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老子−49 [老子]

聖人常無心、以百姓心爲心。善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善。信者吾信之、不信者吾亦信之、徳信。聖人之在天下、歙歙焉、爲天下渾渾。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。

 

百姓:人々

歙:和合する、縮こまる

渾:まじる、湧き出る

孩:赤子

 

聖人は常に無心でいて、人々の心を自身の心としている。善人を善とし、不善人も善としている、これが善というものである。信じる者が信があり、信じない者も信がある、これが信というものである。聖人は天下(=統治下)にあって和合し、人々と混ざり合うことができている。人々は見聞覚知したことで分別するが、聖人は赤子のように分別無く見たまま聞こえたままにしている。

 

<他の翻訳例>

 聖人には定まった心はない。人民の心をその心とする。「善であるものを私(聖人)は善(よ)しとするが、善でないものも私はやはり善しとする。(こうして)善が得られる。信義のあるものを私は信ずるが、信義のないものも私はやはり信ずる。(こうして)信が得られる」。聖人が天下に対するやり方は何もかも一つに集めるのであって、天下のためには、かれの心を見分けにくくする。人民だれもが(かれに)耳と目をそそぐ。聖人はかれらを赤子のように扱う。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”私”・”心”が何処にあるのなら指し示すことができるでしょうが指し示すことは出来ません。何処にあるかも知れない”私”・”心”を捉えたり掴んだり得たりしようとしています。これが”心”だというものを捉えたり掴んだり得たりできることがあればいいのですが・・・。そもそもそんなことができないので、どうしようということになっています。

 ”心”はあるようで無いのでいかようにも定義することができます。自身の事だからなんとかく分かっていると思っているだけで実際は何も分かっていないということでしょうか。目の前の鉱物であれば触れたり分析できますが、縷々変転して捉えることができなません。どこから出てきてどこに消え去るかもサッパリ分かりません。どのように働いているかもハッキリ分かっていません。自らの”心”の源泉やどこへ行ったのかも分からないのにどうして他人の”心”が分かるのでしょうか。瞬時に現れては瞬時に消え去っています。

 いつどんな思いが沸き起こってくるのか予測も予想もつきません。音楽・詩・絵画・演劇・イメージ・感性・・・自分の”心”を自由自在に思い通りに操作できるのなら”心”は対象化され自身の”心”ではありません。この操るという”私”も幻想であって、”私”を操ろうとしている”私”は何かというと自我という幻だということを見抜く必要があります。

 

 人それぞれの個人的な固有な感覚があり、他人には分かりません。誰かと同じ”感性”があるのなら何人ものショパンがいてもいいのですが・・・。あらゆる存在がユニークであって二つとない別物として存在しています。

 ”私”・”心”は不生(=どこからどのように生まれたのか不明)であって掴むことも捉えることも得ることもできません。実体がなくどのようにして生まれどのようにして消え去るのかも不明です。あるように思えるのは”たった今ここ”だけかもしれません。”たった今ここ”以外は幻のようなものでは?

 

<聖人常無心、以百姓心爲心>

 無為(=無心)のままに生きている時は誰もが聖人と呼ばれてもいいということでしょうか。私達はどのように唇を動かしてどのように言葉を発しているかも分からずに話しています。驚くことに無心で言葉を発して会話しています。同じように見ようとして見ているのではなく無心で見えています、無心で聞こえています、無心で香りが分かります、無心で味わい、無心で感じています。

 有為(=計らい)でセピア色に世界を見ることは出来ません。有為(=計らい)でエコーがかかったように聞こえようとすることは出来ません。なんでも甘くするようにもできません。芳しい匂いに変換することもできません。何もしなくても(=無為無心)で”あるがまま”を”あるがまま”に感受しているのでだれもが既に聖人かもしれません。

 時々、”どうしよう”・”何とかしよう”という思い(=有為)が出てきます。”どうしよう”・”何とかしよう”と思うことは悩んでいることになります。”あるがまま”から離れて”どうしよう”というありもしない何かを掴もうともがいていしまいます。無心を壊しているのが自身の計らいということかもしれません。この計らいも自身の”心”が働いているとういことです。良いも悪いもなく放っておければ聖人で、放っておけずに追いかけて振り回されるのが人民ということでしょうか。人民の放っておけない”心”も自身の心と確証できていればそれで問題ないのですが・・・。

 大雨の時に川の増水を見に行く人がいますが、どうにもならないこと(=増水を止める)を知ってもただ困惑するだけです。火星がどうなっていようがまったく関係ないかもしれません。意味の無いことを知ろうとしたり追いかけているのが我々凡人かもしれません。大いに反省するところかもしれません。極端に言えばあらゆる事や存在に意味や価値が無いので、勝手に意味や価値がつけられるということかもしれません。どこの外食チェーンで誰が何が一番好きかなども意味や価値をつけられるということです。この世界で、意味や価値がないということは素晴らしいことです。意味や価値から自由であり解放されているということになります。

 

<善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善>

 ”善”という思いと”善”という行いがあるとして、”不善”の思いで”善”なる行いをしても”善行”となります。”善”の思いで”不善”を行えば”不善”の行いとなります。行為を見て善か不善かが決まるということでしょうか。

 様々な争いで、当事者はそれぞれ”大義名分”を持って争うことになります。どちらが”善”か”不善”かはよく分かりません。それぞれが自らが”善”であると言い張っているだけです。正しい方が勝つのではなく、勝ったほうが正しいとしているだけです。いわゆる「勝てば官軍負ければ賊軍」ということであって、争いに勝利したという結果をもって正義だというこのようです。根底にあるのは、”勝利したいという欲望”に従っているということのようです。

 人間以外の生命体からすれば、人間がいなければそれなりに生きていけるのに・・・。人間ほど厄介者はいないということかもしれません。”善”も”不善”もその時々で各人の思い込み。俯瞰して見れば”善”も”不善”もなく、地上で何らかの動きがあった程度かもしれません。

 

<百姓皆注其耳目、聖人皆孩之>

 人民は見聞覚知したことを自身の固定観念(=フィルター)を通して瞬時に分別するものです。自身が裁判官であり二元に振り分け”善悪”・”美醜”・”好き嫌い”・・・・あらゆる対象に意味や価値づけを行っています。

 赤子のときは見えるまま・聞こえるまま・・であって、意味や価値はなく”そのまま”にある何かです。執着と忌避を行ったり来たりの騒動に巻き込まれているかもしれません。

 

心:体に対し(しかも体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。

人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。知識・感情・意志の総体。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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