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正見 [気づき]

「正見」を検索して見ると以下のような見解がありました。(下線部にリンクを貼っています)

 

正見:「見解がない」ことが正見であって、真理なのです。

 (超えるのではなく、誰もが分別以前で生活している「仏」なのですが・・・)

正見:正しく見るとは、正しくものを見ることが難しいと知ること、そして自らの見方を常に改めていくことのできる姿勢を保とうとすることでもあります。

 

正見:「正」とは「正しい」ということです。それはこの世の秩序を守るために 拵(こしら)えられた既成の価値のことではなく、今・ここで起きていることに、利害や打算を抜きにして、「ありのまま」に接するということです。

 

正見:私たちが求めている「正しさ」とは、結局、「大宇宙を創っている根本仏の理法に沿った心のあり方」のことを言っているのです。この正しさのなかには、宗教でなければ近づくことのできない、アプローチすることのできない、信仰心というものが、当然ながら含まれています。

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次に漢字の成り立ちを「漢字/漢和/語源辞典」で調べてみました。

 

漢字/漢和/語源辞典

 

:会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました。

 

:会意兼形声文字です(彳+正)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、「まっすぐ進撃する」を意味する「征」という漢字が成り立ちました。

 

:会意文字です(目+儿)。「人の目・人」の象形から成り立っています。「大きな目の人」を意味する文字から、「見」という漢字が
成り立ちました。ものをはっきり「見る」という意味を持ちます。

 

:会意兼形声文字です(+)。「羊の首」の象形と「ぎざぎざの刃のあるノコギリ」の象形から、羊をいけにえとして刃物で殺す事を意味し、そこから、厳粛な(真剣な)「作法」・「ふるまい」を意味する「義」という漢字が成り立ちました。

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イソップ寓話に「粉屋の息子とロバ」というお話があります。

 「正」は各人が「正しい」としていることが「正」ということです。もし、自己の「正しい」が他人から見て「間違い」であれば、その「正しい」は他人から「偏見」とされます。ある国が「正しい」として行う侵攻や戦争は、相手国も「正しい」のでしょうか。人の命を奪い去る戦争も互いに「正しい」ということになってしまっています。「正しい」はプロパガンダによって容易に変化させられます。子供の頃の「正しい」と大人になっての「正しい」は同じではありません。環境活動家が活動しているという事実は、環境に対して「間違い」を正したいということです。問題・葛藤・混乱があるということは、「正しい」と「間違い」が同居していることに他なりません。「万事塞翁が馬」というお話も、その時の悪い事が後から振り返ってみればそうでもなかったということになります。誰もが真に「正しい」として判断して行動しているのなら争いが起こるわけがないのですが・・・・。争いが起こるということは、個々人の勝手な「正しい」で行動しているからかもしれません。

 法律・条例の施行日の前日までお咎めがないのですが、施行日から罰せられることになります。社会問題として表面化される以前は、選挙応援をしてもらってもよかったのに今では「非難」されることになります。アメリカで以前は犯罪であった薬物使用が、少量であれば合法となっています。「正しい」や「間違い」は行ったり来たりコロコロ変化しています。賭け事(=競馬・競艇・カジノ・・)も国に税金を払えば合法ということです。

 

 漢字の語源から「正」を紐解くと、自分で構築した見方・見解が「正」ということかもしれません。何度も記述してきましたが、「正義」の反対は「他の正義」だということです。「正見」の「正」は見解以前の見えたままということではないでしょうか。  

 包丁は善でも悪でもなにのですが、使った結果に後づけされて評価されます。包丁は見えたままの包丁でしかありません。赤ちゃんには何のレッテルも貼られていませんが、成長して社会の一員としての行動した結果が善悪に分けられてしまいます。

 最近「論破」・「マウントをとる」という言葉を見かけます。「正しい」と主張しているのは、自己の見解や正当性です。自分が「正しい」と主張することは、あなたは「間違い」と言っているのと同じことです。

