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箭によりて [阿含経]

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、ラージャガワ(王舎城)のヴェールヴァナ(竹林)なる栗鼠養餌所にましました。

その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。

「比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫も、楽しい受(感覚)を感じ、苦しい受を感じ、また、苦しくもなく楽しくもない受を感ずる。

比丘たちよ、またわたの教えを聞いた聖なる弟子も、楽しい受を感じ、苦しい受を感じ、また、苦しくもなく楽しくもない受をも感ずる。

そこで、比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子と、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、なにを特異点となし、なにを特質となし、また、なにを相違とするであろうか」

「大徳よ、われらの法は、世尊を根本となし、世尊を眼目となし、世尊を依拠となすのであります。願わくは、そのことについて、われらのために説きたまわんことを」

「比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。

比丘たちよ、それは、たとえば、第一の箭をもって人を射て、さらに、また、第二の箭をもってその人を射るようなものである。比丘たちよ、そのようにすると、その人は、二つの箭の受を感ずるであろう。それとおなじように、比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。

 すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。苦なる受にたいして瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の素質が彼を捉える。また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。なぜであろうか。比丘たちよ、おろかなる凡夫は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知らないからではないか。そして、欲楽を欣求すると、眠れる貪欲の素質が彼を捉える。彼は、また、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、ほんとうには知ってはいない。それらのことをよく知らないからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えることとなる。

 つまり、彼は、もし楽受を感ずれば、それに繋縛せられ、もし苦受を感ずれば、それに繋縛せられ、また、非苦非楽なる受を感ずれば、それえに繋縛せられる。比丘たちよ、このようなおろかなる凡夫は、<生により、死により、憂いにより、悲しみにより、苦しみにより、嘆きにより、絶望により繋縛せられている。詮ずるところ、苦によって繋縛せられている>とわたしはいう。

しかるに、比丘たちよ、すでにわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、それは、身における受であって、心における受ではないのである。

 比丘たちよ、それはたとえば、人が第一の箭をもって射られたが、第二の箭は受けなかったようなものである。比丘たちよ、そのようだとすると、その人は、ただ一つの箭の受を感ずるのみであろう。それとおなじように、比丘たちよ、すでにわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。

 けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、それは、身における受であって、心における受ではないのである。

 

 だから、彼は、苦なる受に触れられても、そこで瞋恚(いかり)を感じない。苦なる受にたいして瞋恚を感じないから、眠れる瞋恚の素質が彼を捉えない。

 

また、彼は、苦なる受に触れられても、欲楽を求めない。なぜであろうか。比丘たちよ、わたしの教えをきいた弟子は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知っているからではないか。そして、欲楽を願わないから、眠れる貪欲の素質が彼を捉えないのである。また、彼は、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、よくよく知っている。それらのことをよく知っているからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えるようなことはない。

 つまり、彼は、楽受を感じても、繋縛せられることなく、もし苦受を感じても、繋縛せられることなくしてそれを感ずるのである。比丘たちよ、このようなわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、<生によっても、死によっても、憂いよっても、悲しみによっても、苦しみによっても、嘆きによっても、また絶望によっても繋縛せられないのである。詮ずるところ、苦によって繋縛(けばく)せられない>とわたしいう。

 比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子と、まだわたしの教えを聞かない凡夫とは、これを特異点となし、これを特質となし、また、これを相違となすのである。

 

賢き者は受によりて動かず
智ある者は苦楽に揺るがず
賢者を凡夫にくらべなば
天地霄壌(しょうじょう)の差異のあるなり

法をさとりて智慧ふかく
この世かの世を知りつくし
快楽に心をまよわさず
苦難に心ひるむことなし

心にそうも、そわざるも
みなことごとく消えはてて
清浄無垢の道を行き
彼の岸にこそ立てるなれ 」

南伝 相応部経部36-6 「阿含経典三巻 増谷文雄著 筑摩書房」

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 禅の公案には様々な物語があります。公案を読むと何らかのイメージを抱くのも人間の癖です。問題は外(=対象)にはなく、自身(=思考)が問題を作っているということに気づかされます。

 「無字」の公案では問題自体が「無」であるということに気づき、「野鴨」では見えていること自体には問題は無いし、「隻手の音声」では聞こえている音自体には問題はないということでしょうか。問題にしている「我」が問題だと気づいてほしいのでしょうか。

 勝手に働いている五感なのに、意味がある対象であると決めつけています。自分にとって益になるなら取り込み無意味なら排除しようと「我」が働く癖があります。第二の箭(=反応すべき)として分別してしまうスピードがあまりに速いので分別しているとは気づかないかもしれません。教育によって思考することを推奨し、優秀であるとされています。二元対立として分別することで悩んでしまいます。自らが問題を作っているなど思ってもいません。

 ただ見えている聞こえているだけなのですが、見ようとしている自分(=我)・聞こうとしている自分(=我)・・が働いて、”何とかしたい”と葛藤・混乱・苦悩に振り回されているのではないでしょうか。

 日本語を聞いて意味があるとしているのは日本語を憶え習っている人だけであって、日本語がチンプンカンプンな外国人には何を言っているのかサッパリ分かりません。日本語で悪口を言われても「知らぬが仏」です。最近のCMにカラスの鳴き声が「au」と聞こえたら大変なことなのですが・・・。

 「隻手の音声」は聞こうとしなくても即今聞こえているあらゆる音ではないでしょうか。冷蔵庫から聞こえる音・車が走っている音・ストーブの音・人の話し声・TVから聞こえる音・・・散歩中なら様々な音が勝手に聞こえてきます。聞こうとしなくても聞こえてくる何の問題とならない音。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>



 

 

 


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思量-2 [阿含経]

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は、比丘たちに説いて仰せられた。

比丘たちよ、わたしどもが何事かを思い、あるいは企て、あるいは案ずる。それが識によって存する条件である。その条件があるがゆえに、識が存するのであり、その識が存続し、増長するとき、未来にふたたび新しい有(存在)を生ずるにいたり、未来にふたたび新しい有を生ずるとき、また未来に老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。かくのごときがすべての苦の集積の生ずる所以である。

 比丘たちよ、もしわたしどもが、何事をも思わず、あるいは企てなかったとしても、なお何事かを案じるときは、それが識の存する条件となる。その条件があるがゆえに、識が存するのである、その識が存続し、増長するとき、未来にふたたび新しい有を生ずるにいたり、未来にふたたび新しい有を生ずるとき、また未来に老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。

 だが、比丘たちよ、もしわたしどもが、何事をも思わず、何事をも企てず、また何事をも案じることがなかったならばそれは識の存する条件とはならない。その条件がないので、識は存続することがないのであり、その識が存続し、増長することがないのであるから、未来にふたたび新しい有を生ずることがない。未来にふたたび新しい有を生ずることがないのであるから、また未来に生も、老死も、愁・悲・苦・憂・悩も生ずることがないのである。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である」

南伝 相応部経部12-38 阿含経典一巻 P161 増谷文雄著 筑摩書房

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 私達は、ある地点(=過去・スタート)から歩いたり走ることで、ある地点(=未来・ゴール)に到着(=到達)するというのが一般的な思考です。ある地点(=今ここ)から歩いたり走ったとしても、どの地点でも必ず「今ここ」でなかったことはありません。例えば「今」フランスにいると表現しますが、フランスが「今ここ」を提供しているのでしょうか。それとも、「今ここ」を誰かに伝えたり自身の位置を確認するためにフランスにいるというのでしょうか。

 どこへ行こうがどこにいようが、いつでも「今ここ」でしかありません。「今ここ」から離れることはできません。過去にも未来にも行くことはできません。「今ここ」が前後裁断されて続いています。我々は過去にも未来にも生きておらず「今ここ」にだけ生きています。消滅した過去を悔やんだり、定かでない未来に不安を抱くことはただ妄想しているだけかもしれません。

 

<比丘たちよ、わたしどもが何事かを思い、あるいは企て、あるいは案ずる。>

 「何事かを思い」:思いは勝手にわき起こってきます。記憶しないかぎり綺麗サッパリ消え去ります。感受された一の箭は誰でも受けますが、二の箭として関わると大変なことになります。思考は使いたいときに使えばいいのですが、どうでもいい思考(=過去を悔やんだり・未来の不安)を追いかけてばかりいると苦悩をもたらします。頭の中の”妄想”を追いかけて自縄自縛となってはいないでしょうか。

 私達は、無我無心で思い無我無心のまま思いが消え去ってしまいます。思いを追いかけることで自分(=私)が思っているように感じます。「思い」を対象(=客体)とし追いかける自分(=私・主体)がいるはずだという思い込(=観念)があります。

