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老子−19 [老子]

十九章

絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以爲文不足、故令有所屬。見素抱樸、少私寡欲。

 

絶:こばむ、たやす

棄:かえりみない、放り出す

聖:徳性を備えた人
令:命じる、告げる
樸:本質、ありのまま
寡:へらす、弱める

 

 人間としての徳性を断ち知性をかえりみないような君主であれば、人民の益は百倍にもなるだろう。仁愛を断ち義の心にこだわらなければ、人民は本来の孝行や慈愛を取り戻す。自らの功績心を断ち利益に心を奪われなければ、盗賊が増えることもない。君主が以上の三つ(叡智・仁義・功利)を断つことは、言葉では語り尽くせない。見習うべき例がある。素直な心で純朴なままに、自尊心を少なくし少欲知足とする。

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 私たちは往々にして、全体から分離している自己(社会的な自己=自我)を立てて「自分かわいい」で生きているようです。社会的な自己は確固とした何かでありたい。徳や知恵を得て欠乏感を満たそうとします。とかく君主は民衆の利益よりも自らの利益を優先してしまいます。仁も儀礼上のことであり、自らの利を最優先すれば人民の生活も疲弊したことでしょう。

 

 若い頃(10代)を振り返ると、高齢者は先がなく物欲もないだろうと感覚的に決めつけていたことを思い出します。高齢になって欲しいものに目が眩んでいるなどあり得るはずがないとさえ思っていました。

 実際にその高齢になった友人に確認してみると、欲しいものは殆どなく物欲から解放されているようです。今日一日を平穏無事に過ごし、ぐっすり眠れればそれで十分だと口を揃えて言っています。50年以上の時を経て自身の感覚は的外れではなかったとしみじみ感じています。

 最近では、ミニマリストの生活「持たない暮らし」を実践している人もいます。若くして物欲に惑わされずに生きていけることは素晴らしいことのように感じます。経済活動によってモノの作り過ぎ、化石燃料の使いすぎ、処理しきれないゴミによって地球の環境バランスがいびつになっています。環境の復元能力を超えてしまったかもしれないと肌で感じとっている人も多いかもしれません。

 欲しいものが無いなんて可哀想と心配する人もいますが、物欲から解放されて杞憂が無くなることのほうがどんなにか平安でいられることでしょう。私有から共有やシェアに移行すべきであると共感する人は多くいるはずです。

 

<老いの例>

 現実に起こっている「あるがまま」だけが真実です。例えば「老けるのは嫌だ」という感情が起こっていればその感情が起こっているということが真実です。しかし、その感情を「なんとかしよう」として「私」を立てることがあります。「老けるのが嫌だ」という感情のままが自分そのものです。その感情から「老いること=真理」を否定し、「若いまま」でいたい自分を立てます。この両者が対立することによって、葛藤(=問題)が生まれてしまいます。「若いまま」でいたい社会的な自己(=自我)を立てたのですから、この問題を解決するべく「社会的な自己(=自我)」が問題解決のために勝手に働き出します。化粧品だ健康食品だ健康器具だ、それにはお金が必要だ・・火(=問題)に油を注ぎこみさらに大きな問題へ発展させていきます。

 「老けるのが嫌だ」というのが「あるがまま」の素直な自分です。この感情が出ているままでいいのです。「なんとかしなければ」という思いが「私=自我」を作り出しています。「あるがまま」の素直(=真)な自分と「なんとかしなければ」という偽物(=素直な自分を認めない)の自分という二人の自分がいる限りは問題が無くなることはありません。事実(=ありのままの感情)を曲げて「なんとかしたい」という偽物の自分に従うようになっているのではないでしょうか。素直に「あるがまま=事実」の自分のままでいてみる。

 「老い」を否定したり「老いている人」ことを忌み嫌ったまま、若作りに精を出しても何かしっくりこないものです。「老い」を認め「老いている人」を受け容れた上で若くいれば違和感はありません。先に問題を解決した上であれば葛藤はありません。分裂(「あるがまま」と「なんとかしたい」の両者)したままで素直な自分を認めないまま(=問題を抱えたまま)に装いを変えても根底にある葛藤はそのままかもしれません。

