SSブログ

不知証明 [気づき]

「無い」を証明することはできないので「悪魔の証明」と言われています。
「宇宙に果てはない」「宇宙人はいない」「神はいない」「恐竜はいない」「竜はいない」
「阿弥陀仏はいない」「神と会話する人はいない」「悟ってはいない」・・・・。動物園で生きた動物を間近で見ることができれば本物の動物が「いる」ということが確認できます。宇宙人・UFO・・・が「存在している」証拠がなくても宇宙全体の精査をすることが不可能なので「いない」ということを証明することはできません。
 誰かが「神の啓示」を受けたと吹聴したとしても、「神の啓示」を受けていないと証明することもできません。そもそも「神」がいなということを証明することもできません。信じたい人が信じているというのが本当のことかもしれません。信じたければご自由にどうぞというスタンスではないでしょうか。
 説明責任を転嫁されて、「無い・いない」ということを証明してみよと言われても不可能です。「ある・無い、いる・いない」と白黒がつかずに平行線をたどりお互いが疲れ果てることが目に見えています。

 

 禅問答は文字の答えを求めてはいません。答えの文面の読んで知識として得るものではないということです。(不立文字)「富士山を荒縄で縛って持ってこい」と言われて真剣に思考します。出発地点が「思考して」解決しようする癖に気づくことです。何でもかんでも「思考・思索」で解決しようとするのが人間の特性です。日々自動的に使われている「言語」は人間を人間たらしめている大きな特徴です。「言語」で問われれば、「言語」を使って解決しようとするのは当然のことです。モノであろうが感情・感覚さえも、五感で感受する一切を「言語化」して知っていたいというのが人間です。「言語化」は留まることはありません。「言語化」の作業が創造であり進化だということかもしれません。
 1986年に「イミダス」という時事用語事典が創刊されましたが年々分厚くなっていったことを思い出します。常に発見・発明・創作があり新しい概念が創造されているということの現れです。
 頭の中の「おしゃべり」に翻弄され続けているかに気づくのが禅問答かもしれません。「思考・思索」で何でも解決できるかというと、そうではないということを体験します。判る→分かる→解ると進み、解るは「no proble・問題なし」であり、「思考・思索」する対象ではなくなります。
 頭の中で解って「おしゃべり」が鎮まる(=無い)という瞬間を重ねていきます。実体験として「無い・いない」を自らが証明することになります。「おしゃべり」が鎮まっているのが「寂静」なのかどうかを確認することになります。他人に証明することではなく、自分自身が証人となればいいということです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 


nice!(24)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

修証不二 [気づき]

 私たちは、親・学校・友人から様々なことを学びます。科学技術の進歩によって便利な生活を送れることを体験しています。便利が必ずしもイコール幸福であるとは限りません。近代社会では疾病が減るどころか新たなウィルスが出現したり、イデオロギーの相違によって戦闘が起こり多くの人命が奪われています。あるリーダーの欲望を満たすため多くの犠牲が出ても意に介さないようです。他人の人命よりも一国のリーダーの”我”が勝ってしまっているということでしょうか。

 私たちが学び続け実践していることはどいうことでしょうか。それは、結果をイメージしてから、今何を行えばいいのかを考え実行することではなでしょうか。過去の失敗を教訓として同じ失敗を繰り返さずに、順調にステップを踏み望む結果を得たいと願っています。

 幼いころは他人と触れ合う場面で、自分の”我”と他人の”我”のせめぎあいを経験します。学校では、人間社会で生きていく最低限の知識として教科書に書いてあることを憶えさせられます。数式を使えばどういう答えが導き出されるかを学んで実際に算出できるようになります。

 


 若い人は、将来の希望を叶えるために何を犠牲にして何にエネルギーを注ぎ込むべきかを考えます。つまり、問題(理想と現実とのギャップ)を解決するにはどうしたらいいのかを考えるように躾けられてきたように感じられます。社会では困ったことだらけで日々その困ったことの対処に追われているというのが現状ではないでしょうか。困ったことを解決する一つに法律があります。法律の専門家であれば社会制度上の問題に杞憂することはないかもしれません。

 数学の問題を解くには方程式を憶えたり、問題文の読解力が必要とされます。記憶するだけの問題は記憶されたものを正確に再現できればいいだけです。「今」の価値は、あたかも過去(=記憶)と未来(=予想される結果)を考えるためのにあるかのように思う人もいます。

