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老子−81 [老子]

信言不美、美言不信。善者不辯、辯者不善。知者不博、博者不知。聖人不積。既以爲人己愈有、既以與人己愈多。天之道利而不害、聖人之道爲而不爭。

 

 信頼のおけることばは虚飾されてはいない、虚飾されたことばは信頼できない。正直な者は巧に話すことはなく、巧みに話す者は正直な者ではない。知者は博識ではなく、博識だという人は知者ではない。聖人は貯め込まず、人々のために生きることで、自分の人生は有意義となる。人に与えることで、ますます心豊かになる。天の道は利することはあっても害することはない。聖人の道は、他人と争うこと無く成就される。

 

<他の翻訳例>

 信義のあることばは美しくない。美しいことばは信義がない。善人は議論をしない。議論に巧みな人は善人ではない。(真に)知る人は博識ではない。博識の人は(真に)知ってはいない。聖人は(物を)たくわえない。何もかも他人のために出し尽くして、自分はさらに所有物が増し、何もかも他人に与えて、自分はさらに豊かである。天の道(やり方)は、利益を与えて害を加えないことであり、聖人の道は、行動して争わないことである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 いつも同じようなことを書いていますが、漢字で現された文字(=形)は何となく理解できます。タイ・カンボジア・ロシア・中東・・・・文字(=形)なのか模様なのかチンプンカンプンです。また言葉(=音)を聞いてもデタラメを言っているようにしか聞こえません。外国人が日本人の会話を聞いても何を言っているのか想像もつかないかもしれません。

 タイでは日本語の「キレイ」という発音は「ブサイク」という意味となり反対の意味の言葉(=音)です。また「ハイ」と発音すると「あげる、渡す」という意味となり、何かを渡してくれるのかと注目されます。

マラーティ語「हवामान」(天気)です。我々が看板をや新聞を見ても何が書かれているかサッパリ分かりません。

 それぞれの地域で合意された言葉(=音)と文字(=形)に何らかの意味を付与しています。異なる地域の言語圏の人からすればよくできたデタラメを言ったり書いたりしていると感じているかもしれません。合意された嘘・偽りの音(=言葉)と形(=文字)が使われています。

 外国人の悩みを言葉(=音)と文字(=形)にしてもらっても、本当に悩んでいるのか分かりません。私たち日本人が悩んだり面白がっている音や形は、他の国の人が観察したら何でも無い音や形でしかないことになります。

 同じ日本人でも、頭の中でのおしゃべりを言葉や文字にしなければ各個人の一人芝居の何ものでもありません。誰かの頭に聴診器を当てても思考している事を聞き分けることはできません。

 

 言語には意味があります。区別のつかない同一性の対象に対しては大きな概念でくくっています。山・川・草・花・石・岩・・・・個々に意味づけしたければ岩にも◯◯岩と名前をつけます。言語に意味をつけているので、言語を使って考えれば必ず意味があるようになっています。もし外国人の思考を聞くことができたとしても、意味不明の音であり何が何なのかサッパリ分かりません。思考内容を誰にも話すことがなければ、思考している人だけが意味を作って妄想しているだけかもしれません。 意が勝手に働いて頭の中で音として認識しているだけということになります。

 雪を見たことのないフィリピン人に日本語で「雪」を説明することができるでしょうか。自分のことを言葉で説明できるでしょうか。達磨が「不識」と言ったのも当然のことかもしれません。自分をアイデンティティで説明することはできません。もし言葉や概念で説明されるのであれば、空想のメタ世界でのアバター(=化身)が自分であると認めることになってしまいます。近未来では空想の自分が空想の空間で動くようになるかもしれません。空想が本当で現実・事実が間違っていると感じてしまうことに危惧されます。

 見聞覚知している現実を差し置いてますます空想の世界の方に重きを置くようになるのでしょうか。

 

<小話>

 ロシアの宇宙飛行士が地球に戻ってきて政治家と聖職者に会う機会がありました。政治家は宇宙飛行士に「神を感じたなんて言わないでくれよ」と耳元でささやきました。聖職者は「神がいないなんて言わないでくれよ」と耳元でささやきました。宇宙飛行士が言葉にしたことは「地球は青かった」。

 

言語には意味があり相反しています。考えるのに使われるのが言語ですから、人生について考えれば意味があるし相反するというのは必然のことです。考えてしまえば意味を見出すしかありません。考えが先にあって人生を探しているのか、人生を探すから考えてしまうのか。考えようが考えまいがただ現実・事実から離れることはできません。人生があるから考えるのか、考えるから人生があるのか。ただ意の働きが続いているだけなのに、ちょっかいを出してくる”何でだ”が我であり迷いを生み出している元凶かもしれません。思考が正しく答えをだすという思い込みからなかなか抜け出せないのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−80 [老子]

小國寡民。使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使人復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、樂其俗、鄰國相望、雞犬之聲相聞、民至老死、不相往來。

 

 小さな国で人民も少ない。その国では人の十倍・百倍の能力があっても登用せず、人民に今の生活のまま命を大切にさせ、遠くへ行かせないようにする。舟や乗り物があったとしても、それに乗ることなく、鎧や武器があっても、それを並べて戦争をすることはない。
 人民に、縄を結ぶことで約束していた生活を送らせ、食事をおいしいと感じてもらい、着ている服を美しいと感じてもらい、今の住居で満足し、生活習慣や文化を楽しむ。隣の国が互いに見え、鶏や犬の鳴き声が聞こえる距離でも、人民は老いて死ぬまで、互いに往来するようなことがなく生活する。

 

<他の翻訳例>

 国は小さく住民は少ない(としよう)。軍隊に要する道具はあったとしても使わせないようにし、人民に生命をだいじにさせ、遠くへ移住することがないようにさせるならば、船や車はあったところで、それに乗るまでもなく、甲(よろい)や武器があったところで、それらを並べて見せる機会もない。

 もう一度、人びとが結んだ縄を(契約に)用いる(太古の)世と(同じく)し、かれらの(まずい)食物をうまいと思わせ、(そまつな)衣服を心地よく感じさせ、(せまい)すまいにおちつかせ、(素朴な)習慣(の生活)を楽しくすごすようにさせる。(そうなれば)隣の国はすぐ見えるところにあって、鶏や犬の鳴く声が聞こえるほどであっても、人民は老いて死ぬまで、(他国の人と)たがいに行き来することはないであろう。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 人類の歴史は領土の奪い合いと覇権争いの歴史です。広大な領土や植民地が富をもたらしてくれました。富と権力を手にすれば、人を思いのとおりにコントロールすることができます。我欲に振り回されているのが人間の歴史そのものかもしれません。正義の戦いではなく、勝ったものが正義を主張しているだけかもしれません。結局は傷つけあって辛酸を嘗めあっていることの繰り返しです。

 老子の生きた戦国時代での有能な人とは、勝利をもたらしてくれる人だったかもしれません。戦えばお互いが苦しむことになり、悲惨な目にあうのは一般の人民です。一般の人々は、生まれた土地で平穏に過ごすことさえ叶わなかったのでしょうか。

 人間も自然の一部であり自然そのもの。食べて行動して排出して寝て起きるというサイクルを繰り返しているだけなのですが・・。奪い合うのはもういい加減に止めて、分かち合うことに舵を切ってもよさそうな機運があります。

 老子の推奨する生活とは、小さなコミュニティでの生活。少欲知足に徹し、今の生活の中で食を楽しみ(空腹は最高の調味料)、質素な生活を送る。互いの文化や風習を尊重して生きていく。自分達の何気ない日常の中で満足を見出していくことなのでしょうか。

 何も考えずに目の前の”焚き火”に見入ると、リラックスできるのは何故でしょう。日が昇って日が沈むという当たり前のことでも、大自然の一大スペクタルとして奇跡的なこととして見ることもできます。

 

 最近になって「持続可能な循環型社会」と言われるようになりました。自然が持っている再生産能力の限界点を超えたことに気づいたからでしょうか。経済活動を優先し人々の要求を満たし、資源の再生への警鐘に耳を貸さなかったからでしょうか。人間だれしも楽をしたいという欲求があります。せっかくの科学技術を無駄にしたくはありません。どうしても便利を求めてしまいます。

 

 私たちは、常に他人と比較されてきたのでしょうか。どうしても比較する癖があります。誰もが認められたいと願っています。つまり他人よりは”自分かわいい”が最優先されます。育った環境が異なり経験も異なる人が比較対象となるでしょうか。学業・スポーツ・習い事・・・何でもかんでも比較されてしまいます。比較している自分は元来比べることの出来ないだだ一つの存在です。比べることがなければ、長短も軽重もありません。他と比較しても何も見出すことはできません。ただの想像でしかりません。想像で苦しむことは馬鹿げたことです。比較を取っ払って一つのままに成り切る。

 他人の生活と比較することなく、今の生活を味わい尽くすしかありません。誰かと変わることもできないし、もし変わることができたとしても想像以上に大変な人生かもしれません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−79 [老子]

和大怨必有餘怨。安可以爲善。是以聖人執左契、而不責於人。有徳司契、無徳司徹。天道無親、常與善人。

 

 根深い怨恨が和解できたかに見えても、心の奥底には怨みが残ったままである。この和解がどうして最善であろうか。聖人は契約に基づいて説得するが、割符で強制することはしない。徳のある者は契約で説得するが、徳のない者は強権を使って解決しようとする。天の道は公平であり、結局は善人の方に味方する。

 

<他の翻訳例>

 深いうらみを(いだくもの同士を)和解させるとき、必ずうらみがあとまで残る。それでどうしてみごとなやり方といえようか。それゆえに聖人は割符の左半分を握って、しかも人びとに支払いを求めない。「徳のある人は割符(の扱い)を管理し、徳のない人が税金(のとりたて)を管理する」「天の道にえこひいきはない。つねに善人の側につく」

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 私達の「我」には、満たされていない・達成できていない・救われていない・楽をしたい・安心安全でいたい・変わりたいが変わりたくない・自己(=我)を否定されたくない・思い通りにしたい・・・・を実現するように働くがついているようです。一人で生きているわではないのに、自分(=我)の思う通りにできるでしょうか。”何とかして”思いの通りに近づけようと頑張りたいのは理解できますが・・・。

 誰かと比べることもとなっています。学校では順位がつけられ、常に競争にさらされて勝ち負けがわかるようになっています。大人になっても収入や肩書がアイデンティティとなっています。自分=アイデンティティであるかのように思い込んでしまいます。名刺に書かれた文字が「私」である筈がないのですが・・・・。

 私達は五感を使って感受できますが、自らを直視できません。見ている自分を見ることができません。遠くの星を見ることができるのに自身を直視できずに死んでいきます。他人に見られても自分が何者かは想像するしかありません。本来の自分が分からないのに他人と何を比べるるのでしょうか。

 

紛争:大きな集団が大規模に争うこと。相手より優位にたとうとすること。

闘争:階級や主義、立場などを異にする者と戦うこと。

戦争:軍事力を用いて様々な政治目的を達成しようとする行為。

意見交換:意見を出し合うこと

交渉:合意のプロセス

折衝:利害の一致しない相手と、問題の解決に向けて、話し合いなどの手段によって駆け引きすること。

討論:議論の優劣を争うプロセス

議論:理由を示して結論を述べる

対話:互いの変容を受容するプロセス

 

 個人から国家まで様々なカテゴリーでの接点があります。融合することもあれば衝突することもあります。それぞれが「正しく」自らの固定観念を守ろうとします。正義の敵は相手の正義であり、神の敵は相手の神です。お互いに自らの正当性を主張します。他は自動的に排除すべき対象(=悪)となります。互いに自らの正義で戦っているので残虐なことでも平気でやっているかもしれません。自らの正義を否定されれば根深い怨恨が残ってしまいます。

 互いに妥協点を見出して契約して何らかの形にして残さなければ信用できないのが人間です。現在でも割り印があるように割符というモノがあったようです。公正・正義とは勝った方の言い分でしかないかもしれません。負けたほうが公正・正義と主張しても通ることはありません。負けたほうが正義となるには勝利するしかありません。公正・正義は勝者の手に委ねられているということかもしれません。小さな国が声を張り上げても、大国の声に押しつぶされていることは誰もが知っています。天の道に従っているので生き残っているのか、生き残った人が天の道に従ったと後から言っているのか。正義が勝つのでしょうか、勝った方が正義と言っているのでしょうか。

 

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老子−78 [老子]

天下莫柔弱於水。而攻堅強者、莫之能勝。以其無以易之。弱之勝強、柔之勝剛、天下莫不知、莫能行。是以聖人云、受國之垢、是謂社稷主、受國不祥、是謂天下王。正言若反。

 

 世界を見渡しても水よりも柔軟で弱々しいものはない。柔弱な者が堅強な軍隊を攻めると、堅強な軍には勝ち目はない。柔弱な水にとって代わるものはない。弱々しいものが強いものに勝ち、柔らかいものが堅いものに勝つことを、世の人が知らないということはない。分かっていても実際に行動する人は稀である。

 聖人が言うには、国のけがれを受けることを社稷の主という、国の災いを受けることを天下の王という。真実を言葉にすると真逆のようになる。

 

<他の翻訳例>

 天下において、水ほど柔らかくしなやかなものはない。しかし、それが堅く手ごわいものを攻撃すると、それに勝てるものはない。ほかにその代わりになるものがないからである。しなやかなものが手ごわいものを負かし、柔らかいものが堅いものを負かすことは、すべての人が知っていることであるが、これを実行できる人はいない。それゆえに、聖人のことばに「国家の辱めを(一身に)引き受ける人こそ、その社稷(しゃしょく)の主(あるじ)とよばれる。国家の災厄(さいやく)を引き受ける人こそが、天下のすべての王とよばれる」という。正しいことばは、(真実に)反するように聞こえるものである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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水に関することわざ

 深い渓谷は水に削られた後にできたもので、水の威力を示す自然の姿です。柔軟であるからこそ大きくなることができます。津波や激流となれば大きな力となりあらゆるものを破壊します。「柔よく剛を制す」「柳に雪折れなし」

 弱ければ生き残るために工夫します。大きなモノを統制したり制御したりすることは大変です。弱い者は自らが弱いことを認識していて動くので団結も強固なものとなります。人間社会でも弱い立場の人(例えば労働者)が団結して権利を主張することができます。犬や猫は野生で生きるよりも人間と共生する道を選択したのかもしれません。自らが動くことができない植物も子孫を残すために種子を運んでもらう戦略を選んだから今日まで生き残っているのでしょうか。

 恐竜が闊歩していた時代にほそぼそと生きていたのですが、弱々しいからこそ環境に適応して生きながらえてきた。弱かったからこそ今こうして生存しているのではないでしょうか。人間が強大になっていけば弱いものに置き換わり、まったく別の世界になるかもしれません。人間がちょっとした変化に対応できなくなっているというのは、強くなったからかもしれません。

