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老子ー2 [老子]

 何かを達成するためとか、人生に意味を見つけるとか価値ある人生とか。人の役に立つために生まれてきたとか。未完成な人間がどこにいるのでしょうか。自身を未完成な人間だということは、完成すべき人間像があるということです。ダメな人間と完成した人間という前提で生きているということになります。与えられた身体組織をどのように作り変えられるのでしょうか。肝臓の機能向上を自力でできるのでしょうか、筋肉を鍛えるように心臓の寿命を倍にすることができるのでしょうか。スズメはスズメで完璧であり・・・、人間は人間で完璧。

 

 脳はイベント駆動型ですから、どうしても今起こっていることだけに注意・注目することになります。常に注意・注目することが当たり前になっているので、注意・注目それ自体が通常モードであるとしているようです。本当は異常事態に心が奪われているだけだどいうことになかなか気づきません。考えることが頻繁になされるので、考えることも通常モードであると思いこんでいます。なぜなら思いは思いとして勝手に認識されるので、認識されることだけが気づかれることだからです。起こっていることが重要で解決すべきだとするのが脳の癖です。

 瞑想は何もしないということによって、「考える=解決」という執拗でこびりついた悪癖から一旦退避することかもしれません。

 

 身体に影響のあるイベントであれば、「痛み・痺れ」等のサインがあって大きくなれば「苦痛」となり対処しなければなりません。しかし、精神的なことは身体に直接苦痛を与えません。思考というものは身体でわかるものではないので、痛くも痒くもないというのが重要だと思われます。思考があるときに「苦悩・葛藤」があり「苦」となります。何も考えることがなければ「苦」はあるでしょうか。スポーツ観戦や遊びに熱中しているときや温泉旅館の風呂にゆったりと浸かっているいるときにわざわざ日常の困りごとを持ち込んで悩む人がいるでしょうか。小さな幼児が考え事をして公園を駆け回っているのでそうか。考えに没入するということは自らヘドロをかき回して水を濁らせていることかもしれません。

 

 存在に名(=言葉)がつけられ万物となり、二律背反(=相互に両立しない)の性質として相対的に判断されます。対立(=葛藤・混乱)は平安ではありません。平安であるためには対立のない静寂(=沈黙)となることではないでしょうか。思考で対立を超えてたり対立を克服できるでしょうか。こだわらないとか諦めるとか・・・。対立自体に意味がないという見抜きです。「言葉と文字」の本質は、言葉はたんなる音で文字はたんなる形でしかないというごくごく当たり前のことに気づく。音や形の以前では玄という一つの存在(=万物斉同)だけだとうことです。人間がそれもある特定の地域の人だけに意味のある音や形として使っているだけだということ。

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第二章

天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。

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 世間一般の人が美を知っているというが、それは美という言葉(=概念)によって見ているにすぎない。君主たるもの、一般人と同じように美という言葉(=概念)で見ることは悪(=正しくない)である。世間一般の人が知っている善という言葉(=概念)は、善という言葉(=概念)で判断しているにすぎない。君主たるもの、一般人の善としているのは不善(=善ではない)であるとすべきである。

 もともと有無は相生じている、難易も成すという相であり、長短というのも形の相であり、高いと下(=低い)も傾きの相であり、音声も調和の相であり、前後は従い続くという相である。

 故に聖人君主たるものは、有から生じている相対であることを心得て「無」にて対処する、この「道Tao」の教えによって語ることなく政治を行う。万物は自ずとその働きが為され言葉で指示することもない、生じてくるものを所有することはなく、為しても相手に期待することもなく、功績をあげてもその功績に自惚れることはない。そもそもその成し遂げたところにはとどまることはない、万物は終わることなく続いていく。

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 当時の一般庶民が「美」というものをどのように捉えていたのか、美意識はどういうものかは知るすべもありません。美は「羊+大」であり、ふくよかで美味しいものが美の語源のようです。美であるものは裏切らないので善でもあり真実であるととらえ「真=善=美」と同意として捉えることもできます。

 君主は一般庶民が斯(=このように)美としている(=概念)ものに美(=言葉)という言葉を使っていることは、悪(=正しくない)ので已(=止める)。

 君主は「無=相対的な無」から祭事や式典や時間や言葉を作り出すことができる。君主は「無」の境地にあって、名の無い天地にある存在に対して名をつける権利がある。存在は名によってそれぞれ個別分離した万物とされる。万物を生み出すのが君主である。一般民衆に辞書などなく、星の名前も時の名前も君主によって名づけられる。時を決め時の名も官位も役割も官位名も君主の命名による。一般民衆は君主に名づけられた万物(=徼)として受け入れ、勝手に命名することは許されない。

 美意識は地域や環境によって変わるものです。君主たるもの天地の始まりである名がつく以前の無(=対立のない)境地(=玄)にあるべきです。一般庶民は名のついた万物となった後の有(=対立のある)「徼」の世界で生きています。

 一般庶民は天地から万物とされて名がつけられた後の二元対立(=葛藤・混乱)の中で生きています。君主たるものは対立のない天地にあって名のない二元対立のない平安の中にいなければなりません。

 

 存在に「名」がなければ、ただそのようにあるだけです。赤子や言葉のない動物目線で存在をあるがままに見えているとします。ありのままに見えるだけで「美しい」とか「醜い」という言葉を伴った思いはあるでしょうか。感嘆した「オッー、アッー、ワッー」と言葉にならないただの音だけしかないかもしれません。スペイン風邪以前には死臭は死臭として認識されず単に生活臭の一部だったようです。死臭は忌み嫌われる匂いとして記憶に刻まれたかも知れません。

 真意の程は分かりませんが、虫の鳴き声を「声」として認識するのは、日本人とポリネシア人だけだということもあります。徒然草の中にも虫の音を認識していた話があります。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を他国の人が理解することは難しいかもしれません。蛙が池に入水する「ポチャ」という音を想像することはどうでしょうか。

 

 言葉・文字という二元対立に振り回されている一般民衆と「無」のままに「あるがまま」のまっさらの天地を観ている君主とは雲泥の差があったということに思いを馳せてみるのもいいかもしれません。

 

道:絶対無、名称はない。すべてのものが成立する根拠。万物をおおい尽くす。玄の玄

名:存在の存在たる所以 君主が名をつける権利がある 玄

無:名によって相対の有無となって、無という概念と名

有:名づけによって存在が認識されて万物となる。

有と無は同根であり、ただ名が異なるのみである。

道の字は辶(しんにょう)が終わりを、始まりを示すそうです。(参照:ウィキペディア)

妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる

徼:始末の物の末端。物事の帰着点。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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