 実は、過去は記憶だけでありすでに消滅しています。未来もただの妄想であってどこにもありません。過去を振り返るために「今」があるのでもないし、どうなるか分からない未来の為に「今」があるわけではありません。過去や未来が主役ではありません。今だけが続いています。過去から見れば「今」は未来の「今」であり、未来から見れば「今」は過去の「今」です。「今」は未来でもあり過去でもあるといえます。今が主役であり、過去や未来も「今」だと言えないでしょうか。10分前からすれば10分後の今なので未来の今を生きています。10分後の未来からすれば10分前の今を生きています。

 無常であり一切が消滅しているのに、自分が経験してきた過去が消滅せずに残っていることがありうるでしょうか。エントロピーの法則を無視して素粒子を逆回転することなどできません。もし同じようなパラレル世界が無数にあって、1秒前の世界・2秒前の世界・3秒前の世界・・・1億年前の世界が同時進行で存在していれば行ったり来たりすることもできるかもしれませんが・・・・。自分が生きてきた世界は完全に消滅しているので過去の自分に会うことは不可能です。今の自分は過去からすれば未来の自分であり、未来からすれば過去の自分です。消滅してしまった過去やあるかどうかもあやふやな未来に振り回され憂える必要があるのでしょうか、今を観察して今に生きる他ありません。今を見届け続けることができているだけで満たされていると感じてみるのもいいかもしれません。

 誰もが生まれた瞬間に死を宣告されています。生き続けるという勝者はいません。思いであがなっても負けが確定しています。勝負せずに、諦め(=老・病・死)て受け入れれば勝負にならないので負けない唯一の方法です。

 

 


「一夜賢者の偈」

 

過ぎ去れることを追うことなかれ。

いまだ来たらざることを念うことなかれ。

過去、そはすでに捨てられたり。

未来、そはいまだ到らざるなり。

されば、ただ現在するところのものを、

そのところにおいてよく観察すべし。

揺らぐことなく、動ずることなく、

そを見きわめ、そを実践すべし。

ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。

たれか明日死のあることを知らんや。

まことに、かの死の大軍と、

遭わずというは、あることなし。

よくかくのごとく見きわめたるものは、

心をこめ、昼夜おこたることなく実践せよ。

かくのごときを、一夜賢者といい、

また、心しずまれる者とはいうなり。

(増谷文雄訳『阿含経典第五巻』)


 


 私たちが学んできたことは、何かを成すには行動しつづけなければならないということです。行動するには意志がなければなりません、意志以前に思い浮かぶ(=イメージ)必要があります。修練(=手段)して思い描いたイメージを成就(=目的)できると思っています。剣道では「守破離」と言われています。

 熟達するには何度も何度も修練することで脳が筋肉に指示命令し筋肉を微妙にコントロールするようにできることは当然であって、それ以上に脳の指示を離れて勝手に筋肉が動くようになるようになることです。(ゾーンに入る)”私”が介入していない境地まで高めなければなりません。日々行っている行動で”私”を探し出すことは困難です。空腹は血糖値(血中のブドウ糖の濃度)が低下することがきっかけとなり、空腹という感覚を脳が感知して何かを食べたいという欲求が起こります。身近にある食べ物を探して口に入れて歯で噛み砕いて胃に送ります。この過程で”私”がどこに登場しているのでしょうか。ロボットのようにプログラミングされた”私”が足を動かすように指示命令し、目というセンサーを働かせて食べ物を探し当て手をその食べ物を取って食卓まで運ぶかその場で食べるかを選択する。口をどの程度開くかを指示命令し・・・・・。食べるのに”私”の指示命令が事細かくあるのなら脳は膨大なエネルギーを消費しオーバーヒートして疲れ切ってしまいます。歩くときに何㎝位足を持ち上げ何センチくらい前に出してどれくらいの力で地面を蹴るのかを一々指示命令するでしょうか。そこに”私”はいません。日常生活に”私”が介入し指示命令すれば、赤ちゃんのように疲れて一日中寝ることになります。不安を背負い込んだり全てを思い通りにしようと”私”を働かせすぎると様々なストレスとなります。ただの雑念(=火種)を重大なことのように取り扱ってしまうと大変(=大火事)なことになります。