 人間は、強くなろうとせずに弱い生き物であるということを忘れずにいたいものです。

 

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老子−77 [老子]

天之道其猶張弓與。髙者抑之、下者擧之。有餘者損之、不足者補之。天之道損有餘而補不足。人之道則不然、損不足以奉有餘。孰能有餘以奉天下。唯有道者。是以聖人、爲而不恃、功成而不處、其不欲見賢。

 

 天の道は弓を張るようだ。弓の上部(末弭)を抑えるように高慢な人は抑えられ、弓の下部(本弭)を引き上げるように謙虚な人を持ち上げます。有り余るほど持っていれば奪われ、不足していれば補充される。

 天の道は有り余るものを失わせ、不足しているところを補う。人の道は逆で、不足している人から奪い、余り有る人に捧げる。誰が有り余っている人から取り上げて天下に奉ずるのか。それは有道の人である。聖人は行動するが、栄誉をうけない。功をあげても地位に安穏とせず、才知を自慢することはしない。

 

<他の翻訳例>

天の道(やり方)は弓を引いて張ることに似ているであろう。高いもの(上の端)は押し下げられ、低いもの(下の端)は引き上げられる。余りすぎはもどされ、足りないければつぎたされる。天の道は(このように)多すぎるものから減らして、足りないものへ補ってやる。人の道はそうではない。足りない方を(もっと)減らして、多すぎる方へさし出す。(自分は)余りすぎるほどでいて(それを)天下のためにさし出すのはだれであるか。ただ「道」を有するものにかぎられるのだ。それゆえに聖人は何ごとかをなしても、それにもたれかからないし、仕事を成しとげてもそれについての栄誉を受けようとはしない。それは他人よりもまさっていることを見せびらかそうと思わないからではないか。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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弓の張り方 

 天の道と人の道があって、天の道にそって行動ができるのが聖人である。人の道では富めるものはますます栄え、貧しい人は搾取される。聖人は行動することで人の道の間違いを正すことができるが栄誉を見せびらかそうとはしない。

 天の道に逆らっている人の道が天の道によって自然に正されない。人の”我”によって人の道が貫かれているのでしょうか。人生が”我”に振り回され続けているということでしょうか。聖人は適正な分配を行って、困っている人を助け功績をあげるが自惚れることがない。

 一般の人には聖人がどのように行動しているかも分かりません。知らず知らずに恩恵を受けていたということでしょうか。

 

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老子−76 [老子]

人之生也柔弱、其死也堅強。萬物草木之生也柔脆、其死也枯槁。故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。是以兵強則不勝、木強則折。強大處下、柔弱處上。

 

 人は柔らかで弱い存在として生まれ、堅く硬直して死んでいく。万物も草木も生きていれば柔らかで弱々しい、死ぬときには生気がなくなり枯れて乾燥する。頑強な者はむなしく死んでいき、柔らかで弱い者は生きていく。兵を強くすれば勝ち続けることはできず、木が硬ければ折れてしまう。強大になればいつかは地面の下になり、柔軟で弱ければ地面の上にいられる。

 

<他の翻訳例>

 人が生まれるときには柔らかで弱々しく、死ぬときには堅くてこわばっている。草や木が生きているあいだは柔らかでしなやかであり、死んだときは、くだけやすくかわいている。だから、堅くてこわばっているのは死の仲間であり、柔らかで弱々しいのが生の仲間である。それゆえに武器があまりに強(かた)ければ勝つことがないであろうし、強(かた)い質の木は折れる。強(かた)くて大きなもの(たとえば木の幹)は下にあり、柔らかで弱いもの(たとえば枝や葉)が高いところにある。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 柔らかであれば強い風でも折れることはありません。強固にするということは何かに立ち向かおうとしています。敵を想定して敵に負けないように自らを守ろうとするのでしょうか。強くなれば誇示したくなり、次には兵刃を交えたくなります。戦えばお互いに傷つき多くの犠牲が生じることは明白です。分かっていながら止められない。

 2足歩行で両手が使えるようになった人間は、他の動物の食べ残しから骨髄を得るために石を使って骨を砕いたと推測されるそうです。骨髄は栄養があって脳が発達し手も使えるようになった。言語を発明しコミュニケーションをとり集団で狩猟するようになったかもしれません。槍・弓・ナイフ・火・・・調理したり保存することができるようになっていった。

 人間は社会を形成し、人間を脅かす動物から隔離されて生きています。今や人間を脅かすのは人間だけになりました。人間を悩ます問題は人間自身が作り出しています。どのように人間とつき合って生きるか、自分自身とどう向き合っていくかということに焦点が当てられています。今よりも過去や未来を考えられるようになり、悩むことが多くなっているようです。

 

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老子-75 [老子]

民之飢、以其上食税之多、是以飢。民之難治、以其上之有爲、是以難治。民之輕死、以其求生之厚、是以輕死。夫唯無以生爲者、是賢於貴生。

 

 人民が飢えるのは、統治者が税金を多く取るからであり、税によって飢えが起こる。人民が平穏に暮らせないのは、統治者が人民の生活に関与してくるからであって、統治によって人民は平穏でいられない。人民が死を軽く見るのは、生きることだけに関心があるからであり、死ぬことを軽く見てしまう。あるがままに生きて、何かを為そうとするすることが無い者は、生きて何かを為すことが貴いとしている人よりも賢明である。

 

<他の翻訳例>

 人民が飢えに苦しむ。それは上にあるもの(統治者)が税金をとることが多すぎるからであって、それゆえに(人民は)飢えに苦しむのだ。人民が治めにくいのは、上にあるものが干渉するからであって、それゆえに治めにくくなる。人民が死ぬことを何とも思わないのは、上にあるものが生を追求することに熱心すぎるからであって、それゆえに人民は死を何とも思わなくなる。生のことを少しも気にかけないものこそ、まさに生をとうといとするものより賢明なのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 当たり前のことですが、自然だけに触れ合っている人は多くの問題を抱えることはありません。自然を制御できないことは誰でも知っています。悩みの多くは人との関係によって生まれます。「自分の正義の敵(=反対)は他人の正義(=悪)」なので、お互いに自分の”我(=正義)”の正当性を主張します。どうして自分の「正義」が他の「正義」に屈服しなければならないのかと考えます。

 自己保身・自己欺瞞・自己正当化・自己憐憫・・・・で自分を守ろうとします。自己が正しいのであれば自己の正義に反する意見は悪と決めつけることになります。間違い(=悪=相手の正義)を正してどこが悪いということです。

 民主という概念を持ち出し多数決によって正義を決めます。多数が正しいという単純な論法です。「勝てば官軍負ければ賊軍」であって、正しい者が勝つのではなく、勝った者が押しつけているだけではないでしょうか。

 多数や勝った者が常識として押し付けているかもしれません。常識というのはその時代のその環境に従った合意でしかありません。何時の時代でも通じる恒常的な常識ではありません。戦時中に戦争を否定する人は非国民というレッテルを貼られます。戦争が馬鹿げているということは子供でも分かるのに・・・・。

 私達は何時でも自分自身の位置を確認することができます。何故ならば、どこに行ってもホーム(=家)に戻ってこれなくてはなりません。頭の中で時空間を把握していなくてはなりません。生きていくには、今はどんな状況かを把握しなければなりません。地図と時計は生きていくために必要に迫られて作られたのでしょうか。

 統治者は自身の統治している土地を把握し租税がどの程度かを知るためにも領土の地図が必要とされます。当時の戦国時代に、物納を多くしたことで人民は飢えて逃げ出したのでしょうか。

 

 選挙がありますが、議員となれば誰からどれだけ税金を取ってどのように使うかを決める権限があります。法によって人々の生活に制限をかけるかを議論します。統治者が一人で決めるか、多数決で決めるかの違いでしかありません。独裁なのかそれとも多く人から投票された人達で構成された集団なのかどうかという違いでしかありません。公正な選挙という形式を経て選ばれたというだけで好き勝手にしているかもしれません。議員の手腕は、国民から集めた税金をいかに地元にバラ撒くかにかかっています。権力はお金に結びついたものであるのは当然のことです。地元民も自分達のことを中心に考えるのも当然のことです。正当性のある論拠で正当に評価されることで、集団的な合意がなされているのかもしれません。

 自分自身でさえ制御できないのに、他人を制御することなどできません。命の脅威かお金(交換機能、価値保存機能、価値尺度機能)というもので従わせるしかありません。

 

 あらゆる生(=命)は自然そのものであって、意志の力によって200年生きようと思っても生きることはできません。全てが自然の成り行きです。人生も終盤にさしかかれば物欲も自然と無くなります。偉大な人の教えによって欲から逃れなくても、不思議なことで自然と消えていきます。驚いたことに、教えを学んで教えを実践しなければならないということでもなさそうです。同世代の人に聞くと自然と欲は無くなっていくようです。高齢になっても欲があるというのは、無理して欲(=我の欲する)を出しているかもしれません。欲が無くなったら終わりだと言われるので頑張っているのでしょうか。「小人は小欲(我欲)大人は大欲(共に豊かになる)」「精力善用・自他共栄」

 自然に任せれば欲の炎は消えていきます。生きていたいというのは欲ではなく本能であり欲ではありません。必要以上に求め続ける、物欲・金銭欲・権勢欲・・・は自然と消えていきます。

 煩悩は字の如く、自らを煩わせ悩ませます。しかし、欲を観察する時に悩まされていた自分も観察することができます。欲を目の敵にして”なんとかしよう”とすればするほど欲に執着します。欲に関心を示さないでいると、欲はただの欲でしか無かったと解ります。物欲を観察すると、欲しかった物はどこかにあった物が近くに来ただけであって一時的な物だと気づきます。最低限必要な物以外は、いつかはゴミとなるだけです。結局はゴミをかき集めていただけなのかもしれません。自然は誰かが所有できるようなモノではありません。自然は誰のモノでもないから、誰もが鑑賞することができます。誰もが、自然の中へ行けば見えたままを独り占めしています。

 自己が所有しているという思い込みが全て放棄されると、全てが誰のものでもなくなります。見る者と見られるモノという対立がなくなります。見えているだけがあります。

 他人の庭で育っているとされた花も、ただそこに花が咲いているだけになります。所有という概念が無くなると、客体として見る必要が無くなります。見えている全てが自分であると気づくかも知れません。頭で解ることではありません。

 

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老子-74 [老子]

民不畏死、柰何以死懼之。若使民常畏死、而爲奇者、吾得執而殺之、孰敢。常有司殺者殺。夫代司殺者殺、是代大匠斲。夫代大匠斲者、希有不傷其手矣。

 

 人民が死を畏れなければ、どうやって死で脅すことができるだろうか。もし人民が死を畏れていながら罪を犯すなら、私が罪人をとらえて殺すことができる。他の誰が殺すというのだろうか。常に人を殺すことを統制しているものがいる。人の死を統制している者に代わって殺すのは、自然の理に代わって手を下すことになる。自然の理に代わって殺す者は、自分の手を傷つけないことは稀なことだ。

 

<他の翻訳例>

 人民が死を恐れないとき、どうしてかれらを死をもっておどかすのか。人民がいつも死を恐れるのだとしても、そしてまた(私が)新奇なことをするものをとらえて殺すことができるとしても、だれがそんなことをするだろう。(それらのものを)いつも殺す役目のものがあって殺すのだ。殺す役目のものの代わりに殺すことはない。いわゆる偉大な工人に代わって木を削ることになる。ところで、偉大な工人の代わりに木を削るとき、自分の手を傷つけないものはまれである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ”我”の働きは解決・制御・統制・管理・・・したい。”我”は”自分かわいい”ですから、何でもかんでも”我”の思いの通りにしたい。”我”は自分のために、一生懸命におしゃべりし続けます。なんとかして思いを叶えたい。休むこと無く健気に働き続けます。”我”は自分の主人として自分の為に良いことをしている思っているので、自分を守るためなら人を傷つけることも厭いません。

 「正義の敵は正義」ということを書きました。正義の反対は悪なのですが、悪とされている方にも道理があります。悪とされている国にも道理があり、悪の国は自国の正義があります。敵対する国であっても、お互いに自国の正義を主張します。アメリカはアメリカの正義があり、中国には中国の正義があります。お互いに自国は正しく、他国は間違っていると主張していては平行線のままなのですが・・・・。

 ”神”という概念も同様です。自分達が信じている”神”の敵は悪魔ではなく、他の集団が信仰している”神”です。「神の敵は神」。お互いに”正しい・正規の・唯一の・・・・神”であると譲りません。自分達が信じている”神”が絶対的であれば、他の”神”は偽物であり否定されなければなりません。絶対的であるという概念で作っているので、他の”神”が存在することで”二つの絶対”が許されてはいけません。

 自分達が信じる”神”のためにやっているので、たとえ人を殺しても”神”のご加護があり”神”の望むことをかなえるために行動していると言い訳がたちます。勧善懲悪によって敵を滅ぼす正義の戦い(聖戦)となり、どんなに残虐であろうが悪いとは思っていないので平然とやってのけます。宗教戦争が残酷化するのは互いの”大義名分”によって正当化されるからに他ありません。

  争いの本質は、育てられた環境によって自分が形成されるということです。純真無垢な人間はどのようにも染められるということです。周囲の大人から、色々と染められて自己が形成されます。

 縁によって自分が存在しているということです。習慣・言語・文化・国が自己の本質となってしまいます。誰もが「自分が正しい」のですから、自分の基準で判断してしまいます。自分と異なり、受け入れることができなければ拒否することになります。エスカレートすれば、相手を屈服させて自分の言いなりにさせようとします。究極は戦って、排除することになってしまいます。

 

 ”我”も自分の身を守るために”正しい”ことをしているとして納得しています。”我”を通して苦しんでも”我”を押し通すことになります。どうしてこんなに”苦しむのか”と自問自答しても、”我”を否定することなく他人が悪いことにしてしまいます。

 ”我”がどんなに頑張っても、この世は諸行無常なので”我”の思いは必ず敗れ去ってしまいます。若くいたい、病気になりたくない、死にたくないと願ってもことごとく敗れ去ります。一時的なことと分かっていても快楽を求めて右往左往して、かえって疲れ果ててしまいます。愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦。”会う・別れ”・”得る・

失う”・”快楽・苦痛”・”愛・憎しみ”・”幸せ・不幸”・”若さ・老い”・”健康・病気”はコインの表裏であって一体です。無常ですからアッと言う間に反対側に変化してしまいます。

 ”我”は自分の為という”大義名分”があります。いままでの人生を冷静に観察して見ると、”我”を押し通すことによって混乱・葛藤が起こり、”苦”となっていないでしょうか。