 日本で「正しい」とされていることでも外国では正しくないことはいくらでもあります。文化・慣習・躾等々として当たり前に行っていて身についているだけのことです。当たり前のこととして苦もなくやっていることが「正しい」となっています。「正しい」からやっているのではなく考えず出来ていることだけかもしれません。合理的・簡便・扱いやすい・道理・・を「正しい」という言葉に置きかえているのではないでしょうか。

 「正しい」と思った瞬間に二項対立としています。「正しい」というのは「間違い」がなければ成り立ちません。「正見」での「正」ということは、二項対立とする以前の状態を「正」ということではないでしょうか。「正見」は分別が起こる以前の”あるがまま”を只見ることかもしれません。

 私達は修行したり教わらなくても、だれもが只見えているし只聞こえています。だれもが「正見」が出来ています。私達は、言葉として思考することで勝手に二項対立になっています。

 「花」が見えると様々な感覚が起こります。感覚の一つを綺麗だと言葉にすると対の概念である汚いが潜んでいます。「綺麗・汚い」という一つのコインの表裏を行ったり来たりしているだけのことかもしれません。「綺麗」な花が枯れてしまえば・・・。

 

・正しく見ようとすることは「正見」ではありません。「正しく」というのは、対極の「間違い」と表裏一体です。宗教はその宗教の「正しさ」を守り通すことに固執しています。他の宗教の「正しさ」を容認することはありません。

・この宇宙での出来事に「正しい」創造・維持・破壊があり、「間違った」創造・維持・破壊があるでしょうか。宇宙に何らかの意図があり、「正しい」と「間違い」を区別して生起しているなんて人間だけができるすばらしい想像力です。起こっていることに後づけしているだけです。使命・意味・価値も後づけであって、混沌とした宇宙の出来事の一つ一つに使命・意味・価値は・・・・。

 陽だまり・川のせせらぎ・蝶の羽ばたき・鳥の鳴き声・桜の開花・舞い落ちる雪・霜柱・ダイヤモンドダスト・鳥の羽ばたき・・・言葉を後から割り振っただけで、意味なく起こっているだけなのですが・・。どうしても意味や価値を見出したいのが人間の衝動かもしれません。 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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無記 [気づき]

 我々は何でもかんでも知ろうとします。知ることで危険を回避したり、問題を解決する手助けになります。「知ること[→]解決」という図式が出来上がっています。人間が作り出した「社会」という仕組みの中でより良く生きていくためには、仕組みを熟知している方がいいようです。知らないよりも知っっていることで機会損失を少しでも減らすことができます。社会での仕組みが細分化されていくと、それだけ専門的な知識が要求されます。

 公的な機関が試験によって最低限の能力を認めて与えるのが「資格・免許」です。ある業務には免許がないと罰則があります。我々が接触する対象人数によって「エチケット・マナー・ルール・法律」と強制力が強くなります。法律では罰則で強制的に従わせ、社会秩序を守るようにしています。各々が好き勝手に行動することがないように、統制しなければなりません。

 動物は誰に教わることなく身についている本能によって行動しています。人間は人間が作り出した仕組みを学ばせる必要があるようです。

 自分は何者であり、何のために生きているのかという問があるのは当然のことです。仏教では、これらの問に言及していないということを「無記」と言われています。「毒矢のたとえ」のお話で、手当(=苦の解消)しようとしているのに毒矢がどこから飛んできたかを知ろうとします。知ろうとしていることは苦の解消には何の助けにもならないようです。

 禅の公案に「祖師西来意」やどのよう修行すれば何かを得られるかのような問があります。私達はすでに「それ」であることにくづけばいいだけなのですが・・・。ある事象がどんな意味や価値があるのかを知ることと、今生きていることと関連づけてしまいます。  

 意味や価値のあることが「それ」だと勘違いしています。意味とか価値は人間が勝手に意味や価値をつけたものであり、あと付けです。石油としての有用性が分かる以前は異臭のするやっかいなモノでした。レアメタルもただの鉱物であって見向きもされませんでした。時代によって意味や価値は変化します。寿司がメジャーになる以前は、生の魚の切り身やタコを食べるなんてと思われていたかもしれません。