 

あるいは企て、あるいは案ずる」:思いを追いかけて”何とかしよう”と「思考のループ」に巻き込まれてしまいます。心身は勝手に変化変容していて思いの通りにはなりません。心身は”私=我”ではありません。心身は変化変容している働きなのに”私=我”がコントロールしているかのように思い込んでしまったかもしれません。

 身体が誰か(=我)の思い通りになることはありません。老い・病気・死は自然なもので、誰か(=我)の思い通りになることはないと誰もが了解しているはずなのですが・・・・。誰か(=我)は”何とかしよう”と企て、案じてしまっています。当たり前のことですが、変化変容していることを止めることはできません。

 

識(=心・意)によって存する条件」:二の箭(=思いを追いかける)によって”何とかしよう”という識(=心・意)がループし続けます。ただ頭に浮かんでいるだけのことで実在していない思いという妄想です。この妄想をつかって”我”の欲求を満たそう(=渇愛)とすると、混乱・葛藤・憂い・悩みという苦しみをどんどん集めるようになります。

 

「また何事をも案じることがなかったならば」:自然にわき起こる思いを追いかけずに思ったままにさせておく。手をつけて”何とかしよう=案じる”としなけば、識(=心・意)の存する条件にならない。苦が滅する(=”何とかしようという”声を出している”我”がおとなしくなっていく)ということのようです。只坐っているときに、出てくる思いは現実(=ただ坐っている)ではなく妄想ということになります。なんらかの思い(=妄想)を追いかけることなく、思いをスルーすれば消えていくということを実体験していくことになります。思いに良いも悪いもありません。自分が自分で思いを湧き起こさせているわけではありません。

 

 苦:幸せを求めている(=現状が満たされておらず何とかしたい)ということが「苦(=思い通りにならない)」を思いによって解決できないという証拠かもしれません。

 そもそも無いもの(=私・我)をある(=私・我)として迷っているかもしれません。感受される一切は制御できないので無我であり無常です。感受された(=無分別に感受)結果に対して分別を起こし、思いのとおりにならないので苦となります。自分がどこかにいて自分(=ただの観念であるとしている)が主体として見ていると誤解していますが、事実は勝手に見えています。

 聞きたくなくても勝手に聞こえる。見たくなくても勝手に見える。老いたくなくても勝手に老いる。病気になりたくなくても自然に病気になる。死にたくなくても勝手に死んでいく。一切が思いの通りにならない。五感の働きと一体になって変化変容しているのが実相。自分(=考えそのもの・自分を気にしているので自分が出現する)

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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思量-1 [阿含経]

「思量」

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は、比丘たちに説いて仰せられた。

「比丘たちよ、わたしどもが何事かを思い、あるいは企て、あるいは案ずる。それが識によって存する条件である。その条件があるがゆえに、識が存するのであり、その識が存続し、増長するとき、未来にふたたび新しい有(存在)を生ずるにいたり、未来にふたたび新しい有を生ずるとき、また未来に老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。かくのごときがすべての苦の集積の生ずる所以である。

 比丘たちよ、もしわたしどもが、何事をも思わず、あるいは企てなかったとしても、なお何事かを案じるときは、それが識の存する条件となる。その条件があるがゆえに、識が存するのである、その識が存続し、増長するとき、未来にふたたび新しい有を生ずるにいたり、未来にふたたび新しい有を生ずるとき、また未来に老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。

 だが、比丘たちよ、もしわたしどもが、何事をも思わず、何事をも企てず、また何事をも案じることがなかったならば、それは識の存する条件とはならない。その条件がないので、識は存続することがないのであり、その識が存続し、増長することがないのであるから、未来にふたたび新しい有を生ずることがない。未来にふたたび新しい有を生ずることがないのであるから、また未来に生も、老死も、愁・悲・苦・憂・悩も生ずることがないのである。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である」

南伝 相応部経部12-38 阿含経典一巻 P161 増谷文雄著 筑摩書房

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 私達にどのような思いが浮かんでくるのか分かる人はいません。各個人が置かれている状況は異なり、次にどのような事象が起こるかの予測はつきません。意図的に自分に都合のいい事象を呼び込むこともできません。事象は勝手に起こって勝手に消滅しています。

 「思考する」ということは思考する対象が自身の「外」にあるということです。「外」にある事象をどうにかするために自動的に「思考」します。「思考」することで”私(=我)”が出現します。問題が「外」にあることで、自意識が自身の問題として解決しようとする癖があります。ある問題を解決するときに、辛酸を味わった過去と不安な未来なイメージを伴うことで自身を苦しめることになります。結果的に自身を苦しみから救うのではなく自らを苦しめるために「思考」しているのではないでしょうか。

 自身の脳内で自動的に「思考のループ」が行われ、ますます「苦しみ」が増すことになります。何度も繰り返される「思考」によって「苦しみ」が大きくなり記憶の傷となっているかもしれません。

 「思考」で解決できるというのは数学・物理・化学・・というインプットが決まれば自ずとアウトプットが決まるような単純なことだけかもしれません。人間の抱いている悩みを「思考」で解決しようとすれば、「問題(=対象)を消し去る」・「問題(=対象)から離れる」・「問題を無視する」・「何かに委ねる」「相手をコントロール(地位・金・暴力・権力・・)」・「アイデンティティによって自己承認」・・という解決方法から選ぶことになります。

 学校や社会で教わってきたことが個人の幸せのためであるのなら、誰もが幸せになってもいいのですが・・・。社会に貢献して社会を豊かにするためとか、社会に害を与えたら罰するというのなら個人よりも社会を守るための教えだということです。個人よりは集団維持のためのであったと疑われてもしかたありません。

 人類の歴史で偉大な思想家や哲学者が「思考」してきました。偉人と言われる人は「幸せな世界」を実現できるように努めてきた筈です。一部の人しか理解できないようなことだったのでしょうか。個々人の理解力が不足していたのでしょうか。

 個人にとって一番危険なのは「思考のループ」だと教えてくれる人はいませんでした。後輩の顔に硫酸をかけてしまうような事件が起こりました。この事件は「思考のループ」によって引き起こされたのでしょうか。「思考」した結果として選ばれたのが相手を傷つけるということでした。

 

 お釈迦様の発見された「苦の集積」に識(=心・意)の存続と増長があります。いわゆる「思考のループ」です。極端に言えば、社会全体が「思考のループ」が危険だという認識がまったく無いということかもしれません。社会に問題が起こると個人的な責任としてしまいます。

 阿含経は口伝での対機説法であり、さらに翻訳されたものなので真意を汲み取ることは難しいのですがなんとか実践したものです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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正見 [阿含経]

「大徳よ、正見(しょうけん)、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」

「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。

 カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間に無というものはない。また、カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。

 カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。だが、聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執着し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したとみて、惑わず、疑わず、他に依ることがない。

 ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。」

カッチャーヤナ 南伝 相応部経部12-15 阿含経典一巻 P112 増谷文雄著 筑摩書房

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・「正見とはいったい、どういうことでございましょうか

 現実・事実を正しく見て、現実・事実のままでいることができれば混乱・葛藤・苦悩することがあるでしょうか。現実・事実を否定したり、逃げたりせずに現実・事実のままに生きているとしたら。現実・事実が間違と言っている主体は一体何者なのでしょうか?

