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脳神経の外観像−2 [TED]

TED 「A neural portrait of the human mind」

<15:35>

 どうして3カ所も顔認知や位置認知に必要なのでしょうか?これらの働きの分担はどうなっているのでしょうか?

 第二に脳内部のそれぞれの領域はどう関連し合っているのでしょうか?拡散画像で脳のあらゆる部分を繋ぐニューロンの束を辿ったり、ここで示した方法で脳のニューロン個別の繫がりを辿る事が出来こうしていつか脳全体の配線図が分かる事となるでしょう。

 第三にこの様な体系的な構造がどうやってヒトの成長期や人類の進化上出来上がったのかです。この様な疑問に取り組むため科学者達は他の動物達の脳をスキャンしてまた幼児の脳もスキャンして調べています。

<16:40>

 ヒトの思考と脳を理解する努力は、病気を1つも治せないとしても価値のある事です。我々が本質的に誰なのかを理解する為に、ヒトの経験の根底となる根本的機能を理解する事程興奮させられる事はあるでしょうか。これは科学に於ける時代を超えた最大の探求なのです。

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 生命体は電磁波の周波数・音の振動・味・匂い・圧力などの刺激(=情報)が自動的に感覚器官を経由することで何かが在るという感覚に気づいています。ヒトは感覚を言語で解釈する癖がついていて、意味や価値があるのかを判断してしまいます。目が見ていたり耳が聞いていたり・・しているのではなく、五感を通して刺激(=情報)が受け取られ脳が三次元の映像や音響として脳内に展開しているようです。存在は外のどこかにあるのではなく、自身の内に展開されている映像や音響として在るものを見たり聞いたりしています。実際に存在していなくても眠りの中での夢では、モノを見たり言葉でその見えたモノが何かを知っています。

 知らない(=知らされない)対象であっても、存在していると疑うことがないのはどうしてでしょうか。記憶やイメージによって存在していると思いこんで(=観念)います。自身の首から上や背面を直視することは絶対にできません。鏡に向かって映し出されている顔があって自身の存在が見ていると断定しています。自身が鏡を覗き込んでいると確信しているだけで、事実は鏡の像に気づいているということが真実のことです。ただ像に気づいている気づきがある。

 性別は◯、年齢は◯、名前は◯、住所は◯という属性(=アイデンティティ)で特定された何かであるというのは、知識を拠り所としているだけかもしれません。私たちは、直視して確かめることができないモノであっても、誰かが確かめた知識であれば鵜呑みにして信じ込んでいるのかもしれません。

 我々の本性は本当は無色透明であって、性別もなく年齢もなく名前もなく特定の場所に住んでいるということがないものであり、身体を通していつも観察して気づいている「何か」かもしれません。旅行先やどこかに出かけても無色透明な「それ」そのものであれば、どこかに住んでいるということができるでしょうか。物理的な肉体であり社会的な”私”であれば、◯◯に住んでいるということになりますが・・・。

 性別について、社会によって定義された性別があります。様々な属性(=身体の特質・髭・骨格・振る舞い・らしさ・音程等)を教わり男女どちらかの性別として決めつけられているだけかもしれません。幼少期は男女の意識もなく生きていたはずですが・・・。意識は常に生滅して新しく性・年齢・名前・住所もなくただ今起こることに気づいているだけで、前後のつながりはただ記憶によって作り出されているだけかもしれません。瞬間瞬間に新しい気づきがあるので、意識は老けることがないかもしれません。

 存在はどこに在るかと言えば、我々の脳が自然に像として認識されているものを存在としているかもしれません。歯肉に麻酔注射されれば歯や唇の存在は確かめられません、五感で感受されたとしても脳が認識出来ていなければ存在として気づかなければ存在はあるといえるのでしょうか。存在を勝手に歪めているのも記憶や固定観念を通して解釈しているからです。

 脳の物理的な発火地図を作って気づきがどこから来るのか分かればいいのですが・・。

 物理的に我々の脳をくまなく調べても、進化の過程を経て獲得した能力を備えた物質だけかもしれません。無色透明な「それ」が働きかけて意志となり、意志によって身体が動いている。そこに”私”という何かが歯車のように存在しているのでしょうか。それとも後付で”私”が全てのことを成し遂げているのでしょうか。全てが”私”によって為されているのであれば、”私”を責めているのは一体誰なのでしょうか。分裂した二人の”私”がいるということは・・・・。

 ある思いに加担して都合よく”私”をくっつけているのでしょうか。思いはどこから湧き出してくるのか探ってみるてもいいかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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脳神経の外観像ー1 [TED]

TED 「A neural portrait of the human mind」

<00:03>

ヒトの思考と脳は汎用な単一目的のプロセッサーなのではなく、高度に特殊化された各部の複合体であり、その1つ1つが各々固有の問題を解決しながらも総合的に思考する我々を作っているという事です。

<01:14>

このように急に顔を認識できなくなることが実際起きるのです。それは相貌失認と呼ばれ、脳のある特定の場所に障害が起きた結果起きます。これに驚かされる事は顔認知だけに障害があり、その他は問題がない事です。

<05:41>

この領域が顔の認知に特化して機能する事をはっきり確かめる唯一の方法は仮説を全て除外していく事です。

<08:31>

この実験でついに確定したことは、この脳の領域は顔だけに反応するのでなく顔を認識する為に無くてはならないものだという事です。

<10:24>

特定の視覚に関係しています。また特定の機能聴覚とか他の感覚を専門とする領域があるでしょうか?あります。

<11:27>

これまでお見せした全ては聴覚視覚などの様々な認知機能を司る領域でした。では素晴らしく精巧で複雑な思考活動のための特別な領域もあるのでしょうか。はいあります。このピンクの色が私の言語領域です。

<12:13>

未だに分かっていない事で、最も驚くべき領域は青緑色のこれです。この領域は他の人が考えている事を推測している時に反応します。

<12:49>

重要な事は、脳には全ての思考機能それぞれに致命的なものも含めて特殊に特化した機能が備わっているというのでは無いと思っています。

<13:11>

色と形に反応するだけの領域だったのです。

<14:56>

我々の脳には、特殊に分化した思考機能の構成分野が初めからあったというシンプルな事実です。

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エントロピー増大:どんな物質も放っておけば(閉鎖系のシステムならば)無秩序な状態に向かい、周囲の環境と区別がつかなくなっていく。(例:熱いコーヒーも放っておけば室温と同じ温度になってしまう。)生命は活動して(開放系)熱を発生させています。活動によってエントロピーの増大を減らしながら生きながらえていますがいつかは死んでしまいます。生命体の存続のためには子孫を残していくしかありません。

 

 生命とは、①体が膜で仕切られている②代謝を行う③DNAを持ち自己を複製するという3つをもって生命と定義されているようです。ウィルスはエネルギーの生産も代謝もできず、どこかに居候させてもらえないと生きていけないので「非生物」とされています。

 生命は様々な環境の中で仕切られた細胞の内部にDNAを持ち、エネルギーを外部から取り入れエントロピーを捨てる仕組み(無秩序[→]秩序)によって生きています。

 生命は様々な環境刺激(=変数)を感受して「進む・逃げる・とどまる」かの行動により安心・安全を確保してきました。

 個体の内部にエネルギーを取り入れる口と排泄口があるだけの単純な構造から進化したようです。少しでも永く生きるためには多くのエネルギーを摂取して巨大化していくという選択をしたようです。消化器官を作り多様な食物から効率的にエネルギーを摂取しなければなりません。効率的なエネルギー摂取のために分業化したり分泌物を出すようにしたりしてきたのでしょうか。次に内部環境の情報を得るのに神経系が発達し、神経系を集中管理する脳が発達することになったのでしょうか。脳は後発の臓器であって身体の下僕のようなものなのですが、自らが司令塔のように振る舞っているかもしれません。身体の臓器で主従関係があるとしているのは意の働きかもしれません。身体の部品は必要だからあるわけで比べる必要はないのですが・・・。

 生命種によって神経細胞の数に違いがあります。生命体が生存(=依存)している環境に従い認識能力も異なります。明暗だけ分かれば生きていける環境から、精細な色と形を認識しなければならない環境にいる生命種も存在します。広域の電磁波(=紫外線までも)を感受し識別できる能力を身につけるようになった生命体もいます。視覚細胞・聴覚細胞・臭覚細胞・味覚細胞・感覚細胞の多寡も異なり、処理する脳神経細胞の数も異なります。臭覚に優れた種、聴覚に優れた種・・・。

