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生の微分積分 [気づき]

 微分積分を抜きで物理・天文学で現象を解明することはできません。この世界での現象を予測したり現象を解き明かすにはどうしても微分積分が必要となるようです。微分とはある瞬間の傾き(変化)とされています。積分は細分化した短冊(最小は線)を合計した面積とされています。微分で重要なポイントは変化量がゼロ(=傾きゼロ)のところがトップ・ボトムとなりそれまでの逆へ変化するポイントとなります。上昇から下降へ、下降から上昇へと変化する地点が傾きがゼロの瞬間です。

 私達の感情・感覚・思い・・・は常に変化変容しています。無数に存在する生命体が全く同じ感情・感覚・思いが全く同じで(=一致して)あることはありえるでしょうか。それぞれの個体は異なる場に存在していて、微妙に異なる環境の中に存在しています。場が異なれば重力・湿度・温度・・・・等の外部環境も異なっています。個々の生命体の経験が異なることで異なる反応となります。異なるエネルギー状態・精神状態・身体状態となっている各個体の感情・感覚・思いが一致するということは無理があります。また、客観的に調べたとしてもその瞬間に一致していたということで永遠に一致することはありません。個々の生命体はそれぞれがユニークであり比較することができないし、比較する意味もありません。

 

 各生命体の感情・感覚・思い・身体・・は様々であり異なる曲線を描いています。各生命体で同じような状態(=曲線の部分)を見出すことができるのは、傾きがゼロのとろこではないでしょうか。

 釈迦・達磨等々(=自身以外)がどのような感情・感覚・思いでいたのか、今生存している他者がどのような感情・感覚・思いでいるかなど知る術はありません。知ったからといって、その聖者に寄せて真似てどうなるのかサッパリわかりません。何かに自身を一致させるためにコントロールができたら大変なことです。身体能力も環境も異なる人が思考や修練で自らをコントロールしてある人物に変身するわけがありません。錬金術が失敗していることで証明されています。

 他人の心境がどうなのか分かったら大変なことです。分かりもしないのに比べていることは愚かなことです。例えば、あの人は幸せそうだ・あの人は可愛そうだ・・・・分かりもしないことに思考をめぐらせて自身をコントロールしようとすることは徒労に終わります。

 また、自身の人生を積分したとしても、たった今の自分でしかありません。何かが積み重なった自身を見出すことができるでしょうか。様々な感情・感覚・思いが積み重なって(積分され)感情が積み上がり感覚が積み上がり思いが積み上がった自身がいるわけではありません。感情・感覚・思いはただ泡沫のように生まれては消え去っているだけです。

 瞬間瞬間新たな感情・感覚・思いがあるだけです。常に新鮮であって一期一会だということです。それぞれの人生の経験は単に記憶としてあるだけで、他人には全くわかりません。家族や友人は経過を知っているようですが上っ面だけであって本当に自身の経過を事細かく知っているのは自身しか存在しません。見知らぬ他人の何を知っているというのでしょうか。

 数息観・ヴィパッサナー瞑想・只管打坐・・・での思いを取り扱わない(=追いかけない)瞬間を微分すると傾きゼロ。普段から思いを追いかけなければ曲線は段々と直線に近づいていくかもしれません。傾きゼロ(=起伏ゼロ)が多くなれば感情・感覚・思いに振り回されることがだんだんと少なくなっていくかもしれません。我々の生を微分して一瞬を切り取ったとして、偉人・悪人・聖人・一般人という区分けが妥当なのでしょうか。

 見えているまま・聞こえているまま・放尿している仏陀・痒いところを掻いている仏陀・欠伸をしている仏陀・躓いた仏陀・歩いている仏陀・垢をこすっている仏陀・・・一体私達の行為・状況と仏陀の行為・状況にどんな差異があるというのでしょうか。神格化して人間ではないように扱っていますが、本当に人間ではなかったのでしょうか。食べて排出しないでどうやって生きていたのかサッパリ分かりません。同じように見えて同じように聞こえて同じように排出して同じように病に侵され同じように死んでいくだけです。

 ただ違うとしたら、二元対立という分別(=苦悩の原因)に振り回されずに生きただけのことかもしれません。”我”の思い(=なんとかしよう)をただ観察して消えるままに放っておいたのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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学問となる前 [気づき]

文部科学省のHPから抜粋させていただきました。

学問」とは

・学問の意義は、人類の知的認識領域の拡大である。それは、個人の知的好奇心を満たすということを超えて、人類共有の知的財産の拡大を意味している。

・学問には2つの効用がある。第1は、生活上の便宜と利得の増大である。第2は、自分を作り上げていくこと、確立していくこと、いわゆるBildungとしての教養であり、このような教養による人間形成を通じての社会の形成である。前者も後者も重要であるが、後者の効用を忘れてはならない。

<省略>

「科学」の成立

・「科学」が、現在のような意味での「科学」になったのは18世紀のいわゆる啓蒙主義の時代である。世界を説明したり記述するときに「神」を必要とする立場を「聖」、「神」を必要としない立場を「俗」とするならば、18世紀に「聖」から「俗」への転換(「聖俗革命」)が起こった。この時代以降、「神の計画を知ること」という動機付けは消え去り、「科学」の動機付けは「知的好奇心」が中心となる。

・このような歴史的経緯を踏まえ、「知的好奇心」を動機付けとして、「真理の探究」を目的とした「科学」が成立する。このような意味での「科学」とは、純粋な知識体系であり、「科学」の成果を活用するクライアントが外部に存在しない、即ち、他の目的の手段ではないという古代ギリシャ以来の特性も併せ持っている。

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辞書での「学問」

 学問(がくもん)とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法であり、哲学や歴史学、心理学や言語学などの人文科学、政治学や法律学などの社会科学、物理学や化学などの自然科学などの総称。

 

 我々の生存している現象界では無常の世界であって、永遠に同じであるという事はあり得ません。生命体として生まれたということは必ず消え去ることは自明のことです。物質的な肉体は必ず消滅するのですが、有性生殖での生命体は自らのDNAを後世へと引き継ぐようにプログラムされています。DNAを受け継いだ子孫が誕生すれば生きている必要は無いのですが、人は様々な知恵・知識を伝承するために生きながらえています。

 生物としての役割を終えているのですが、何とかして生きながらえて生を謳歌していたいようです。

 偶然の生の中で出来るだけ安全・安心に生きていきたいというのは誰もが望むことです。因果関係を紐解いてあらゆる事を先回りして予測できれば困難に対処することができます。知るということは、恐怖を軽減することが出来るという思いが強いからこその自然のことなのでしょうか。

 人は因果関係を解き明かし、悪い結果となりうる原因を取り去りたい。現状を変えることで未来をより良い結果となるようにしたい。学問はヒトの保身のために必要とされていることかもしれません。

 学問は原因があって結果が起こるということの繰り返しの経験を知識として記憶できます。言葉や文字を用いて伝えたり理解するために役立ちます。仏道は身の回りで起こっている事象の因果を知る知識ではないようです。知識であれば記憶してペーパテストで60点以上で合格ということになりますが、個人的なことであって一般的な知識ではありません。

 学問ではなくあくまでも分別の起こる以前の状態というところに着眼しなければならないようです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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答えは無限にある [気づき]

 日本語がチンプンカンプンな外国人に日本語で「いちたすいちは」と問いかけても何を言っているのかサッパリ分かりません。数式で”1+1=”と書いたものを見せれば”2”という数字を書いてくれるかも知れません。皆が同意しているある特定の決まり(10進法)だという思い込みで答えます。答えが出るというのは、特定の決まりによって導き出されるということになります。

 1というのはただの概念であり1はどこにも存在していません。何かを勝手に1としているだけです。手も1、指も1、爪も1、身体も1、臓器も1、神経細胞も1、ウィルスも1,宇宙も1、素粒子も1・・・、極大から極小までなんでもかんでも人間の作り出した概念で1と定義できます。あらゆるものが1と定義できるので1とされるのは無限です。本当の1はどこにもないと言えるし、どれもこれも1となりえます。

 1+1=10(2進法)1+1=200(1を1cm,200はmmで答えました)1+1=1(水に水を加えても1)1+1=0(水+熱=目に見えない蒸気となった)1+1の答えは無限にあります。1の定義によって無限の答えが見出されます。

 

 例えば、演奏に真の演奏(=正解・真の答え)があるでしょうか。バロック音楽で当時の貴族の前でのある瞬間の演奏が真実の演奏であれば、それ以外の演奏は真の演奏ではなく永遠に真の演奏は無いということになります。全ての事象は生滅していて一期一会であって、二度と同じことなど起こりえません。タイムトラベルなど馬鹿げた妄想かもしれません。同時に多次元に宇宙が存在しているという仮説を作って頭の中で妄想することはできます。あるのは”今”という刹那の瞬間が永遠に生滅しているだけではないでしょうか。つい直前の”今”はどこにもありません、誰も保存することはできません。つい直前の”今”に出会うことが出来るのなら”止まっている”以外ありません。完全に”止まっている”というのなら素粒子も止まっているということになります。部分的な絶対零度の状態があったとしても全体の中にある限り全体が新たな”たった今”と変化変容しているので特定の部分の静止(=絶対零度)は見られて(=観察されて)いるのでつい直前の”今”は観察者の存在によって、観察者の”今”ということになります。真なる答えは観察者に依存することではないでしょうか。

 1+1の答えは観察者(=ある前提によって導く)によって無限にあります。ある前提を共通にすれば、共通の視点をもった観察者によって共通の答えが導き出されます。10進法で答えるという前提の観察者の答えは2という同じ答えとなります。10進法を知らない人間以外の生命体には2と答えることはできません。

 

 野球で誰がどの打順で打つべきかという正解があるでしょうか。どんな投手が出てどんな打撃をするか分かったらおもしろくもなんともありません。何が起こるかわからないのでワクワクして観戦できます。勝利したら正解であり敗戦では間違いだということでしょうか。

 この世で正解の人生・正解の景色・正解の音というものがあるのでしょうか。それぞれの人の好みであって、だれにとっても正解というわけではありません。感受される現象が起こっていて、ただそのように生滅しているだけで、ただなるようになっているだけなのですが・・・。

 何が正解なのかは、受け取る人の感性で決まるのではないでしょうか。今起こっている現象が正解でないとしたら、何が正解でありどうやって正解にすることができるのでしょうか。今起こっている現象を変えられたら大変なことです。私達ができるのはせいぜい、勝手な妄想や手足や口を動かせる程度のことなのですが・・・。

 

・人はある共通のもの(=数式、楽譜、図面・・・)を拠り所としなければ同じ答えを導き出すことはできません。

・たった一つの同じ答えというのは、無限の答えの中の一つであって無に等しく決めごとで導かれた味気ないものかもしれません。

・条件を持ち出さなかったら、無限の答えがあるということです。無限の選択肢の中の一つの答えが展開されています。

・無限の答えは一致することはありません。一致するとしたら”空・無”であり、生じていないのですから”不生”です。

・この世に出現したことも偶然であり、偶然の生を生きている人にどんな答えが割り振られているのでしょうか。偶然の産物に必然の答えがあるなんて・・・。肉体的な”死”は必然ですが・・。

・無限の可能性(=選択)があるのに、たった一つの可能性(=自身で正解としているもの)だけを目指し(=何とかしよう)て悩んでいることは異常(無限の中からたった一つに固執)なことかもしれません。

・起こっている事象は事実という有様(=実相)であって、そのままの事実なのですが・・。このありのままの事実を受け入れられないのは、事実が異常なのでしょうかそれとも事実として受け入れられないということが異常なのでしょうか。

 

 

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スーパーマンにはなれない [気づき]

 私達はどうしても”偉人・聖人・天才・祖師・・・”と呼ばれている人は特別であり、一般の人とは隔絶された何かを得たり掴んだりした人と決めつけています。言葉はありえないことも大袈裟なことでも表現できます。”灼熱の氷”・”瓶の中に大海がある”・”太陽よりも目映い月”・・・等々。”虚言・妄想”という言葉があるということは”虚言・妄想”が平気でまかり通っているということです。

 人間の想像を超えた”超人”として崇めるようなことになります。人間の身体で生まれたのですから基本的な人体機能が大きく変化することはありません。思考することで身体機能が劇的に変化したら大変なことです。大学を卒業した人が劇的に変化するわけではありません。思考によって何らかの境地に達してスーパーな精神や肉体となるわけがありません。もし思考することでスーパーマンになるなら、哲学している人は漏れなくスーパーマンになっているはずですが・・・。

 人間の振り幅は限られたもので、100mを5秒で走ることは不可能です。せいぜい上手く身体を使いこなしたり、他人より洞察力がちょっと上回る程度かもしれません。

 仏教の中で書かれている事を自身に都合よく解釈していたかもしれません。”苦”が滅するのであれば精神的な”苦”も肉体的な”苦痛”も取り除かれた安楽な状態があるはずだという思い込みです。誰もが自分勝手なイメージを抱くものです。

 もし肉体的な”苦痛”を感じなければ、大病を見逃して”死”に至ります。苦痛はメッセージであって、苦痛がなければいいということはおかしなことだと気づくはずです。極端に言えば肉体の感覚が無くなれば生きていくことはできません。歯茎に麻酔をすればちゃんと食べることもできません。喉に麻酔がかかっていれば飲み込むこともできません。足がしびれていてはちゃんと歩くこともできません。ある程度の感覚や痛みがなければ体は動かせないということになります。精神的なプレッシャーがなければ困難を克服していくということもできません。一人で生きているわけではなく、どうしても他人と関わって生きることになります。その都度ちゃんとした対処が必要になります。

 精神的な苦悩・肉体的な苦痛は自然なことです。苦悩や苦痛を滅するのではなく、苦悩・苦痛の無い状態が本来であり目指す状態だと間違った理想を描いていたのかも知れません。苦悩・苦痛と一体となりどっぷり浸かるようにしています。痛い時には痛いでどこが悪いのでしょうか。苦しい時には苦しいでいいじゃありませんか。もし、大酒を飲んで溝にはまって足の骨が折れても気づかずに更に歩いたら大変なことになります。骨が折れたことを無しにはできません。折れた時は教わらなくても適切な処置ができます。自ら信じていることが素晴らしいと大袈裟な人が多すぎるような気がします。権威とか意味とか価値がほしいということでしょうか。困ったものです。

 思考を突き詰めている哲学者が人間を超える別の生命体に変化したということは聞いたことはありません。ただ言語を組み合わせただけの思考で何かを得たり掴んだり何者に成ったりすることに期待するほうがどうかしていたということかもしれません。

