忌避があり、そう簡単にこの癖に気づきません。癖を癖と気づかぬままに生きているかもしれません。この癖によって悩み苦しみがあるということに気づかないのも当然のことです。

 「学ぶ」ということは、人間社会での生活を円満にするために一般的な社会ルールを教わることのようです。社会生活で問題を解決するために知識と思考訓練がなされます。あくまでも人間社会で支障なく生活できる基盤を得るということであって、様々な個人的な問題は個人で解決しなければなりません。

 情報には善悪というレッテルはなく、受け取った個人や社会によって分別されます。何かを学んだ場合に、事実・現実ではないただの情報として認識されます。頭の中で、「知るべき分かるべき掴むべき」と勝手に設定してしまいます。そうするとそうでない自分を出現させてしまうようです。ここで登場するのが「なんとかしようという思い=自我」が生まれてしまいます。この思いによって解決すべき問題となり、次から次へ思考の追っかけっこが起こってしまうようです。自らが自作自演のお芝居が始まります。

 「学」が混乱や憂いの原因となっていることに気づくことは難しいことです。何せ問題解決しようとしているものが問題の作り手であると思えません。消防士の服を着た放火魔ですから始末におえません。

 何ら問題でもないことを問題のようにしてしまうのですから困ったものです。

 

 例えば、アメリカ大統領選挙の動向を分析した報道。海外で活躍している日本人選手の怪我の状態。それを聞いた我々が心配しなければならないのでしょうか。

当事者は余計な心配してもらわなくても結構ですし、何もできなければ構わないでほしいかもしれません。

 身近なところでは、法要の席で何年も会っていなかった親戚のおばさんやおじさんに「あなたのこといつも気にかけていて心配している」と言われてもピンとこないことがあると思います。自分の子供の事をちゃんと見てやったり自身の健康を気にかけてはどうかと思うかも知れません。

 高齢の親が独立して遠くにいる息子家族を毎日気にかけている。独立してそれなりに生活しているのに、こちらを思うよりも終活をしっかりやってもらいたい。一人前と見られていないと感じる人と、優しい親だと感じる人と様々です。もし、見ず知らずの人に「あなたを心配していました」と言われてどう反応したら良いか分かりません。スポーツ選手も見ず知らずの人に声をかけられてもどう反応すべきか迷うのもいたしかたありません。心配されなくてもいいし、心配する必要もないかもしれません。心配されたいというのは依存したい気持ちがどこかにあるのでしょうか。親族であっても知る必要もなければ、知らせる必要もないかもしれません。困った時は知ろうとせずとも知らせてくるようです。

 

 我々は対象(=問題となる対象)を作り出して「心配していました・なんとかしましょう・一緒に解決しましょう」と言っている見ず知らず(=赤の他人)の人と同じかもしれません。対象とされたものはただ頭の中で作られた概念だけの実体のない思いかもしれません。

 知るべき分かるべき掴むべきとされている対象が勝手に「なんとかしなければ」ならない問題に担ぎ上げられ困惑しているかもしれません。 

 対象(=問題)の方がかえってビックリして「そんなに心配しなくても結構です・関わらなくてもいいです・お構いなく」と言っていないでしょうか。

 どこへ旅行しようと何を食べようと何を写真にとろうと何を書こうと自由であって、心配されるようなことではありません。「学」によって余計なお節介と余計な問題を抱えるようなことをしているかもしれません。

 

 条件が揃えば雨雲になって雨粒になって降るだけのことなのに、人間は一体どうしたいのでしょうか。起こることはただ起こるだけのことでしかないのに、問題にしてなんとか解決しようと必死に悩んでいます。極端な例では、「ドラマ」や「映画」を観て、主人公と一緒になってなんとかしようとしています。すでに撮影は終わっていて筋書き通りに作られたもので結果は変わりようがないのに「なんとかしよう」と悩んでいます。創作で作られたもので、ありもしない出来事の中の事を自分のことのように悩んでいます。事実は「ドラマ」や「映画」を観ているだけです。厳密には画面での光の点滅が脳の視覚野で像を結んでいるだけなのに・・・悩む必要はないのに自らが悩みを作っています。

 悩まなくてもいいのに悩んでいる、知らなくてもいいのに知ろうとしている、心配しなくてもいいのに心配している・・・・手出しせずに断ち切ったほうがいいかもしれません。

 

 私たちは実生活で、「物の名前」を知らないで困ることは無かったのではないでしょうか。月の表面温度、山の名前、河の名前、ある金属の比重、水道の蛇口から流れる水の温度、空気の成分、外気温・・・知らなくても分からなくても何も困りません。

 絶学とは、分かりたい知りたい掴みたいという思いがただの概念のお遊びと気づいたら、早々にお遊びを止めてしまうことかもしれません。身体的な欲求が起こったら考えなくても身体が自動的に動いて解決してくれます。分からないでどうしても困れば、どうにかして解決します。どうでもいいことに対して「どうにかしよう=自我」を立てて概念で解決しようとすることが迷いや憂いをもたらしているもしれません。見えただけ、聞こえただけ、味わいがあるだけなのに・・・。太陽が動くように見えていればそれでいいし、太陽が海面に沈むように見えればそれでいい。

 無為とは、「なんとかしよう=自我」に同調して次の思考を起こさないことかもしれません。「なんとかしよう=自我」というお喋りにつき合わないで放っておく。「なんとかしよう」が起こっても手をつけないということ。

 

 事実を事実のままに見る。何かが光を反射して脳内に像をあってそれが見えている。見えているものには本来は名前が無かったが「壁」という名前があるのようだ。見えているという事実があるだけで、見ているとしている「私」を見ることは確かめられない。見えている「私」はただの思い込みであって、誰一人自身の顔や背中を直視できない。見ている「私」というのはただの思い込んでいる観念で作り上げたものでしかないというのが事実。見ているはずだという強い思い込みと習慣から構築されただけのことでしかない。

 

 言葉や文字に変換される前に既に見えて聞こえているという事実が先にあります。後づけでコップ・パソコン・画面・テーブル・壁・・・と自動的に言語に変換されているだけのことです。知識となる前に既に見えている事実が先行しているということです。知識(=学んで身につけた知)を断ったとしても直知(=言葉に変換される以前の感受)によって既に知っています。

 

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唯:はい
阿:あぁ
荒:あれる、あれはてる
央:なかば、つきる
熙:光る、輝く
太牢:いけにえ、ごちそう
享:すすめる、まつる
泊:心が静かで無欲な事
兆:きざし、まえぶれ
孩:赤子
累:しばる、つらなる
余:ゆたか、あまり、あます、のこらず、ひさしい。
遺:わすれる、すてる
沌沌:はっきりしない
昭:あきらか、ひかりかがやく
察:知る、明らかにする
悶:はっきりしない
澹:穏やか、静か
飂:西方より吹く風

以:労働者

鄙:見下げる

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老子−19 [老子]

十九章

絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以爲文不足、故令有所屬。見素抱樸、少私寡欲。

 

絶:こばむ、たやす

棄:かえりみない、放り出す

聖:徳性を備えた人
令:命じる、告げる
樸:本質、ありのまま
寡:へらす、弱める

 

 人間としての徳性を断ち知性をかえりみないような君主であれば、人民の益は百倍にもなるだろう。仁愛を断ち義の心にこだわらなければ、人民は本来の孝行や慈愛を取り戻す。自らの功績心を断ち利益に心を奪われなければ、盗賊が増えることもない。君主が以上の三つ(叡智・仁義・功利)を断つことは、言葉では語り尽くせない。見習うべき例がある。素直な心で純朴なままに、自尊心を少なくし少欲知足とする。

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 私たちは往々にして、全体から分離している自己(社会的な自己=自我)を立てて「自分かわいい」で生きているようです。社会的な自己は確固とした何かでありたい。徳や知恵を得て欠乏感を満たそうとします。とかく君主は民衆の利益よりも自らの利益を優先してしまいます。仁も儀礼上のことであり、自らの利を最優先すれば人民の生活も疲弊したことでしょう。

 

 若い頃(10代)を振り返ると、高齢者は先がなく物欲もないだろうと感覚的に決めつけていたことを思い出します。高齢になって欲しいものに目が眩んでいるなどあり得るはずがないとさえ思っていました。

 実際にその高齢になった友人に確認してみると、欲しいものは殆どなく物欲から解放されているようです。今日一日を平穏無事に過ごし、ぐっすり眠れればそれで十分だと口を揃えて言っています。50年以上の時を経て自身の感覚は的外れではなかったとしみじみ感じています。

 最近では、ミニマリストの生活「持たない暮らし」を実践している人もいます。若くして物欲に惑わされずに生きていけることは素晴らしいことのように感じます。経済活動によってモノの作り過ぎ、化石燃料の使いすぎ、処理しきれないゴミによって地球の環境バランスがいびつになっています。環境の復元能力を超えてしまったかもしれないと肌で感じとっている人も多いかもしれません。

 欲しいものが無いなんて可哀想と心配する人もいますが、物欲から解放されて杞憂が無くなることのほうがどんなにか平安でいられることでしょう。私有から共有やシェアに移行すべきであると共感する人は多くいるはずです。

 

<老いの例>

 現実に起こっている「あるがまま」だけが真実です。例えば「老けるのは嫌だ」という感情が起こっていればその感情が起こっているということが真実です。しかし、その感情を「なんとかしよう」として「私」を立てることがあります。「老けるのが嫌だ」という感情のままが自分そのものです。その感情から「老いること=真理」を否定し、「若いまま」でいたい自分を立てます。この両者が対立することによって、葛藤(=問題)が生まれてしまいます。「若いまま」でいたい社会的な自己(=自我)を立てたのですから、この問題を解決するべく「社会的な自己(=自我)」が問題解決のために勝手に働き出します。化粧品だ健康食品だ健康器具だ、それにはお金が必要だ・・火(=問題)に油を注ぎこみさらに大きな問題へ発展させていきます。

 「老けるのが嫌だ」というのが「あるがまま」の素直な自分です。この感情が出ているままでいいのです。「なんとかしなければ」という思いが「私=自我」を作り出しています。「あるがまま」の素直(=真)な自分と「なんとかしなければ」という偽物(=素直な自分を認めない)の自分という二人の自分がいる限りは問題が無くなることはありません。事実(=ありのままの感情)を曲げて「なんとかしたい」という偽物の自分に従うようになっているのではないでしょうか。素直に「あるがまま=事実」の自分のままでいてみる。

 「老い」を否定したり「老いている人」ことを忌み嫌ったまま、若作りに精を出しても何かしっくりこないものです。「老い」を認め「老いている人」を受け容れた上で若くいれば違和感はありません。先に問題を解決した上であれば葛藤はありません。分裂(「あるがまま」と「なんとかしたい」の両者)したままで素直な自分を認めないまま(=問題を抱えたまま)に装いを変えても根底にある葛藤はそのままかもしれません。

 

<苦手な人の例>

 自身の抱えている問題をよく観察してみます。会社で苦手な人がいるとします。「あの人はどうしても苦手だな」というのが「あるがまま」の自分です。もし苦手な人に対して「なんとかしなければ」という自分(=自我)を立てます。苦手なままでいいのに、懲らしめようとか私に賛同するようにしようと頭を悩ませているかぎりは問題は解消しません。「あの人はどうしても苦手だな」という自分を認めて、その感情を受け容れたままにしてみます。

 「なんとかしよう」という自分(=自我)に従わなくていいんです。苦手な人を好きになる自分に変える必要もありません。素直に「あるがまま」の自分を許してみます(そのままにしておきます)。自身を認め続けると「苦手な人」は「苦手な人」のままでいいんだと合点がいく(=腑に落ちる)または気にしなくなります。「苦手」に思っている自分でいいし、「苦手な人」がいてもいいんだということを受け入れるようになっていく。自分が素直(=あるがまま)の自分を受け容れていることに驚くかも知れません。

 そもそも千差万別の存在があり人間がいるのが当たり前のことです。問題を作っていたのは当たり前のことを当たり前にしておけない思いだということです。自作自演の一人芝居につきあっていたということ。お芝居ご苦労様としてあげれば、お芝居(=問題)はおしまいです。

 苦手な昆虫(=蜂・毒虫等)や動物(=蛇・サソリ・ワニ・クマ等)を無理に好きになる必要もなく、苦手のままに避けることで大きな混乱は生じません。反社会勢力・上司・クレーマー・駐車違反取締・◯◯人・・・苦手なままで良く、好きになる必要はありません。そのままで許されていると納得(=腑に落ちる)できるか、それとも納得できず(=認められず)に悶々と拒否しつづけるのか。

 自身の「あるがまま」の感情を認めてみる。良いも悪いもないのですが、いつまでも彼等を許せない原因は自身の「あるがまま」の感情を許せない感情のせいかもしれません。上辺だけでも平等に見ようとしている偽善の私(=自我)が原因だと気づくかも知れません。

 

<病気の例>

 「夫源病」という病気があるようです。「夫の言動が気に入らない」という自分がいます。その夫を「なんとかしたい」という自分を立てて苦しみ(=「あるがままの自分」と「なんとかしたい自分」の対立)ます。「夫の言動が気に入らない」という自分を認めます。そのままの自分でいいんです。「気に入らない夫」と思っている自分でもいいんだ、「気に入らない夫」でもいいんだというところにおさまります。「夫の言動が気に入らない自分」を修正しようとするからおかしくなります。家にほとんどいなかったときは「何の問題もない自分」であった、その自分と「夫の言動が気に入らない自分」とのギャップがあることで気が滅入ってしまいます。

 「なんとかしたい=気にならなかった自分になりたい」自分(=自我)を立てずにいればいいのではないでしょうか。素直に現状(=あるがまま)を認めることで自我(=なんとかしたい自分)が後退し、自分(=自我)が問題とならなくなれば問題はなくなります。夫を変化させる必要もなく、自身も変わる必要はありません。夫も認め、自身も認める。直そうとはせずに認めて認めて認め尽くす・・・、あるがままに逆らわない。夫が思い通りになったらそれは夫(=人間)ではなくロボットではないでしょうか。

 

 自分の感情に嘘をつかない、事実を事実のままに受け入れる。上辺だけの聖人君主になる必要はありません。愛憎のままが事実・真実であり許されているということではないでしょうか。我々は悪くも良くもありません。誰かが許す許さないということででもなく誰かが救う救われるということでもない。ただそのようにあるだけで、あるがままはどうしようもない事実・現実です。真実に歯向かい問題を作っている「どうにかしたい」という我が、救いや許しを求めているという矛盾を抱えています。「どうにかしたい」を取り下げて、「あるがまま」に素直に従えば何も問題とならないかもしれません・・・・。

 

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老子−18 [老子]

大道廃 有仁義 慧智出 有大偽 六親不和 有孝慈 国家昏乱 有忠臣

 

「道」が廃れてくると、仁義を強調するようになる。人知によって生きようとすると、表面上だけの偽りの行いがはびこるようになる。親戚縁者が不仲になると、孝行とか慈愛が推奨される。国が乱れ国難となれば、忠義の家臣が台頭してくる。

 

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 無為である「道」が廃れれば、仁義を説く儒教が台頭する。世間を人知でなんとかしようとするのは大きな間違いである。頭で考えてやっていることなど、計らいごとで裏がある。高官に気に入られるような徳は、世渡りの道具であると糾弾しているのでしょうか。儒教を目の敵としているように感じてしまうのはしょうがないことでしょうか。道教の正当性を主張するのに、他の教えを否定することは大人気ないかもしれません。あらゆる事が許されているというのが事実・真実。

 言葉自体が二元的であり、どんな言葉を使っても極端と捉えられるようです。自国の正義は自国の正義であって、他国(=敵対する国)からすれば自国の正義も悪とみなされます。

 自らが信じている「善」も自らだけの「善」かもしれません。時代や環境や状況によって、「善」の捉え方が異なるかもしれません。どちらかを善と断言すれば、片方は自動的に善ではないということになってしまう。

 何でもなかったものに意味づけや価値づけをしたり、頭の中で考えた事(=実在してはいません)に納得したり悔やんだり悲しんだり笑ったり・・・。サピエンスが進化する過程で身についた能力でしょうか。頭の中の虚構は、自らを楽しませるだけではなく苦しめてもいます。この実在しない諸刃の剣(=虚構)は必要なときだけ使えばいいだけかもしれません。

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 様々な映画のジャンル(ヒーロー映画・伝記映画・アクション映画・犯罪映画・歴史映画・・・)がありますが、どちらかの立場として描かれています。同時に両者の立場を描くことはできません。戦争映画で「硫黄島からの手紙」・「父親たちの星条旗」は日本の視点とアメリカの視点で描かれた貴重な映画かもしれません。ヒーロー映画には強い悪であればあるほどヒーローが際立ちます。神が偉大になるのは悪がちっぽけでないからかもしれません。

 映画の中で、味方がひどい目にあったら「10倍返し」どころではありません。悪役は憎まれれば憎まれるほど正義が際立ちます。見ている観客も悪だと決めつけて見ているのですから、成敗すればスッキリするようです。憎まれている方は虫けら同然に好き勝手に切り捨てられています。おいおい悪人にも家族があり、昨日まで幸せに暮らしていたのに・・・容赦ありません。正義とされている人(映画での主役)のほうが多くの人(悪役)をバッタバッタと血も涙もない非情な人間となって懲らしめています。どっちが凶暴なのかサッパリわかりません。

 人間には鬱積した反抗心が内在していて、鬱憤を発散させてくれる映画の需要があるということでしょうか。

 童話や昔話でも、醜いアヒルの子・シンデレラ・クリスマスキャロル・・・等で大逆転する話しは受けがいいようです。この二元性は勝手に身についたものですから、二元的な見地から距離を置いて平等に見ることは難しいことのようです。

 

 

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老子−17 [老子]

十七章

太上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮之。信不足、焉有不信。悠兮其貴言、功成事遂、百姓皆謂我自然。

 

 最高の君主は、君主が存在しているということが知られているだけです。其の次の君主は親しみがある君主です。君主は功績が讃えられます。其の次は民衆を厳しく管理統制する君主です。最低の君主は民衆から陰口を言われたり侮られる君主です。

