「死にとうない」という言葉だけ取り上げれば、何も達成していないし人生にやり残したことが多くありそうに感じられるのも当然かもしれません。
youtubeで”Tell me why”という曲を見つけましたのでご紹介させていただきます。
生命体(=生き物)の本能は生存・繁殖です。生命体として生き残るには「戦うか逃げるかの反応」が自動的に行わなければなりません。脳内のホルモンが勝手に分泌して行動するようになっています。多くの餌を獲得することができ、繁殖力が旺盛である必要があります。我々は生き残れる素養が備わっていたからこそ今ここに生存しています。私達が目にすることができる個体は、生き残る術を身につけた個体だということが言えます。
木々や花々や昆虫・・・あらゆる生命体が生存競争に打ち勝って存在しています。全ての生命体が生存競争の末に存在しています。この生命体(=自身)と他の生命体を愛おしく感じることができます。
一人の人間が寿命をするのにどれだけの生命体からの恩恵を受けることになるのでしょうか。生まれてから今までに、数え切れないほどの生命体が自身の身体の中に入って(=水・酸素・窒素・肉・植物・・)きたのでしょうか。接してきた一切がエネルギーに変換されてきました。私達は地球にある物質を取り入れているので、地球の合成物だと言うことができるのではないでしょうか。自分で身体を作ったのではなく、周りから作られたモノです。
原始の生命体は、膜に囲まれてその中に一本の筒があって、その筒の入口(=口)から食料を取り入れエネルギーに変換し、使えないものを出口(=肛門)から排出する。個体の行動を制御する神経が集まり脳となり、出口に近い筒から腸ができ更にエネルギーを効率的にするために腸から様々な臓器ができたのでしょうか。
所詮、人間も生命体であって食って寝て(=脳の休息機能)動いて排泄しているだけのものです。高尚なことを言う前に、機能としての肉体を直視する必要があります。人間以上の何かになることなどできません。
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人間の欲求には「食欲・性欲・睡眠欲(脳の機能)」さらに、承認欲求または知識欲求があるそうです。欲求は満たされればおさまるのですが、欲望はいつまでも火種となって燃えています。マズローは生理的欲求・安全欲求・社会的欲求・承認欲求・自己実現欲求という5段階説を提唱しました。”Tell me why”とは、知っていたいという欲求から出る言葉です。現実がどうしてこうのようになっているのか、誰も説明できる人はいません。因縁和合して現実があるだけで、ブラックボックスになっています。
「どうして」を探求しているうちに人生は終わってしまいます。「無駄な探求」と言っているのに、一生をかけて探求している人もいます。たった今を生きているということが素晴らしいのであって、何が起こっても不思議ではありません。苦と言ったり楽と言っているだけのことで、起こっていることを否定したり坑がなったりしてもしょうがありません。
愛と憎しみはコインの表裏です。信頼と裏切りもコインの表裏です。裏切る人がいるおかげで信頼されることができます。不味い料理のおかげで美味しいということがわかります。闇があるのではなく、光の不在が闇です。愛や憎しみなんてどうでもいいというのが最高に愛に満ち溢れているかもしれません。迷いも悟りもどうでもよければそれが涅槃ではなでしょうか。
悟りの境地に52段階あるとか、探したり得たりする対象としてしまいます。ただ見えている、ただ聞こえているということにどんな違いもありません。お釈迦様が桜をただ見えているのと、凡人が桜をただ見えているのにどんな違いがあるというのでしょうか。ただ見えていることに違いはないのですが、頭を働かせて雑念との鬼ごっこに振り回されているだけが違うかもしれません。考える癖がいつまでも残っているかいないか。考えてもどうしようもないと分かっているか、考えればなんとかなるとしているかの違いかもしれません。
極端な話しですが、”Tell me why”と誰かに聞いて知ったとしても、行動しなければなにもなりません。立派な言葉や美辞麗句を言っている教えがあるのに、世界から争いが絶えることがなにのはどうしてでしょうか。行動しない役にたたない教えだからかもしれません。立派な服を身にまとった聖者は口ではもっともなことを言いますが、何も行動には移さないということが白日の下になっています。
人間が行動するのは生存欲によっているからです。誰もが「自分かわいい」のですから、自己の生存を第一に考えて行動することになります。
戦争を主導している人物が為政者だと分かっていても、生存(=生活)のために従ってしまっています。独裁国家では幼少期から洗脳されて「神」と崇めさせられているかもしれません。
私達はどうしても知識を得て、思考してなにかを得るという思考パターンから抜け出ることができません。なるほど知っていないよりは知っていたほうがいいかもしれません。困ったことに、世間では教えと財産を交換させるような宗教もあります。教えを信じて布教している人は悪いとは思っていない(=自己正当化)ようです。財産よりは教えのほうが価値があると思い込んでいます。教えで救われてご飯が食べられるのは、教えを受ける人から金品をもらえる人だけです。
思考で何かを得ようとすることをやてみる。(坐禅)なんとかしたいという欲求を相手にしない。あるがままでいいということが少しずつ分かってきます。足し算(=得る)から引き算(=相手にしない)することで、頭のおしゃべりが減っていきます。見えたままが何一つ過不足がないことに気づきます。なんとかしようという自分との関わりが後退したということかもしれません。
言葉自体に力があるのではなく、言葉を聞いたり文字を見て行動しなければなりません。当たり前の話ですた、スポーツ選手がコーチの言葉を聞いただけで技ができるようになったりはしません。何度も何度も繰り返し練習して技を覚えて使えるようになります。このブログを単なる知識としていては、何も変わりません。文字を見ただけで劇的に変化したら大変なことです。怖くて文字を見ることができません。ヴィパッサナー瞑想を本当に実践すれば効果を実感することができるのですが・・・・。