 分別(=相対)の中で思考するのか、分別以前の地点に気づけるのかには大きな差があるのでしょうか。



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一つのものが別々に見てしまう [気づき]

 今現在、私達が認識している世界があります。あらゆる生命体が個々の感覚器官を通して異なる世界を構築しています。映画館で隣り合わせに坐っていても数十センチずれているだけで異なった環境であり異なった光彩・異なった音の振動を受け取っています。入力情報がほぼ同じであっても記憶・経験・知能・感覚器官・観念・育った環境・・・等によって判断・反応が異なります。

 各々の自己の内にそれぞれの世界があるということに同意できるでしょうか。自身の世界でありながら、状況によって刻々と変わっています。青春時代に聴いた曲であってもTPOによって様々な感覚となります。全く同じ状況が続くということはありません。全てが一期一会の1回きりの瞬間を経験しています。二度とお目にかかれない今が変化変容しながら生滅しているということです。時間の中に我々がいるのではなく、時間を概念として捉えてしまっています。

 こちら側に認識している主体としての”私”がいるのでしょうか。それとも”何か(=絶対主体)”勝手に見聞覚知しているのでしょうか。

 眼前に客体としての対象を認めるようになっています。対象(=客体)によって主体があるはずだというふうに捉える癖があるようです。見る者と見られるモノという分離が生じます。対象に対して意味や価値づけして獲得すべきか逃避すべきかを決めるようになっているのでしょうか。

 このような思考回路を牛耳っている何者かが背後にいるのでしょうか。 生命体である我々は本能的に個体として存続していたい。そのためには危害を加え命を脅かす”他”を認識できなければなりません。また、生命体を維持するために食糧を摂取して生きながらえ、子孫を残すという本能があります。つまり、瞬時に危険や獲物を識別しなくてはなりません。瞬時の判断がなければ生きてはいけないというのが古い脳(=爬虫類脳)に刻まれているからでしょうか。

 

 私達はある程度の距離によって他を認識するようにできています。各生命体の行動範囲と動作スピードによって危険から逃避したり、獲物を捕獲できる距離というものがあります。猛禽類・魚・蜘蛛・蛇・猫・ネズミ・・等々はそれぞれの距離感によって行動して自らの命を守りながら食糧を調達してそれぞれが構築している世界の中で生きています。同じものが目の前にあっても、ある生命体にとっては危険かもしれないしある生命体にとっては餌となるものかもしれません。

・個々の生命体は個々の世界の中で認識して生きているのではないでしょうか。

 

 私達ヒトという生命体は、存在(=対象)から発せられる粒子・振動(=周波数)を感覚器官を通して脳内に世界を構築します。この感受された後に、記憶・経験から最適な判断を下す何らかの主体(=”我”・”私”)がいるかのように思い込んでいます。この主体(=”我”・”私”)としている物理的なモノは全体から分離・孤立しているでしょうか。ある一人の人間という個体からどんどん離れていくとします。一体どの距離までなら一人の人間として対話したりお世話したりできるのでしょうか。100kmも離れていては一人の人間として話すことも触れることもできないので特定された対象ではなくなります。単に存在していると思い込んでいるだけのことになります。次に肉体の内部さらに細胞へ、分子・原子レベルで構築されている地点では、実体としての存在を認めることはできません。素粒子レベルになれば善悪などありません。素粒子の集まりが綺麗も汚いもあるでしょうか。10m先の新聞の記事は読むことが出来ないので記事ではありません。読んでいるときだけ記事となります。

・人は、ある距離感で認識できるものだけが認識されます。認識できないものがあると言われても認識できなければ”無い”ということです。存在は認識によって存在たらしめられる。

 

<考察>

・あらゆるものを対象として見る癖がつているので自己が生じる。自己は獲得・忌避・何もしないという選択をする。常に二元対立的に分けてしまいます。この世界は分断されたものとなり混乱の中で生きていることになります。混乱の中では平安でいられません。

・世界が混乱しているのか、自らが混乱しているのでしょうか。

・一切に善悪のラベルがついていて、そのラベルを見て判断しているのでしょうか。あるきっかけで好物になったり、嫌いになったりするのは対象が変化したのか対象に対する自身が変化したのかどちらでしょうか。

 

 

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遍界不曾蔵 [気づき]

 あらゆる存在は隠されること無くあらわになっています。秘密にされていることなく、その運動・性質の法則性が後から定義されることでしかありません。誰もが重さを感じていた筈です。水の中に入れば「浮力」を感じていた筈です。アルキメデスが働きに気づき命名する前から「浮力」は至るところで働いていました。”月”が”月”と名付けられる前から、誰もが”月”の存在に気づいていました。

 積み重ねられた実験と定義と命名によって法則となり”法則名”として周知されます。隠されているのではなく、法則として見ることができなかったというだけのことです。

 

 「拈華微笑」という逸話(公案)があります。秘伝のようなものが特定の人だけに伝えられた?ということを信じていいものかという公案でしょうか。公案には、思い込みが間違いであると気づかさせる公案もあります。人は自身の判断が”正解”としています。各自の固定観念によって決めつけていることに気づきません。固定観念の数だけ正解があるということです。自身の見解を真の正解とすればするほど、他の見解は偽りだと主張することになります。自己の見解を守るには、他を攻撃する他ありません。他を認めず自らを主張します。世界の国々では主義主張を押し通すことで混乱に拍車がかかっています。

例1:看護師が女性で大型トラックを運転している人が男性だという思い込みがあります。

例2:一流のお店で飲む高額のワインは高級ワインだという思い込み。

例3:肩書がある人は漏れなくそれなりの人であるという思い込み。

例4:警察は悪いことをしないという思い込み。最近はそうでもないということに気づくようになっています。

例5:教師・僧侶・裁判官・・・は真っ当な人だという思い込み。

 各人が各人の勝手な基準(=固定観念)で社会で起こっている事象を判断しているだけのことです。正解は各自の思い込みでしかないということです。自身の固定観念を押し通そうとすると軋轢が生じて悩むことになります。誰もが自身の法(=固定観念)で裁く裁判官だということではないでしょうか。

 

 この世で隠されていることはないのですが・・・。”あるがまま”は”あるがまま”でしかないのですが、”なんとかしたい”という思惑により、二元対立(=善悪・損得・・)の判断によって混乱しています。

 お釈迦様が面倒なことをするでしょうか。スペシャルな秘伝を特別な場所で特定な人にだけ伝えるようなことを考えて実行するようでは、大した人ではありません。あなただけ特別な効能のある”壺”を売ってくれる、そんなものは正当なものでしょうか。高額なお布施を頂ければ、伝授してあげます・・・。あなただけに効能があるスペシャルな真言・・・。

 特別なこと・隠し事・特別な方法・・・はなく、”ありのまま”を”ありのままに見る(=正見)”。特別な事や、特別な人としているのは社会が認めることであって社会にまかせればいいだけの話です。些細なことに振り回されることなく、人と比べることなく平安に平凡に生きていければいいだけ。

 特別な能力を身につけなければならないのなら大変なことです。坐禅や作務では特別な能力は得られません。瞬時に分別する癖を落とし、特別な人にならなくてもいいという”当たり前”の生活が”それ”です。社会生活では、社会が必要とする能力が重宝されるのは当然のことです。”本来の自己”は”我”の活躍しているアプリケーションソフトの優劣ではなく、誰もが共通のオペレーションソフトの働きがどうなっているかを感得することかもしれません。

 何かを掴んだり何かを得たり何者かに成ろうというのが、”我(=アプリケーションソフト)”の優劣争いです。アプリケーションをいくら操作しても、オペレーションソフトを変えることはできません。競争・混乱・優劣という二元対立の分別(=アプリケーションソフトの操作)のバックグラウンドではオペレーションソフトが働いています。

 蓮華の花に秘密などありません。何も秘密などなく、お釈迦様は”綺麗な花だよね”。摩訶迦葉は”そうですね、綺麗な花ですね。ニコッ”。あえて秘伝とするなら、眼前の”当たり前”の”あるがまま”が秘伝。特別な能力と言えば”あるがまま”そのままに感得できる能力。修行して身につくものではなく、”あるがまま”を見えなくしていた”固定観念・瞬時の分別”・”余計な勘ぐり”なく素直な感性で見る。六根は誰もが清浄なのですが、”思い込み”というフィルターを通して、私の判断として異なってアウトプットされてしまっています。

 お釈迦様はアスリートのように特別な能力を身につけた人でしょうか。例えば、坐禅で鞍馬や吊り輪ができるようになると思い込んでいるとしたらどうかしています。坐禅である境地・心境に達するわかがありません。坐禅は坐禅の為にするようです。坐禅に目的があったら、”我”の思う壺です。

 何かができるようになるのではなく、余計なことをして(=分別)混乱している自身の癖を辞める。”頑張ろう”という”我”が鎮まって出てこないようになっていく。望んだわけでもなく偶然生まれたのに、どういう責任が課せられているというのでしょうか。

 

・意味・価値・秘伝・秘法・特別・・”我”の大好物です。”我”が良いとか悪いとかではなく、”我”に振り回されて平安を乱されたままで良いのかということです。

 

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考えた時にだけ現れる [気づき]

人間の脳は三層構造(人間脳、哺乳類脳、爬虫類脳)になっていることが分かっています。一番古く、生きていくための根幹をなしている爬虫類脳があります。瞬時に反射する脳であり本能のままに行動します。次に進化して作られたのが感情というフィルターを通して世界を見ることができるようになった哺乳類脳でしょうか。親子の繋がりや親愛の情を理解して行動するようです。ある程度の記憶ができ学習することができます。爬虫類脳と哺乳類脳とはストレスに対して「戦うか逃げるか」という反応をするようです。我々は直に爬虫類脳・哺乳類脳に働きかけることができるでしょうか。大脳皮質を活動させて何かを得るのではなく、大脳皮質についた癖をとるということによって正常(=清浄)な働きをするかもしれません。”我”の妄想を見破り分別以前の本来の自己を知る。

 一番新しいのが大脳新皮質であり、特に人間は言語によって思考することができるようになっています。存在しない”私”・”時間”という概念で過去・現在・未来という時間を思い浮かべ、”私”がいかにあるべきかということを考えることができるようになりました。

 他の動物から襲われることはほとんど無くなりました。人間の敵は他の動物ではなく、環境・他の人間・自分自身かもしれません。作物を貯蔵することができるようになり、農耕によって定住することが可能となりました。より多くの土地を求めて安定したいという企てによって、領土争いをしてきました。人間の最大の敵であり恐れるべきは人間であり、戦争で命を落としています。戦争の当事者は正当性を主張するのですが、勝ったほうが正しいということになります。正当性は後付でどうにでもなり、勝てば官軍負ければ賊軍ということです。

 

 ストレスから逃れ「安全・確実」に子孫を残せるようにするために有性生殖へと進化したのでしょうか。自己分裂によってコピーを作り続ける無性生殖から、環境変化に順応できるような多様性という生存形態で進化してきました。今ここに生存しているということは、命が繋がっている証拠です。他の生命体は生殖行為が終われば個体としての生存理由はなくすぐに死を迎えるようです。多くの命を食して体内に合一して生かされています。偶然に人間として生まれたのですから、生きている間に”本来の自己”に巡り会えるチャンスがあればそのチャンスを生かしたほうがいいと思われます。

 

 人間のストレスは、他の人間からの攻撃(=征服・権威・服従・従順・金銭欲・愛憎・暴力)があります。どうしても爬虫類脳・哺乳類脳が主体と成って働くようになっています。爬虫類・哺乳類の行動を抑制する中間体としての”私”を大脳皮質が作り上げたのでしょうか。

 人間社会という枠組みの中で「安心・安全」に生きていくために、言語を使い概念をこねくり回して思考することを学ぶことになります。理性に基づいた行動をするように教えられて成長します。

 ”私”・”時間”・”概念”というモノを使って思考する癖がついてしまった脳は、社会的な問題を解決することに使われます。問題の根本解決とは、問題を問題としないということです。自給自足で生きていくことができればお金に振り回されることもありません。少欲知足(清貧)であれば、無ければ無いという事実であって困ることはありません。(良寛さんは一つの鍋しかなかった)

 将来の”私”ということを考えたらどんどん不安が膨れ上がるばかりです。シミ・シワでも悩みになるのですから身体の至る所に気を使い始めたら不安で眠れなくなるかも知れません。

 

 ”私”が考えるのではなく、考えたからには考えた主体があるはずだという思い込み(=観念)で”私”がいるとしているようです。何でもかんでも”私”によって為されるとしたら大変なことです。上手く行かないということは”私”がやっているのですから”私”は思うように働いておらず、”私”が”私”を非難することになります。”私”の思いの通りになったら”私”を全面に出してどいこうする必要はなくなり”私”はいつかお払い箱になります。”私”がいようがいまいが現在起こっている”今”になるのなら、”私”は神かもしれません。世界全体の至るところで起こっているほんの一つの現象なのですが、その一つを”私”が起こしているのでしょうか。それとも一つの現象の集まりが全体の現象なのでしょうか。さざ波の一滴が海のうねりを発生させているわけではありません。海のうねり(=全体)によってさざ波の一滴としての現象があります。

 例えば、足を組み替えたというのは全体(=極端に言えば宇宙)の動きとして起こった一つの現象だということです。爪を切った・髪をとかした・歯磨きした・・・自身の一瞬一瞬の行いは宇宙の動きそのものだということかもしれません。どんな些細な出来事も、宇宙とは切り離されていないと言うことです。ちょっと背筋を伸ばすのも、宇宙的な出来事が起こったということです。違うと言うなら、些細な出来事を全てフリーズさせたら宇宙は動いていないことになります。我々が何らかのエネルギー(=宇宙エネルギー)で動いているのは間違いありません。

 

 我々人間はストレスに対処するために”私”・”時間”・”概念”というものを作り出して来ましたが、この”私”というものが何かを達成したり自らを助けてくれるという思い込みを持ってしまったかもしれません。”私”は考えたときにだけ”私”として認識してしまいます。

 

※脳の癖:瞬時に選り好み(=分別・相対)して問題としている。自らが問題を作って悩み苦しんでいる。

参考:至道無難唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う(信心銘)

 

 

 

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生は偶然、死は必然 [気づき]

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。

よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

<省略>

 知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。

 又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。

 そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。

 のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。」(鴨長明 方丈記より)