 

<苦手な人の例>

 自身の抱えている問題をよく観察してみます。会社で苦手な人がいるとします。「あの人はどうしても苦手だな」というのが「あるがまま」の自分です。もし苦手な人に対して「なんとかしなければ」という自分(=自我)を立てます。苦手なままでいいのに、懲らしめようとか私に賛同するようにしようと頭を悩ませているかぎりは問題は解消しません。「あの人はどうしても苦手だな」という自分を認めて、その感情を受け容れたままにしてみます。

 「なんとかしよう」という自分(=自我)に従わなくていいんです。苦手な人を好きになる自分に変える必要もありません。素直に「あるがまま」の自分を許してみます(そのままにしておきます)。自身を認め続けると「苦手な人」は「苦手な人」のままでいいんだと合点がいく(=腑に落ちる)または気にしなくなります。「苦手」に思っている自分でいいし、「苦手な人」がいてもいいんだということを受け入れるようになっていく。自分が素直(=あるがまま)の自分を受け容れていることに驚くかも知れません。

 そもそも千差万別の存在があり人間がいるのが当たり前のことです。問題を作っていたのは当たり前のことを当たり前にしておけない思いだということです。自作自演の一人芝居につきあっていたということ。お芝居ご苦労様としてあげれば、お芝居(=問題)はおしまいです。

 苦手な昆虫(=蜂・毒虫等)や動物(=蛇・サソリ・ワニ・クマ等)を無理に好きになる必要もなく、苦手のままに避けることで大きな混乱は生じません。反社会勢力・上司・クレーマー・駐車違反取締・◯◯人・・・苦手なままで良く、好きになる必要はありません。そのままで許されていると納得(=腑に落ちる)できるか、それとも納得できず(=認められず)に悶々と拒否しつづけるのか。

 自身の「あるがまま」の感情を認めてみる。良いも悪いもないのですが、いつまでも彼等を許せない原因は自身の「あるがまま」の感情を許せない感情のせいかもしれません。上辺だけでも平等に見ようとしている偽善の私(=自我)が原因だと気づくかも知れません。

 

<病気の例>

 「夫源病」という病気があるようです。「夫の言動が気に入らない」という自分がいます。その夫を「なんとかしたい」という自分を立てて苦しみ(=「あるがままの自分」と「なんとかしたい自分」の対立)ます。「夫の言動が気に入らない」という自分を認めます。そのままの自分でいいんです。「気に入らない夫」と思っている自分でもいいんだ、「気に入らない夫」でもいいんだというところにおさまります。「夫の言動が気に入らない自分」を修正しようとするからおかしくなります。家にほとんどいなかったときは「何の問題もない自分」であった、その自分と「夫の言動が気に入らない自分」とのギャップがあることで気が滅入ってしまいます。

 「なんとかしたい=気にならなかった自分になりたい」自分(=自我)を立てずにいればいいのではないでしょうか。素直に現状(=あるがまま)を認めることで自我(=なんとかしたい自分)が後退し、自分(=自我)が問題とならなくなれば問題はなくなります。夫を変化させる必要もなく、自身も変わる必要はありません。夫も認め、自身も認める。直そうとはせずに認めて認めて認め尽くす・・・、あるがままに逆らわない。夫が思い通りになったらそれは夫(=人間)ではなくロボットではないでしょうか。

 

 自分の感情に嘘をつかない、事実を事実のままに受け入れる。上辺だけの聖人君主になる必要はありません。愛憎のままが事実・真実であり許されているということではないでしょうか。我々は悪くも良くもありません。誰かが許す許さないということででもなく誰かが救う救われるということでもない。ただそのようにあるだけで、あるがままはどうしようもない事実・現実です。真実に歯向かい問題を作っている「どうにかしたい」という我が、救いや許しを求めているという矛盾を抱えています。「どうにかしたい」を取り下げて、「あるがまま」に素直に従えば何も問題とならないかもしれません・・・・。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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