・あるがままをそのままに受け入れる。神も仏もどうでもいいというのが最高の信仰かもしれません。
・言葉で世界が変わるのなら、とっくに世界は変わっています。
・世界の現象を誰かが仕組んでいるのではなく、因縁和合して起こっているだけです。
・天国と地獄は同居しています。野球で9裏満塁、2アウト2ストライク3ボールで3点差で勝っていたのに、最後に逆転サヨナラホームランを打たれたら天国から地獄となります。
仮想通貨長者だと思っていたのが、仮想通貨取引所が経営破綻して財産が全て消えてしまった。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
万物(=一切)は流転してとどまることがありません。私達の身体(=体の中の細胞)も思いも生じては消えています。私達の生きている世界は諸行無常であり、恒常不変でありつづける何かはありません。エントロピーの増大という法則によって、確固たる何かにすがりたいという願望はことごとく打ち砕かれてしまいます。執着して手に入れたとしても刹那の出来事でしかありません。期待や願いは叶ったとしても一時的であるので、苦であると感じてしまいます。死を間近で見ることで、永遠の命を願っても無駄だとだれもが理解しています。そこで似たような生命体を残していくしかありません。
魂や心という概念で継続性を願いますが、ただの言葉であって実体はどこにもありません。どこに不変の魂があるというのでしょうか。永遠を願うことによって発明された定義であって、単なる言葉(=形・音)であり漠然とした呼称です。
当然のこと(=法則・真理)を当然として受けいれることができるのなら、騒ぎ立てることもなく法(=法則・真理=諸行無常)に委ねる他ありません。(諸行無常・是生滅法)
自然の理に従えば、自然の理に逆らって苦しむこともありません。苦とすることがなければ、苦とはなりません。仏道では、苦を苦としないために八正道というものがあります。正しいというのは自然の理に従うということではないでしょうか。思い・行為・精進・・・を自ら(=我)の努力によって、思い通りにすることではありません。自らの思い通りにしようとすることは、道理に逆らっています。無明とは、法則・真理がありながらその法則・真理に逆らって「苦」を何とかしようとすることではないでしょうか。思い通りにならない諸行無常の世界に生きていながら、苦(=例えば四苦八苦)をなんとかしようと思うこと。
苦は修行や坐禅によって得た力によって消滅できると勘違いしていないでしょうか。修行によって何か得たり掴むことはありません。聖者は、苦に立ち向かって苦をバッサバッサと切り倒して解決するのでしょうか。そんなことは馬鹿げたことは、おとぎ話でしかありません。苦をそのまま受け入れれば、苦は苦ではありません。当たり前のことの一つ(=苦)であり、苦は解決する相手ではりません。あたり前に出会う出来事の一つでしかありません。当たり前のことを二項対立とするので、苦楽となります。苦もなく楽もなく、ただの出来事を苦楽として分けて一方が悪くて逃げたり避けたりしたいと思い込んでしまっています。
楽しいことが起こって良いのと同じように苦しいことが起こっても良いじゃないですか。
「ホォ、このような苦しみがあるのか」と歓迎してみる。いくつかある感覚の中の一つの感覚として味わってみる。
粛々と日々の生活を送る。苦も楽もウェルカム。楽があって楽が気に食わずに苦しむ人もいます。スポーツマンで自分の身体をいじめる人がいます。痛ければ痛いだけ。辛ければ辛いだけ。貧しければ貧しいだけ。・・・どこが間違っているのでしょうか。痛い時に痛くなければ、医者に行きそびれて発見が遅れて致命傷になってしまいます。辛ければ辛さを味わってみることも大切です。辛くないだけで幸せを感じられて感謝することができます。
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ただ見えている、ただ聞こえているというのは事実であり現実です。しかし、見えているモノ(=客体)と見ている者(=主体)という二つに分けて考えてしまう。そこから現実離れしたフィクションの物語の中で対話することになります。事実と願望という二項対立によって考える癖があります。言葉というフィクションで迷うことになります。
言葉はどうしてフィクションなのでしょうか。見えているモノである”石”がどうして「石」という文字(=形)であり「イシ」という発音(=音)なのかを考察してみてください。英語では「stone」という文字(=形)であり「ストーン」という発音(=音)です。「石」という文字は固くもないし、「イシ」という音を聞いたとしても石の感覚を味わうことはできません。「甘い」と言われても甘く感じることはありません。
旧約聖書がフィクションであることは子供でも知っています。「初めに言葉ありき」という有名なフレーズがあります。神の出現する前から誰かが神の出現する場所で待ち伏せしていたのでしょうか。神が聖書の作者を招待していたのでしょうか。
作者が、神の所業を見ていて神が発音した音が言葉であるとすぐ分かったのでしょうか。作者の方が先に言葉を話すことができていたことになります。神の所業をどこに書き残したのでしょうか。
神の言葉が分かったとして、「光あれ」と言う前は真っ暗なので何も見えていないはずですが・・・。子供には面白いかもしれませんが、科学によって証明されていることが理解できている現代人からすればバカバカしい作り話のオンパレードです。
誰も見ていないことを良いことに、聖者の逸話は大げさに書かれています。ある禅僧が大声を出すと数キロ先まで聞こえた。虎を猫のように手懐けることができる。身体が石のように固くなり火の中から燃えずに出てきた・・・・。よくもまあ、作り話も程々にしてほしいのですが・・・。