 方丈記は火災・竜巻・飢餓・地震などの天変地異を経験し、世間を観察した記録と言われています。

 

<行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。>

 川の流れは絶えること無く続いている。生命は途絶えること無く続いていて、途絶えることなかったので今ここに生きています。源泉を辿れば同じであり万物斉同ということになります。絶滅しないように、環境の変化に耐え生き残れる戦略をとったようです。有性生殖によって様々な遺伝子の組み合わせが可能になり、多様性によって変化への順応と進化が可能であったのでしょうか。源泉の水は(原初の遺伝子)は常に更新されてどこにもありません。

 今流れている水(=この身)は何だと問われても、変化変容して進化多様化した一つの現れにすぎません。生まれようと思って生まれてきたわけでもなく偶然の産物です(生は偶然)。偶然の産物に意味や価値があってもなくてもどちらでもいいし、気にすることではなく自由でいいじゃありませんか。人智の及ばないところで行われた偶然の結果に責任や義務があるでしょうか。

 偶然の産物に何かを達成する責任や義務があったら大変です。”どうしてここにいる”と問われても誰一人答えられません。これから先がどうなるか誰にも分かりません。

 

<よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。>

 淀みにできる水疱は、消えては生まれ(生滅)るということが永遠に行われています。水疱が消えずにそのままにあることなどありません。生まれたものは綺麗サッパリ消え去ることになっています。人も家も生まれては滅することになっていています。(無常)

 様々な状況で千差万別の水疱が出来ては消えていきます。水疱が何する訳ではなく時期がくればあとかたもなく消え去ります。

 

<知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。>

 どこから生まれてきたのかも知らないし、死んだらどこへいくかも知りません。空・無から生まれ空・無へと帰る。空・無など知り得ません。生死不明であるからこそ、何も持ってきていないし何も持っていけません。

 

<又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。>

 ただの仮の住居なのに、誰の(=我)ために悩み、何のために目を楽しませるのだろう。”起きて半畳寝て一畳”とあるように寝てしまえばスイートルームでもワンルームでも一緒なのですが・・。眼・耳・鼻・舌・身・意が喜ぶというのは、人によって異なります。つまり各人が勝手に心地よいと感じている個々の感覚ということになります。

 真実は一つしかありません。真実は一つであっても、受け取る各人の嗜好に依存していているということになります。タバコを吸いたい人もいれば、タバコの煙が苦手な人もいます。科学的に分析したタバコの煙が変動したり自動販売機のコーヒーが買う人によって変化することはありません。タバコの煙はタバコの煙という一つの真実があり、自動販売機のコーヒーの味はコーヒーの味という一つの真実ですが、同じ対象であっても感じ取る人の嗜好や嫌悪感によって分かれます。

 自らの習慣や嗜好によって一つしか無い真実が様々に分かれてしまいます。各自が自分の世界で生きているということになります。自分の世界を他人に押し付けたり、他人の世界を批判することで争いになっています。  

 誰もが自身の世界で安住し、自身の世界を否定されたくはありません。湿度◯%で温度◯度という環境は一つですが、人の容姿がことなるように異なった感覚として受け取っています。

 物理的に”月”と呼ばれる衛星は一つですが、見る生命体の数と同じ数の”月”があるということになります。”月”を映す水滴の数と同じく”月”があるようなものです。

 

<一人で”ドーパミン・オキシトシン・セロトニン”を分泌させるためには>

感動や運動することが必要です。多幸感・ストレス発散・免疫機能が上昇します。自己保身の為にも眼・耳・鼻・舌・身・意を通して楽しむということは当然のことです。スキンシップやおしゃべりによってもホルモンが分泌されるので、身体が要求していることに従っているということでしょうか。本能的に多幸感を得る方法を知っていて実践しています。

 

・各自の楽しみは各自の環境や嗜好によって作り上げられた各自の世界です。誰もが自分が正しいとして生きています(自己正当化)。誰もが異なっているという事実が分かれば闇雲に他人を批判できません。

・真実・事実は一つなのですが、自身の固定観念を通して様々な価値観に分けてしまいます。真実・事実を自分の世界に合わせようとして苦悩します。

・生命の多様性という戦略による現れの一つであり、各自の世界を構築して生きています。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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何も変わらない [気づき]

 修行者が望むことは、

・煩悩を克服して、さとりを得たい。

・心穏やかに生きたい。

・戒律を守ることと引き換えに何かを得たい。

・忍耐・我慢することで自分を超えたい。

・穢れた世界から脱したい。

・慢心・嫉妬などに振り回されている自分を捨てたい。

・幸せになりたい。

・満たされた人生を送りたい。

・納得する人生を送りたい。

・生きる意味を見つけたい。

・モヤモヤを解決できる答えが得たい。

・違う自分になりたい。

・迷いの世界から悟りの世界に移行したい。

・・・その他でしょうか。

 

 修行して何かを得たり掴んだり、何者かに変化したら大変なことです。修行するということは、今の自分自身を受けいれられずどこか違和感があるという前提です。自己を自己(=見る人)と対象(=見られる人・他己)という二つに分離しています。見る自己(=我)と見られる自己(=他己)、対象(=見られる人)であるということは他(=他己)であり自己と他己が同居しているということでしょうか。自己としているのが偽物の自己(=社会的な自己)であって、見られる他己はどこにも存在していません。見ている自己(=通常私)は実体として存在しているのではなく、表象として名付けられた数字の”1”のようなものです。その時々・状況に応じて何でも”1”にすることができるようなものです。真なる”1”はどこにも存在していないのですが、人の都合によって何でも”1”にすることができます。”私(=自己)”も、姿形もない10年前であっても”私”と言うことができます。赤子の頃の”私”と現在の”私”と同じであるわけがないのですが、”私”は”私”だとしています。恒常不変の”私”など存在しません。

 

 本来の自己(=ただ見えている、ただ聞こえている・・)は分別以前のただ感受しているだけの状態です。感覚を自己の思い(=固定観念)によってふるいにかけて問題としています。分別という二元対立的に捉えてしまい分裂して決めつける。決めつけたことが思いとのギャップがあれば”何とかしよう”として問題とする。問題とすれば迷うことになります。問題としない、問題とならなければ迷う必要はなくただそのままに従う。現状をそのままに受け入れた従うことができないので”苦”となります。他己(=見られる自己)は自己(=社会的な自己=我)が作り出している亡霊かもしれません。

 修行することでどっちに転ぶかわからないにも関わらず、良い方に変化することを期待して修行します。修行しても掴めるものもないし得ることも何もありません。結局は何の確証も得られないままリタイヤせざるをえないかもしれません。掴むことも得ることもなく、掴もうとしているゲームをしているだけと気づくこと。

 ”我”の思い通りになるという前提で修行します。この思い通りにすすめていこうというのがまさしく”我”だということです。変わった自分を見てやろうとしている者が”我”であって、それが問題を作り出している張本人だと気づけません。なかなか見破ることは困難です。

 

 自己成長という題目を後ろ盾に頑張っているのですから・・・。頑張っている自身を否定することは難しいことです。迷っている自身を救うのですから従わざるをえません。迷いがあるから”悟り”があるということに疑問を持ちません。分別の働く以前の「一の箭」では誰でも同じだということです。分別によって混乱をもたらしているのが”我”であって、”我”の指示を受け入れたり反抗するとますます”我”が強くなるばかりです。本来はだれもが悟っているので殊更”悟る”ということはないのですが・・・。

 

「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり」 (現成公案)

 仏法という大袈裟なところから眺めると、迷いのある自身がクローズアップされます。迷いのある自身から抜け出して”悟る”ことができた自身を見つけ出そうとします。それには修行が必要だという単純な図式通りに動き出します。”我”によって二元対立の分裂が自然と発生することになります。この世に善悪はどちらの立場に立つだけのことであったり、明暗の境目がどこにあるのかもわかりません。昨日まで賊軍だったのが勝利すれば官軍になります。◯◯主義からすれば◯◯主義を非難する方は悪であるということにしなければ自己の正当化ができません。どちらが正しいのかはどちらで生まれたという偶然性しかありません。

 事実は一つしか無いのに、二つに分離させて考える癖が染みついています。自身も思い通りの自分と思い通りになっていない自分というふうに分けてしまいます。一つの身体でありながら、二つにして見られる自分と見る自分というふうになっているのが分裂しています。見えている事実、聞こえている事実しかありません。聞こえなければ音ではないという簡単なことも分かりません。

 「誰もいない森の中で木が倒れたら音がする?」が思考対象となっています。聞こえないのに音があったら大変なことです。幻聴ということになります。火星を見ることなしに火星があるという前提で会話することもできますが、ただの空論なのですが・・・。人間には素晴らしい想像力がありますが、事実(=真理)の中に生きつづけているにもかかわらず、妄想することが出来ます。妄想と事実の境目が分からずウロウロしているので、迷っているということになっているようです。

 既に事実の中で生きているのですから、事実をさらに思いの通りにすることはできません。個人がどうしてこの宇宙での出来事を左右できるのでしょうか?事実のままに既にいきているのですから、”何も変わりません”。釈迦や老子がどうのこうの考えても所詮はただの想像でしかありません。何とかしたいという”我”を事実と融合して、おとなしくなるように”我”に同調せずに見守るということを根気よくやっていくしかありません。

 何かを得たり掴んだりすることなどなく、ましてや何者かになるということはあり得ません。思考することで、身体のシステムが激変する人がどこにいるでしょうか。人間は人間として生まれ人間として死んでいく。単純なことです。物理的な”生老病死”という”苦”を滅することなどできません。そんなことができていれ今生きています。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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誰もが既に体験しているかも [気づき]

 同じ対象であっても認識する生命体によって異なる対象として写っています。また、同じ生命体であってもその時の状況や心境で異なった捉え方をします。”ミミズ”を食糧とする鳥もいれば忌み嫌う人もいます。農家にとってはいい土を作ってくれるありがたい存在です。”竹”はパンダにとっては食糧ですが他の動物には食糧でもなんでもありません。個々にまったく異なる世界として捉えられているということかもしれません。

 海で溺れて死にそうになった人には海に近づきたくないかもしれません。真冬の海は荒れ狂っていて恐ろしく感じますが、真夏の海は魅力的に感じます。

 肌を刺すような真夏の日差しは避けたいのですが、新緑の日差しは心地よく感じまず。太陽はそのままですが、地軸が変化して気候が変化しているだけです。感受している生命体が変化を感じ取っています。

 ある生命体はモノクロの世界を見ているかもしれないし、他の生命体は極彩色で見えているかもしれません。他の生命体がどうのように感受しているかなど分かりません、あくまでも想像するだけです。

 

 偶然に同じ場所に隣り合わせ同じ光景を目の当たりにしたとしても、お互いにどんな心境でありどんな思いをしているかなど全く分かりません。  自身も瞬間瞬間に様々な思いが勝手によぎっています。自身が思いをコントロールしているのではなく状況によって変化させられているということです。自身も常に変化変容しているのに他人の変化変容している内心を知るなど不可能なことです。

 自身の内面を表現することもできないし、正確に伝えることも出来ません。他人の内面を知ることも出来ないし、正確に受け取ることも出来ません。百も承知の上で、始祖と言われる人が”悟り”・”涅槃”・”道”・・という訳のわからない概念を持ち出したのでしょうか。個人的な見解ですが、何もしない(=思考ストレスから解放され)ことで幸せホルモンが分泌されたということかもしれません。

 

 大前提ですが他人が感得したことなど知るすべもなく、照合することもできません。実際、禅の公案に”言葉”で表現したとしても、聞いた方は相手の内心を知るすべがありません。よって、何を言っても全部正解であり全部間違いということになります。表現したということでよく出来た、表現できるわけがないので不正解。公案は思考することの馬鹿らしさ愚かしさを体験することかもしれません。

 所詮”言葉”はその人が経験したことを持ち合わせている語彙から選んでいるだけです。フランス人の語彙と米国人の語彙とは異なります。フランス人が公案の答えをフランス語で言っても、聞いている方はサッパリ分かりません。

 ”言葉”では答えられないというのが本当のところかもしれません。何もわだかまりがないい地点の何もない(=空)がソレ。

 心境を”言葉”で表現した途端に心境からかけ離れたことになります。”素晴らしい”としか言いようがありません。その人の感じた”素晴らしい”という言葉を聞いたからといって、同一体験を体験することはできません。始祖がどんなに言葉匠に語りかけても”拈華微笑”とはいかないものです。ましてや文字から分かろうということは困難なことです。

 

 涅槃寂静:「煩悩、迷いや悩みが完全になくなった悟りの世界(涅槃)をいい、静かな安らぎの境地(寂静)であるということ。」とあります。貪・瞋・痴が無くなり安らかになったということでしょうか。一の箭を受けるのは始祖でも我々でも同じです。悔しい・憎らしい・悲しい・嬉しい・びっくりした・可笑しい・・・当たり前の感情であって否定することはできません。ある感情は駄目である感情はいいということなら、我々は矛盾した生命体ということになります。当然の感覚を否定して生きなさいという方がおかしなことです。”苦い”・”辛い”・”塩っぱい”・”酸っぱい”・”旨い”・・様々な味を味わってこそ料理となります。甘いものばかり食べていては甘いということに鈍感になるかもしれません。あらゆる味・香りを感じてこそ感覚が研ぎ澄まされます。

 悩みは”悪”であり悩みのないことをひたすら目指しなさいということでしょうか。悩みを自身と別物として”なんとかしよう”とすればいつまでたっても”悩み”という困ったこととしてあり続けます。悩みをジッーと味わう、悩みを解消するために逃げたり他人に八つ当たりししては自分と一体となっていません。悩みに振り回されず悩みが来たら悩みを味わうしかありません。”悔しい”は”悔しい”でいい。味わいの一つだということです。”悔しい”を自身から切り離して消滅させるできるのが”仏”でしょうか、それとも”悔しい”をとことん味わい尽くすのが”仏”でしょうか。何が起こっても(=どんな味でも)味わい尽くせれば、それこそ安らぎかもしれません。逃げ回ったり八つ当たりしたり他人に責任をなすりつけたり知らん顔したりいじめとなったり・・・一時しのぎであって安らかではありません。

