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老子ー4 [老子]

 ネットで検索すると第四章での道を「器・空虚・心・思い」など様々にイメージして解釈されているようです。二千数百年前も今も「言葉・文字」は当人の心象を表現するために選ばれたものであって「真意」は「言葉・文字」の背後にあって書き記した本人以外では闇の中です。

 

 ある人が眼前の川を見て見たとおりに指し示すことができるのは「動画・写真・絵画」という媒体で捉えたものです。それも主観ではなく客観として捉えられたものであり、見えている全体ではなくほんの一部だけかもしれません。そこに、捉えた人の主観を見出すことは困難です。

 もし「川」という文字を見たとしても、「川」という文字を書いた人が育った環境や置かれている状況が前後の文脈で読み取れなければ「川」は単なる表象でしかありません。「川」は見る人によって異なっている「川」であって、恒常不変の「川」があるわけではありません。

 川は川ですが認識されなければ川は川としては存在していません。信濃川も長野県では千曲川と言っているだけです。県境に立っている人にとってどこからが信濃川になるのでしょうか。

 アマゾン川は今存在するでしょうか?(馬鹿げた問いです)どんなに考えてもアマゾン川を目の当たりに見ることができないのでアマゾン川は存在していません。(イメージ上にあるだけです)ブラジルでアマゾン川の岸辺にいたとしてもアマゾン川ではなく単に水の流れを目にするだけです。行き先を告づに日本から目隠しと耳栓をして、アマゾン川の岸辺に立たせ目隠しと耳栓をとったとしてアマゾン川と分かるでしょうか。川の流れに「アマゾン川」を読みとることができるでしょうか。川に「名前」がついているのではなく「名前」がついている川を見ているということです。見えたままそのままであり、本来は名前のない何でもないのでどんな名前をつけてもかまいません。見えた川を「アキタイヌ」と名前をつけてもなんでもかまいません。

 

 「川」という文字(=漢字)はこれからも変化することのない単なる「表象」としてあり続けます。川は「川」として表象されているだけです。ある人(=他人)が見たそのままの川を見ることはできません。(常に変化しています)

 表象は現実に目の当たりにした変化し続けているものを変化のない言葉・文字に置き換えられたもの。現実・事実でなく、変化しない動きのない死んでいる「言葉・文字」としているということです。

 

五月雨を集めてはやし最上川

 なんとなくイメージできるのですが、芭蕉が対峙した動きのある最上川ではありません。表象は再変換されて頭の中でイメージを妄想することができるようです。

 

 自国の言語でなんとかイメージできるのですが、二千数百年前の異国の人が語った内容をうんぬんするのは非常に困難なことと思われます。当時の人(=老子・道教の人たち)にとってみれば、中国語が通じない異国の人はどのような存在でしょうか。グローバル化している現在の我々にとっては、言葉の通じない宇宙人のような存在かもしれません。そんな得体の知れない宇宙人のために書き残すような文章なのかは甚だ疑問です。ましてや二千数百年後の人へのメッセージとして書き残すのでしょうか。今現在の思想家が二千数百年後の文化や文明を想像してメッセージを書こうという人がいるでしょうか。

 長い年月を経て残っているというだけで貴重とみなしているのが人間の習性のようです。荘子の人間世篇で「無用の用」という話しがあります。役に立たない櫟(くぬぎ)が切られずに神木として崇められているというお話です。

 道徳経は当時の人には「無用の用」であり、意味不明であり難解なものだったかもしれません。文字の読めない一般庶民の読むためのものではないようです。教養があり聞く耳を持ち、世を動かせる人のためのに書かれたものではないでしょうか。

 お釈迦様や老子や荘子が言いたいことは何でもかんでも特別視している「私=自我・アイデンティティ」の癖に気づいて下さい。万物斉同の視点があることを見抜いてください。今の自身の本来の「あるがまま」は何でしょうかということではないでしょうか。4つの幻影から脱するためにあえて「乾屎橛」と指摘したことを思い出してみる。

 

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老子 第四章  

道冲、而用之或不盈、淵兮、似萬物之宗。挫其鋭、解其粉、和其光、同其塵。湛兮似常存。吾不知誰之子、象帝之先。

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恥ずかしながら無知な人が解釈するとどうなるかということで書いてみます。

 

「道Tao」は言葉以前であって「玄」であり無である、無であるから際限がない。道は深淵で果てがないようです。「道=無」から万物が生み出されている。「道」の働きによって力を誇示する必要もなく、難題を容易に解決し、威光に頼らずとも、気にかける必要など無い些細な塵と同じように対処できる。「道」に満たされていてる存在として常にあるようにする。(自身を無にすれば思うように治世できる。)私は誰々の子であると宣言して偉ぶる必要もなく、天地を創った天帝以前の「道」から顕れたのである。

 

 道は名称もない存在以前の無。無からあらゆるものが創り出されている。無の中に何かが有れば有であり無ではありません。儒教は「私=自我・アイデンティティ」が思考して考え出された「知識」による治世を推奨している。道教は「道Tao」による治世を推奨する。無を感得した人が治世するのと人間の計らいによる儒教との違いを示さなくてはなりません。

 儒教においては、自(=自我・アイデンティティ)を知ることが第一のようです。天命に従い『中庸』の徳を身につけた「至誠のある人」を目指すようです。

 人をもって人を治む=「人間の道をもって人間を治めることが最上の政治」ということのようです。「私=自我・アイデンティティ」が人格を磨き達成できる最高の人間としてのリーダー。

 道教では、「道Tao」の心境を見抜くことによって鋭(=勢い、かしこい)に頼らず、粉(=紛争、怒り)を解決し、光(=名誉、威光)をかざさず、問題は問題にはならず、ちっぽけな塵同然にスイスイと事が運べるようになると主張する。「道」を身につけた実践者という存在であれ。どのような家系で生まれてきたかなど卑下したり誇ったりすることはない。私は誰々から生まれたと言う必要はない。「無」という根源から生まれてきたということ見抜けば、存在を創り出したと言われる天帝以前の「無」から生まれた私が今ここに顕れている。

 

 仏教では、「和光同塵」を自己の才能をかくして、塵の世に交わり入るという意味としているようです。後世の人は自分たちの教理に合うように都合よく解釈しているかもしれません。何事も疑ってかかり、自身がよりどころであり自身が平穏で無事であるかどうか。自身の胸に手をあてて確認する他無いようです。

 

表象:ある概念・イメージをあるもの(=記号・言葉・文字)で表すこと。

沖:わく。水がわき動く/むなしい =空虚・無

盈:みちる/みたす/いっぱいになる

挫:くだける/へし折る/折れて痛める

光:ほまれ。名誉

塵:利用価値のないこまごました汚いもの。ちり。/俗事。俗世間。

湛:たたえる/水をたたえる/満ちている/深い

象:目で見られない物を何かの形によって示す。

和光同塵:自己の才能をかくして、塵の世に交わり入る。聖人君子がその知徳を和げて、つまり隠して俗塵の世界に入る。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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