宗教はマインドコントロールであって、人々を統制するのに使われてきたという歴史もあります。元を正せば同じ人間です。特別な能力は映画の中の話であって、どんなに鍛えても限界があります。真言(=マントラ)を唱えてどうにかなったら大変なことです。何かを祈っただけで実現したら世界で戦争は起こりません。苦労することもなく、楽しいことばかりでしょうか。何かを書いて言葉に出すだけでは何も実現しません。行動・行為によって少しずつ変わっていきます。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
]]>私達は、誰もが既に”本来の自己”(=気づきそのもの)であるので、わざわざ”本来の自己”を探し出す必要はありません。絶えず”本来の自己”(=気づき)とともにあります。何とかして”本来の自己”を探し出そうとしますが、”気づき”は気づかれる対象(=客体)となりえないので探すことはできません。気づく主体が客体になりえないのです。眼が眼を見ることができないのと同じことです。
絶対主体である”気づき”は”苦”を感じている客体ではありません。全ての生命体は”苦”を逃れ”楽”でいたいものです。”苦”と感じなければ”楽”であって、”楽”を求めようとすればどうしても”苦”が立ちはだかります。権力・地位・名誉・財力・・・を求めようとする渇望があるかぎり、その渇望との葛藤(=ギャップ)によって苦しむことになります。権力を失うことが大きな苦痛となる人にとっては、権力に執着することになります。社長を退いても会長として権力を持っていたい。
「悟る」ということは「悟っていない自分」をこしらえなければ実現しません。幼児は「悟る」ことはできません。なぜなら、「悟っていない自分」がどういうものか定義できないからです。大悟も小悟もないのですが、数十年の月日をかけた大疑団のご褒美として「大悟」と言ってあげなければなりません。
何十年も迷ったはてに「悟り」なんてなかったという大きな衝撃を「大悟」と表現してやらなければ報われません。迷いが悟りを作り出していたことに気づきます。悟りを目指しているから向上心があるのではなく、迷っている自分が許せないからかもしれません。「迷悟」は一枚のコインの表裏であってセットになっています。迷いがなければ悟りもありません。
お釈迦様は王子の生活を捨てて、すべてをやり尽くした後で「悟り」を開いたとされています。これ以上ないストーリーによって「悟り」が命の次に価値があるかのようにされるようになっているのでしょうか。キリスト・ムハンマド・・・それぞれに壮大なストーリーがあることによって権威づけされていることに気づく筈です。大きな苦難があればあるほど人の心に訴えることができます。記憶に残り崇拝に値する人物像ができあがることになります。命を削って修行したおかげで不思議な力を授かった特別な人だとか・・。お決まりのパターンです。
もし、荒行の見返りがなかったらどうでしょう。滝に打たれたり数百キロを走ったりする犠牲があるからこそ見返りとしての達成感があります。他人が敬ってくれます。この艱難辛というストーリーによって、人間心理の深い部分が動かされて操られているかもしれません。
世界は常に移り変わっていて、同じ状況が続くことはありません。エントロピーの増大によって元の状態に戻ることもありません。誰かの心境も常に変化しています。誰かが達成した心境と同じになりたいと考える人がいるかもしれませんが、変化している刹那の心境を保持することなどできないし他人の心境など知るすべもありません。できるとしたら”無”の心境や熟睡時の捉えることのできない状態だけかもしれません。何も思い浮かばずに、只見えている・只聞こえているということであれば同じ体験をしていることになります。見えていることに価値や意味をつけづに見入っていることは体験できます。
音を聞いたりモノを見たりすることで、ある心境に達したとしても一時的なことであってしばらくすれば消え去ってしまいます。
「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」
言葉(=音)を聞いたり文字(=モノ)を見たりすることで、何者かに変化したり何かを得たり掴んだりできるというのは思考によって作り上げている物語かもしれません。
極端に言えば、聞いたことのない言葉は鳥の鳴き声を聞くのと同じようなことです。見たことのない文字は葉っぱの形を見るのと同じようなことかもしれません。ただの音が聞こえてただの形が見えているだけです。フランス語で書かれた聖なる書を見て心境が変わることはありません。フランス語でありがたいお話を聞いてもチンプンカンプンです。母国語の聖典やありがたいお話を聞いて何かを得たり掴んだり、何者かに変化できるのならいいのですが。高等教育を受けた人がどうして何年も修行しなくてはならないのでしょうか。
聖典は読みきれないほどの数があり、ありがたいお話はいつでもどこでも聞けるようになっています。始祖といわれる人から何千年も経過していながら、言葉や文字で伝えられないということはどういうことでしょうか。伝える人が悪いのか受け取るほうが悪いのでしょうか。言語自体に問題があり、伝える以前に互いに勘違いしていのかもしれません。文字にした時点で偽物ですので、その偽物を見て本物を味わうことはできません。ある人の感覚を”温かい”と文字にして、”温かい”という文字を見た人がある人の感覚をそのまま感じられたら大変なことになります。”苦しい”という文字を見て苦しむのなら、”苦しい”という文字を目にしたいとは思いません。
苦労(=修行)しなくては達成しなということが刷り込まれているかもしれません。修行や知識や思考によって救われることができると思い込んでいないでしょうか。経典の知識で救われるのなら、救われない人の方がどうかしているということになります。
選択肢が多ければ多いほど悩むことは多くなるのではないでしょうか。決められた通りに生きていけば選択や執着から離れることができます。問題があるのではなく、問題としていることによって問題となっていないでしょうか。
