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無達成の達成 [気づき]

達成:目的を成し遂げる。大きな物事を成し遂げる。目的:実現しようとしてめざす事柄。
目標:目指す地点・数値・数量などに重点があり具体的である。
解脱:束縛から解き放たれる、迷いの苦悩から抜け出て、真の自由の境地に達する。あがきからの脱却。
涅槃:すべての煩悩の火が吹き消されて、悟りの智慧を完成した境地。迷いや悩みを離れた安らぎの境地。
悟り:迷いを去って真理を知ること。生死の世界を超越すること。
心境:心の状態。
境地:ある段階に達した心の状態。

 

 達成とは物事を成し遂げるとあります。例えば、太りすぎは様々な病気を誘発する原因であると医者から指摘された人がいるとします。その人は、健康でいたいという目的のために、体重を5kg減量するという具体的な目標を設定します。この減量のために期日を設定し減量のため、日々の食事制限や運動の目標値を掲げます。遂に、1年後の健康診断でA判定となり目的を達成しました。健康維持の習慣が身について健康でいられるようになればめでたしめでたしということです。
 アスリート・技能士・仕事・研究・学習・習い事・趣味・・・等々で、自らが望むレベルに達成するためには、日々の修練や教えを受けなければなりません。自身がレベルアップしたという確証を得て自信を得るには、大会に出てることで評価や記録を更新することが必要となります。
 さて、自身の精神性の向上は怒ることが少なくなったとか他人と比較することが減った、他人を羨んだり嫉妬することが無くなったということで少なからず分かります。苦という厄介な出来事を滅して愛に満ちて安楽に生きられれば最高の人生を達成できるのではないかと思っている人もいるのではないでしょうか。

 

 お釈迦様は修行によって、肉体を徹底的に痛めつけ「刀折れ矢尽きる」という状態まで追い込みました。自我が求める何かを達成することはできませんでした。そこで、求めたり得たり掴もうとする一切の苦行を放棄して”何もしない”(=何とかしたいをただ観察する)ということに徹底したかもしれません。今までは、”何とかしたい”という自我の声に耳を傾けて様々な事を実践してきました。”何とかしたい”が自らを苦しめる根源であると気づいたのでしょうか。物事を二項対立として見てしまうと、見る者という”私”と見られるモノという対象の二つに分かれてしまいます。これは単なる癖であって、見る者も見られるモノもなく、見えているという事象だけがあります。本当は、ただ聞こえているただ味わっているただ匂っているただ感じているただ思っている・・というだけで客体はないので主客未分の状態が生滅しつづけています。
 自分の外側に対象物があるという前提で生活しています。対象としているモノも自身も恒常不変ではない無常だということです。在るのですが、刹那の出来事の連続なので在るように扱っています。一切は止まっているようですが、動いています。素粒子が縦横無尽に飛び交っているというのが本当の姿かもしれません。それぞれが何らかの働きをしています。自分の願望で世界が動いているのではなく、勝手に動いているだけのことです。誰かの言うことを聞きいれてくれるちっぽけな”神”と言われるような何かが存在してくれればいいのですが・・・。残念ながら宇宙は宇宙の法則によって動かされています。
 「悟り」は、阿含経に「<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、さらに迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである」」と書かれています。また、「悟り」の最終段階は阿羅漢果であり「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」とあります。三解脱門という教えがあり、「わたし」という実体は存在しない、一切を空と観ずる空解脱。一切は無常であり固定した相のないことを観ずる無相解脱。一切は苦であり渇愛という願求(がんぐ)の念を捨てる無願解脱の三つです。
 再三再四書いていますが、「悟り」を得るとか掴むとか成るということがあるのなら誰もが得たり掴んだりできていても不思議はありません。学校教育では知識を得て活用することを教えられてきました。仏教の研究者も多く日々研究もされています。もし、「悟り」が得たり掴めるものであればだれもが効率的に得る手法を提示できるはずです。また、ほとんどのお坊さんが「悟り」を受け継いで今に至っているはずです。もし、継承されていなければ葬式のための葬式仏教だということでしょうか。
 知識で迷いが解消し苦が消滅するでしょうか。どうやら知識ではなさそうです。真言や滝行や山を駆け巡ることでもなさそうです。修練の積み重ねによって身につくようなことでもなさそうです。技を磨いて習得するようなものでもありません。
 