 

 環境によって目の色や肌の色や鼻の高さや体型が異なる程度です。ヒトであれば脳の構造ほぼ同じです。脳の研究から、MRI と電気刺激によって脳内でのある領域が顔を認識する為に無くてはならない領域であることが発見されたようです。言語領域とか他の人が考えている事を推測している時に反応する領域もあるようです。思いが浮かんでいるときに、ニューロンが発火しているということのようです。

 将来、脳のマッピングが完成し繋がりを解明し配線を全て調べ上げるのでしょうか。脳に似せたコンピューターを作り出して意識の在り処を見つけ出そうというのでしょうか。脳の障害を取り除くシュミレーターとして使うのでしょうか。

 ”幸福”という定義を入力すると”脳シュミレーター”が働いて、人間社会でどう立ち回るかを教えてくれるのでしょうか。”脳シュミレーター”に従属してほんとうに”幸福”と言えるのかが社会問題になるかもしれません。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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どのように知っているか [TED]

Ted How your brain tells you where you are

脳は今どこにいるかをどのように知っているか。

00:56

ラットが移動した場所ごとに別々の細胞が活動していることがわかりました。こうして神経細胞は地図を作って脳全体に「いま自分がどこにいるか」を知らせ続けているのです。

 

02:01

あなたの周りの建物などの距離や方向を感じ取ることが、海馬にとって非常に重要なことを示します。実際に海馬の入力領域にラットやマウスが歩きまわる際に正確に境界や縁への距離や方向を感知して、海馬に伝える細胞が発見されています。

 

03:57

つまりどこに旗があるかの記憶は、その場所における場所細胞の活性化パターンの記憶により行われているようです。

 

05:36

まとめると、ラットは空間上に仮想のグリッドを置いているようです。要は地図にある経線や緯線のようなものです。三角形ですけどね。ラットがあちこち動き回るとき1つの細胞から別の細胞へと電気活動が受け継がれていくことで現在位置が把握されますだ。から自分の動きを利用して今どこにいるかを知ることができるのです。

 

07:21

空間を認知するための仕組みは、視覚的なイメージを生み出すためも使われているのかもしれません。だから私たちは過去の出来事を思い出そうとする時その空間としての場面を再現できるのです。

 

08:23

私たちがどのように記憶し想像し考えるかなどの心理学的過程を理解し始めた新たな時代の認知神経科学の一例にしか過ぎません。

 

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 私たちは、四六時中何かが思い浮かんでいます。それはただ脈絡もなく思い浮かんでいるだけなのですが、思いを追っかけることで思いを掴んだり得たりしたと勘違いしてしまいます。その追いかけた思いが自身に変革をもたらすのなら、誰もが悪人になったり聖人になったりするわけですが常に勝手に湧き出している思いは一定ではなく千々に乱れています。衝撃的な事があって記憶されなければ、10分前に思い浮かんだことを思い出すこともありません。つまり、気にかけるような思いはなく、忘れ去られてもいいようなことが”思い”だということかもしれません。

 朝起きてから様々な思いがあったとして、別人になったとしたら大変なことです。思いによって急に音楽の才能が開花したり、急にアスリートへと変身したりすることはありえません。

 教科書を丸暗記すれば、物知りとして評価されます。物知りになった主人と以前の主人と比較して、飼い猫が見分けられるでしょうか。電車に乗っている人が、試験勉強して知識を蓄えた人と試験勉強しなかった人を見分けられるでしょうか。顔色が悪いぐらいであって海馬の記憶の増減が分かったら大変なことです。

 

 身体が、今の今どこで何をしているかが分からなければ認知機能が失われていることになります。身体の置かれている状況が不明であれば、身体は欲求のままに動いてしまうのでしょうか。食べたことも分からずに食べてしまうとか、行き先も分からずに歩き回るとか・・・。

 私たちはレーダーのように周りの存在と自身の位置関係を把握して、空間的な自身の存在を確認しているのでしょうか。安心・安全な場所・人であるかを記憶と照合して更新しているかもしれません。私は誰かということは、過去の集積によって築き上げられた幻影でしかないのにお互いが自他のアイデンティティを認め合うことで社会が成り立っています。働き蟻は働くことに違和感なく働いているはずです。雌は自身を雌と認識して行動しているはずです。鳥は思考せずとも飛べるしミミズを丸呑みできます。生命体が進化の過程で身につけている習性は、生まれる前からすでに身についています。役割や行動は教わらずとも自然にできます。生命体は、今どこにいて何を成すべきかは教わらずともできています。

 

 嫌なこと(=苦)は一体どこにあるのでしょうか。嫌なこと(=苦)を思い出した時に嫌な感じになります。思い出されるものは記憶としてとどまっていて自らが記憶にアクセスするか何にかのきっかけによって思い出され嫌な感じになります。記憶にある事象(=嫌なこと)は現実には無く単に記憶という神経細胞の働きでしかありません。意図的に思い出したり何かのきっかけで思い出された時に、”なんとかしたい”(=自我)という情動で苦しむことになります。ただの記憶であって実在していないものを相手にしています。実在していないものを何とかできるわけがありません。消そうとすればかえって記憶が強化されるだけです。無いものと戦って勝てるわけがありません。負け戦を挑んで、記憶を強化するはめになります。空気を切って疲れ果てるようなことをしているのではないでしょうか。

 記憶[→]思い[→]”なんとかしたい”[→]”解決できない”[→]記憶される。堂々巡りに自らを陥らせていると疑問に感じるてもいいかもしれません。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 




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現実をあるがままに見ているのでしょうか? [TED]

TED「現実をあるがままに見ているのでしょうか?」TranscriptをEnglishから日本語にしてください。

***<辞書での意味>

意識:自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き。「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」

精神分析学

・これは私の経験だと感じることのできることを総体的に意識という。

・自分で現在認識していないが、努力すれば思い出すことができる内容を前意識という。

・自分で現在認識しておらず、努力しても思い出せない内容を無意識という。

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「意識がある」とは、脳において刺激を認識することが可能であり、刺激に対し明確な反応を示す状態を指す。

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00:30

脳の活動と意識体験との関係については今でも解明されていませんなぜ?

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 我々の活動は、進化の過程で先天的に刷り込まれている脳内の神経細胞の働きがあります。また脳のポテンシャルに依存しています。生命体は生存活動に必要十分な肉体構造がありますが、環境変化に適応するように変化変容させられているかもしれません。生命体として生存できているということは、五感から入力される刺激を認識して適切な処理が行われてきたという証だということです。

 私たちが存在している4次元時空間では、あらゆる存在が生滅することで動的な変化が起っています。生命体として存続するには、周りの現象が変化していることにいち早く気づき何が起っているかが知られるようになっています。認識は、あらゆる生命体に備わっている単なるプロセスとして働いていると思われます。

 五感で情報を感受し、脳内で映し出される映像・音・匂い・味・感覚・思いの背後に確固たる存在者は不在であり自然現象としして処理されています。

 過去もこれからも、地球上ではリンゴは落ち続けます。物理現象である万有引力は絶対的な働きとしてあり続けます。ただの現象として起っているだけであり何かの力が働いたり、何者かによって見えたり聞こえたりするわけではないようですが・・・。

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01:15

 眼を開いて1メートル先に赤いトマトがあることを認識します。その結果私は現実に1メートル先に赤いトマトがあるのだと信じることになります。次に目を閉じると私の意識は灰色の世界へと変わります。それでも現実には1メートル先に赤いトマトがあるのでしょうか?私はそう思いますが、間違っているでしょうか?もしかしたら知覚というものを誤って解釈していないでしょうか?

02:30

 我々は地球は不動で宇宙の中心にあると考えました。やはりそのように見えるからです。

03:39

 客観的な現実をそのまま写真として撮るのです。視覚にはカメラのような部分があります。眼球にはレンズがあり眼球の後方に像を写しますそこには1億3千万個の光受容体があるので、眼は1億3千万ピクセルのカメラのようなものです。しかし、これでは視覚に関わる何十億もあるニューロンと何兆にもなるシナプスについて説明できていません。ニューロンは何のためにあるのでしょう?