遊び回っている小学1年生が大人のように、儲けようとか偉くなろうとか考えることがあるでしょうか。子供には、大人のような悩ましい問題が多くはないようです。
得て掴んで達するという思考を逆転させて、得よう掴もうとしていることを諦めれば掴もうとする執着が剥落します。権力を得ようとすることからかけ離れている人は権力を得ようという渇望から解放されているので、権力を得ようとかしがみつこうという問題はありません。
禅寺では所作が決められているので、選択する必要が無くいちいち悩む必要はありません。世間から離れているので、世間からとやかく言われることもありません。権力・地位・名誉・金銭・食事の心配・・から解放された環境にいるので、それらは問題とはならずに修行に専念できているようです。
・聖者であるには、艱難辛苦のストーリーが必要とされます。
・だれもが変わらない本質である”気づき”が備わっています。誰もが”仏”(衆生本来仏なり)
・向かえば背く。得るようなことではないのに得ようとする。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
]]>「正見」を検索して見ると以下のような見解がありました。(下線部にリンクを貼っています)
正見:「見解がない」ことが正見であって、真理なのです。
(超えるのではなく、誰もが分別以前で生活している「仏」なのですが・・・)
正見:正しく見るとは、正しくものを見ることが難しいと知ること、そして自らの見方を常に改めていくことのできる姿勢を保とうとすることでもあります。
正見:「正」とは「正しい」ということです。それはこの世の秩序を守るために 拵(こしら)えられた既成の価値のことではなく、今・ここで起きていることに、利害や打算を抜きにして、「ありのまま」に接するということです。
正見:私たちが求めている「正しさ」とは、結局、「大宇宙を創っている根本仏の理法に沿った心のあり方」のことを言っているのです。この正しさのなかには、宗教でなければ近づくことのできない、アプローチすることのできない、信仰心というものが、当然ながら含まれています。
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次に漢字の成り立ちを「漢字/漢和/語源辞典」で調べてみました。
正:会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました。
征:会意兼形声文字です(彳+正)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、「まっすぐ進撃する」を意味する「征」という漢字が成り立ちました。
見:会意文字です(目+儿)。「人の目・人」の象形から成り立っています。「大きな目の人」を意味する文字から、「見」という漢字が
成り立ちました。ものをはっきり「見る」という意味を持ちます。
義:会意兼形声文字です(羊+我)。「羊の首」の象形と「ぎざぎざの刃のあるノコギリ」の象形から、羊をいけにえとして刃物で殺す事を意味し、そこから、厳粛な(真剣な)「作法」・「ふるまい」を意味する「義」という漢字が成り立ちました。
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イソップ寓話に「粉屋の息子とロバ」というお話があります。
「正」は各人が「正しい」としていることが「正」ということです。もし、自己の「正しい」が他人から見て「間違い」であれば、その「正しい」は他人から「偏見」とされます。ある国が「正しい」として行う侵攻や戦争は、相手国も「正しい」のでしょうか。人の命を奪い去る戦争も互いに「正しい」ということになってしまっています。「正しい」はプロパガンダによって容易に変化させられます。子供の頃の「正しい」と大人になっての「正しい」は同じではありません。環境活動家が活動しているという事実は、環境に対して「間違い」を正したいということです。問題・葛藤・混乱があるということは、「正しい」と「間違い」が同居していることに他なりません。「万事塞翁が馬」というお話も、その時の悪い事が後から振り返ってみればそうでもなかったということになります。誰もが真に「正しい」として判断して行動しているのなら争いが起こるわけがないのですが・・・・。争いが起こるということは、個々人の勝手な「正しい」で行動しているからかもしれません。
法律・条例の施行日の前日までお咎めがないのですが、施行日から罰せられることになります。社会問題として表面化される以前は、選挙応援をしてもらってもよかったのに今では「非難」されることになります。アメリカで以前は犯罪であった薬物使用が、少量であれば合法となっています。「正しい」や「間違い」は行ったり来たりコロコロ変化しています。賭け事(=競馬・競艇・カジノ・・)も国に税金を払えば合法ということです。
漢字の語源から「正」を紐解くと、自分で構築した見方・見解が「正」ということかもしれません。何度も記述してきましたが、「正義」の反対は「他の正義」だということです。「正見」の「正」は見解以前の見えたままということではないでしょうか。
包丁は善でも悪でもなにのですが、使った結果に後づけされて評価されます。包丁は見えたままの包丁でしかありません。赤ちゃんには何のレッテルも貼られていませんが、成長して社会の一員としての行動した結果が善悪に分けられてしまいます。
最近「論破」・「マウントをとる」という言葉を見かけます。「正しい」と主張しているのは、自己の見解や正当性です。自分が「正しい」と主張することは、あなたは「間違い」と言っているのと同じことです。
日本で「正しい」とされていることでも外国では正しくないことはいくらでもあります。文化・慣習・躾等々として当たり前に行っていて身についているだけのことです。当たり前のこととして苦もなくやっていることが「正しい」となっています。「正しい」からやっているのではなく考えず出来ていることだけかもしれません。合理的・簡便・扱いやすい・道理・・を「正しい」という言葉に置きかえているのではないでしょうか。