 君主が誠実さを欠くような事をすると、民衆から信頼を失う。施政に対して不信をもつようになる。君主は悠然として口出しをせず、人々が自ずと社会貢献するようにする。民衆が「自分たちが国をつくっている」と言えるようにするものだ。

 

太上:最高の君主

下:民衆

親:親しむ

譽:讃える
悠:ゆったりと

自然:自分たちによって自然に

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 政治家で陰口を言われても平然としているようでは最低以下の君主というのは現在でも同じようです。自身のパフォーマンスに陶酔し国民に愛国心を呼び起こして団結させようとする君主もいます。偉大なヒーローになるために、敵(=悪)が必要とされます。敵(=悪)が強ければ強いほど、攻撃することに正当性(=意味)をもたせることが出来ます。愛国心を言い出したら危険なサインです。意味づけがなく戦うことはできません。

 宇宙船地球号の中で生きている事を認識できていれば争う馬鹿らしさに気づくはずですが・・・。誰の海でも誰の資源でもなく分かち合えればいいだけですが・・。

 

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老子−16 [老子]

 2千数百年前の著者の真意をそのままに受け取ることは可能でしょうか。十人十色の解釈があります。同じ文字(=形)を見ても全く異なったイメージを抱いてしまいます。「山」という固定された文字(=形)でさえ異なる「山」がイメージされます。文字(=形)を残したからといってそのまま真意が伝わると期待することはできません。

 文意を解釈することをスープの味に置き換えてみます。同じ鍋のスープを飲んだとしても、人によって異なった食感や味わい(=解釈)があります。文字を残した人と似たような感覚・体験があれば、スープの味(=文の真意)に共感することは可能です。ましてや、時代も環境も体験も異なれば同じ感覚でありうる保証はまったくありません。

 現代の社会生活においても、人はそれぞれ異なった環境で育ち異なる体験を通して個性のある個人として存在しています。あるがままの世界(=全体=1)に対しての見聞覚知は同じですが、社会的な自己(=自我・アイデンティティ)のフィルター(=固定観念)を通過して出てくるもの(=アウトプット)は異なります。光の波長や音の周波数は変わることはありません。入力される振動は同じですが、勝手に行われている脳内処理が異なってアウトプットとなっています。

   

 誰でも「それ」であってあるがままを受け取っています。「自分かわいい」があって思いの通りにしたい社会的な自己(=自我・アイデンティティ)の固定観念で分別が起こってしまいます。分別後の自身の解釈が自身の世界観となっています。あるがままの世界(=全体=1)から個別(=1)の世界観で生きてしまっているのではないでしょうか。誰もがあるがままの世界を見聞覚知しています。勝手に次のプロセスに移行しているのが脳の癖です。

 当たり前の話ですが、分別以前は分別していない(=それ)ということです。(非常に重要です)

 本来は意味や価値のある世界ではない(=あるようにある、あるがままの世界)。人間が意味や価値があるかのようにしている世界、我々が思いを実現しようとして世界。あらゆる存在や見えないものまで感じ取ることができるあらゆる一切に、意味や価値は言葉(=音)や文字(=形)を割りふって意味や価値のある世界とされた世界が真実の世界だとしているのではないでしょうか。信じられないかも知れませんが、あらゆる一切に始めから意味や価値があったのか検証してみてください。原子力エネルギーが理解される以前(=例えば千年前)にウランと名前がつけられる以前の物質に意味や価値があったでしょうか。人間だけが意味や価値をつけていて意味や価値が分かるだけではないでしょうか。他の自然界の存在にとってはどうでもいいこと・・・・。

 言葉や文字を使って思考するというのは、妄想の世界(=意味や価値づけされた)にいてあるがままの世界を分かろうとするようなことです。思考が働かない以前の世界を思考を働かせて調べることはできません。海中の中のことを船の上で議論しても意味がありません。ただあるがままをそのままに(=言葉なく)見つづける他はありません。そのために「無字」や「隻手の音声」という公案があるようです。この世界は、名前など無い一様な世界。この世界での音には意味はなく人間の便宜上意味づけしているだけだった・・・ということを体験して腑に落ちなければならないようです。あるがままの世界があって、妄想の世界(=迷いの世界)があってそこで生きているということの理解。分かったとしても生き方が変わるわけでも世界が変わるわけでも何でもありません。ただそうだったのか・・・。区別・差別・分別する必要性もない平等の世界にいたのにわざわざ不平等に生きてきたということを実感するかもしれません。

 

 この個別の世界観こそが迷いの世界だと気づいていません。「虚構(=フィクション)」こそが真実の世界であると譲らないのが固定観念です。誰もが分別以前のあるがままの世界(=全体=真実の世界)を見聞覚知しているはずなのですが・・・。脳の処理スピードを上げる訓練をし続けてきたことで、分別までに隙間がありません。光よりも速く分別しているのであるがままの世界をあっという間に分別された後の世界(=迷いの世界)へと更新しています。見聞覚知してから瞬間的に固定観念フィルターを通過して分別してしまっている。

 社会的な自己(=自我・アイデンティティ)は自己正当化によって自身を疑うことがはありません。自分を疑うなんて教わることではありません。誰もが自分を信じて成長しなしと言います。自分(=脳の癖)に騙されている自分を疑えなどと言ったら大変なことになります。頭のネジが外れているのではと疑われてしまい相手にされなくなります。

 

 服を着て生活しているのが当たり前(=常識)となっているのが現代社会です。真夏の海で服を着て泳ぐ人は異常ですが・・。服を着ているのは他の動物の視点からすれば不(=または非)自然な変わった生物です。乗り物に乗って移動しているとか、スマホに向かって口をパクパクしたり指を動かしているのも不(=または非)自然なのですが・・・・。普通にできてやれているので自らを不(=または非)自然な生物であると疑うことはしません。

 私たちは、自然ではない意味のあるものや価値のあるものに囲まれています。自身の身の回りを見回してみてください。観葉植物であっても管理された室内にあって自然の中とは異なっています。私たちの身の回りにあるものは、自らが追い求めて得たもので、何らかの意味や価値のあるものばかりです。ネコや犬や他の動物からすればそれらに意味や価値があるでしょうか。意味づけや価値づけは人間固有のものであって不(=または非)自然な人工的(=恣意的・意識的)に作り出されたものではないでしうか。

 不(=または非)自然の中で生きていることはアンバランスであり「混乱・葛藤=苦」を発生させています。自然へと回帰しなければアンバランスは是正されないままかもしれません。

 

 動物と人間は同じ地球上に生きています。動物は自然ですが人間は不(=または非)自然が正常だと思って生きています。不(=または非)自然に生きているからこそ自然に生きるということがどういうことかが良く分かるかも知れません。

 動物は自我(=作為・アイデンティティ)が作られなくても、リアル(=現実=自然)な世界で生きています。人間はというと社会的な自己(=自我・アイデンティティ)による「虚構(=フィクション)」の不(=または非)自然な世界に気づかずに生きています。

 

 あるがままの世界は、区分・分割されていない全体(=1)であったのですが、言葉・文字によって好き勝手に個々(=1)の意味や価値のあるモノとして定義しています。人間だけが意味や価値を付与しているだけなのですが・・。金属・石炭・レアメタル、印刷された紙(=紙幣)、情報等は動物にとっては何の意味も価値もありません。動物にとって何でもない全体(=1・自然)の中で生きているのに、人間は意味や価値のあるとされるものを自らが決めています。本来何でもない世界なのに、自分たちの決めたものに振り回されているということに気づいていないのかもしれません。

 自分たちの設定した条件でゲームをしているだけかもしれないのに・・・。

 

 自分たちが勝手に設定した世界で、何かを得ようとか何かを実現しようとか何かを掴もうとか何者かであろうという思いを実現させたいようです。社会的な自己(=自我・アイデンティティ)というアバターがいて、そのアバターでゲームを楽しんでいるかもしれません。しかし、このゲームは「葛藤・混乱=苦、不(=または非)自然」があるのでいつかはバレてしまいます。どこかのタイミングで”おかしい・違和感がある”と気づくようになっているのですが・・・。

 社会的な自己(=自我・アイデンティティ)と身心が一体(=主体)となり、快楽を満たそうとしています。目先の欲求を満たしてくれる対象(=依存症となりうる=アルコール・薬物・ギャンブル等)を追い求めます。また、自分勝手な権勢欲・金銭欲・支配欲・性欲などを満たすために他人に犠牲を強いることもあります。身心が自己同一化しているので、どうしても身体の求めることや心の求めることに従ってしまいます。

 自然そのものである動物が、人間のような欲に溺れて生きているでしょうか。意味や価値づけされた迷いの世界で生きていないからです。社会的な自己(=自我・アイデンティティ)の思いの通りにしようとする世界では、思いの通りを実現させられると思い込んでいます。どうしても思いに巻き込まれて振り回されてしまいます。

 不(=または非)自然な世界だけだと思いこんでいる我々がネコや犬と生活したいのは自然なことかもしれません。動物からリアルな世界(=あるがままの世界=言葉のない世界=言葉以前の世界=妄想のない世界)を学ぶ必要があるかもしれません。

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第十六章

致虚極 守静篤 万物並作  吾以観復
夫物芸芸 各復帰其根
帰根曰静 是謂復命 復命曰常
知常曰明 不知常 妄作凶
知常容 容乃公 公乃王 王乃天
天乃道 道乃久 没身不殆

自分は誰かと突き詰めていくと自身が虚(=空っぽ)であることに至る、ひたすらに沈黙(=寂静)のままでいる。
万物はいつものように生み出されている、万物が根源(=無・空)へと戻っていることを観ることができる。
万物は様々に現れているが、それぞれの寿命によって根源(=無・空)へと還る。
根源(=無・空)に還ることを静という。
これを復命(=命の根源へ還る)という。

復命はいつでもどこでも観ることができる。
こういう自然の道理を知る事を「明」という。
こういう自然の道理を知らなければ、妄想をいだいて混乱を招くことになる。
自然の道理を体得すれば寛容である。
寛容であれば公平平等に判断できる。
公平平等に施政ができれば君主である。
君主であれば天に従っている。
天に従っていればそれは道である。
道が分かれば永遠であり、迷うことはないだろう。

*
虚:からっぽ、空
静:寂静、沈黙
篤:もっぱら、ひたすら
復:もどる、循環
芸芸:花や葉などが咲き誇る
常:不変、恒常、法則、道理
容:うけいれる

公:平等、普遍的

王:君主

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 空っぽに”成る”のではなく、そもそもが空っぽであると気づくまで何もしない。そのために道教では”坐忘”があり禅では”只管打坐”があり”ニクセン”がある。要は何かを意図的にしていることで「葛藤・混乱=苦」を作り出していた。何もしないということは社会的な自己(=自我・アイデンティティ)にとっては苦痛のなにものでもありません。社会的な自己(=自我・アイデンティティ)は「虚構(=フィクション)」の中で遊び続けていたい。退屈を避けて何かをしていたい。何かをしていれば何かの結果をもたらす、社会的な自己(=自我・アイデンティティ)の存在意義があるということです。動き続けることで何かをしていると自分に言い聞かせ続けられる。

 修行は自転車に乗れるようになるとか、泳げるようになるとかと一緒でその何もしなくてもいい状況でいられるまでが難儀なことです。何もしなくても平安でいられるということに気づいてしまう。何も考えないほうが上手く生きられる・・・。何かを求めなくても何かを手に入れなくてもよかった、既に達成されていたことに気づく。

 素粒子が回転しつづけることで存在として”在る(=色)”、名前がつけられることで”在る(=色)”とされています。我々が死んだら名前がつけられていた対象は消え去り、名前もしょうめつします。全体(=1)へと戻っていくことになります。生きとし生けるものは消滅して全体(=1)へと戻ることになっています。全体から新たな命が生まれてきます。

 突き詰めると、我々の本質が何でもない(=空っぽ)だということ。空っぽであれば神に裁かれる対象とはなりません。見ている人(=主体)もいなければ聞いている人(=主体)もいない。ただ事象が起こっているだけ、そこには誰もいない。主体がなくあるがままがそのように展開されているだけだと腑に落ちます。良いとか悪いとかの分別(=二元対立)を持ち出して苦しむ主体もいません。何もしなければ(=思考せずに静寂である)何も生み出さない。

 

 【実験】

 ディスプレイの中で”汚い・綺麗”とありますが、”汚い”方を右手の人差し指の先で触れてみてください。次に”綺麗”を同じ右手の人差し指の先で触れてみます。

 問いは文末にありますので確かめてみてください。

 

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参照【世界の名著 老子荘子 での現代語訳 P88 中央公論社】

 空虚(「虚」に向かってすすめるかぎり進み、静寂(「静」)を一心に守る。(そうすれば)あらゆる生物はどれもこれも盛んにのびる。わたくしは、それらがどこかへかえってゆくのかをゆっくりながめる。あらゆる生物はいかに茂り栄えても、それらがはえた根もとにもどってしまうのだ。根もとにもどること、それが静寂とよばれ、運命にしたがうことといわれる。運命に従うことが「常」(いつでもそうであること)とよばれる。「常」を知ることは「明」(寮明)とよばれる。

「常」を知らなければ、めくらめっぽうにやってしまい、災いにあうこととなる。「常」を知る人は、すべてを包み容れること(「容」)ができる。「容」であることは、そのまま偏見のないこと(「公」)であり、「公」であることは、そのまま王であることであり、王であることは天であることであり、天であることは「道」であることである。「道」は永久なのである(から、それを保有する人も永久である)。その人の身体に終わりがくるまで、危険はない。

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【問い】

1.”汚い”を触れた指先は汚れたでしょうか。

2.”綺麗”を触れた指先は綺麗になったでしょうか。

3.文字(=汚い・綺麗)はディスプレイの中にあるのでしょうか、それとも自身の脳の視覚野の像としてあるでしょうか。瞼を閉じれば文字は記憶としてあるだけですが、実際は見ることはできません。あると確信しているだけで、スクリーンセイバーで見えなくなっているかも知れません、停電で消えるかも知れません。

 見えているモノ、聞こえている音は外にあるのではなく、自身の中にあります。ブラジルに行っても自分の外にブラジルがあるのではなく、見ている自身の中にブラジルがあるので自身がブラジルそのものです。フランスは◯◯km離れたどこかにあるのではないということです。見えているものは自分自身であり見られていることになります。

 脳が勝手に三次元の像としているだけです。生まれてからこの方自分自身を見続けていたということです。自分自身を聞いていたということです。

 元来全体(=1)には意味も価値もない、あるがままでしかありません。意味も価値もないから好き勝手に意味や価値がつけられるということ。

 真実の世界や迷いの世界がどこかにあるわけではなく、真実の世界(=あるがままの世界)から自らが作り出している思いを実現させようとして迷っている世界(=分別の世界)へ移行しています。あるがままの世界はまたたく間に言語で定義づけされ思いのとおりにしたい迷妄の世界へと頭の中で作られています。自らがそうありたいと願う世界(=思いの全てを実現させたいという身勝手なイメージで作られた世界=迷妄の世界)を真実の世界としているところが一切転倒と言われる所以でしょうか。

 社会的な自己(=自我・アイデンティティ)が何かを得よう何かを掴もう何かになろうとしているのは、どちらの世界でしょうか。◯◯したいというのは、今この瞬間のことではなく未来に思いが行っていることです。今この瞬間をなおざりにして未来があるでしょうか。

 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−15 [老子]

第十五章

古之善為士者、微妙玄通、深不可識、夫唯不可識、故強為之容。
予兮若冬渉川。猶兮若畏四隣。儼猶兮其若客。渙兮若氷之将釈。
敦兮其若棒。曠兮其若谷。混兮其若濁。孰能濁以静之徐清。
孰能安以動之徐生。保此道者、不欲盈。夫唯不盈。故能蔽不新成。

 

 古くから道に通じている人がいて、彼等は精妙な道の根源に通じている人です。道の人は深遠であり、道の真髄は奥深く全てを知ることはできません。道の人について知ることはできないが、あえて道の人の何たるかを見てみましょう。

 道の人は冬の川を渡るように注意深い。近隣諸国からの攻撃に細心の注意を払うように用心深い。また慎ましい客人のようでもある。氷がサッーと溶けるように固執することなく自由であり、加工される前の切り出されたばかりの木のようであり、どんな姿にでもなりうる。大きな谷のように空虚で開かれています。濁っている水を静かに保って清らかな水にできるであろうか?じっと動かないものに活力を与え生きているようにすることができるであろうか?

