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老子−18 [老子]

大道廃 有仁義 慧智出 有大偽 六親不和 有孝慈 国家昏乱 有忠臣

 

「道」が廃れてくると、仁義を強調するようになる。人知によって生きようとすると、表面上だけの偽りの行いがはびこるようになる。親戚縁者が不仲になると、孝行とか慈愛が推奨される。国が乱れ国難となれば、忠義の家臣が台頭してくる。

 

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 無為である「道」が廃れれば、仁義を説く儒教が台頭する。世間を人知でなんとかしようとするのは大きな間違いである。頭で考えてやっていることなど、計らいごとで裏がある。高官に気に入られるような徳は、世渡りの道具であると糾弾しているのでしょうか。儒教を目の敵としているように感じてしまうのはしょうがないことでしょうか。道教の正当性を主張するのに、他の教えを否定することは大人気ないかもしれません。あらゆる事が許されているというのが事実・真実。

 言葉自体が二元的であり、どんな言葉を使っても極端と捉えられるようです。自国の正義は自国の正義であって、他国(=敵対する国)からすれば自国の正義も悪とみなされます。

 自らが信じている「善」も自らだけの「善」かもしれません。時代や環境や状況によって、「善」の捉え方が異なるかもしれません。どちらかを善と断言すれば、片方は自動的に善ではないということになってしまう。

 何でもなかったものに意味づけや価値づけをしたり、頭の中で考えた事(=実在してはいません)に納得したり悔やんだり悲しんだり笑ったり・・・。サピエンスが進化する過程で身についた能力でしょうか。頭の中の虚構は、自らを楽しませるだけではなく苦しめてもいます。この実在しない諸刃の剣(=虚構)は必要なときだけ使えばいいだけかもしれません。

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 様々な映画のジャンル(ヒーロー映画・伝記映画・アクション映画・犯罪映画・歴史映画・・・)がありますが、どちらかの立場として描かれています。同時に両者の立場を描くことはできません。戦争映画で「硫黄島からの手紙」・「父親たちの星条旗」は日本の視点とアメリカの視点で描かれた貴重な映画かもしれません。ヒーロー映画には強い悪であればあるほどヒーローが際立ちます。神が偉大になるのは悪がちっぽけでないからかもしれません。

 映画の中で、味方がひどい目にあったら「10倍返し」どころではありません。悪役は憎まれれば憎まれるほど正義が際立ちます。見ている観客も悪だと決めつけて見ているのですから、成敗すればスッキリするようです。憎まれている方は虫けら同然に好き勝手に切り捨てられています。おいおい悪人にも家族があり、昨日まで幸せに暮らしていたのに・・・容赦ありません。正義とされている人(映画での主役)のほうが多くの人(悪役)をバッタバッタと血も涙もない非情な人間となって懲らしめています。どっちが凶暴なのかサッパリわかりません。

 人間には鬱積した反抗心が内在していて、鬱憤を発散させてくれる映画の需要があるということでしょうか。

 童話や昔話でも、醜いアヒルの子・シンデレラ・クリスマスキャロル・・・等で大逆転する話しは受けがいいようです。この二元性は勝手に身についたものですから、二元的な見地から距離を置いて平等に見ることは難しいことのようです。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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