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老子ー1 [老子]

 我々が目にするもので宇宙から切り離されているものは何一つありません。見えるもの全てが分離されてはおらず繋がっているということになります。一体感を感じなければならないとしているのは、分離しているという思いこみが強いからに他ならないかも知れません。何か(=対象)を知るとか掴むには何か(=対象)という自己と分離した物(=対象)とみなさなければなりません。自と他がなければ対立は起こらないのではないでしょうか。

 

 中国の春秋戦国時代に生きていた老子や孔子、彼らが記した言葉は主に君主のための言葉のようです。庶民のためでもなく未来の我々でもなく、平和な世を築くことが委ねられている一部の専制君主(=権力者)に向けたメッセージとして捉えて読む必要があるかもしれません。当時の識字能力がなく知的理解に欠けていた一般人に向けたものではないようです。

 

 今現在も、世界中で文字を記している方々が多くいます。未来の人へのメッセージであると啓蒙ではないようです。存在しない過去の人に語る意味が無いように、存在のあてがない未来の人を想定して書くようなことはありません。

 

 老子や孔子やその他の過去の書物や経典はその書を目にすることができ、理解できるであろうと予想される人へ向けて書かれている筈です。その当時の言語が理解できる人に向けてのメッセージです

 後世の我々が当時の乱世の状況や当時の言語を知らずに読み解くことは無謀なことです。本意は老子本人しかわかりませんが、伝えたい本質の糸口を見つけることは無駄ではないかも知れません。

 それにしても好き勝手に訳されているということに驚きを隠せません。般若心経も読み手の数だけ般若心経があるようですからいかしかたないかもしれません。肩肘張らずに気楽に読めばいいだけのようです。

 

 孔子は人間としての「私=自我・アイデンティティ」の働きを見抜く目に長けていて、処世の道を説いた野心家のようです。老子は君子たるものはちっぽけな「私=自我・アイデンティティ」に振り回されず、宇宙の根本を理解して宇宙の原理のままに振る舞うことが求められる。宇宙の原理を理解した上で、庶民目線で治世にあたれば国も庶民も幸せに暮らせると説いたかもれません。

 

 宇宙の起源は知ることもできず名もない「道Tao=絶対無」というものであった。道(=絶対無)から一意一様(=万物斉同)な大いなる存在(=宇宙)ができた。宇宙そのものがそのままに存在していただけ。宇宙の理のもとに現れがあり働きがあり生滅が繰り返されているだけ。為す主体もなくただあるがままにある。

 地球と呼ばれる球体の表面で、人間という得体の知れない生き物が偶然にも多くの音が出せるようになりました。人間は意思を通じ合うようになり社会を形成するようになった。世界中で異なる「言葉・文字」が発明されて、のべつ幕なしに口から泡を吹きながらわけのわからない音を発するようになった。奇妙な形の文字を作り出して同じ言語圏で、互いの合意により共通認識ができあがった。心情や事象を概念化して語彙を発明する能力を磨いていったようです。

 

 農耕民族である日本では季節の変化や雨や雪の表現のために多くの言葉が作られたようです。

 アフリカでは緑でも様々な色合いを表現する言葉があるようです。南国では雪が降らないので細雪もなごり雪も牡丹雪などの言葉がないのでその雪の状態の違いを理解することはできないようです。

 フランス人は内心の情緒を細かく表現する語彙が多く繊細な表現ができるようです。料理の味や香水の美妙なニュアンスまで言葉で表現できるようです。

 

 万物斉同であった存在は、名をつけられることによって分離・分割されて個々の存在(=万物)となりました。

今まで何度もしつこく書いてきました。名前がある存在があるのではなく、ただ存在があるだけだった。その存在に名をつけて細分化していったということです。

 この名のつけられた存在は、我々の思考対象や所有対象となってしまいます。名の無かったものに対しラベルを貼ることで、識別される対象になります。一であった存在が万の物(=万物)となります。生まれてくる子には本来名などありませんが、誰かが識別するために名をつけるのです。名前は最初の呪だそうです。赤子にとっては存在の一々に名があるなど奇妙なことのはずですが・・・。