 「道」のままに生きている人は奥深いところに通じているので、あるところで満足することなく精進し続けます。自らを更新続けるということは、現状で満足することがないからです。

 

士:優れた人物

玄:天地万象の根源

夫:立派な男子

予:ゆったりと、慎重に

兮:強調したり感嘆を表す

四隣:前後左右、四方

儼:おごそか・慎む・うやうやしい。
渙:あきらか・つややか。
孰:だれ・だれか・なに・なにか・つまびらか・くわしい
敦:せめる・とがめる・うながす・おもんじる・さかん

曠:あきらか・大きい・からっぽ

盈:みちる。みたす。あふれる。

蔽:おおわれて

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 様々な人が当時の筆者の思いを表現しようと様々に訳しています。今現在生きていて似たような環境と境遇の人でさえ、他人が言おうとしていることを理解するということは至難の業です。ましてや2千数百年前の人の思いなど知るすべはありません。読み物としてはいいのですが、この章はほとんど参考にもならないと思われます。

 道教の人の自慢話のように聞こえるだけで、何をどうするとかサッパリわからないというのが本当のところです。

 人が言葉にしたり文字にしたものは全て人間が作り出した概念です。この世(=自然界)には一切存在していないものでした。人間は自然の一部であり自然そのものであるということに異論はないかと思います。自然で暮らしていて老・病・死というものが日常の中にあって当たり前のことです。これほど確かな事実・現実はありません。

 

 しかし、王族の王子として育てられたシッダールタは本来の自然の生き物(=人間)としての生活を送ることがなかったようです。(我々も太陽の傾きも知らず風を感じず雲の変化も見ずに一日を送ることはないでしょうか。自分たちで作り出した不自然な環境や不自然な道具に囲まれてはいませんか。)

 王子が四門から出て見た光景は、自然の姿に驚いてしまいました。一般庶民からすれば、「苦」でもなんでもない日常を「苦」として受け取ることになりました。現実(=自然)が間違っているとして、苦行することになりました。自身も自然の一部であり自然に合わせるよう自身の見方を変えたのでしょうか。あるがままでいい。

 

 自分だけが「仏陀」として目覚めている気づいたということは、自身以外は眠りこけていると決めつけたことになるのではないでしょうか。変な言い方をすれば、後世の人は一般庶民は凡夫だと決めつけたということかもしれません。

 もし誰かが、私が英雄だとか私がメダリストだとか私がノーベル賞だとか私だけが宇宙飛行士だとか私が長であるとか私が指導者だとか私が教祖だとか吹聴するようであれば・・・・・自らが何者かになって何者であることを勝ち取った。その裏に隠されていることはなんでしょうか。

 うがった見方をすれば、私は◯◯に成ったと宣言する人は私以外は私以下の人であると言っているようなものかもしれません。私は哲学者ですと公言することの裏には、あなた方は哲学をしていないと言っているようなものかもしれません。自身で公言している人には注意が必要です。

 称賛・承認されるということは称賛・承認してくれる人がいるからです。勝者は敗者のおかげで勝者になれたということです。日が当たるところには必ず影があります。

 私一人が悟りましたということは、あなた方はまだ悟っていないぞという宣言かもしれません。何かの概念を手に入れて何かに成るということがあるでしょうか。仏陀と同じ環境で同じ思考過程を経て同じ修行をして同じように坐ってこそ同じ心境に成るのであって、同じ何かを全くその通りに脳内で作られるということは不可能なことです。

 同じような食べ物を同じ順番で食べて同じように消化して同じような栄養と成って同じような体つきに成るでしょうか。双子でさえどこからか違って成長していきます。何かを得たり何かを掴んだりして、全く同じ何かになるということはあり得るでしょうか。空っぽの胃袋の空間は同じでしょうか異なるでしょうか。

 

  数字の”1”は何でも定義できます。なんでも”1”とすることができるので、ちゃんとした”1”は無限にあるということは確固たる”1”は存在しない。”1”はただの表象であり便宜的なものであるということです。砂粒1つを”1”とすることもあり、地球を”1”とすることもあり・・あらゆるものを勝手に”1”とすることができます。”1”を「神」と置き換えてみてください。なんでも「神」になるということではないでしょうか。この世に確実な”1”は存在してはいない。ただ人間の都合によって”1”としているだけです。

 「お水1杯」「お菓子1個」「ボタンを1回押す」「一歩進む」「1番の成績」・・無限に1は出てきます。”0”もいくつもあるでしょうか。

 教えや修行や公案が「何か確実な”1”」を掴んだり得たりするものではないということではないでしょうか。確実な”1”などこの世にはありません。

 

 教えや修行や公案は「概念」を一度壊してしまうためにあるのではないでしょうか。論理的思考で何でも掴めるというとこから一旦離れてみる。何でもかんでも因果という人がいますが、何らかの思いやアイディアが浮かんできた時どこから来たのでしょうか。「私」という感覚はいつどこからどのようにあるのか説明できるでしょうか。

 自然にあるものにどんな意味がついているのかサッパリ分かりません。野に咲く花や山から崩落する岩にどんな意味があるのでしょうか。ダイヤと石炭にどんな意味があるのか、ワンちゃんや猫に違いを説明する意味があるでしょうか。

 価値とか意味とかを求めて振り回されてはいないでしょうか。子供時代の玩具は子供時代で遊べばそれで意味や価値はおしまい。その時々で自分の都合で意味づけしているだけで恒常不変ではない。常に変化しているので分らないは分らないでいいではないでしょうか。

 苦を滅しようなんてどうかしているし、滅するように教えようとすることもどうかしている。楽しみがあっていいように、痛いとか苦しいとかがあっていいのではないでしょうか。

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・何でも道理や論理的思考で解決できると思い込んでいるのでは。

・自然は道理ではないので人間ではどうしようも太刀打ちできない。

・人間も自然なので自然にいきるのが自然のこと。

・老・病・死を克服したり滅するようなものなのでしょうか。

 

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老子−14 [老子]

十四章

視之不見、名曰夷。聴之不聞、名曰希。摶之不得、名曰微。此三者不可致詰。
故混而為一。其上不皦、其下不昧。縄縄不可名。復帰於無物。是謂無状之状。
無物之象、是謂惚恍。迎之不見其首、随之不見其後。執古之道、以御今之有。
能知古始、是謂道紀。

 

 目を見開いて見ようとしてしても見えないものを「」という。耳を澄ませて聴こうとしても届かずに聞こえないものを「」という。どうにかして掴もうとしても得られないものを「」という。これら三つのものは一つ(=道)であり、我々がいかに追い求めても捉える事の出来ないものです。

 陰陽であって、上(=陽・無)は光明でもなく下(=陰・有)は薄暗くもない。はっきりしていないので、とらえることが難しいので名づけることはできない。循環しては無に還る。これを「姿のない姿」、「形のない形」または「恍惚(微妙なもの)」と呼ぶことにしよう。こちらに向かって来るのを迎えても(=過去)の顔は見えず、後から追いかけても(=未来)後姿は見えない。この古くからの「道(=無)」を通して眼に見える今(=現在)を見れば、物事の起源を知る事ができる。これを「道の根本」と呼ぶ。

 

夷:観察しても、見えない。

希:耳に届かない。聞こえない。

微:触れることができない。

詰:追い求めてる。

人間の感覚で捉えることができないのが「道」である。

一:道

皦:光明

昧:薄暗い

縄縄:不明確

惚恍:微妙

古之道:道の始まり

有:世界の全て

古始:宇宙の起源である道

道記:道の根本

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 私たちは人間社会の決めごとの中で生活しています。この人間社会は、あらゆる存在を命名によって分離してしまった世界かもしれません。動物が見ている世界を想像してみます。限られた鳴き声やお互いの分泌物や体臭や接触によって伝達を行っているようです。彼等は危険な状態であれば逃げ、狩りをすべきであれば狩りをし繁殖すべきであれば繁殖行為をする等々・・、生きていく必要最低限のコミュニケーションができれば困ることがないかもしれません。人間のように命名によって存在を細かく分離・分割する必要もないようです。色や形や匂いの違いによって判別・判断できれば何も困りません。生き残るために姿を変え(=擬態)たり毒を持ったり攻撃力を身につけてたり、それぞれが生き残るために自らが適応しながら生存競争に勝ち抜いてきたようです。

 人間は、二足歩行や手足を使うことで脳が大型化していったのでしょうか。動物では気づかない(=気づく必要のない)知覚できない(=見えない・聞こえない・捉えられない)ようなものをイメージして名前をつける能力があるようです。

 力・物理法則・神・精神・国・感情・愛・エネルギー・光・音・心・安心・誠実・分かる・経験・驚き・青春・理解・了解・・・目に見えない・聞こえもしない・掴めないものが働いている、その働きに勝手に命名(=人間社会での決めごと)しています。

 誰が感情・心・思考・・を発見して命名したのでしょうか。見えないものを言葉という道具で操って遊んでいたのでしょうか。コロニーで共通認識された言葉が一人歩きしていったのでしょうか。今でも目に見えないことを分かったかのように言葉で表現しています。例えば、”精神”なんて個々人がどう理解しているのか皆目見当がつきません。使うのは自由ですが分かっているようでいい加減に使っているのではないか疑念は晴れません。

 

 人間(=サピエンス)の歴史は、見えない・聞こえない・掴めないものを言葉によって定義してきて分かったように使うことの歴史かもしれません。言葉にすることによって目にみえる(=目に見える形=文字)ようにでき、扱えるような対象だと勘違いしていないでしょうか。刻々と生滅して変化し続けるものも(=無常)静的な変哲もない音(=言葉)と形(=文字)にしています。活き活きした生を何の変化もない文字で表せるのでしょうか。

 ”感情”は揺れ動き一定することのない動的なものなのに、静的(=変化しない文字)な2文字の漢字(=感情)であっさりと表しています。

 

 人間のイメージ力は、今まで存在しなかった車・飛行機・・・を作り出してきました。言葉や文字は人間にとって便利なものですが、動物にとって価値や意味があるかはよく分かりません。動物が、もし人間のように四六時中口をパクパクして音をだしていたら想像するだけでも恐ろしいことです。ワンワンだけだから可愛いのですが、下手に喧嘩腰の言葉を使えるワンちゃんがいたらどうでしょう・・・。

 

 言葉や文字は人間社会の決めごとを表したものでしかないのですが、その言葉や文字によって翻弄されているのが現実ではないでしょうか。自らの意志で生まれてきたわけでもなく、この姿を望んだわけでないようです。気づいたら人間社会に勝手に組み入れられて、言葉や文字を覚えなければはじき出されてしまいます。

 人生に意味や価値があろうがなかろうが生きていることに変わりはありません。どんなに生活が変わろうがひと呼吸はひと呼吸であって生きていることになんの揺らぎもありません。どうして人生に意味や価値がないと駄目なのでしょうか。人間以外の動物が意味や価値を見出すために生きているでしょうか。薔薇は薔薇で完成している。猫は猫で完成している。人間は人間として完成しているのではないでしょうか。生きている事自体がすでに到達していて、何も掴む必要も何も得る必要もないという見抜き。

 私たちは、イメージを言葉(=音)や文字(=形)にして対象化しています。言葉や文字を操って行動へと変化させて現実をちょっとづつ変化させようとしています。言葉や文字によってかき乱されているのに、それが普通であるというのが脳の習慣(=癖)かもしれません。苦しみは自作自演であり、思考・身体は「本来の自己」ではないということの確認作業のために修行があるかもしれません。

 

 この14章では、見えもしないものを「夷・希・微」という言葉や文字にすることで捉えたかのように錯覚させられます。概念化して言葉を当てはめて何をどうのように掴んだのでしょうか。概念の元はイメージであり、そのイメージも個々人で全く異なっているかもしれません。どうしてお互いに一致を見るのか皆目見当がつきません。互いに雲をつかむような曖昧なイメージで分かったようなふりをしているだけかもしれません。老子は目に見えないものに名前をあてがう能力があると感心しなければならないのでしょうか。見えないけど「夷」という言葉にすれば何とか捉えられるとでもいいたいのでしょうか。

 

 日々の生活を憂えずに、何もしない(=思いをほったらかしにする)でも幸せでいられる。何が起ころうがあるがままに受け容れられている自分がいる。他人・過去・未来と比較することが意味を失い、他人を変えようとか自分を変えようとかする必要はなかったという着地点。

 

 感覚・感情・思考が正常に働いていて”苦”が滅するなんて本当にそんなことがあり得るのでしょうか。ある心境に達した人(=心境は恒常ではなく一時的)は癌に蝕まれても痛くも痒くもないなんてそんなことを本当だと軽々しく信じていいものでしょうか。”苦”が滅するとは”苦”は”苦”のままに、そのままに受け入れられるということではないでしょうか・・・。楽しみをそのままに受け入れると同様に”苦”もそのままに受け入れる。楽も苦もあるのが現実であり当然の世界です。ありのままにそのままのダイレクトな感覚として許されていている。苦があっていいじゃないですか。

 逃げ回っているからいつまでも追いかけられる。苦が向かってきたら手を精一杯開いて向かい入れてみてはどうでしょうか。苦という色をつけないで、何らかの感覚の一つの現れを感じている程度で終わらせる。悪魔も苦しんでくれないとと面白くないかもしれません。逃げるのでまとわりつく、クタクタになるまで受け容れて遊んであげれば退散するかも知れません。

 

 マラソンを初めてする人は苦に感じますがいつしか苦ではなくなる。何か(=クラブ活動・奉仕活動・PTA)を強制されると苦と感じますがやりがいを見つけると苦ではなくなってくる。幼児にとって歩くということは苦ですがいつしか歩くことが喜びとなる。満腹になると苦ですが食べることを味わえば苦とはならなくなる。宇宙ステーションから地上に帰還して立ち上がることは苦ですが普段の生活に戻るために苦とは思わない。注射はその時は苦ですが後のことを考えれば苦ではない。持病や耳鳴りや肩こりやヒザ痛が常にありますがそんなもんだとしてしまえば別に苦でもなんでもない。日常として受け容れればどうということはありません。

 二本足で歩く動物というのは非常識で困難(=苦)であるはずですが、歩くことに苦を感じていません。当たり前のこととして受け容れています。人間は鳥の感受能力に比べ遥かに劣っている能力であっても”苦”とは感じていません。感受能力がこの程度でも、今の能力の範囲内で生活できていて”苦”とは感じていないだけのこと。比較したり望んだりせずに”苦”を”苦”としなければそれでいいだけ、自分で納得して生きていけばなんの支障もありません。

 

 何かを得たい、何かを掴みたい、何かに成りたいというのが苦を維持する方法のようです。悟りがある、解脱がある、涅槃があるという思い込み(=脳の癖)があるので、この思い込みを取り去っていくのが修行(=何もしない=思考に振り回されない)かもしれません。探し物なんて最初からなかったということかもしれません。

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・全体は分離されていないが、命名によって対象化することで分離させている。

・分離させていることで、分かるべきもの知るべきものとしている。

・見えないものも命名によって対象となり知るべきものとなる。

・人間社会の決めごと(=言葉・文字)の中でしか考えられない。

・存在は何でもないのに、特別な何かがあるものとして扱ってしまっている。

・何かを勝ち得ての成功ではなく、何もなくてもそれで満たされる地点がある。

・苦を滅するという考えは自我からくる慢心かもしれません。

・心身の苦は容認されては駄目なのでしょうか。

・苦は目の敵として存在しているのか、自らが苦としているのか。

・苦は本当に苦のままであり続けられるのでしょうか。

 

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老子−13 [老子]

第十三章

寵辱若驚、貴大患若身、何謂寵辱若驚、寵為上、辱下為。得之若驚、 失之若驚、是謂寵辱若驚。 何謂貴大患若身、吾所以有大患者、為吾有身、及吾無身、吾有何患。 故貴以身為天下、若可寄天下、愛以身為天下、若可托天下。

 

 気に入られ(=承認・昇格・称賛・尊敬)たり無下に(=見下される・軽蔑・無視・侮辱・降格・不信任)されたりすることは人間(=当時)にとって狂わんばかりの一大事である。自身に下される評価は我が身に降りかかる大きな患いと同じく重大なことである。

 人(=上の人)からの評価が自身の身にとって狂わんばかりの一大事だということはどういうことなのか。

 承認は天に昇るがごとくであり、降格は地獄に落ちるようなことである。 

 承認(=昇格)は舞い上がるようなことあり、降格は大きな落胆となる。

 寵辱は狂喜乱舞するような重大な出来事であるということです。

 

 自身に対しての評価が、どうして身体の患いと同様に重要視するものなのでしょうか。

 大きな患いを負った者であるということは、我が身が有るからです。

 我が身が無いということになれば、私に何の患いがあるでしょうか。

 

 自分の身体を大事にするように天下を貴ぶなら、天下をまかせるにたる人です。天下を我が身のように愛する人にこそ天下を託すべきである。

 

若:〜のようなもの

何謂:ということは

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 中国の春秋戦国時代に君主のために説かれたことを、現代の一般庶民が参考にする価値や意味があるのか疑わしいのですが・・・。当時の人がどんなフィクション(=虚構)で生きていたのか、当時の人間性も現代と通じるものがあるのか探っていきたいと思います。

 医療体制もインフラも整備されていなければ、寿命は長くないことは想像に難しくはありません。戦乱の世で明日の命が保証されない中で彼等の生きた証といえば、手柄を挙げて認めてもらうこと以外に何があるのでしょうか。

 尊敬する将軍から手柄を認められ、官職を与えられるということは天にも昇るほど狂喜乱舞するほどの喜びであったかもしれません。逆に能力がないという烙印を押されることは急転直下に地獄に落とされ立ち直れないような落胆であったかもしれません。上官からの評価が全体からの評価そのもであり、自身が生きている証として確固たる確信をえることだった。評価がなければ生きている価値がないように感じて暮らしていかなければならなかったのでしょうか。

 

 いつの時代でもこれからも、人間として生まれてきたからには幸せを実感して生を全うしたい。生を実感し味わうということは、感動したい感動させたい感謝したい感謝されたい愛したい愛されたい驚きたい驚かせたい夢中になりたい夢中にさせたいたい達成したい開放されたい自由でいたい力を持ちたい影響力を持ちたい満たされたい満たしたい刺激を得たい刺激を与えたい・・・。それが目に見えたり耳で聴こえて身体で感じて実感として心底味わいたい。

 私たちは学校という閉鎖社会で点数という数値によって評価されてきました。テストペーパーの解答次第で順位がつけられ閉鎖社会の中で評価され、その評価が正当であると思い込まされていなかったでしょうか。会社組織やフリーランスでは、売上や実績や評判や部下の育成や聴衆の評価によって値踏みされてきました。学校での具体的な数値から他人の主観という曖昧な尺度となります。人間の価値は他人の評価に委ねられ、他人の承認が必要とされるということのようです。

 他人に認められること=自身の高評価=生きている意味や価値がある。他人の賛同や称賛があってこそ充実した人生であると思うようになっているのではないでしょうか。技術・技能・知識・資格が拠り所となるので、こぞって習い事に勤しむようになる。私は社会的に認められた◯◯の資格や免許を取得しましたと胸をはるようになります。

 

 老子は身体あってこそ承認に意味や価値があり、身体が無い(=死んでしまった)のなら承認を受ける自分自身が存在していない。承認に左右されずに自身の身体を賭けて天下の事を行う君主こそが正しく天下を治め負託に応えられる君主である。

 

 私たちも他人の承認に左右されずに、自身が生の実感を味わって生きていることに軸足をおいてもいいかもしれません。いくら他人を詮索しても他人の心境など分かるわけがありません。どうでもいい情報に振り回されないためにも、どうでもいい情報にかかわらないということが余裕をもたらしてくれるのではないでしょうか。

 

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老子−12 [老子]