 

・「この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。

 我によって二つ(現実と思い通りにしたい)に見てしまう。ありのままの現実・事実を認めたくない、思いを実現してほしいと願ってやみません。過去(=記憶)や未来(=想像)のことで不安に苛まれています。過ぎ去って存在していない過去を悔い、ありもしない未来に期待して頭の中では現実・事実を生きていません。現実・事実を思いの通りに変えたい。

 理想(=思いの通り)の世界が正しく、”今”というありのまま現実・事実が間違っているとして苦悩します。極端に言えば現実・事実が無いことであってほしく、思いの通りの世界があってほしいかもしれません。

 無門関第一則「趙州狗子」:狗子の仏性の有無を問う。迷いを解決する悟りではなく、問題そのものがない悟りとは。狗子に悟れる素質の有無を問うているのではなく、あるがままを生きていて迷うことがない狗子を見よ。迷うことが無い狗子には悟れる素質という二元対立的なことは議論にならない(=無)。”今”という現実・事実のままに生きている狗子には迷い(=問題)はなく迷いの対極にあるちっぽけな悟りは必要がない。逐一の問題解決はちっぽけな悟り。あるがままの現実・事実をそのままに生きていれば、現実・事実が問題にはならない。問題にならなければ、悟る必要も悟るということもない。現実・事実にケチをつけている本体(=我)が出てこなければどうなるでしょうか。

 

・「正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。

 世間に恒常不変のものはなく、無常であり何もしなくても消え去ってしまいます。形あるものも形のない思いも跡形もなく消え去ってしまいます。消え去る”思い”に振り回されています。子供・青春時代の”思い”はどこにもありません。その頃は大事な”思い”だったのに・・。今の重大な”思い”も数年後にはあっさりと忘れ去られているということでしょうか。

 ”今(=刹那)”が完璧に消えなかったら大変なことです。見えたものや聞こえたもの・・感受されたものが消えなかったらどうなるでしょうか。音が残って頭の中で鳴り響いて蓄積されたら次の音を音と認識することはできません。刹那の瞬間に一切は消え去り、まったく別の事象が起こっています。(前後裁断)全く同じ状態として有り続けるというものはありません。

 

・「この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。

 ”我”は貪欲であって、”我欲”を満たそうと一生懸命です。根底には”自分かわいい”があります。”自分を安心させたい・安楽にしていたい・特別でありたい・分かっていたい・救われたい・苦悩したくない”という思いが高じて、命がけの苦行さえ行ってしまいます。お釈迦様も”我”に振り回されて苦行した一人かもしれません。”我”に同調したり逆らったりすればするほど悲惨な目に合うということかもしれません。

 苦悩の原因が現実・事実と異なる思いの通りにしたいという”愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている”ということかもしれません。”我”の”こうありたい・こうしたい・こうあるべきだ”というただの思いです。

 思いの通りの世界が”我”にとって真実の世界であって、現実・事実をなんとかして思いの通りの世界へと変えたい。世間の人々の”我”の働きをずばり言っているのでしょうか。

 

・「聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執着し、こだわるところがなく

 わき起こる思いは自分が意図的に浮かび上がらせているものではなく、縁によって勝手にわき起こってくるものです。勝手に見え、勝手に聞こえ、勝手に思う。ただ思いを追いかけ回して言語でつなぐことで、何らかの意味が通じるようなものになります。

 ”我”に同調したり追いかけなければどうなるでしょうか。

 

・「ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したとみて、惑わず、疑わず、他に依ることがない。

 現実・事実に反して、”我”に同調して思いの通りにしたいと思うことで”混乱・葛藤・苦悩”となります。これ(=混乱・葛藤・苦悩)が苦だということが分かり、苦が生じたと正しく見ることができます。思いのとおりにしたいという”思い”を追いかけずにほったらかしにする。”何とかしたいという思い”を取り合わないでいると、現実・事実のままで一つになります。現実・事実のままであれば”混乱・葛藤・苦悩”が滅します。苦(=混乱・葛藤・苦悩)が滅したという体験によって、疑うことがなくなります。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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己身 [阿含経]

南伝 相応部経部38-15  阿含経典三巻P108 増谷文雄著 筑摩書房

「友よ、これらの五つの人間を構成する要素が、世尊によって己身と称されるのである。すなわち、色(肉体)という構成要素、受(感覚)という構成要素、想(表象)という構成要素、行(意志)という構成要素、そして、識(意識)という構成要素がそれである。友よ、これらの五つの構成要素が、世尊によって己身と称せられるのである。」

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 人間として生きていることを実感できているのは、”五蘊=色・受・想・行・識”という構成要素が働いているからに他ありません。五感が勝手に感受し、意も勝手に働いています。”私”というものがあって働かせているのではないようです。あらゆる存在があるのは、存在を認識できている私達がいるからです。私達の認識がなければ存在は存在とはなりません。

 私達がいなくても存在はあり、これからもあり続けるというのは単なる思い込んでいる(=観念)かもしれません。もし認識する自身(=主体)が死んだら、存在(=客体)をどうやって確かめることができるのでしょうか。存在があって後から我々が認識することで存在を確証しているのではなく、我々が先にあって存在を直に認識してこそ存在があります。自身の直知の認識のない存在は、頭の中にある記憶や教え込まれた憶測の存在ということになります。

 ”アメリカ大陸”は、アメリカ大陸が発見され”アメリカ大陸”と命名されたことで広く周知されています。実際にアメリカ大陸の地に足をついてアメリカ大陸を実感した人だけが”アメリカ大陸”の存在を自知できています。自知している人以外は、極端に言えば知識によって”アメリカ大陸”の存在を信じているだけかもしれません。”エベレスト”もあると信じているだけというのが事実ではないでしょうか。何度も写真や動画や知識に刷り込まれると”在る”ということを疑わなくなります。”私”はなんだか知らないのに、だれもが使っている言葉として刷り込まれているので使っているだけのことかもしれません。

 

 ”海”という言葉も聞いたこともなく、”海”の情景も見たことのない人には、”海”は頭の中でもイメージできないので存在していません。人間は、言語を使ってイメージできるという点が他の動物と大きく異なるところです。嘘を何回も言い続ければ真実として信じ込んでしまいます。ヒトラーが証明しました。動物に信じ込ませようとしてもイメージできないので条件反射(=パブロフの犬)によって獲得させる他ありません。

 頭の中で描いているイメージは存在しているだろうという絵空事かもしれません。私達が直下に自知したものだけが確かな存在であり、それ以外は多分存在しているかもしれないという曖昧なものを扱ったいるのではないでしょうか。イメージとして残っているのは、体験した人だけが味わえたその時の”存在”ということになります。この世は無常なので、イメージも都度書き換えなければなりません。数年ぶりに再会した人のイメージは自動的に書き替えているようです。”ユートピア”・”神の国”・”地獄”・・すべて自知できなければ絵空事のイメージだけということになります。

 今この文章をキーボートから入力している人が、どんな身なりでどんな家でどんなパソコンで・・・すべて絵空事であって存在を確認することはできません。つまり本人以外は入力している人の存在を認識できません。入力者の存在は憶測でしかないということです。どう頑張っても、ブログが更新されたので生きていると推測するのが精一杯です。代筆者かもしれませが確証は決して得られません。認識者の認識によって存在があります。

 

 次に名前があるから存在があるという思い込み(=観念)からなかなか抜け出せません。名前によって存在をイメージできるので、名前があれば存在があるかのように思います。事実は、存在が先にあって名前が後です。存在には予めレッテルが貼ってあるわけではなく、人間が好き勝手に命名しているだけのことです。名前を聞いて存在していると思うのは自身の頭のイメージの存在を固く信じている証拠かもしれません。”梅干し”をイメージしただけで唾液がでてくるかもしれません。”梅干し”を知らない外国人が日本人と同じ身体的な反応は起こりません。

 存在があって名がある。この順番が逆になっているので思い違いを見抜くことが難しくなっています。”富士山”という名前を知る前から”富士山”を見ていた人(=例えば静岡・山梨県民)は”あの山が富士山と呼ばれているのか”という感想があるかもしれません。写真や学校で教わり、名前が先で実物の”富士山”が後の人は”富士山と言われていたのがあの山か”という感想かもしれません。名前のイメージが頭に構築されていて、実物よりイメージが先行しています。

 実物を先に認識していた人と、名前が先でイメージが出来上がっている人とは大きく異なります。

 実物(=存在)があるがままにあって名は後からつけられたものです。教育は実物を見ないままに名を覚えてから実物のイメージを構築しています。いかに多くの名前を覚え(=知識)ることが優先されます。

 頭の中でイメージを作り上げ、イメージを操作する能力を訓練することなります。現物を見ないで議論できるようになります。現実からかけ離れた映画やアニメもなんの違和感なく受け入れられます。マントをつけて空を飛んだり、手首から糸を出したり・・・。子供の頃は真似をして楽しんでいましたが・・。

 きっと頭で考えれば現実になるという癖がついているかもしれません。現実は頭で掴むこともできないし得ることも出来ません。真言を何億回唱えることで何者に成ることなどありえません。

 存在を存在のままに見れるか、名(=意味や価値も付随している)で存在を見てしまうかの分かれ目です。アイデンティティなしで見ることできるか、アイデンティティで人を見るか。

 

 ”地獄”という言葉や概念を聞いたこともない赤子に”地獄”が存在するでしょうか。先輩方の勝手な押し付けによって余計なイメージが植え付けられて育ってはいないでしょうか。自らが自知したことでなく、自身(=先輩)が脅された絵空事で自身の子供を脅して言うことを聞かせるために利用していないでしょうか。