 涅槃とは思考の結果として至る境地でしょうか、それとも脳の癖から脱して幸せホルモンが分泌している状態のことでしょうか。ホルモンの力は想像を絶するモノがあるようです。誰もが思春期の身体の変化を実感していることと思われます。動物は季節の変化によって身体的な行動が起こります。木々も日差しや温度・湿度の変化に影響されます。我々は精神的な変化が最後に感受されるので精神的なことが気にかかります。精神を変化させるのが思考だと思いこんでいます。肉体の変化こそが自身であって、思考によって肉体が変化したら大変なことです。“エンドルフィン”はモルヒネの6倍以上の鎮静効果と恍惚感をもたらすと言われています。”オキシトシン”は多幸感を与えてくれるそうです。思考することでホルモンが分泌するのならいいのですがそうではないらしい。思考するとストレスが溜まり疲れるばかりではないでしょうか。

 仲のいい人と触れ合ったり、犬と散歩したりゆったりと過ごしたほうがホルモンの分泌に効果があるようです。既にだれもが涅槃を味わっている

かもしれません。残念ながら涅槃という訳のわからない概念に取り憑かれて思考で追い求めていて見過ごしているかもしれません。平凡な生活の中でちょくちょく涅槃いるのに、どうでもいいことに首をつっこんで分別し”何とかしよう”として涅槃から出ているとしたら・・・・・・。

 

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二の箭を受け流せないというだけの相違点 [気づき]

箭(や)によりて」を先に読まれることをお勧めします。



<比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子と、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、なにを特異点となし、なにを特質となし、また、なにを相違とするであろうか>

 普通の人(=凡夫)と聖なる弟子との相違点があるそうです。それは身体的な相違ではありません。何かを掴んだとか何かを得た後のことではありません。修行したり経典を読んで習得したり記憶した結果によって相違するということではありません。経典を解読できる学者や写経した人や経典を暗記できたりすることである境地に達するということがあるでしょうか。宗教的な行事を修めたり、宗教知識を得たり経典を覚えることで何者かになったら大変なことです。宗教的な修練をしなかったら道が閉ざされていると宣言しているようなものです。宗教は聖者への切符を手に入れることではありません。宗教が一番の固定観念かもしれません。宗教臭さも捨てさった自身が真に自由で解放されていることかもしれません。

 身体的な感受の時点ではだれもが聖者ですが、恣意的(=固定観念を通して)に分別して二元対立的に思考してしまうことが問題です。脳の癖で自らを凡夫として混乱の中に導き入れています。善も悪も人間が勝手に定義したものであり、その人間が決めた善悪に振り回されています。”勝てば官軍負ければ賊軍”です。闘って勝ったほうが正義としているだけのことです。戦争自体が”我欲”の集大成であり狂気であり正義なんて勝手な言い訳でしありません。原子爆弾を投下して正義と言い張るところには首をひねってしまいますが・・・。

 身についてしまった脳の癖(=”我”のために何とかしようとして思考を働かせる)だと見抜いて相手にしない。私だとされている”私”は”本来の自己”ではないということです。対象(=客体・私と認識されるもの)がどうして主体であるでしょうか。私が考えた、私がしたとされている”私”は対象だということです。”私は誰?”と問うて出てくる全ては”私”ではありません。我(=”私”)が私(=本来の自己)を知るとうことはできません。知られる者(=我)が知る者を知ることができるでしょうか。見られるモノ(=対象・例えばドア)が見ている者を知ることはできません。見ている者も存在せず、見えていることだけがある。映像自体が自身で、音自体が自身で、感覚自体が自身で・・・。頭で一生懸命に理解しようとしているのが”我”。見えているそのままで無問題・No problem。

 

<比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。>

 身体的な感受は釈迦・弟子・達磨・祖師達・・我々凡夫であろうがほぼ同じです。誰もが同じ人間であり同じ身体構造を持っています。感受している感覚はほとんど同じであって、”痛い”は”痛い”であり”痛い”を”痒い”と感じる人はいません。感覚を感覚通りに感じなければ、歩くこともできません。もし、下半身に麻酔をかけられ感覚がなければ歩くことはできません。当たり前の話ですが、身体的な感覚は聖者であろうが凡夫であろうが変わりません。身体構造だけを比較すれば凡夫も聖者も異なる点はありません。聖者になると手のひらから怪しげな気を自由にコントロールしたり、宇宙の特別な場所に繋がっているという馬鹿げたことがあるわけがありません。

 ”特別”ということが”我”の特徴であるということです。”特別”に惹かれるから”特別”になりたいとおもってしまいます。”我”にとって”平凡”でいるということが一番難しいことのようです。身体的な感覚だけで終われるのなら誰もが赤子であり聖者です。大人には脳に癖がついて”言語”によって思考活動が行われてしまいます。思考・学習・知識・先人の知恵・処世術・躾・訓練によって人格を磨いて行くということになります。社会生活での適切な言葉の使用と儀礼や所作を身につけて世渡りをするということです。論語を知っていて実践できる等々の人間社会での表面上の付き合い方です。相手の気分を害さずに自己の主張を受け入れさせるように画策するというのが優れた人徳とされるのでしょうか。悪く言えば、言葉巧みに相手を丸め込む術を習得する。善く言えば相手を尊重しつつ納得してもらえるように自己の思いの通りにしたい。そこには”我”があって、”我”を通すということが前提です。仏道では”我”に振り回されない”本来の自己”を発見することであって”我”のない自分自身で生きていくことかもしれません。

 いくら道徳心があったとしても貪・瞋・痴が見え隠れしていれば偽りの道徳心かもしれません。人に道徳を教えるということは、あなたには道徳が出来ていないという前提で教えることになります。謙虚の裏には”自尊”があるということかもしれません。動物世界には謙虚なんて通じません。謙虚な動物が存在するでしょうか。謙虚は意図的であって、自然ではありません。謙虚の”虚”は上辺だけの偽りかもしれません。人間社会で考えた優しさ(=謙虚)よりも、分け隔てなく(=平等)自然な行動であればいいのですが・・・。どうしても考えるステップを経て行動するような脳の癖が抜けません。咄嗟の行動には思考が介入していません。

 例:買い物袋が破れて物が落ちたらすぐに拾ってあげる。

 自然な行いには考えなくても(=我の入る隙間・余地は無く)できるので、意図(=有為)”我”による行動ではありません。無為(=”本来の自己”)のままで行動しています。

 ”お茶を召しあがれ”と言われて考える必要はないので”我”はありません。(喫茶去という公案

”以前来た”とは”本来の自己” 考えないでできているのが”本来の自己” たった今(此間)の自分


<すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。苦なる受にたいして瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の素質が彼を捉える。また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。なぜであろうか。比丘たちよ、おろかなる凡夫は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知らないからではないか。>

 感受した刹那の後に”苦”と認識してしまい、”苦”を与えた対象に対して怒りをぶつけるとか。”我”の思うままに怒りを解消しようとしたりするのが二の箭を受けたということです。”何とかしてやろう”という”我”が主役として振る舞い、思考が追従するということで悩み苦しむということのようです。

 

<すでにわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、それは、身における受であって、心における受ではないのである。>

 ”心における受”としなければいいだけということが分かりました。どうすれば”心における受”とならないようにできるのか・・・。読経・写経・真言・印・苦行・戒律を守る・・・・・これらは補助的なことで形式的なことかもしれません。答えは”取り扱わない・取り合わない・何もしない”ということかもしれません。思考して追いかけ回しているということは”取り扱って”取り憑かれているということになります。思考で思考を止めることなどできません

 日本では人間社会への適応のために義務教育を受けます。学校教育で訓練することは”思考”を使って問題を解決するということです。”思考”こそが問題に対処する武器だと教わり続けました。何度も何度も繰り返すことで脳に癖として染みついてしまいました。洗脳ではなく染脳されています。教育が悪いというのではなく、思考は必要な時に使い闇雲に使うものではないということを学んでいないということにあります。脳を癖をとるということは困難なことです。”何もしない”・”放っておく”ということができません。二の箭を受けないようにするには・・・。

 達成ということは、努力して行動の先にあるものだというのが通常です。(無達成の達成)思考や行動という努力で達成することではありません。学びとか知識とか思考とか行動では達成できないというパラドックスです。我々は既に達成しています。何とかしようとすると離れていいき、底なし沼にはまり込んでしまいます。色々なセミナーで教わり、経典を丸暗記しても達成できません。(無達成の達成)

 

<わたしの教えをきいた弟子は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知っているからではないか。そして、欲楽を願わないから、眠れる貪欲の素質が彼を捉えないのである。また、彼は、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、よくよく知っている。それらのことをよく知っているからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えるようなことはない。>

 あらゆる事象は消えて無くなるので変化(=無常)しています。混乱から脱出するには、ただ放っておけば霧散するという経験を重ねる他ありません。”我”は考え続けることで”我”を生き続けさせます。”我”が”我”であり続けるために考えて考えている主体があるということで”我”を”我”としています。(我思いう故に我あり)自らが混乱の中にいることで自らの存在を可能としているという、馬鹿げた一人芝居を続けています。

 

<心にそうも、そわざるも
みなことごとく消えはてて
清浄無垢の道を行き
彼の岸にこそ立てるなれ>

 思考すべき時以外で様々な思いがわき起こっても”つき合わず”知らんぷり。状況が変化すると勝手に思いがわき起こってきます。自分で思いをコントロールしてるわけではないので、自分の考えではありません。やみくもに思考を追いかけ回さずに、必要な時に思考を使ってあげればいいだけなのですが・・・。どうでもいい思考を追いかけ回さない限り、必ずどこかへ消え去っていきます。”自分(=我)の為に何とかしよう”というのが”我”であって真我ではありません。自分為にやっているのがどうして悪いのか、その”我”に悩まされ続けていませんか。”何とか”しなくても”何とか”なっています。以前の悩みは続いているでしうかそれとも消えているでしょうか。思い出せばありますが、今は今を生きているだけです。考えなければならないとき以外は、どんな思いがわき起こっても相手にせずに気にかけなければ既に彼の岸(=寂滅の状態)にいるかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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誰もが既に「それ」 [気づき]

 猿は人間にはなれません。犬は人間にはなれません。タコは人間にはなれません。猿が猿を逸脱・超越した猿以外の何かになれません。猿は猿にはなれません。犬は犬にはなれません。タコはタコにはなれません。猿から遺伝子を受け継いで猿として生まれたのに他の何かになったら猿としての存在は絶えています。遺伝子の交配によって徐々に変異があるということは周知のことです。

 釈迦はヒトから生まれヒトとしての生命体を全うしました。”仏”という概念になったわけではありません。肉体はあとかたもなく消え去り、この世に存在していません。

 苦行したり坐り続けたり思考したり・・・ヒトを超越した何かになったら大変なことです。単に「我」による妄想が妄想でしかなかったということを見抜いただけのことかもしれません。思考することで”何かできる”という呪縛から解放され自由になり赤子のようにありのままの世界で生きれるようになったということでしょうか。

 

<殺仏殺祖>

 逢仏殺仏。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱。(臨済録)

 

 仏に逢うては仏を殺せ。・・親族に逢うては親族を殺せ。何とも過激な言葉が使われています。言葉通り真に受ける人はいないと思います。仏・祖・羅漢・父母・親眷は人間が作り出した概念であって、逢うということは誰かをその概念で見てしまうということかもしれません。この錯覚・妄想を消し去りなさい。いつまでも概念の世界(=有為の奥山)に留まっていては無為で生きていくことはできないということでしょうか。

 何か(=苦行・思考・・・)で何かに到達するという思い込み(=観念)に囚われては行けない。何者かになるわけではなく、しつこい脳の癖(=我を張る)から抜け出すことがいかに難しいかということです。言葉で迷ったことを、言葉で目覚めさせるには過激な言葉を使うのが一番です。脳の癖(=眠りこけている)から目覚めるには概念を取り去ることです。

 

 私達は概念(=言葉による定義)と観念(=決めつけ・思い込み)を使って、勝手に一人芝居をしています。自らが問題を作って自らが悩み苦しんでいるということでしょうか。父母や親戚を選んで生まれてきたわけではありません。偶然に誰かの精子と卵子が受精しこの世に生命体として出現しただけです。”生命”そのものが生命体と通して躍動しています。生命が生命体を通して生命として生命を味わっている。

 人間社会に生まれてしまったのですから、既に作られている社会という場で生きていかなければなりません。人間が作り出した社会でのルールを教わらなければなりません。生命体を持続するために”自我”という自己保身のために作られた表象を使って生きているということです。

 

 他人の世界を知ることも立ち入ることもできません。過去は記憶の中にあるだけです。自他を区別するのは自己(=自我)という分別があります。都合の良い(=保身の為)ように言っているやつ(=自我)が問題を起こしています。この自分(=自意識)を見抜けばいいだけなのですが・・・。”たった今これ”しかないというのが終着であり出発点。思いに使われなくなり、思いを使えるようになったほうがいいということです。

 

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別々の世界で生きている [気づき]

 コペルニクス的転回(=発想を根本的に転換)が必要とされます。物理的には存在は一つであり宇宙も世界も一つです。存在は一つでも見ている生命体によって全く異なっています。一人の”おじさん”は見ている生命体によって異なります。区の役員・スポーツクラブの監督・夫・父・子・孫・祖父・会社員・飲んだくれ・友人・ただのおじさん・通行人・自転車に乗っている人・買い物客・お客・乗降客・案内人・ボランティア・おしゃべりな人・掃除している人・飼い主・餌をくれる人・水をまいている人・・・・・。”おじさん”との関係性・立場・見られた時の状況によって異なる人として認識されます。本当のその人は誰かは分からず、その時々に出会った丁度当てはまるアイデンティティで見ているとしているだけのことです。見られている我々は見る人によります。本当の”あなた”は誰なのかサッパリ分かりません。他人を見ているつもりなのですた、ある瞬間だけであって一体何を見ているのでしょうか。

 

 宇宙・世界・存在は個々の生命体ごとの感受(=認識)として展開されています。各生命体が各生命体固有(唯一無二)の宇宙・世界・存在があるということです。生命体が生命体としての働きが終わってしまえば、その生命体が感受(=認識)していた宇宙・世界・存在の全てが消え去ってしまいます。宇宙・世界・存在は各生命体のスクリーンに映し出されています。

 ”月”は一つではなく生命体の数だけ”月”があるということになります。例えば野に咲く”花”も蝶・鳥・虫・人・・・によって異なる対象として認識されます。

 各生命体は他の生命体が感受している宇宙・世界・存在を直知することはできません。自身の感受している世界を他の生命体に知られることもありません。

 ”痛み”の感覚も各生命体によって異なる感覚であり、その生命体が感じている”痛み”は固有の感覚であって他の生命体がその”痛み”の感覚をそのままに感じることはできません。各生命体には固有の世界が展開されており、自身の世界での出来事は自身の問題であり自身でしか分かりません。似て非なるものが各生命体の世界なのかもしれません。生命体の源泉をたどればたった1つの細胞であり、源泉は同じであり同じ源であり多様性によって異なる現れとしてあるだけです。決められた解釈・価値・意味がないので、自由に解釈・価値・意味をつけることができます。