老子 第十二章

 五色令人目盲、五音令人耳聾、五味令人口爽、馳騁田猟、令人心発狂、難得之貨、令人行妨。

是以聖人為腹不為目、故去彼取此。

 

 色彩はかえって現実を見えなくしてしまう。音色はかえって現実の音を聞こえなくしてしまう。味付けはかえって味覚を損ねてしまう。馬で駆け回る狩猟は、人を興奮させて狂ったように獲物を追い回す。得がたい貴重なもの(珍宝・財貨)は、人として為すべきこと(当たり前の行い)を後回しにさせてしまう。

 だから為政者は、享楽に振り回されず衣食住で満ちたりた生活で満足する。欲望の何たるかを知り五感に惑わされずに、生活を維持できるだけの必要なものだけで満たされるような心境であるべきだ。

 

令人: 人に~させる

五色:青・黄・赤・白・黒

五音:ド・レ・ミ・ソ・ラ

五味:酸・塩・甘・辛・苦

馳騁(ちてい):馬で駆けること。 または、思うとおりに行動すること。

田猟:狩りをすること。

為腹不為目:腹を満たすという慎ましさのために生き、目などの感覚的な快楽に陥らない。

故去彼取此:彼(=享楽)を捨て、此(=質素な生活)を選択する。

 

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 あらゆる生命体には、心地よさを希求(=執着)し不安・恐怖から逃れたい(=忌避)という本能があるようです。本能があったから生き延びたのか、生き延びている過程で本能が身についてきたのかどうでもいいことですが・・・。生命体として存在している限りは自然に「自分かわいい」が最優先されていることは間違いないようです。

 周囲の環境や状況から入ってくる情報は「そのまま」に五感から感受されます。五感自体にフィルターはなく純粋無垢な働きがあるだけです。どうでもいい情報を選別せず(=拒否しない)にしたままでは、心・感情が鎮まることは難しいことではないでしょうか。

 脳はイベント駆動であって、状況の変化にすぐに対応するようになっているようです。状況の変化(=未来)は自分(=脳)でコントロールできません。状況の変化が先にあって五感で自動的に感受することで何らかのトリガー(=スイッチ)が入って、次に脳が起動(=反応)して分別プログラムによって行動することになります。適切な行動(=保身)を起こすために脳は常に待機しているようです。

 

 脳(=身体の一部)や身体は見られている対象であって「本来の自己」ではありません。心身は目の前のパソコンのディスプレイと同様に見られる(=対象)であり、意志・感情によって動かされている対象ではないでしょうか。

 状況の変化(=諸行無常・天候・他人の言動等々)に従って動かされているということに気づかなければなりません。身体が本当の「私」であり制御の主体であれば、身体の要求(=飲食・睡眠・反応)を制御できてもいいし病気にかからないように免疫細胞を思い通りに作り出すことも出来て良いはずですが・・・。自らの意志では血流の制御も心臓の鼓動の制御もできません。自ら(=私)が手を出すことができない、自律的な生命の営みが繰り広げられているということ。

 

 身体は自分ではないものでありながら、自分であるかのように勘違いしているということに気づかないかぎり、何とか制御しようと努めようとします。完全に制御できない身体として存在してるのですから身体が老いたり病気になったり死という現象があるのは当たり前のことであって逃れることができないことです。自分でなんとかなるという勘違いによって「苦(=あるべき理想と現実のギャップ)」としていることに気づくしかありません。いくら悩んでも「苦」は解消できるものではないのですが。速やかにあたり前のこと(=例えば老・病・死)として気にしない。

 

 そもそも最初から何でもかんでも問題が存在して山積しているのでしょうか。問題は自身が問題にするから問題となっているという根本的なことに目を向けてもいいかもしれません。目の前に問題があって問題を解決しなければならないのが「私」に課せられたことなのでしょうか。それともどうでもいいことに首を突っ込んで些細なことを針小棒大に扱って困り果てているだけなのでしょうか。

 私たちは何事もなく平穏で過ごしたいという一面もあるのですが、「私=自我・アイデンティティ」は「何かがあるはずだ」という思いで血眼になって空っぽを満たそうとしています。「本来の自己」が空っぽだということに気づいているかもしれません。五感で感受しているものが純粋無垢であって、感受したあらゆるものが消え去っていることを知っています、掴めるものも得ることもないし、何者にもなれないことを実感しています。いついかなる時でも何も得ていないし何も掴んでいない自分がいます。感覚は儚く消えてしまっています。

 どんなに素晴らしい体験であったとしても、記憶の片隅に僅かに残っている残像だけしかありません。誰もが以前に味わった素晴らしい体験をもう一度味わいたいと願います。興奮したい刺激が欲しいと心が求めて身体を駆り立てるというのが我々の行動パターンのようです。何故なら全てが消え去っていて空っぽであるからです。「私=自我・アイデンティティ」の提案するゲームにつきあっているだけという見抜き。たまには相手をしてやってもいいですが、ほどほどにしたほうがいいかもしれません。

 

 空っぽの感覚を満たしたい。素晴らしい景色や絵画を観たり旅したい。リズミカルな音楽や癒やされるメロディーに包まれていたい。食べたことのない味を味わって満足したい。誰もが求めることであり否定することはできません。老子は、過度に振り回され続けては本末転倒となることを警鐘を鳴らしているかもしれません。

 単調な日々には幸せはなく、どこかに青い鳥がいてその青い鳥を捕まえようとしている限りは青い鳥と生活することは難しいかも知れません。青い鳥は「今ここ」に在り続けています。非日常は稀であり、圧倒的に平凡な日常(=有閑階級の日常と一般人の日常は異なります)の中で生きていてニュートラルな現実のほうがノーマルです。見えているものや聴こえているものや食しているものが違ったとしても、意識自体に差があるわけではありません。

 他人と比較しても意味はありません。日常の「あるがまま」から逃避して非日常の酒池肉林ばかりを求めていては感覚の楽しみの奴隷になり、日常を否定することになります。普段の日常がベースにあって、楽しむことには何の問題もありません。誰かを巻き込んだり周囲に迷惑をかけることなく、ほどほどを心得てということでしょうか。

 

 富を制御することができずに、富に振り回され快楽を追い求めるだけになって人間の感覚機能が低下し、見境のない行動へ駆り立てられる恐れがあります。

 欲望のままに薬物に手を染めてしまえば、身体を制御するどころか心の思うままに従って身をほろぼす最悪の結果となるかも知れません。

 狩猟でない、興奮して殺気立った「狩り」は狂気の沙汰ではないかと指摘しているのでしょうか。肉食動物であっても必要以上に殺すことがあれば食物連鎖を乱すことになります。殺すことだけが目的の「狩り」は猛獣にも見下される行為かも知れません。

 

 自身が行動して状況が変わる(=断捨離・草取り・掃除・・)のならまだしも、ゴシップや他国での出来事や火星のことや宇宙の成り立ちに頭を悩ます必要があるでしょうか。専門家に任せておけばいいだけのことであって興味の対象から外してもいいかもしれません。どうにもならないことを面白がるのが「私=自我・アイデンティティ」の癖のようです。

 只管打坐・ヴィパッサナー瞑想・手動瞑想・マインドフルネスなどは、興味(好奇心)を持てる感覚的な刺激を意図的に断ち、雑事に関わらない時間と共にある修練です。興奮や欲望と縁がなければどうなるかを直に経験できる貴重な体験を味わうことが出来ます。体験した人だけが知りうる感覚を味わうのもいいかもしれません。

 

 <まとめ>

・身の丈を超えて五感の味わいを求めて、身体を疲弊させる必要があるのでしょうか。

・イベント(=事象)が先に起こっていて、次に思いが湧き起こるので思いを制御できない。

・どうでもいい事に思考を使って、思考を追いかけていては悩みは尽きない。

・「今ここ」でのありふれた生活の中に「青い鳥」がいるのでは。

・当たり前の事(=老・病・死)を杞憂してもしょうがない。

・問題は自作自演ではないのか。

・自力で解決できないことに首を突っ込まない。

・どうでもいいことを問題にしない。

・問題がない時(=修練)の後の心境を体験してみる。

 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−11 [老子]

 2020/7/23 NHKの「おはよう日本」で偶然に「Niksen(ニクセン)」という言葉を耳にしました。ワークライフバランスで世界一位のオランダで「ニクセン」が根づいているそうです。「ニクセン」とは「何もしない」で心をふらつかせたままにしておくことのようです。「何もしない」ことで精神安定ホルモンのセロトニンが分泌されるようです。

 あえて思考しないことによって結果を求めないでいる。「ニクセン」を実践するには、周りの目を気にせずに自分で自分の時間をコントロールを持つ必要があるそうです。干渉されない干渉しない環境が必要です。ニクセンが日々の生活に根づくには、自分のが干渉されたくないのですからまずは他人の事には干渉しないということが必要かも知れません。日本人は何かと「ちょっかい」を出さないと気がすまない人が多いように感じられます。家庭内であって個人は個人の空間と時間を尊重してあげることが重要となるのではないでしょうか。

 動画Web ←ニクセン

 声を出したり文字を入力したり行住坐臥したり・・・いったいどんな意味があって価値があるかなど、その時代や社会が決めていいのでしょうか。我々は個々で生きていて個々で感受して・・・どこまで行っても個々での感覚でしか分かりようがありません。誰がどんな心境かなど気にする必要はまったくありません、気にしても他の心境が自分にそのまま実現することはありません。

 マズローの欲求五段説では、「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」を満たしていくことに意味や価値を見出しているようです。

 老子の生きた時代の一般市民は「安全の欲求」が満たされているかどうかも怪しい時代です。老子の説く内容は一般市民には程遠いものであったように推測されます。当時の人で「ニクセン=何もしない」ということが理解できるの人は、ほんのひと握りの人だけかもしれません。

 幸いなことに現代人は「何もしない」ということを実践しその恩恵にあずかれる環境にあるようです。「ニクセン」は誰もがすでに「それ」であることに気づく(=見抜く)1つの方法だと思われます。

 脳は頭の理解があって物事を進めようとします。頭で分からなくていい。実践することで身体が脳にダイレクトに伝えてくれます。頭で分かってから実践しようとするのが「私=自我・アイデンティティ」の最も悪い癖です。アッこれは「妄想」だなとただ気づいて相手にしない、「妄想」を相手にしなければ自然に消えていくようです。

 宗教なんてどうでもいい。教えなんてどうでもいい。宗教を信じ続けているということは、宗教では何ら根本解決できていないという証拠です。一体いつになったら宗教という古びたものがあったと懐古する時代がくるのでしょうか。宗教は、ただの対処療法であって根本治癒はできていないかもしれません。

 偉大な教えもどうでもよくて、実践して自身の身体の変化が一番の福音かもしれません。身体が理解すれば教えが分かる、教えが分かって身体が理解することはないようです。順番が逆であって、身体が最初で教えは確認の為にあるのではないでしょうか。教えで得ることもなくただの確認。結局は自身の身体が証明するしかないということのようです。

 いますぐにでも、ニクセンで「何もしない」で寛いでみる。見返りなんか何も期待しない。我々は、最初から自由であることが実感できればそれだけでいいのかもしれません。

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老子 第十一章 「無用の用」

三十輻共一轂、当其無有車之用。埏埴以為器、当其無有器之用。鑿戸牅以為室。当其無有室之用、故有之以為利、無之以為用。

 

三十本もの棒は車輪の中心部に繋がっている。
其の無(=車輪の内側の空間)があることによって、車輪が作られ車輪として使われる。
器として出来上がるには粘土をこねる。
器の中が無(=中空)であることによって、器としての役割が果たせる。
戸や窓という枠を空けて家として使われる。
家は無(=空間)によって、家として用をなしている。

なにかが有って利用できるということは、それぞれに無(=空間)があることによってこそ利用できる何かがある。

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 存在(=有)と非存在(=無)は、二元対立のようで実は表裏一体かもしれません。無限の空間(=無)の中に、存在としてある。空間があることによって存在が自由に動いたり働いたりできます。

 我々が自由奔放に思考できるのもその思考が消えてなくなり無となり、いつもニュートラルだからかもしれません。目から入ってきた情報は光がスクリーンに映し出されだけでスクリーンに焼き付くこと無く速やかに点滅しているだけです。耳から入ってくる音の振動も消滅して無(=静寂)となります。鼻から感じられる匂いも舌で感じる味も皮膚からの感覚も・・・知らぬ間に完璧に消え去って無となっています。五感は常にニュートラル(=無)。

 我々は空っぽ(=ニュートラル・無)だからこそ、何でも自由にあるがままを感受できているのかもしれません。

 抵抗・圧力・刺激・興奮・変化・反応・感覚・葛藤・混乱・驚き・感動・・・これらによって生きている実感が感じられます。生きている感覚をじっくり味わいたいものです。それも宇宙開闢以来、我々が感じる些細な一つ一つが宇宙で1回限りの体験です。体験から逃げずに味わう。

 何故こうなっているのかなんて誰一人として分からないし、分かったとしても自分一人の力でガラリと変えることはできません。接する自分自身が気づくしか ありません。生きている理由や今やっていることがどうして起こっているかなど誰の責任でも義務でもないのではないでしょうか。

 勝手にそうなっているだけで、誰かが何かをしているわけではないようです。誰一人として他人と変わることはできません。自身の人生は自身がしっかりと味わい尽すほかありません。

 

 人生を旅だとすれば、旅は目的地に到着することではなく一歩一歩が旅そのもの。だとすれば人生そのものが旅であって目的地(=夢や達成)に到着しなくても、すでに達成していると言っていいのではないでしょうか。瞬間瞬間、一日一日が旅であって旅が達成されている。

 私たちは、人生に意味や価値(=目的地)を見出そうと必死ですが、そんな必要もなくすでに目的(=旅)は生きている。生きていることによってすでに成就していると考えてもいいのではないでしょうか。自らに対しても何らかの意味や価値を強制することもなく、自らの願望を満たす必要もない。ただあるがままそのままで既に「それ」です。

 全ては「有る」ようで綺麗サッパリと無くなっています。その瞬間に見えたものはただの記憶であって、現実(=今ここ)だけが事実です。記憶は現実ではなく事実でも何でも無い「ただの記憶」であってこの世に実在するものではありません。記憶は人生のスパイス程度であって主食としなくてもいいかもしれません。

 

 老子は、誰もが実在だけに目を奪われて、背景に潜んでいる空虚に気づていなと言っているのでしょうか。万人に共通の「空っぽ=役に立っていないこと」が本質であることを見抜いてほしいのでしょうか。

 

輻:車輪の中心部(=ハブ)から輪に向かって放射状に出ている棒

轂:車輪の中心部(=ハブ)

埴:粘土

埏:土をこねる

鑿:突き通す、貫く

戸牖:戸や窓

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−10−3 [老子]

老子 第十章  

載営魄抱一、能無離乎、専気致柔、能嬰児乎。玄覧滌除、能無疵乎。愛民治国、能無為乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無知乎。生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳。 

 

①身体は働きを止めず(=営)魂(=心・精神)を抱きながら(=一緒に)生きている。身体と魂(=心・精神)は一体ですが、身体と魂が離れずに(=一致するように)できますか?

②自らの気(=思い)を集中(=統一)しながらも身体を柔軟にし、赤子のように純真無垢でいれますか?

③妄想を取り去って、三毒にまみえない聖者のような状態でいれますか?

④人民を愛し国を治めているのに、無為のままでいられるでしょうか?

君主は万物を命名して主導しているのに、雌のように現実を受け入れられるだろうか?

あらゆることを理解していながら、何も知らないように振る舞うことができるだろうか?

之(=万物)を生み(=命名)、之(=万物)を育てながら、その万物を自分の所有物としない、何かを成し遂げても奢らず、長となっても統治していない。これを「玄徳」という。無から生まれた原初(=玄)なる徳という。

 

載:運ぶ。

営魄:たましい。営々と活動している魂。

乎:疑問

玄覧:心がみる様々な物事。妄想。
滌除:洗って除きさる。

疵:あやまち。欠点。病気。
開闔:開閉。開ききる。
四達:四通八達、聡明叡智で四方の事情に精通。

宰 :司る。治める。

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③妄想を取り去って、三毒にまみえない聖者のような状態でいれますか?