 


 修練して偉大な”私”を手にいれるのではなく、”私”の介入をそぎ落とし”私”をなくしていくことが大事なポイントです。「無心」とは何も思い浮かばないのではなく、思い浮かぶことに一々関知しないでサラサラと受け流すことではないでしょうか。サッカー観戦に夢中になっているときに”私”を持ち出して、雑念を取り扱っていないので「無心」でいるはずです。ゴール前で応援しているチームの選手がボールを蹴った点が入った、ただその場面と一体となっているはずです。


 


「仏道を習うというは、自己を習うなり

自己を習うというは、自己を忘るるなり

自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり

万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(道元)

 


 禅問答で、仏とはという問いに「麻三斤」「乾屎橛」・・・と応えたとあります。禅問答は考えて分かる問題ではありません。仏に抱いている概念を取っ払って自分で体験してくださいということです。玉ねぎの皮を剥がすように、思い込みを剥がしていくとどうなるでしょうか。仏が「麻三斤」「乾屎橛」なら、「麻三斤」「乾屎橛」に成れるもんなら成ってみてはどうですかと言われたらどうでしょうか。成る何か(=麻三斤・乾屎橛・・)ではないということです。仏に成るのではなく仏であることを体験する。坐禅(=手段・修練)によって仏(=成就・達成)に成れると思い込んでいるのは、”私”が成しえると学んできた思考回路での結末です。

 仏道(=為楽)への過程は、後付けの”私”という実体があるかどうかを観察することにあります。観察していくと過去や未来に囚われて右往左往して悩みを抱えているということに気づきます。坐禅によって自らを強制的に”たった今”に縛りつけます。ただ雑念を観察して「今・今・今・・」にあり続けます。後付けの行為者である”私”の出る幕がなくなります。”私”が何もできない「あるがまま」と一体になるほかありません。立つことも手を広げることも話すこともキョロキョロ見回すこともしません。”我”が手なずけられていきます。”なんとかしたい”ということが押さえつけられて調教された犬のようになっていきます。”なんとかしたい”という衝動がだんだんと減っていきます。坐禅中(=無防備)でも安全であるということが分かってきます。過去や未来との繋がりよりも「今」のままでいることに不安がないということを体験します。不安は自分が作り出している妄想であることに気づいてきます。


 


例:プロスケーターが記憶喪失になって、スケートをしていたことを忘れてしまいました。今までスケートに一生を捧げてきましたが、新たな人生を生きなければならなので多くの困難(=悩み)を抱えるようになりました。彼(=記憶喪失)はスケートが上手いと言われても信じることができませんでした。それではということで、スケート靴の履き方から教えて数回滑ってみると身体に染みついていた技術が開花して元通りになりました。彼がスケートの練習を再開せずに人生をすごしてしまったとしたら・・・・。

「醜いアヒルの子」:実際は白鳥なのに、アヒルだと思い込んでしまっていてはもったいない。坐っている時間がそのまま仏かもしれません。調教はあせらずに結果はすぐにはでませんが、あせらずに積み重ねれば我が剝がれていきます。

 


 

 悉有仏性であるのに、どうして坐禅しなければならないのか。上のスケーターと同じで誰もが仏性をもっているのですが、坐ってみて体験しないと気づきません。不安解消の為に働かせていた思考が、実は不安を増長させていたということに気づきます。


 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

nice!(42)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

静かでいる [気づき]

 体験しうる達成感を味わうにはどういう条件が揃うことなのでしょうか。私たちが望んでいるわけでもないのに、あらゆる事象を二項対立的に捉えるようになっています。善悪・明暗・貴賤・大小・長短・天国地獄・・・、二つに分かれているのではなく二つに分けているといのが本当かもしれません。「悪」でも極まった極悪があり、極悪からちょっとでもよければ「善」として捉えることもできます。白や黒にも濃淡があって光を反射せずに全てを吸収してしまえば真の「黒」ということになります。「0」と「0.000000001」は全く異なります。ちょっとの違いでも積み重なれば大きな違いということになります。10%の差は同じではありません。100円の10%は10円ですが100億円の10%は10億円となります。基準が異なれば同じ10%ではありません。

 