 ”我”は残念ながら”本来の自己”ではないようです。”我”の思いの通りにはならないという”無我”に賛同するほかありません。

 どんな存在であっても、様々な因縁によって存在しています。一切の存在は恒常不変ではなく、常に変化変容していて留まることがない無常です。

 事象を二元対立として見ると、執着と忌避に分かれてしまいます。得よう捉えよう掴もうと避けよう排除しよう打ち負かそうと頑張ります。事象を考えで取り扱わずに無関心にしてみてはどうでしょうか。”我”の頑張りに耳を貸さないでいれば、”我”へのエネルギーは減少していきます。

 

 ヒトは生まれてから周りの人に必ずお世話になって育ちます。何歳になっても周りの人達のおかげで生きています。どうしても属している周りの人達に合わせていかないと生きていくことが難しくなります。生み育ててくれた家族・地域・学校・信仰・会社・国を非難したり否定することはできないものです。戦争自体が異常であったとしても、自国の主義主張が間違っていると言うことはできません。

 

 中国での戦国時代では、有る地域の人は自分達の地域の代表が富をもたらしてくれるのだからと信じて戦います。自分達は正しいことをしているのだから死を畏れることなく戦うことができます。戦う相手も自分達が正しいので、相手の兵士を殺すことは許されていると疑いません。人間の死は予測がつかないことから、死神のようなモノが決めているというふうに解釈していたかもしれません。決められた寿命に人が割って入って、敵を殺すことを正当化して殺してしまっていいのだろうか。手を下した人は良心の呵責に苛まれるということでしょうか。

 

我執:自分がいつまでもあり続けると思い込むことであり、自分は一人で生きていると思い込むことであり、なにもかも自分の思い通りになると思い込んでいることを表しています。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子-73 [老子]

勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。天之道、不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、繟然而善謀。天網恢恢、疏而不失。

 

敢えて動くと死をまねくことがある。敢えて動かないことで生き伸びることもある。敢えて動くか動かないことで、利があることもあるし害があることもある。天がどちらを悪とするのかは誰にもわからない。天の道は、争わない善なる者を助け、不言のまま善に応じ、招かなくても善はやってくる。ゆったりとしているようでうまく計画されているものだ。天の道の網は広大で目が粗いが、悪を見逃すことはない。

 

<他の翻訳例>

 大胆にやることを恐れないものが殺される。臆病にすることを恐れないものが生き残る。この二つのうち、どちらかが有利さにつながり、他が害悪につながる。天ににくまれる、その理由をだれが知ろう。それゆえに聖人でさえ(ある場合には)困難とする。天の道は、争わないで勝ち、ものもいわないで応えることにすぐれているし、招かれないでも進んでやってくるし、のろのろしているようで謀(はか)りごとをうまくたてるものだ。天の網はひろくて大きい。目はあらいが、逃すことはない。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 人知では、未来がどうなるのか全く分かりません。よく言われるように、一寸先は闇です。誰もが、次に何が起こるのか分からない世界に生きています。どんな事でも起こりうるということです。今までに経験したことがなく、想像を超える出来事は”天”・”神”・・・という概念を使って納得するようにしています。あらゆる出来事は何らかの意味があるという思い込みが有ります。自分がこの世に存在しているのには意味があるはずだ、いや意味がなければおかしいと思いこんでいるかも知れません。

 子供の頃から自分の人生には意味があると考えていたのでしょうか。あらゆる存在に意味があるのなら、存在の構成要素は極小化していけば無に近い素粒子となります。その素粒子とまでいかなくても人体を構成している臓器・赤血球・白血球・毛髪・筋肉・骨細胞・・それぞれが人体が抱いている意味を汲み取って人体の意図に従って働いているのでしょうか。

 人体が思いの通りに働くのならいいのですが・・・。そんな人がいたら大変なことです。老いもせず病気もせず思い通りに飛び跳ねる・・・映画の中でなら可能です。縁によって一時的に存在し、常に変化しつづけて最後は消滅する。宇宙の一部であり宇宙そのものとしてある。

 

 我々の認識できている全てが世界そのものです。”社会”という実体がどこかにあるわけではないのですが、概念として使っています。その掴むことのできない”社会”というあやふやなところに身があると想定して生活しています。”言葉”だけで実体のない共通概念を受け入れ生活しています。”学校”とはなんですかと問われても、ひとそれぞれの”学校”のイメージがあります。

 自身の経験したものだけが”学校”として認識されるので、それぞれの経験が異なるりますので”学校”も異なっています。一人一世界の中で経験がありイメージがあります。誰もが同じ”学校”をイメージしていることがあるでしょうか。極端に言えば一つ一つの言葉が人によって異なっているということになります。誰かの頭の中の”遊園地”と自分の頭の中の”遊園地”が一致するということはありません。頭の中にあるイメージは実体のないただのイメージです。そのイメージを変化しない文字にすると、文字は定義されているので固定化された実体があるかのように扱ってしまいます。同じ絵を見ても壺にも見えるし人の顔にも見えてしまいます。(ルビンの壺)

 自身が抱いているイメージしか知らず、知っていることが正しいという前提で生きています。自らの固定観念で作られた世界で生きていて、自らの世界を主張しているだけかもしれません。

 

 自らの決断によって自信たっぷりに行動しても死ぬことがあるし、じっとしていて窮地を脱することもあります。タイミングが間違って動いてしまい苦境に陥ることもあり、留まって助かることもあります。

 自身の身にとって、選択したことが悪かったのか良かったのかは結果がすべてということでしょうか。天は争わない者を助ける。天は悪を見逃さないそうです。天のやることなので間違いはないということでしょうか。

 自身の正義の敵は他者の正義です。お互いが正義を主張しているのに、どちらが悪なのかサッパリ分かりません。言葉は対立概念がないと成り立ちません。一つのモノ自体は比較しなければ、長くも重くもありません。誰かが悪であるためには正しい誰かがいることになります。自身が思っている”あるべき世界”が正しければ、それに反するモノはすべて悪ということになります。誰もが自身の正しい世界を主張する限り、自身を否定する人や自身の望まない境遇は悪となります。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−72 [老子]

民不畏威、則大威至。無狎其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此。

 

 人民が権力者の権威に恐れを抱かなくなると、権力者は大きな脅威を受けることになる。人民の住んでいる場所を軽んじること無く、その生活の場を嫌い厭うことがあってはならない。人民の生活の邪魔をしなければ、権力者も嫌われることもない。聖人は自らの能力を知っているが、自らを目立つようにせず、自らを大事にするが自らを誇るようなことはしない。権威にこだわらず無為に生きることを選ぶ。

 

<他の翻訳例>

人民に畏(おそ)れの感覚が欠けているとき、恐るべき罰がくだる。かれらの住んでいる場所をせばめるな。その生活の手段を圧迫するな。かれらを押さえつけないからこそ、かれらは重荷を苦にしないのである。それゆえに、聖人はみずからを知るが見せびらかさない。みずからを愛するがみずからをもちあげようとはしない。まことにあのこと(みせびらかすことなど)を投げやり、このこと(みずからしることなど)をとるのだ。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 権力者が人民の生活を締め付けすぎると、人民も堪忍袋の緒が切れて反乱を起こすようになる。聖人は自らの能力を誇ることはせずに、密かに暮らすことを選ぶ。

 私達は誰かの言った言葉を耳にしたり、誰かが残した文字を眼にすると自然と受け入れて思考の対象としてしまいます。言葉はただの音であり、文字はただの形でしかないのに、母国語であれば何らかの意味を解釈するような脳の癖があります。初めて聞く外国語であればただの音なのですが、日本語であれば意味がある言葉となってしまいます。

 

 ある新聞広告で”大地真央さんの美肌の秘密”というコピーを目にしました。一体誰がいつどこで女優の肌を見て美肌と判断したのでしょうか。美肌というのは年齢にしてはそこそこのということなのか?こんな憶測なしに、文字を信じてしまうことが間違いを生み出しています。

 見知らぬ人が判定した判断を信じていいものでしょうか。本当に見た日時も記載されず見た人の名前もわからない信用するに値する言葉なのでしょうか。コピーライターの想像で作られたコピーなのかもしれません。真偽は闇のなかであり、ただ文字として見てしまったということです。

 我々の会話・広告・記事・教科書・・あらゆる言葉やあらゆる文字が真実であるという前提で聞いたり見たりしてはいないでしょうか。

 悲しいかな、我々は聞こえたり見たりするものを選り好みせずに受け取ってしまっているということです。言葉の音は聞こえるという事実があり、文字の形は見えるという事実しかありませんが脳が勝手に解釈してしまいます。100円ショップで購入した商品に難癖をつける人はあまりいないのは、自分で手にとって確認して購入したものです。失敗しても100円であり、騙されたのは自分であると諦めるられるかもしれません。

 

 唯識で「四尋思観」という観法があります。

 例えば、”フィルム”を知っている人は”フィルム”を見れば”フィルム”であると認識できます。”フィルム”が発明されて”フィルム”という名前がつけられる以前には”フィルム”も”フィルム”という言葉もありません。また、認識される対象としての”フィルム”も自性も差別(=概念)もありません。辞典にある定義では、”カメラによって得られた映像を記録する感光材料”と説明される差別もあとづけの説明です。「名・義・名義自性・名義差別の四つは」はあるモノ(=存在)に対して、人間によって仮にあてがわれその存在を認識するために一時的に使われます。認識するためには、記憶と見たり触れたりした経験が必要です。

 ”フィルム”が誕生する以前は”フィルム”という言葉は存在していません。将来”フィルム”が完全にこの世から消え去り、見ることも使う経験もない人にとっては”フィルム”と言われても通じません。今の小学生にカメラの”フィルム”と言っても通じないかもしれません。”フィルム”は記憶の中にある名前とイメージにだけであって”フィルム”という言葉だけでは真実に実在するものではありません。”フィイルム”と呟いても”フィルム”と紙に書いても実在としての”フィルム”に触れることはできません。

 ”壁”・”ドア”・・・・一様な存在から分離分割して名前をつけています。社会生活を送る上で混乱しないように命名されているだけです。本当は一様な存在があるだけなのですが、”壁”と呼称したり”ドア”と呼称します。タイ語では”Kảphæng”です。タイの人に”kabe”と言ってもそんなものは存在しません。

名尋思:本当は、”壁”という形、”kabe”という音があるだけであり実在はありません。

事尋思:”壁”を見ているのではなく見えたままがあるだけです。

自性仮立尋思:”壁”という名前と見えたままのを”壁”とあとづけされた仮の存在である。

差別仮立尋思:”壁”の性質・特質が単に定義された一時的な仮のものであると見る。

 ”ドア”は存在していないのでどんな名前に変更することも可能です。二人で今日から”ドリモ”ということにすれば”ドア”は”ドリモ”となります。二人の間では”ドリモ”という仮の存在として認識されることになります。二人以外の人には”ドリモ”は存在していません。

 

言語は真実であるという前提で見るのではなく、言語は方便であることを前提にしなければならないと肝に命じなければならないと痛感しています。

 

 

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老子-71 [老子]

知不知上、不知知病。夫唯病病、是以不病。聖人不病。以其病病、是以不病。

 

知っているよりも、知っていないことを知っているということのほうが上です。知っていないのに知っているというのは病です。病を病と分かっているのであれば、病ではない。聖人には病はない、病を病と分かっているから、病ではない。

 

<他の翻訳例>

 知っていても(じゅうぶんには)知っていない(とみずから考える)ことが最上である。知らないのに知っているとすることが欠点である。欠点を欠点とするゆえにこそ、欠点とはならない。聖人には欠点がない。自分の欠点を欠点と(自覚)する。それゆえに(欠点はあっても)欠点とはならないのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 ソクラテスの言葉で「無知の知」と「汝自身を知れ」ということが同じことを言っているそうです。無知は赤子のように何も知らないということなので「不知の知」の方が適切のようです。であれば「知不知」と同じになります。

 生命体が何を知りたいのかといえば、自身の置かれた状況をいち早く知りたいのではないでしょうか。現在の状況の情報を探り、どう身を処せばいいのかの判断材料が必要です。生命体には、”生き抜いていく”ための「知」・子孫を残すための「知」が本能に備わっています。

 動物は危険を知らせたり求愛の為に自己アピールします。何らかの音や身振りで意思を伝達しています。人間は声帯で「言葉」を操り、それを形で表す「文字」を作り出しました。「言語」を組み合わせることで「概念」を構築し、新たな「語彙」を日々作り続けています。

 新たに作り出した「概念」によって理解を促すこともできます。「言葉」を使うことで思考することができます。

 私達は、思考する以前に事実を直知しています。考えて事実が現れることはありません。事実が先で思考が後です。既に真理のまっただ中にいて真理そのものを日々体験しています。「言語」で真理を探求すということは、海中にいる魚が”海水”とは何かと問うようなことかもしれません。

 

 現在では「知らない」ということは、調べる努力に差があるだけで知性の問題ではないようです。あらゆることにアクセスできる環境が整っていて、専門用語の壁をクリアすれば何でも「知る」ことができます。「知らない」というのは「知らない」をそのままにしているというだけのことかもしれません。

 

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老子−70 [老子]

吾言甚易知、甚易行、天下莫能知、莫能行。
言有宗、事有君。夫唯無知、是以不我知。
知我者希、則我者貴。是以聖人被褐懐玉。

 

 私の言っていることは理解しやすく、簡単に出来ることです。しかし世の人は理解できず、また能く行う人はいない。私の言っていることには根拠があるが、人々は気づかない。人びとは無知であり、私の言う事は理解できない。私の言うことが理解できる人は稀であり、私の言う通り行動する人はいない。「道」に従って生きている聖人は、粗末な衣服を着ていても心には貴重な宝を抱いている。

 

<他の翻訳例>

私のことばはたいへん理解しやすく、行いやすい。それなのに天下にだれも理解できるものはなく、行うことができるものもない。(すべて)ことばには宗(おおもと)があり、物事(をなす)には君(主宰者)があるものだ。(人びとが)無知だからこそ、私は理解されないのである。私を理解するものはまれであるが、私に倣(なら)うものはとうとばれる。それゆえに、聖人は粗末な衣服をつけた下に(人に知られない)宝玉をかくしている。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 「私は平易に説いていてるし実践することもたやすいのに、世間の人は理解できないし実践できない。」と嘆いています。君主であれば私の言うことを理解し実践することもできるとでも言いたいのでしょうか。

 人に清濁の区別があり、私は聖なる方に属している。凡人には理解できないし、君主に重用されるまでは粗末な身なりをしている。しかし、聖人は人知れず素晴らしい宝を持っている。

 「世の中の人は私のような聖人を見出して尊敬すべきではないか」と言われても・・・・。当時の人たちが余りにも物分りが悪く、辟易していたのでしょうか。書き残すほど悔しいことがあったのでしょうか・・・・。

 

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老子-69 [老子]