 手動瞑想で手を動かしていること自体に意味や価値はあるでしょうか。何のために手の動きに注目しなければならないのでしょうか。それは「心」が散漫であり、過去や未来に彷徨って「今ここ」をないがしろにしているからに他なりません。

 ただただ「今ここ」が永遠に続いているだけです。ぱらぱら漫画の一枚が一瞬ごとにめくられ続けているだけのことかもしれません。一枚が立ち現れ直ぐに消え去ってしまっている。

 「今ここ」が事実(=真実)であることを否定することはできません。「今ここ」が間違いであるとすれば存在全てが間違いということになります。間違いの世界であれば真実はいつでもどこにもないということになります。探し出そうとすることは無意味なことです。

 「今ここ」が事実(=真実)ですから、「今ここ」に居続けなければ何を探し求めても決して出会うことはありません。「今ここ」を離れている「心」が行っていることは「妄想」と言えるかも知れません。この現実離れした「妄想」で、何かを掴んだり何者かになることは妄想の自己ではないでしょうか。

 「本来の自己」は「今ここ」を離れたどこかに鎮座しているのでしょうか。ヒマラヤのある場所に「本来の自己」があるのなら限られた人だけのものということになります。それでは「本来の自己」とは言えません。

 頭の中のお遊び(=ゲーム)を止めて、「今ここ」という事実(=真実)である身体とともに在り続けるしかありません。

 「今ここ」を否定することは、「本来の自己」を否定することになります。「心」は有りもしない過去やまだ来ぬ未知なる未来で遊びたい(=妄想)性質なのでしょうか。ただこの妄想が妄想だと気づくしかないようです。妄想している本人が妄想だと気づくには手動瞑想で強烈に「今ここ」にとどまり続ける他ないようです。

 

 次に記憶のお話です。誰もが経験があると思われる事例ですが、友人でも同僚でも電車でいつも見かける人の記憶があったとします。今日、その人と出会ったときに手に包帯を巻いていたとします。私たちは、親しい人なら「どうかしたの切ったの?」と直接言葉をかけますがそれほど気に掛けなければ何かしら心の中で呟くかも知れません。

 ここで当たり前の事を疑ってみてください。「どうしたの?」と何の疑問もないということは、あたかも自身の記憶が正しくて見られている人は記憶と異なる間違いとして処理しています。もし、パソコンに日々データを入力しているのなら今日のデータは今日のデータであり昨日のデータと比較するのなら今日のデータが優先されるはずです。今日(=基準となるべき)は昨日(=すでに昨日は消滅している)よりもプラス・マイナス◯◯だということです。しかし、我々の頭は記憶を拠り所としていて昨日と比べて◯◯だとしています。基準が自らの記憶であって、今見ている「あるがまま」を基準としていないのではないでしょうか。知らぬ間に当然のように、見る主体(=自分自身の記憶)が基準で見られる客体(=他人)は記憶と比べられる対象としています。

 

 現実世界はとどまること無く変化し続けています。(=無常・恒常不変ではない)記憶には、長期・短期・宣言的記憶(陳述記憶・知識)・非宣言的記憶(非陳述記憶・習得能力)があるようです。今の「あるがまま」の現実世界以前のものであって、いまだ更新されていないあやふやな脳内記録(=比較的長期の記憶)が自分を形作っているようです。長年積み重ねてきた「私」という実在が「私=自我・アイデンティティ」としての立ち位置です。

 あなたは何者と問われれば◯◯人で◯◯市にある◯◯家で生まれ・・・。まさに「私=自我・アイデンティティ」は自己証明そのものとして生きています。それゆえ記憶・記録が自分であって自分が主体ですから記憶・記録そのものが自分自身だとしている。

 

 記憶はあやふやであり「今ここ」での事実(=現実)ではなく頭の中の海馬にあるただの化学物質のようなものとシナプスかもしれません。頼るべき基準ではなく、目の前にある事実(=現実)を実感するにはかえって邪魔となるものかもしれません。記録があれば記憶に頼らず、目の前で起こっている現実とともに生きたほうがいいかもしれません。「今ここ」にあれば、妄想という束縛から段々と離れることができ自由になっていくかもしれません。

 「記憶」と比べるのは脳の癖であって、過去に引き戻され現在を見失うことになっていないか見抜いてみる。

 過去の所持金を思い出しても現在の所持金が増えることはありません。過去は過去であってもうすっかり消え去っていると諦める。

苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり」

 

 

<まとめ>

・身体に「心」を従わせ強烈に「今ここ」に在り続けるように「心」を調教していく。

「今ここ」の「あるがまま」が事実(=現実)であって、記憶はあやふやなものでしかない。

・知らず知らずのうちに「記憶」という過去に引き戻されてはいないかと疑ってみる。

 

 

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老子ー10−2 [老子]

<自問>

・生まれたということは寿命が尽きるまで生かされるのか。

・生かされる(=生命維持)とはエネルギーを補給し続けなければならないのか。

・生は身体を維持することなのか、脳を維持することなのか。

・脳を生かすために身体を使うのか、身体を生かすために脳が使われるのか。

・考えるために生きているのか、生きているから考えられるのか。

・脳があって身体があるのか、身体があって脳があるのか。

脳が身体を生かしているのか、身体があって脳が生かされているのか

・健康に動けるために脳を使うのか、脳を使うために健康を維持しているのか。

・脳が食べさせてくれるのか、身体が脳にエネルギーを与えているのか。

・脳が食べ物を消化して体全体に栄養を行き渡らせているのか。

・生きるために食べているのか、食べているから生きているのか

・身体が飢えや渇きを感じるのか、脳が飢えや渇きを感じるのか。

・脳が身体に休息を与えるのか、身体が脳に休息を与えるのか。

脳が主で身体が従なのか、身体が主で脳が従なのか。

・身体の欲望を叶えるのが脳の機能(=仕事)なのか

・ゴール(=達成)とかホームにいるということは、為すべきことがなく寛いでいることなのか。

・ゴールにいて脳が寛いでいるのが最高の状態なのか。

・脳は必要な時に必要な働きをして、それ以外は何もしないのがいいのか。

・脳がどうでもいいことに感心を示し働き続けるのが最高の状態なのか。

 

 脳を過大評価して、脳で全てを解決できると思い込んでいることに疑問を呈してもいいかもしれません。脳は腸から分化した臓器でしかなく他の臓器を統制しているわけではないのでは。情報の収集と効率の良い動作の指示命令を司っているだけの臓器。身体全体のために働いている臓器の一つでしかない。ちゃんと身体に従うように躾けないと、勘違いして主人面してしまう。

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老子 第十章  

載営魄抱一、能無離乎、専気致柔、能嬰児乎。玄覧滌除、能無疵乎。愛民治国、能無為乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無知乎。生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳。 

 

①身体は働きを止めず(=営)魂(=心・精神)を抱きながら(=一緒に)生きている。身体と魂(=心・精神)は一体ですが、身体と魂が離れずに(=一致するように)できますか?

②自らの気(=思い)を集中(=統一)しながらも身体を柔軟にし、赤子のように純真無垢でいれますか?

③妄想を取り去って、三毒にまみえない聖者のような状態でいれますか?

④人民を愛し国を治めているのに、無為のままでいられるでしょうか?

君主は万物を命名して主導しているのに、雌のように現実を受け入れられるだろうか?

あらゆることを理解していながら、何も知らないように振る舞うことができるだろうか?

之(=万物)を生み(=命名)、之(=万物)を育てながら、その万物を自分の所有物としない、何かを成し遂げても奢らず、長となっても統治していない。これを「玄徳」という。無から生まれた原初(=玄)なる徳という。

 

載:運ぶ。

営魄:たましい。営々と活動している魂。

乎:疑問

玄覧:心がみる様々な物事。妄想。
滌除:洗って除きさる。

疵:あやまち。欠点。病気。
開闔:開閉。開ききる。
四達:四通八達、聡明叡智で四方の事情に精通。

宰 :司る。治める。

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②自らの気(=思い)を集中(=統一)しながらも身体を柔軟にし、赤子のように純真無垢でいれますか?

 

 心身とは精神と肉体と言われていますが、一般的には精神が主で肉体は従であるとしているようです。私たちがはたと現実に気づく時に、思考(=思い)があります。思考(=思い)が物事の最後にあると同時に思考(=思い)がスタート地点になっています。どういうことかというと、気づいている時は気(=気の一つとして気配を察する力)は肉体よりも思考にあります。剣道に遠山の目付というものがあるように、集中する部分を特定すると他がおろそかになります。思考しているということは思考部分だけに集中(=クローズアップ)してしまい他の部分(=肉体)がおろそかになります。

 

 精神(=心)が主とする癖がついているので、精神(=心)によって成し遂げるようと精神を働かせるようになります。あまりに精神にたよりすぎ、精神で肉体を酷使して疲弊しているのが現実ではないでしょうか。

 精神に使われて苦しんでいるというのがいつの世の人間は変わらないようです。極端な例が苦行といわれるように死をかけてまで肉体をいじめ抜いて何かを得ようとする行為です。肉体が先に存在していて、次に精神があるということを忘れているようです。

 我々は細胞⇒組織⇒器官⇒器官系⇒個体と進化してきています。我々の根源はただの細胞であって、細胞の基本構造はエネルギー(=栄養)を取り入れカスを排出することです。個体となっても入り口(=口)と腸と排泄まで繋がるただの管(=腸)から、全ての臓器が分化して作られているようです。腸は第二の脳といわれていますが、脳は腸から分化した臓器と認識したほうがいいかもしれません。

 ウィルスの攻撃を受けて脳が指示命令をするわけではなく、腸でつくられている免疫細胞がメッセージ物質の交換によってウィルスと闘っていようです。身体で起こっていることに脳が直接指示することがどのくらいあるのでしょうか。五感からの感受と思考という部分を担っているというだけなのに・・・。あまりにも脳偏重であるから肉体がおろそかにされています。脳を単純なシステムとして理解すれば、いくつかのセンサー(=五感)から入力される情報を処理してどのように身体を動かせばいいのかの指示命令を与える臓器といえるのではないでしょうか。

 脳は傷や病気を治したりはせずに、病院に行って薬をもらうか寝ているかの判断をする程度の代物であって過大に持ち上げすぎているかもしれません。

 

 お釈迦様も精神(=心)に従って「刀折れ矢尽きる」ほどの苦行をしたようです。精神(=心)が肉体の極限まで追い詰めても肉体は何も掴めず安楽はなかった。何も得ることもできず何者にもなれないということにようやく気づいたかもしれません。精神の限界が訪れ万策が尽きました。ようやく身体が主で精神が従である自然な有り様に委ねることになりました。自然に身を任せ何もしない(=妄想しない・精神を働かせない)ということに落ち着いた。

 精神(=心)が妄想を作ることで悩まされていたのであって、実際に生き生きと生きているのは肉体だと気づく。精神で精神を治せるのなら誰も悩んだり苦労する必要はないのですが。精神は物質のうよに扱うことができないので思うようにはいかないようです。人間は動物を自分たちより劣っていると見なしている向きがあります。しかし、動物から見ると人間は精神に頼りすぎていて悩ましい生き物として映っているかもしれません。

 

 精神に肉体がつき従うのではなく、肉体に精神がつき従うようになれば問題はないのですが・・・。肉体はあるがままの現実に対峙しています。思考は道具ですから使うべき時に使えばいいだけのことですが、面白がって道具(=思考)を振り回していると知らぬ間に自身や他人を傷つけるているかもしれません。特に現実からかけ離れた妄想に一日中浸っていると現実が何だかよく分からずに生きることになり、地に足がつかない生き方になる恐れがあります。

 肉体の欲求(=満たされれば消滅)は些細なことなのですが、精神の欲望(=限界がない)に振り回される肉体はたまったものではありません。

 肉体は腹八分目でいいのですが、精神は我儘放題に暴飲暴食を繰り返し取り返しのつかないことになりかねません。

 あるがままにつきしたがっている肉体のままに、精神もあるがままの赤子のように純粋無垢でいられますかと問うています。考えることが第一として生きてきたのですから、純粋無垢ほど難しいことはありません。それを老子や道教の方々が君主に問うたかもしれません。問いは答えですから君主にそう(=純粋無垢)ありなさいということのようです。

 

 ヴィパッサナー瞑想(=気づきの瞑想)では、身体の行いに心を合わせていくことが要点です。心を成長させるのではなく身体と乖離しているのが心だと気づく。心が主役だとしているのが歪み。心を身体につき従うように訓練する。身体につき従うようになれば、後は身体が静かであれば心も身体に従うので静寂となります。身体の動作を観察し、心を動作に合わせて一致せせていく。身体につき従うようになれば、心は一人遊び(=妄想)から離れていきます。身体と思いが一体となっていくようになります。身体があっての心だということです。

 見えているまま・聞こえているままでいるのが身体の状況であれば、心もその状態でつき従います。自身を悩ます妄想がだんだんと減っていきます。見えているまま・聞こえているままに善悪も執着もありません。身体が欲しておらずただ「あるがまま」であれば、つき従う心も「あるがまま=純真無垢」でありそこに二元対立(=心が両端に大きく揺さぶられ不安・不満・葛藤の原因)があるのでしょうか。

 ただ坐っている時や何かをただ眺めている時は、何も掴まず何も得ず何者にもなっていません。心も空っぽであり心に障りはありません。

 手動瞑想も身体に心が従うようにする良い訓練です。(参考:手動瞑想

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー10−1 [老子]

 私たちは母親の胎内で進化の過程を経験して生まれてくるようです。生まれてからは人類の進化の過程を経験しています。赤子の時は「あるがまま」を「あるがまま」に感受し、成長し二足歩行で歩けるようになります。次に言語を憶えいつの間にか自我が芽生え、自我が主体であると思い込んで生きています。

 私たちの本質は、世界を認識できている何か(=意識・それ・本来の自己)であり気づきそのものです。身体というものに閉じ込められている何か(=意識・それ・本来の自己)であり身体と共に気づきがあります。赤子の時は、身体と気づきが一致していないようです。足に触れて身体の感覚と何か(=意識・それ・本来の自己)が徐々に繋がっていくようです。身体を認識できる物質世界を五感で感受しています。この物質世界の中で生きているという感覚をだんだんと味わうようになっていきます。

 見ようとして見ているわけでもなく、聞こうとして聞こえているわけでもなく、息を吸おうとして吸っているわけでもなく吐こうとして吐いているわけでもありません。

 生命体は身体というものを維持するようにプログラミングされていて、欲求の感覚が起これば感情を伴って自然と喉を震わせて声を出すようになっているかもしれません。赤子の時には社会的な重圧や思考から来る悩みなどとは無縁です。とにかく身体の不自由さと身体の不快を解消したいだけかもしれません。

 成長するにしたがい二足歩行ができるようになり行動範囲も広がります。言葉も憶え、不快の解消から欲求を満たそうと自己主張するようになります。

 

 日々生きていながら「本来の自己」をすっかり見失っているので、「私は誰なんだろう」と自問しながら生きているようです。他人が教え示したとしても、見抜くのは自分自身をおいて他にありません。もし、「本来の自己」が変化するものであれば探すことはできません。また、本当に「本来の自己」かどうかも分かりません。変化するものは本物ではない。「無」は生み出しますが、変化のしようがあるでしょうか。

 それ(=本来の自己)が自己以外のどこかにあったり、掴んだり得たり「本来の自己」へと成るようなものでしょうか。掴もうとか得ようとかしてるのは実態のない表象である「私=自我・アイデンティティ」でありゲームをしているということを見抜かなければなりません。つかもうとしている限り終わりのないゲームが続きます。

<自問>

・我々は自身の身体の欲求のために心を使ってはいないだろうか。

*身体の欲求:苦しみたくない、快適でいたい、できれば安楽で満たされていたい、極端になれば快感に浸っていたい(薬物に依存する人もいます)

・心が身体を操っているのか、身体が主人で心は下僕なのだろうか。

・身体の渇きが収まらない限り、心は働き続けるのだろうか。「心猿意馬」

 

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老子 第十章  

載営魄抱一、能無離乎、専気致柔、能嬰児乎。玄覧滌除、能無疵乎。愛民治国、能無為乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無知乎。生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳。 

 

①身体は働きを止めず(=営)魂(=心・精神)を抱きながら(=一緒に)生きている。身体と魂(=心・精神)は一体ですが、身体と魂が離れずに(=一致するように)できますか?

②自らの気(=思い)を集中(=統一)しながらも身体を柔軟にし、赤子のように純真無垢でいれますか?

③妄想を取り去って、三毒にまみえない聖者のような状態でいれますか?

④人民を愛し国を治めているのに、無為のままでいられるでしょうか?

君主は万物を命名して主導しているのに、雌のように現実を受け入れられるだろうか?

あらゆることを理解していながら、何も知らないように振る舞うことができるだろうか?

之(=万物)を生み(=命名)、之(=万物)を育てながら、その万物を自分の所有物としない、何かを成し遂げても奢らず、長となっても統治していない。これを「玄徳」という。無から生まれた原初(=玄)なる徳という。

 

載:運ぶ。

営魄:たましい。営々と活動している魂。

乎:疑問

玄覧:心がみる様々な物事。妄想。
滌除:洗って除きさる。

疵:あやまち。欠点。病気。
開闔:開閉。開ききる。
四達:四通八達、聡明叡智で四方の事情に精通。

宰 :司る。治める。

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①身体は働きを止めず(=営)魂(=心・精神)を抱きながら(=一緒に)生きている。身体と魂(=心・精神)は一体ですが、身体と魂が離れずに(=一致するように)できますか?