04:15

 神経科学者は我々が目にする形、物体、色や動きといったものをリアルタイムに創造していくのだと言います。

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 私たちは、「私」という存在者がいて意識が働いて認識することができると思っているのでしょうか。目を向ければ自然と視覚野に映像として映し出されるようになっています。気づいてい認識されたことに”意識”という言葉(=概念)を後づけしているだけではないでしょうか。科学で存在を精細に分析すればするほど、存在は空っぽで”無”であるという認識に近づくのでしょうか。

 存在が在るのでしょうか、それとも各生命体個々に異なる存在として認識されているのでしょうか。蟻はバッタ(=何らかの存在)の一部を認識ことはできても、自身より大きなそれ(=バッタ)の外観を一目で見ることは不可能です。我々もトマトの全体(=表裏)を同時に見ることはできません。見えているのは片側であったり一部分でしかありません。音楽を聴いているようですが断片をつなぎ合わせて聴いた気になっています。立体の裏側を想像し補いながら感じ取っているということでしょうか。

 何か(=対象として)を認識するには、認識する”主体(=私)”がいなければなりません。自らを”主体(=私)”とすることで、見る者(=知るもの)が見られるモノ(=知られるもの)と対峙して知ることができます。

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06:05

 これは標準的な教科書に書いてあることです。ここでは例えば「進化論的に見て知覚はとても正確でありとても有用である」。この概念の背後にあるのは正確な知覚は適応により進化したものであり、生存競争における優位性があると考えています。

09:25

 進化の方程式で中心となる働きをするのはあるがままの現実ではなく適応度です。

10:12

 そこで私の研究室では何十万回という進化のゲーム・シミュレーションを行いました。そこでは多数の異なった世界がランダムに選ばれ生物が生きるための資源を求めて競争するのです。ある種の生物は現実を全て見ることが出来て、またあるものは現実の一部だけが見え、別のあるものは現実が全く見えず適応だけが可能です。誰が勝利するのでしょうか?

10:39

 皆さんを落胆させたくはないのですが現実を認識するものが滅びます。殆ど全てのシミュレーションで現実を全く見ることなく、ただ適応していくものだけが現実をあるがままに見る生物を絶滅に追いやるのです。

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 人間の食に対しての適応力は驚くべきものだと感心させられます。納豆・ナマコ・マンボウ・カエル・蛇・カタツムリ・クラゲ・蜂の幼虫・イナゴ・栗・銀杏・イノシシ・クマ・鹿・ワニ・・何でも食べることのできるホモ・サピエンスは、生き残こるべくして生き残ってきたかもしれません。他の生物が食べないユーカリや笹を食べて生き残っている種もあります。

 生存の為には危険を回避して捕食によってエネルギーを摂取し子孫を残さなければなりません。有利な特徴(=子孫が生き残れる雌雄)を持ったものと交配してきたかもしれません。眼前の環境に適応できるものが生き残れている。

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11:40

 あなたが今知覚している空間と時間は、あなたにとってのデスクトップであり物理的に存在する物体はデスクトップ上のアイコンに過ぎません。

13:55

 物理学によれば強固に見える金属製の電車も実際には微小な粒子がほとんど空っぽの空間を飛び回っているだけだとずいぶん前からわかっていた。新しい考えではないではないか、でも厳密にはそうではありません。こういうことです。デスクトップ上の青いアイコンは現実のパソコンそのものではありませんが、ちゃんとした虫眼鏡で近づいて見てみると小さなピクセルが見えますがこれこそがパソコンの現実なのです。

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 存在は形や色や質感として感受されますが、その存在はパソコンのデスクトップ上に表示されている図形でしかない。ファイルのアイコンにはファイルが入っていますが、ハードディスク内のdocument/myfile/doc/というディレクトリーを表している。また番地で言えば0001000010001000111110011かもしれません。

 また、https://mujyo-ku-muga.blog.ss-blog.jp/が可動しているのは日本なのかアメリカなのか全く分かりません。ただの文字を見ているのですが、IPアドレスが割り振られて管理されています。”h”はASCIIコードで16進数では0x68となります。見えているモノと実体とはかけ離れています。鉛筆の芯もダイヤも同じ炭素原子でできている結びつきや密度の違いだけです。印刷前の1万円札と印刷後の1万円札は紙としては同じです。

 数日で入れかわるヒト小腸の上皮細胞では、世界で最も美しい女性の上皮細胞と90歳の女性の上皮細胞を比べても変わらないかも知れません。

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14:38

 誰にでも立方体が見えるのはそれぞれの人が見た立方体を構築しているからです。電車についても同じことがいえます。誰にでも電車が見えるのは各人が構築した電車を見ているからです。全ての物理的に存在する物体について同じことが言えます。

15:15

 現実は3次元のデスクトップのようなもので、現実の世界の複雑さを隠ぺいし適応的な行動をとるように設計されています。知覚する空間がデスクトップであって、物理的に存在する物体はデスクトップ上のアイコンに過ぎません。

15:44

 我々は地球が平らであると考えてきました。そのように見えるからです。次に地球は宇宙における不動の中心であると考えました。そのように見えるからです。でも我々は間違っていました。知覚は誤解されていました。時空と物体はあるがままの現実であると信じています。

 我々は知覚による体験を誤って解釈しているのです。我々が目で見なくても存在している何かがありますが、それは時空でも物理的な物体でもありません。体験する時空や物体を否定することは、玉虫がボトルから離れることと同様に難しいことですなぜでしょう?

 我々は本当のところが見えていないことに対し盲目だからです。それでも玉虫よりは優れていることがあります。それは科学と技術です望遠用のレンズを通して眺めることにより地球は現実の世界における不動の中心ではないことを発見しました。

 また進化論を注意深く考察することで認識する時空と物体が現実の真の姿でないことも分かりました。私が赤いトマトと表現するものを知覚によって体験する時現実との作用が起りますが、現実は赤いトマトとは全く異なるものなのです。

脳ないしニューロンによって知覚的な体験をするとき現実との作用が働きますが、現実は脳やニューロンによって構築されたものではなく脳やニューロンの構築物とは全く異なったものです。現実はそれが何であれ世の中の原因と結果の元となる真の存在であり脳やニューロンの構築物ではありません。脳とニューロンには原因を引き起こす力は無く、我々の知覚的な体験や行動そのものを引き起こしません。脳やニューロンが構築するイメージやその方法は種に依存します。

18:53

 知覚とは真実を見ることではないと認めましょう。

19:48

 私が主張しているのは知覚したものが現実であり、現実は知覚したものとほぼ等しいという1つの理論が過ちと判明したということです。

20:24

 知覚は現実を隠蔽すようにデザインされています。しかし論理学や数学についてはその限りではありません。

21:27

 意識が物を生じさせその逆ではないと。

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 ほとんどの物理的な存在には識別名(=名前)がついています。”飴”という言葉を発音しても文字としても頭の中で呟いても、ただの名前であって実際に”甘さ”を味わうことはできません。見えた対象を記憶と照合して一致した識別名をあてがい”電車”としています。教え込まれ記憶された識別名によって”電車”となるだけで、電車を見たことがなく教え込まれていなければただの物体でしかありません。花・虫・料理・野菜の名前を知らなければ見えたままとして受け取る他ありません。

 物理的な存在はアイコンであって、表面の一部だけが見えているだけです。自身の身体や他人の身体の一部を見ることができますが、身体(=アイコン)の内部でどのようなことが行われているのか全く分かりません。食べたものがどうやって食道を通って胃の中でどこから消化液が出てどのようにして消化されて・・・・。家の居間にいたとして、壁(=アイコン)は見えるのですが壁の内部がどうなっていて壁の向こう側はどうなっているかさえ全く分自身の身体だと思いこんでいる身体も、侵入したウィルスを自由自在に撃退することは出来ません。単に筋肉を収縮させてある程度動かせる程度です。かりません。車(=アイコン)の外観を見ることができますが、ガソリンがどのように噴射されてピストンがどんな形状でどのように動いているかなど全く分かりません。