 どうやら獲得するものではなく、すでに「それ」であって逆に取り払えばよかったということかもしれません。あるがままでなんの問題もなく、余計な二項対立としなければいいだけかもしれません。何とかしたいという自我を相手にしなければそのまま”自性清浄”ということ。達成するということではなく、塵(=二項対立からくる何とかしようという思い)を払えばいい。苦しいを二項対立の楽の反対として否定せずに、単なる事象の一つであり一体としてそのままにいただく。苦い味を味わうように苦を排除したり逃げたりせずにそのまま苦を徹底的に味わいつくし、苦そのものになり切る。
 達成などできないので、「無達成の達成」ということになります。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。> 

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Tell me why [気づき]


youtubeで”Tell me why”という曲を見つけましたのでご紹介させていただきます。





 生命体(=生き物)の本能は生存・繁殖です。生命体として生き残るには「戦うか逃げるかの反応」が自動的に行わなければなりません。脳内のホルモンが勝手に分泌して行動するようになっています。多くの餌を獲得することができ、繁殖力が旺盛である必要があります。我々は生き残れる素養が備わっていたからこそ今ここに生存しています。私達が目にすることができる個体は、生き残る術を身につけた個体だということが言えます。

 木々や花々や昆虫・・・あらゆる生命体が生存競争に打ち勝って存在しています。全ての生命体が生存競争の末に存在しています。この生命体(=自身)と他の生命体を愛おしく感じることができます。

 一人の人間が寿命をするのにどれだけの生命体からの恩恵を受けることになるのでしょうか。生まれてから今までに、数え切れないほどの生命体が自身の身体の中に入って(=水・酸素・窒素・肉・植物・・)きたのでしょうか。接してきた一切がエネルギーに変換されてきました。私達は地球にある物質を取り入れているので、地球の合成物だと言うことができるのではないでしょうか。自分で身体を作ったのではなく、周りから作られたモノです。

 

 原始の生命体は、膜に囲まれてその中に一本の筒があって、その筒の入口(=口)から食料を取り入れエネルギーに変換し、使えないものを出口(=肛門)から排出する。個体の行動を制御する神経が集まり脳となり、出口に近い筒から腸ができ更にエネルギーを効率的にするために腸から様々な臓器ができたのでしょうか。

 所詮、人間も生命体であって食って寝て(=脳の休息機能)動いて排泄しているだけのものです。高尚なことを言う前に、機能としての肉体を直視する必要があります。人間以上の何かになることなどできません。

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 人間の欲求には「食欲・性欲・睡眠欲(脳の機能)」さらに、承認欲求または知識欲求があるそうです。欲求は満たされればおさまるのですが、欲望はいつまでも火種となって燃えています。マズローは生理的欲求・安全欲求・社会的欲求・承認欲求・自己実現欲求という5段階説を提唱しました。”Tell me why”とは、知っていたいという欲求から出る言葉です。現実がどうしてこうのようになっているのか、誰も説明できる人はいません。因縁和合して現実があるだけで、ブラックボックスになっています。

 「どうして」を探求しているうちに人生は終わってしまいます。「無駄な探求」と言っているのに、一生をかけて探求している人もいます。たった今を生きているということが素晴らしいのであって、何が起こっても不思議ではありません。苦と言ったり楽と言っているだけのことで、起こっていることを否定したり坑がなったりしてもしょうがありません。

 

 愛と憎しみはコインの表裏です。信頼と裏切りもコインの表裏です。裏切る人がいるおかげで信頼されることができます。不味い料理のおかげで美味しいということがわかります。闇があるのではなく、光の不在が闇です。愛や憎しみなんてどうでもいいというのが最高に愛に満ち溢れているかもしれません。迷いも悟りもどうでもよければそれが涅槃ではなでしょうか。

 悟りの境地に52段階あるとか、探したり得たりする対象としてしまいます。ただ見えている、ただ聞こえているということにどんな違いもありません。お釈迦様が桜をただ見えているのと、凡人が桜をただ見えているのにどんな違いがあるというのでしょうか。ただ見えていることに違いはないのですが、頭を働かせて雑念との鬼ごっこに振り回されているだけが違うかもしれません。考える癖がいつまでも残っているかいないか。考えてもどうしようもないと分かっているか、考えればなんとかなるとしているかの違いかもしれません。

 極端な話しですが、”Tell me why”と誰かに聞いて知ったとしても、行動しなければなにもなりません。立派な言葉や美辞麗句を言っている教えがあるのに、世界から争いが絶えることがなにのはどうしてでしょうか。行動しない役にたたない教えだからかもしれません。立派な服を身にまとった聖者は口ではもっともなことを言いますが、何も行動には移さないということが白日の下になっています。