 

私たちは何のために瞑想をするのでしょうか。

 身体が存在していて、心は付き添っているという根本に立ち返るということではないでしょうか。ヨガ・武道・スポーツであれ身体が主であり身体の動きに心を同調させていきます。身体が欲求に従わないように制御していく。心が身体につき従うように鍛錬します。心が身体に従順となる境地にいたれば、あとは身体を静寂に保てば心も静寂になるという原理のようです。

 「健全な精神は、健全な肉体に宿る」という言葉があります。(ローマの詩人ユベナリス)〔原詩の中での意味は「人は神に、健全な身体に宿った健全な精神を与えられるように祈るべきだ」である〕(参照:大辞林)

 当時は健全な肉体があったとしても、「心猿意馬」という言葉あるように精神が肉体に従わず暴力や犯罪が横行していたかもしれません。

 

 現在でも、身体の欲求のために心が付き従って身体を満足させようと一生懸命です。精神世界では心の煩悩をどうにかしようと躍起になっていますが、心が問題ではなく身体の下僕として働く仕組みの「私=自我・アイデンティティ」ある。身体が主人ですので、主人たる身体を観察して身体を統制することから始めなければなりません。勝手に湧き出る思考は身体とは無関係なので取り合わない。ただ、身体が何を感受しているかを観察する。現実の身体が欲しない環境に馴れ柔軟にする。

 身体が感受していることだけが事実のようです。事実に思いを一致しなければなりません。見えているだけ聞こえているだけそのままが事実、心は事実のままでいて何かが起こった時に使えばそれでいい。

 身体は何もしていなければ何も思考する必要はないのはないでしょうか。身体に思考が従う、身体が平安であれば思考も平安のはずなのですが・・・。

 身体は今ここにあるのですが、思考は天国を作ったり地獄を作ったり宇宙に行ったり諸外国に行ったりと落ち着きがありません。身体が静かなのに心が彷徨っていて、静寂がもたらされるでしょうか。身体を沈黙(=静寂)させ自身も沈黙する。

 身体に心を従わせる、食べている時は食べるだけ。掃除とか草取りとかの作努をやることで身体が統制され動いた結果が見えるので非常にいいと思われます。心が身体に従っていて無心でできている。掃除をしている時は掃除をしているだけ。走っている時は走っているだけ。走っている時は何を考えていますかと聞く人がいますが、頭を空っぽにして走ることだけにしていればランナーズハイは向こうから訪れるはずですが・・・・。

 ※掃除や草取りなどの雑事を嫌がる身体であれば、身体が瞑想に適していないと判断されるかもしれません。どんな些細なことでも身体が動くことはそれなりに身体の制御が出来ている証拠のようです。

 

<参考>

瞑想:心を静めて無心になること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことである。

マインドフルネス:スピリチャル的なものや宗教色を排除して、雑多な考えを減らしていく。副交感神経が優位になる。普段の脳内では「デフォルトモードネットワーク(DMN)」と呼ばれる活動がおこなわれていますが、これを鎮める。「オキシトシン」という幸せを感じられるホルモンが分泌されます。

 静かな場所でリラックスして座り、目をつぶって注意を呼吸に向けます。そうすると何かしら考えが浮かんできますから、それに気づいてください。気づいて、でも注意を向けないようにする。呼吸に注意を向けて、考えが出てきたらそれに気付くだけ気づいて、また戻す。そうすると結果的に何も考えなくなる。

(参照:医学博士が語る「瞑想」

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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老子−9 [老子]

老子 第九章

持而盈之、不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉満堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。功遂身退、天之道載。 

 

 器を満したまま両手で持ち続けよう、などということは止めたほうがいい。剣の先端を尖らせれば尖らせるほど長く保つことはできません。金銀財宝を蓄えれば蓄えるほど、守り続けることは困難になる。名声に溺れてしまえば、かえって不名誉を残すことになる。君主としてやるべきことができたならば、直ぐにでも身を引いてしまうのが真の君主であり「道」に従っている。

 

 いつ失われるかも知れない権力に執着し続けるなら、最初から権力を手中にすることなどやめたほうが良い。力によって政権を維持しようとしても、力を誇示すればするほど危うい政権運営になり長続きはしません。金銀財宝を貯えても、却って人目につくようになり守り続けることはできません。君主が自らの地位・権力・財力に溺れるのなら、後世に自らの恥をさらすようなものです。君主としてやるべきことをやったのなら潔く身を退くのが真の君主として「道」を全うしたと言えます。

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  自身も思うようにならないのですが、権力によって他人を自在に動かすことができるとうのは自身がスーパーマンになったような気分になるのでしょうか。だれもが権力に連綿とするようです。いつの時代でもどこの国でも権力者は同じ行動をとるようです。人間の本性を表現した「どこのカラスも黒さは変わらぬ」という諺を思い出しました。

 引き際を間違うと権力に溺れた人とされ、潔い人であれば賢い宰相であったと評価されるようです。君主の問題であって、一般人の我々が考えても始まらないことですが・・。


之:君主の地位や権力

盈:みちる。みたす。あふれる。

不如:良くはない、薦められない。

已:やむ。やめる。

揣:こころみる/はかる/おしはかる/推量

鋭:勢いがある・こと・武力

堂:神仏を祭ったり、人が多く集まったりする大きな建物

驕:おごる。おごりたかぶる。いばる。

遺:のこす。のこる。

咎:とが。罪。あやまち。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー8 [老子]

 知識は人間を自由にする。思考によって束縛から解き放たれる。

一度疑ってみるのもいいかもしれません。赤子を除いて誰もが「知りたい病」の無症状患者かも知れません。仏教(=仏+教え)、宗教(=宗+教え)・・教えとあるのは、固定観念のコレクションをすすめているだけのことかもしれません。

 自由になるというのは束縛から開放されこだわらない生き方ができること。本来、人間は何も学ぶ必要はなかった。苦も楽もあるのが自然の理であり何ら不都合なんてないという事実に気づく。

 

 数字の1は、宇宙のどこかに存在しているでしょうか。1というのが概念であり表象でありどうにでも定義できる自由なものなので、固定した1は存在しません。自由で無限であれば「無」であると同時に「有」として存在させることが自在にできるということにもなります。何を1にしてもいいということのようです。何でもないから何でもあり。無は有であり、有としてあるだけで本質は無。

 無限にあるということは、確定しているものなどないということ。確定したことがないということは捉えることはできないということ。それ(=1)をとらえようとすることは意味がない。

 「私」も数字の1と同じで単なる表象であり、固定されている「私」を発見することはできません。今まで数え切れない人間が生まれ消え去っていきました。無限に「私」があるというのは、真なる「私」と主張できる人はだれもいません。誰かが「私」こそ「私」と主張しても他の誰かも「私」と言い張ります。本当の「私」というべき「私」は存在しなかったし、これからも本当の「私」は存在しません。あらゆる世代のあらゆる人に「私」という表象が自由に使われています。1人の人生においても、時々刻々と刹那に変化している「私」であって、固定された「私」などどこにも存在していません。10年前の写真を見て「私」と言い張っても今その時の「私」にお目にかかることは不可能です。どこにも存在していません。

 

 「私=自我・アイデンティティ」は実体のないただの表象でしかなかった。悟りなんてないので悟ることなんてできない。悟る人(=私)なんてどこにもいません。悟る人がいるのであれば悟りは「悟る人(=私)」が手にすることのできる知識ということになります。

 精神的な探求の目的は、精神的な探求のために何もしなくていいということを確証するだけだった。

 本来自由であって、何もこだわる必要がないので、何にこだわってもいいということがハッキリします。一元であるからこそ、差別・区別があってもいいということがわかるかもしれません。様々な生き方や様々な主義主張が許される。

 自由であるからこそ色々な表現ができる。無限であるからこそ有限であってもいい。知らなくてもいいから、知っても問題ない。人生の設定を全部クリアしてしまえば、どんな設定もありということなのですが・・。

 

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老子 第八章

上善如水、水善利万物而不爭。処衆人所惡、故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、政善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。  

 

 最上の善は水のようである。水は万物に利をもたらし、しかも万物と争わない。水は誰もが嫌がるところに至る。それは「道」に近い働きである。落ち着いて住むには地が最善であり、心は広く寛大であるのが最善であり、仲間となってつきあう人は思いやりのある人が最善であり、信頼できる言葉が最善であり、政治は治まるのが最善であり、能率よく執行するのが最善であり、行動は時を違えないのが最善である。水のように争わないことによって、人に非難されることが無い。

 

 君主が人民に最高の恵みをもたらすためには、水のように接することである。水は分け隔てない。水(=聖者)は生きとし生けるものへの利となっている、水はぶつかり合って傷つけるというよりも、どんなところでどんな状況でも順応できる。それ自身(=水)は混ざり合い争うことがないので、君主の治世は人民と反目することがなくほどよく浸透する。人民に信頼され、人民の困りごとや争いを速やかに解決する。水のようにあることは「道」に近い働きです。

 君主は人民に安らぎの地を提供し、心は寛大なので人民は安心して生活できる。いつくしみの心があり、言葉は信頼される、政(まつりごと)は適切に統治され、事業は速やかに達成される。時を違えずに速やかに行動できる。君主は争いを起こすことがないので恨まれることもありません。

 

処:集まるところ。ありか。

與:くみする。力をあわせる。仲間になる。味方になる。あずかる。かかわる。

尤:とが。あやまち。欠点。とがめる。責める。非難する。

 

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老子ー7 [老子]

<自問>

我々人間は束縛されて不自由な生き物なのか。

何故人間だけが人生の意味や価値がなくてはならないのか。

沼地で餌を採っている水鳥に自由はあるのか。

水鳥は誰かや何かに拘束されているのか。

水鳥の一生に意味や価値はあるのか。(人間以外の命ある一切について検討してみる)

水鳥が意味や価値を求めて生きなければならないのか。

人間という動物だけが意味や価値を必要とされるのか。

牢獄に入っている人が終日に渡って手足を拘束されているのか。

物理的に拘束されている人はいるのか。

家にいても、牢獄にいるように感じていれば牢獄と同じか。

精神的に拘束されていれば自由ではないのか。

私たちは管理されストレスの中で生きているのか。

ストレスから物理的に抜け出せば精神的にも抜け出せるのか。

宗教というのは抜け穴・近道なのか。

教えや指導者に導かれなければストレスから抜けだせないのか。

遊びで動物を虐待するハンティングは許されるのか。

何かをすることが人生なのか。

何でもかんでも知ったり、思考で問題を解決することが人生なのか。

一番の贅沢は「何もしない」ことなのか。

誰もいない南国のリゾートで「何かをすること」よりただ寛ぐほうが贅沢なのか。

最高の幸せは何も囚われずにある。

自由を得るのか、自由でいることはできないのか。

夢(=目標)がないと人生はつまらないのか。

人間は「何もしなくても」幸せなのか。

犬がのべつ膜なく吠えてばかりいては嫌がられるのに、人間は話し続けても嫌われないのか。

人間のお喋りを一日中聞かされる動物は人間を不思議な動物だと認識しているのか。

頭の中でお喋りし続けているのは人間だけなのだろうか。

人間は暇と金があると旅行したりゲームに興じているだけなのに、人生の価値や意味などあるのだろうか。

ゲームがなくなることなどあるだろうか。

暇つぶしのために生きているのではないだろうか。

人生もゲームなのだろうか。

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第七章

天長地久、天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私耶故能成其私。 

 

 天(=君主)も長く地(=人民)も久しく続いてきたしこれからも永遠に続く。長くかつ久しいというのは、天(=君主)も地(=人民)も自らが自らの生を決めることができないからです。生まれによって決められているので、長きにわたって続くことができているのです。 

 政治を行う君主たるものは、自らを後(=前面にせず)にすることで先頭に立っていることになり、自分のことには拘わらないことで自身の存在が機能する。私心によって治世することがなければ、自ずから治世が為される。

 

 当時の人が見てきた世界では、君主も人民も世代交代しながら生きながらえている。君主と人民という構図が壊れない限りこの関係は続いていく。

 当時は君主を庶民の投票によって選ぶ民主主義など思いもつかないことだった。これから数千年後の社会制度など誰にも想像できません。統治する君主がいて、君主に従って生きざるをえない人民という関係は永遠に続くと考えていたかも知れません。

 君主も人民も自らが勝手に君主や人民を選べるわけではなく、生まれによって君主は君主として人民は人民として長きに渡って続いくことができている。

 真なる君主(=聖人)であれば、現在の身分を気にすることがなくても君主として認められている。身分を気にしなくても、自身の生まれによって存在が確立されている。私心をもって統治することをしなくても、自身の思いは人民が聞き入れることになっている。

 

長:長い、永遠。自らが長短を決めて長くできることなのか。

久:古くからあり時間が長い。自からが決められず結果としての長さなのか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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老子ー6 [老子]

 春秋戦国時代は専制君主のやり放題、ある種狂気の時代だったかも知れません。知性も理性も二の次で権勢欲にまみえた専制君主が覇権争いを繰り返したいたのでしょうか。人民は虫けらのように扱われていたのかもしれません。

 日々惨状を目にしていた孔子や老子などは、人間らしい生き方を実現しようと模索していたかもしれません。日々の生活に追われ、学もなく識字できない人民に教えを説くことはできません。横暴な君主を諭し無意味な圧政を止めて、仁や天地自然の力によって統治して欲しいと願い行動を起こしたかもしれません。

 老子は、この世には君主の力では及びもつかない力がある。あらゆる事象は「無」から生み出され自然に統制されてる。専制君主よ、私心を捨て大自然の営みに従えば良いと説いているようです。

 「私=自我・アイデンティティ」がいくら徳を身につけようが、葛藤の世界のお話。深遠な「道Tao」によって統治すれば天下泰平になりますよという主張なのでしょうか。

 

 ただ生きていくことで精一杯の人民は「道Tao」を理解する能力は殆どなかったと想像されます。人民一人一人よりも、君主一人が「道Tao」を実践することで、全人民に多大な恩恵を与えることができると考えたかも知れません。今も昔も独裁政権下では、人民は統制されるばかりで自由のない生活を強いられているようです。

 

 歴史を振り返ると、一般庶民の自立性の目覚めは宗教よりも哲学によるところが大きいかもしれません。哲学が「平等で幸せな世界」を思索し主張してきたことによって、現在の社会システムが整ってきたかもしれません。

 

 一人のカリスマの教えを拡大し様々な肉付けをして、我が宗教の教えを受ければ救われる。押しつけがましい宗教に頭を悩ませている人もいるかと思います。

 固定された信念体系に人々を拘束させているのが宗教であると見抜いたニーチェ。ニーチェの「神は死んだ」という言葉は、キリスト教信仰の固定観念から脱すべきだという宣言かもしれません。ニーチェはキリスト教の世界観を否定し、世界には何も意味がなく虚構であると主張したようです。

 気づかれないように人々を自らの教えの奴隷としているのが既存宗教と疑ったのかもしれません。一度宗教を脇において、真正面から宗教を批判し自らの知性によって現実を生きて下さいと言いたかったのでしょうか。

 信奉する教えさえ身につければ考えなくてもいいですよ。この教えに従って生きれば救われます。ヴィトゲンシュタインは、信じることで自主性を奪うのも「宗教ゲーム」の一つと言うのでしょうか。

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老子 第六章

谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根、綿綿若存、用之不勤。 

 

 万物を生み出す天地(=物質世界)の谷は不死であり永遠のようだ。それは玄(=無)牝(=生殖能力)のようなものと言えます。玄牝には門があり、この門は天地を生み出す根源と言えます。玄牝は今ここに綿綿と生み続ける能力を働かせています。あらゆるものを生み出す玄牝の働きは永遠に尽きることがありません。

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 専制君主よ「無」は人知を超えているし、見ることも聞くこともできない。しかし、「無」を言葉でどうにか表現しなければなりません。表現できないことを表現するのですから、極端に言えば何とでも言えるということになります。

 人間の知見によれば、何かが生み出されることに神秘性があるようです。生み出される場所には水があって、洞窟とか地が裂けたような場所を想像してしまうのでしょうか。万物が生じる過程は、天(=空)から物質が降って生じるというより、地から湧き出してくる方が妥当のようです。天からの恵み(=雨)と地(=土地・母)の恵みによって地から湧いてくるほうが妥当性があるようです。

 二千数百年前の人が「谷+神」という言葉を選択したことに感心させられます。

 深遠であり壮大な様を「谷」として喩え、人知の及ばない無限の空間と無限の創造と変化を「神」としたのでしょうか。固い地が一見無力な水に削られ谷となり、谷の底には水が流れている。一番低きところにある水というのは、一番高きところ(=天・雲)にあったものです。

 老子(=他の道教者を含む)が実際にどのような谷を見たかなど想像もつきません。切り立った山の底を流れる川があって、大地を潤す水を湛えていたかもしれません・・。壮大な空虚に圧倒された空間を見たのかもしれません・・。

 人間には捉えることができない「無」をそこ(=谷)に感じたのでしょうか。敢えて形で表現すればということで「谷」という表現になったかもしれません。

 

 「道Tao=無」は無限で不滅であり、一切の影響をうけることはない。どんなに使おうが尽きることがなく無限のうようです。

 「道Tao」の根源は「無」であり、深遠で際限のない壮大さがある。あらゆるものを生み出す母性として喩えられます。我々も「道Tao=無」から創造され「道Tao=無為自然」として生き「道Tao=無」へと戻らざるを得ないかもしれません。

 

 私たちの思いつきはどこから生まれてくるのでしょうか。探し当てることができないのなら「無」ではないでしょうか。私たちが生きているという事実は宗教が教えてくれるのではなく、自身が今ここで感受できているということそのものが「生きている」というそのもの。誰かに教えるとか教わるということではないようです。私たちは宇宙が存在していて、過去があって未来もあるとしています。また、物質世界があって、この物質世界の中に自身がポツンと存在して物質世界を認識している存在であると思いこんでいます。

 

 コペルニクス的転回:三次元のパラパラ漫画のように、宇宙は瞬時に消えているし瞬時に顕れている。即座に死んでいて即座に生まれている。1歳の身体はどこにもありません。18歳のままの身体はどこにもありません。1ヶ月前のままの身体はどこにもありません。1日前のままの身体はどこにもありません。1秒前のままの身体はどこにもありません。今の身体の状態は、10分後の身体の状態のままの身体ではありません。恒常不変の身体であれば新陳代謝もなく思考もストップしていて冷凍保存の身体だということ。生きているようで死んでいて、死んでいるようで生きている。有るというようで無い、無いというようで有る。(参照:一切空不可得)

 

谷神:谷は地形の中での女性の比喩であり万物を生み出すことができる。天地が生まれる根源。「神」という語で不滅の永遠性と自律的な働きを表現している。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

玄牝:玄(=無)からあらゆるものを生み出す、生殖能力の源として牝牛=繁殖力。

綿綿:絶えることなく続く

勤:心力をつくしてはたらく。せいを出す。いそしむ。

 

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老子ー5 [老子]

 ドイツの哲学者ヴィトゲンシュタインは、言葉はどのように意味を獲得していくかに注目しました。言葉が現実の真偽によって定義されている。現実を表現している言葉なのか、それとも現実とは無関係な言葉なのかによって判断されるようです。

 世界を「あるがまま」に記述するために言語があるという立場から、「言語ゲーム」と呼ばれる理論を導き出した。言語ゲームは、ルールに従った人々のふるまいの一致と、ヴィトゲンシュタインは定義しています。

 

 自身の置かれている立場での概念によって言葉を理解している。現在使われている「クール」「ホット」という意味は数十年前の意味とは異なって使われている。二千数百年前に普通に使われていた言葉でも今と同じとは限らない。二千数百年前の文化や庶民の生活に使われていた「木」から受けていた感覚。「木」を見て伝えようとした感覚をそのまま二千数百年後の異国の人が受け取る感覚が同じであることはありえません。

 現実に雨が降っているとすると、それが事実と呼ばれ、「雨が降っている」という文が命題となります。「雨」「降る」とうのが要素です。これらの要素が名と呼ばれます。「雨が泳ぎますか」と聞かれても答えようがありません。

 哲学の問題のいくつかは難題ではなく、言葉の使用規則を誤っているので意味をなしていない

 現実との対応関係が不明で、真偽の判断ができなければ意味をもたない(ナンセンスな)命題ということになります。伝統的な哲学の問題(たとえば、美とは何か)はまさにこのタイプの問であって答えられないということになります。

 「知りたい」「分かりたい」「成りたい」「悟りたい」「解決したい」「意味を知りたい」「本当の幸福」「人生の価値」「楽しく生きたい」すべてが「言語ゲーム」かもしれない。