用兵有言、吾不敢爲主而爲客、不敢進寸而退尺。是謂行無行、攘無臂、執無兵、扔無敵。禍莫大於輕敵。輕敵幾喪吾寳。故抗兵相如、哀者勝矣。


 兵法での言葉がある。「自軍が仕掛けるのではでなく受けて立ち、あえて軍を進めず相手が攻めてきたら大きく後退する。」敵軍からすれば、進軍しても道がなく、威嚇しようにも腕を奮えず、敵兵を掌握しようにも兵がなく、攻撃しても敵がいない。

 戦争において敵を軽視すること以上の災いはない。敵を軽視すれば「慈」「倹」「自分が先頭に立つようなことをしない」という宝を失ってしまう。

兵力が拮抗して戦う場合は、慈しみの心がある方が勝つ。

 

<他の翻訳例>

戦術家に次のことばがある。「わがほうは(攻撃の)主動者となろうとしないで、受ける側にまわる。一寸でも進もうとはせず、(むしろ)一尺でも後退することだ」。これが、前進しようにも道はなく、袖をまくりあげようにも腕がなく、引きずり込もうにも相手がなく、取ろうとしても武器がない、といわれることである。災難のなかでも敵をあなどるほど大きなものはない。敵をあなどれば、私の(いう)宝をほとんど失うことになる。だから武器を高くかかげて相対するとき、哀しみのあるもののほうが勝利をおさめるのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 老子の時代の戦争と現代の戦争とは時代が違いすぎて比べることはできません。無人機を飛ばしてミサイルの発射ボタンを押すだけで、まるでゲーム感覚で攻撃が終わってしまいます。相手が苦しんでいても画面越しの出来事であって実感はありません。だれもが戦争の悲惨さを教科書で学んでいます。大人になると忘れてしまうのでしょうか。人間の最大の敵は人間であり、人間は恐ろしいという本能的な防衛心が働いてしまうのでしょうか。

 地球上では、平和の祭典もあれば戦争もあります。自分たちの信じることや守るべき国土というモノがあるかぎり、信条を否定されたり国土を侵略されると感じれば応戦することになります。

 哲学者・思想家・宗教家・・・が様々な言葉を組み合わせて力説しても、各個人の闘争心は各個人が消すものであって言葉で闘争心を消し去ることはできません。言葉で闘争心が消えるのならこの世に戦争などないのですが・・・・。言葉で思いの一部を伝え、言葉で他人の思いを受け取ることはある程度できます。言葉で、各自の行動変容を起こさせるほどの力はありません。

 ”苦しい”と書かれた文字を見て、本当に自身が苦しくなったら大変なことです。言語そのものが心身を変化させたら大変な世の中になります。だれも本を読むことができなくなり話すこともできなくなります。考えは考えであって実体の無いモノだということです。言語も形と音でしかないということなのですが・・・・。ただ情報伝達手段としての役割があります。

 

 頭の中での”おしゃべり”に振り回されないようにしなければなりません。”私”というのも”1”と同じ表象であって

、実体のあるものではありません。あるモノをその都度”1”と定義しているだけで、どこかに”1”があるわけではありません。”私”もあたかも実体があるように使っているだけで恒常不変の”私”がどこかに存在しているわけではありません。対象を理解しようとするときにこちら側に何らかの主体としての”私”があるはずだという習慣によって”私”を生み出しています。生み出された”私”は、問題があれば”なんとかできる”と忠告してきます。この忠告が”我”ということに気づかなければ、”我”によって迷い振り回されることになります。忠告に実体はなく単なる思い(=考え)でしかありません。実体のない”我”は自己の為に働いているフリをしますが、実は悩ませ続けている本体なのですが・・・。”苦”の本体であると見抜かれないように働き続けていますが、気づけるでしょうか。難行苦行をさせているのも”我”の思い(=考え)です。自己の内に自己を苦しめている”我(=なんとかしようという考えそのもの)”が働いています。”我”は自分を良くしようととしているのですから、悪者扱いはされていません。

 ”我”は自己の為にと一生懸命に”なんとかしよう”とやっています。”我”は常に自己を守ろうとしています。自己正当化によって防衛しているので、”我”を否定することは難しいことです。しかし、心身は”我”の思い通りにならないというのが真実です。”我”の思いは実現されないというのが無常ということではないでしょうか。

 無明:”我”の思い通りにしようとすることで”苦”となっていることを知らない。”なんとかしよう”という思い(=”我”)に振り回されていることを知らない。

 

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老子-68 [老子]

善爲士者不武。善戰者不怒。善勝敵者不與。善用人者爲之下。是謂不爭之徳、是謂用人之力、是謂配天。古之極。


官職に就いている役人にとっての善とは武人のようにすることではない。戦うことの善とは怒りにまかせることではない。良く敵に勝つというのは、敵を相手にしないことである。良く人を用いるということは、へりくだることである。これを争わない徳といい、人の力を用いるといい、天に配されるという。これらが古来からの至高の教えである。

 

<他の翻訳例>

すぐれた戦士は荒々しくはない。戦闘にすぐれたものは怒気をあらわさない。最もよく敵に勝つものは(敵を)相手にしない。人を最もよく使うものは、かれらに対しへりくだる。これが争わないことの「徳」といわれ、人びとの能力を使うことといわれ、天の至上さに匹敵するものといわれる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 専門は専門家に任せ素人が手を出してはいけない。激しいことは冷静さを欠くと失敗する。戦争に勝つには、戦況を分析して勝利しなければなりません。戦わずして勝利するのが一番ということは孫子の兵法にも出てきます。企業でも値下げ競争やボタン戦争(シャープとカシオの電卓)コーラ戦争(コカ・コーラとペプシ)HY戦争(ホンダとヤマハ)・・・。どちらも疲弊して混乱して企業体力が消耗するということでしょうか。ライバルはお互いを高めることもあるし、潰し合うこともあります。

 あえて人にへりくだって人材の能力を通りに使えるようにできるのは、相手の自尊心を尊重し喜んで働いてもらうということでしょうか。

 思想や考え方を支持してもらうには、読み手にアピールしなければなりません。ターゲットとなる読み手がどのような人なのかを念頭に書かれているはずです。読み手は識字のできるある程度教養のある人達であったことが想像できます。自らの考えが素晴らしく天をも味方にすると大袈裟に書いたということでしょうか。

 現代の生活と2千3百年前の生活はまったく異なっています。2千年後の世界は想像できません。2千年後の人のために何かを記述するというのは無理があります。環境はガラリと変わっても、人間の精神性や五感が変わってしまうことはないようです。学べることは学び、当時の人間の選んだ言葉に思いを馳せるのもいいかもしれません。

 

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老子-67 [老子]

天下皆謂我大似不肖。夫唯不肖、故似大。若肖、細久矣。我有三宝、持而保之。一曰慈、二曰儉、三曰不敢為天下先。慈故能勇、儉故能広、不敢為天下先、故能為成事長。
今捨慈且勇、捨儉且広、捨後且先、死矣。
夫慈矣戦則勝、以守則固。天將救之、以慈衞之。

 

世の中の人は、私のことを「偉大だが取るに足りない人間のように見える」と言う。私は偉大だからこそ取るに足りないように映る。もし私が物足りない人間であったら、弱々しい人間であっただろう。私には三つの宝がある。その宝を大切にして守っている。第一に「慈」、第二は「倹」、第三は自分が先頭に立つようなことをしない。慈け深いので勇敢になることができる。つつましいので共感をえることができる。先に立つことがないので、指導者としての地位に推される。もし、慈け深くなく単に勇敢であり、つつましくなく、先頭に立とうとすれば、戦場ですぐ死んでしまうだろう。戦いに勝つためにも、守りを固め、慈け深さが必要だ。天が私たちに味方するのは、慈によって守ってくれるからである。

 

<他の翻訳例>

 天下のだれもが私のことを、「道」は広大だが愚かにみえるという。大きいからこそ愚かにみえるのである。もし愚かにみえないとしたら、それはずっと以前に微細なものとなっていたであろう。私には三つの宝がある。それらを離さずに大切にしている。第一は慈愛、第二は倹約、第三は天下の(人びとの)先頭に立たないことである。慈愛があるから勇気を出すことができ、倹約するからいくらでも施しができ、天下の人の先に立たないからあらゆる官の長(かしら)となれるのである。ところが、慈愛をさしおいて武勇であろうとし、倹約をさしおいてひろく施そうとし、あとにつくことをやめて先に立とうとしても、死があるだけで。そもそも慈愛がある人は、それによって戦っては勝利を収め、守っては攻略されがたい。天が(その国を)救おうとすれば慈愛をもって保護する。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 勝手な想像ですが、戦国時代の武将といえば豪快で勇ましく人の先頭に立っていたのではないでしょうか。慈愛・倹約・先頭に立たないというのは弱々しくリーダーとしては頼りがいのない人物像かもしれません。慈愛に溢れ質素で謙虚なリーダーはセンセーショナルであり興味を惹かせるには十分なことです。

 勝てば官軍負ければ賊軍という図式は昔から変わっていません。正義が勝つのではなく、勝った方が正義となります。◯◯主義や〇〇党の勝利が僅差であっても、勝利した方は世間の総意だと主張します。天が味方するということは、天が善悪・正否・美醜・・・という二元を見極め正義を助けるということでしょうか。天が助けてくれたから天の加護の元に生きながらえて今に存在しているということでしょうか。我々の祖先が途絶えること無く確実に遺伝子を伝えたから存在しています。存在が正義であって、存在できないことが間違いということなのでしょうか。

 自らに益(=望みを叶えられた)をもたらしてくれる力が”天”という概念を構築しています。侵略者に味方する”天”は、先住している人にとっては”悪”でしかないのですが・・・。勝ったほうが正義なのですから仕方がありません。

 自身に都合の良いとおもわれるモノが”天”であり、都合の悪いのが”悪”ということです。コインの裏表と同じで、どちらかを”表(=天)”とすれば反対側は”裏(=悪)”となるのは必然のことです。どちらの言い分も正しいとすれば、天も悪もありません。単に結果に理由づけするために、何らかの力が働いたことにして”天”としているのでしょうか。信じている自分たちだけを救ってくれるというのは、あまりにも自分勝手な物語ということになるのですが・・・。天が対価を得て加護を与えるというのはあまりにも人間臭すぎます。人間と取引をするような天はたかが知れているかもしれません。

 ちっぽけな一個人に何らかの力が注がれるというのは想像力が豊かすぎます。アブラムシ・蜂・蟻・毛虫・百足・・・餌にありついたら天のご加護があったと祈り、吹き飛ばされたり踏みつけられたら悪態をつくのでしょうか。誰のおかげでもなく誰のせいでもありません。ただなるようになっているだけのことです。

 ”現実”とはこの身に起こっている事象だけなのですが、人は自身の困りごとを何でも解決してくれる何かを作り出してしまったようです。上手く行かない時は”何か”に責任転嫁してウサを晴らしていないでしょうか。とてつもない想像力で妄想して作り出した”何か”に振り回されているかもしれません。

 大雨が降ったり竜巻が起こったり巨大地震が起こったりハリケーンで大災害になったり・・・、一体誰が何をしでかしたからといって天がピンポイントで災害を起こすのでしょうか。温かく広大な大気を、誰がどうやって持ってくることができるのでしょうか。隣の人が涼しく自分だけ暑いということはありません。

 どこに天があってどんな天が特定の人をどのように選んで、どんな力でサポートするのか。その天の仕組みがサッパリ分かりません。どのタイミングで自分に力が与えられたのか分かればいいのですが・・・・。あらゆる自然現象は自然の道理によって自然に起こって自然に滅しています。自分に都合の良い”天”という概念を作り出しています。”天”が特定の誰かのために自然現象を作り出しているわけではなく、起こるべくして起こっているので自然現象ということです。人類の歴史を紐解くと、天の怒りを鎮めたり宗教的正当性のめに生贄・魔女狩り・月食・日食・天動説・・・という非科学的なことをしていました。

 昔から実体のない何らかの”力”を”天”という概念として、何かを成し遂げたら”天”が味方したとしていたということ。誰かが作り出した”力”を信じてもいいのですが、何でもかんでもその”力”に頼れば頼るほど裏切られた時の反動が大きくなるかもしれません。信じている対象がある限りはその実体と一体化できません。

 極端な例ですが、”天”を信じて20mの高さから飛び降りる人はいません。なぜなら結果が分かっているので信じる(=分からない)必要がないからです。”天”は分からないからこそ、信じ続けることができます。分かれば信じる対象とはなりません。何故信じるかということは、いつまでたっても分からないからです。

 

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老子-66 [老子]

江海所以能爲百谷王者、以其善下之、故能爲百谷王。是以欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。是以天下樂推而不厭。以其不爭、故天下莫能與之爭。

 

大河と海は多くの谷を従える王である。低いところにあるがゆえに多くの谷の王である。民衆の上に立とうとすれば、謙虚な言葉で語り、自身の身を後にする。聖人は民衆の上の立っても、人々の重荷にならなし害にはならない。天下の人々は彼を推挙して厭わない。それ故に世の中には彼と争う者がいない。

 

<他の翻訳例>

大江(揚子江)や海が幾百の川や谷の王である理由は、(この二つが)すぐれて下(ひく)い地位にあるからだ。だから、幾百の川や谷の王であることが可能である。それゆえに人民の上にある(統治者になろう)と望むならば、そのことばを下(ひく)くしなければならない。人民の先頭に立つ(指導者になろう)と望むならば、一身をかれらのあとにおかねければならない。それゆえに聖人は、人民の上にいながら人民はそれを重荷とせず、前に立ちながら人民は害があるとはしない。それゆえに天下(の人びと)は喜んでかれを支持して、いやがらない。かれは争うことをしない。だから、天下(の人びと)はだれひとりかれと争うことができないのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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「水の低きに就くが如し」(孟子)という言葉がありますが、自然の道理はどこでもいつでも誰にでも働いてとどまることがありません。

 水は最も低いところに流れ、最後には大海へと流れていきます。大言壮語する王は信頼されないということでしょうか。国王が老子の言うことを理解して実践していれば、平和な世界が構築されているはずなのですが・・・。誰もが自分が正しいと主張するということは、他人は間違いだということです。事象を二元対立として見る限りは対立はなくなりません。言葉(=音)は危険や獲物を獲得するためものだったのが、命令・指示するものに変わったのでしょうか。今では事象を理解したり、何らかの思いを追いかけるのに使われています。どんなに理解力があったとしても、他人の言葉を聞いて他人の味をそのまま味わえるわけはありません。”心地よい”・”痛くない”・・・・と唱えようが叶うわけはありません。もし、言葉が実現したら大変なことです。単に意識の高揚にやだつ一助でしかありません。言語は単なるコミュニケーションツールの一つでしかなかったのに、ただの音でしかないのに最も影響力があるかのように扱われています。言語では全ては伝えられないということを理解した上で、ギリギリのところでコミュニケーションをとっていくしかないようです。