 誰もが一つの”月”を見たとしても、詩にしたり絵にしたり音楽にしたり勝手に自身の思いによってイメージを膨らませています。何が一つの”月”を異なる”月”に転換させているのでしょうか。それは”私”という主観の出処となっている”自意識”によります。”自意識”の分別心(=二元)というフィルターによって”あるがまま”が歪曲されて感じられるのでしょうか。

 

 ”自意識”は有為(=計らい)であり思考によってなんとかしようという意図をもった働きでしょうか。この”自意識”によって”あるがまま”が瞬時に色づけされて”私”というありもしない表象が働くことになります。主体となった”私”は解釈・価値・意味をつけるために言語を用いて概念化します。言語による概念は二元対立であり”美”には”醜”という概念がないと説明できません。”善”は”悪”なくして語ることはできません。

 何もしない(=思考に取り扱わない・放っておく)ことで、”自意識”の働きが弱まるとフィルターを通さずに”あるがまま”がダイレクトに映し出されるようになるかもしれません。今まで見えていた景色が、初めて地上に降り立ったように”新鮮に見えた”という体験談があります。固定観念なる”私”という自意識なくダイレクトに脳内スクリーンに映し出された映像が見えたのでしょうか。

 ”私”と二元対立という概念によって葛藤・混乱による世界をみているという見抜き。何もしないということによって色のついたフィルターを徐々にクリアにしていくことでダイレクトに世界を味わえるかもしれません。

 

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「有為の奥山」で頑張らなくてもいい [気づき]

 あらゆる問題は全体と分離した”私”という感覚と、その”私”が自然に抱く「自分かわいい」を具現化したいことに由来しているかもしれません。

 誰もが安全・安心・便利・快適を希求して止みません。名前をつけられ、分離した”個人”として育てられ、教育を受けてきました。この現象世界(=有為の奥山)で何かを掴んだり捉えたり得たりひとかどの人間にならなければとされています。”たった今ここ”で自らが何を掴んで何を捉え何者になったのかと自問自答しても、返すことができるものは見つかりません。一般的にはアイデンティティ・身につけた技能・立ち居振る舞い・知識・・・のようなものかもしれません。知識は手のひらサイズの電子辞書には遥かに及ばないし、インターネットで検索すれば瞬時に答えらしきものを探し出すことができます。ただ老いた身体と向き合っている現実があるだけです。

 

 これから先も何かを掴んだり捉えたり得たりしても、一時の慰め程度のものなのでしょうか。方丈記に「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。 」という一節があります。

 どこから来てどこに行くかも分かっていないのに、人生は意味や価値があるものだと思い込まされたり思い込んだりしているのでしょうか。人生に意味や価値があるということを、一体誰がどこでどのように決めたのかサッパリ分かりません。分かろうとすることは分かっていないことを感じていて、分かることで得すると感じているということです。

 何者かになろうとすることは何者ではないということを感じていて、何者かになることで得すると感じている。常に”私”という感覚を持ち続けていることで”私”という何かがあるかのようにしているだけかもしれません。恒常不変で一定した”天気”なんてどこにもなく常に変化変容しています。恒常不変な”私”もないのですが、”私”を後づけしてあたかも存在しているかのようにしています。

 

 この世に一時的に生命体を得て出現しているだけ。一体誰のために心を悩まして、何のために目を嬉しく思わせようとしているのかということです。身体も感受も無常であって何も残るようなことはないようです。朝顔の露には様々な様子が映し出されるだけで残ることはありません。身体に”私”がついているのか、”私”に身体がついているのか。そんなことも分からずに”たった今”はどこかに消え去ってしまいます。

 

 有為の奥山で、何かを掴んだり捉えたり得たり頑張ることで苦悩を生み出しているかもしれません。”私”というものが”空っぽ”であり存在しないものにつけられた表象だと見抜く。そもそもが”空っぽ”なのだから求めることもなく捉えることも掴むこともできないと理解できれば安心・安全・快適を手にしているかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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得ることではないらしい [気づき]

 人類史上、様々な人が出現してきました。例えば、物理法則の発見者・探検家・科学者・物理学者・数学者・発明家・医学者・政治家・英雄・侵略者・小説家・詩人・作曲家・芸術家・アスリート・富豪・武将・映画監督・俳優・武術家・格闘家・宗教家・・・。学校で教わったり、眼で見てたり耳で聞いたり実験で体験したりできるものもあります。彼等が何を成し遂げたかを知っています。彼等が描いた絵・楽譜・剣術・公式・論文・映画・解剖図・地図・詩・・・彼等の業績を真似ようと努力することも、到底及ばないと諦めることもできます。例えば、自身の音楽的な能力を直視してみると、楽譜が読めない・音痴・楽器の演奏も出来ない・・・そうであれば作曲家になろうとはしません。運動音痴であれば、オリンピック選手を目指すことを諦めます。平気で嘘をつけないなら詐欺師にはなれません。一つの研究に何十年も没頭できなければ研究者にはなれません。

 ノウハウを教わったり・技能を修得したり・知識を憶えたり・修行したり・先人の技術を受け継いだり・国家資格を得たり・国家試験で免許を取得したり・記録を達成したり・・・・身体を使った努力や頭を使った思考や記憶によって何をすべきか、何かを掴んだりが分かっていれば専門学校に入学してある程度の素養を得ることができる可能性があります。

 芸術作品を模倣したとしても、作者の創造過程や感性・境遇・情熱・・をそのまま同じであることはできません。また、同じであれば個性が失われ独自の作品を否定することになります。

・ 彼を知り己を知れば百戦殆からず

・絵心がなければ画家には向いていません

・運動音痴であればアスリートには向いていません

・人には向き不向きがあり、何でもかんでもチャレンジすることはしないようです

 

 禅では、知識ではなく「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」であって教義を学んで得たり掴んだりすることではないと言っています。坐禅(=思考の癖から脱する)によって”何もしない”ことによって、”私”の不在を確証します。私達は時空間を使って思考します。思考は時間(=過去・現在・未来)と空間を前提にどんどん展開します。時間は概念であってモノを扱うように時間を得たり捨てたり出現させたり消したり交換したり掴んだりすることはできません。時間は存在していると思いこんでいるだけで”たった今”が生滅していて繋がってはいません。

 1分前はどこにも存在していないし、1分後もどこにも存在していません。1分後も”たった今”という瞬間があるだけで消滅してしまいます。

 空間もモノのように得たり作ったり出現させたり消滅したり交換したりすることはできません。我々の中心は何処にも動いてはいません。自身の身体が在るところが”ここ”であって、”ここ”は動くことはありません。今居る場所が”ここ”であって、”ここ”が中心であって周りの空間を認識できます。ある空間に”ここ”がやってくるわけではありません。朝起きてから”ここ”が自身にくっついて移動し、会社の自分の席に”ここ”が移動してくるのでしょうか。家にあった”ここ”が、会社に到達する前から”ここ”が会社に存在していているのでしょうか。決められている”ここ”に私が座ればいいのか、座った席が”ここ”となるのかどちらでしょうか。”ここが私の席”と言えば良いのか”私の席はここ”だと言えば良いのかどちらでしょうか。身体の在るところが”ここ”であって、決められた場所であっても身体がなければ”ここ”は存在していません。極端に言えば、”たった今”感受できていることだけが実在であり、それ以外はあるであろいうという思い込みで作られた世界ということかもしれません。

 有名人の”訃報”を聞いて、死亡した後に知ることができます。知るまでは”生きている”と思い込んでいたということになります。事実と思い込みは異なっているということです。我々のイメージにあるブラジルの熱帯雨林はただのイメージの思い込みです。実際の姿と思い込みとは異なっています。時間も空間もただの思い込みと言っては過言でしょうか。

 感受して自身の内に展開されているのが世界だということになります。思い込みはただの思い込みであって思い込みの世界であり現実の世界ではありません。

 過去も未来も無く”たった今”だけが永遠に生滅している。”ここ”という空間だけがあり、それ以外は思い込みの空間かもしれません。時間も空間も生まれていないので無くなることはありません。(不生不滅)熟睡している時には時間や空間は存在しているでしょうか。

 

 お釈迦様や覚者が何かを掴んだり得たりしたのなら大変なことです。そうであれば、我々にこれこれを掴みなさい得なさいという教えてくれなければなりません。どうもそうではなく、普段の生活は”一切皆苦”であり、迷いの中でいきています。十二縁起を観察することで、実体がない無常であることを見抜き脱しなさいということ。

 お釈迦様は何かを知識として掴んだり得たりしたのではない。もし掴んだり得たりした何かが記憶されたことで心境が持続されるのであれば、他の覚者もお釈迦様の掴んだものや得たものと完全に一致していなければ偽りの覚者ということになります。

 お釈迦様の掴んだり得たものがどいうものか分かる人がいるでしょうか。もし、掴んだり得たりしたものがあるのなら、お釈迦様と一致していると証明できなければ嘘っぱちということになります。数学の問題を解いて答えが一致するようなことでなければ、掴んだり得たものが正解かどうかどのようにして判定するのでしょうか。

 「拈華微笑」という言葉があるように、師は弟子の力量がどの程度なのか知ることができますが、弟子は自身の力量がどの程度なのか知るすべはありません。山の頂上の景色は登った人しか見ることはできません。

 掴んだり得たりしたモノ(=知識・心境・・)がどういうものかを分からずにチャレンジするということは、向こう見ずのお人好しということになります。苦行をしたり経典を読んだりして試行錯誤を重ねたとしても、何を掴んだのか何を得ることができるのでしょうか。その掴んだモノや得たものが正解でありお釈迦様の得たものと完全に一致するわけはありません。

 作曲方法を教わったとして、聴いたこともないショパンの曲と完全に一致した曲を作曲できるでしょうか。絵画の勉強をして、見たこともないピカソの絵と完全に一致した絵を描くことができるでしょうか。

 誰かが掴んだり得たりしてモノと同じということは不可能です。あまりに変数(=文化・言語・年齢・経験・性格・・・)が多すぎ、全く異なる変数から算出して答えが一致するということは無理だということのようです。

 

 ヒトとしての身体構造と感受する機能や働きは同じです。お釈迦様であろうが我々であろうが同じような身体なら、”痛み”・”快感”・”臭い”・・五感で感受することに違いはありません。ただ感受したものにどう反応するかが問題です。老・病・死を克服して老いなかったわけでもないし、病気をしなかったわけでもなく、死ななかったわけでもありません。肉体的・物理的な苦を解消できたわけではありません。誰でもが平等に”痛い”し、誰もが”老い”ます。苦を大袈裟に問題にする”私”というものがどこにもいないということを見抜いたということでしょうか。

 分別以前はお釈迦様であろうが我々であろうが異なることはありません。ただ見えているただ聞こえているただ草取りをしているただ食べているただ歩いている・・・・。お釈迦様でも我々でも異なることはありません。

 ”当たり前”のことに対して”自分かわいい”を持ち出して、”思いの通りになんとかしたい”と悩み”問題”としているのが覚者でしょうか。

 

 私達は、解決すべき問題があるという前提で思考する”癖”がついています。自身に問うてみます人は考えていない時に悩むことができるだろうか。」

 考えるということは、考える事(=なんとかしようと)が起こった後に考えます。また、起こってもいないことも考えます。つまり、”たった今”のことは考えられません。”たった今”は問題にならないということです。私達は”たった今”にしか生きていないので、問題はないということになります。過去や未来を持ち出すと問題になります。考えることで問題を作っていると気づきます。”たった今”を見逃して(=過去や未来にかまけている)生きているかもしれません。

 どうでもいいことや、どうすることもできないことを患い、ついつい脳の”癖”によって考えてしまい”問題”となります。この考え続けることでいつまでも”問題”が重くのしかかったままでいることに気づいてもいいかもしれません。極端な例ですが、科学者でもない一般人が”火星移住”について悩む必要はありません。バッタの被害で困っている所に行けもしないのに悩む必要があるでしょうか。自分では解決できないことに頭を悩ます必要があるでしょうか。

 平安でいたいのなら、わき起こる”おしゃべり”につきあわない訓練をする必要があります。思考に囚われずに”ボッー”とする時間も必要かもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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生命体と生命 [気づき]

人は誰でも「自分かわいい」が最優先であり、安心・安全・平安・自由でいたい・幸せ・望み通りに実現させたい・快適・特別でありたい・知っていたい・・・・。思いのまま(=悩むことなく)に自由気ままに生きていきたい。このように思うということは、実生活に制限があり束縛があるということを実感しているからに他ありません。満たされない自身を不憫に思い悲惨な現実から”なんとか”救い出してあげたい。この世で生きるということは”苦”であるという前提で生きているのでしょうか。

 完璧な財力・権力・知力・才能・健康・・を持ってこそ幸せが実現できると思っていたら大変なんことです。実現することはほぼ不可能なことです。

 

 他人と比較しても意味はありません。この生命体は宇宙開闢以来、この身(=生命体)を通して見聞覚知している生命そのものです。

 あらゆる生命体を通して生命が躍動しいます。単なる一個の生命体ではなく生命という全体として観察しているという視点を持つのもいいかもしれません。”私”という生命体という殻を破り、万物斉同であって”私”も”あなた”も”それ・これ”もありません。

 

 認識される対象(=客体)によって”私(=主体)”という感覚があるとします。もし、対象が認識されなければ(=熟睡時・死)”私(=主体)”は無いということになります。意識がないときに”お名前は?”と聞かれても”私”が出てくることはありません。知覚できなければ”私”という思いないということになります。誰もが”私”というものが無くても何も困らずにいきています。対象を認識したとき・ふと振り返った時・”何とかしよう”と思った時・・・”私”という表象を自然に使って処理しているだけのことかもしれません。無理やり”私”を出現させては困った困ったと騒いでいます。自縄自縛の一人芝居をやっているかもしれません。

 対象(=客体)によって”私がある”としているので、対象=”私がある”ということになります。対象によって”私”が形成されるということは、対象がそのまま”私”であると言ってもいいかもしれません。ただ見えている、ただ聞こえている、ただ動いている・・・・。ただ◯◯にはどこにも”私”はいません。