 個人によっても意味や価値は異なります。自分にとって価値があるのかないのかで判断するのが人の常です。人間だけが意味や価値を追い求めています。猫にとってダイヤモンドには何の価値もありません、ダイヤモンドよりも猫じゃらしの方に飛びついていきます。ある宗教団体の聖典が3,000万円という価値があるというのは驚きかもしれません。

 ある国のリーダーが他国を侵攻することに意味があるとしています。侵攻する方は人を殺傷することに意味があるすれば、侵攻されている国の人はたまったものではありません。人生の意味や価値は人間が勝手に思い込んでいるだけで、他人にはかえって迷惑なこともあるかもしれません。

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 人間的な知識欲を満たすことと混乱・混迷という苦悩の消滅と相関関係は無いようです。お釈迦様が何を体得したのか知りたい、その体得内容を知ったらかどうなるわけでもありません。体得したのではなく、阻害していたことから解き放たれたら「それ」であったことに気づいただけかもしれません。「何とかしよう」という思いに一々付き合わなければいいだけかもしれません。「何とかしよう」という思いが不安の元凶だなと気づいているだけにして放っておく。不安は不安のままにしておけばいつかは消え去ってしまいます。子供の頃の不安が続いているでしょうか。痛いは痛いだけのことであって、知らぬ間に消え去ってしまいます。諸行無常でありエントリピーは増大します。何もかもが消え去るということは誰もが経験しているのではないでしょうか。消えるということで救われているかもしれません。

 

<何が「それ」> 

・知ろうと思っていることに気づいているのは何でしょう。

・不安だと知っているのは何でしょう。

・意味や価値がなくてはならないと思っていることに気づいているのは何。

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<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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対立概念 [気づき]

 概念は実体がないにもかかわらず、大事なことのように扱われています。その実体のない何かに振り回されているのが我々の実状かもしれません。ある国のリーダーは、自らの価値観によって戦争を起こします。両国で多くの犠牲が生じているにもかかわらず正当化しています。ある人の意味や価値が全員に受け入れられるわけではありません。

 正義の反対は悪ではなく、対立する正義ということになります。宗教戦争では、お互いの正義を旗頭にして戦います。お互いに悪いとは思っていないので凄惨な戦いとなります。国の戦いでは愛国心を持ち出します。愛国心とは裏返せば相手国に対して嫌国心を起こせということになります。自国を愛するということは他国を打ち負かすことに他なりません。

 頭の中にある概念に触れることも出来なければ取り出すことも出来ません。他人の頭の中にある言葉を見ることはできません。誰が何を思い何に迷っているかなどサッパリ分かりません。脳で使われるエネルギーの60〜80%は「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれるどうでもいい雑念に使われているそうです。日中にどうでもいい雑念に脳が使われて疲弊することになります。脳はリフレッシュしなくてはなりません。夜になると五感を遮断して脳を休めなくてはなりません。どうしても睡眠が必要とされるようです。

 

 仏教での「我」は「生滅変化を 離れた永遠不滅の存在とされる本体といわれるもの」です。多分人間だけが使っている概念は、必ずと言っていいほど反対概念と対になっています。「有る」ということは「無い」という概念があることで成り立っています。「無い」という概念があるというのもおかしなことですが、「無い」ということがあると定義しています。空気が「有る」ということは空気が「無い」ということが前提となって使われます。この世で変化しないものはありません。電子が変化しなければ電気として使われることはありません。変化変容することでエネルギーとして使われることになります。宇宙という固定した何かではなく、変化し続けているプロセスが宇宙。恒常不変という概念がありますが、諸行無常である宇宙にあって恒常不変なモノは無いということになります。

 ”無我(勝手な働き)なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。(阿含経)”

 勝手な分別に振り回されることが苦をもたらしていると気づかないことが無明かもしれません。本来の自己(=意識)を分からずに、何とかしようとしている思いを「自己」に振り回されていることが無明。

 一切が変化しているので見えたり聞こえたり感受することができます。空気中を伝わる音の波によって音として認識されます。意図的に見聞覚知している人などいません。誰もが無我無心(=勝手)に聞こえているし見えているということになります。無我になろうとしているのが厄介な「自己」です。この何とかしようと頑張っているのが苦悩の根源である「自己」ということです。