 言語で何かを掴んだり得たりすることはありません。経験者が経験したことに近い言語を組み合わせて表現したことで、自身の体験と照らし合わせることしか方法はありません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー65 [老子]

古之善爲道者、非以明民、將以愚之。民之難治、以其智多。故以智治國、國之賊。不以智治國、國之福。知此兩者、亦稽式。常知稽式、是謂玄徳。玄徳深矣、遠矣。與物反矣。然後乃至大順。

 

現代語訳

昔から「道」によって善政をなす君主は、民衆に知識を与えるのではなく素朴に暮らせるように務める。民衆がバラバラになるのは知識が多くなることによる。知識で国を治めようとするのは、賊である。民衆が素朴に暮らせるようにすることは国の福となる。知識ではなく素朴に暮らせるということを理解することが正常な状態にすることである。正常な状態にすることを「玄徳」という。「玄徳」は深遠であり遠い。万物と共に戻るところである。大いなる道に従い無為自然へと至る。

 

<他の翻訳例>

 「道」を行うことにすぐれた昔の人は、(「道」によって)人民(の知恵)を輝かせたのではなかった。(それによって)人民を無知にしようとしたのである。人民を治めることがむずかしいのは、(かれらに)知恵が多すぎるからである。だから一国を治めるのに知恵をもってすることは、国の損失になるであろう。知恵によらずして国を治めることは、国にとって幸いであろう。この二つがやはり規範であると知る(べきだ)。つねに規範を知ること、それは神秘の「徳」とよばれる。神秘の「徳」は奥深くて遠くまでとどく。(しかも)物といっしょにかえってくる。そのときこそ完全な随順となるのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 知るために生きているのか?生きるために知るのでしょうか?赤子の時は知らなくても生きていました。知識によって無知であることがよく分かります。知履帯ということで混乱葛藤が増えていきます。一体どこまで知識を蓄えたら満足するのでしょうか。

 言葉となっている花の色(=記憶にある真紅)と実際に見ている花の色のどちらが真実・現実なのでしょうか?知識となっているモノをは事実を言語に変換しています。事実・現実は”今”感受している事象そのものです。知識は知識として良いのですが、現実・事実をおろそかにして知識に振り回されていては”今”に生きているとは言えないかもしれません。

 知識を振りかざして何も行動に起こさなければ口だけの人です。どんなに口うるさく言っても当事者が行動しなければ何も変わりません。「案ずるより産むが易し」という諺があります。あれこれ考えるよりも行動してみるほうが手っ取り早いというのは経験でわかっています。

 楽をしたい、それには簡単・便利を選びます。単に面倒くさい部分がブラックボックス(=例えば誰かが作ったソフト・配送システム・・)となっているだけで、仕事量は変わりません。配送する車を動かすエネルギーが必要となります。地球の裏側の美味しい果物を食べたいという願望を叶えるためにどれだけのエネルギーが使われているのでしょうか。人間の楽したいという願望の実現のために後戻りできないような気候変動がもたらされています。過度な願望に振り回されることなく平凡・純朴に生きたいものです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−64 [老子]

其安易持、其未兆易謀。其脆易泮、其微易散。爲之於未有、治之於未亂。合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土、千里之行、始於足下。爲者敗之、執者失之。是以聖人、無爲故無敗、無執故無失。民之從事、常於幾成而敗之。愼終如始、則無敗事。是以聖人、欲不欲、不貴難得之貨。學不學、復衆人之所過。以輔萬物之自然、而不敢爲。

 

現代語訳

変化のないときには静観し、変化の兆しがあるときには事を起こしやすい。問題がたやすいのであれば簡単に解決するとができ、些細な問題は消滅させることはたやすい。問題が表面に出てくる前に処理し、問題となって混乱する前に収拾するのがよい。幹が一抱えもある大木でも一筋の毛のような芽から育つ、九層からなる大きな建物もひと盛りの土から建てることができ、千里の道も一歩から始まる。意図的に何かを為そうとすれば失敗し、権力にこだわっていてはその権力を失うことになる。聖人は意図的にすることが無いので、失敗することもなく、権力を手中にすることがないので権力を失うこともない。

一般の人は、何かを成し遂げようとするときに失敗してしまう。完成となる時にこそ初心を忘れずに慎重になれば失敗することもない。聖人は欲しても得られることが出来ないことを欲し、得ることのできる財貨を貴ばず、学んでも得られないことを学び、一般人が過度に欲しているところから戻る。自然に従い意図的なことはしない。

 

<他の翻訳例>

 じっとしてるあいだはとらえやすい。まだ兆しが現れないうちは処理しやすい。もろいものは融けやすく、微小なものは消滅させやすい。まだ何でもないうちに処理し、混乱が大きくならないうちに秩序だてておくことだ。ひとかかえくらいの大木でも、毛すじほどの芽からはえるのだし、九重の高さの築山でも、ひと盛りの土から築きはじめられるし、千里の遠方への旅行も、足もとからふみ出されるのだ。何かしようとするものは害を与え、固執するものは失うであろう。それゆえに聖人は、何もしないから何ものをもそこなわず、何ものにも固執しないから何ひとつ失わない。人びとが仕事をする場合、いつでも完成に近づいたときにだめにしてしまう。「やりはじめと同じく、終わりぎわを慎重にせよ」。そうすれば仕事がだめになることはない。それゆえに、聖人は欲望を起こさないように望み、手に入れにくい品物をとうといものとはしない。学ばないように学び、大衆の通りすぎてしまったあとへみなをもどらせる。こうして万物がその本性に従うことを助けてやる。しかし、行動することを進んではしないのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 安定していたと思ったら、ちょっとした油断やほころびで崩壊してしまいます。頑丈そうな土手でも水は弱いところを削ってあっという間に崩壊してしまいます。「鎖の強さは一番弱いつなぎ目で決まる」とよく知られています。他の輪がどんなに丈夫であっても弱い部分が最初に切れるので弱い輪がその輪の強度となっています。

 宇宙ステーション・F1・高速列車・飛行機・・・ボルト1本がちぎれたり外れてしまえば全体に大きなダメージとなってしまいます。1本数十円のボルトが数百億円の価値と同等ということです。我々の体も1個のがん細胞やウィルスが増殖して死に至らしめることがあります。目に見えないウィスルも人体と同等であると言えます。農作物の病気もそうです。「バタフライ効果」というものがあります。些細なことであっても大きな出来事とつながっているというものです。

 「千里の道も一歩から」:小さな積み重ねによって大きなことがなされている。私達が今生きている”異常な気象現象”も些細なことの積み重ねによってもたらされているようです。

 学んで得られたことで幸せになるのならこの世に不幸はないのですが・・・。学ぶのは”我”ですが、学ぶ以前の”あるがまま”がどうなっているのでしょうか。二元対立はなく、見えたまま聞こえたままであり一切に斟酌しない。良いも悪いもないそのままということです。〇〇は綺麗で◯◯は汚いとか、◯◯は高価で〇〇は廉価というのは人間の勝手な分別で区別・差別しているだけのことです。

 死んでしまった人はどんなに神格化されたとしても真実の姿がどうだったのかは憶測でしかありません。仏陀であろうが達磨であろうが、何日も同じぼろ切れのような衣を着て何日も風呂に入らなかったらどうでしょうか。人間も動物ですから歯も磨かずに爪も切らなければどんな姿になっているか想像することは難しくありません。勝手に崇高にしているだけのことかもしれません。今に生きているのですから、今の素晴らしさを体験する他ありません。

 

 

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老子−63 [老子]

爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不爲大、故能成其大。夫輕諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難。

 

現代語訳
 無為によって為し、無事を事とし、無味を味わう。小さなことを大きく扱い、少ないものを多いものとして扱い、怨みには徳で報いる。難しいことを簡単なときに処理し、大きな問題でも小さなときに処理する。天下での大きな問題でも些細なことから始めれば、大きな問題でも小さなときに処理できる。だから「道」に従っている聖人はわざわざ大事を成そうとはしない、小さな事を積み重ねて大事を成す。安易に請け負っていては信頼は得られない。安易に請け負うと困難に直面する。聖人は些細な事でも難しい問題として対処し、こともなげにやってしまう。

 

<他の翻訳例>

 行動しないようにせよ。干渉しないことを事とせよ。味のないものを味わえ。小さいものを大きいとし、少ないものを多いとせよ。「怨みのあるものには徳行をもって報いよ」。むずかしいことに対しては、それがまだたやすいうちに処理し、大きなことに対しては、それがまだ小さいうちに処理せよ。天下の困難な仕事は、たやすいことのなかにそのはじめがあり、大きな仕事は、小さなことの中にはじめがある。それゆえに、聖人は決して(みずから)大となろいうとはしない。だから、大となることを成しとげる。

 およそ、軽々しく約束するものは信義をまもることがまれであり、物事をなんでも手軽に考えるものは必ず困難に出あうことが多い。それゆえに、聖人でさえ困難とすることはある。だから、どんな困難にも最後には打ち勝つのである。

「世界の名著 小川環樹訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 現代において聖人になろうとか天下を取ろうとか考えている人はどれくらいいるのでしょうか。政治家・経営者・アスリート・・・各人が活躍しているフィールドで最大限の能力を発揮して活躍することは素晴らしいことです。老子の生きていた時代での聖人とはどんな人なのかよく分かりませんし想像もつきません。

 老子の時代での大問題はどんなことであって、どのようなことが些細なことなのか知る由もありません。何かを成すということに焦点を当てれば、大成するとか名声を得ることが非常に重視されていたことかもしれません。

 VSOPと言われていたことを思い出します。20代はV(Vitality)、30代はS(Speciality)、40代はO(Originarity)、50代はP(Personality)だということです。若いときは元気で活発に働き、次に専門性を身につけ、独創性によって開拓し誰も真似できない個性を身につける。

 よく個性と癖とを履き違える人がいます。個性は伸ばせがいいのですが、癖はとらなければなりません。独創性も時代に合わなければ意味がありません。

 聖人になるために生きるより、平凡に生きることで満足している人に思想を押し売りすることはできません。その時代が欲しているものを提供することが名声を得ることには必要なことのようです。

 

 

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老子ー62 [老子]

道者萬物之奧。善人之寳、不善人之所保。美言可以市尊、美行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有拱璧以先駟馬、不如坐進此道。古之所以貴此道者何。不曰求以得、有罪以免耶。故爲天下貴。

 

現代語訳
「道」はあらゆるものを生み出す万物の根源である。善人の宝であり、善人でなくても「道」の中で育まれている。綺麗事の言葉で尊ばれている人もいるし、綺麗事の行動によって人の上に立つ者もいる。善行を行わないといって、その人を見捨てる事はできない。天子の即位や三公が任命される時に、豪華な宝物を四頭の馬車に載せて献上するけれど、そんな事をするよりも座ったままで「道」のままにいたほうがいい。昔の人々がこの「道」を貴んだ理由は何であろうか? 「道」によって求めるものが得られ、「道」によって過ちが許される。だからこそ「道」はこの世で最もとうといものとなっている。

 

<他の翻訳例>

「道」はあらゆる生物の隠れ家である。それは善である人が宝とするもの、不善である人が護(まも)られるものである。うるわしいことばは、それをさし出せば報酬を得るであろうし、おもおもしい行いは、(その人を)他人より高めるであろう。善ではない人でさえ、どうして見すててよいであろうか。だから天子が立てられ、三公が任命されるときに、円盤形の玉を四頭の馬の先にして献げるよりも、じっとすわって「道」を贈るほうがよい。昔の(人が)この「道」をとうとうんだ理由は何であったっか。「それによって、人が求めるものを得るし、あやまちがあったときも(その報いを)免れる」といわれるからではないか。それゆえに、天下において最もとうといものとされるのである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 「道」は万物の根源であれば、根源から生み出されたモノに優劣も貴賤も美醜というものに分ける意味はあるでしょうか。宇宙開闢時に遡れば一切は一様でありたった一点に集約されるかもしれません。また、あらゆるモノを分解すれば素粒子であり比較のしようがありません。極大化して一つの宇宙とするなら一つの中に何が含まれようが一なるものです。薔薇の花は根・茎・花弁・葉脈・・・あらゆる部分が結合されて一つの薔薇とされます。根の一本は薔薇でないといってどんどん取り去ってしまえば薔薇は薔薇として花を咲かせることはできません。土と砂利からなる道から、道の一部である土をひとつまみ取り去り砂利をひとつまみ取り去っていくとどうなるでしょうか。そこに道はなくなってしまいます。部分は部分ではなく、全体そのものかもしれません。

 惑星や彗星や衛星・・・の一つ一つは宇宙ではない。宇宙でない惑星や彗星や衛星を一つ一つ消し去ってしまったら宇宙といえるのでしょうか。ちっぽけな砂粒ひと粒でも宇宙そのものだと言えないでしょうか。我々一人ひとりとしてみれば一人なのですが、だれ一人をとっても宇宙そのものかもしれません。もっと極端に細胞・ウィルスさえも宇宙そのものということです。

 高度100kmが宇宙なのでしょうか、それとも眼前の空間も宇宙そのものなのでしょうか。宇宙と眼前の空間に隔絶した何らかの隔壁があるのでしょうかサッパリ分かりません。宇宙を吸って宇宙を吐き出して宇宙そのものとして生きている。宇宙として宇宙の中で宇宙そのものとして生きていないとしたら、宇宙と隔絶した何者として生きているのでしょうか。

 人は善悪とかに分別しているのですが、分別以前に住すれば一切が異なることのない全くの一ということなのですが・・・・。

 

 

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老子−61 [老子]

大國者下流。天下之交、天下之牝。牝常以靜勝牡。以靜爲下。故大國以下小國、則取小國、小國以下大國、則取大國。故或下以取、或下而取。大國不過欲兼畜人、小國不過欲入事人。夫兩者、各得其所欲、大者宜爲下。

 

現代語訳
大国は大河の下流に位置するようなものである。天下のあらゆるモノが流れて交わるところであって、あらゆるモノを生み出す牝のようである。牝は常に静かで受け身でありながら牡よりも勝っている。それは静かで受け身であるからなせることだ。この様に大国が小国より下手にでれば小国は服従し、小国が大国に下手に出れば大国のように振る舞える。このように人は下手になることで信頼を得る、ある人は下手になることで同等となる。大国は小国の人々を養い、小国は大国に従って仕えようとする。大国も小国もお互いに欲するような状態になりたければ、大国が下手に出るべきである。

 