 

 外の存在が世界でしょうか、それとも各生命体で展開されているのが世界でしょうか。鳥が感受している世界ではミミズが好物ですが、我々が展開している世界でもミミズが普通に食べるものでしょうか。ネズミを生で食べたいでしょうか?・・・・まったく異なる世界が展開されています。

 生命体の”鏡(=脳内スクリーン)”に映し出されるモノはそのまま自身の映像です。生命体の外にある映像ではありません。対象であるときめつけていたモノは”私”を”私”たらしめているモノであり、”私”から分離させて取り外すことのできない映像です。外にある存在と思い込んでいるだけで、実際には自身から取り外すことの出来ない一体の映像として分離することの出来ないモノです。

 生命体は動いているように見えますが生命は全体であるとすれば、全体が時間や距離を移動できるでしょうか。

 <実験>

 どちらの手でもかまいませんが、人差し指を立ててみぞおちあたりにくっつけます。指先を見て移動してみると、自分が動いているのではなく周りが自分の方に向かってくるように見えます。自分は移動せずに周りが動いているように見えます。自撮りのカメラで移動すると、自分は動かずに周りの風景だけが変化するのと同じです。

 

 この五感を備えた生命体は見る者であり、”鏡(=脳内スクリーン)”に映し出されている映像は生命によって見られています。生命体と認識するのか、生命体を通して働いている生命(=エネルギー)そのものが我々の本質なのでしょうか。様々な姿・形を持った生命体がありますが、どの生命体であっても生命体を動かしている生命が宿っているということに気づいてみるのもいいかもしれません。生命が生命を互いに見ています。見る者と見られるモノは切り離されておらず一体ということでしょうか。

 

 

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有為の奥山 [気づき]

 様々な悩みから自由になりたいということは、自分の思う通りにしたいということと同じことでしょうか。どうしても”私”という何かがどこかにいて、考えることで”何とかできる”という”癖”から抜け出せないことによるかもしれません。”思考”によって自由になれるでしょうか、”思考”しつづけるかぎり”私”というものを出現させてしまいます。

 ”我思う、故に我あり”というのは、思いが”我”を出現させているということかもしれません。目の前のPCは”私”ではないと知っています。知られるモノ・認識できるモノは”私”ではありません。身体は知られるモノであり”私”ではありません。この”分かろうとしている思い”も知られているので”私”ではなく、わき起こってくるものの一つです。”本来の自己”を知ろうとしているのは、仮想の”私”であって”本来の自己”ではありません。

 対象とされ知覚されるモノ(物質・感覚・感情・思い)は”本来の自己”ではありません。

 知ろうとする限り知るモノ(=対象)であり、”本来の自己”ではありません。探求して見るかるものは、知られるモノであって”本来の自己”ではありません。

 

 熟睡している時に熟睡していると知ることはできません。目が覚めてから熟睡していたと感じるだけです。”私”という思いが幼少期から教え込まれて想起する習慣づけ(=癖)されたものだということです。社会生活を送るためにどうしても”私”という自意識がなければなりません。社会全体で作り上げた”私”という自意識によって悩み続けたり妄想したりしています。”私”がいて”思考”して生活しているのが”当たり前”となっています。なにかを掴んだり何かを捉えたり何者かになれるという”有為の奥山”にいる限り”私”という呪縛から自由になるのは難しいということでしょうか。

 

 

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分別する癖 [気づき]

 QC(=品質管理)で問題(=困っていること)とは、”現状”と”あるべき姿”とのギャップです。将来の希望(=こうあるべき)という望まれる姿と現実との乖離を”なんとかして”解決したいということです。QC7つ道具という手法を使って問題を解決(=あるべき姿に近づける)していきます。ブレーンストーミング(=結論厳禁・自由奔放・質より量・便乗歓迎)によってアイディアを付箋に書き出していきます。出てきたアイディアを大きな紙に書いて誰もが目にでき、実行可能なものを選択して実施します。

 私達自身の問題(=困っていること)は、過去のわだかまりを消し去りたいとか未来の希望を叶えたいということかもしれません。”たった今”を変更することはできません。過去は既に消え去っているし、未来も全く分かりません。会社であれば誰かが抜けても補充されますから、会社自体は残っており未来を考えてもあまり支障はないかもしれません。大事なことは、問題は無くならないということです。何故ならこの世は無常であって常に変化変容していて同じままであることができません。

 

 何かを掴んだり得たり成ったとしても一時的であり、その状態は必ず消え去り別の状態へと変わる(=無常)ということです。登頂(=掴む・得る)できたなら必ず下山することになります。旅行の目的地へ行った(=掴む・得る)としても必ず戻ってきます。人間社会での本人のアイデンティティ一切合切は、”死”によってゼロとなります。もし、”悟り”が何かを掴んだり得たり成ったりする状態(=心境)であれば一時的なものを望んでいることになります。それも”悟り”が何だか分かっていれば望む必要はないのですが、分からないで掴もうとしているのですから馬鹿げた探求をしていることになります。探求者は覚者の言葉を自分なりに解釈していることになります。鉱物は見本があるので求めている鉱物だと確認できます。重さ・距離・時間・色・音の大きさ・・・に基準となるものがあり、その基準のコピーを使うことで正確性が担保されます。ただの言葉と心境をすり合わせて正確性を担保することができるでしょうか。”解る”ということは一切の疑問が無くなったことかもしれます。ある問題の疑問が霧散し消え去ります。解ったということは、掴む得る成るのではなく霧散するものでなければなりません。

 

 私達は一体いつになったら考えることから解放されるのでしょうか。学校教育で考えて解決するということを何度も何度も教え込まれ、考えるという事に疑問を呈することはありませんでした。どんなに考えても悩みが消えることはありません。何故ならこのは世の中が無常であって”思いの通り”にはならないという”当たり前”のことだからです。人類が思考してきた膨大な時間があるにもかかわらず、考えることが止まないということは思考で解決されることがないという明らかな証拠です。

 

 私達は気になることを問題として考える”癖”があります。自分の身体があるかどうかも気にならないくらいであれば、健康について気にすることはありません。健康すぎて”気にする”ことがあるでしょうか。思考していないということは気にしてなんとかしようということがないということです。問題がないということは、既に平安だということかもしれません。

 思考で人間関係を改善させたり老いなくしたり病気にならないようにしたりする事は物理的に無理なことです。この無常な世界で老・病・死を滅することなどできません。

 問題が滅することはなく、問題とすることがなければそれで問題はありません。”なんとかならないこと(=老・病・死)”を”なんとかしよう”と考えてもどうしょうもありません。

 私達の誰もが既に悟っていなかったら、悟るということは不可能なことではないでしょうか。分かっていないことをどこをどうやって探求するのでしょうか。分別して問題を作っているということが問題だということです。私達は思考で別人になることはできません。思考する以前の見えたまま聞こえたままの自身が本来の我々であって、分別によって多様な人として社会的な自己として振る舞っているかもしれません。

 

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無垢な赤子 [気づき]

 無垢な赤子から幼児・子供・年少者・青年・中年・壮年・高齢者へとどのような変化があるのでしょうか。目覚めたと言われる人と我々凡人とどこがどのように違うのでしょうか。

 赤子の時は自身の心身がどうなっているかよく分かっておらず、目の前に突然誰かの顔が現れたり、様々な音が勝手に聞こえてきたり空腹になると大きな声が勝手に出て飲み物が口から注がれる。声が出たり伸びたり縮んだり勝手に排出したりと大騒ぎのまま日々が過ぎていきます。

 幼児に成長していくと、自身に名前がついていていつも近くに自分を世話してくれる大きな身体の”親”と言われている人がいる。自分には識別名(=名前)がある。他(=大人)が存在し自身は小さな(=幼児)身体であると認識します。

 物は所有されていて、誰かの物だとか昨日とか明日という時間の概念が芽生えてきます。親に褒められたり叱られたりすることで良いことと悪いことがあると気づくようになります。

 長くなるので省略しますが、服装・髪型・遊び等の違いを察知して男女という違いを自ら認識するようになります。遠くに連れて行ってもらうことで様々な体験や景色(海・山・温泉・遊園地・スキー場)を見ることができます。世界は広いということに気づきます。

 学校に入ると”成績”というものによって優劣がつけられると感じさせられます。遠くの見知らぬ人と出会うことで、自身は◯◯市の住民であったり、◯◯県の人であると認識するようになります。異なった言語・文化・歴史・宗教・髪の色・目の色の違いを間近に見ることで自身が日本人であることを認識します。

 自らを主体として様々な対象(=客体)を見ることによって、自らがどんな人間であると勝手に決めつけてしまいます。

 

 人間社会で社会人として様々なことを覚えさせられ、自身が何者かということが自然と認識されるようになります。それはあくまでも人間社会の自身が何者かであって、カラス・犬・猫・・からすれば日本人でも◯◯県に住んでいる人でもなく性別も関係ありません。動物にとっては人間がどんな仕事をしているかを知る意味もありません。人間は社会で自己の立ち位置を確立するために、自らをアイデンティティによって定義します。人間社会で”私は誰か”を自問自答すれば自らのアイデンティティこそが自分自身であり、判断基準(=固定観念)こそ自分であるとしているのでしょうか。”私”だと思っているのは勝手に自身で定義している単なる思い込みに過ぎません。

 

 人間の身体的な働きでは、彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・・)と我々はが異なるということはありません。痛い・痒い・苦しい・悲しい・うれしい・楽しい・驚き・気づき・・・五感での感受・身体的反応が異なるということはありえません。

 赤子の時の彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・・)と我々が赤子であった時と異なっているはずがありません。異なっているとしたら人間ではなかったことになります。物心がつくようになり、彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・)が成長して獲得した経験・知見・知識・・・・・によって作り上げられた何か(=心境)が全く一致するということがあるでしょうか。

 例えば、ほとんど同じ材質のレゴブロックを説明書通りに組み立てればそっくりな完成品ができます。料理で例えるなら、似たような食材と調理器具でレシピ通りに作れば似たような料理ができあがります。体格・性別・運動神経が多少異なっていても練習すれば似たような動作ができるようになります。スポーツにおいては身体的な個人差がある場合は大きな差異があることは否定できません。オリンピアンと普通の我々とは雲泥の差があります。

 

 精神面の話になりますが、異なる国・文化・教育・社会体制・言語で同じように成長しても同じような考え方を持つわけではありません。成長段階で思考してきた積み重ねによって、ある境地がまったく一致することなどありえません。例えば、ある液体(生まれた時代・国・環境がことなる人)に様々な物質(経験・知見・知識・・)を混ぜ合わせて、その液体がまったく同質の液体になることがあるでしょうか。

 

 ベースが異なる人が、思い思いに思考することで何かを掴んだり得たりするとします。その掴んだ何かや得た何かがどうやって一致するのでしょうか。知識や思考で何かを掴んだり得たりするかもしれませんが、勝手な自分の妄想で終わることになります。

 見抜くべきことは、様々な物質(経験・知見・知識・・)が混ぜ合わさった液体を通して見えているものがあります。その見えているものは、自身が作り上げた妄想(=偽物)であると気づくことです。”混ざった液体(=固定観念)を通して分別する”という癖がついています。この癖になかなか気づきません。気づかないということは疑うこともありません。この癖から脱しようとすることもありません。癖によって白黒を決めつけて自らを縛っているかもしれません。同じ事象を見ているのに意見が別れてしまいます。固定観念というフィルターを通して分別しています。

 彼等(釈迦・達磨・道元・親鸞・)は、混ぜ合わさった液体(=固定観念)が入っていない空の透明なガラス容器を通して世界を見ることができていたかもしれません。

 

 見えているものに善悪はありません。聞こえた音に善悪はありません。浮かび上がってくる思いに善悪はありませんが、自分の”思い”だとすれば自分(=我)が善悪の責任をとることになります。こんな”思い”の自分ではいけないとして自己否定することになります。

 どんな”思い”が浮かんでくるかなどサッパリ分かりません。脳はイベント駆動であり予測によって様々な”思い”が浮かんできて、脳が最善だとした思いが強くなりその”思い”が自分が下した決断だとあとづけしているだけかもしれません。階段を降りているときに濡れている箇所が見えたら避けて降りるように脳が決断していて、後から自分が避けたとしている。自分が見ているのではなく見えている現象に”私”は存在していません。

 

 自分というものが実在していると思っていますが、ただの概念だということです。思ったときだけ”私”があって、その私をなんとかしようと思うから”私”という思いがいつまでも消えません。実在していない”私”、どこに居座っているのかわからない浮雲・水と同じく変化変容していてとらえどころのない幻想の”私”に振り回されています。

 本来の自己には、性別・年齢・国籍・・・はなくただの観察そのもの。思ったら思ってしまし思ったことはすでに消えています。消えたことを扱ってもどうにもなりません。過去と格闘したり、未知の未来を相手にしていては”たった今”をないがしろにして”たった今”を浪費することになります。何を考えているかを黙ってやり過ごすことを積み重ね、分別以前の赤子のように世界が見えるようになるかもしれません。

 

 

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知る [気づき]

当たり前のことですが、存在・現象が先で何かを伝えたいということから言語が生まれました。存在・現象を表象する音(=言葉)と形(=文字)が言語です。絶対的な”一”である存在を適当に分割して概念化しました。”一”であった全体を”多”に分離分割して見るようになったということ。生命体は”自分かわいい”という本能によって、自身にとって意味や価値があるかを常に分別しなければなりません。動物はその種特有の器官を発達させることで事前に危険を察知することで危険を回避しています。

 繁殖や食料調達のために器官を変化変容して環境の中で存続することで今日まで生命を繋いでいます。

 

 言語で存在・現象を起こすことはできません。もし、言語で何かが出現したり現象が起こったら大変なことです。誰かが言葉で現象(竜巻・大雪・津波・嵐・地震・大雨・・・)を起こしたり、青龍・朱雀・白虎・玄武が出現するのはアニメや映画の中だけのことにしてもらいたいとお願いすることになります。現実に言葉や文字で何かが現実に出現したことなどありません。妄想は小説・絵本・アニメ・映画・絵画・・・だけにしてもらいたものです。神秘的なことはほとんど妄想であって、そんな神秘的なことを期待することから目覚めて現実を生きなければ・・・。大変な時は大変でいいし、辛い時は辛いままでいい。そのときに味わえなかったらいつ味わえるのでしょうか。