 理屈をこねて笑えない一生を過ごす人もいれば、理屈なしで笑って生きている人もいる。さて、我々はどう生きているのか。

 「人間は笑うから幸せなのだ、幸せだから笑うのではない」ウィリアム・ジェイムス

 

 アルトゥル・ショーペンハウアーは「生きる意味」を与える(幸せにする)要素として挙げたのは、

1.あなたはどんな人間か

2.何をもっているのか

3.他人はあなたをどう見ているか

「あなたはどんな人間か」が最重要ですが、多くの人は残りの二つに関心を向け、手遅れになってから間違いに気づくと言っています。

  「本来の自分=どんな人間か・私は誰か」と出会う(=腑に落ちる)ことが道・禅・・・。すでに本来の自分で生きているのですが身近すぎて見抜けずに外に探し回って右往左往しているだけのことですが・・・・。

 

 考えることで解決(=考える必要が消滅する)できるなら哲学は必要ない。そもそも対立概念を含み矛盾している言語を使っています。「言語ゲーム」をしていることで、いつまでもゲームから抜けでることができないかもしれません。暇つぶしにはもってこいのゲームであることに異論はないようです。思考しても分かり用のないゲームに興じていられます。何もしない(=妄想に手をつけない)ことでゲームはだんだんと終わりに近づくのですが・・。

 

 考えても知っても笑えるネタにはなりませんが、退屈さを紛らすには複雑で困難な問題の方が最適です。いつまでも考えて退屈しません。

 「研究者は究極の時間つぶしの名人(=達人)である」と誰かが言っていました。宇宙を覗く望遠鏡を見ていても一生飽きない、微生物を顕微鏡で見ていても一生飽きない、石や断層を見ていても一生飽きない、鉄道を一生見ていても飽きない、花を見ていても一生飽きない・・・。研究という大義名分で生活も保証されていれば何も文句はありません。天才と言われる人達が宇宙物理学へと進む理由は、多額の予算を使って天文設備(=研究者のおもちゃ)を作ったり誰にも邪魔されない環境で暮らしていける。何をしているのか凡人に詮索されない、成果なんて分かりはしないし出しても専門家だけにしか理解されない。好きなだけ暇をつぶせると羨む人も多いようです。

 超優秀な人がこまごまとした単純な仕事や指示命令される仕事や結果を求められる仕事を選ぶでしょうか。人里離れて好き勝手に暇をつぶせてなんだか神秘的でロマンを感じることをして生きている・・。

 70億の人生ゲームの一つの選択肢として選ぶ意味や価値のある生き方として選ばれるのも頷けます。

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老子 第五章
天地不仁、以萬物為芻狗、聖人不仁、以百姓芻狗。天地之間、其猶橐籥乎、虚而不屈、動而愈出、多言數窮、不如守中。

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 天地(=今の乱世の世・空間・世界)には仁(=いつくしみ)などない。万物は犬の形につくられた草のように打ち捨てられる。

 聖人も無私で空っぽであり、仁(=いつくしみ)によって統治すると考えてはいない。聖人にとって「臣下・人民」も目を掛けたり優劣を競わさて重用するものではない。気に掛けることなく無為にして自ずと生きているので草でできた犬(=取るに足りないもの)として各自の思うままに任せる。

 天地の間(=今の乱世・世界・世間)では、「道Tao」はふいごのようなものです。空虚が力を失うことはなく、「道Tao」によりふいごが動くことでますます勢いが増すことになります。「道Tao」は多く語ることはしない。寡黙でいることにこしたことはない。

 

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 孔子の思想ではに意志があり、は悪を罰するようです。老子の「道Tao」では玄(=無)から天地が作られていて、擬人化した神などはいないようです。儒教の最高の徳とされる仁は天にはないとあっさりと否定します。

 道教の儒教に対する敵対心があからさまに表現されているようです。道教の正当性をアピールしたものであって、道徳経といっても書かれている内容はさながら他の教えを排除するために書かれたものかもしれません。

 人間は捉えることのできない「天とか神」を勝手に自分たちに似せて神格化しているようです。東洋で青い目で金髪の神がいるでしょうか。西洋で黒い目で黒髪で肌が黄色の神がいるでしょうか。仏陀の像もその地域の人に似た仏陀の像になっているようです。神は概念なので神を見ることなどできません。人間だけが妄想によって「祈れる能力」を身につけたのかもしれません。神に似せた像は人間の想像力を働かせて創り出したのであり、身近で見えるものからイメージする他ないようです。

 「信じる=不明・理解できていない」であり、不明である限り信じるしかありません。自身で「冷暖自知」できれば信じる必要ありません。ヘレン・ケラーに「水」という言葉だけを教えても意味はないようです。「水」という言葉と本当の「水」が一致したときに全てが氷解し、存在のなんたるかを自知したのではないでしょうか。

 

 天地は「無」の働きである「」である。万物は名がつけられた有の結果としてある「」です。万物はただ名があるだけで特別なことはありません。天は万物な中からあるものを抜き出して特別な物とする働きではない。万物は区別・差別されておらず平等(=万物斉同)です。天地(=世間)には統制者など存在せず、無為によってなされています。

 万物に美醜や善悪があるとして区別・差別して個々の存在たらしめているのが人間です。万物は「無」から作られ、色は光の周波数によって決まり、形は輪郭によって在るとしている。我々のスクリーンに映し出されている単なる映像なのですが質感や質量を何故か感じているだけのことかもしれません。この世に生をうけ肉体という物体(=心身)に具わっている五感を通して認識できています。

 「私=自我・アイデンティティ」であれば個別の固定観念という私の心で分別しているようです。おおいなる心(=一心)として万物斉同として見えているのですが、刹那の瞬間で「私」の心で分別する癖がついてしまっているだけなのですが・・。

 万物は区別・差別のない一つであったのに、勝手に名前がつけられ分別(=固定観念によって判断され重みづけされる)の対象とされている。

 

 万物が何でも無いということは等価であって優劣はない。取り立ててどうのこうのする対象になりえない。等価であるということは貴重としたければ貴重とすることができるということです。水銀やウランは使い方によって有益にも害毒にもなります。元来万物は対象として認識されなければ、儀式が終われば捨てられる草で作った犬のようにただ見えている聞こえているだけの何か。

 聖人であれば仁(=いつくしみ)をもって治世する必要はない。無私であり臣下・人民を特別扱いすることなく無為に任せておける。心を配る必要もなく気にすることはないことのようです。

 天地(=生きてる世界)には人間の抱いているような慈しみなど通用しません。弱肉強食、自然淘汰、生存のために盗み破壊し殺戮を平気で行っている。人間も自然界の一部であって自然界から独立した生き物ではありません。

 荒れ狂う暴風雨から逃れることはできないし、天災は平等に被るしかない。万物に特別扱いはないし、これは不要で使い物にならないというものもない。天空から俯瞰してみれば比較するような対象ではない。万物は仁という徳で区別・差別されるようなものではありません。

 

 天地(=この世)は統制者など存在せず、無為に動いてるだけのこと。波動・振動というエネルギーで動いてる。いかに多く語っても混乱や葛藤が増えて自らを苦しめることにはなるまいか。それよりも静かに寡黙でいるほうがよっぽどいいのではないか。何もしない(=妄想につきあわない)ことで「あるがまま」を楽しめばそれでいいのかもしれません。

 

 

天:東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。

天地:存在世界

妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる

徼:始末の物の末端。物事の帰着点。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

哲学:人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。真理を探究する知的営み

思想:生活の中に生まれ、その生活・行動を支配する、ものの見方。哲学や宗教の一部との区分は曖昧である

信仰:神・仏など、ある神聖なものを(またはあるものを絶対視して)信じたっとぶこと。そのかたく信ずる心。その教えをよりどころとすること。

仁:親しみ、いつくしみ、なさけぶかくある、思いやりの心。

芻狗:とるに足りないもの、草でできた犬、

儀礼に使う牛の生贄の代用に犬の形を草で作られその後に捨てられるもの

橐籥:ふいご。空気の流れを生み出す器具

愈:前よりもなお一層。ますます。

窮:行きづまって身うごきができない。こまる

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー4 [老子]

 ネットで検索すると第四章での道を「器・空虚・心・思い」など様々にイメージして解釈されているようです。二千数百年前も今も「言葉・文字」は当人の心象を表現するために選ばれたものであって「真意」は「言葉・文字」の背後にあって書き記した本人以外では闇の中です。

 

 ある人が眼前の川を見て見たとおりに指し示すことができるのは「動画・写真・絵画」という媒体で捉えたものです。それも主観ではなく客観として捉えられたものであり、見えている全体ではなくほんの一部だけかもしれません。そこに、捉えた人の主観を見出すことは困難です。

 もし「川」という文字を見たとしても、「川」という文字を書いた人が育った環境や置かれている状況が前後の文脈で読み取れなければ「川」は単なる表象でしかありません。「川」は見る人によって異なっている「川」であって、恒常不変の「川」があるわけではありません。

 川は川ですが認識されなければ川は川としては存在していません。信濃川も長野県では千曲川と言っているだけです。県境に立っている人にとってどこからが信濃川になるのでしょうか。

 アマゾン川は今存在するでしょうか?(馬鹿げた問いです)どんなに考えてもアマゾン川を目の当たりに見ることができないのでアマゾン川は存在していません。(イメージ上にあるだけです)ブラジルでアマゾン川の岸辺にいたとしてもアマゾン川ではなく単に水の流れを目にするだけです。行き先を告づに日本から目隠しと耳栓をして、アマゾン川の岸辺に立たせ目隠しと耳栓をとったとしてアマゾン川と分かるでしょうか。川の流れに「アマゾン川」を読みとることができるでしょうか。川に「名前」がついているのではなく「名前」がついている川を見ているということです。見えたままそのままであり、本来は名前のない何でもないのでどんな名前をつけてもかまいません。見えた川を「アキタイヌ」と名前をつけてもなんでもかまいません。

 

 「川」という文字(=漢字)はこれからも変化することのない単なる「表象」としてあり続けます。川は「川」として表象されているだけです。ある人(=他人)が見たそのままの川を見ることはできません。(常に変化しています)

 表象は現実に目の当たりにした変化し続けているものを変化のない言葉・文字に置き換えられたもの。現実・事実でなく、変化しない動きのない死んでいる「言葉・文字」としているということです。

 

五月雨を集めてはやし最上川

 なんとなくイメージできるのですが、芭蕉が対峙した動きのある最上川ではありません。表象は再変換されて頭の中でイメージを妄想することができるようです。

 

 自国の言語でなんとかイメージできるのですが、二千数百年前の異国の人が語った内容をうんぬんするのは非常に困難なことと思われます。当時の人(=老子・道教の人たち)にとってみれば、中国語が通じない異国の人はどのような存在でしょうか。グローバル化している現在の我々にとっては、言葉の通じない宇宙人のような存在かもしれません。そんな得体の知れない宇宙人のために書き残すような文章なのかは甚だ疑問です。ましてや二千数百年後の人へのメッセージとして書き残すのでしょうか。今現在の思想家が二千数百年後の文化や文明を想像してメッセージを書こうという人がいるでしょうか。

 長い年月を経て残っているというだけで貴重とみなしているのが人間の習性のようです。荘子の人間世篇で「無用の用」という話しがあります。役に立たない櫟(くぬぎ)が切られずに神木として崇められているというお話です。

 道徳経は当時の人には「無用の用」であり、意味不明であり難解なものだったかもしれません。文字の読めない一般庶民の読むためのものではないようです。教養があり聞く耳を持ち、世を動かせる人のためのに書かれたものではないでしょうか。

 お釈迦様や老子や荘子が言いたいことは何でもかんでも特別視している「私=自我・アイデンティティ」の癖に気づいて下さい。万物斉同の視点があることを見抜いてください。今の自身の本来の「あるがまま」は何でしょうかということではないでしょうか。4つの幻影から脱するためにあえて「乾屎橛」と指摘したことを思い出してみる。

 

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老子 第四章  

道冲、而用之或不盈、淵兮、似萬物之宗。挫其鋭、解其粉、和其光、同其塵。湛兮似常存。吾不知誰之子、象帝之先。

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恥ずかしながら無知な人が解釈するとどうなるかということで書いてみます。

 

「道Tao」は言葉以前であって「玄」であり無である、無であるから際限がない。道は深淵で果てがないようです。「道=無」から万物が生み出されている。「道」の働きによって力を誇示する必要もなく、難題を容易に解決し、威光に頼らずとも、気にかける必要など無い些細な塵と同じように対処できる。「道」に満たされていてる存在として常にあるようにする。(自身を無にすれば思うように治世できる。)私は誰々の子であると宣言して偉ぶる必要もなく、天地を創った天帝以前の「道」から顕れたのである。

 

 道は名称もない存在以前の無。無からあらゆるものが創り出されている。無の中に何かが有れば有であり無ではありません。儒教は「私=自我・アイデンティティ」が思考して考え出された「知識」による治世を推奨している。道教は「道Tao」による治世を推奨する。無を感得した人が治世するのと人間の計らいによる儒教との違いを示さなくてはなりません。

 儒教においては、自(=自我・アイデンティティ)を知ることが第一のようです。天命に従い『中庸』の徳を身につけた「至誠のある人」を目指すようです。

 人をもって人を治む=「人間の道をもって人間を治めることが最上の政治」ということのようです。「私=自我・アイデンティティ」が人格を磨き達成できる最高の人間としてのリーダー。

 道教では、「道Tao」の心境を見抜くことによって鋭(=勢い、かしこい)に頼らず、粉(=紛争、怒り)を解決し、光(=名誉、威光)をかざさず、問題は問題にはならず、ちっぽけな塵同然にスイスイと事が運べるようになると主張する。「道」を身につけた実践者という存在であれ。どのような家系で生まれてきたかなど卑下したり誇ったりすることはない。私は誰々から生まれたと言う必要はない。「無」という根源から生まれてきたということ見抜けば、存在を創り出したと言われる天帝以前の「無」から生まれた私が今ここに顕れている。

 

 仏教では、「和光同塵」を自己の才能をかくして、塵の世に交わり入るという意味としているようです。後世の人は自分たちの教理に合うように都合よく解釈しているかもしれません。何事も疑ってかかり、自身がよりどころであり自身が平穏で無事であるかどうか。自身の胸に手をあてて確認する他無いようです。

 

表象:ある概念・イメージをあるもの(=記号・言葉・文字)で表すこと。

沖:わく。水がわき動く/むなしい =空虚・無

盈:みちる/みたす/いっぱいになる

挫:くだける/へし折る/折れて痛める

光:ほまれ。名誉

塵:利用価値のないこまごました汚いもの。ちり。/俗事。俗世間。

湛:たたえる/水をたたえる/満ちている/深い

象:目で見られない物を何かの形によって示す。

和光同塵:自己の才能をかくして、塵の世に交わり入る。聖人君子がその知徳を和げて、つまり隠して俗塵の世界に入る。

 

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老子ー3 [老子]

 2千数百年前に孔子に対抗すたために書かれた道教の君主論かもしれません。2千数百年後の我々に向けて書かれてものでないことは明らかです。2千数百年経っても人間の人体機能や心は劇的には進化していないようです。私達の社会生活や環境から導きだされた哲学や思想を2千数百年後の人が重宝しているでしょうか。現代の私達の著書を2千数百年後の人が優れた著書としているとすれば、残念で嘆かわしい気がしないでもありません。未来の人類の精神はいつまでもたっても過去の資産を破棄するほどには変革されていないのでしょうか。

 いつまでも◯◯教に束縛され抜け出せていなければ精神的な進歩は遅々としたものでしかないということのようです。◯◯教の◯◯教祖と今現在生きている自分自身とどちらがリアルな主役でしょうか。「自灯明」であって自らが答えを見つけることが本筋です。誰々が◯◯を言っていたとしてもその人の生い立ちや経験で出てきた言葉であって、誰にでも当てはまる言葉ではないようです。

「仏道をならふというふは、自己をならふなり。

 

 古典には語り継がれるべき価値があり今こうして読むことができます。時代や環境がすっかり消滅しても言葉は変わることがありません。言葉は変化しないようです。数千年前の「山」が風化や人為的によって元の姿とかけ離れた姿になったとしても、「山」という文字で表現されます。「山」を表現する言葉・文字は「山」しかありません。変わることなく永遠性があるように扱われます。これから数千年を経ようが「山」を表現するのに「谷」を使うことはありません。

 2千年前に存在していた人民と現在の人民は全く異なった人民ですが、言葉では同じ「人民」としてしか表現されません。人民という言葉は2千年前も現代でも変わらずに使われます。しかし、2千年前に存在していた人民と現代の人民とは全く異なっています。文字で「人民」とありますが、2千年前の人民の姿や生活は想像すらできません。2千年前のそれも他国の文字から推測するのは非常に無責任です。言わんとしている雰囲気が分かればいいのかもしれません。書かれている内容について勝手に推測している未来人をどのように思うでしょうか。妄想もいい加減にしろと嘆くこと間違いありません。

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第三章

不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不亂。是以聖人之治、虚其心、実其腹、弱其志、強其骨、常使民無知無欲使夫知者不敢為也、為無為、則無不治不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不亂。

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賢い者に力を与えなければ、臣下や民は競い合うことはない。
君主が財を得ることや賢者を貴ぶことがなければ、臣下や民は盗みや不正をすることはない。
欲望を刺激するものを見せなければ、臣下や民の心は平静であり乱されない。

 よって聖人(=道教の推奨する君主)の治めるべきは、人々の心を煩わせず、腹を空かせさせず、臣下の野心を鎮め人民の欲心を弱め、身体増強させ、常に臣下と人民を小賢しくさせず、欲心に惑わされず暮らせるようにする。
 無をなせば「無」に治まる。

治めようとしなくても自ら治まり賢くなろうということもなくなる。

臣下も人民も争うことはない。

財貨を得ることも自ら尊くなることはない。

臣下も人民も盗むことはなく。欲心を起こすこともない。

臣下も人民も心が乱れることはない。

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 賢者とは孔子のように君主に機嫌取りをするような人たちのことを言っているのでしょうか。国を治めるのに孔子の勢力台頭を牽制し批判しているかのように思われます。賢者(=孔子)が中枢に入り込むこは、人心を乱すことになると警告しているようです。