<他の翻訳例>

 大きな国は(川)の下流であって、天下の(すべての流れが)交わるところである。天下の牝(母)である。牝はいつでも静かであることで牡に勝つ。静かにしていることで(牝は)下位にある。ゆえに、大きな国が下位にあるならば、小さな国を併合する。小さな国が下位にあるならば、大きな国に併合される。ゆえに、あるものは下位にあることによって併合されるのだ。大きな国が望むのは、あらゆる人をみな養おうということだけであり、小さな国が望むのは他国に従属し奉仕すること、それだけである。もし両者いずれもが望むとおりにしたいのだとすれば、大きなほうが下位にあることがふさわしい。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

 

 

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老子ー60 [老子]

治大國、若烹小鮮。以道莅天下、其鬼不神。非其鬼不神、其神不傷人。非其神不傷人、聖人亦不傷人。夫兩不相傷。故徳交歸焉。

 

現代語訳
大国を統治するには、小魚を煮る料理の様にすることが必要である。「道」によって国を統治するならば、鬼神が邪魔をすることはない。鬼神が邪魔をしないだけでなく、人民に害を及ぼすこともない。人民に害を及ぼすことがないだけでなく、「道」に従っている聖人も人民に害を及ぼさない。鬼神も聖人も害を及ぼすことが無いので、その徳が人民に帰すのである。

 

<他の翻訳例>

 大きな国を治めることは、小さな魚を煮るのに似ている。「道」に従って天下に君臨すれば、精霊たちはその威力をふるわない。(いや、精霊たちが威力をふるわないというよりは、かれらは威力をもちつつ、人民を傷つけない(というべきだ)。かれらが威力をもって人民を傷つけないばかりでなく、聖人もまた人民を傷つけない。どちらも傷つけることがないのだから、たがいにその徳を相手に帰するのである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 領土が広く統治する人が多ければ多いほど、様々な手を尽くしたくなります。骨も小さく食べるところも少ない小魚をかき混ぜてしまうと小魚の姿形は無くなってしまいます。細かな法でアレコレせずに自然に任せたほうがいいというのが「道」での統治したほうがいいということでしょうか。

 鬼というのは人民の反発心ということでしょうか。法で細かく縛れば抜け道を探すようになります。闇の取引や闇での悪事が増えるとでもいうことでしょうか。

 統治者は「道」に従って統治するのがいいですよ。「道」とは無為自然に任せるのですから何かを意図的にするものではなさそうです。なるようになっているのが現実です。人が意図的になにかすれば、何かという着地点が出来上がります。着地点と現実の差が悩みとなります。なるようになっていることに任せきる。あるがままと現実にギャップがなくなれば一体となります。見えているモノとすでに一体となっているのですが、見たいものを持ち込み見たいモノが正しいとして現実を見たいモノへと向かわせると問題が起こってきます。聞きたいモノを持ち込み、聞きたいモノが正しいとして現実を無理矢理に変えてしまおうとすると問題となります。こうあってほしい、こうあるべきだというのが第一になると、現実が間違っていることになり分離してしまいます。

 過ぎ去って存在しない過去は修正することはできません。未だどうなるかもわからない未来をどうにすることもできない。現実は現実でしかないのに、過去や未来を持ち込んで何とかしようとして悩むことは現実を味わうことができていません。見えているモノは一体であり自分自身そのものです。聞こえている音は一体であり自分自身そのものです。分離していると感じて生きているだけかもしれません。聞いている自分を作り出してしまっています。見ている自分を作り出してしまっています。ここに気づいてみるのもいいかもしれません。見えているだけがあり、聞こえているだけがあり、味わっているだけがあり、触れている感覚だけがあり・・・・。

 

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老子−59 [老子]

治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以早服。早服、謂之重積徳。重積徳、則無不克。無不克、則莫知其極。莫知其極、可以有國。有國之母、可以長久。是謂深根固柢、長生久視之道。

 

現代語訳
国の人々を治め、天に従って行こうとするなら無駄な出費をしないことに勝ることはない。無駄な出費をしなければ、早く「道」に従う事ができる。早く「道」に従うことで徳を積むことができる。徳が積み重なることで、物事を成し遂げることができる。物事を成し遂げることができれば、その成果に限界はない。成果に限界が無ければ国家は安定する。国が安定する母となり、無駄な出費を抑えることで国は長く栄えるであろう。このことは木が深く根を張り、末永く継続する道であると言う。

 

<他の翻訳例>

 人民を治めるにも天に仕えるにも、(君主にとって)最もよいのはものおしみすることである。ものおしみであることによってこそ、(君主は)はじめから道理に従うものとよばれる。はじめから道理に従うことで、(かれは)「徳」を積み重ねたよばれる。「徳」を積み重ねれば、何ひとつ打ち勝てないものはない。打ち勝てないものがなければ、何人にもかれの(力の)極限は知られない。極限が知られないとき、(かれは)国家を保有することができるであろう。(かれが)国家の「母」を保有したとき、永続できるであろう。このことが、根を深くし幹を固くして、いつまでも生きながらえる道とよばれるものである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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国(=ある範囲の土地につけられた単なる名前)は土地が海底に沈まない限り無くなりはしません。永遠に生きる君主もいなければ永遠に生きる人民もいません。全てが生滅して入れ替わります。ほんの歴史の一瞬の間の出来事です。現代社会では制度や人々の考え方も様々です。天・徳・道がそのまま通用するかどうかも怪しい。

 歴史から学べと言われますが、社会制度を学んでも役には立たないかも知れません。社会制度よりも、個々の人間としての本来の有り様を確かめることに注力を注ぎたいものです。

 

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老子ー58 [老子]

其政悶悶、其民醇醇。其政察察、其民缺缺。禍兮福之所倚、福兮禍之所伏。孰知其極。其無正。正復爲奇、善復爲訞。人之迷、其日固久。是以聖人、方而不割、廉而不劌、直而不肆、光而不耀。

 

現代語訳
統治が緩やかであれば人々は素朴な生活を送ることができる。細かな決めごとで統治すれば、人々は自由が制限されて活力を失う。災いの裏には福のがあり、福の裏には災いがある。事象は裏腹であるこを誰が知っていようか。絶対的に正しいということはない。正しいとされていたことがおかしことになり、善い事であったことは人を惑わす事に変化する。人が迷うのはいつの世でも同じだ。この迷いに対して聖人は、あれこれと分析せずに、距離をおいて清廉であり他人を非難することはなく、自らの道理を押し通すこともなく、自らを目立たせようとはしない。

 

<他の翻訳例>

 政治がほんやりしているとき、その人民は純朴で重厚である。政治が目を光らせているとき、その人民は不満で(争いを起こすので)ある。「不運なとき、そこには幸運がよりそっており、幸運なとき、そこには不運がひそんでいる」。この(循環の)終わりをだれも知らない。正しさということは存在しないのであろうか、正しいものが、やがて邪悪にかわり、吉兆であったものが、やがて不吉にかわる。まったく人が困惑するようになってから久しくなった。それゆえに、聖人は方であるが、それで(物を)切り裂くことはなく、廉(かど)があるが、人を傷つけることはない。まっすぐにのびても、ものに突きあたることはなく、(心の中に”)光があるが、(人の目を奪う)きらめきはないのである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 人民をがんじがらめに統治しようとすれば、抜け道を見つけ出して姑息なことをするようになる。「災いは忘れた頃にやってくる」と言われますが、あらゆる事象は変化して止みません。次の瞬間に何が起こっても不思議ではありません。何事もない日常などあるわけがないのですが・・・・。

 災として対処するのか、想定外であっても起こることが今起こっているとして現実に対処するほかありません。心肺停止を死とするなら、生まれた瞬間に死は必然の出来事であり驚くようなことではないかもしれません。生まれた生命体で死ぬことがなかったら大変なことです。

 国・文化・風習・言語・時代・・・各人が絶対的な正としていても、それは各人の正であって必ずしも他人の正とは言い切れません。アニメ・演劇・映画・思想・信仰・・・正として表現するには悪である対立するものを必要とします。悪とされたものが悪を認めずに自らを正当化すれば、正と主張している人はアクトなります。戦争はどちらも正当性を主張しますが、勝ったほうが官軍となり負けたほうが賊軍とされるまでのことです。

 聖人は事象に対し「どうして」とか「なんとかして」という自身の思い描いたことを主張することはないということでしょうか。何故私だけとか何とか思い通りにしようとか、自然に起こっていることを制御することは無理なことと分かっているのでしょうか。聖人が目立たなければ、誰が聖人かも分からないのが聖人ということでしょうか。聖人と愚人という区分けそのものがあるんかどうなのか、よく分かりません。

 

 

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老子-57 [老子]

以正治國、以奇用兵、以無事取天下。吾何以知其然哉。以此。夫天下多忌諱、而民彌貧。民多利器、國家滋昬。民多智慧、邪事滋起。法令滋彰、盗賊多有。故聖人云、我無爲而民自化。我好靜而民自正。我無事而民自富。我無欲而民自樸。

 

現代語訳
国を治めるには正しく行い、兵を統率するには驚くようなことをする、何事もなく天下を統治することができる。私が何故そう思うのかと言うと、次の通りである。天下に決まり事を多くすると、自由が奪われて民衆は貧しくなる。民衆が生活を豊かにしようと、悪知恵を使うようになる。その悪事を取り締まるためにさらに決まりごとを増やすことになる。

 聖人は次のように言う、私は余計な計らいをせずに無為によって統治すると、民衆が自ら変化する。私が静かにしていると、民衆は自らを正していく。私が何もしなければ民衆は富んでいく。私が無欲であるからこそ、民衆も素朴な生活を楽しめるようになる。

 

 

<他の翻訳例>

 国家を統治するには、正直にする。戦いを行うには、人をだます。しかし、天下を勝ち取るのは、手出しをしないことによってである。どうしてそうだと知るかといえば、これ(内部の力)によってである。天下に禁忌(きんき)が多くなればなるほど、人民はいよいよ貧しくなる。人民が鋭い武器を多くもてばもつほど、国家はますます暗黒になる。こざかしい技術者が多ければ多いほど、見なれない品物がますますできてくる。法令が厳格になればなるほど、盗賊が多くなる。だから聖人はいう、「わたしは行動しない、それゆえに人民はおのずから教化され、私が静寂を愛すれば、人民はおのずから正しく、私が手出ししなければ、人民はおのずから富み栄え、私が欲望をなくしていれば、人民はおのずから『削られていない樸』のよう(に簡素)であろう」

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 正しいということはお互いの共通の基準・定義・観念・主義主張等が一致していて、その基準・定義・観念・主義主張等にそった答えであるということでしょうか。例えば1+1=2というのは10進法での正解であり、2進法では10です。8進法・12進法・16進法・・・好き勝手に定義できます。時計の12進で16時は4時というのが正解であり子供の頃に悩まされたことと思います。ある国の◯◯主義はある国の◯◯主義を敵対するものとしています。お互いの国の首長は自らの国が正しいと主張して譲りません。一体どちらが正しいのでしょうか。マイノリティー・トランスジェンダー(=LGBTQ)男・女・子供・青年・壮年・老年・政治家・経営者・労働者・主婦・医師・患者・外国人・・・それぞれの立場でそれぞれが正しい。日本人は変だとか、あのドライバーの運転は間違っているとか・・・。ある法律・条例(=子供のシートベルト・バイクのヘルメット・公的施設での禁煙・・・)の成立によって、法律違反・条例違反となってしまいます。法律施行以前は気にせずにタバコを吸うことが出来たのに、施行後は罰金をとられ悪いことと見なされます。

ある土地に昔から住んでいた人(=例:先住民)が、国の法律によって退去させられたらどうでしょうか。ある日、裁判所の紙切れ1枚を提示されて住んでいた家から出ていってくれと言われたらどうでしょうか。法的に決められたことは多数が正しいということでしかありません。

 環境汚染で騒ぎ出すということは、自らに降り掛かってこなければ何も対処する意思はなかったという証拠でしょうか。

 ある時点以前は咎められないのに、ある時点以後は「悪いこと」になります。正しさは人間によって作り出されるということです。心の内で何を思っても良いのですが、言葉にしたり文字にしてしまったら要職を追われたり謝罪しなければなりません。心と裏腹な(=嘘)ことを言っても誰にも分かりません。嘘(=オベッカ)と分かっても褒められたりおだてられたりして喜ぶ人もいます。励ますつもりで背中を押しても、悪意にとられれば暴力として訴えられる始末です。自らが正しいとして行動しても、受け取る人が勘違いすれば悪行とされます。善悪は受け取る人の判断にかかっているようです。受け取った人がどう解釈するかによって正義が決定されるのでしょうか。

<我無爲而民自化>

 変化しないモノなど一つとしてありません。(諸行無常)立憲政府が民衆から集めた税金の使い方によって、社会システムを変化させることは可能です。何もしないで多くの民衆が教化されて変化するというのは、寺院にある物言わない仏像や神像にお願いごとをして自らの健康や繁栄を願うことくらいでしょうか。感銘するとか影響をうけるとか、殆どは自身の抱いている勝手なイメージに感化されているだけ。誰もが同じ物質でできているのに、特定の誰かが莫大なエネルギーで人々を感化するようなことが起こったら大変なことです。どっちに転ぶか分からないのに良い方に変化すると思い込んでいるというのがどうかしているかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子-56 [老子]

知者不言、言者不知。塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。

 

 感得したすべてを言葉で表現することはできない、言葉で伝えることができると思っている者は分かっていない。人間の入力器官を塞いで、知識での理解を辞める。感覚をすぐに言語化することから離れると、自身の思考(=混乱)は鎮まり塵は除かれる。これが同一と言われる。この同一となっている人は対立がないので親しくすることも疎遠になることもない。利益を得ることもなく、損害を被ることもない。敬い尊ぶ必要もなければ、卑しみ侮ることもない。この世界で最も貴くなる。

 

<他の翻訳例>

 知っているものは、しゃべらない。しゃべるものは、知ってはいない。穴(目や耳などの感覚器官)をふさぎ、門(理知のはたらき)を閉ざす。

(こうして)すべての鋭さはにぶらされ、すべてのもつれは解きほぐされ、すべての激しいようすはなだめられ、すべての塵は(はらい除かれて)なめらかになる。これが神秘な「同一」とよばれる。したがって(人は)それと親しくすることはできず、それを遠ざけることもできない。それに利益を与えてやることはできず、害を加えることもできない。とうとい地位に高めることはできず、低い地位におとしめることもできない。それゆえに、天下で最もとうといものなのである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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  ”拈華微笑”のように、花を見れば見えたそのままです。お互いに見えたとおりであれば言葉で確認することも言葉で表現する必要もありません。五蘊(=色・受・想・行・識)での色(=対象)・受(=感受)の段階では、意が介入されておらず感受されたままです。この段階での知(=直知・仏知)のままを知者というのなら一人残らず知者ということになります。次の想・行・識によって各個体が二元対立を持ち出して分別してしまいます。この二元対立の世界(=迷いの世界)での知(=記憶知・学習知)によって、良ければ執着し悪ければ忌避することに終始します。自ら迷い(=二元対立)の世界の中で解決しようとしますが、一時的な解決であり根本の解決にはなりません。事象が生滅しているだけなのですが、事象を自身の理想と合致させたい。その理想のために”何とかしたい”と考えることが問題となります。何でもかんでも意が働いて理想と一致するように思案します。考えることは必要ですが、”我”を通そうとして自身も周りも巻き込んで大変なことにしてしまいます。