 

 人間が感受している情報量の80%が眼からの情報と言われています。眼によって知るということは、眼によって惑わされているとも言えます。知るということも迷うということも、同じコインの両面(裏表)でのことです。知らないから迷う、迷うからこそ知りたいと頑張ります。不味いと感じるからこそ、美味しいと感じます。不味いおかげで美味しいを味わえます。調子はずれの歌のおかげでプロの歌を聞きたいということです。

 

 分別によって苦悩を作って自縄自縛になっていることに気づかないことが無明。一々の分別に振り回されずに放っておくしかない。沸き起こった思いは必ず滅するので構わない。「無い」という概念によって実在という概念があります。「私・自分」があるという概念が成り立っているということは、「私・自分」というのが単なる概念であって「私・自分」の実在が無いという証明となります。

 

 「私・自分」が見聞覚知しているのではなく、五感が勝手に働いています。見えていることと見ているということはちょっとニュアンスが異なります。顕微鏡や望遠鏡を使えば見えるにもかかわらず、見えるものしか見えていないのです。見たくなくても見えるし、見たくても見えていません。眼が認識したことを、所有物として捨てることもできないし、他人に分け与えることも出来ません。

 「見えている」段階では主客未分の状態であり見る者と見られるモノという分離はありません。見ようとしてみている主体もないし、見られる客体というモノもありません。反射した光の波長は勝手に像として見えてしまっています。

 「見ている」という段階では眼識が働き、二項対立のフィルターを通して分別されます。見られるモノがどういうモノなのかを瞬時に判別します。この判別にこだわり執着することで振り回され迷うことになります。取り合わずに放っておけば消え去りますが・・・。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

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非風非旗 [公案]

 二人の僧が、風になびいている旗を見て議論しています。事実は見えたままの一つですが、「旗が動いている」「風が吹いている」と意見が割れてしまいます。そこに慧能大師が「心が動いている」と指摘したというお話です。

 何の問題も無い見えたままなのに、二項対立によって分けてしまい混乱・苦悩を自らが作り出しています。私達の頭の中で勝手に行われている問答を指摘しています。

 痛い・痒い・苦い・老いている・病気である・・・という二分する必要のない事実そのものでしかありません。痛いを考えても痛いはどこかへ飛んでいくことなどありません。歯が痛くてしょうがなければ、歯科医院に行って治療してもらう他ありません。痛いを考えて、考えで”何とかしようと”と考え続けるても考えを巡らせて続けているだけのことです。

 旗が動かなくなったら、「旗が止めた」「風が止んだ」と議論するのでしょうか。自分ではない他の力によってこの状態になったと言って他人や他の存在に責任転嫁するのでしょうか。

 

 見られるモノ(=客体)と見る者(=主体)として分けてしまう癖があります。認識されるモノと認識する者の二つに分けてしまうと混乱・葛藤・苦悩が生じることになります。起こった事実があったということが永遠に続いています。事実に対して、比較・評価・意味づけ・価値づけ・・・を行うと良いとか悪いとかの二項対立となり混乱・迷いとなります。

 私達は、見られるモノは自分以外の存在であると学習されて思い込まされています。多分、赤ん坊のときは自分(=我)という観念がないので、自分以外というモノが存在していなかったかもしれません。見えたまま・聞こえたままだけの事実で生きていた。自分(=我)が生成されると、見ている自分(=我)と見られるモノという二元対立としての見方によって見るようになってしまっています。普段の生活で見ている自分が、どこかにいるでしょうか。私が見ているというのは、後づけであって私に関係なく見えているだけです。私がセピア色で見ようとしてもセピア色で見ることなどできません。見ること以前に私を働かせて私が関与することなどできません。そこに私などどこにもいないということになります。

 「バーヒヤ経」を参照してみてください。

 

