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老子−11 [老子]

 2020/7/23 NHKの「おはよう日本」で偶然に「Niksen(ニクセン)」という言葉を耳にしました。ワークライフバランスで世界一位のオランダで「ニクセン」が根づいているそうです。「ニクセン」とは「何もしない」で心をふらつかせたままにしておくことのようです。「何もしない」ことで精神安定ホルモンのセロトニンが分泌されるようです。

 あえて思考しないことによって結果を求めないでいる。「ニクセン」を実践するには、周りの目を気にせずに自分で自分の時間をコントロールを持つ必要があるそうです。干渉されない干渉しない環境が必要です。ニクセンが日々の生活に根づくには、自分のが干渉されたくないのですからまずは他人の事には干渉しないということが必要かも知れません。日本人は何かと「ちょっかい」を出さないと気がすまない人が多いように感じられます。家庭内であって個人は個人の空間と時間を尊重してあげることが重要となるのではないでしょうか。

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 声を出したり文字を入力したり行住坐臥したり・・・いったいどんな意味があって価値があるかなど、その時代や社会が決めていいのでしょうか。我々は個々で生きていて個々で感受して・・・どこまで行っても個々での感覚でしか分かりようがありません。誰がどんな心境かなど気にする必要はまったくありません、気にしても他の心境が自分にそのまま実現することはありません。

 マズローの欲求五段説では、「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」を満たしていくことに意味や価値を見出しているようです。

 老子の生きた時代の一般市民は「安全の欲求」が満たされているかどうかも怪しい時代です。老子の説く内容は一般市民には程遠いものであったように推測されます。当時の人で「ニクセン=何もしない」ということが理解できるの人は、ほんのひと握りの人だけかもしれません。

 幸いなことに現代人は「何もしない」ということを実践しその恩恵にあずかれる環境にあるようです。「ニクセン」は誰もがすでに「それ」であることに気づく(=見抜く)1つの方法だと思われます。

 脳は頭の理解があって物事を進めようとします。頭で分からなくていい。実践することで身体が脳にダイレクトに伝えてくれます。頭で分かってから実践しようとするのが「私=自我・アイデンティティ」の最も悪い癖です。アッこれは「妄想」だなとただ気づいて相手にしない、「妄想」を相手にしなければ自然に消えていくようです。

 宗教なんてどうでもいい。教えなんてどうでもいい。宗教を信じ続けているということは、宗教では何ら根本解決できていないという証拠です。一体いつになったら宗教という古びたものがあったと懐古する時代がくるのでしょうか。宗教は、ただの対処療法であって根本治癒はできていないかもしれません。

 偉大な教えもどうでもよくて、実践して自身の身体の変化が一番の福音かもしれません。身体が理解すれば教えが分かる、教えが分かって身体が理解することはないようです。順番が逆であって、身体が最初で教えは確認の為にあるのではないでしょうか。教えで得ることもなくただの確認。結局は自身の身体が証明するしかないということのようです。

 いますぐにでも、ニクセンで「何もしない」で寛いでみる。見返りなんか何も期待しない。我々は、最初から自由であることが実感できればそれだけでいいのかもしれません。

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老子 第十一章 「無用の用」

三十輻共一轂、当其無有車之用。埏埴以為器、当其無有器之用。鑿戸牅以為室。当其無有室之用、故有之以為利、無之以為用。

 

三十本もの棒は車輪の中心部に繋がっている。
其の無(=車輪の内側の空間)があることによって、車輪が作られ車輪として使われる。
器として出来上がるには粘土をこねる。
器の中が無(=中空)であることによって、器としての役割が果たせる。
戸や窓という枠を空けて家として使われる。
家は無(=空間)によって、家として用をなしている。

なにかが有って利用できるということは、それぞれに無(=空間)があることによってこそ利用できる何かがある。

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 存在(=有)と非存在(=無)は、二元対立のようで実は表裏一体かもしれません。無限の空間(=無)の中に、存在としてある。空間があることによって存在が自由に動いたり働いたりできます。

 我々が自由奔放に思考できるのもその思考が消えてなくなり無となり、いつもニュートラルだからかもしれません。目から入ってきた情報は光がスクリーンに映し出されだけでスクリーンに焼き付くこと無く速やかに点滅しているだけです。耳から入ってくる音の振動も消滅して無(=静寂)となります。鼻から感じられる匂いも舌で感じる味も皮膚からの感覚も・・・知らぬ間に完璧に消え去って無となっています。五感は常にニュートラル(=無)。