 何を勘違いしているのか真言(=マントラ)を唱えて何かを掴んだり得たり変化変容させることができるかのように信じている人がいるようです。願いを言葉に託して”何かを引き寄せる”とか・・・。

 言語の力ではなく、真言(=マントラ)だけを集中して唱えることで雑念や妄想から解放され、潜在意識に働きかけ自らを自動的に一つの思いへと駆り立てることが出来たということかもしれません。

 真言(=マントラ)は何でもよく外国人に”ねこふんじゃった”と唱えさせても効果があるかもしれません。外個人の着ているTシャツに”幕府”・”婚活”・”若造”などプリントされていますが、本人は分かって着ているのでしょうか・・・。

 

 知ったことを自らが”知った”と認識できるのは、対象が私達が記憶している物の名前と一致した瞬間かもしれません。初めて見るものは”名前”が出てこないので何が何だかサッパリ分かりません。しかし見えているのですから何らかの存在であると覚知しています。”知らない”ということを”知っている”ということは確かに見えている証拠です。

 我が国の官僚が国会答弁で”会話の内容は覚えていません”と言い切るということは、彼ら(=官僚)と大事な話をしても覚えてくれないということなのでしょうか。国の仕事を任せるには心もとないと揶揄する人もいます。

 専門家でなければ専門用語を言われても何を言いたいのか全く通じません。それほど様々な分野で日々多くの言葉が作り出されています。高齢者にはBtoBやIoTと言われてもついて行けません。”知る”というは、存在・現象・概念と言語が一致するということなのでしょうか。

 人間も動物の一種にすぎません。動物と同じように五感で感受した瞬間に”知った”ということです。動物が言語を使えないということで”知っていない”ということがあるでしょうか?人間は動物と同じように”知っています”が言語に変換された時点で”知った”ことにしているようです。

 

 ”知った”ことを言語で表現できなければ”知った”と認めないのが人間の通念になっていないでしょうか。あの人は”物知り”だというのは、言語で表現できてこそ認められます。子供や専門知識のない人は適切な語彙を持っていないので”知らない”とされていますが、大人や専門家と同じように見えているし聞こえているし味わってもいます。

 ”知った”ことを記憶してすぐに使えるようになっているのが”知識”ということになります。”知った”知識で物を見ると、ありのままの存在・現象として見ることが難しくなります。自身のイメージが”真”であり現実の存在・現象が自身の”真”と違うかという視点で観察していないでしょうか。私の抱いているいつもの”イメージ”とありのままの現実が異なるとして、現実をおかしいと見てしまう。眼前の”たった今”が”真”であり頭の中にある”イメージ”のほうが偽りです。現在の”体調が悪い”というのが真実なのに、いつもの元気な自分が”真”であり、現在の”体調が悪い”となります。”体調が悪い”という事実は歪められません。”痛い”時は”痛い”が正解です。”元の自分”はただのイメージでありどこにも存在しません。自身のイメージと現実に齟齬がある場合。現実にケチをつけて”なんとかしよう”と慌てふためいているのは一体何でしょうか。変えられない現実をそのまま受け取っていま対処すべきことを黙々とやる。

 

<例題>

 夫婦でピクニックに行って、目を離している間に子供と奥さんが湖で溺れていることに気づきました。子供と奥さんのどちらかしか助けられないとしたらどちらを先に助ければいいのでしょうか。

 

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 どうしようかと思考して悩まずに、近い方を先に助けるそうです。

 

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意の働き [気づき]

  私達の自意識は事象が起こった(すでにその事象は消え去っています)後から働き(=自らを顧みる・反省)ます。分別が勝手に白黒をつける癖でしかないのに、”私”が存在してその選択を判断したと思い込でいるかもしれません。見えているのに”私”が見ている。聞こえているのに”私”が聞いている。勝手に笑えているのに”私”が笑っている。勝手に悲しいのに”私”が悲しんでいる。痒いところを無意識に掻いているのに”私”が掻いている。風呂に入って寛いでいるのに”私”が寛ぎを味わっている。・・・どこにも”私”という実体はありません。もし、それぞれに”私”が存在しているというのなら変幻自在で多様な固定されたに”私”を認めることになります。その”私”はどんな姿でどんな心境の”私”なのでしょうか。姿は10代のままで心は童心のままなのでしょうか。”意”の働きの主体は変幻自在で固定したものでないことになります。あるといえばあるし、ないといえばない。見つけることも掴むこともできない”幻”かもしれません。

 

 ”私”が働いて逐一命令していたら大変なのことです。体を動かすときに伺いを立てて笑ったり悲しんだり、歩いたり走ったり跳ねたりをどのように”私”が指示しているのでしょうか。自身が確固たる意志に委ねられているのなら、各自が硬直した人生を送ることになります。そしてその確固たる意志はいつ完成されて不動のものとなったのでしょうか。書き換えられなければ意志によって振り回されることになります。

 

 実際は五感は勝手に働いていて、見ようという意志とは無関係です。自らの意志からは切り離されて働いています。”たった今”の事象をそのままに映像・音・味・匂い・感覚としてあります。見ている”私”がいるのではなく、見えている働きそのもの。聞いている”私”がいるのではなく、聞こえている働きそのも。”たった今”という世界は消滅し、”たった今”が次から次へ永遠に”たった今”だけが続いていきます。

 

 五感がどのように働いて見えていて、どうして聞こえているのかのプロセスは医学的には解っているかもしれません。しかし、見えているような世界がそのままの世界とは断定できません。人間の識別できる電磁波の範囲だけが見えているだけで、他の動物の各感覚器官の能力では異なって見えています。三次元のように見え、三次元のどこかで音がしていると聞こえています。 五感は自意識と無関係に働いています。五感の働きは自動的であり、五感に介入している”私”のような存在を見出すことはできません。

 ”フルカラーで見えている事実”を”私の自意識”で”モノクロの世界”に変更することなどできません。聞こえている音を”私の自意識で”エコーがかかった音”に変更することもできません。舌で味わった味を”私の自意識”で変更することはできません。塩の”しょっぱい味覚”を砂糖のような”甘い味覚”に変更することなどできません。

 しかし、”意”は”たった今”の事実を想念で作り変えて”妄想”としてでっち上げることができます。イメージと言葉でできた”妄想”を記憶して溜め込むことができます。この世にないものをイメージして作り出すことができます。民主主義・紙幣・電子マネー・音楽・楽器・小説・演劇・漫才・新聞・雑貨・電化製品・・身の回りに有るあらゆるもの。

  ”たった今”の事実はすでに消え去っているのに、”意”は追いかけることができます。見えている映像は変えようがないのですが、見えている映像に対してのイメージを掴んだり得たと勘違いすることができます。 実在していない”妄想”ですから、好き勝手に捻じ曲げて記憶できます。また分別して善悪・美醜・・・など思う存分いじくることができます。この”意”によってありもしない”妄想”で迷うことになるようです。

  物体に当たった光が反射されます。その電磁波の刺激が網膜から視神経を通って脳内に三次元映像を作るのででしょうか。脳内に映し出される世界ですから、外に存在しているのではなく自身が見えている世界そのものです。見えている映像は変更できませんが、見えている映像を”意”によって解釈することは自由自在です。 存在はただの光の反射されている”何か”でしかないのに、形として認識して”名前”がつけられ意味のあるものとして捉える癖ができています。

  ”これは何だ”という思いが瞬時に働くようになっています。”意”によって知ろうとする”心”があります。只見えている、只聞こえている、只味がする、只匂いがしている、只草取りをする、只掃除をする、只料理をする、只◯◯する、只歩いている・・・。でしかないのに、”意”が何かを掴んだり捉えたり得たりできるように感じています。”意”によって自意識である主観という働きが生じ、対象(=実際には頭の中の妄想)を”なんとかしよう”と騒ぎ立てる(=迷い)という迷いが生じます。”意”の働きに翻弄されているのに”意”を働かせて”なんとかしよう”と問題にしてます。

 ”意”は止められません。”意”はすでに消え去っている事象を相手に分別しているということに気づかなければなりません。 ”意”は事実である”あるがまま”よりも、”意”で思っているような”理想の世界”であってほしい。  

 つまり事実・現実よりも、何でも願い事が叶えられる世界を願っています。自我(=なんとかしようという思考)は理想主義者であって、何かをし続けていたい。本気で”引き寄せ”を実現させたいと願っています。

 自我の理想世界のために、事象の起こるたびに識別して”なんとかしたい”ともがいています。痛いは痛いでいいし、苦しいは苦しいでいいし、病気は病気なのですからそれでいいはずなのですが・・・。現象として起こっていることを”意”に反するとして正そうとしている自我はどんな存在なのでしょうか。

 生・老・病・死は当たり前の自然現象です。当たり前を当たり前と受け取れば何も問題はないのですが・・・。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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迷い [気づき]

 ヒトの迷い(思考)について。

  ヒトは物心(世界があって自分がいるという感覚)がついてから、辞書に出てくるような観念(思い込み)である”私”を日常生活で自然と教え込まれてしまいます。身体(物体・肉体)に名前がつけられて呼ばれ、無意識に返事をするようになります。ただの身体ではなく識別名がつけられた特別な何かであると感じるようになるのでしょうか。自身も全てに名前がつけられていることに気づき自然と名前を覚えるようになります。世界は知るべき対象であり、自らは知る主体であると自然と勘違いするようになります。

 名前を覚えると褒められるので、記憶することはいいことだと身につく(癖)になってしまいます。 名前がついている対象は、好ましい(執着)・避けるべき(忌避)・認識しなくてもいい(無関心)というものからできている自分の世界が構築されます。モノを見ると瞬時に識別作用が働くようになります。(ここが迷いの始まり)

 モノ自体に善悪はないのに自身の色付けされた世界に生きるようになります。 認識するやいなや分別してしまうプログラムが出来上がります。なんでもない安住の世界(ただ見えている、ただ聞こえている・・)から迷いの世界(分別の世界)へ切り替わる間が無く(間抜け者)なります。 人間社会で生き抜いていくために、行為にも善悪があると教え込まれます。周りの大人や学校教育で、取捨選択すべき行為が教え込まれます。社会に従うロボットのようなプログラムがインストールされることになります。記憶力と思考力が生きていく術であるかのように徹底的に洗脳(染脳)されます。知らず知らずの内に思考最優先の生き方となり、常に思考を追いかける脳の癖ができあがります。努力して思考すれば何かを掴んだり得たりできるという間違った観念が植え付けられた脳の習性となるようです。サトリも掴むとか得るとか勘違いしているのではないでしょうか。

 

  思考が問題を解決するツールだと信じ込んでいますから、自ら(なんとかしようという思考)を疑うことが無くなります。思考が問題を作っていると言われても、脳の癖によって思考で何とかできるという呪縛があるので抜け出ることができません。 鈴木大拙のお話の中に、ムカデに”ムカデさん、ムカデさん、どの足からあなたは歩くのを始めるんですか?”と聞いたら”動かなくなった”という話があります。”考えるようになったらうまく歩けなくなる”ということです。

 人間は問題があるから考えて解決すると思い込んでいますが、考えることで問題にしているということです。 健康体であるということは、自分の体があるのかないのか気にならない状態かもしれません。あちこち気になり”なんとかしよう”というのは不健康な証拠です。思考しているのは不健康だということです。健全・平安であるのはあちこち気にならない(思考しなくてもいい)状態ということかもしれません。自分が思いに振り回されていないということであり、何も考えなくてもいいというのが最高。

  起こってしまったこと(過去であり消滅していること)を考えている間に、”今という事実”を見逃し続けています。つまり、考えているということは今という事実の他に妄想しているということになります。考えなくても生きているということを体験(坐禅)しなければならないということをでしょうか。 ”なんとかしよう”というのが自我(記憶と思考の使い手)ですが、自己の思考が間違ってはいない(自己正当化)というのが人間です。自らを疑うことは至難の技です。思考しないほうが安楽であるという体験(坐禅)がどうしても必要になるのということでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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テセウスの船 [気づき]

「「私は誰?」と哲学的に問う」という題目がTEDにありました。”同一性”のパラドックスを問うお題です。またウィキペディア「テセウスの船」も参考になります。

 前にも記述しましたが、認識する人によって存在は存在として認められます。存在が先にありその存在の”名”は後づけです。”名”が先にあり存在が生ずるわけではありません。

 また私達の「言語ゲーム」「思索ゲーム」では、言語をイメージ化したりイメージを言語に変換しています。思索は自身が映画の中の主人公となって考えていることと同じかもしれません。映画の中で何かを得たり掴んだり、何者かになったとしても現実に何かを得たり掴んだり変身したりはしません。

 映画の中(=思索)で主人公が納得したことと現実はリンクしていません。思索は今ここの実相ではありません。実相とはいま眼前にあるありのままの姿・有様です。あるがままを「私=社会的な自己」で分別している限りは、虚妄・虚仮(=真実でないこと)かもしれません。聖徳太子の言葉に「世間虚仮、唯仏是真」とあります。分別以前の「本来の自己」があるがままをそのままに見れば、真実・事実の世界を見ています。誰もが、ただありのままを認識しているだけなら「本来の自己」のままに見聞覚知していると言えます。固定観念のフィルターを通して分別することによって虚妄・虚仮としています。家具や置物を見ても何も感じず分別が起こらなければ「本来の自己」として見ているということかもしれません。既に「それ」が働いていて「それ」として生きています。ただ、あれころ考えることで「私=社会的な自己・自我」の働きが「本来の自己」ではないとしているだけかもしれません。

 見えたままなのに瞬時に”美醜”・”善悪”・”好き嫌い”・・・として悩みます。赤子であればあらゆるモノは何でも無いモノであり、見えたままでしかないのですが・・・・。

 

 「テセウスの船」はギリシアの伝説の船であり、当時実在していたかも定かではありません。この”テセウスのパラドックス”の考察も単なる思索であって、実相でない「思索ゲーム」であって虚妄・虚仮だという前提で検討する必要があります。つまり考えている過程も結果も映画の中での出来事と変わりません。実相と乖離した「知的ゲーム」で知的満足を得ようとするだけのことかもしれません。

 ”テセウスのパラドックス”を考察すると「私は誰?」という問題を解決する糸口を見つけられるかのような問いかけです。誰も「私は誰?」に答えを出せません。「思索ゲーム」の堂々巡りをしているのでしょうか。

 一切は、常に変化していると認めておきながら同じ「あなた」と言っています。哲学は言語によって解き明かす学問ですが、存在の後に発明されたものが存在を解き明かすことができるでしょうか。