 人間はこの絵空事を創造(=イメージ)できるので、文化的な生活が送れるようになっていることも確かです。イメージ力は、役に立つことに使えばいいのですが下手をするとイメージに弄ばれて一生を過ごすことになるかもしれません。必要なときに使えばいいツールですが、現実を顧みず現実の生活を犠牲にしてまで”ユートピア”を目指すのは行き過ぎかもしれません。

 

 今ここで自知できている以外の存在は、多分存在しているだろという憶測であり思い込みかもしれません。鏡の前に”私”がいるというのも憶測であって思い込みです。何かが映し出されている鏡の像があるという事実しかありません。見ている”私”がいると思っていはいないでしょうか。その思いがただの思い込みであって観念です。観念でなく、見ている”私”を誰かが直視しているのなら、「見ている”私”」は見られているので”私”なのでしょうか。

 鏡(=対象)を見ている本体を見ることができれば、”見ている本体”は本体ではなく見られる対象なので”本体”ではありません。本体が本体を見ることはできません。顕微鏡で”ゾウリムシ”を観察している自分を見ることはできません。”ゾウリムシ”と”観察している自分”がダブって見えたら大変なことです。 

 デカルトは「疑いようのない真実」を探求し、「全てを疑っている私の自意識は確かに存在している」それが「我思う、ゆえに我あり」だと言われています。認識している何かを”私”として、その”私”が”思っている”ことによって”私”という存在があるということのようです。”私”を認識しているということは”私”は対象であり、真の”私”ではないことになります。”私”は”私”を知ることはできません。知るべき本体(=主体)がどうして知られる客体(=対象)となりえるのでしょうか。

 思ったときだけ我という感覚があるということは否めません。振り返って思わなければ我という自意識が続いているでしょうか?熟睡時に自意識が働いていて呼びかけに答えるということはありません。”私”という自意識は働きであり、ある出来事(=イベント)がトリガーとなって働くのであって、四六時中働いているわけではないようです。歩行や食事や会話は無意識でできています。右足の筋肉の特定の部位を使い、踵をおおよそ何センチあげて足首を返してどれくらいのスピードでどこで着地してどれくらいの力で地面を押す・・・そんなこと頭で一々命令していたら歩くことはままなりません。ほとんどのことが訓練されて無意識下でできています。

 自意識でやっていることの方がはるかに少ないのではないでしょうか。出来ないので自意識が”なんとかしよう”とするので、その意識が”私”として主役のように思えるかもしれません。

 

概念:物事を言葉で定義して共通の認識

観念:人それぞれの経験や文化や家庭や環境によって抱く個人的な思い

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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ただ観察する [阿含経]

南伝 相応部経部22-21 阿含経典二巻 P35 増谷文雄著 筑摩書房

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、長老アーナンダ(阿難)は、世尊のいますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに座した。

傍らに座した長老アーナンダは、世尊に申し上げた。

「大徳よ、滅だ、滅だと仰せられますが、いったい、いかなるものの滅するがゆえに、滅と仰せられるのでありましょうか」

「アーナンダよ、色(肉体)は無常である。因(原因)ありて生じたものであり、縁(条件)ありて生じたものである。だから、それは消えうせるものであり、朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものなのである。そのように滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

アーナンダよ、受(感覚)は無常である。因ありて生じたものであり、縁ありて生じたものである。だから、それは、消えうせるものである。朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものなのである。そのように滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

想(表象)は無常である。・・・

行(意志)は無常である。・・・

アーナンダよ、識(意識)は無常である。因ありて生ずるものであり、縁ありて生ずるものである。だから、それは、消えうせるものである。朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

アーナンダよ、このように、これらのものは滅するがゆえに、滅だというのである」

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 動物は変化している事象に対して本能的に反応するままにただ生きているのでしょうか。人間は反省したり1年後のことを考える能力があります。動物が1年後の自分を想像することができるでしょうか。動物は、ある特有な”音”を出して知らせることで危険を回避しているかもしれません。動物の発する音は、何かを創造するのではなく身を守るために発したり威嚇のために使われている。

 ホモサピエンスは、言語の発明によって様々な創造力・想像力を発揮していると言っていいかもしれません。地球上で「私は誰?」と自問自答できるのは人間だけです。言語によって発せられたものや記述されたものによって、現実のモノとなって現出しているのでしょうか。反面、見たこともないモノを概念として作り出していることも否めません。世界中のいたるところで、”私”・”神”・”魂”・”心”という概念が作り出され、個々人が自分なりの観念として使っています。全く一致しする”私”があるでしょうか。多分各自の名前やアイデンティティを”私”として抱いているのではないでしょうか。固有の”私”であって真なる”私”はどこにもないことになります。数字の”1”と同じで、どれを”1”にしてもいいということで、正解の”1”はどこにもないことになります。

 

 最初から”天気”・”海原”・”晴天”・”花”・・・・が存在していたわけではなく、ただ”全体”がそのままにあっただけです。だれもが”天気”という決まりごとに同意して使おうということになっています。それもその国の人だけが合意したものです。言葉は合意による便宜的なものです。

 全外があるだけなのですが、全体の一部を切り取って”天気”と命名したまでのことです。誰一人”天気”を掴んだり得たり変えたりすることはできません。存在は変化し続けているし一切が切り離されずに連続して繋がっているというのが存在の姿です。

 ”空気”という言葉が作られたときの、まさにその原初の”空気”はどこにも存在しません。”山”と定義されたまさにその原初の”山”はどれなのかサッパリわかりません。何が言いたいかと言うと、言葉は単なる表象であって各自が思い思いに思い込んでいるイメージであって各人が一致するものはありません。存在は常に変化していて全く同じ状態などありえないのに、言葉が同じであるということは”錯覚”と知りながら使っているということかもしれません。存在が無常であるのに、存在を表現している言語は変化しない(=無常ではない)ということに違和感がないということが不自然です。

 私達は存在を掴みとって解釈したい、知っておきたい理解していたいがために言語を使っているかもしれません。変化するまま繋がって一体のままにいられないのでしょうか。生も人為的に区切り”生まれた”・”死んだ”という区切って考えます。宇宙開闢以来から途切れることなく繋がって変化してここにあるということかもしれません。どこかで途切れていれば今ここにある存在は存在していません。今ここにある存在も変化しながら繋がっていくことでしょう。変化のどこかで区切る必要もないし、全体をどこかで区切る必要もないかもしれません。私達は細分化していくことで分かろうとしていますが、実は細分化することで自らを振り回して混乱しているかもしれません。

 ”川”も”山”も各々の勝手なイメージとしてあります。今ここでヒマラヤを見ていなくてもヒマラヤと言ったりヒマラヤについて語ることができます。この今ここにありもしないことが妄想だということを認められません。

 存在は単に我々の記憶の中に言語とイメージとしてだけあるということを疑うことがありません。存在は今ここで光や音の情報が処理されている像や音や感覚としてあります。それも確実に生滅している無常なモノや現象です。滅しているものを滅しているとそのままに観察し、無常なるモノを無常であると観察できれば今ここの現実から離れることはありません。頭の中のおしゃべりは、単におしゃべりであって勝手に話していて”私”ではないとふと気づくことを繰り返す。勝手なことを言っているなとただそのままに観察する。勝手なおしゃべりに干渉したり、なんとかしようとしない。

 「諸行無常」とは当たり前(=無常)であることを当たり前(=そのまま)に全面的に受け入れることなのでしょうか。

 

概念:物事を言葉で定義して共通の認識

観念:人それぞれの経験や文化や家庭や環境によって抱く個人的な思い

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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 [阿含経]

南伝 相応部経部22-21 阿含経典二巻 P35 増谷文雄著 筑摩書房

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、長老アーナンダ(阿難)は、世尊のいますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに座した。

傍らに座した長老アーナンダは、世尊に申し上げた。

「大徳よ、滅だ、滅だと仰せられますが、いったい、いかなるものの滅するがゆえに、滅と仰せられるのでありましょうか」

「アーナンダよ、色(肉体)は無常である。因(原因)ありて生じたものであり、縁(条件)ありて生じたものである。だから、それは消えうせるものであり、朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものなのである。そのように滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

アーナンダよ、受(感覚)は無常である因ありて生じたものであり、縁ありて生じたものである。だから、それは、消えうせるものである。朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものなのである。そのように滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

想(表象)は無常である。・・・

行(意志)は無常である。・・・

アーナンダよ、識(意識)は無常である。因ありて生ずるものであり、縁ありて生ずるものである。だから、それは、消えうせるものである。朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

アーナンダよ、このように、これらのものは滅するがゆえに、滅だというのである」

 