 物理的な存在として認識されるのはほんの一部の外観であって、内部で起っている詳細は全くのブラックボックスだということでしょうか。アイコンを見て世界を見ている気になっていることに気づいてくださいということでしょうか。

 見えていないところは全く知りえない。見えたものは脳が構築した構築物であって表面上の外観であって人間の感受できる範囲での像(=脳の視覚野では全ての電磁波を色として再現出来ていません)。ある種によっては、世界は白黒のモザイクとして見えているかもしれません。あたかも匂いの分子が川のように流れている世界かもしれません。

 知覚は各生命体の感受能力の差異によって再現され、ことなる世界として映し出されているようです。知覚されて存在は、ホモ・サピエンスが都合よく再現しているということでしょうか。極端に言えば各生命体の数だけ異なる存在として受け取られているかもしれません。

 認識できている状態が意識であり、物が生じたり滅するわけではありません。認識できている人にとって存在があり、その人が認識できなければその人にとって存在はないということになります。

 

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洞察 [TED]

TED 「My stroke of insight」

 脳科学者(神経解剖学者)自身の脳卒中(左脳内での脳内出血)での体験です。

自身の脳内で起ったことを分析し記憶したことを述べてくれている貴重な体験談です。

 私たちの周りで起っていることは大袈裟に言えば宇宙で初めての出来事でこれからも起こることのことのない一回限りの出来事です。経験則というものを持ち出していますが、起こることは似て非なるものです。数十億年前から試行錯誤を重ね身についている本能的な部分は間違うことはありません。危険を察知する完璧な感覚(臭覚・味覚・身体感覚・聴覚・視覚)が備わっています。

 膨大な時間をかけて造り上げられたシステムを大脳皮質で制御できるでしょうか。生き残るためにあるシステムを制御しようとするのなら自らを危険に陥れることになるのは明らかです。各生命体の感受能力の範囲内で、各生命体の都合のいいような世界があるはずです。魚の感受している世界をそのとおりに感受しても地上で生活できる保障はありません。鳥の感受している世界をそのとおりに感受しても地上で生活できる保障はありません。ネズミ・ミミズ・・・他の生命体が感受していることなどどうでもいいのですが・・・。人間の◯◯倍の能力があるから凄いとか素晴らしいとか知りたいというのが人間の特質でしょうか。

 感受したことを制御しようとしたら大変なことです。人間という生命体が築いてきたことが台無しになります。脳が脳を制御できるのでしょうか。生きていくために世界を都合の良い世界として見ているし聞こえている味わうために脳がある。ただ働きとして作られてきたのですが、言語という発明によって勘違いしているかもしれません。

 目を向けると光景が見えるように、自動的なそれまで見えたいたものは綺麗サッパリと消え去り今見えている光景だけが見えています。熟睡時以外は何かを感受して反応しています。微妙な思いが沸き起こっていて、それを自動的に言葉に変換してつぶやいています。そう思ったのですから仕方がないのですが、何故か”意”というものは”意”を何とかできる(=制御)とすることで問題としています。

 生命体として身体というものを動かせないといけないので身体としての空間認識を脳が作り出しているかもしれません。どうしても他者を見るように自己を見る癖が抜けきらないので自意識というものに振り回されて行くことになります。

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<03:36

右脳にとっては“現在”がすべてです“。この場所この瞬間”がすべてです。右脳は映像で考え、自分の体の動きから運動感覚で学びます。情報はエネルギーの形をとってすべての感覚システムから同時に一気に流れ込み、この現在の瞬間がどのように見えどのように臭いどういう味がしどんな感触がしどう聞こえるかが巨大なコラージュになって現れるのです。右脳の意識を通して見ると、私という存在は自分を取り巻くすべてのエネルギーとつながった存在なのです。>

 

 記憶が有りもしない幻影の過去のイメージを思い出し将来に憂いをいだきます。今ここという”瞬間・瞬間”があり、”過去・未来”という”時間”というただの概念であって存在などしていません。未来を経験することはなく常に”今”だけです。過去の遺物はありますが、未来が存在するのなら未物というものに出くわしてもいいのですがどこにもありません。それは既に生存しているものや存在しているものを”発見”するだけのことです。

 

<04:47

私たちの左脳はまったく異なった存在です。私たちの左脳は直線的系統的に考えます左脳にとっては過去と未来がすべてです。左脳は現在の瞬間を表す巨大なコラージュから詳細を拾い出し、その詳細の中からさらに詳細についての詳細を拾い出すようにできています。そしてそれらを分類し全ての情報を整理しこれまで覚えてきた過去の全てと結びつけて将来の全ての可能性へと投影します。そして左脳は言語で考えます継続的な脳のしゃべり声が内面の世界と外の世界とをつないでいます。その小さな声が私に囁きます“帰る途中で―”“バナナを買うのを忘れないで”“明日の朝いるから”>

 

 ”今という瞬間”に問題があったら大変なことです。”今という瞬間”に手出しすることは不可能だからです。過去や未来を持ち出すから問題となるので、”今という瞬間”を操作しようとした瞬間に”今という瞬間”は消え去っているので、”今という瞬間”を掴んだり得たりするような問題にはなりません。危険であれば身体が反応して勝手に危険回避しています。

 

<07:55

私はバランスを崩し壁にもたれました。そして腕を見るともはや自分の体の境界が分からなくなっていることに気付きました自分がどこから始まりどこで終わるのかその境界が分かりませんでした。>

<09:31

この空間の中では仕事に関わるストレスが全て消えました。体が軽くなったのを感じました。外界全ての関係とそれにかかわるストレスの元がすべてなくなったのです。平安で満ち足りた気分になりました。想像して下さい37年間の感情の重荷から解放されるのがどんなものか!(笑)ああ!なんという幸福幸福とても素敵でした。>

 

<15:17

しかし私は“でもまだ私は生きてる!”と思いました。“そして天国を見つけた私が天国を見つけて―”“まだ生きていられるのであれば生きている皆も―”“天国を見つけることができるんだ”と気付きました。世界が美しく平安で思いやりに満ちた愛する人々で満たされ、みんないつでもこの場所に来られると知っているのを思い描きました。意図して左脳から右脳へと歩み寄りこの平安を見出すことができるのだと。この体験がどれほど大きな賜物となるか、生きている人たちにどれほど強い洞察を与え得るか、そのことに気付きそれが回復への力になりました。>

 

 思考(=ことば)偏重の脳から離れることができ、おしゃべりをやり過ごして静かになることができれば平安だと実体験をしたのでしょうか。おしゃべりが普通であり積極的に思考に関わることが正常だと思いこんでいるのが現代人です。スポーツマンは何度も何度も練習して、身体に覚え込ませ思考を使わないようになるまで訓練するのでしょうか。左脳を使わずに右脳で知らぬ間にできる”ゾーン”になっているのでしょうか。本能の反射レベルまでになるように、脳の記憶から身体の記憶になるようにしているのでしょうか。

 

<16:32

さて私たちは一体何者なんでしょう?私たちは器用に動く手と2つの認識的な心を備えた宇宙の生命力です。そして私たちはこの世界の中でどんな人間でいたいのかどのようにありたいのか、すべての瞬間瞬間において選ぶ力があります。今ここでこの瞬間私は右脳の意識へと寄る事が出来ます。そこでは私は宇宙の生命力です。私を作り上げる50兆もの美しい分子が一体となった生命力の塊です。あるいは左脳の意識へと寄って1人の堅実な個人としてあることを選べます。大きな流れや他の人とは別個の存在です。私はジルボルトテイラー博士理知的な神経解剖学者です。この2者が私の中にある“私たち”なのです。皆さんが選ぶのはどちらでしょう?どちらをいつ選びますか?私たちがより多くの時間を右脳にある深い内的平安の回路で生きることを選択すれば、世界にはもっと平和が広がり私たちの地球ももっと平和な場所になると信じています。>

 

 左脳重視の”アイデンティティ”を押し通していくのか、個という概念は単なる概念であると見抜くのか。人生の意味や価値があったら大変なことです。ヒトラーの演説(=ただの音)を聞いて”ユダヤ人”を敵として見立て、団結してドイツ国民として自意識を増長させたことで大変なことになりました。新大陸が約束の地であると”意味や価値”を見い出せば先住民はどうなるのでしょう。我らが神から祝福された人間だと”意味や価値”を受け付けられたらどうなるでしょうか。

