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老子ー6 [老子]

 春秋戦国時代は専制君主のやり放題、ある種狂気の時代だったかも知れません。知性も理性も二の次で権勢欲にまみえた専制君主が覇権争いを繰り返したいたのでしょうか。人民は虫けらのように扱われていたのかもしれません。

 日々惨状を目にしていた孔子や老子などは、人間らしい生き方を実現しようと模索していたかもしれません。日々の生活に追われ、学もなく識字できない人民に教えを説くことはできません。横暴な君主を諭し無意味な圧政を止めて、仁や天地自然の力によって統治して欲しいと願い行動を起こしたかもしれません。

 老子は、この世には君主の力では及びもつかない力がある。あらゆる事象は「無」から生み出され自然に統制されてる。専制君主よ、私心を捨て大自然の営みに従えば良いと説いているようです。

 「私=自我・アイデンティティ」がいくら徳を身につけようが、葛藤の世界のお話。深遠な「道Tao」によって統治すれば天下泰平になりますよという主張なのでしょうか。

 

 ただ生きていくことで精一杯の人民は「道Tao」を理解する能力は殆どなかったと想像されます。人民一人一人よりも、君主一人が「道Tao」を実践することで、全人民に多大な恩恵を与えることができると考えたかも知れません。今も昔も独裁政権下では、人民は統制されるばかりで自由のない生活を強いられているようです。

 

 歴史を振り返ると、一般庶民の自立性の目覚めは宗教よりも哲学によるところが大きいかもしれません。哲学が「平等で幸せな世界」を思索し主張してきたことによって、現在の社会システムが整ってきたかもしれません。

 

 一人のカリスマの教えを拡大し様々な肉付けをして、我が宗教の教えを受ければ救われる。押しつけがましい宗教に頭を悩ませている人もいるかと思います。

 固定された信念体系に人々を拘束させているのが宗教であると見抜いたニーチェ。ニーチェの「神は死んだ」という言葉は、キリスト教信仰の固定観念から脱すべきだという宣言かもしれません。ニーチェはキリスト教の世界観を否定し、世界には何も意味がなく虚構であると主張したようです。

 気づかれないように人々を自らの教えの奴隷としているのが既存宗教と疑ったのかもしれません。一度宗教を脇において、真正面から宗教を批判し自らの知性によって現実を生きて下さいと言いたかったのでしょうか。

 信奉する教えさえ身につければ考えなくてもいいですよ。この教えに従って生きれば救われます。ヴィトゲンシュタインは、信じることで自主性を奪うのも「宗教ゲーム」の一つと言うのでしょうか。

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老子 第六章

谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根、綿綿若存、用之不勤。 

 

 万物を生み出す天地(=物質世界)の谷は不死であり永遠のようだ。それは玄(=無)牝(=生殖能力)のようなものと言えます。玄牝には門があり、この門は天地を生み出す根源と言えます。玄牝は今ここに綿綿と生み続ける能力を働かせています。あらゆるものを生み出す玄牝の働きは永遠に尽きることがありません。

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 専制君主よ「無」は人知を超えているし、見ることも聞くこともできない。しかし、「無」を言葉でどうにか表現しなければなりません。表現できないことを表現するのですから、極端に言えば何とでも言えるということになります。

 人間の知見によれば、何かが生み出されることに神秘性があるようです。生み出される場所には水があって、洞窟とか地が裂けたような場所を想像してしまうのでしょうか。万物が生じる過程は、天(=空)から物質が降って生じるというより、地から湧き出してくる方が妥当のようです。天からの恵み(=雨)と地(=土地・母)の恵みによって地から湧いてくるほうが妥当性があるようです。

 二千数百年前の人が「谷+神」という言葉を選択したことに感心させられます。

 深遠であり壮大な様を「谷」として喩え、人知の及ばない無限の空間と無限の創造と変化を「神」としたのでしょうか。固い地が一見無力な水に削られ谷となり、谷の底には水が流れている。一番低きところにある水というのは、一番高きところ(=天・雲)にあったものです。

 老子(=他の道教者を含む)が実際にどのような谷を見たかなど想像もつきません。切り立った山の底を流れる川があって、大地を潤す水を湛えていたかもしれません・・。壮大な空虚に圧倒された空間を見たのかもしれません・・。

 人間には捉えることができない「無」をそこ(=谷)に感じたのでしょうか。敢えて形で表現すればということで「谷」という表現になったかもしれません。

 

 「道Tao=無」は無限で不滅であり、一切の影響をうけることはない。どんなに使おうが尽きることがなく無限のうようです。

 「道Tao」の根源は「無」であり、深遠で際限のない壮大さがある。あらゆるものを生み出す母性として喩えられます。我々も「道Tao=無」から創造され「道Tao=無為自然」として生き「道Tao=無」へと戻らざるを得ないかもしれません。

 

 私たちの思いつきはどこから生まれてくるのでしょうか。探し当てることができないのなら「無」ではないでしょうか。私たちが生きているという事実は宗教が教えてくれるのではなく、自身が今ここで感受できているということそのものが「生きている」というそのもの。誰かに教えるとか教わるということではないようです。私たちは宇宙が存在していて、過去があって未来もあるとしています。また、物質世界があって、この物質世界の中に自身がポツンと存在して物質世界を認識している存在であると思いこんでいます。

 

 コペルニクス的転回:三次元のパラパラ漫画のように、宇宙は瞬時に消えているし瞬時に顕れている。即座に死んでいて即座に生まれている。1歳の身体はどこにもありません。18歳のままの身体はどこにもありません。1ヶ月前のままの身体はどこにもありません。1日前のままの身体はどこにもありません。1秒前のままの身体はどこにもありません。今の身体の状態は、10分後の身体の状態のままの身体ではありません。恒常不変の身体であれば新陳代謝もなく思考もストップしていて冷凍保存の身体だということ。生きているようで死んでいて、死んでいるようで生きている。有るというようで無い、無いというようで有る。(参照:一切空不可得)

 

谷神:谷は地形の中での女性の比喩であり万物を生み出すことができる。天地が生まれる根源。「神」という語で不滅の永遠性と自律的な働きを表現している。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

玄牝:玄(=無)からあらゆるものを生み出す、生殖能力の源として牝牛=繁殖力。

綿綿:絶えることなく続く

勤:心力をつくしてはたらく。せいを出す。いそしむ。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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