「正しい」と思った瞬間に二項対立としています。「正しい」というのは「間違い」がなければ成り立ちません。「正見」での「正」ということは、二項対立とする以前の状態を「正」ということではないでしょうか。「正見」は分別が起こる以前の”あるがまま”を只見ることかもしれません。
私達は修行したり教わらなくても、だれもが只見えているし只聞こえています。だれもが「正見」が出来ています。私達は、言葉として思考することで勝手に二項対立になっています。
「花」が見えると様々な感覚が起こります。感覚の一つを綺麗だと言葉にすると対の概念である汚いが潜んでいます。「綺麗・汚い」という一つのコインの表裏を行ったり来たりしているだけのことかもしれません。「綺麗」な花が枯れてしまえば・・・。
・正しく見ようとすることは「正見」ではありません。「正しく」というのは、対極の「間違い」と表裏一体です。宗教はその宗教の「正しさ」を守り通すことに固執しています。他の宗教の「正しさ」を容認することはありません。
・この宇宙での出来事に「正しい」創造・維持・破壊があり、「間違った」創造・維持・破壊があるでしょうか。宇宙に何らかの意図があり、「正しい」と「間違い」を区別して生起しているなんて人間だけができるすばらしい想像力です。起こっていることに後づけしているだけです。使命・意味・価値も後づけであって、混沌とした宇宙の出来事の一つ一つに使命・意味・価値は・・・・。
陽だまり・川のせせらぎ・蝶の羽ばたき・鳥の鳴き声・桜の開花・舞い落ちる雪・霜柱・ダイヤモンドダスト・鳥の羽ばたき・・・言葉を後から割り振っただけで、意味なく起こっているだけなのですが・・。どうしても意味や価値を見出したいのが人間の衝動かもしれません。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
]]>我々は何でもかんでも知ろうとします。知ることで危険を回避したり、問題を解決する手助けになります。「知ること解決」という図式が出来上がっています。人間が作り出した「社会」という仕組みの中でより良く生きていくためには、仕組みを熟知している方がいいようです。知らないよりも知っっていることで機会損失を少しでも減らすことができます。社会での仕組みが細分化されていくと、それだけ専門的な知識が要求されます。
公的な機関が試験によって最低限の能力を認めて与えるのが「資格・免許」です。ある業務には免許がないと罰則があります。我々が接触する対象人数によって「エチケット・マナー・ルール・法律」と強制力が強くなります。法律では罰則で強制的に従わせ、社会秩序を守るようにしています。各々が好き勝手に行動することがないように、統制しなければなりません。
動物は誰に教わることなく身についている本能によって行動しています。人間は人間が作り出した仕組みを学ばせる必要があるようです。
自分は何者であり、何のために生きているのかという問があるのは当然のことです。仏教では、これらの問に言及していないということを「無記」と言われています。「毒矢のたとえ」のお話で、手当(=苦の解消)しようとしているのに毒矢がどこから飛んできたかを知ろうとします。知ろうとしていることは苦の解消には何の助けにもならないようです。
禅の公案に「祖師西来意」やどのよう修行すれば何かを得られるかのような問があります。私達はすでに「それ」であることにくづけばいいだけなのですが・・・。ある事象がどんな意味や価値があるのかを知ることと、今生きていることと関連づけてしまいます。
意味や価値のあることが「それ」だと勘違いしています。意味とか価値は人間が勝手に意味や価値をつけたものであり、あと付けです。石油としての有用性が分かる以前は異臭のするやっかいなモノでした。レアメタルもただの鉱物であって見向きもされませんでした。時代によって意味や価値は変化します。寿司がメジャーになる以前は、生の魚の切り身やタコを食べるなんてと思われていたかもしれません。
個人によっても意味や価値は異なります。自分にとって価値があるのかないのかで判断するのが人の常です。人間だけが意味や価値を追い求めています。猫にとってダイヤモンドには何の価値もありません、ダイヤモンドよりも猫じゃらしの方に飛びついていきます。ある宗教団体の聖典が3,000万円という価値があるというのは驚きかもしれません。
ある国のリーダーが他国を侵攻することに意味があるとしています。侵攻する方は人を殺傷することに意味があるすれば、侵攻されている国の人はたまったものではありません。人生の意味や価値は人間が勝手に思い込んでいるだけで、他人にはかえって迷惑なこともあるかもしれません。
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人間的な知識欲を満たすことと混乱・混迷という苦悩の消滅と相関関係は無いようです。お釈迦様が何を体得したのか知りたい、その体得内容を知ったらかどうなるわけでもありません。体得したのではなく、阻害していたことから解き放たれたら「それ」であったことに気づいただけかもしれません。「何とかしよう」という思いに一々付き合わなければいいだけかもしれません。「何とかしよう」という思いが不安の元凶だなと気づいているだけにして放っておく。不安は不安のままにしておけばいつかは消え去ってしまいます。子供の頃の不安が続いているでしょうか。痛いは痛いだけのことであって、知らぬ間に消え去ってしまいます。諸行無常でありエントリピーは増大します。何もかもが消え去るということは誰もが経験しているのではないでしょうか。消えるということで救われているかもしれません。
<何が「それ」>
・知ろうと思っていることに気づいているのは何でしょう。
・不安だと知っているのは何でしょう。
・意味や価値がなくてはならないと思っていることに気づいているのは何。
?