 熟睡している時に”意味や価値”がなくても生きていました。今この瞬間に”意味や価値”がなくても平気です。赤子や幼児には”人生の意味や価値”など問題になりません。”意味や価値”を見出すことは危険を孕んでいるのではないでしょうか。”意味や価値”が無いからこそ次の瞬間に自由と解放があります。”意味や価値”に縛られた人に自由と解放はあるでしょうか。”意味や価値”は成功をもたらすと主張しますが挫折もあります。その人になり切れるわけがないので、人と比べる前に自身が平安でいられる方を選択するのがよっぽど幸せかも知れません。

 ********

  生命体は各感覚器官で感受できる情報に何らかの意味を感じます。対象とされたモノを捕まえるか退散するか本能的に行動しています。人間が集まって生活している場では、音や形に意味があると教え込まれ音(=言葉)に意味があり、形(=文字)にも意味があるとして生きています。なるほど伝達手段としては素晴らしいのですが、この音と形に意味や価値があると思い込んでしまって振り回されています。ただ浮かんでは消えたしまう思いでしかないのに、言葉と文字と結びつくことで意味や価値が創出されてしまいます。

 感情や感覚が先で次に言語という順番なのですが、あまりに密接であり瞬時・同時となっています。ラジオでは表情や態度は分からないのですが、音(=言葉)で感情を感じてしまうまでに一体となっています。

 言語という思考の道具が作られてから思考こそが問題を解決するとされています。思考で解決できるのなら、悩んだら思考で何でもかんでもバッサリと解決できるようなものですが・・。人類の思考能力はいつになったら完成するのやら。

 思考が悪いわけではなく、必要な時に使えばいいだけのことです。思考を追い回すという最悪なことを何時もしていることを見抜かなければなりません。どうしても存在に言葉の無かった状態(=万物斉同)に一旦は立ち戻る必要が在ります。言葉での思考で振り回されない生命体は狂気になるでしょうか?眠っていて狂うことはできません。思考を追っかけてだんだんとズレが大きくなって制御できなくなるのでしょうか。

 何もしていないのに(=例えば只管打坐)思いが出るのは自然現象ですが、思考を追っかけて”何とかしよう”とししている「その思考」を只観察して放ったらかす。”何とかしよう”という思考と観察の根比べです。只坐っているのに”何とかしよう”は間違いだと見抜いて、それこそ何もしない。自我にとって、この世で一番の苦痛は”何もしない”・”かまってもらえない”・”何とかしようをスルーされる”ことのようです。

 この文章を読んでいる時点で、社会的自己(=自我)は予防線を張っています。”何もしない”ということができるわけがないと高をくくっています。身体を痛めつけるのが修行ではありません。果たして”何とかしたい”に打ち勝ち”何もしない”でいられるか。何故そうするかも分からず、何かを掴みたい何かを得たい何者かになりたい、意味や価値があるはずだと決めつけている。教え込まれ刷り込まれ、疑うことはありません。掴んだ人はもっと掴みたい得たい人はもっと得たい何者かになりたい人は最高の人になりたい。何処まで行っても終わりのない旅を続けていていいのでしょうか・・・・。

 何も掴まない何も得ない何者にもならなくていい、何物にも何事にも意味や価値を見出さずただ感受していればいい。社会的自己(=自我=何かをしていたい=何とかしたい・解決したい)は何もしないことでおとなしくなっていきます。出る幕(=出番)を減らして相手にしないようにする。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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意識とは何か−2 [TED]

TED「意識とは何か

<04:35 こうした証拠により意識が脳に組み込まれている仕組みが分かりつつありますが、知るべきことはまだ多くあります。例えば意識に関わるネットワーク中の神経細胞が特定の情報を処理する仕組みについては現在の科学技術が及ぶ範囲を超えています。私たちが科学を通して意識に迫るとき人間とは何かという疑問に対する新たな探求が始まるのです。>

 

****<辞書等での大まかな意味>

◯観念:ある物事がどういうものか言葉で定義したもの。物事に対してもつ考え。

主観的(=自分だけ)であり、頭の中だけで考えていること。

人が物事に関して抱く、主観的な考えのこと。対象物に対して心の働きが加わったもの,つまり認識されたもの。内的・個人的なものです。

※個々人によって対象について考えている内容が異なる。※

類義語:イメージ・考え・心像・想念  対義語:実在

 

◯概念:物事の大まかな意味内容。概念は物自体に関したもので,心の働きとは無関係。外的・共通的なもの。客観的であり辞書で記述していること。

※意味がない言葉には概念は存在しない。欧米人に「おこわ」という概念はない。※

類義語:意味・内容・解釈・体用・全体像  対義語:実体・具現・具体 

 

◯意識:私の経験だと感じることのできることを総体的に意識という。(精神分析学)

****

 意識を科学的な見地から解明しようということです。科学では再現性・普遍性・客観性・法則性がなくてはなりません。主観が入り込まないということが科学なので期待したいものです。意識を探ろうとすることに主観を入り込ませないことが可能なのかはなはだ疑問ですが・・・。

 地球上の生命のDNA塩基配列から“全生物の共通祖先(=単細胞生物)”があって、全生物が進化して今のようになったという確率が高いようです。地球の存在以前に宇宙が存在していなければなりません。意識がそれぞれの生命体にどの段階で何処からどのように組み込まれたかを解明してくれるのでしょうか。宇宙の根源に宇宙全体が備わっていなければ今の宇宙としてあるのでしょうか。植物の種に将来の植物の全てが無かったら植物として現れることがないのと同様ではないでしょうか。

 物質が燃焼したり分解して消滅したとし、この宇宙の外に消え去るわけではありません。物質が宇宙の外からやって来るなど考えも及びません。あらゆる存在あらゆる空間あらゆる時間に意識が無かったら、何処からどのように意識がやってくるのでしょうか。

 科学的な解明をするなら、意識の起源をハッキリしなければならず、意識がどのように変化変容しているかも解明しなければ応用することは出来ません。科学で意識の法則性を確認したとして、どのように使うというのでしょうか。ロボットに意識を埋め込んで人間のように振舞えとでもいうのでしょうか。また、昆虫に人間の意識を埋め込むのでしょうか。既にピクサーの映画に出演している動物たちのようなものを出現させたいのでしょうか。コメディーのような世界ならばいいのですが狂気の世界となるかもしれません。

 

 人間は他人の内面(=感覚・感情・思考・経験・知識・心・・)をそのまま直知することはできません。人間の数だけ異なる内面があり、たった今の瞬間瞬間にも変化変容しています。意識があらゆる生命体にあるとするならば無限の意識がとなって現れていることになります。

 人間の内面を知るには、素の自己(=本来の自己)を知る以外はありません。素の自己(=本来の自己)とはどいうことでしょうか。五感(=視・聴・嗅・味・触の五つの感覚)から入ってくる情報は常に生滅しています。前の感覚がいつまでも残って重なることはないということです。あらゆる情報を選り分けることができず無差別に感受されています。選り好みできないので平等に入力されるだけです。五感での入力時点では、万物斉同であり単なる情報だということでしょうか。

 見たくなくても見えるし、聞きたくなくても聞こえます。全てが消え去り、すぐにニュートラルになり全てをあるがままに受け入れています。数十億年懸けて手に入れた感覚は素晴らしいものです。見えたまま・聞こえたまま・味わったまま・・・・。残念ながら感受したものは記憶され瞬時に固定観念というフィルターを通ることによって思慮されて個人的な思いとなってしまいます。生まれて数十年で身につける知識や固定観念が数十億年で身につけたものに勝るものでしょうか。たかだか学校で得た知識や、社会生活で磨いた思考でなんとかしようとするであるがままを歪めてしまっています。大脳皮質優先の頭でっかちとして教育され、躾けられてしまって虐げられていることに気づきません。

 只感受したままで何も問題はないのに、自我(=なんとかしよう)によって着色され”なんとかしよう”に振り回されていないでしょうか。

 例:会社で3時の休憩時間にケーキが配られました。全く同じケーキなのに好意を持っているAさんの差し入れと嫌っているBさんの差し入れのケーキが置いてあります。同じケーキ屋さんで切り分けたケーキです。何で同じように食べれないのでしょうか?