 赤ちゃんの頃は、見ている何者(=自分・我)として見ているのではなく、見ているという意識もありません。見たまま・聞こえたまま・・・・そのままがあるだけ。

 成長するに従い、見られるモノという存在と見る者という自分という分離が起こります。考えている時だけ自分(=我)がいることになります。見たとか聞こえた何かを振り返って評価すると、見た自分・聞こえた自分がいなければなりません。ただスポーツやTVを見て聞いているときには、自分(=我)などどこにもいません。評価・意味づけしなければ、見えているまま・聞こえているままです。普段は、本来の自己(=意識)が働くままです。対象(=客体)を評価するときに、どうしても自分(=我)を使わなければなりません。あるがままに起こっているだけなのに、こちら側に自分(=我)がありあちら側に対象がある。その対象を議論の対象としていじくり回して遊んでいるということです。

 

 考える対象がある限り、混乱・悩みが静まることはありません。

無門慧開和尚は、「風動くに非ず、幡動くに非ず」更に「是れ心動くに非ず」と言っています。「心」を対象として探したら悩みの種をまいていることになります。何でもかんでも思考の対象とするこぎりは混乱・悩みは尽きません。見えたまま・聞こえたまま・考えたままです。評価して、自分の評価を正当化して自分(=我)の思い通りにしようとするから苦しむことになるのではないでしょうか。評価・意味づけ・価値づけの癖があります。

 真理はどこかにあって、掴んだり得たりすることができるのでしょうか。修行した誰かや聖なる書を読んだ人が真理をが掴んだり得たりするのでしょうか。いつでもどこでも真理そのものです。いつでもどこでも真理でなかったら、宇宙のどこに真理と不真理が存在しているのでしょうか。

 迷っている・苦しんでいる自己を認めると、迷っていない・苦しんでいない自分を見出さなければならなくなります。迷ったなら迷ったまま・苦しいなら苦しいままである。諸行無常ですから同じ状況がいつまでも続くことはありません。泣き続けることもできなければ笑い続けることもできません。分離を作れない赤ちゃんは迷うことはできません。分からない自分を仕立てるので、分かる自分を求めてしまいます。歌が上手くなろうと思わなければ、歌についての悩みは生じません。老いを受け入れて若くなろうとしなければ、老いの悩みはありません。悩みは二項対立を持ち込んでいる自作自演かもしれません。負けた自分が許せないと、自分を負かした相手か自分の不甲斐なさを責めることになります。過ぎ去った負けを受け入れて次に進むしかありません。

 

 公案には必ず二項対立があり、その二項対立を解こうとします。二項対立を持ち込むと混乱・葛藤が生じることに気づきます。二項対立を解決するには二項対立にしないことだと気づかなければなりません。出来もしないことに頭を悩ませていた愚かさに気づかされます。「隻手の音声」片手の音を頭で考えて、頭で作り出すことも見出すこともできません。

 問題としなければ問題とならないことに気づきます。「倶胝竪指」という公案があります。何を問われても、問うた人に指を見せたそうです。指に意味や価値や評価はありません。見えたままそのままでしかありません。見えている指には何の問題はないということになります。何の問題もなければ自己(=本来の自己)のままでいることに気づきます。いついかなるときも本来の自己から離れることはできません。あえて自分(=我)を立てて悩み、自分(=我)で解決しようとしている自作自演劇を演じているのではないでしょうか。

 「香厳撃竹大悟」竹に石がぶつかった音には何の意味もありません。悟っていない自分を立てて修行していたから、問題にならない音がただの音のまま聞こえました。疑団が大きければ大きな気づきがあったということでしょうか。私が悟ったと言っている私が偽物です。本来の自己(=意識)で無い人はいません。迷っている自分だと分かっているのが本来の自己(=意識)であり、迷っている自分は迷っているという思いそのものです。苦しんでいる自分は苦しんでいるという思いそのものです。落ち込んでいる・苦しんでいる・悲しんでいる・・・・その感情に気づいているその気づきが本来の自己。

 

 修行をしたり聖なる書物を読むことで、気づいている意識を得たり掴んだり目覚めさせたりするのでしょうか。意識はいつ生まれたかわからないので不生です。消えたこと確かめられないので不滅です。見つけたいモノを見つけようとしていることに気づいてる「それ」が「それ」です。探している者が探される者です。見ている者こそが見られる(=探される)者だということです。