 「ちょっと」と表現したとしても、「ちょっと」の意味合いは異なります。時速70kmが限界の50ccバイクでは時速69kmからの70kmは限界の「ちょっと」ですが、余裕で時速200km以上だせるバイクにとっては時速69kmから時速70kmは本当に「ちょっと」でしかありません。「ちょっと」の努力も限界に来ている人と余裕のある人の「ちょっと」では異なるということです。
 トップレベルのアスリートが競う大会(=例えばMLBのワールドシリーズ)での優勝と、日本での市内早朝野球大会での優勝とは比べ物にはなりません。全身全霊で打ち込んで勝ち得た勝利と、親交と余暇が目的では達成感に違いがあることは自明のことです。
 時間と労力を費やすせば費やすほど得る満足度や達成感や解放感を味わえるのではないでしょうか。努力に比例して報酬が多いというのは頷けることと思います。困難なことにチャレンジすることで対極にある安楽が訪れるのでしょうか。「空腹は最高の調味料である(Hunger is the best sauce.)」
 4年に1度のワールドカップが終わろうとしています。サッカーエリートの中から選りすぐられ、国を代表して栄冠を勝ち取ろうとしています。大きなプレッシャーと全身全霊をかけてきたことと思われます。持てる力を極限まで出し尽すのですから、最高の達成感を味わうことができるだろうと容易に想像できます。犠牲を払えば払うほど、「ちょっと」のことで大きな満足感が得られます。
 「お釈迦様の苦行」・「キリストの磔刑」・「モーゼの出エジプト」・「香厳撃竹大悟」・映画では「海賊と呼ばれた男」・「沈黙」・「ショーシャンクの空に」・「アバター」・・・・・。必ずと言っていいほど、最強の敵や攻略困難な状況から脱出するという筋書きです。ゲームソフトも困難な状況や敵を倒してステージをクリアして成長していくというストーリーが定番となっています。童話では「シンデレラ」・「みにくい白鳥の子」・「白雪姫」・「桃太郎」・「マッチ売りの少女」・「クリスマスキャロル」・・必ず苦難な家庭・悪役が必要とされています。
 達成感・満足感・解放感・栄光・感動を得るには艱難辛苦・最強の敵というお膳立てが必要となります。

 

頭の中のおしゃべりにちょっかいを出せば出すほど騒ぎ立てます。静観すれば静まるという体験を重ねるほかありません。 「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」意志の力で寂滅為楽とすることはできず、寂滅為楽であることはできます。寝ようとすれば寝ることはできませんが、何もせずに委ねれば寝ていることができているはずです。苦行を放棄して何もしなかったら自ずと寂滅為楽が訪れていたかもしれません。苦難(=雑音)が大きければ大きいほど「ちょっと」した静寂の偉大さに気づくかもしれません。

 

<まとめ>
・感動的なストーリーには難敵・困難・苦境・努力が背後にあります。困難と栄華は対極ではなく一体。天国と地獄は対極ではなく一体。W杯勝てば天国、負ければ〇〇。米国の大統領の対立候補の名前を知っている人がどれほどいるのでしょうか。
・敵対する相手・困難な環境であればあるほど、すばらしいストーリーになります。
・弱い相手に勝っても達成感は大きくはないかもしれません。井上尚哉対バトラー
・巨悪であれば倒す方が偉大だと感じます。
・対極が遠いほど振り幅が大きくなります。信じていたものが嘘だと気づくと落胆も大きい。〇〇教会、〇〇の科学
・知性で「静かにしよう」とすることはかえって混乱が増幅されます。静観して「静かでいる」しかない。
・静寂(=無)をどこからか持ってくることはできません。得るモノでも掴むものでもありません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

nice!(38)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

サラサラと受け流す [気づき]

 私たちの世界とはどんな世界なのでしょうか。地球上のすべての場所。活動可能な場所。知識として知っている世界。イメージとして抱いている世界。物理的に存在していると思われる世界。歴史が刻まれた結果の世界。認識しうる世界。情報が飛び交う世界。あるがままの生々しい世界。たった今が生滅している刹那の世界。自分だけが知っている世界。既知の世界・未知の世界。認知できる世界・認知している世界。認識できる世界・認識している世界。

 

