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老子ー26 [老子]

重爲輕根、靜爲躁君。是以君子、終日行、不離輜重。雖有榮觀、燕處超然。奈何萬乘之主、而以身輕天下。輕則失本、躁則失君。

 

躁:動き回る

輜重:軍需品の総称
雖:いえども

榮觀:遊び楽しむ場所

燕:くつろぐ
奈:どうして
万乗:一万の兵車

 

重いということによって軽いということが明白になる、静かでいられるかどうかによって軽薄であるかどうかが明白になります。だから、君主は一日を過ごしていても、彼の後ろ盾となる(=落ち着いていられる)ところから離れることはない。
君主が楽しむ場所で寛いでいたとしても、我を忘れずに静かにして心が動じることはない。
一万の兵車を操る君主であったとしても、天下(=人民)を軽んじることはできません。
慎重さを欠けば天下を失う。自身も浮ついて軽薄であれば君主の座を失うことになります。

 

****

<他の翻訳例>

重いものと、軽いものとを繋ぐと、

重いものが下に来て、両者の根となる。

静かにしている者と、騒がしい者とが共にいると、

静かなものが根となって、騒がしい者の君主となる。

 

大軍をひきいる君主は、

終日旅をしてもその輜重を離れるわけにはいかず、

また取り巻きの者がいつも側にいるが、

それでも、神経を尖らせて、騒いだりせず、

私的空間にくつろげば、すぐに安らかになることができる。

 

何万という戦車をひきいる国の王であるというのに、

天下において身を軽くできようか。

軽ければ根本たりえず、躁であれば君位を失う。

老子の教えあるがままに生きる  安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

****

 老子の生きていた時代の君主は贅沢・軽薄・傲慢のままに好き勝手にやりたい放題だったかもしれません。君主が人格的に優れ人望があれば君主論のような書は必要ありません。今の時代のように企業が大衆へのサービス・娯楽・生活用品等の販売によって収益を上げるという社会システムではありません。物々交換や略奪や人民を武力で守るという代わりに食糧を献上させるということだったかも知れません。力(=武力)によって支配していた。

 人民は操り人形のようであり、君主の命令に従わざるを得ない状況であったことが想像されます。現在のテクノロジーでいとも簡単に、誰かの”つぶやき”がまたたく間に数百万人に伝わることはありません。識字もできない人民に思想を流布するよりも、君主を教化して人民を総取りしたほうが効率的であると考えるのは当然のことです。自らの思想を広めるには、君主にご機嫌をとって重用されるのが一番の近道です。

 

 本来、美醜・長短・善悪・軽重・優劣・是非・・・という対立的なことは人為的に作り出したものかもしれません。比較するものがなければ”あるがまま””そのまま”でしかありません。”美”と感じるのは単に避けるべき違和感を感じずに魅せられるか飽きのないありふれたものに感じる感覚かもしれません。個性的ではなく色々の角度から見れば、色々な見え方ができるだけかもしれません。

 軽いものがあるのではなく、そのものが”そのまま”にあるだけなのに比較対象や基準となるモノがないと真の”そのもの”を確認できないのが脳の癖としてあるかもしれません。動物としての本能である闘争反応・逃走反応(fight-or-flight response)があります。得るべきか避けるべきかを判断しなければならないと思い込んでいます。「私=自我=裁判官」が色々と注文をつけているのではないでしょうか。

 どうしても判断基準となるものが必要とされます。軽いと分かるには基準となるある程度の質量があるものと比較されなければなりません。落ち着きがあり信頼される君主であるかどうかは、静かな佇まいで分かりますよとでも言いたいのでしょうか。

 当時の君主の身の置きどころと言えば、城門から遥か離れ護衛に守られ宝物を背にしていたのでしょうか。現代の一家の主も書斎に籠もったり趣味に熱中したり落ち着ける場所に居たいようです。

 

 君主の怖れることは、自身の軽薄さが人民の噂話によって広がって嘲笑されて信頼を失うことことかもしれません。現代のリーダーも失政によって嘲笑されるようでは政権も長続きすることは難しいようです。

 

 当時の君主は、国を我がモノとして君主に従うことが即ち国の為になる。国の繁栄が人民の繁栄につながる。よって、人民は国の為に命を賭けて戦うのが当然という単純な思考回路なのでしょうか。戦いによって命を失ったり、生活基盤に打撃を受けるのは人民です。実害に苦しんで嘆き悲しむのは人民です。蓄えもないしその日暮らしの人民を軽視していながら、都合の良いときだけ国の為(=人民の為)としているのには矛盾があります。

 宇宙船地球号の中で、覇権争いに何の意味があるのか。いつまで強国としてぶんどり合戦をしていたいのかサッパリ理解できない人も多いのではないでしょうか。土地ならまだしも、海や空や宇宙空間の境界を争っている場合なのか。ありもしない境界を奪い合っている愚かな行為で国の根幹となる人民の生活をないがしろにしてはいないでしょうか。

 

 当時の思想家で戦争の無意味さを説くという発想は無理なことだったのでしょうか。それとも君主に無分別の無為自然という生き方によって理想世界を構築してほしかったのでしょうか。日々の生活に振り回されること無く、自らを見つめることができる時間的余裕があれば内観することを期待していたのでしょうか。

君主よ、私利私欲から無私無欲へ混乱から平静へと変化して国のリーダーと成って欲しいと切実に願っていたかも知れません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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