 我々は空っぽ(=ニュートラル・無)だからこそ、何でも自由にあるがままを感受できているのかもしれません。

 抵抗・圧力・刺激・興奮・変化・反応・感覚・葛藤・混乱・驚き・感動・・・これらによって生きている実感が感じられます。生きている感覚をじっくり味わいたいものです。それも宇宙開闢以来、我々が感じる些細な一つ一つが宇宙で1回限りの体験です。体験から逃げずに味わう。

 何故こうなっているのかなんて誰一人として分からないし、分かったとしても自分一人の力でガラリと変えることはできません。接する自分自身が気づくしか ありません。生きている理由や今やっていることがどうして起こっているかなど誰の責任でも義務でもないのではないでしょうか。

 勝手にそうなっているだけで、誰かが何かをしているわけではないようです。誰一人として他人と変わることはできません。自身の人生は自身がしっかりと味わい尽すほかありません。

 

 人生を旅だとすれば、旅は目的地に到着することではなく一歩一歩が旅そのもの。だとすれば人生そのものが旅であって目的地(=夢や達成)に到着しなくても、すでに達成していると言っていいのではないでしょうか。瞬間瞬間、一日一日が旅であって旅が達成されている。

 私たちは、人生に意味や価値(=目的地)を見出そうと必死ですが、そんな必要もなくすでに目的(=旅)は生きている。生きていることによってすでに成就していると考えてもいいのではないでしょうか。自らに対しても何らかの意味や価値を強制することもなく、自らの願望を満たす必要もない。ただあるがままそのままで既に「それ」です。

 全ては「有る」ようで綺麗サッパリと無くなっています。その瞬間に見えたものはただの記憶であって、現実(=今ここ)だけが事実です。記憶は現実ではなく事実でも何でも無い「ただの記憶」であってこの世に実在するものではありません。記憶は人生のスパイス程度であって主食としなくてもいいかもしれません。

 

 老子は、誰もが実在だけに目を奪われて、背景に潜んでいる空虚に気づていなと言っているのでしょうか。万人に共通の「空っぽ=役に立っていないこと」が本質であることを見抜いてほしいのでしょうか。

 

輻:車輪の中心部(=ハブ)から輪に向かって放射状に出ている棒

轂:車輪の中心部(=ハブ)

埴:粘土

埏:土をこねる

鑿:突き通す、貫く

戸牖:戸や窓

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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coco030705

4月の2週目ぐらいから、仕事がストップし、今もまだ再開していません。ボランティアもしているのですがそれも人と接する仕事なので、始まっていません。でも「何もしないでいる」ことはなかなかできないですね。なにもしないことに罪悪感があり、体操をしたり、趣味の唄をうたったりしています。本も読んでいます。何かしないと落ち着かないというのか。貧乏性なのでしょうか。
by coco030705 (2020-07-24 22:37) 

平凡な生活者

coco030705 様

いつもコメントありがとうございます。
「何もしない」ことに身構えることはなく自然にできるようになればいいですね。
 日本人という国民性に根づくことは難しいかもしれません。
 我々は農耕民族であり、気候・土地・地域・集落(=村意識)の中で生きていて、人の目を気にしたり気配りを強要されてきた民族であることに起因しているかもしれません。
 干渉されないでいる、干渉しないでいるということが難しい民族のように感じます。ONとOFFの切り替えがうまくできないのが日本人の特質の一つかも知れません。
 (手動瞑想で心が身体に従う訓練よって、心が身体と同調するようになっている前提。)
 風呂に入っている時とか散歩とかお茶の時間とか読書とか映画鑑賞とか音楽を聞いている時とか・・・誰もが一人で過ごす時間を経験していことと思われます。一人でいる時に、意識的に「今」にリラックスします。自由で貴重な時間であって、解放されている自分に気づき感謝してみる。
 身体がリラックスすればつき従う心も解放されていると感じられます。ただボッーと好きなようにいろいろな思い(=妄想)が出たとしても追っかけないで放っておけばいいだけです。
 どうでもいい思い(=妄想)なので、自然と無へと消えていく。この経験を積み重ねます。一人でいるときに数分間のニクセンを何回か経験する。身体が主であって心は従です。身体をリラックスさせていけば自動的にニクセンしている自分に気づくようになっていく。
 仏陀・キリスト・老子・・・彼等が残した言葉が何であろうが本当はどうでもいいことであって、自身の本質を見抜けばただのメタファーであり憶える必要などなかった。
 彼等は彼等であって今の自分自身とは代わることはできません。今人生を実感しているのは「今ここ」にいる自分であって、他人と代わってもらうことはできません。
 晴れてもよし(=善・解放・自由・快感・・)雨が降ってもよし(=悪・拘束・束縛・苦痛・・・)。晴れても干ばつにならないほど、降雨でも豪雨にならないように手前でブレーキをかけるしかありません。二元対立(=晴れ・雨、善悪、是非・・)に振り回されないようにすることも大切です。
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり」山岡鉄舟
 聖者が肉体的精神的な苦痛・不快・苦・葛藤・混乱・・・がまったくないのでしょうか。そんなことはありません。感覚もなく感情もないなら死人も同然です。ただ気に掛ける度合いが少々異なる程度ではないでしょうか。何らかの心境で身体機能が激変するでしょうか、何らかのホルモンの分泌系が変化する程度であったり、問題は必ず消え去るという公式があることを見抜いている程度の差。どうして私たちの本質が違うことがありえるでしょうか。
 心が身体に従順になるように地道に訓練しながら、並行して身体をリラックスすることで心を休ませていく。得ることもないし成ることもないし何者に変化することもない。
 こだわりや固定観念の呪縛からだんだんと解き放たれていくのではないでしょうか。
by 平凡な生活者 (2020-07-25 09:04) 