 人間が行動するのは生存欲によっているからです。誰もが「自分かわいい」のですから、自己の生存を第一に考えて行動することになります。

 戦争を主導している人物が為政者だと分かっていても、生存(=生活)のために従ってしまっています。独裁国家では幼少期から洗脳されて「神」と崇めさせられているかもしれません。

 

 私達はどうしても知識を得て、思考してなにかを得るという思考パターンから抜け出ることができません。なるほど知っていないよりは知っていたほうがいいかもしれません。困ったことに、世間では教えと財産を交換させるような宗教もあります。教えを信じて布教している人は悪いとは思っていない(=自己正当化)ようです。財産よりは教えのほうが価値があると思い込んでいます。教えで救われてご飯が食べられるのは、教えを受ける人から金品をもらえる人だけです。

 思考で何かを得ようとすることをやてみる。(坐禅)なんとかしたいという欲求を相手にしない。あるがままでいいということが少しずつ分かってきます。足し算(=得る)から引き算(=相手にしない)することで、頭のおしゃべりが減っていきます。見えたままが何一つ過不足がないことに気づきます。なんとかしようという自分との関わりが後退したということかもしれません。

 言葉自体に力があるのではなく、言葉を聞いたり文字を見て行動しなければなりません。当たり前の話ですた、スポーツ選手がコーチの言葉を聞いただけで技ができるようになったりはしません。何度も何度も繰り返し練習して技を覚えて使えるようになります。このブログを単なる知識としていては、何も変わりません。文字を見ただけで劇的に変化したら大変なことです。怖くて文字を見ることができません。ヴィパッサナー瞑想を本当に実践すれば効果を実感することができるのですが・・・・。

 

・あるがままをそのままに受け入れる。神も仏もどうでもいいというのが最高の信仰かもしれません。

・言葉で世界が変わるのなら、とっくに世界は変わっています。

・世界の現象を誰かが仕組んでいるのではなく、因縁和合して起こっているだけです。

・天国と地獄は同居しています。野球で9裏満塁、2アウト2ストライク3ボールで3点差で勝っていたのに、最後に逆転サヨナラホームランを打たれたら天国から地獄となります。

 仮想通貨長者だと思っていたのが、仮想通貨取引所が経営破綻して財産が全て消えてしまった。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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フィクション [気づき]

 万物(=一切)は流転してとどまることがありません。私達の身体(=体の中の細胞)も思いも生じては消えています。私達の生きている世界は諸行無常であり、恒常不変でありつづける何かはありません。エントロピーの増大という法則によって、確固たる何かにすがりたいという願望はことごとく打ち砕かれてしまいます。執着して手に入れたとしても刹那の出来事でしかありません。期待や願いは叶ったとしても一時的であるので、苦であると感じてしまいます。死を間近で見ることで、永遠の命を願っても無駄だとだれもが理解しています。そこで似たような生命体を残していくしかありません。

 魂や心という概念で継続性を願いますが、ただの言葉であって実体はどこにもありません。どこに不変の魂があるというのでしょうか。永遠を願うことによって発明された定義であって、単なる言葉(=形・音)であり漠然とした呼称です。

 

 当然のこと(=法則・真理)を当然として受けいれることができるのなら、騒ぎ立てることもなく法(=法則・真理=諸行無常)に委ねる他ありません。(諸行無常・是生滅法)

 自然の理に従えば、自然の理に逆らって苦しむこともありません。苦とすることがなければ、苦とはなりません。仏道では、苦を苦としないために八正道というものがあります。正しいというのは自然の理に従うということではないでしょうか。思い・行為・精進・・・を自ら(=我)の努力によって、思い通りにすることではありません。自らの思い通りにしようとすることは、道理に逆らっています。無明とは、法則・真理がありながらその法則・真理に逆らって「苦」を何とかしようとすることではないでしょうか。思い通りにならない諸行無常の世界に生きていながら、苦(=例えば四苦八苦)をなんとかしようと思うこと。

 

 苦は修行や坐禅によって得た力によって消滅できると勘違いしていないでしょうか。修行によって何か得たり掴むことはありません。聖者は、苦に立ち向かって苦をバッサバッサと切り倒して解決するのでしょうか。そんなことは馬鹿げたことは、おとぎ話でしかありません。苦をそのまま受け入れれば、苦は苦ではありません。当たり前のことの一つ(=苦)であり、苦は解決する相手ではりません。あたり前に出会う出来事の一つでしかありません。当たり前のことを二項対立とするので、苦楽となります。苦もなく楽もなく、ただの出来事を苦楽として分けて一方が悪くて逃げたり避けたりしたいと思い込んでしまっています。