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
]]>概念は実体がないにもかかわらず、大事なことのように扱われています。その実体のない何かに振り回されているのが我々の実状かもしれません。ある国のリーダーは、自らの価値観によって戦争を起こします。両国で多くの犠牲が生じているにもかかわらず正当化しています。ある人の意味や価値が全員に受け入れられるわけではありません。
正義の反対は悪ではなく、対立する正義ということになります。宗教戦争では、お互いの正義を旗頭にして戦います。お互いに悪いとは思っていないので凄惨な戦いとなります。国の戦いでは愛国心を持ち出します。愛国心とは裏返せば相手国に対して嫌国心を起こせということになります。自国を愛するということは他国を打ち負かすことに他なりません。
頭の中にある概念に触れることも出来なければ取り出すことも出来ません。他人の頭の中にある言葉を見ることはできません。誰が何を思い何に迷っているかなどサッパリ分かりません。脳で使われるエネルギーの60〜80%は「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれるどうでもいい雑念に使われているそうです。日中にどうでもいい雑念に脳が使われて疲弊することになります。脳はリフレッシュしなくてはなりません。夜になると五感を遮断して脳を休めなくてはなりません。どうしても睡眠が必要とされるようです。
仏教での「我」は「生滅変化を 離れた永遠不滅の存在とされる本体といわれるもの」です。多分人間だけが使っている概念は、必ずと言っていいほど反対概念と対になっています。「有る」ということは「無い」という概念があることで成り立っています。「無い」という概念があるというのもおかしなことですが、「無い」ということがあると定義しています。空気が「有る」ということは空気が「無い」ということが前提となって使われます。この世で変化しないものはありません。電子が変化しなければ電気として使われることはありません。変化変容することでエネルギーとして使われることになります。宇宙という固定した何かではなく、変化し続けているプロセスが宇宙。恒常不変という概念がありますが、諸行無常である宇宙にあって恒常不変なモノは無いということになります。
”無我(勝手な働き)なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。(阿含経)”
勝手な分別に振り回されることが苦をもたらしていると気づかないことが無明かもしれません。本来の自己(=意識)を分からずに、何とかしようとしている思いを「自己」に振り回されていることが無明。
一切が変化しているので見えたり聞こえたり感受することができます。空気中を伝わる音の波によって音として認識されます。意図的に見聞覚知している人などいません。誰もが無我無心(=勝手)に聞こえているし見えているということになります。無我になろうとしているのが厄介な「自己」です。この何とかしようと頑張っているのが苦悩の根源である「自己」ということです。
人間が感受している情報量の80%が眼からの情報と言われています。眼によって知るということは、眼によって惑わされているとも言えます。知るということも迷うということも、同じコインの両面(裏表)でのことです。知らないから迷う、迷うからこそ知りたいと頑張ります。不味いと感じるからこそ、美味しいと感じます。不味いおかげで美味しいを味わえます。調子はずれの歌のおかげでプロの歌を聞きたいということです。
分別によって苦悩を作って自縄自縛になっていることに気づかないことが無明。一々の分別に振り回されずに放っておくしかない。沸き起こった思いは必ず滅するので構わない。「無い」という概念によって実在という概念があります。「私・自分」があるという概念が成り立っているということは、「私・自分」というのが単なる概念であって「私・自分」の実在が無いという証明となります。
「私・自分」が見聞覚知しているのではなく、五感が勝手に働いています。見えていることと見ているということはちょっとニュアンスが異なります。顕微鏡や望遠鏡を使えば見えるにもかかわらず、見えるものしか見えていないのです。見たくなくても見えるし、見たくても見えていません。眼が認識したことを、所有物として捨てることもできないし、他人に分け与えることも出来ません。
「見えている」段階では主客未分の状態であり見る者と見られるモノという分離はありません。見ようとしてみている主体もないし、見られる客体というモノもありません。反射した光の波長は勝手に像として見えてしまっています。
「見ている」という段階では眼識が働き、二項対立のフィルターを通して分別されます。見られるモノがどういうモノなのかを瞬時に判別します。この判別にこだわり執着することで振り回され迷うことになります。取り合わずに放っておけば消え去りますが・・・。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
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]]>二人の僧が、風になびいている旗を見て議論しています。事実は見えたままの一つですが、「旗が動いている」「風が吹いている」と意見が割れてしまいます。そこに慧能大師が「心が動いている」と指摘したというお話です。
何の問題も無い見えたままなのに、二項対立によって分けてしまい混乱・苦悩を自らが作り出しています。私達の頭の中で勝手に行われている問答を指摘しています。