coco030705

平凡な生活者様
丁寧に色々お教えいただき、ありがとうございます。
心が晴れても、雨が降ってもそれは仕方のないことで、それが極端にならなければ、よしとしたらいいのですね。なんとなくわかりました。感謝します。
by coco030705 (2020-07-28 23:12) 

平凡な生活者


coco030705 様

コメントありがとうございます。
極端にならずという理解でいいと思います。

 学者でも何でも無い平凡な一般人の言っていることですので軽く受け流していただければと思います。長文になりますが「何もしない」ためには地道な修練が必要となります。
 味に甘味・辛味・旨味・苦味・酸味・塩味・渋味などがあるように、人生にも苦楽があるので味わい深くなるのではないでしょうか。苦(=苦味・渋味・辛味)があったほうがスパイスが効いてかえっていいかもしれません。苦を避けてばかりいては人生を味わっているとはいえないかもしれません。苦を真剣に苦として捉えずにただの事象の一つでしかないと捉えるなら平気でいられます。苦の一つや二つあったとしてもどうということはありません。

 人類が心で心の問題を解決できているのなら、誰も苦労する人はいないし悩む人もいません。しかし、心の問題を心では解決できないということを認めなくてはなりません。目は目を見れません、刃は刃を切れません、足の裏で足を踏むことはできません。心では心を解決できません。心が捉えようとしている時にはその捉えようとしているものが無く今の心があるからです。捉えようとしている心がどこかに居座って削ったり力を加えたりできる存在ではないからです。過去の悩みや未来の悩みを掴めるでしょうか。言葉や文字にして有るかのようにしているだけのお遊びだということです。心の問題は実体がないのに扱えるとしている「パラドックス」であると気づかなくてはなりません。
 哲学・宗教・心理学・認知学・・・文字や言葉を使って心に働きかけても根本的な解決はもたらされていません。人類の歴史の中で心が心を癒やす処方箋を提供できてきたでしょうか。全く異なる個々人であってその時々によって異なる心に働きかけることなどできません。効果があるとしたら対機説法しかないのではないでしょうか。「達磨安心」という公案を見ればいいかもしれません。
 通り一遍の言葉が書かれた経など気休めのプラセボ(=偽薬)のようなものかも知れません。
 各自が各自の能力の範囲で考え出したことであって、誰にでも当てはまる表面的なことしか書かれていいません。何千年も騙されてき処方されてきた(=有り難いお言葉として聴いていた)かもしれません。現実に経を読んだり聴いた瞬間に楽になればプラセボ効果があるかもしれません。
 先人の覚者や学者は一体何を為して何に達したのでしょうか。我々はとんだ徒労に付き合わされているかもしれません。とんだ茶番につきあっているかもしれません。あらゆる学問を学んでも、心を心で解決できないということに帰結しているのではないでしょうか。こうすればこうなるのではなく、こうすればこだわりから解放されるということ。学問は、対処療法であって根本治癒はできていません。心で何かしようとすることを諦めことが明らめる。

 個々に異なる心であり無常であって恒常不変な心などないからです。有るよう無い、無いようで有るものにどのように対処して、何をどう直すのでしょうか。5歳の心と今の心は同じでしょうか。昨日の心と今の心は同じでしょうか。何らかの事象に対応するためには決まった心がないほうが臨機応変に対応できるようです。心は生まれては消えている(=生滅を繰り返している)のでいつもフレッシュなので歳をとることはないので老いることもない。誰も他人の心など分かりようがないのに解決しようとします。アドバイスやヒントぐらいであって当人の気づきを待つしかありません。