 この過大な要求(=思い通り)に振り回され続けることになります。迷いの世界(=輪廻・二元対立)から抜け出すことができずに一生を送ることになります。常に思考する癖に苛まれ続けることになっているのではないでしょうか。

 思考で解決できるはずだという思い込みから抜け出せないままに時間だけが過ぎていきます。現実が思考のとおりに成ったら大変なことです。主義主張を押し通すことで戦争になることもあります。

 思考によって老いたくないとか病気になりたくないとか死にたくないと思うことが現実になったら世界はどうなるでしょうか。老いて病気になって死ぬことは極めて自然なことです。自然(=法則)を受け入れずにエントロピーを止めることは不可能なのですが・・・・。”我”は法則も打ち負かそうと不当な要求をしているのではないでしょうか。苦しみから逃れ続けていると、何度も苦しみ受けることになります。これくらいの苦はウェルカムとできれば、苦とならないかも知れません。他人が悩みだとしていることが気にかからなければ悩みではありません。

 幾つもの持病がありますが気にしていないので悩むことはありません。

 

 思考から一度離れ、花を観て幸せな気持ちを味わってみる。紫外線まで見える蝶として花の中を飛び回れるのならどれだけ幸せなのか・・・。人間は最も高等だと言われていますが分別によって悩み続けているのなら、もったいないことかもしれません。

 

「知者不言、言者不知」

 分別以前の知(=仏知・直知)は言葉に変換される前なので、見えたまま聞こえたまま味わったままであり感受したままを味わえます。言葉を発する段階の知(=記憶知・学習知)であって、分別以前の知(=仏知・直知)を経過した後です。言うものは既に分別以前の知(=仏知・直知)からかけ離れた二元対立の分別で決めつけてしまっているのでしょうか。

 分別以前の状態であるには、何もせずに只坐っているのがいいようです。また、散歩するのもいいかもしれません。内側の探求には、感覚器官を閉ざしてみなさいということでしょうか。何かを手に入れることや知識をためこむことで平安でいられるのなら内側に向かう必要などありません。誰一人として外の世界で「それ」を見つけた人はいないようです。地中にある”金”・”石油”・”レアメタル”・”ダイヤ”が「それ」であり、平安をもたらしてくれるのでしょうか。金目のモノを身に着けて埋葬されることで満たされていたのでしょうか。家臣を共連れにしてあの世に行くということは”不安”がつきまとっていたからでしょうか。権力や金銀財宝はいくらあっても安心でいられないので、いくらでも欲しがっていたということの証です。満たされないがために多くの人を巻き込んで戦い、略奪を繰り返していたのでしょうか。

 命を賭けて危険な状況を経験したり、鍛え上げられたアスリートが繰り広げるスポーツを観戦しているときには何らかのホルモンが分泌されているのでしょうか。事象は、自身の中にあって身体的に反応しているということです。宇宙の果に行って「それ」に出会ったとしても、反応が起こっているのは自身の身体的なことです。

 映像・文字・写真・・・小説・経典・・等々は間接的であって、”たった今”のダイレクトなものではありません。今まさに目の前にあって、風に揺れている色鮮やかな花々、湯気を見て香りを嗅いで舌で味わう飲み物、潮風を肌で感じて浜辺の音を聞いて見える地平線・・・・。リアルでダイレクトな躍動を全身全霊で味わうことで生きている感覚が呼び覚まされます。外も内もない一体となった感覚。そこには知による二元対立はありません。味わっている感覚だけがあり、対象が無ければ二元対立を持ち出す必要もなく「一」すらない斉同ということでしょうか。利害もなく貴賤もありません。比べるものがないので貴いということを言いたいのでしょうか。

 

 我々は、言葉を使った観念の世界(二元対立の世界)で瞬時に分別する癖があり、この癖を直さない限り苦悶することになっているのでしょうか。本来は、事事無礙法界(=すべての物事は完全に調和して解け合っている)であり問題はないのですが・・・。”我”があるがままの世界を”何とかしたい”と頑張っていることが問題を作り続けているのですが・・・。考えても頭痛は治りません。頭痛薬を飲めばいいだけのことです。考えても癌は消えません、現代医学で適切な処置をすればいいだけのことです。悩んで良くなれば悩み続ければいいだけですが、良くならないので悩みが続くということのようです。悩んでいるということは良くならずにいる状態だということです。

 白隠は「正念工夫」を推奨しています。「正念工夫」は、雑念が生じる前の状態のようです。雑念を相手にするのは正しい状態ではないということです。”あるがままの現実”を”我”の思いに委ねずに、”現実・事実そのままに”受け取ってみるのもいいかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−55 [老子]

含徳之厚、比於赤子。蜂蠆虺蛇不螫、猛獸不據、攫鳥不搏。骨弱筋柔而握固。未知牝牡之合而全作、精之至也。終日號而不嗄、和之至也。知和曰常、知常曰明。益生曰祥、心使氣曰強。物壯則老。謂之不道。不道早已。

 

徳を持っている人は、赤子(無邪気)に例えられる。蜂や毒蛇が刺したり噛みつくこともない。猛獣や猛禽類も襲ったりはしない。骨は弱く筋肉は柔らかいが拳を握る握力は強い。男女の交わりは知らないが、身体は立派で精力は絶大だ。一日中泣き叫んでも声がかれないのは、「気」が乱れずに最高の状態であるからだ。この調和を知ることを常の道という。常の道を知ることを「明」という。常の道の中で生活していくことを「祥」といい、心がうまく「気」を使うことを「強」という。物事が盛んになると衰退するのも早い。「気」を使わずにすることを「不道」という。「不道」では終りが早い。

 

<他の翻訳例>

 「徳」を豊かにもつ人は、(生まれたばかりの)赤子に比べられる。蜂やまむしも食いつくことはなく、猛獣もつかみかかることはなく、猛禽もとびつくことはない。骨は弱く筋肉は柔らかだが、しっかり握りしめる。男女の交合をまだ知らないのに、(体は)完全につくられている。精(生命力)が最高だからである。一日じゅう泣き叫んでも声はかれない。和(の気)が最高だからである。この和(の気)を知ることが「永久であるもの」(との一致)とよばれ、「永久であるもの」を知ることが「明察」とよばれる。生命に何かをつけ加えようとすることは「不吉」とよばれる。心が息を激しくつかうのを「強」(粗暴)とよぶ。活気にあふれたもの(生物)には、その衰えのときがある。これ(粗暴)が「道」に反することとよばれる。「道」に反することは、すぐに終わってしまう。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 地球上の生命体(=動植物)の根源を遡ればたった一つの細胞に行き着くことは明白なことかもしれません。統制者など存在せず、ただ原理と法則の中で生命体が生き続けているという事実があります。多様な環境に多様な生命体が息づいています。

 生命体は環境に従い生滅を繰り返すことで次から次へ命が繋がっています。生命体は環境の変化に従って生きてきたようです。生命体が環境に対し多大な影響を及ぼすなどありえませんでした。しかし、地球のバランスを崩してしまうほどに人間の活動が大きくなっています。際限のない欲望のままに振る舞ってしまったことで、取り返しのつかない影響を与えてしまったのでしょうか。既に手遅れの状況かもしれません。今から100年後は、ほぼすべての人が入れ替わってしまいます。

 我々は、偶然に人間としての生を受けて存在しています。多くの先人が様々な問いかけをしてきたと思われます。誰もが”本来の自己”と問いかけ、納得したいのではないでしょうか。先人の残してくれた言葉にヒントがありますが、”本来の自己”を感得できるのは自分自身だけです。他人のメッセージだけで感得することなどできません。

 

 徳のある人は臭みがとれているので、人間の臭みがつく前の赤子のようだということでしょうか。蚊は足の匂いを嗅ぎ分けて近づいてくるようです。他の動物も人間の匂いを嗅ぎ分けることができるかもしれません。赤子は大人と同じ食事ができるよになれば人間として臭みが増し、次第に人間として匂いを発するようになるかもしれません。精神面でも”我”が自動的に作られます。”我”の活動によって人間としての分別が徐々に出来上がり”貪・瞋・痴”という働きに振り回されるようです。

 

 赤子はまだ歩き回れず、獲物として襲われることもないかもしれません。それにしても例えが大袈裟すぎるのは歪めません。言葉はありえないことでも平気で表現できるものです。鵜呑みにしないほうがいいかもしれません。

 違う見方では、人間としての策略によって地位・権力の中で生きていないということでしょうか。誹謗中傷されたり、敵対する人に命を狙われるということがないかもしれません。

 徳を持って生まれてくるとか、選ばれた人(=選民思想)というのは”我”が喜ぶようなことであり映画の題材としては最適です。ただの生命活動の結果として生まれてきたものに貴賤や善悪があったら大変なことです。単に多様な顕れがあるというのが当然なことです。”徳”は人間の作り出して概念です。人懐っこい動物もいれば、獰猛な動物もいます。自然は多様生に満ち溢れています。徳を持って生まれてくる人などありえません。引き継がれる魂という概念があれば可能ですが・・。魂という概念は強い思い込みであって、この魂という概念によって”徳”がある人とという妄想か可能なのかもしれません。

 誰もがマッサラ(=一切衆生悉有仏性で生まれてきているのですが、分別する相対(=善悪・美醜・・・)の中で迷って(=混乱)いるというのが現実です。生まれた瞬間に”死”が宣告されます。”死”ということだけにフォーカスすると、”死”から逃れることができないので”死”に打ち勝つ勝者はいません。全ての生命体は生まれた瞬間に”消滅”が確約されています。過去も存在していないし、未来に出会うこともできません。”たった今”と出会い続けているだけです。”たった今”を変えることもできないので、只々”今”にあるしかありません。

 人生に良い生とか悪い生とかもなく、ただただ個々の生命体が個別に経験する生という他ありません。他の生命体の経験をすることができないのに比較することに意味はありません。良いとか悪いとかはただの想像であって、経験できないことを想像するだけであって想像の中の出来事に振り回されるだけです。”我”は完璧な自分というイメージを持っていて、現状が完璧な自分でないといけないと思いこんでいるかもしれません。ちょっとしてことでも、困っていない自分と比較して困っていない自分に成ろうとするように働きます。この働きが”自我”であって混乱の元凶です。困ったら困った自分が本当の自分なのですから、困った自分のままを許してしまえばいいだけのことなのですが・・・。”どうしよう”と言っているのが”自我”だということに気づかなければなりません。”どうしよう”と言っているのは放っておいて、やるべきことをやれば”どうしよう”は消えていきます。

 古典から”どうしよう”のヒントを得るのではなく、”どうしよう”に巻き込まれないようにしたいものです。考えてばかりいないで”行動”することで”どうしよう”の声が小さくなっていく経験を積むことが必要かも知れません。

 

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老子−54 [老子]

善建者不抜、善抱者不脱。子孫以祭祀不輟。修之於身、其徳乃眞。修之於家、其徳乃餘。修之於郷、其徳乃長。修之於邦、其徳乃豐。修之於天下、其徳乃普。故以身觀身、以家觀家、以郷觀郷、以邦觀邦、以天下觀天下。吾何以知天下然哉。以此。

 

 善く建てた者からは抜くことはできず、善く抱え込んでいる者から剥ぎ取ることはできない。子孫は栄え祭祀は絶えることがない。「道」をこの身に修すれば、その徳は真となる。家で修すれば、その徳は余りあるほどである。地域一体で修すれば、その徳は永く続く。国で修すれば、その徳によって豊かになる。天下で修すれば、その徳は天下に遍く行き渡る。

 人の身に徳があるかを観て、家に徳があるかを観て、地域に徳があるかを観て、国に徳があるかを観て、天下に徳があるかを観る。私は天下の行く末を知るのは「道」を修して徳があるかによる。以上のようなことである。

 

<他の翻訳例>

しっかり打ち込まれているものは引き抜かれることはなく、固く抱えられているものはすべり落ちることはない。(このようにすれば)子孫代々(祖先を)祭ることは、とだえないであろう。(そのやり方で)ひとりの身において(完全に)修めれば、(「道」の)徳(めぐみ、その効果)はまちがいなくあらわれ、一家族において修めれば、その徳はあり余るほどであり、一つの村において修めれば、その徳は永続するし、一国において修めれば、その徳は大きくさかんであり、天下において修めれば、その徳はひろくゆくわたるであろう。それゆえに、あるひとりの身については、その人の身(の修め方)によって(どこまでも)見てとれるし、ある一家については、その家族(の修め方)によって見てとれ、一つの村については、その村(における修め方)によって見てとれ、一つの国については、その国(における修め方)によって見てとれるのである。私は何によって天下がそのようであると知るか。このこと(以上のこと)によってである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 文字での真意はそのまま伝わることはありません。”川”と書かれても幅や流れの速さ水量・・・各人の勝手なイメージに依存します。つまり千差万別の解釈が出来るということです。翻訳する側も読む人もただの読み物として愉しめればいいかもしれません。

 男性が家を建て、女性が家計を守ってきたのでしょうか。女性が家の中を取り仕切っていれば子孫は繁栄すると言いたいのでしょうか。

 個人・家・地域・国・世界全体と拡大して観ると、「道」に従っていれば安泰ということになるとのことです。理想という言葉は”現在では実現していないこと”という意味かもしれません。現実ではないので、「道」の理想について語ることができます。各人の思いが実現すれば大変なことになります。”ああしたい・こうすべき”という思いは言葉や文字で表現できますが、思いの通りに行くわけがありません。チッポケな個人の思い描いた世界がどうして実現できるのでしょうか。環境に影響を与える存在なのか、環境から影響を受ける存在なのかちょっと周りを見渡せば分かることです。

文字での表現は大袈裟に感じるのはいたしかたないのでしょうか。文字で表現されたことをイメージしてしまうのが人間です。見たことも触れたこともなく体験したこともない概念なのに勝手にイメージできます。”心・魂・死・神・・・”、ただの虚言なのか真実なのかは実際に体験するほかないということでしょうか。

 

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老子−53 [老子]

使我介然有知、行於大道、唯施是畏。大道甚夷、而民好徑。朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文綵、帶利劔、厭飮食、財貨有餘。是謂盗夸。非道也哉。

 

介然:しっかりした

使:政を行う

施:道を外れる

畏:つつしむ

夷:穏やか、平定する

蕪:荒れる

綵:美しい彩の模様のある絹織物

夸:自慢する

 