痛い・痒い・苦い・老いている・病気である・・・という二分する必要のない事実そのものでしかありません。痛いを考えても痛いはどこかへ飛んでいくことなどありません。歯が痛くてしょうがなければ、歯科医院に行って治療してもらう他ありません。痛いを考えて、考えで”何とかしようと”と考え続けるても考えを巡らせて続けているだけのことです。
旗が動かなくなったら、「旗が止めた」「風が止んだ」と議論するのでしょうか。自分ではない他の力によってこの状態になったと言って他人や他の存在に責任転嫁するのでしょうか。
見られるモノ(=客体)と見る者(=主体)として分けてしまう癖があります。認識されるモノと認識する者の二つに分けてしまうと混乱・葛藤・苦悩が生じることになります。起こった事実があったということが永遠に続いています。事実に対して、比較・評価・意味づけ・価値づけ・・・を行うと良いとか悪いとかの二項対立となり混乱・迷いとなります。
私達は、見られるモノは自分以外の存在であると学習されて思い込まされています。多分、赤ん坊のときは自分(=我)という観念がないので、自分以外というモノが存在していなかったかもしれません。見えたまま・聞こえたままだけの事実で生きていた。自分(=我)が生成されると、見ている自分(=我)と見られるモノという二元対立としての見方によって見るようになってしまっています。普段の生活で見ている自分が、どこかにいるでしょうか。私が見ているというのは、後づけであって私に関係なく見えているだけです。私がセピア色で見ようとしてもセピア色で見ることなどできません。見ること以前に私を働かせて私が関与することなどできません。そこに私などどこにもいないということになります。
「バーヒヤ経」を参照してみてください。
赤ちゃんの頃は、見ている何者(=自分・我)として見ているのではなく、見ているという意識もありません。見たまま・聞こえたまま・・・・そのままがあるだけ。
成長するに従い、見られるモノという存在と見る者という自分という分離が起こります。考えている時だけ自分(=我)がいることになります。見たとか聞こえた何かを振り返って評価すると、見た自分・聞こえた自分がいなければなりません。ただスポーツやTVを見て聞いているときには、自分(=我)などどこにもいません。評価・意味づけしなければ、見えているまま・聞こえているままです。普段は、本来の自己(=意識)が働くままです。対象(=客体)を評価するときに、どうしても自分(=我)を使わなければなりません。あるがままに起こっているだけなのに、こちら側に自分(=我)がありあちら側に対象がある。その対象を議論の対象としていじくり回して遊んでいるということです。
考える対象がある限り、混乱・悩みが静まることはありません。
無門慧開和尚は、「風動くに非ず、幡動くに非ず」更に「是れ心動くに非ず」と言っています。「心」を対象として探したら悩みの種をまいていることになります。何でもかんでも思考の対象とするこぎりは混乱・悩みは尽きません。見えたまま・聞こえたまま・考えたままです。評価して、自分の評価を正当化して自分(=我)の思い通りにしようとするから苦しむことになるのではないでしょうか。評価・意味づけ・価値づけの癖があります。
真理はどこかにあって、掴んだり得たりすることができるのでしょうか。修行した誰かや聖なる書を読んだ人が真理をが掴んだり得たりするのでしょうか。いつでもどこでも真理そのものです。いつでもどこでも真理でなかったら、宇宙のどこに真理と不真理が存在しているのでしょうか。
迷っている・苦しんでいる自己を認めると、迷っていない・苦しんでいない自分を見出さなければならなくなります。迷ったなら迷ったまま・苦しいなら苦しいままである。諸行無常ですから同じ状況がいつまでも続くことはありません。泣き続けることもできなければ笑い続けることもできません。分離を作れない赤ちゃんは迷うことはできません。分からない自分を仕立てるので、分かる自分を求めてしまいます。歌が上手くなろうと思わなければ、歌についての悩みは生じません。老いを受け入れて若くなろうとしなければ、老いの悩みはありません。悩みは二項対立を持ち込んでいる自作自演かもしれません。負けた自分が許せないと、自分を負かした相手か自分の不甲斐なさを責めることになります。過ぎ去った負けを受け入れて次に進むしかありません。
公案には必ず二項対立があり、その二項対立を解こうとします。二項対立を持ち込むと混乱・葛藤が生じることに気づきます。二項対立を解決するには二項対立にしないことだと気づかなければなりません。出来もしないことに頭を悩ませていた愚かさに気づかされます。「隻手の音声」片手の音を頭で考えて、頭で作り出すことも見出すこともできません。
問題としなければ問題とならないことに気づきます。「倶胝竪指」という公案があります。何を問われても、問うた人に指を見せたそうです。指に意味や価値や評価はありません。見えたままそのままでしかありません。見えている指には何の問題はないということになります。何の問題もなければ自己(=本来の自己)のままでいることに気づきます。いついかなるときも本来の自己から離れることはできません。あえて自分(=我)を立てて悩み、自分(=我)で解決しようとしている自作自演劇を演じているのではないでしょうか。
「香厳撃竹大悟」竹に石がぶつかった音には何の意味もありません。悟っていない自分を立てて修行していたから、問題にならない音がただの音のまま聞こえました。疑団が大きければ大きな気づきがあったということでしょうか。私が悟ったと言っている私が偽物です。本来の自己(=意識)で無い人はいません。迷っている自分だと分かっているのが本来の自己(=意識)であり、迷っている自分は迷っているという思いそのものです。苦しんでいる自分は苦しんでいるという思いそのものです。落ち込んでいる・苦しんでいる・悲しんでいる・・・・その感情に気づいているその気づきが本来の自己。