 例:空から平等に降ってきた雪なのに、どうして”あなたの雪・私の雪”というふうに分かれるのでしょうか?春になればすっかり消えてしまうのに?

 

 『方丈記』の冒頭の一節に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」とあります。

 人間は裏腹であり、思いも勝手に沸き起こっています。誰かの感情・感覚・思想・貪・瞋・癡をインストールするとでも言うのでしょうか。権勢欲・所有欲・・・を持った生々しいロボットが出現して欲しいのでしょうか。現代の錬金術師よろしく”賢者の石”を手に入れて生命体に注入し、まったく別の生命に作り変えようと試みるのでしょうか。

 他人の内面を直知することができないので、”人間とは”と答えを導き出すには自問自答して導き出すしかありません。他人(=例えばお釈迦様)の内面を保存し、そのまま移し替えることができれば”人間とは”の答えを知ることができるかもしれませんが・・・。残念なことに”人間とは”と問うているのは問うているその人であり、問うている人が出した答えは当の本人のことです。

 研究者が導き出すことができる人間モデルは、他人ではないので研究者自身の人間モデルということになるのではないでしょうか。科学者・音楽家・哲学者・表現者・芸術家・ビジネスマン・農業従事者・・・、それぞれが自身こそが人間モデルであり他のモデルを理解することはできません。

 

 ”人間とは何か”という疑問には、すでにお釈迦様が答えを出しています。王子であったシッダールタは、私たちが人生の目標とする財力や権力を既に手にしていました。彼の出発地点は、我々の最終目的地点だったということになります。もし私たちが”人間とは”のスタート地点(=王子のような生活)を人生の目標地点にしているのなら、スタート地点にすら到達出来ていないことになります。スタートできなければ、永遠に”人間とは”の答えに巡り会えないかもしれません。

 王子シッダールタは、物質的に恵まれていたにもかかわらず”自分かわいい”に従っていたようです。彼は物質的なことに頓着することはなく”苦”に感じることはなかったと想像されます。一般市民の”生・老・病・死”ということをマジマジと見ることで将来を気にやんで”苦”と認識し、”なんとか・どうにかして”解決しようと命を懸けたようです。人格の向上だとか人間としての進化など大袈裟なことのためでしょうか。人格を向上しましょうと言う人がいますが、自身の人格のようになってはどうですかと、自身の人格が高いと暗に言っているように感じる人もいるかもしれません。たかだか身体を痛めつけることで、簡単に進化するのならオリンピック選手の殆どが進化しているのでしょうか。また瞑想で進化するようなことがあったら大変なことです。一体何者に変身するのでしょうか。進化したのなら是非科学的に分析してもらいたいものですが・・・。

 一つの例ですが、静寂は得たり作り出すものでしょうか。それとも騒乱・混乱・葛藤がおさまれば静寂であるのでしょうか。いつでもどこでも静寂であるのに、静寂をかき乱していただけのことではないでしょうか。静寂を覚りとか涅槃とかに置き換えてみればわかるはずです。得たり掴んだり成ったりするものであれば、錬金術のように苦心惨憺しても無駄足となることは自明のことではないでしょうか。自ら(=ありもしない自我)がかき乱して乱痴気騒ぎしていたことを見抜き、ありもしないもの(=自我)を相手にしなければ自然と退散します。いつまでもゲームを続けるのか、一旦ゲームオーバーして本当にゲームとしてゲームを眺めるのか。

 権威もなにもないので説得力に欠けますが、”なんとかしたい”には何もせずに相手にしなければいいだけなのですが・・・。何もせずに、ぐうたらになるというのではありません。”なにかしよう・なんとかしよう”という騒動を鎮め勝利することは大変なことです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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意識とは何か [TED]


<00:57:P.S.氏の症状は 「半側空間無視」と呼ばれ 脳の情報処理と 処理を経験することは 異なるという重要な事実を示しています この経験が いわゆる「意識」です。>

 

 単細胞生物から進化して口と排泄口が一本の管であったものが、腸になり神経となり更には脳へと進化したのでしょうか。腸は第二の脳と言われていますが、進化の過程からすれば脳が第二の腸というのが正しいかもしれません。生命体が生き残っているということは、危険を回避しながらも効率的にエネルギー源を摂取するというシステムが構築できているからではないでしょうか。生命が生まれた瞬間から生き続けるという機能が備わっていたことになります。永遠に生き続けるには自身のコピーを多く作り、生存の可能性を広げるために変異を起こして多様化しなければなりません。あらゆる条件下で一つでも生き残れば生命は繋がっていくことができます。

 危機的な状況であっても多様化できたことで、生命体としての生存は続いていく可能性が残されています。より強いものへと変化変容して今の生態系となっているのでしょうか。あらゆる生命体の元祖は同じ単細胞であり、我々は同じものから派生した同じ生命体ということでしょうか。表面上は食べるということをしていますが、単に同化しているというだけのことかもしれません。生命の存続という立場から見れば、お互いにサバイバルゲームの中で切磋琢磨しながら強化して生き延びているということでしょうか。幸いにも人間種という生命体としてこうやって生を実感できています。

 脳の話へ戻りますが、生命体として生存するために五感から入力される情報を処理し、危険回避・エネルギー源の確保のために行動していることは疑いありません。電磁波の情報が視覚細胞から入力されて、視覚野で映像として処理され、次に記憶と照合されて”危険”や他の感覚として処理しているのでしょうか。「半側空間無視」とは、その映像が左脳で処理できなかったということでしょうか。視覚野では処理されているので”無意識”では”危険”とされていましたが、顕在化(=視覚化)できていないので”意識”として体感できていない。脳内では”危険”と判断されているのですが、見えていなのでどうしてなのか理解できないかもしれません。

 私たちも全てが見えているわけではないのですが、身体が反応して勝手に動くことがあります。

 

<01:44:白色光を 色のない耀きと読み取ります 実際には 白色光は目に見えるすべての色に対応する 波長を含んでいます

 同様に人体に関する脳のモデルは 手足の位置を把握しますが 個々の細胞 または筋肉についてさえ 把握しません このレベルの情報は 動作を計画するのに必要がないからです もし脳にこのモデルがなく 体の大きさや形 瞬間的な動作を把握できなければ 我々はすぐにケガしてしまいます  >

 

 私たちは、私たちには存在を認識できる能力が備わっていると思い込んでいます。人間にとって認識できる存在があって、ありのままを認識できているとしています。そうでしょうか。自身の周りには解りきった存在があって、その存在を認識しようとすれば適切に認識できているとしています。それは我々の認識能力の範囲内のことであって、限られた認識能力しかありません。紫外線は見ることは出来ないし、全ての振動(=音波)を聞き分けることも出来ません。

 認識できる存在が存在としてあるのではなく、認識できる範囲でしか存在を認識できていないということです。どうやっても鳥や蝶が見ているようには見えません。犬が嗅ぎ分けられるように匂いを嗅ぎ分けることはできません。ただ人間の能力の範囲内で認識されたものだけが存在として認められているにすぎません。本当の”花”の色彩を見ているのではなく、紫外線がカットされた”花”を”花”の色彩としています。

 私たちは”言語”を認識しているのではなく、認識できる”言語”が認識されているということです。アラビア語を認識できない日本人にとって、”アラビア語”は”言語”ではなく単なる音(=言葉)・形(=文字)でしかありません。何気なく文章を書いたりしていますが、日本人が認識できるような文章を書いているということです。

 知らぬ間に、日本語という言語を理解できる人に向けた文章を書いていることになります。認識されるモノ(=認識することができるモノ)、つまり認識する人にとって意味や価値がなくてはなりません。詩や音楽や芸術作品は認識される人によって意味や価値が創造されます。子供が砂を積んだだけでは芸術作品にはなりません。認識する人にとって意味や価値がなければ意味がないということになります。必然的に発信する人は意味や価値のあるものを創作し、認識する人は認識できる意味や価値のあるものを見出すことになります。