 私にしっかりした知があるのなら、正しい行い(=大道)をして、道から外れることを慎む。
 正しい行い(=大道)は公明正大であるべきだが、庶民は近道(=小欲・我欲)を(=小道)を好む。
 宮殿がよく整備されているということは、田は荒れ倉に食糧はない。華美な絹織物をまとい、剣を帯び、美食を喰らい、財貨を独り占めしている。こうゆう輩は盗賊が自らを自慢しているようなものだ。道に外れている。

<他の翻訳例>

 私にわずかでも知識があったならば、大きな道をあるくとき、斜め(のわき道)に迷い込みはしないかと恐れるであろう。大きな道はまったく平坦であるのに、人びとは小さな道(近道)を行きたがるものだ。朝廷はきれいに掃き清められていても、畑はひどく荒れはて、米倉はすっかりからっぽである。それでも色模様の美しい上衣を着かざり、鋭い剣を帯に下げ、腹いっぱい飲み食いして、財貨はあり余るほどである。これこそ盗人のはじまりというものだ。道にはずれたことではあるまいか。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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凡人は小欲なり、聖人は大欲なり。」(二宮尊徳)

小欲:我の満足を求める欲

大欲:我はどうでもよく、全体に益を渡らせたいという欲

「人は利を見て害を見ず、魚は餌を見て針を見ず。」

 

 生命体に”我”がなければ今ここに存在しているでしょうか。生存するイコール”我”の働きがあるということなのでしょうか。”我”の善悪を問うということは生存の善悪を問うのと同じことかもしれません。そもそも”善悪”は人間が時代や状況や主義主張によって、自らの信じることを”善”としているだけのことかもしれません。

 存在は一様であり”善悪”などありません。存在に”善悪”の札がついているのでしょうか。存在に”善悪”があったら大変なことです。存在が”悪”なら忌避し、”善”なら集めるということでしょうか。誰かにとって”善”であっても、他の誰かには”悪”であるかもしれません。地球に”善悪”があると主張することができるでしょうか。地球を判断するというのは地球より大きな存在なのですが・・・・。チッポケな人間がどうして地球に”善悪”を下せるのでしょうか。

 自らの存在が如何にチッポケか知ったら一々分別している自分を知らないということかもしれません。

 

 自身の中でも”こうあるべきだ”という”善”を定義すれば”葛藤・混乱”が生じます。自身が裁判官であって”善悪・白黒”をつけています。

 正しい(=善)が必ず勝利するのではなく、勝利した方が正しいとなっているのではないでしょうか。存在自体に”善悪”はなく、人間の勝手な決めつけでしか無いということ。正しいと主張するには、正しくないモノがあるということになります。二元対立での混乱に巻き込まれていることに気づかなければならないのですが・・・・。いつもイライラしているヒトは、自身の中で二元対立を生み出して自らの”正しい”に従わせようとしているのではないでしょうか。自身の周りに思い通りの世界を構築しようとしています。”神”でも無いのに無理な願いを通そうとして、叶わぬことにぶつかって負け続けているということです。誰もが思いの通りの世界を実現できたら大変なことです。”映画”や”小説”だけにしてもらいたいものです。願い事が叶わないからいつまでも願ったり、信じたりしています。何でもかんでも思い通りになったらどうでしょう。抵抗のない(=感覚もなく・苦もなく・願い事もなく・刺激もなく)世界で無限に生きることは天国でしょうか地獄でしょうか。見えるのは電磁波の刺激、聞こえるのは音の刺激、味も味覚細胞への刺激、痛みや快感は皮膚感覚への刺激・・。足の裏に刺激を感受することで歩くことができます。

 

 我々ヒトは幸いにも大脳皮質の働きによって、本能に振り回されることはありません。”我”が幻想であって”我”に振り回され”苦しむ”必要がないということに気づける可能性があります。

 幸運?にもヒトとして生活できています。残念ながら、”我”が二元対立に分けて判断する癖がついていしまっています。この癖に気づき癖が出ているなと分かることがなければ、癖をとることは難しいことです。癖のとり方は癖だと気づき癖を直す必要があります。思考で癖(=分別する)を止めるることはできません。思考するというのは放っておけば自然に治る傷口なのに、傷口をいじって更に悪化させるようなことかもしれません。雑念が出ても相手にせずに何もしなければ消えていきます。傷口が自然に治るのと同じかも知れません。

 

 タバコ・酒・賭け事・陰口・いじめ・・・・「分かっちゃいるけど、やめられない

 ヒトは、言語を獲得してスムーズなコミュニケーションができるようになりました。言語によって共通認識やコンセンサスを得ることで社会を作ることに成功してきました。道具も作れるようになっています。現在の我々は便利・快適を享受しているようですが、あまりにも過度の工業化によって生態系の恒常性や環境を歪めてしまったようです。自らが生きている環境を破壊するまでになってしまいました。密室の中で自らの排泄物で自らを苦しめているようなものです。

 

 思考によって解決できるということが、脳の癖として染みついてしまっています。様々な問題は”我”によって作り出されたものではないでしょうか。”我”は飽くなき進歩を求め続けます。技術に善悪はありませんが、使い方を間違うと自らを苦しめることになります。核の技術が武器に転用され悲惨なことが起こりました。

 華美な服装で着飾ったり、武器で脅したり、財貨を蓄えているような国家は盗賊のようなものだと糾弾しているのでしょうか。昔も今も”我”の働きは変わらないようです。これからも変わらないということでしょうか。

 

・現実が間違っていて、自身の思い通りに描いた世界が正しいのか。

・個人的に問題があって考えるのか、”我”が問題を作る(何とかしようと考えて)ことで問題となっているのか。

・存在には”善悪・白黒”があって分裂しているのか、分裂させて見ているほうが分裂しているのか。

・”我”に寄り添って生きることが楽なのか、”我”に振り回されない方が楽なのか。

 

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老子−52 [老子]

天下有始、可以爲天下母。既得其母、以知其子。既知其子、復守其母、没身不殆。塞其兌、閉其門、終身不勤。開其兌、濟其事、終身不救。見小曰明、守柔曰強。用其光、復歸其明、無遺身殃。是謂襲常。

 

兌:とおる、通じる 目、耳、口、鼻などのあな。

勤:憂え、心配

殃:災難

 

この世での全てには始まりがあり、万物の母によって全ての存在がある。万物の母を理解すれば、そこから生み出された万物を理解できる。万物を理解し、万物の始まりを理解しているのなら死を気にすることはない。    身体の器官を塞ぎ囚われなければ、心配することは無い。身体の器官を使って逐一反応するなら、一生惑わされて救われることは無い。見えないことに気づくことを「明」といい、柔軟であることを「強」という。この万物のありのままを「明」として見れば、災難を受けることはない。これを常なるに従うということである。

 

<他の翻訳例>

この世界にははじめがある。(そしてこのはじめが)世界の(すべての)母だといえる。母を知ったものは、さらにそこからその子どもを知る。子どもを知ったものは、その母をさらにしっかり保持する。(そうすれば)死ぬときまで危害を受けることはない。穴(耳や目などの感覚器官)をふさぎ、門(周知のはたらき)を閉じるならば、一生の終わりまでくたびれることはない。穴をひらき、わずらわしさを増すならば、一生の終わりまで救いはないであろう。小さなものまでみることが明察とよばれ、柔弱(すなおさ)を保持することが(真の)強さとよばれる。光(外にある光)を用いるものが明察(内にある光、みずから知ること)へかえってゆくならば、身に不幸がふりかからないようになる。これこそ永久なるものにしたがうことといわれるものである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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1章、5章、21章でも記述してあります。

 天地は「無」の働きであり名を「妙」と名付けた。存在に名がつけられ万物という「有」という存在であり「徼」と名付けられた。陰陽図の白が天地の始まり(無=妙)、黒が万物の母(有=徼)。

 存在が先にあって後から認識されるということは当然のことです。人間は常に言語によって思考しているので、言語が先にきて存在を後から認識できるようになっています。後から名がつけられて万物としてあるのに、名によって万物を認識しています。目の前に存在しなくても、「天国」という言葉がああるので「天国」があるかのように思い込んでしまっています。 動物は視覚・匂い・触覚等で存在を識別することができますが、人間は「名」によってイメージを描くできるようです。

 言葉はありもしないものをイメージや概念で生み出す魔法のようなものです。

 

 天地の始まりは「無」からであり、万物を生じさせたものが母であり「有」です。万物は斉同であり、存在は一体なのですが命名によって個々の存在(=万物)として認識できるようになっています。生死も生きることを「生」と名づけ、生きていない対極を「死」と名づけただけのこと。

 自らが「死」から目覚めれば「死」ではなく「仮死」ということで「死」ではありません。当たり前のことですが「死」を語れる人などいません。「死」についてどうのこうのは想像であって言われても知識でもなんでもありません。

 生きている我々が知りえない「死」という対極を持ち出して大騒ぎしているだけかもしれません。「死」であれば意識・認識できないのですから「死」を悩む対象にすることは馬鹿げたことかもしれません。

 「死」はただの概念であって「死」を経験する主体はどこにもいません。「熟睡」している時は何も分からないのに、「熟睡時」のことを話すことはできないのと同じことです。

 

 ほとんどの宗教には天国と地獄という対極の概念が用意されてあります。赤子・動物や「天国」・「地獄」を聞かされていない幼児に「天国」・「地獄」があるでしょうか。「天国」・「地獄」のイメージを植え付けられて「天国」・「地獄」に振り回されることになります。知らなければよかったのですが、大人が面白おかしくイメージを押し付けてしまいます。教わるから「天国」・「地獄」がイメージできるということです。「言葉」を教わることで概念とイメージを一緒に描く事ができます。全てが後づけてということです。

 コインに表裏があるように、「天国」というイメージを説明するのに「地獄」が対極として必要になります。「天国」という概念を作ったら必ず「地獄」があるということになります。”善”には”悪”という対極、”悪”には”善”という対極が必要とされ一方だけでは説明できません。”明”も”暗”も存在しておらず、状況を捉えた概念です。光の反射の有無によって明暗となっているだけです。”明”が存在としてあるのならどこかから”明”と持ってきたり”暗”と交換することができるのでしょうが・・・。「天国」という場所が存在としてあるのでしょうか。「天国」は”苦”から解放された状況だということでしょうか。同じ南国のパラダイスにいながら、観光で来ている人と灼熱のもとで重労働を課せられている人がいます。場所ではなく感じている各個人の感覚ということのようです。

 サウナ施設で”ボッー”として横になり、スポーツをTV観戦しながら冷えたビールを飲んでいる。この状況が「天国」でなければどんな状況が「天国」なのでしょうか。日々「天国」と感じられる体験をしているはずですが。同じ地球上で軍事政権に発泡されたり、頭の上をロケット弾が飛び交うような状況は「地獄」かもしれません。

 苦労して登頂して見る景色も、ロープーウェーで見る景色も同じです。なるほど一歩一歩登る味わいもありますが景色は同じです。修行た人だけ脳内の構造が一変してしたら大変なことです。いい方に一変するとは限りません。そんなに簡単に脳が一変する訳がありません。真言を唱えて超人になるとういうことを信じる人はいないと思います。

 

 苦痛にも限度があって気絶するかもしれないし、快感にも限度があって気絶するかもしれません。死んでから「天国」を希望する人は、一体どんな快感をどれだけ欲しているのでしょうか。快感を始終味わっていると快感でなく苦痛になるかもしれません。ちょっとの苦労が有るからこそ楽を感じられます。苦楽は表裏一体の関係です。苦も適度に味わうことが楽を味わうコツかもしれません。

 魂があり魂にいままで記憶が埋め込まれ、死んだ後に「天国」か「地獄」に分けられるのでしょうか。それとも「天国」・「地獄」は我々が感じている状態なのでしょうか。

 涅槃も悟りも何処かにあって得たり掴んだりするのではなく、単に気づいていないだけかもしれせん。勝手なイメージを抱いて求める人には”有る”のですが、実際はイメージ・概念であってそんなものは最初から”無い”。人間が言葉で作り上げたでっち上げだとしたら。

 ”無いモノ”を何とかして掴もうとしているので掴むことはできません。眠っている自分を確認しようと眠れなければ、眠っていないことが続きます。眠っっている自分を確認できるわけがありません。思考によって思考していない自分を確認できません。

 イメージ(=虚構)の「天国」を先に抱いていて、そのイメージを実現しようとしています。現実にはないイメージの方が主となっていては現実を生きていないことになります。あるかどうかも分からないまま、ただイメージとして植え付けられた「天国」に行きたい。この執拗な欲望を持ったままの”魂”(=これもただの概念)が「天国」へ行けたとして、その「天国」で満たされるでしょうか。欲望に染まった”魂”はもっともっと素晴らしい「天国」を望むかもしれません・・・・。もし「天国」があったとしても、もっと上の「天国」を希求しどの「天国」に居てもその「天国」に飽き足らないことになるかもしれません。地上にいるのですから、地上の空気を吸って散歩することで幸せを感じるだけで有り難いことなのですが・・。

 

 もし、思考することで幸福ホルモンが分泌するのなら、誰もが学校で多幸感を味わってもいいものですが・・・。考えすぎてストレスにさらされているかもしれません。何もしないで何も考えないで熟睡した後に目覚めると、幸せな感覚があります。リラックスと同時に思考から解放されているからでしょうか。

 宗教によって別種の人間に変容したら大変なことです。ただ何かを信じることで人間の脳が変容することがあるでしょうか。多幸感は身体で感じるものであって、思考で幸福感が得られるのではありません。もし思考で多幸感を味わえるのなら、とことん思考を使う哲学者を目指すべきなのですが・・・・。

 

 神は全知全能であり、現実が神の意志で行われている。現実はなるべくしてなっているのがこの世界だと定義するでしょう。神が人々の”願い事”を一々聴くでしょうか、それともなるべくしてなっている事に”つべこべ言わずあるがままに文句を言うとはけしからん”ということでしょうか。特定の人の願いを叶えたあげるというのであれば、それは一体何者なのでしょうか。見たこともない会話したこともない得体の知れない何かを信じているのなら大変なことです。どれがインチキでどれが正しいのか確証はあるのでしょうか。”私は詐欺師ですが”お話を聞いて下さいと言うでしょうか。”私は偽物の神だ”と言うわけがありません。

 もしこの世がなるべくしてなっているとしたら、災難は災難ではなくただ起こるべくして起こったこと。自身の身体でありながら血管がどこにどう張り巡らされ、どのように血流があるのかさえ分かりません。身近な目に見える皮膚の内側で何が起こっているのかも知りません。身近なことさ知らずに生きているのに、災難を知って逃れることなどできるでしょうか。注意深く現状を観察するしかありません。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候

 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」良寛

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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