 私たちが見えている映像は電磁波から得られる情報が自動的に処理されて三次元的に描かれています。自らの創意工夫によって作り出された映像ではありません。脳内での化学物質や電気信号によって構築された固定されたスクリーンの上に展開されているかのようです。例えば家にあるTV画面がカタールに行ってW杯の映像を映し出しているのか、それともカタールでの光景を電磁波として入力され、その電磁波を家のTVのドットに色として変換しているのでしょうか。TVのスイッチを入れてチャンネルを合わせるというのは、自身の瞼が開くと電磁波が勝手に映像となるのと同じことかもしれません。自宅のTVがどこかに動かないと同じように、私たちの脳内のTV画面が動きまわるということはありません。私(=肉体)であるとの認識であれば、私がカタールに行かなければ見えないということになります。動くことのない根源としての絶対主体である「それ」は、認識が働く以前に認知できて見えています。見えていると気づく以前に勝手に映像として見えています。

 

 映画館のスクリーンは映画館から動くことはありません。脳内で描かれている脳内スクリーンも動くことはありません。映画館のスクリーンには光が投射されて映像となります。あたかも瞼が開かれると脳内スクリーンに電磁波が投射されるかのようです。私たち(=肉体)が物理的に移動したとしても、脳内スクリーンは脳から動くことはありません。脳内スクリーンはただ電磁波を映像として映し出しているだけのことです。目から入ってくる電磁波(=光)を逐一変換して映像としています。
 例えばニューヨークを出発して京都の清水寺を観ているとします。数時間前に成田空港に到着して京都に到着し清水寺に今いるという行程を記憶しているので、時間を費やしこの場所に到着することができ観ることができていると思っています。移動している間でも脳内スクリーンは動くことはありません。様々な景色が脳内スクリーンに勝手に映しだされて記憶されています。一般的には、目を向けると自動的に映像が映し出され、その映像を認知します。次に清水寺という知識と照合されて清水寺と認識されます。記憶を遡って、私が清水寺に来て清水寺を観ているという認識を得ます。一方で、たった今にフォーカスしてみます。ある情景が脳内スクリーンに映し出されます。次にその光景が清水寺であると認識します。目を向けると清水寺の光景が展開されます。
 どこがどう違うのでしょうか。私(=肉体)が意識を持ち運んでいく先々で観ているのでしょうか。肉体が意識を持ち運び、その時々で働かせている?。感動したり落胆する意識などありません。私が肉体であると思い込む前から意識はあります。赤ちゃんが成長し感覚・感情・肉体・認識・思考が自分であると思い込む以前に気づいてる「それ」。「それ」は自分というものが確立する以前に、聞こえているし見えているし気配を感じ取っていました。たった今が「それ」に対峙していて現状を認識して言葉に出す以前に、「それ」は見えているし聞こえているし味わっているし感じています。寒いと言葉に出す前にすでに寒さを感受しています。
 私が清水寺に来て清水寺を観ているのではなく、「それ」は映像として映し出されている光景に気づいています。次に自意識が清水寺を観ていると認識し、私を後付けして私が観ているとしています。

 

 私たちの世界は”たった今”見聞覚知できている事象だけ。その他は知っているかイメージとして想像できる範囲であり認識できない思い込みで作られているのではないでしょうか。ある俳優が3月に死んでいるのに12月に知ることになり驚きを隠せない人が多くいます。事実を知らされるまでは記憶に依存しています。事実によって記憶を書き換えていかなければならないのが自分の世界だということです。当たり前のことですが、”たった今”認識できている以外は不明であり経験則によって構築されている世界だということになります。
 家の中でくつろいでいる時に、数十m先で何が起こっているかも知ることはできません。数千年前の聖者が何を人々に伝えたかったなど、どうして知ることができるのか知る必要があるのかサッパリ分かりません。
 仏とはと問い、”麻三斤”と言われたり「富士山を荒縄で縛って持ってこい」とか「瓶の中に大海を入れてみよ」とか・・・。言葉は何とでも言えます。言葉を聞いたり文字を見たりある言葉を唱えることで、人体が変化するならそれこそ錬金術かもしれません。 

 