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 私たちを本当に幸せにしてくれる何かが存在していて、それを得て何の不安もなく生きている人がいるでしょうか。映画に出てくような願いを叶えてくれる魔法の◯◯が存在しているでしょうか。そんな◯◯を得て老・病・死から解放された人などいません。幸せは外から与えられるものではないということでしょうか。

 自身の内に苦を認めないで「私」を満足させてくれるものを探し回ってはいないでしょうか。楽は外にあって外から手に入れようとしてはいないでしょうか。苦楽は外にあるのではなく自身の中の苦を解決することで平安であったと気づくのでしょうか。苦をなんとかしようと対処療法だけに頼れば、外に楽を求め続けなければなりません。苦の根本治癒は自身にかかっているようです。

 

 何回も記述してきましたが、経典の中で「得る・掴む・成る」とは書かれていません。「滅・断つ・離れる・無我・無常・あるがまま・観察」という表現が多く見られます。私たちは、本を読んだり人の話を聞くことで何かを掴んだり得ようとします。言語で何かを掴むことで変身できるでしょうか。本を読み終えて変身したり、朝起きたらカフカの小説のように変身するでしょうか。ライトペンを掲げてウルトラマンに変身したり、手を回して仮面ライダーに変身したりスパイダーマンに変身したりスーパーマンに変身して空を飛んだり・・・。映画や小説の中の絵空事は現実には起こらないので映画として成立します。お釈迦様も同じ人間であり、寝て起きて食べて排出していた普通の人間だったはずです。

 もし、何かを得てある境地に達したのなら同じ境地であるはずです。異なる生活環境・教育・言語・習慣で生活し、異なる見聞覚知であるにもかかわらず何かを得ることで全く同じ境地に達するでしょうか。

 異なる思考を経て同じ結果に行き着くのなら多くの哲学者は無駄骨を折ることになります。思考で同じ境地が得られるのならとっくに何人かが得ていてしかるべきなのですが・・・。思考によって正解には達していないようです。科学技術は似たような実験で同じ結果として出てくるので誰にでも分かるのですが・・。

 思考を経てある境地には達することはできないということではないでしょうか。思考を経るのではなく思考以前のただ見えているただ聞こえているままが正解であり、誰もが既に達成しています。ただ気づきません。

向かわんと擬すれば すなわち そむく

 

 私たちが認識している”存在”は、”存在”自体が”存在”そのものであるとしているからです。”存在”は私たちが認識しなくても存在しているんでしょうか。私が死んだら”存在”認識できないので、”存在”は存在しません。事実熟睡中に存在を認識できません。”存在”は認識されることによって存在となっているということ。”存在”自体に自性はないということです。

 私たち(=主体)は、”存在”(=客体)が認識する以前にあるという観念(=思い込み)で見ているということです。しかし、認識できないものがどうして”存在”していると言えるのでしょうか。天文学以前では、冥王星は存在していたでしょうか。誰一人見たこともなく名前がつけられていない星は存在していたでしょうか。彼等には冥王星は存在していませんでした。現代の我々は知識の中だけで存在しているのですが、実際の存在を認識できていません。ただ存在(=冥王星)としてあるはずだという観念(=思い込み)で認めているだけにすぎません。

 私たちはマジックを見て驚くことがありますが、実は騙されているだけかもしれません。我々が思い込みに翻弄されているからです、自身の思い込みに騙されているかもしれません。人体を切断するマジックでは箱の中に一人しかいないと思い込まされてしまっているからです。マジックの種明かしによって、思い込みであったと眼が覚めます。自身の思い込みを笑うしかありません。

 私には眼があるというのも観念であって、自身の眼を直視できる人などいません。他人の眼を見たり鏡で間接的に見ることで眼があると思い込んでいるだけのことです。どうして見えているかなど今でも分かりません。分かってもコントロールすることなどできないので不思議のままです。

 

 ある現象(=光の反射、空気中を伝わる振動、味、臭い・・)を感受して反応することで”存在”として認識されます。気づいている「私」というのも観念(=思い込み)かもしれません。対象とされる一切は「私=本来の自己」ではありません。ディスプレイは認識される対象なので「私=本来の自己」ではありません。”手”は認識される対象なので「私=本来の自己」ではありません。概念化されて名前がついている一切は対象となるので、「私=本来の自己」ではないということです。「私」としているものはすべて観念(=思い込み)だということになります。

 

「私」が見ているのではなく、光の反射によって眼の網膜に像ができ光の周波数に応じた色調ができあがっています。次に3次元の像として認識されたものを見ている、見えているものに気づいています。

 よく他人といいますが、”他者”は自己の外に存在しているのでしょうか。例えば自宅で会社の人のことを話題にしている時には、外に存在している他人を見ているのではなく、自身の記憶にあるイメージとしての”他者”を話題にしています。実在ではなく自身の頭の中でつくられたイメージ(=幻影)です。他者は自己が認識しているときだけ存在しています。自己こそがあらゆる存在を存在たらしめています。殆どが自己の内にあるイメージを何とかしようとしています。

 他者は自己の中で構築された”他者”として存在しているので、結局は自己を見ているということになります。他者を恨んでいるように思っていますが、自己の中にある恨むべき他者として作り上げた”自己の思い”を攻撃対象としています。自己が自己の思いをなんとかしたいと悩んでいます。つまり、幻影(=他者のイメージ)を幻影(=自己の思い)でなんとかしようとするゲームに一生懸命に夢中になっているだけかもしれません。

 

<問題(=混乱・葛藤=苦)を見抜くには>

※主観・客観・解決したい、全ては同じ思考であって次から次へと展開されているだけで同根の自我の働き。

・貪りが起こる(=主観)貪りはいけない(=客観)貪りの葛藤に気づく(=気づき)葛藤を解決したい

・怒りが起こる(=主観)怒りはいけない(=客観)怒りの葛藤に気づく(=気づき)怒りを解決したい

・夢を抱く、希望を抱く、何かを手に入れたい、何者かになりたい

※全てはある条件によって起こった、ただの”思い”だということです。

1.主観側

 どうしても「私」という感覚があり、現象(=光の波長、空気の振動・・)を意味のあるものとして解釈してしまいます。解釈したものを自身の固定観念で判断して分別(=白黒・是非・・)します。自身の感覚は天気のような現象であり、自身でコントロールできるものではありません。しかし、現象を認識したのは「私」であるので、「こうあるべき」という自身の思いで処理しようとします。自身の”固定観念”が正しく”現象”は間違っているとしてしまいます。

 マジックの種明かしによって「私」は存在していないと理解しなければなりませんが、種明かしを理解できず思い込みが解けない限りつねに騙されつづけることになります。

 期待通りの天候であれば何も気になりませんが、期待を裏切っている天候では気になります。コントロールできない自然現象なのですが、受け入れがたい気持ちのほうが強いままのようです。

 よく観察すれば、自身もコントロールできない自然現象だということです。感受も無常ですから必ず消滅します。嫌な思いが出たらそのまま味わうことで消え去るという体験をするしかありません。嫌な思いを否定すると混乱・葛藤がかえって燃え上がります。煩悩を力ずくで抑えようとすると煩悩は強められ、さらに大きく強固なものとなってしまいます。手に入りにくいと知ると貴重なものだと思い込みかえって欲しくなってしまう経験があるのではないでしょうか。

※思いによって解決できるのなら悩む人はいません。思いも無常なので放っておくと自然にきえてしまいます。未だに小さい頃の欲望に振り回されている人はいません。自然に消えています。

 

2.客観側

 嫌な感情が起こった時に、その感情は平静を乱しているので反対概念によって主観を否定しようとします。反対概念が強くなれば主観側も強くなり、火に油を注ぐことになります。反対概念に意味がないと諭していきます。

デモ隊に対立するデモ隊がちょっかいを出さずに解散する。

※対立が無くなると警察の出動も必要がない(=消え去る)

 

3.マスコミ(=目撃者・伝達者・解説者・評論家・記憶)

主観と客観との混乱・葛藤があるということを目撃しています。

混乱・葛藤に気づいている自分がいます。実際のニュースであればTVを見ないようにする。マスコミの伝えることは、知らなくても困らないことだと理解する。

 

4.警察(=平静を保ちたい)

混乱・葛藤を”なんとかしたい”というのも自我です。ただ”なんとかしたい”という事が起こっただけのことです。この思いも無常ですから放っておけば消えてしまいます。何もしないで消えるという体験を重ねます。

 

※思いは自然に湧き起こっているだけであって、「私=本来の自己」ではありません。

前後裁断、続きモノとせずに何もしない(=手を付けない・関知しない)只管打坐が効果的です。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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苦の生滅 [阿含経]