 全ての存在に意味や価値があると思い込んではいないでしょうか。何故なら意味や価値のあるものを与えられ、意味や価値のあるものを得ようとしてきたからに他ありません。意味や価値のあるものを作らなければ、誰も興味を示しません。多くのものに囲まれていながら、意味や価値の無いことをしたり意味や価値のないものを追いかけるようなことはしません。誰もが意味や価値のあるものを得ようと必死になっています。意味や価値のあるものを求め、得ることが人生そのものだとしています。人生は意味や価値のあるものを探し回り、どうすれば掴んだり得たりできるかを考える続けたり行動することになっているのではないでしょうか。

 あくまでも今生きている人の生きている地域でのみ意味や価値があることでしかないということを理解しなければなりません。100年前のレアメタルは只の厄介な鉱物だったかもしれません。プラスチックは重宝されていたのですが、今では環境に負荷をかける代物です。

 

 意味や価値というものは、創作する人と認識する人がお互いが「虚構(=フィクション)」を共有していなければ成り立たないということのようです。子供には哲学書よりも童話の方が意味や価値があります。子供にはダイヤモンドよりも玩具のほうが意味や価値があります。

 光源である、白色は全ての色の電磁波の波長を含んでいますが、目で全ての波長を認識しても意味がありません。光を反射した物体がどんな形であるかが認識する主体が求めているものです。認識体にとって有益な情報が選び取られて処理されているということになります。人体であっても、大きさや可動範囲が分かればいいのであって足や手の内部構造がどうなっているかは大事なことではないようです。「私」というものも、様々な概念が組み合わさって認識されているただの思い込みということかもしれません。世間一般に使われている「私」は自身が自身に認識されるように、意味や価値をつけて意識されている「虚構(=フィクション)」かもしれません。

 

 仏教では、一切皆空であり無常であるので五蘊に意味や価値を見出せない。意味や価値を見出そうとしていることが無駄なことで虚しいことだと見抜いてくださいということのようです。変化変容している瞬間を捉えているだけで儚く消えゆくものに振り回されていることを直視してください。この世の物質的なことや地位や名誉や権力は一時的なものであって永遠ではない。思い煩うことのない、無達成の達成である”無”こそが「それ」ということ。

 

 

・人生に意味や価値があるとしているのは、意味や価値のあることだけを認識しようとする脳の働きが備わっているからでしょうか。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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「意識された現実」という幻覚ー2 [TED]

意識された現実」という幻覚

<前半の概略>

 意識が失われたら何も存在しない。脳が音を聞いたり光を見たりしている訳ではありません。自分の身の周りの世界とその中にいる自分という意識経験は、ある意味制御された幻覚。意識の性質を脳や身体の内部で起きていることから説明していけば謎は消滅していくはずです。身の周りの世界という経験と予測エンジンとしての脳。私たちが知覚するのは世界で起きていることに関する最善の推測です。

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 脳(=神経細胞の集合体)によって意識のようなものが現実という幻覚を作り出しているのでしょうか。それとも、宇宙そのものが意識であって生命体が感受したものを見せているのでしょうか。そんなことが分かったとして、平安と知識の量の相関関係はないようですが・・・。分からないでいいということを見抜けるか。いつまでも尻尾を追い回す犬は頑張り屋でしょうか。


 「真実の世界」とはフルレンジの世界を言っているのでしょうか。全ての電磁波の周波数帯、全ての波長(=低周波から超音波)の振動、全ての匂い、全ての味、絶対零度から超高温まで、湿度・硬度・圧力・・・知りうる限りの宇宙の実相。

 地球での個々の生命体は「真実の世界」からの刺激を各個体の有する感覚器官で感受しています。感覚器官の精度の範囲内でしか知覚できません。感覚器官の限られた精度でしか理解できないので、制御された幻覚というのでしょうか。

 紫外線まで感受できる蝶や鳥の見えている世界、暗闇の中で猫に見えている世界、コウモリが飛んでいる世界、犬が嗅ぎ分けている世界、海洋生物の世界・・・。フルレンジの「真実の世界」が削ぎ落とされた限られた幻覚の世界かもしれません。モザイクの世界、白黒の世界、色彩の世界、音のない世界、超音波の世界、感覚だけの世界、圧力の世界、味のない世界、匂いの世界、無臭の世界・・・・。

 各個体が感受している制御された幻覚の世界で生きています。各個体が限られた感覚器官の能力を最大限に使っているのでしょうか。情報(=刺激)を補って意味のある音や形として処理したり、不要な音や形は認識しない。脳は効率的に生命を維持するために制御・調整して使われているようです。

 個々の生命体は、自身の幻覚の世界(=感覚器官にもたらされる情報(=刺激)を頼りに)の中で必死に生きていると言わざるを得ません。

 個々の感受器官の性能によって、部分的な情報しか感受できないので”群盲象を評す”と同じように存在の「真実の世界」は決して見ることはできません。フルレンジの「真実の世界」ではなく、限られた世界で判断行動しているとの認識が必要です。今見て感じていいる世界は全てではないということ。

 

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<ゴムの手の錯覚>

<09:35つまり統一体としての自分であるということの基本的な背景となる経験は、脳による結構もろい構築物であり、他のものと同じように説明を要する経験なのです。>

<11:06何が自分の身体かという経験すら一種の最善の推測に過ぎず脳による一種の制御された幻覚なんです。>

 

 自らの意志と連動して動く物質を統一体(=身体)としています。身体が自分であるという経験があります。身体は認識される対象であり、知る主体である「本来の私」ではありません。知りうるモノ(=対象=身体)は主体ではありえません。光が当たる部分(=客体・対象・見られるモノ)は光源(=主体・本体・見る者)ではありません。「本来の私」を指し示すことはできませんが、辞書や社会生活で使われている「私」は共通認識としてのただの表象です。社会生活を送る上でアイデンティティを「私」として表現しておけば通じあえるだけの意味合いで使われているだけかもしれません。「自己紹介」お願いしますと言われても、年齢や出身地や趣味やその他の経験でしかありません。ただ表面上の属性でしかありません。一切は無常であり変化しては消え去っています。捉えたそばから変化変容してい固定された何かとして存在できません。「◯年◯月◯日◯時◯分◯秒時点での◯◯」としてあった変化し続ける何かです。捉えられない得られない実体のない何かでいいじゃないですか。尻尾を追いかけるのを止めれば何の障りもなのですが・・・。

 

 私の身体であり意志によって制御されている限りは制御対象です。身体(=対象)は「本来の私」そのものではありません。「偽物の手」でも手として視覚に入り、刺激と連動していれば自分の手のように感じる実験です。

 脳梗塞の療法で、動かない手の方に鏡を置いて”鏡に映し出された手”と勘違いさせて動かしていくと動くようになるようです。ピアノやギターも上手に弾いている人の手の動きを何度も見ることで弾けるようになるかもしれません。自分の手と勘違いするほど見続けるとどうなるでしょうか。

 子供はサッカー選手や野球選手などのプロの動きを見るだけで上達するようです。見ることによって手足の動きを頭の中で自分の手足として再現しているかもしれません。弓道では”看取り稽古”があり、重要な稽古と位置づけられています。達人の技を記憶して、自己が稽古したかのように再現しようとするものです。

 歯に麻酔が効いて、感覚がないときには唇も歯も自分ではないと感じたことがあるかもしれません。足が痺れた時も自身の足であるという感覚はありません。

 内蔵もよっぽどの痛みがない限り膵臓や脾臓や腎臓がどこにあるかなどサッパリ分かりません。見えなくて感覚がなければ「私」が身体であることさえ気づかずにいるかもしれません。身体が見えないくらいに目線を上げて「空=空間」を見るでもなく眺めていると身体の存在を忘れ”無我無心”になり、空間と一体になったような感覚を感じるようになるかもしれません。

 

 ”鏡に映った自分”の姿を見ている”自分がいる”というのは観念です。鏡を覗き込んでいる「私」がいるから見えているとして思い込んで(=観念)いるだけです。鏡に何か映っているということがあるだけです。自身の身体が鏡に映し出されて、鏡の反対側から見ているという予測があるだけです。鏡を見ている自身を直視して確認したわけではありません。

 猫や犬は人間が見ている人間の姿が見ていません。蝶や鳥やコウモリも人間の見えているようには人間が見えていません。魚は魚眼レンズにに映ったように私たちの姿が見えているの消化。自身が他人を見ているように、自身があるはずだというのは、自身の存在を予測しているだけです。