 

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自己をならふなり [気づき]

 私達は言葉によって迷うこともあれば、分かること(=No Problem)もあります。迷わないということは問題にならない問題にしないことではないでしょうか。幼少期の子供はいたずらに迷うことなく生活しています。比較を持ち出して”なんとかしよう”という我の働きが未だ完成されていなからではないでしょうか。

 言語は二項対立であり迷いを起こします。言語を覚え使う以前では迷うことは出来ません。本来はそれぞれが一つのものであり、比較しなければ”あるがまま”があるだけです。比較することで、長短・美醜・善悪・・・によって迷うことになります。

 刹那の一瞬一瞬が生じては消え去っています。つかむことの出来ない”たった今”という瞬間はあるようでありません。あると思った瞬間に”たった今”は消え去っていますが、消え去った瞬間に新たな”たった今”がありこの”たった今”が永遠に続いています。あるようでなく、ないようであるというのが”たった今”です。変化は止まることがなく”諸行無常”です。たった一回きりの”たった今”が永遠に続いています。あらゆるものは必ず滅します。「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」

 已:やむ、終了する。生滅滅已:生滅を滅し已(おわ)る。比較することがないなら、迷いが終わる。

 己:象形文字であり縄の形状。縄で括られた対象。

思考に括られて縛られた対象である自らを「自己」としているのではないでしょうか。

他己:自己以外の対象。対象として捉えて縛られたモノや事象。対象とされる一切は言葉によって表現される。

 

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」

 「本来の自己」(=働いている意識)は、主体であり対象となりません。自己(=私)は対象となるので「本来の自己」ではありません。自己が何かを知らなければなりません。この自己は思考した後に主体として呼んでいます。常に後づけされているのが自己と呼ばれています。自己が思考の主体であれば思考以前に自己が存在していなければなりません。荷車(=思考)の前に牛(=自己)がいなければなりませんが、実際は荷車の後に牛を配置しています。

 もし自己が思考する主体であれば、思考を自由自在に操ることができるはずです。一時間の間一切の思いを出さないように思考に命じることができるでしょうか。眼は見たくなくても見えます、音は聞きたくなくても聞こえます。思考は考えたくなくても考えてしまいます。それは「無位の真人」(=働いている意識)であり、無分別であり一切が自然に受け入れられてる。

 比較して”何とかしよう”という思考そのものが「自己」の本体であると気づかなければなりません。思考は、危険から身を守り生存したいという欲求によって作られた自己防衛機能です。自己は本体(=本来の自己)ではなく、自己防衛機能として都合よく出現させることができます。これが自己の実体であるというものは見つけ出すことも指し示すこともできません。ただの呼称であり実体はありません。

 <自己をわするるなり>

 比較によって”なんとかしたい”と思考します。”なんとかしたい”という思考そのものが「自己」です。「自己」が思考しているのではなく、思考している主体を「自己」としているのではないでしょうか。”なんとかしたい”思考そのものが「自己」なのに、「自己」が思考をコントロールできるでしょうか。”なんとかしたい”に手をつけない。ただ”何とかしたい”に気づいているだけにしてみる。

<萬法に証せらるるなり>

 「本来の自己」がきづいている自己と自己以外の対象である他己。「本来の自己」は見えたと認識する前に見えている(=認知)し、聞こえたと認識する前に聞こえています。思いに気づいているのが「本来の自己」であり、思いが「本来の自己」ではありません。気づかれる対象は主体そのものではありません。何かを分かろうとする以前にすでに認知されています。一切を対象として説明しようがしまいが、一切はあるがままである。

<自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり>

「自己」自分という対象、「他己」自分以外という対象であると認知する以前。自分以外を認知しているのは自分であって、その自分が自分以外を認知しています。自分も自分以外も自分の中にあります。自分以外として認知している対象を「他己」と呼んでいるのでしょうか。私達は身心が自分自身だとしていますが、身心も見られる対象であり「本来の自己」ではありません。自己の身心は働きです。自分が認識している自分以外(=他己)も自分の中にあります。自分と自分以外を対象としなければすでに「脱落している」。

 

 

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