 欲望を刺激するものを見せることは、こと更に心を乱すものである。知らなければ知らないで何事もないのですが、これを持てば便利になるだとかあるものを見ることで心が満たされるとか、心の情動を揺さぶることはいつの世でもあった。人の心の性向はおいそれと変わることがないようです。

 食べることに困ることなく、人々の心身が健全でるようにする。欲心に振り回されないように暮らせるようにする。(恒産なくして恒心なし 孟子)

 臣下と人民に自らが何かを為そうとする欲心が掻き立てられることで人心が乱されないようにする。君主は臣下や人民に干渉したり規制することなく自然に治世できているようにする。(為無為)

 臣下は自らの仕事に専念し、人民は欲心なく日々の生活を全うする。人民は欲望を満たすために財貨を得ようすることはなくなり、争うこともなくなります。

 欲望を掻き立てるようなものを見せなければ、臣下も人民も心が乱れることがなくなります。

 

 文字も読むことができず学のない当時の人民のための書ではなさそうです。あくまでも教養があり理解力を持ち合わせるべき君主に向けた指南書のようです。現代人が我が身に鑑みて鵜呑みにするような内容ではないと思われます。

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老子ー2 [老子]

 何かを達成するためとか、人生に意味を見つけるとか価値ある人生とか。人の役に立つために生まれてきたとか。未完成な人間がどこにいるのでしょうか。自身を未完成な人間だということは、完成すべき人間像があるということです。ダメな人間と完成した人間という前提で生きているということになります。与えられた身体組織をどのように作り変えられるのでしょうか。肝臓の機能向上を自力でできるのでしょうか、筋肉を鍛えるように心臓の寿命を倍にすることができるのでしょうか。スズメはスズメで完璧であり・・・、人間は人間で完璧。

 

 脳はイベント駆動型ですから、どうしても今起こっていることだけに注意・注目することになります。常に注意・注目することが当たり前になっているので、注意・注目それ自体が通常モードであるとしているようです。本当は異常事態に心が奪われているだけだどいうことになかなか気づきません。考えることが頻繁になされるので、考えることも通常モードであると思いこんでいます。なぜなら思いは思いとして勝手に認識されるので、認識されることだけが気づかれることだからです。起こっていることが重要で解決すべきだとするのが脳の癖です。

 瞑想は何もしないということによって、「考える=解決」という執拗でこびりついた悪癖から一旦退避することかもしれません。

 

 身体に影響のあるイベントであれば、「痛み・痺れ」等のサインがあって大きくなれば「苦痛」となり対処しなければなりません。しかし、精神的なことは身体に直接苦痛を与えません。思考というものは身体でわかるものではないので、痛くも痒くもないというのが重要だと思われます。思考があるときに「苦悩・葛藤」があり「苦」となります。何も考えることがなければ「苦」はあるでしょうか。スポーツ観戦や遊びに熱中しているときや温泉旅館の風呂にゆったりと浸かっているいるときにわざわざ日常の困りごとを持ち込んで悩む人がいるでしょうか。小さな幼児が考え事をして公園を駆け回っているのでそうか。考えに没入するということは自らヘドロをかき回して水を濁らせていることかもしれません。

 

 存在に名(=言葉)がつけられ万物となり、二律背反(=相互に両立しない)の性質として相対的に判断されます。対立(=葛藤・混乱)は平安ではありません。平安であるためには対立のない静寂(=沈黙)となることではないでしょうか。思考で対立を超えてたり対立を克服できるでしょうか。こだわらないとか諦めるとか・・・。対立自体に意味がないという見抜きです。「言葉と文字」の本質は、言葉はたんなる音で文字はたんなる形でしかないというごくごく当たり前のことに気づく。音や形の以前では玄という一つの存在(=万物斉同)だけだとうことです。人間がそれもある特定の地域の人だけに意味のある音や形として使っているだけだということ。

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第二章

天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。

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 世間一般の人が美を知っているというが、それは美という言葉(=概念)によって見ているにすぎない。君主たるもの、一般人と同じように美という言葉(=概念)で見ることは悪(=正しくない)である。世間一般の人が知っている善という言葉(=概念)は、善という言葉(=概念)で判断しているにすぎない。君主たるもの、一般人の善としているのは不善(=善ではない)であるとすべきである。

 もともと有無は相生じている、難易も成すという相であり、長短というのも形の相であり、高いと下(=低い)も傾きの相であり、音声も調和の相であり、前後は従い続くという相である。

 故に聖人君主たるものは、有から生じている相対であることを心得て「無」にて対処する、この「道Tao」の教えによって語ることなく政治を行う。万物は自ずとその働きが為され言葉で指示することもない、生じてくるものを所有することはなく、為しても相手に期待することもなく、功績をあげてもその功績に自惚れることはない。そもそもその成し遂げたところにはとどまることはない、万物は終わることなく続いていく。

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 当時の一般庶民が「美」というものをどのように捉えていたのか、美意識はどういうものかは知るすべもありません。美は「羊+大」であり、ふくよかで美味しいものが美の語源のようです。美であるものは裏切らないので善でもあり真実であるととらえ「真=善=美」と同意として捉えることもできます。

 君主は一般庶民が斯(=このように)美としている(=概念)ものに美(=言葉)という言葉を使っていることは、悪(=正しくない)ので已(=止める)。

 君主は「無=相対的な無」から祭事や式典や時間や言葉を作り出すことができる。君主は「無」の境地にあって、名の無い天地にある存在に対して名をつける権利がある。存在は名によってそれぞれ個別分離した万物とされる。万物を生み出すのが君主である。一般民衆に辞書などなく、星の名前も時の名前も君主によって名づけられる。時を決め時の名も官位も役割も官位名も君主の命名による。一般民衆は君主に名づけられた万物(=徼)として受け入れ、勝手に命名することは許されない。

 美意識は地域や環境によって変わるものです。君主たるもの天地の始まりである名がつく以前の無(=対立のない)境地(=玄)にあるべきです。一般庶民は名のついた万物となった後の有(=対立のある)「徼」の世界で生きています。

 一般庶民は天地から万物とされて名がつけられた後の二元対立(=葛藤・混乱)の中で生きています。君主たるものは対立のない天地にあって名のない二元対立のない平安の中にいなければなりません。

 

 存在に「名」がなければ、ただそのようにあるだけです。赤子や言葉のない動物目線で存在をあるがままに見えているとします。ありのままに見えるだけで「美しい」とか「醜い」という言葉を伴った思いはあるでしょうか。感嘆した「オッー、アッー、ワッー」と言葉にならないただの音だけしかないかもしれません。スペイン風邪以前には死臭は死臭として認識されず単に生活臭の一部だったようです。死臭は忌み嫌われる匂いとして記憶に刻まれたかも知れません。

 真意の程は分かりませんが、虫の鳴き声を「声」として認識するのは、日本人とポリネシア人だけだということもあります。徒然草の中にも虫の音を認識していた話があります。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を他国の人が理解することは難しいかもしれません。蛙が池に入水する「ポチャ」という音を想像することはどうでしょうか。

 

 言葉・文字という二元対立に振り回されている一般民衆と「無」のままに「あるがまま」のまっさらの天地を観ている君主とは雲泥の差があったということに思いを馳せてみるのもいいかもしれません。

 

道:絶対無、名称はない。すべてのものが成立する根拠。万物をおおい尽くす。玄の玄

名:存在の存在たる所以 君主が名をつける権利がある 玄

無:名によって相対の有無となって、無という概念と名

有:名づけによって存在が認識されて万物となる。

有と無は同根であり、ただ名が異なるのみである。

道の字は辶(しんにょう)が終わりを、始まりを示すそうです。(参照:ウィキペディア)

妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる

徼:始末の物の末端。物事の帰着点。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

 

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老子ー1−1 [老子]

第一章

道可道、非常(恒)道(也)。名可名、非常(恒)名(也)。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

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 孔子が五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を説いたということは、当時の君主に人を思いやるということがまったくなかったからという裏返しになるのではないでしょうか。戦国時代で生き抜くためには、人民の人心掌握など待っていられなかったかもしれません。横暴な君主でなければ生き抜くことが困難であったのかもしれません。強権をふるって圧政をせざるをえなかったかもしれません。心どうのという余裕はなかったのではないでしょうか。孔子であろうが老子であろうが戦国時代の乱れた社会や暴君に辟易していたということかもしれません。

 老子は官僚であったようです。官僚の頃には言いたいことも言えずに君主に従わなければなりません。他国との無理難題に頭を悩ませたり紙一枚の勅令によって庶民の生活がどん底に落とされるということが日常茶飯事だったかもしれません。官職を引退して今まで君主に直接言えなかった事をぶちまけたかもしれません。後の人類のために書き残したなどと大袈裟なことだったのでしょうか。人間は対象がミステリアスであればあるほど聖人や偉人にしたがる傾向があります。ちょっと気の利いた事を言えるおじさんでいいと思うのですが・・・。

 今生きて活動しているのは我々だけで、我々の問題が解決されれば過去の人のイメージなどに振り回される必要はないと達観してもいいかもしれません。

 

 第一章で、この世界は絶対無から生じている。老子は「道Tao=絶対無」は知り得ないものであるということを知っていた。起源を求めれば必ず「無」に行きつく。私達が母体の中で受精する以前の私達を探すことはできません。どこにも何も痕跡などありません。魂などという概念を持ち出すので混乱させられます。頭の中で考えたことで今ある意識は魂などという曖昧な概念に影響されるかどうかは考えてもどうなることでもないので、考える意味があるかどうかはおわかりのことと思われます。受精卵のどこに肉体が入っているのでしょうか?細胞分裂によって様々な臓器が勝手に作られていて誰かが意図的に作ったなどと信じることなどできるでしょうか。

 心の特性である知りたいというのは分かります。あらゆることを追求することは本能的なことであって間違ってはいませんが、知り得ないことがたくさんることも事実です。老子は我々の知力にも限界があり、知り得ないことまで知ろうとすることは愚かなことであると言いたかったのでしょうか。

 知り得ないことを知らずに何でもできると勘違いしている君主に釘を刺したかったかもしれません。

 無から有(=存在)が生まれ、存在(=天地)は存在(=天地)そのもの(無名)でしかなかったのですが。存在に一々名をつけることによって万物となってしまった。存在が分離・分割されてしまった。無名という本質ではを観て、名という本質ではを観ることになる。

 

道:絶対無、名称はない。すべてのものが成立する根拠。万物をおおい尽くす。玄の玄

名:存在の存在たる所以 君主が名をつける権利がある 玄

無:名によって相対の有無となって、無という概念と名

有:名づけによって存在が認識されて万物となる。

有と無は同根であり、ただ名が異なるのみである。

道の字は辶(しんにょう)が終わりを、始まりを示すそうです。(参照:ウィキペディア)

妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる

徼:始末の物の末端。物事の帰着点。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

 

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー1 [老子]

 我々が目にするもので宇宙から切り離されているものは何一つありません。見えるもの全てが分離されてはおらず繋がっているということになります。一体感を感じなければならないとしているのは、分離しているという思いこみが強いからに他ならないかも知れません。何か(=対象)を知るとか掴むには何か(=対象)という自己と分離した物(=対象)とみなさなければなりません。自と他がなければ対立は起こらないのではないでしょうか。

 

 中国の春秋戦国時代に生きていた老子や孔子、彼らが記した言葉は主に君主のための言葉のようです。庶民のためでもなく未来の我々でもなく、平和な世を築くことが委ねられている一部の専制君主(=権力者)に向けたメッセージとして捉えて読む必要があるかもしれません。当時の識字能力がなく知的理解に欠けていた一般人に向けたものではないようです。

 

 今現在も、世界中で文字を記している方々が多くいます。未来の人へのメッセージであると啓蒙ではないようです。存在しない過去の人に語る意味が無いように、存在のあてがない未来の人を想定して書くようなことはありません。

 

 老子や孔子やその他の過去の書物や経典はその書を目にすることができ、理解できるであろうと予想される人へ向けて書かれている筈です。その当時の言語が理解できる人に向けてのメッセージです

 後世の我々が当時の乱世の状況や当時の言語を知らずに読み解くことは無謀なことです。本意は老子本人しかわかりませんが、伝えたい本質の糸口を見つけることは無駄ではないかも知れません。

 それにしても好き勝手に訳されているということに驚きを隠せません。般若心経も読み手の数だけ般若心経があるようですからいかしかたないかもしれません。肩肘張らずに気楽に読めばいいだけのようです。

 

 孔子は人間としての「私=自我・アイデンティティ」の働きを見抜く目に長けていて、処世の道を説いた野心家のようです。老子は君子たるものはちっぽけな「私=自我・アイデンティティ」に振り回されず、宇宙の根本を理解して宇宙の原理のままに振る舞うことが求められる。宇宙の原理を理解した上で、庶民目線で治世にあたれば国も庶民も幸せに暮らせると説いたかもれません。

 

 宇宙の起源は知ることもできず名もない「道Tao=絶対無」というものであった。道(=絶対無)から一意一様(=万物斉同)な大いなる存在(=宇宙)ができた。宇宙そのものがそのままに存在していただけ。宇宙の理のもとに現れがあり働きがあり生滅が繰り返されているだけ。為す主体もなくただあるがままにある。

 地球と呼ばれる球体の表面で、人間という得体の知れない生き物が偶然にも多くの音が出せるようになりました。人間は意思を通じ合うようになり社会を形成するようになった。世界中で異なる「言葉・文字」が発明されて、のべつ幕なしに口から泡を吹きながらわけのわからない音を発するようになった。奇妙な形の文字を作り出して同じ言語圏で、互いの合意により共通認識ができあがった。心情や事象を概念化して語彙を発明する能力を磨いていったようです。

 

 農耕民族である日本では季節の変化や雨や雪の表現のために多くの言葉が作られたようです。

 アフリカでは緑でも様々な色合いを表現する言葉があるようです。南国では雪が降らないので細雪もなごり雪も牡丹雪などの言葉がないのでその雪の状態の違いを理解することはできないようです。

 フランス人は内心の情緒を細かく表現する語彙が多く繊細な表現ができるようです。料理の味や香水の美妙なニュアンスまで言葉で表現できるようです。

 

 万物斉同であった存在は、名をつけられることによって分離・分割されて個々の存在(=万物)となりました。

今まで何度もしつこく書いてきました。名前がある存在があるのではなく、ただ存在があるだけだった。その存在に名をつけて細分化していったということです。

 この名のつけられた存在は、我々の思考対象や所有対象となってしまいます。名の無かったものに対しラベルを貼ることで、識別される対象になります。一であった存在が万の物(=万物)となります。生まれてくる子には本来名などありませんが、誰かが識別するために名をつけるのです。名前は最初の呪だそうです。赤子にとっては存在の一々に名があるなど奇妙なことのはずですが・・・。

 

 存在を所有することなどできません。存在は誰のものでもありません。野に咲く花や自由に飛び回る鳥や泳ぎ回る魚がどうして誰かのものなのでしょうか。「猿の惑星」という映画で人間が猿の所有物であるという事を観れば違和感を感じるはずです。

 過去の為政者の中には大陸を所有しようとする誇大妄想を抱き、実際に人々を巻き込んだ人が多くいます。映画でも地球防衛軍とか宇宙戦争とか妄想で遊ぶこともできます。

 

 誰のものでもない存在が名によって「有」とされ、分離・分割されることで所有の対象物となってしまいました。所有ができれば所有者である「私=自我・アイデンティティ」が生まれるの必然のことです。

 名によって相対概念の有無(陰陽)が生まれました。有無の無は絶対無ではなく「有」という概念の対立概念としての「無」という概念です。無から有が生まれます。有無は同一(=コインの裏表)であるというのが真実です。

 

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第一章

道可道、非常(恒)道(也)。名可名、非常(恒)名(也)。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

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 「道」としている「道」は、「道」ではない。名が名づけられのは、名ではない。無という名は、天地が始まるときのことです。有という名は万物の母です。

すなわち常に無を追い求めれば妙を観ることができ、常に有を追い求めるのなら徼を観る。

 無と有の二つは同じ(=太極・陰陽)ですが名が違っています。この理を玄といいます。玄は玄から生じ、これがあらゆる妙を解き明かす門である。

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 あなた方(=君主)が考えているような治世(=道)を治世(=道)としていれば、それは私(=老子)の言わんとしている「道=絶対無」からくる治世(=道)ではありません。あなた方(=君主)が名をつけているような存在や事象は、それは私(=老子)が言っている本来は名の無い存在というものではありません。万物斉同を分かっている名ではありません。本来の存在に名がなかったという理をしらずに、勝手に名づけたものです。そもそも存在自体には名はありませんでした。分別できない一様な存在だけがあったということを知らなければなりません。

 人間が天地を認識していただけの時は、ただ天地があるだけでした。天という名も地という名もありません。そこにはただ開かれた空間と存在だけがありました。名もない原初の存在だけがあったのです。個別の名がついていないので「無」であったといっていいでしょう。ただ上に広がった空間という天があり、下に身体を支える強固な地があるだけです。存在を個別の対象に分離・分割することで「有」ということになり、名で識別するようになります。元来一様であり万物斉同であったものが個別に分割された万物という存在になります。

 ここで、有無の「無」というものは一体何なのかと探究すれば本質を観ることができます。相対概念の「無」です。有無の「有」というものは一体何なのかと探究すれば個々の存在を観ることになります。相対概念の「有」です。

 有無は異なるものではなく同じものであるが、有と無という名がつけられているだけです。この目に見えない道理(=太極・陰陽)を玄といい、さらに遡ると絶対無ということになり、我々が生きている本質を解き明かすことになります。

 

道:絶対無、名称はない。すべてのものが成立する根拠。万物をおおい尽くす。玄の玄

名:存在の存在たる所以 君主が名をつける権利がある 玄

無:名によって相対の有無となって、無という概念と名

有:名づけによって存在が認識されて万物となる。

有と無は同根であり、ただ名が異なるのみである。

道の字は辶(しんにょう)が終わりを、始まりを示すそうです。(参照:ウィキペディア)

妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる

徼:始末の物の末端。物事の帰着点。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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