プンナ

 南伝 相応部経部35-88 阿含経典三巻 P55 増谷文雄著 筑摩書房

「プンナよ、①眼は色(物体)を見る。その色は、心地よく、愛すべく、心を浮きたたせ、その形もうるわしくして、魅力的である。②もし比丘が、それを喜び、それに心を奪われて、執着していると、やがて彼には、喜悦する心がおこる。そして、喜悦する心がおこると、プンナよ、苦が生起するのだ、とわたしはいう。」

プンナよ、また、耳は声を聞く。・・・鼻は香を嗅ぐ。・・・舌は味をあじわう。・・身は接触を感ずる。

もし、③比丘が、それを喜ばず、それに心を奪われず、執着することがなければ、いつしか彼には、喜悦する心が滅する。そして、喜悦する心が滅すると、プンナよ、苦は滅する、とわたしはいう。

 

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 「不思議」という言葉は「不可思議」という言葉の略だそうです。

1.説明のつかないこと。2.仏語:人間の認識・理解を越えていること。

 以降、思議できない。議(=正否)の対象として思わない、思えない。考えることではない。

 花は何故咲くか、魚は何故泳ぐか、人間は何故ここに存在するか、なぜ宇宙があるのか・・。解明したとしても、知識のコレクションの一つが増えるだけかもしれません。知識があったとしても、宇宙空間で花を咲かせることはできません。気候システム知ったとしても気候を制御できるわけではありません。

不思議のまま、考える必要のない”ただそのようになっている”だけのままではいけないのでしょうか・・。

 

①「眼は色(物体)を見る」

 眼の網膜に光の波長が刺激となり、像は自分自身のスクリーンに映し出されたものとして認識されます。像は外にあるのではなく像自体が自分自身そのもの。音(=空気中を伝わる振動)も外にあるのではなく、耳から入り自身が鳴っています。見るのではなく見えている、聞くのではなく聞こえている・・・外にあるのではなく自身そのものとして一体となっているので認識できているのではないでしょうか。

 通常は自他の区別があるため、色(物体)を見れば得ようとします。眼自体に我は無いので”無我”です。眼は危険なものでも忌み嫌うものも恐ろしいものも魅惑的なものも華美なものも・・平等つまり絶対(=対・対立を断ったもの)なるそのものとして受け入れています。なんでもかんでも拒否することはありません。しかし、意の働きによって瞬時に二元(=善悪・好き嫌い・・)に分け分別(=判断)するので平等ではなくなってしまいます。思慮分別する以前には無我であり平等(=迷いのない・苦のない)でした。分別すれば執着か忌避が起こり混乱・葛藤が起こり”なんとかしよう”と平静ではいられません。

 

②「もし比丘が、それを喜び、それに心を奪われて、執着していると、やがて彼には、喜悦する心がおこる。」

 ただ五感で感受するだけ(=第一の箭)なら何も問題はありませんが、分別が起こり執着すると、やがて得たい掴んでいたいという所有へと向かいます。

 心は今ここを離れ対象に向かい、得ようとする対象と得ようとする自身という分裂(=主客)が起こります。葛藤・混乱(=苦)となります。どんな対象であっても無常なので必ず消え去ります。所有も執着もことごとく無へと帰するので満足とはならず苦という結果となります。得たとしても、無常であり劣化して遂には消え去ります。結局は満たされず苦となります。

 無常なものであり執着する価値のないものです。”不思議(=考えることではない事実)”とし見ている他ありません。縁によって手にしていれば大事に使えばいいし、手にすることができなくてもそのまま放っておけば忘れてしまいます。三歳児の頃に欲しがっていた玩具が今でも欲しいでしょうか。1年前に欲しかったモノは古くなり執着対象から外れているかも知れません。同じ機能で価格の安い同等品が出たり、デザインが古臭くなっているかもしれません。

 

③「比丘が、それを喜ばず、それに心を奪われず、執着することがなければ、いつしか彼には、喜悦する心が滅する。」  いつしか:自然に、知らぬ間に

 五感で感受しているだけでとどまることができていれば、欲しいという心も無常でありいつしか滅していきます。放っておけば一切が消滅するというのがこの宇宙全体の決まりごとです。良いことも悪いことも喜びも悲しみも記憶から呼び戻さなければ綺麗サッパリ消えてしまいます。無理矢理ある時点で区切れば差があるように見えますが、最終的(=死)には全くの平等(=対立が絶たれている=同じ結果)ということです。「起きて半畳寝て一畳、天下とっても二合半」1億円のベットで不眠症よりはありふれたベットで熟睡できたほうがいいかもしれません。大金持ちが"特別な空気"を吸えるわけでもないし”特別な音”として聞こえるわけでもないし、”特別な臓器”があって老化しないわけでもないようです。意味のない比較は疲れるだけかもしれません。

「他人の生活と比較することなく、君自身の生活を楽しめ。」コンドルセ

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 私たちの頭の中で起こっていることは社会でも起こっています。検証してみます。

 最近の事例として、米国の大統領選で起こっている問題点を見ていきます。分断(=分裂)が起こるということは混乱(=苦)が起こるということを観察します。

※重要ポイント:対立する念は同時ではないということです。つまり、自身の念であり同じ自分が異なる念となっていることに気づきます。自身が自身で混乱しているということです。

 

・米国で共和党のトランプ大統領が”票を数えるな”と不満をぶつける。

私たちの頭(=主観)の中で現状への不満が起こります。

 同調する共和党員が不正投票だと騒ぎ立てます。

・対する民主党は票を全て数えろと対立します。

自身の頭の中で反対意見(=客観=自己)が起こります。

 不正投票などしていない全ての票を集計するべきだと主張します。

・マスコミ(=対立に気づいている自己・記録・記憶)

自身の頭の中で対立(=混乱・葛藤)があるということを認識しています。

 対立している事実を世の中に伝えます。知らせるべきであり知るべきであるという働きがあります。

・警察が出動し暴動化しないように牽制します。

自身の頭の中で混乱をなんとか鎮めたいという思い。

 混乱・葛藤をなんとかして沈静化したい。

 

 部屋の椅子に坐って、ディスプレイの文字を読み進めていられることと思います。今ここではただディスプレイに点滅している反転した形(=文字)が見えているということだけが真実です。脳は何かを知ろうと読み進めています。自身には何の問題もありません。

 報道機関のお節介によって、アメリカの大統領選挙を知らされることになりました。知ったところで空気が変わることもなく、食べ物の味が変わることもなく、天候が変化するわけでもなく、体調が変わるわけでもありません。極端に言えば”知ること”で今の状況に一切変化はありません。しかし、執着すると囚われてしまい余計な思考が働いてしまいます。

 放っておけなくなりトランプ大統領にケチをつけたり、バイデンを応援するような思いが浮かんでくるかも知れません。”知らなければ”考える必要がなかったのですが混乱させられるということです。このバカバカしいお付き合いが頭の中で繰り広げられているということを見抜くことが大事ではないでしょうか。

 

 問題(=混乱・葛藤=苦)が大きくなる要因

1.主観側

 自分たちだけで騒ぎ立てていればいつしか疲れ果てますが、対立者が乗り込んで反対意見を言われることで反発エネルギーが大きくなります。”火に油を注ぐ”ことになってしまいます。

 もとより反対意見を聞く耳がない主観側は、自己正当化・自己保身行動によって次第に反発が大きくなります。負けたくはないので、自分が正しいと主張し続けます。信じていることを否定されると自身を否定されていると同じに感じます。プライドが許さず、攻撃的になります。反対する人は全て敵とみなし攻撃することを正当化するようになります。興奮状態になり聞く耳を持ちません。

 宗教戦争が一番残虐だ言われるのは自身の信じていることを否定されることが一番の屈辱だと感じるかもしれません。自分は正しいとして生きてきたことを真っ向否定されるのですからいたしかたありません。

2.客観側

 主観側の根拠のない問題提起に対して冷静に意見を言っていましたが、主観側の思わぬ反発に客観側も次第にエスカレートしていきます。主観側が攻撃的になれば客観側も過激になっていきます。

3.マスコミ(=目撃者・伝達者・解説者・評論家・記憶)

 第三者のように冷静に状況を伝えようとします。対立(=混乱・葛藤=苦)が起こっていれば、居ても立ってもいられません。野次馬根性によって知りたい伝えたいという本能的なものが働くようです。報道機関が解決するわけでもなくただ知らせたい。厄介なお騒がせ者かもしれません。責任をとるようなことはありません。私たちの記憶やイメージのようなものかもしれません。