 楽しいことが起こって良いのと同じように苦しいことが起こっても良いじゃないですか。

 「ホォ、このような苦しみがあるのか」と歓迎してみる。いくつかある感覚の中の一つの感覚として味わってみる。

 粛々と日々の生活を送る。苦も楽もウェルカム。楽があって楽が気に食わずに苦しむ人もいます。スポーツマンで自分の身体をいじめる人がいます。痛ければ痛いだけ。辛ければ辛いだけ。貧しければ貧しいだけ。・・・どこが間違っているのでしょうか。痛い時に痛くなければ、医者に行きそびれて発見が遅れて致命傷になってしまいます。辛ければ辛さを味わってみることも大切です。辛くないだけで幸せを感じられて感謝することができます。

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 ただ見えている、ただ聞こえているというのは事実であり現実です。しかし、見えているモノ(=客体)と見ている者(=主体)という二つに分けて考えてしまう。そこから現実離れしたフィクションの物語の中で対話することになります。事実と願望という二項対立によって考える癖があります。言葉というフィクションで迷うことになります。

 言葉はどうしてフィクションなのでしょうか。見えているモノである”石”がどうして「石」という文字(=形)であり「イシ」という発音(=音)なのかを考察してみてください。英語では「stone」という文字(=形)であり「ストーン」という発音(=音)です。「石」という文字は固くもないし、「イシ」という音を聞いたとしても石の感覚を味わうことはできません。「甘い」と言われても甘く感じることはありません。

 旧約聖書がフィクションであることは子供でも知っています。「初めに言葉ありき」という有名なフレーズがあります。神の出現する前から誰かが神の出現する場所で待ち伏せしていたのでしょうか。神が聖書の作者を招待していたのでしょうか。

 作者が、神の所業を見ていて神が発音した音が言葉であるとすぐ分かったのでしょうか。作者の方が先に言葉を話すことができていたことになります。神の所業をどこに書き残したのでしょうか。 

 神の言葉が分かったとして、「光あれ」と言う前は真っ暗なので何も見えていないはずですが・・・。子供には面白いかもしれませんが、科学によって証明されていることが理解できている現代人からすればバカバカしい作り話のオンパレードです。

 誰も見ていないことを良いことに、聖者の逸話は大げさに書かれています。ある禅僧が大声を出すと数キロ先まで聞こえた。虎を猫のように手懐けることができる。身体が石のように固くなり火の中から燃えずに出てきた・・・・。よくもまあ、作り話も程々にしてほしいのですが・・・。

 宗教はマインドコントロールであって、人々を統制するのに使われてきたという歴史もあります。元を正せば同じ人間です。特別な能力は映画の中の話であって、どんなに鍛えても限界があります。真言(=マントラ)を唱えてどうにかなったら大変なことです。何かを祈っただけで実現したら世界で戦争は起こりません。苦労することもなく、楽しいことばかりでしょうか。何かを書いて言葉に出すだけでは何も実現しません。行動・行為によって少しずつ変わっていきます。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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"気づき"に気づく [気づき]

 私達は、誰もが既に”本来の自己”(=気づきそのもの)であるので、わざわざ”本来の自己”を探し出す必要はありません。絶えず”本来の自己”(=気づき)とともにあります。何とかして”本来の自己”を探し出そうとしますが、”気づき”は気づかれる対象(=客体)となりえないので探すことはできません。気づく主体が客体になりえないのです。眼が眼を見ることができないのと同じことです。

 絶対主体である”気づき”は”苦”を感じている客体ではありません。全ての生命体は”苦”を逃れ”楽”でいたいものです。”苦”と感じなければ”楽”であって、”楽”を求めようとすればどうしても”苦”が立ちはだかります。権力・地位・名誉・財力・・・を求めようとする渇望があるかぎり、その渇望との葛藤(=ギャップ)によって苦しむことになります。権力を失うことが大きな苦痛となる人にとっては、権力に執着することになります。社長を退いても会長として権力を持っていたい。

 「悟る」ということは「悟っていない自分」をこしらえなければ実現しません。幼児は「悟る」ことはできません。なぜなら、「悟っていない自分」がどういうものか定義できないからです。大悟も小悟もないのですが、数十年の月日をかけた大疑団のご褒美として「大悟」と言ってあげなければなりません。  

 何十年も迷ったはてに「悟り」なんてなかったという大きな衝撃を「大悟」と表現してやらなければ報われません。迷いが悟りを作り出していたことに気づきます。悟りを目指しているから向上心があるのではなく、迷っている自分が許せないからかもしれません。「迷悟」は一枚のコインの表裏であってセットになっています。迷いがなければ悟りもありません。