 自分で聞いている自分の声と他人が聞こえている自分の声とは違います。自分が見ている自分と他人が見ている自分も異なります。自分が味わっている味と他人が味わっている味は異なります。自分が自分だとしている自分は、他人が感じている自分とはかけ離れているのではないでしょうか。この世で自分を自分としているのは自分だけだということです。自分であると信じ込んでいる自分は自分自身以外は誰もいません。

 自分である自分は自分だけであって、他の人から認識されている存在とは異なります。つまり世界から認知されている自分は、幻影の自分でしかありません。自分が自分と信じている自分と世間の見ている自分とはズレがあります。認識されている自分と異なる自分として生きています。

 自分はこんな自分であるというのも自分だけの思い込み(=観念)で作り上げているだけのことで、自分だとしているのも対象であり「本来の私」ではありません。結局は、自分だとしている思いだけであって、知りえない分からない捉えられない何もないということかもしれません。

 

<16:01私たちは自然の構成要素であって、切り離された存在ではないとより強く認識するようにもなります。そして・・・意識の終わりが来ても恐れるべきことなんてー何もないのです。>

 

 二元対立がよくないのは、対立によって葛藤が起こり平安がかき乱されるからです。対象と認識してしてしまうと”なんとかしよう”という思いが起ってしまいます。そこに葛藤(=火)が生まれてしまいます。”なんとかしよう”というのは鎮火させるどころか、油を注ぐことになっているということだと見抜かなければならないのですが・・・。厄介なことに、葛藤(=火)を見にくる見物人を登場させることになります。

 鎮火するにはどうしたらいいでしょうか。燃焼は可燃物、酸素供給体、点火源のどれか一つを断てば燃焼は起こりません。例えば、可燃物(=自己・主体)、酸素供給体(=〜したい、理想)、点火源(=なんとかしよう)として観察してみてはどうでしょうか。

 

意識:自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き。

心:知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。

 

・スーパー感覚器官を持っていないので、限られた情報しか入力されません。

・限られた情報の中で固有の世界(=幻覚)を見ています。

・それぞれの生命体は異なる世界(=幻覚)の中で生きています。

・自分というのも、自分で構築した自分だけの思い込みの自分。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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「意識された現実」という幻覚 [TED]

TEDに『脳が「意識された現実」という幻覚を作り出す仕組み』というのがありました。

 

 今現在、生きている生命は絶滅を免れて生き残った最強な生命のようです。環境の変化に適応し、遺伝子が途絶えることなく繋がっています。生き続けたいという生命が生きているのですから、生まれた瞬間から死にたくない(=生き続けたい)ということのようです。”なぜ生きる・なぜ生きたい”と自問しますが、子孫を残し生きたいと願う生命だけが今ここに生きています。何としても生きていたい生命として生まれたのですから、”生きたい”という本能が引き継がれています。”何故生きなければ”・”何のために生きる”と問うても、答えは生命に宿っているこの事実が物語っています。

 

<01:14意識がなければ世界も自分も何も存在しない。>

 私たちは、”私が存在しなくても”世界は存在していると確信しているようです。毎日眠りから目覚め、周りを見回せば普段と変わらぬ世界があります。”世界はあり続けている”というふうに思い込む(=観念となる)のも無理はありません。しかし、認識主体が消え去ったらどうして存在があると分かり証明できるのでしょうか。”死”によって存在は無くなって(=存在を認める主体が消え去る)しまいます。存在は生命体の意識によって存在と認識されることによって存在と認められます。

 例えば、誰かに聞かされたブラジルの”サントスさん”は存在しているでしょうか。私たちが認識できなければ存在しているとは断定できません。もし、ブラジルの”サントスさん”が私たちを認識せずに死んだら、”サントスさん”にとって私たちは存在していたと言えるでしょうか。

 もっと身近なことで検証してみましょう。散歩している時にある家の玄関先に「忌中」と書いた札を見たとします。生前から面識もなくどんな人かも全く分かりません。見ている自分と、死んでしまった人のそれぞれに互いの存在はありません。一度も認識できなければただの思い込み(=幻覚)だと言われても否定できません。

 

<04:19頭蓋骨の中には光はありません音もありません。唯一利用できる電気的インパルスに頼らざるを得ないのですが、何であれ世界の事物とは間接的に関わっているにすぎません。ですから何がそこにあるかを知るという「知覚」は情報に基づく推測の過程にならざるを得ません>

 生命が存在・存続できるには、水とエネルギーと炭素・水素・酸素などの物質が欠かせません。生命はエネルギーを摂取するためにエネルギー源にいち早く近づき、また自身の身を危うくさせる事象から速やかに逃れなくてはなりません。神経系が未発達な生命体は、原始的な感覚で感知するしかありません。好環境に近づいたり危険から離れなくてはなりません。高度に進化できたのは、環境の変化に順応できる能力を獲得できたからかもしれません。生命の存続のためには、リスク(=リスクの推測)を分散しなくてはなりません。多様なエネルギー源からエネルギーを摂取する方が有利です。どんな食物でも消化する臓器とエネルギーを蓄える臓器が発達したと考えられます。ざまざまな感覚器官の中で、耳は陸上の空気があることで必要とされたのでしょうか。音を意味のある音として感知する機能は後から発達したのかもしれません。寝てても聴覚や臭覚は働いているようです。

 私たちは危険なモノに触れて手遅れになる前に、予め推測することが優れていると知っています。神経細胞の集積された脳の役割は、自ら神経細胞の数を増やすことだったかもしれません。それには多くのエネルギーが必要とされ、多くのエネルギー源からエネルギーを摂取しなければなりません。

 多様なモノから効率的(=熱で調理)にエネルギー摂取できたからこそ脳が発達したのかもしれません。

 

 存在は様々な刺激(=熱・音・光・温度・圧力・流れ・振動・・)に満ちあふれています。太陽・水・空気・有機物・・・の類まれな条件によって生命のバランスが保たれています。脳の進化によって神経細胞が増加することで明暗から白黒のモザイクさらにカラーの精細な画像として存在を認識できるようになっています。さらに3次元の画像や音がある世界として認識しています。

 脳は五感から入力される情報を最適な推測によって生命の維持に役立とうとしています。

 空気中を伝わるただの振動を意味のある言語として認識するように努めています。光を反射している電磁波を意味のある色や形として認識するように努めています。勝手に意味のある世界に変換しているのが脳の働きです。存在に意味があるのではなく、意味のある存在として感じなければいけない脳の働きがあるということなのでしょうか。脳にエネルギーの供給があり脳が働く限りは、存在に意味があるかのように推測しているということでしょうか。

 

<08:12実際には私たちは皆ずっと幻覚を見続けているんです。今ここでもです幻覚について一同が合意している時それを「現実」と呼ぶんです>

 プラナリアが接している世界、鷹が接している世界、ウサギが接している世界、70億の人が接している世界・・・。それぞれの個体が接している世界は一つであり、どんな個体が接していてもまったく同じ反応でしょうか。酷暑の砂漠で生きている個体が感じる太陽と酷寒の山で生きている個体が感じる太陽は同じでしょうか。雲も風も水も匂いも音も味も・・・それぞれの個体に依存して認識されているのではないでしょうか。同じ音楽(=音の振動)であっても心地よく癒やされる個体もあれば身の危険を感じる個体もあります。同じ個体であっても状況によって異なることもあります。存在も無常であり瞬間瞬間変化してその時限りの一期一会です。感受される情報も無常、感受しているモノも無常です。脳の推測も変化しています。

 個々に感受しているのが異なるということは世界は個体の数だけあるということになります。同じ世界ではないにもかかわらず同じとしているのは、個々の見ている世界が真の世界ではなく単に合意された”幻覚”ということ。  個々に認識している世界は個々の脳が推測した”個々の真の世界”です。(参照:一水四見)自身と異なる世界を”真の世界”だと主張している”世界”を真だと認められない限りは、自身以外の個体の推測している世界は”幻覚”となります。個々の個体が他の個体の推測している世界をそのままに知覚できない限り、他の個体が知覚している世界を”幻覚”と言っても何ら不都合はありません。自身の見ている世界と他人の見ている世界もだいたい同じだと社会的な合意によって「現実」ということにしているだけのことかもしれません。

 

意識:自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き。

心:知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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