4.警察(=平静を保ちたい)

 対立を鎮めて平静を保ちたい。強行すると怪我人が出たり罪人として連行することになる。しこりが生まれ、しこりが残ることになります。頭の中で”なんとかしたい”という思いです。

5.マスコミ(=目撃者・伝達者・解説者・評論家・記憶)

 すでに消滅してしまった事象(=記録されているだけ)を何度も何度も放送して思い起こさせています。今ここで起こっている事象とは全く関係ありません。何かのきっかけで記録から映像(=イメージ)を引っ張り出して対立(=混乱・葛藤)を思い出します。

 

1〜5まで全てが自己が頭の中で起こっているかもしれません。自身の周りで起こってはいないでしょうか。

例:同僚・ネット・ライン等々でいわれのない誹謗中傷を受けた。上司から無理難題をつきつけられた。ご近所トラブル、相続争い、職場でのトラブル、取引先とのトラブル。人間関係の悩み。自己を悩ますのは同じ人間同士であり、自分自身かもしれません。

※次回は問題自体を消すにはについて。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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自洲−2 [阿含経]

 概念とは、物事を言葉で定義して共通の認識となっていることのようです。観念は人それぞれの経験や文化や家庭や環境によって抱く個人的な思いかもしれません。

 例えば、海の概念は「地球上の陸地以外の部分で、海水に満たされたところ。」と定義されています。海の観念はというと、人によって異なり「魚が泳ぎ回っている場所」、「青くて深くて神秘的なところ」、「生活の糧を得る場所」、「一度は見て泳いでみたい」、「溺れそうになったので怖い」等々・・・様々なイメージと結びついた思い込みのようです。

 私たちは何の疑いもなく「私」という言葉を頻繁に使っています。「私」は共通の認識であり、いつまでも自己を指す言葉として使われていくはずです。個々人の観念として使われる「私」であって「本来の自己」ではありません。「私」という言葉は同じですが、思い思いの千差万別の「私」として使われるます。

 今まで正しい1キロとして、世界各国に40個の1キロが存在していました。真実の1キロも人間が定義したものです。

 「私」という言葉が使われていますが、数字の”1”と同じく恒常不変なる「私」はどこにも存在していません。今ここでのその時限りの一過性の「私」であって恒常不変の「私」などどこにも存在していないということです。正しい「私」や変わらぬ「私」がどこかにあるでしょうか。ちょっとしたことで気分が変わる「私」が不変の「私」と言えるでしょうか。


 「私」は心身であるとか、記憶であるとかアイデンティティであるとか・・、すべて観念(=各個人の思い込み)として捉えています。3歳児の時の身体はどこにもありません。3歳児の心はどこにもありません。3歳児の記憶もあやしいものです。極端に言えば、1分前の「私」の記憶・思い・心境・体調・感覚・体温・血圧・血流・体内細胞等々と1分後の今の「私」では全く異なっているはずです。1分前の「私」と今の「私」がまったく同じということはありえません。 

 

 「私」というのは、後づけで自己証明のために使っている単なる表象。ただ見えている、ただ聞こえている、ただ感じている、ただ味わっている・・・というのが本当の事実そのものです。五感から入ってくる何かが感覚としてある。感覚を言語化して意味や価値を見出している。意味や価値を識別して判断を下している、その判断に賛否に分けて”なんとかしたい”という「私」が後づけされる。

 認識する自分、判断する自分、判断にとやかくケチをつける自分という三人が登場します。その三人も”なんとかしたい”という思いによって「私」としての主体性を持つようになります。考えればなんとかなるという脳の癖によって出現している幻覚のようなものなのですが・・・。相手にしなければ沈静化してどこかに消え去ってしまうようなものです。3時間前のなんとかしようと思っていたことなどどこにもないはずです。何を思っていようが何を感じようが何を感情的になろうが、他人に危害を加えるようなことがなければ過去のただの思いでしかありません。

 最も厄介な自我意識が”なんとかしよう”と頑張る自分です。考えの上で何とかなると思い込んでいる「私」という観念そのものです。自身でしか味わえない特別な「私」を思い描いて葛藤している自分が最悪なのですが・・。自我意識にとって”あなただけ”とか”特別です”とか”褒められる・称賛される”ということが自我意識をさらに強めることになります。特別になりたいということに全精力を使い自我意識に振り回されて苦しんでいるかも知れません。

 自分自身以外の何者かにはなれません。同じ空気を吸って同じようなものを食べて同じように感受しているのに・・、何かを読んだり唱えたりすれば聖者になるなんてありえるでしょうか。常識的に考えても何者かには変化することはありません。新しいアイデンティティが加わったり別のアイデンティティに更新されることが何者かになったような気にさせてくれるかもしれません。

 誰もが同じように空腹になり食べては排出して、痛い時は痛みを感じ年を重ねれば老い病気をして死んでいきます。人間という身体を持った生き物として当たり前の生涯を終えるだけです。ただ、煩悩を引き算していくことで煩悩に振り回されないようにして平穏無事に生きていけるかもしれません。

 

 「私」は「私」と思っている時に出現している「私」であって、「私」と思っていなければ何でも無いとらえようのない変化している何か。何だかわからないというのが本当のところであって、分かる必要もなく分かることが出来るような対象ではありません。対象であれば認識したりしることができますが、主体は対象になることはできません。主体が主体を知ることなどできません。

 自分だと思っていたもの(=感覚・感情・思考・経験・知識・身体・心・・)は認識できる対象(=客体)なので主体(=本来の自己)ではありません。認識できる全ては自分(=「私」)でなく自分(=「私」)とみなしていたただの観念だと見抜く。自分(=「私」)だと思っていたものが他の一切存在と同じ対象であったと気づいた時には、主体(=本来の自己)はどこにもいないということになります。ただ現れがあり縁によって働きがある、見ようとせずとも見えている聞こうとしなくても聞こえています。この五感の働きはいつ生まれたかも分からずに働き続けています。

 

<辞書での定義>

概念:大まかな意味内容、ある物事がどうゆものかを言葉で定義したもの。共通認識(concept)。

観念:人がそれぞれ抱く考え。人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。

各人の認識にある程度の違いがある。

私:自分を指し示す語

自分:おのれ、自身、自己、一人称

自意識:自分自身がどうであるか、どう思われているかについての意識。

自我意識:自己について持っている意識。心を自分で全体的に統合・制御しているという感覚を伴う。能動性の意識、単一性の意識、時間が経過しても同一であるという意識、外界と他人に対して自分が存在しているという意識の4側面からなる。

人:特定の個人、霊長目ヒト科に属する哺乳類。ホモ・サピエンス

他人:自分以外の人

相手:一方の人

主体:認識と行動の担い手として意志をもって行動し、その行動の影響を他におよぼすもの。

対象・客体:主体の意志・認識・行為などの対象となるもの。

主体の意志・認識・行為などとは関係なく外界に存在するもの。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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自洲−1 [阿含経]

自洲

南伝 相応部経典22-43 [阿含経典二巻 P66 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は比丘たちに告げて仰せられた。

 

「比丘たちよ、みずからを洲 (す)とし、みずからを依所 (えしょ)として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。

 比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依所として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住し、事の根本にまで立ちもどって観察するがよい、<嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、いったい何によって生じ、何によって起こるのであるか>と。

 比丘たちよ、では、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって起こるのであろうか。

 比丘たちよ、ここに、いまだ教えを聞かざる凡夫があるとするがよい。彼らは、いまだ、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、聖者の法を行ぜず、だから、彼らは、色(肉体)は我 (われ)である、我は色を有す、わがうちに色がある、あるいは、色のなかに我があると考える。だがしかし、色は移ろい変わる。色が移ろい変わるから、彼らに嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 だから、彼らは、受(感覚)は我である。われは受を有す、わがうちに受がある、あるいは、受のなかに我があると考える。だがしかし、受は移ろい変わる。受が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

彼らは、想(表象)は我である、・・・

彼らは、行(意志)は我である、・・・

彼らは、識(意識)は我である、我は識を有す、わがうちに識がある、あるいは、識になかに我があると考える。だがしかし、識は移ろい変わる。識が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 しかるに、比丘たちよ、いま、色において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの色もいまの色も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また、受において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの受もいまの受も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するだろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また想において、・・・

 比丘たちよ、また行において・・・

また、比丘たちよ、識において、その無常なること、変移するものなることを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの識もいまの識も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに、心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなれば、安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる」

 