 私たちは広大無辺の世界(=認識できない世界)にいるのではなく、無限に続いている”たった今”という刹那に生きています。”たった今”に得失が入り込む隙はありません。この何かが入る余地も無い世界の中で、何かを得たり何者になったりできるのでしょうか。自分(=我)が作り出した世界で特別でいたいのが、”我”の働きです。この”我”に関係なく、身の周りで起こっていることは宇宙そのものが動いていることです。何が起きようと、起こるがままを楽しんでみる。
 過去の聖者が〇〇と説いていた、〇〇を推奨していた・・・。頭の中で自分なりに解釈しているだけのお遊びかもしれません。”たった今”見えている聞こえている感じていることだけが世界であり、この世界をじっくり観察している「それ」になりきってみるのもいいかもしれません。頭の中でどんなおしゃべりが起こっても取り合うことをせずにサラサラと受け流し、目の前の認知のままにいてみる。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 


nice!(23)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

無門関第三十七則 庭前柏樹 [公案]

趙州(じょうしゅう),因みに僧問う,如何(いか)なるか是れ祖師(そし)西来(せいらい)意(い)。
州云く,庭前の柏樹子。
 趙州と僧の二人が何時どこでこのような会話をしたのでしょうか。誰が聞いて誰が伝えたのでしょうか。この問答から行間から何かを解ってもらいたいがために作られたお話だというのは分かります。私たちはこの短い情報(=お話)から各々のイメージ力によって、好き勝手に状況や各人の物言いから状況を思い浮かべることができます。その場にいるわけでもないのに、絵にすることも可能です。誰もが素晴らしい想像力(=妄想力?)が備わっていることに驚かされます。好き勝手ということは、まったく同じ絵にならないということです。会話から感じ取ることは千差万別だということです。あくまでも基準は自分であり、他人の思考を知るすべもないので頼るのは自分しいません。自分の思考が基準であり、自分が思いついたことが正しいということになります。

 

 ヒトは他人を見たり評価するように自分を見ることができる唯一の動物かもしれません。「初めに言葉があった」なんて・・。モノに文字や言葉がついて生まれてきたら大変なことです。大根のどこに大根と書かれているのでしょうか。大根のどこかを握ると「daikon」という音が聞こえるのでしょうか。ヒトが勝手に命名した後づけのモノでしかありません。日本人だけが「壁・kabe」としているだけで、英語では「wall」でありアラビア語では「جدار・jaddor」です。深海に潜って、世界で初めて見ることのできた深海生物を照らし出すと名前が浮かび出てくるのでしょうか。
 ヒトはヒトが見ることができ、識別できる単位毎に命名することで世界を分離・分割することにしたようです。ヒトを知る主体としてその他を知られる客体(=対象)とするようになりました。知ることでどのように対処するかを学習して制御できるモノとして安心を得たいかもしれません。未知を恐れるのは未知のモノは必ず危険を孕んでいるという前提があります。恐怖心こそ身を守る大事なサインであり、この本能から逃れるのは容易なことではありません。知ることで優位性が得られると学習させられているのでしょうか。知っていないダメな自分、知っていて優位性がある自分という二つの自分をイメージすることもできます。できれば優位なじぶんでいたい、”何とかしたい”という我が自動的に働いてしまいます。自分を見るということが恒常化して、優位でありたいという本能によって”何とかした”が何度も何度も繰り返されます。”何とかしたい”という自分が本来の自分だと思い込んでしまったというのが現実ではないでしょうか。
 さて、僧は達磨大師が西方から中国に来られた真意(=意味)はなんでしょうか。達磨大師は何を伝えようとしたのでしょうか。釈迦は何を得て、我々は達磨大師から何を教えていただけるのでしょうか。仏法とは何であって何をどのように得たらいいのでしょうか。達磨大師は何者で我々をどのように変革しようとしたのでしょうか。達磨大師の心境はどのようなものだったのでしょうか。我々も達磨大使と同じような知見に達することができるのでしょうか。その知見は如何に。その他いくらでも聞きたいことがあるかもしれません。

 