 

 お釈迦様は王子の生活を捨てて、すべてをやり尽くした後で「悟り」を開いたとされています。これ以上ないストーリーによって「悟り」が命の次に価値があるかのようにされるようになっているのでしょうか。キリスト・ムハンマド・・・それぞれに壮大なストーリーがあることによって権威づけされていることに気づく筈です。大きな苦難があればあるほど人の心に訴えることができます。記憶に残り崇拝に値する人物像ができあがることになります。命を削って修行したおかげで不思議な力を授かった特別な人だとか・・。お決まりのパターンです。

 もし、荒行の見返りがなかったらどうでしょう。滝に打たれたり数百キロを走ったりする犠牲があるからこそ見返りとしての達成感があります。他人が敬ってくれます。この艱難辛というストーリーによって、人間心理の深い部分が動かされて操られているかもしれません。

 

 世界は常に移り変わっていて、同じ状況が続くことはありません。エントロピーの増大によって元の状態に戻ることもありません。誰かの心境も常に変化しています。誰かが達成した心境と同じになりたいと考える人がいるかもしれませんが、変化している刹那の心境を保持することなどできないし他人の心境など知るすべもありません。できるとしたら”無”の心境や熟睡時の捉えることのできない状態だけかもしれません。何も思い浮かばずに、只見えている・只聞こえているということであれば同じ体験をしていることになります。見えていることに価値や意味をつけづに見入っていることは体験できます。

 音を聞いたりモノを見たりすることで、ある心境に達したとしても一時的なことであってしばらくすれば消え去ってしまいます。

「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」

 言葉(=音)を聞いたり文字(=モノ)を見たりすることで、何者かに変化したり何かを得たり掴んだりできるというのは思考によって作り上げている物語かもしれません。

 極端に言えば、聞いたことのない言葉は鳥の鳴き声を聞くのと同じようなことです。見たことのない文字は葉っぱの形を見るのと同じようなことかもしれません。ただの音が聞こえてただの形が見えているだけです。フランス語で書かれた聖なる書を見て心境が変わることはありません。フランス語でありがたいお話を聞いてもチンプンカンプンです。母国語の聖典やありがたいお話を聞いて何かを得たり掴んだり、何者かに変化できるのならいいのですが。高等教育を受けた人がどうして何年も修行しなくてはならないのでしょうか。

 聖典は読みきれないほどの数があり、ありがたいお話はいつでもどこでも聞けるようになっています。始祖といわれる人から何千年も経過していながら、言葉や文字で伝えられないということはどういうことでしょうか。伝える人が悪いのか受け取るほうが悪いのでしょうか。言語自体に問題があり、伝える以前に互いに勘違いしていのかもしれません。文字にした時点で偽物ですので、その偽物を見て本物を味わうことはできません。ある人の感覚を”温かい”と文字にして、”温かい”という文字を見た人がある人の感覚をそのまま感じられたら大変なことになります。”苦しい”という文字を見て苦しむのなら、”苦しい”という文字を目にしたいとは思いません。

 苦労(=修行)しなくては達成しなということが刷り込まれているかもしれません。修行や知識や思考によって救われることができると思い込んでいないでしょうか。経典の知識で救われるのなら、救われない人の方がどうかしているということになります。

 選択肢が多ければ多いほど悩むことは多くなるのではないでしょうか。決められた通りに生きていけば選択や執着から離れることができます。問題があるのではなく、問題としていることによって問題となっていないでしょうか。

 遊び回っている小学1年生が大人のように、儲けようとか偉くなろうとか考えることがあるでしょうか。子供には、大人のような悩ましい問題が多くはないようです。

 

 得て掴んで達するという思考を逆転させて、得よう掴もうとしていることを諦めれば掴もうとする執着が剥落します。権力を得ようとすることからかけ離れている人は権力を得ようという渇望から解放されているので、権力を得ようとかしがみつこうという問題はありません。

 禅寺では所作が決められているので、選択する必要が無くいちいち悩む必要はありません。世間から離れているので、世間からとやかく言われることもありません。権力・地位・名誉・金銭・食事の心配・・から解放された環境にいるので、それらは問題とはならずに修行に専念できているようです。

 

・聖者であるには、艱難辛苦のストーリーが必要とされます。

・だれもが変わらない本質である”気づき”が備わっています。誰もが”仏”(衆生本来仏なり)

・向かえば背く。得るようなことではないのに得ようとする。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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