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辞書で”自然”の概念は、

山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。「自然に親しむ」「郊外には自然がまだ残っている」

人間を含めての天地間の万物。宇宙。「自然の営み」

人間の手の加わらない、そのもの本来のありのままの状態。天然。「野菜には自然の甘みがある」

そのものに本来備わっている性質。天性。本性。「人間の自然の欲求」

<省略>・・・

 1では人間は除外され、2では人間を含めています。1では人間主観で自然を客体で捉えた概念であり、2では人間主観を排除した概念ということなのでしょうか。ただの概念であり大した問題でもないのですが、真実の”自然”は留まること無く変化している現象そのものだということでしょうか。1と2のどちらも”真”であれば、どちらかを断定すれば他が”偽”となるということ。言葉には必ず対立概念が含まれているかもしれません。”善”には”悪”が隠れています。”好きになる”ということは、”嫌いであったか、何でもなかった”。いつか”嫌いになるか、何でもなくなる”ということが暗示されているかのようです。言葉自体が迷いかも知れません。(参考:常見外道、断見外道)

 

 会話や文章で”自然”という言葉が使われることがありますが、”自然”と発信している人のイメージと、受け取る人のイメージがピッタリと一致するということは不可能に近いかもしれません。ある人の文化圏・気候で培った自然と全く異なる文化圏・気候で育った人では天地ほどの違いがあるかもしれません。雪を見たことも触れたこともない人に”雪”という言葉はただの音や形であって何も伝わりません。

 たった二文字で壮大で変化している”自然”を表現できるわけがありません。それこそ言葉は音と形と概念だけの作為的な人工物であって、ただの表象であって道具だということ。この点をわきまえて使わないと言葉を振り回したり、振り回されたりするかもしれません。

 

 人間は言葉を慎重に選んで使っているようですが、言葉自体がいい加減であれば受け取る方もいい加減の理解で終わってしまいます。間違えようのないことは、今見えている聞こえている「あるがまま」の事実だということしかありません。頭の中で言葉という道具をこねくり回して、問題にはならないはずの事実を言葉でいじくってはいないでしょうか。いじくっている実物は眼の前にあるのかそれとも頭の中の抽象概念としてあるものなのか・・・。

 事実にケチをつけてなんとか事実を自身の思いの通りしたいのが実体のない「私=社会的な自己・自我」というただの思いであり、思い描いていることも実体のないこうありたいという思いです。つまり、思い(=こうありたい)を思い(=こうすれば・ああすれば)という実体のない道具を振り回しているだけかもしれません。今考えている事自体が脳内で電気信号・化学物質の受け渡しをやってエネルギーを消費しているだけ徒労かもしれません。

 

 私たちは家庭や教育によって知識を蓄えることが正しいとして成長してきました。なるほど社会生活では少しは役に立ちますが、平安・静寂ということではかえって邪魔になると感じています。教育でも社会生活でも、思考によって問題を解決できるというふうに育ってきましたが思考で問題が解消されて問題そのものから自由になっているでしょうか。

 思考するということは、思考の対象(=問題)があり、問題を解決する主体があるという前提です。対象と主体が存在する限り問題をなんとかしていくことが永遠とつづくことになります。問題を作り続ける主体があるという思いがある限り問題が無くなることはありません。

 仏教では、問題を何とかしようとする「私=社会的な自己・自我」がそもそも無いということを見抜きます。事実(=あるがまま)と分離した何者かがいなければ問題にしなくてもいいということです。病気になれば淡々と対処すればいいだけ、死ぬ時は死ねばいいだけ。死んでもいないのに死後のことを考えてもどうにもならない、事実でないことを考えるということから解放されるだけでも救われるかも知れません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 

 

 

 


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自洲 [阿含経]

自洲

南伝 相応部経典22-43 [阿含経典二巻 P66 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は比丘たちに告げて仰せられた。

 

「比丘たちよ、みずからを洲 (す)とし、みずからを依所 (えしょ)として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。

 比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依所として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住し、事の根本にまで立ちもどって観察するがよい、<嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、いったい何によって生じ、何によって起こるのであるか>と。

 比丘たちよ、では、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって起こるのであろうか。

 比丘たちよ、ここに、いまだ教えを聞かざる凡夫があるとするがよい。彼らは、いまだ、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、聖者の法を行ぜず、だから、彼らは、色(肉体)は我 (われ)である、我は色を有す、わがうちに色がある、あるいは、色のなかに我があると考える。だがしかし、色は移ろい変わる。色が移ろい変わるから、彼らに嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 だから、彼らは、受(感覚)は我である。われは受を有す、わがうちに受がある、あるいは、受のなかに我があると考える。だがしかし、受は移ろい変わる。受が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

彼らは、想(表象)は我である、・・・

彼らは、行(意志)は我である、・・・

彼らは、識(意識)は我である、我は識を有す、わがうちに識がある、あるいは、識になかに我があると考える。だがしかし、識は移ろい変わる。識が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。

 しかるに、比丘たちよ、いま、色において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの色もいまの色も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また、受において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの受もいまの受も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するだろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。

 比丘たちよ、また想において、・・・

 比丘たちよ、また行において・・・

また、比丘たちよ、識において、その無常なること、変移するものなることを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの識もいまの識も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。それらが消滅するがゆえに、心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなれば、安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる」

 

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 人生において不可解極まりのないのが「私」であります。だれもが「私」という言葉に翻弄されています。「私」によって問題が起こっています、この「私」の解決(=決着をつける)が全ての解決の足がかりになることは間違いありません。「私」が身体であったり心であったりというのがただの観念(=決めつけ)であるということを見抜く必要があるようです。あらゆる事象が無常であり消滅しています。感覚も感情も思考も意識も智慧も起こっては消えている無常だということ。

 「私」という感覚を無理に継続させていることに気づきます。無常であるのに「私」だけが恒常不変であるとしているのはなぜなのでしょうか。いつまでも「私」は「私」でありたいのかもしれません。ただの表象であることを見抜かなければなりません。

 

 我々の身体が全く同じままの身体ではないことは誰でも実感していると思われます。心もまったく同じままではありません。その時々に生じては完璧に消え去っています。私たちが今経験していることは全てが初めての体験であって後戻りできない経験です。これから起こることも、何が経験されるか知らされてはいません。全ての経験が人生で一度きりでありもう二度と起こらないということです。

 

 物質現象に眼を向けてみます。今見ているディスプレイも変化していて全く同じではありません。ある部分を捉えれば粒子でありされに細分化すると分子[→]電子が飛び交っていて[→]更に素粒子という目に見えないものの集まりで出来ているようです。分子が結合しプラスチックと呼ばれるものがフレームという形となって見ることができます。サッパリ分かりませんが、素粒子がひっきりなしに動き回っているのでしょうか。

 私たちの身体も最小単位まで細分化すると素粒子が結合して存在しているだけかもしれません。私たちの眼の中に光が勝手に差し込み網膜に刺激を与え、何らかの像として勝手に認識されているます。世界は太陽光が反射されて、光の波長が飛び交っているだけなのに・・・。何らかの形と色に分かれて認識され、識別作用が起こるようになっています。

 次に、言葉を持っていなかった動物と変わらない自身を想像してみます。当然「私」という言葉も持ち合わせていません。「見える」という言葉もないので、何かが在るという世界の只中で動き回っていたと想像されます。「私」という言葉もないので、「私が見ている」のではなくただ見えているただ聞こえているただ味わえるただ感覚がある・・・。ただ◯◯という五感の純粋経験だったかもしれません。次に言葉を発するようになり概念で様々な言葉と文字によって思いというものとなっているのでしょうか。他の五感と同じように思いも勝手に浮かんでは消えているということです。思考は「私」ではありません。「私」は常に後づけの説明で登場しています。

 思考を自身で操作していると勘違いしていることで、分別が自身であるとしてしまったようです。この分別するということで二元対立(=苦しみ)を生み出して葛藤するようになりました。

 痛いは痛いでしかなかった。老いは老いでしかなかった。死は死でしかなかった。あるがままはあるがままで何にも間違いはなかったのですが・・・。あるがままで何も問題はありませんでした。だれもがあるがままを認識するだけであれば、今も”エデンの園”に住んでいます。しかし、脳の癖によって瞬時に識別作用が働いて分別してしまいます。分別によって、善悪や好悪や美醜や真偽・・となり”なんとかしよう”という自己(=自我)が登場してしまいます。自身で問題としていながら”なんとかしよう”としている自己矛盾を抱えているということです。「私=自我」が解決する、解決できると自信満々ですがその「私=自我」こそが元凶だということかもしれません。

 


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