 

 存在を所有することなどできません。存在は誰のものでもありません。野に咲く花や自由に飛び回る鳥や泳ぎ回る魚がどうして誰かのものなのでしょうか。「猿の惑星」という映画で人間が猿の所有物であるという事を観れば違和感を感じるはずです。

 過去の為政者の中には大陸を所有しようとする誇大妄想を抱き、実際に人々を巻き込んだ人が多くいます。映画でも地球防衛軍とか宇宙戦争とか妄想で遊ぶこともできます。

 

 誰のものでもない存在が名によって「有」とされ、分離・分割されることで所有の対象物となってしまいました。所有ができれば所有者である「私=自我・アイデンティティ」が生まれるの必然のことです。

 名によって相対概念の有無(陰陽)が生まれました。有無の無は絶対無ではなく「有」という概念の対立概念としての「無」という概念です。無から有が生まれます。有無は同一(=コインの裏表)であるというのが真実です。

 

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第一章

道可道、非常(恒)道(也)。名可名、非常(恒)名(也)。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

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 「道」としている「道」は、「道」ではない。名が名づけられのは、名ではない。無という名は、天地が始まるときのことです。有という名は万物の母です。

すなわち常に無を追い求めれば妙を観ることができ、常に有を追い求めるのなら徼を観る。

 無と有の二つは同じ(=太極・陰陽)ですが名が違っています。この理を玄といいます。玄は玄から生じ、これがあらゆる妙を解き明かす門である。

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 あなた方(=君主)が考えているような治世(=道)を治世(=道)としていれば、それは私(=老子)の言わんとしている「道=絶対無」からくる治世(=道)ではありません。あなた方(=君主)が名をつけているような存在や事象は、それは私(=老子)が言っている本来は名の無い存在というものではありません。万物斉同を分かっている名ではありません。本来の存在に名がなかったという理をしらずに、勝手に名づけたものです。そもそも存在自体には名はありませんでした。分別できない一様な存在だけがあったということを知らなければなりません。

 人間が天地を認識していただけの時は、ただ天地があるだけでした。天という名も地という名もありません。そこにはただ開かれた空間と存在だけがありました。名もない原初の存在だけがあったのです。個別の名がついていないので「無」であったといっていいでしょう。ただ上に広がった空間という天があり、下に身体を支える強固な地があるだけです。存在を個別の対象に分離・分割することで「有」ということになり、名で識別するようになります。元来一様であり万物斉同であったものが個別に分割された万物という存在になります。

 ここで、有無の「無」というものは一体何なのかと探究すれば本質を観ることができます。相対概念の「無」です。有無の「有」というものは一体何なのかと探究すれば個々の存在を観ることになります。相対概念の「有」です。

 有無は異なるものではなく同じものであるが、有と無という名がつけられているだけです。この目に見えない道理(=太極・陰陽)を玄といい、さらに遡ると絶対無ということになり、我々が生きている本質を解き明かすことになります。

 

道:絶対無、名称はない。すべてのものが成立する根拠。万物をおおい尽くす。玄の玄

名:存在の存在たる所以 君主が名をつける権利がある 玄

無:名によって相対の有無となって、無という概念と名

有:名づけによって存在が認識されて万物となる。

有と無は同根であり、ただ名が異なるのみである。

道の字は辶(しんにょう)が終わりを、始まりを示すそうです。(参照:ウィキペディア)

妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる

徼:始末の物の末端。物事の帰着点。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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センニン

ご訪問 & nice! ありがとうございました。
また遊びに来ます。
by センニン (2020-05-17 20:02) 

平凡な生活者

センニン 様

ご訪問&niceありがとうございます。
またお越しください。
by 平凡な生活者 (2020-05-18 13:45) 

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