 趙州和尚の返答は、庭にある柏の樹だということです。庭石でも床でも柱でも畳でも・・たった今見えているあらゆるモノを返答しても同じことです。柏の樹に特別の意味があるわけではありません。あなたがただ見えているというたった今の事実。二項対立(=分別)する以前の、そのままがすでに仏性が働いているのではないですか。あれこれと考えるというのは、自分と対象を分けて(=分別)して迷うことです。迷いのないたった今を味わってみてください。
 何でもかんでも意味や価値があるはずだという前提でいきていませんか。どうやって生まれてきたかも説明できなし、いつどうなって死んでいくかも皆目見当もつきません。誰か(=神?)がなんらかの意図で世界を動かしていると考えるのはいかがなものでしょうか?戦争でしか使えない地雷を作っていることに人生の意義を見出せるでしょうか。何とでも言えるし言われます、衣服・飛行機は二酸化炭素の排出量が多いという人もいるし役にたっていると言う人もいます。ある結果で全否定されたり称賛されたりします。研究に結果が伴なわないとお荷物だとされ、後にノーベル賞に該当すればすばらしい研究者だとされます。ダイナマイトは創造のために破壊してくれたけど、戦争に使われて多くの人命を奪ってしまった。
 他の生態系にとって、人間のやっていることは全て意味も価値もなく地球上に存在してもらっては困るかもしれません。意味や価値以前にすでに生きているのですからそれで充分。意味や価値は我が作り出している物語でしかありません。意味や価値がなければ生を止めるのでしょうか。仏法を知的に知ることにどんな意味があるというのでしょうか。自分(=我)の描く物語からドロップアウトすると済々するかもしれません。自分(=我)が何を思うがほったらかしにする勇気が必要です。

 

 「山は動く。」「水は流れず、橋が流れる。」という言葉あります。勝手に解釈してみました。「山」は「事実・結果」であって動くものではありませんが、事実にたいしてどうのこうのと解釈したり講評することができます。山を勝手にあとから動かしていることはありませんか。天動説・地動説のどちらかを信じたり知ったから知らなかったからで日々の生活が一変することがあるでしょうか。私たちは川という客体(=対象)の方が変化しているという見方をしています。主体があって、対象があるとしています。対象にすることで主体(=私)が生まれているかもしれません。対象とするまでは対象は対象ではありません。見たこともないまったく知ることのできないモノは対象にはなりません。見たこともない水(=対象)が流れることはありません。橋(=動かない私)が対象をとらえたり探しに行ったりして動いて(=流れる)います。主客未分であれば、どちら(=主客)も流れることはありません。分別することで混乱を作り出さない。こうあるべきという世界は、各人の妄想で作り出した世界ではありませんか。思考によって作り上げている「自分にとって意味のある世界」以前で働いているモノが本来の自己です。意味づけ以前で、ただ見えているただ聞こえているを知覚している自分。無分別であり主客がないので絶対無。
 なんとでも解釈できるということは、正解なんてないということです。頭の中のお遊び。考えることのバカらしさを実感する。考えて何かを得たり何かを掴むことなんかありません達成することがあるのかと立ち止まっていいかもしれません。考える以前のたった今を生きています。どうでもいいことが次から次と湧きおこっているし、どうでもいいことを追いかけてはいませんか。必要な時に考えという道具を使えばそれでいい。何でもかんでも思考がすべてだという考えからいったん離れることも必要ではないでしょうか。
 
<余談>
 ある独裁者は自分こそが正しい(=自己正当化)のであて、戦争で他国の人が苦しんでいたとしても自国のために行っていると正当性を強調します。彼は最前線の戦場で戦ってはいません。安全な場所で報告を受けて指示を出しているだけなので戦場での恐怖を感じることはありません。
 カタールW杯開催費用が42兆円というこのようで。大洪水に見舞われたパキスタンの国民も浮れてTVに見入っているのでしょうか。東京オリンピックは、スポーツに大金がつぎ込まれることを知っている一部の人の錬金術に利用されました。戦争がお金になるということを経験したアメリカは、戦争を利用して今日の繁栄を享受しているのでしょうか。表では世界の警察の顔をして裏では脅してみかじめ料をもらったり、高額な戦闘具を売りつけているかもしれません。表裏一体が現実の姿です。片手の手では握手して、もう一方の手には何を持っているのでしょうか。混沌としているのが現実のありのままの姿です。歓喜の裏に悲劇があり、悲劇の裏に歓喜があります。悲劇が大きければ大きいほど歓喜も大きくなります。どちらも一枚のコインであって同時に存在しています。悲劇か歓喜(=事象)のどちらに流れるか分かりませんが、橋(=見ている人)がどちらかに流れてしまいます。「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

nice!(31)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。