 老子は「無為自然」、お釈迦様は「空・中道」、孔子は最後に身につける徳が「中庸=自然に従う」のようです。修練(まずは身体に心を従わせる・手動瞑想・ニクセン)によって、心が二元対立の両極端に振れる大きさ(=振幅)を徐々に小さくしてついにはフラットになるのが理想のようです。
 海面でも湖面でも大きく波立っていては「あるがまま」を映し出すことはできません。波が立たずに鏡面のようであれば、「あるがまま」と一体となり平静でいられるのでははないでしょうか。「あるがまま」は「あるがまま」であり、二元対立はありません。ただ、「私=自我・アイデンティティ」の分別によって二元対立が起こります。
 「私=自我・アイデンティティ」が主体であり、望んでいるような状況(=心が主で身体が従)のままであれば、ちょっとした感情や感覚の変化であっても心がおもしろおかしく増幅して身体に影響を与えてしまったらどうなるでしょうか。
 増幅された感情や感覚によって身体は落ち着いていられなくなります。身体の動揺(=苛立ち)をおさえるために、対極の「楽」で打ち消そうとします。しかし、「楽」を手に入れるために行動することに「苦」が伴います。「苦」は当然だと思うようになってしまい、いつも自分だけが苦しんでいると思うようになります。
 「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽」という偈(げ)がありますが、「無」とか「滅」が先にあって後から「楽」となります。「私=自我・アイデンティティ」は先に「楽」があって、いつも「苦」で終わるようになっていることです。「楽」を追い求めると影のようにつき従って一体(=コインの表裏)なってあるのが「苦」だと気づかなければなりません。日々の生活の中で、何もしないほうがいいということに気づく瞬間があるかもしれません。動き回ってかえってこじらせた自分に気づくことがあります。何もしない何もないことに落ち着いてみる。

 肉体的な欲求は満たされればそこでおしまいです。尽きることのないのが心の欲望です。もし心の欲望に身体が従ってしまったら悲惨な状況や結果になることは多くの事例によって確認できます。極端な例では、心の欲望を満たすために薬物に手を染めてしまいます。身体が無制御(=心の好き放題)のままに突っ走ったらどうなるでしょうか。
 身体は身体に従い馴れていくようです。心が身体に安楽を与えているとしているのはマヤカシではないかと疑ってみてはどうでしょうか。腹6分で良しとすれば、腹は6分で満たされるようです。身体が決めたことに心が従うように徐々にしていく。身体がスッキリすると心もスッキリするという経験を積む。

 「私=自我・アイデンティティ」の身勝手に心が操られ、心に身体が操られているという構造です。「私=自我・アイデンティティ」のお遊びにつきあって生きているのが我々かもしれません。手動瞑想やニクセンによって身体に心が従うように我慢強く続けるしかないようです。それほど「私=自我・アイデンティティ」は「何か何か」と彷徨い落ち着かないもののようです。
 「私=自我・アイデンティティ」は「自分かわいい」ですから「楽」ばかり追い求めるので、「楽」を手に入れるために「苦」が潜んでいることに目を瞑っています。「私=自我・アイデンティティ」が何かをし続けることによって「私=自我・アイデンティティ」として存在できています。紐は紐を回し続けることで姿をもっているかのように振る舞えます。紐が回転を止めたらただの紐です。
 物質も素粒子が慌ただしく動き回っているので物質として現前しているのであって、素粒子の動きが止まったらどうなるでしょうか。先人は、我々の本質が何もない空っぽであると見抜いたのではないでしょうか。

 「私=自我・アイデンティティ」何もしなくても「楽」であることに気づかれたくありません。楽が自然に消えていくように苦も自然に消え去っているということです。

 考えれば考えるほど「私=自我・アイデンティティ」という紐を回転し続けて存在していると思い込んでしまいます。何もしないこと(=思いを放っておく)で思いが自然と消えていく感覚に何度も何度も気づいていく。思いは自分のものではないと気づいていく。何だ気にすることはなかったという体験を繰り返し経験する。
 心で何かを掴んだり得たり何かを失っても、身体に何かが付着したり身体から何かが消えることもありません。身体はそのままでありつづけているという当たり前のことに気づきます。
 何もすることがない時間があれば手動瞑想をして頭をスッキリさせたり、ニクセンをして思いを追っかけないでほったらかしにする。日々の生活の中で習慣にすれば何ら苦に感じることなく実践できるのではないでしょうか。これらの修練は二元対立とは何も関係なく、何も生み出さないことなので実践し続けていくことができます。心は乱されることなく、「アハ!体験=気づき」が訪れるかもしれません。何かを得ようとか掴むとかを期待せずに生活の一部に組み入れていってはどうでしょうか。
by 平凡な生活者 (2020-07-29 13:10) 

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