修行をしたり聖なる書物を読むことで、気づいている意識を得たり掴んだり目覚めさせたりするのでしょうか。意識はいつ生まれたかわからないので不生です。消えたこと確かめられないので不滅です。見つけたいモノを見つけようとしていることに気づいてる「それ」が「それ」です。探している者が探される者です。見ている者こそが見られる(=探される)者だということです。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
]]>私達は言葉によって迷うこともあれば、分かること(=No Problem)もあります。迷わないということは問題にならない問題にしないことではないでしょうか。幼少期の子供はいたずらに迷うことなく生活しています。比較を持ち出して”なんとかしよう”という我の働きが未だ完成されていなからではないでしょうか。
言語は二項対立であり迷いを起こします。言語を覚え使う以前では迷うことは出来ません。本来はそれぞれが一つのものであり、比較しなければ”あるがまま”があるだけです。比較することで、長短・美醜・善悪・・・によって迷うことになります。
刹那の一瞬一瞬が生じては消え去っています。つかむことの出来ない”たった今”という瞬間はあるようでありません。あると思った瞬間に”たった今”は消え去っていますが、消え去った瞬間に新たな”たった今”がありこの”たった今”が永遠に続いています。あるようでなく、ないようであるというのが”たった今”です。変化は止まることがなく”諸行無常”です。たった一回きりの”たった今”が永遠に続いています。あらゆるものは必ず滅します。「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」
已:やむ、終了する。生滅滅已:生滅を滅し已(おわ)る。比較することがないなら、迷いが終わる。
己:象形文字であり縄の形状。縄で括られた対象。
思考に括られて縛られた対象である自らを「自己」としているのではないでしょうか。
他己:自己以外の対象。対象として捉えて縛られたモノや事象。対象とされる一切は言葉によって表現される。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
「本来の自己」(=働いている意識)は、主体であり対象となりません。自己(=私)は対象となるので「本来の自己」ではありません。自己が何かを知らなければなりません。この自己は思考した後に主体として呼んでいます。常に後づけされているのが自己と呼ばれています。自己が思考の主体であれば思考以前に自己が存在していなければなりません。荷車(=思考)の前に牛(=自己)がいなければなりませんが、実際は荷車の後に牛を配置しています。
もし自己が思考する主体であれば、思考を自由自在に操ることができるはずです。一時間の間一切の思いを出さないように思考に命じることができるでしょうか。眼は見たくなくても見えます、音は聞きたくなくても聞こえます。思考は考えたくなくても考えてしまいます。それは「無位の真人」(=働いている意識)であり、無分別であり一切が自然に受け入れられてる。
比較して”何とかしよう”という思考そのものが「自己」の本体であると気づかなければなりません。思考は、危険から身を守り生存したいという欲求によって作られた自己防衛機能です。自己は本体(=本来の自己)ではなく、自己防衛機能として都合よく出現させることができます。これが自己の実体であるというものは見つけ出すことも指し示すこともできません。ただの呼称であり実体はありません。
<自己をわするるなり>
比較によって”なんとかしたい”と思考します。”なんとかしたい”という思考そのものが「自己」です。「自己」が思考しているのではなく、思考している主体を「自己」としているのではないでしょうか。”なんとかしたい”思考そのものが「自己」なのに、「自己」が思考をコントロールできるでしょうか。”なんとかしたい”に手をつけない。ただ”何とかしたい”に気づいているだけにしてみる。
<萬法に証せらるるなり>
「本来の自己」がきづいている自己と自己以外の対象である他己。「本来の自己」は見えたと認識する前に見えている(=認知)し、聞こえたと認識する前に聞こえています。思いに気づいているのが「本来の自己」であり、思いが「本来の自己」ではありません。気づかれる対象は主体そのものではありません。何かを分かろうとする以前にすでに認知されています。一切を対象として説明しようがしまいが、一切はあるがままである。
<自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり>
「自己」自分という対象、「他己」自分以外という対象であると認知する以前。自分以外を認知しているのは自分であって、その自分が自分以外を認知しています。自分も自分以外も自分の中にあります。自分以外として認知している対象を「他己」と呼んでいるのでしょうか。私達は身心が自分自身だとしていますが、身心も見られる対象であり「本来の自己」ではありません。自己の身心は働きです。自分が認識している自分以外(=他己)も自分の中にあります。自分と自分以外を対象としなければすでに「脱落している」。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
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