 知られる一切は客体であって主体が主体を知ることは出来ません。光源(=主体)からの光が当たることで客体(=対象)を見る(=知る)ことができます。光源(=主体)が光源を照らす事ができるでしょうか。手(=主体)で触れられるものは客体(=対象)として認識できますが、右手で右手を掴むことができるでしょうか。主体は客体になることはできません。知るも者(=主体)そのものを知る(=客体化する)ことはできません。「私は誰?」と自らに問うて出た答えはすべて対象とされたもので「私」そのものではないということです。

 

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「テセウスの船」概略:功績を残すためにテセウスの船を残すことになりました。部品が傷んだため全てが交換された船と、傷んだ船で作られた船の二つが存在することになりました。

疑問1:「確実に言える1つの困難は アイデンティティの持続性という 複雑な概念になります。どの瞬間の「私」が本物なのか。この船はこの間 どの時点においても ”テセウスの船”だったと考える人もいるでしょう。

 

 名前が先にあって存在があるのではありません。存在に適当な概念を持ち込んで勝手な名前を後づけしています。「レクサス」という一つの名前がありますが何万台もの「レクサス」が存在しています。一即多です。月を見ていますが各人の内に異なる月として存在しています。人の数だけ月がありますが月は一つであるとされています。多即一。

 当時は多くの材木で組み立てられ、人を乗せて海を移動する物体を”船”と名づけられています。テセウスの功績を残すために”テセウスの船”と呼ばれるようになっただけのことのようです。”テセウスの船”という呼称が一つで変わらないから、”テセウスの船”という存在も一つであるという論法のようです。名が先で存在は名に従うべきだということでしょうか。

 「私」を構成しているアイデンティティは一時的なものであり永続するようなものではありません。

 存在も事象も縷々転変してどどまることがない無常なモノです。無常である存在を変わらない呼称で呼び続けること自体が勘違いかもしれません・・・。傷んで修理した時には”◯年◯月◯日◯時◯分◯秒に修理を終えたテセウスの船”と呼べばいいし。ある時点では、”◯回修理し、建造から◯年◯月◯日を経たテセウスの船”と呼べばいいだけなのですが・・・。

 持続している存在のある瞬間を本物と定義したら、特定した以外の瞬間は全部偽物ということになります。言葉は排他的であり一方を是とすればそれ以外を否定する特性を持っています。特定された以外のどの瞬間も本物の”テセウスの船”でなく変化変容している偽物の”テセウスの船”となってしまいます。また、見ている人の数だけ異なる”テセウスの船”があります。呼び名は同じでも抱いているイメージは百人百様です。

 呼び名が同じで変わらない(=変えない)だけであって、存在自体が変化変容し、見ている人の思いも変化変容しています。”テセウスの船”と呼称するのは、社会的な合意であって実体である”テセウスの船”は当初の”テセウスの船”とは別物です。

 呼称の継続性を維持しなければコミュニケーションを揺るがすことになり混乱をもたらすということが知られています。ただ混乱したくないので呼称を維持しているだけではないでしょうか。呼称に従属して生活を送っているのが、私達の実情であり、真に無常の世界を見ていないことを物語っています。実相ではなく、言葉に振り回されていて言葉の正当性を証明しようと躍起になっている。現実は証明を必要としません。マヤカシであるからこそ証明しようとしますが、矛盾が出てきてしまいます。時間や場所の概念を付加した表現にすればよいのですが・・・。”◯年◯月◯日◯時◯分◯秒の◯◯”という面倒な表現になるので、しないだけかもしれません。

 

疑問2:本物は一つだけで、どちらかが本物のはず?

 本物は一つであり二つはない「不二」。仏教でいう「不二」は、対立していて二元的に見える事柄も、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるということです。一つのコインのどちらかを表とすれば自ずと反対側が裏となりますが、どちらが表でも裏でもなく勝手に定義しているにすぎないということ。二つの国がお互いに自国が正義だとしてして非難しあっています。戦争の勝者は正義が勝利したとしていますが、本当でしょうか。正義なので天が味方(=神のご加護)して勝ったのか、勝ったから正義だと言えるのでしょうか。

 本物が一つであれば、ある特定の一台の「レクサス」が本物であれば他の「レクサス」は偽物(=イミテーション・レプリカ)ということになります。ある製品の1作目だけが本物とすれば、それ以降はすべて偽物ということになります。「ロレックス」のあるモデルの1作目を本物とすれば、それ以外は偽物となります。その偽物を世界中で高価な価格をつけて買っているということになります。 本物は希少なので、この世は偽物であふれかえっていることになります。

 人間も過去のある時点でどこかの地点に本物の”人間”がいれば、私達はその本物の”人間”からコピーされた偽物だということになります。

 新しい”テセウスの船”をまたたく間に分解し新しい材料で作り上げ、さらにまたたく間に分解し新しい材料で作り上げ・・・あっという間に1000隻を作り上げたとします。どれが”テセウスの船”でしょうか。我々もまたたく間にコピーされて70億になっています。本物の「私」と言っていいのは一人だけなのでしょうか。

 自身の時系列において1歳の誕生日を本物「私」もとすれば、それ以外は偽物となります。今生きているのは偽物の「私」ということになりますが・・・。

 宇宙もビックバン時点が本当の”宇宙”とすれば今は偽物の”宇宙”ということになります。そうではなく宇宙が生まれた瞬間から本当の”宇宙”であり、どんなに変化して変わり、原初の宇宙と全く異なっていたとしても本当の”宇宙”といいはるのなら、偽物の”宇宙”は存在しないことになります。ビックバン時点の宇宙と今の宇宙が同一であるでしょうか。偽物の宇宙が存在しなければ本物の宇宙と言う必要はありません。宇宙は本物でも偽物でもない。「私」も本物でも偽物でもない。人間も本物でも偽物でもない。実相は言葉で表現できないのでしょうか。

 限りない存在の中で原初のモノだけが本物だと決めてしまえば、原初の本物はこの世にはほとんど存在していません。「スーパードライ」の1本目の缶ビールはどこにもありません。この世のほとんどがイミテーション・レプリカということになります。

 動物は大柄・強い・狡猾・逃げ足が速い等々が生き、反対であれば直ぐに死んでしまい遺伝子を渡すことができません。歴史を遡り君主となってきた人は、自尊心も気高くもなく自己正当化せず誠実で正直で優しくて慈悲深く狡猾でない人なのでしょうか。生存競争を勝ち抜いてきて生き残っている我々はどういう能力を備えているのでしょうか。

 

疑問3:あなたは常に変化し続ける 部品の寄せ集めです 物理的な身体 精神 感情 環境 そして癖まで それらは常に変化していますが 驚くことに そして不合理なことに それでもあなたは いつも同じあなたなんです 。

 

 普段「私は私である」と思いながら生きているでしょうか。知り合いや会社関係者の何人かだけが自身のアイデンティティの一部を認識しているだけです。「私」であることを証明しなければならないときや、振り返って思うときにだけ「私」を持ち出しているにすぎません。普段は「私」なしにいきています。

 本当にいつも同じ「私」なのでしょうか、それともただいくつかのアイデンティティがある「私」だとして生きているのでしょうか。社会制度上のアイデンティティを頼りにして、単なる表象・呼称の「私」がいるだけかもいしれません。

 3歳でも「私」15歳でも「私」80歳でも「私」、誰も彼もいつでもどこでも「私」は「私」だと主張します。りんご・たまねぎ・車・人間・・・なんでも”1”と定義できます。全てが”1”で定義可能といういうことは、ある特定のものを”1”とすればそれ以外は”1”ではないことになります。あるものを特定すればそれ以外は排他されます。すべてが”1”と定義できるということは、”1”とされる以前は何でも無かったということです。あらゆる存在は、定義以前は何でも無いということです。

 「私」と認識する瞬間以前は「私」と知らずに行動しています。何でも無い(=無我無心)でいたということかもしれません。自らを振り返り「私」という思いが出てくる以前は「私」でも何でも無かったということになります。振り返っても自身を証明できなかったらどうなるでしょうか。見知らぬ諸外国に行って記憶とパスポートを喪失したら一体誰なのでしょうか?「私」は「私」だと思っているその思いが「私」としているだけではないでしょうか。

 思うことに「私」らしい何かはありません。見知らぬ人がどんな思いを巡らせようが、思いを見ることはできません。有名人でない限り、見知らぬところで、思いを巡らせていたとしても”あなたは◯◯さん”ですかと特定されることはありません。思いは思いであって自身を特定するものではありません。

「我思う」それが他者への「私」の存在証明にはなりません。もし、アイデンティティを認識されなければ「私」は誰なのでしょうか。

 

・ある時点を本物とすれば、それ以外は偽物となります。

・どの瞬間も本物であれば、偽物はありません。

 0歳と90歳の「私」は同一の本物でしょうか。

・本物も偽物もただの定義であり、本物も偽物もない。過去はすでに消え去ってどこにもないし、未来もどこにもありません。

・世間はただ消え去る虚妄・虚仮。

・呼称に存在を合わせるのでしょうか、存在に呼称をあわせるのでしょうか。

 ・存在に言葉が従います。言葉に存在が従ったら大変なことです。

 ”空中浮揚”という思いに存在が従うでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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思考で苦しむ [気づき]

 社会的構造的な問題から自身の問題にフォーカスしてみます。社会構造的な問題は政治家や学者が考えて解決する問題であり我々が責任を負う問題ではありません。

 私たちは、悩みを生じさせている原因が思考を追い回している思考であるという事実に気づいているでしょうか。あたかも自身の尻尾を掴もうとしている犬や猫のようです。

 思考こそが、私たちの諸問題解決に必要なものでしょうか。一旦立ち止まって観察したり何もしないというところに留まってみるのもいいかもしれません。

 よく言われている「一切転倒」というのは問題が先にあり思考が後であるということかもしれません。思考が問題を作り、その問題を思考を使ってどうにかしようとしています。掻いて痒みを増しているのに、さらに掻いて痒みを抑えることができるでしょうか。更に痒くなるか炎症を起こしてしまうか・・・。

 

 問題を起こしていながら思考でなんとかしようとします。教育によって思考で問題(=ペーパー上の問題)を解く訓練を受けて育っています。自身の問題を解いてきたわけではなく、作られた問題をルールに従って答えてきただけの話です。自身の問題を解決してきたわけではありません。コペルニクス的転回が必要とされます。自身が感受することを分別して取り扱う(=思考の対象とする)ことで問題となっています。認識で終わっているのに、次の識別作用を働かせて分別してしまうことで問題とするか。

 

 私たちは自らの意志で生まれてきたわけではありません。自我意識も知らぬ間に身についていて、思いの通りにしようと勝手に働いてしまいます。生まれ出る環境も選ぶことも出来ず、習慣も言語も環境に従うしかありません。◯◯人として◯◯語を話さなければなりません。

 生まれた環境の一切にあがなうことができません。半強制的に従わなければ生きていけません。あらゆる事象をそのままに受け入れるようにできているのが人間かも知れません。

 何者でもないただの生命体が周りの大人と言われる人たちによって構築されているガチガチの社会があり、その社会の枠組みに組み入れられているというのが事実・現実です。

 生まれたからには、集団の一員として生きるしかありません。集団の生活スタイルを自動的に自身が受け入れるので、集団がそのまま自身にコピーされます。周りの環境そのものが自身そのものとなります。周りの世界=自身の世界。自我意識(=自他の分離・分別)が身につく前の赤子にとっては、感受したものは外ではなく自分自身そのものということのようです。

 取捨選択できない赤子には一切(=感受=見えるのは、聞こえる音、味、匂い、感覚)が自身そのものです。

 

 言葉を覚えるに従って、一(=一との定義は多を含む)でない全体があるだけです。大人によって、存在が個々に分離されているように教え込まれていきます。何でも無い全体があるだけでした。その何でもない全体から花とカテゴライズされたモノが抽出され、次に薔薇という名前がついているというこを教わります。あらゆるものには予め名前が付与されていて、それらのものは認識される対象であるという錯覚が植えつけられます。ただ全体があるだけということは忘れ去られ部分が集合されたものが全体だと思うようになります。

 次に、「私=社会的自己=自我・思考・記憶=アイデンティ=身体」という何らかの主体があるという錯覚が錯覚と思えなくなっていきます。

 

 先に対象があって次に対象を認識している「私=社会的自己=自我=主体」が徐々に確立されていくかもしれません。「私=社会的自己=自我」という確固たる実体は存在していないのですが、五感は機能として認識し続けます。私たちは、ただ鏡のように映し出しているだけなのに、瞬時に対象とする癖によって分別します。この二元対立の分別によって”なんとかしたい”自我意識が起こります。ただの”なんとかしたい”という思い(=頭の中のイメージ)に振り回されてしまいます。

 このプロセスは、

1.感覚と感情が結びついて何らかの思いが沸き起こる。

2.言葉を覚えたので感情を言語化するよに脳が働く。

3.思いが言葉になり、”なんとかしよう”と頭の中でお喋りする。

4.お喋りしている「私=社会的自己=自我=主体」がどこかにいるかのように感じる。

 本来はただの思いが言葉になってしまった現象でしかないのに、「私=社会的自己=自我=主体」という錯覚・幻想が錯覚・幻想でなく実在のように感じられてしまいます。

 

 成長するに従い、感覚を言語化していただけから言語である言葉(=ただの音)や文字(=ただの形)が自身と密接につながり言語と自己同一化するようになります。

 言語でイメージ(=頭の中だけの現象)を展開できるようになり、それを図面や楽譜や芸術作品や建造物・・・として出現(=アウトプット)させることができるようになっています。言語を瞬時にイメージ化することができることには弊害もあります。あまりにも言語が身近になり自己同一化することで、感情や感覚に多大な影響を及ぼしているということです。SNSでの誹謗中傷で心(=実体がなく現象を捉える働き)が病み身体まで深刻なダメージを負ってしまうということです。

 例えばタイ語で”คุณสวยมาก”と投稿されても意味が分からなければ全く気になりません。また、外国のTVドラマで字幕がなければ何を言っているかサッパリ分からず感情移入することもありません。ただの音でありただの形でしかないというのが事実ですが・・・。

 見えるまま、聞こえるままにして意味を識別しなければ問題にはならないということです。カラスが”カッー”と何の意味もない音として聞こえれば何も問題はありません。しかし、ある鳥が”アホ”・”ドジ”と鳴いていると気になるのではないでしょうか。

 私たちは対象に意味や意義があるという前提を植えつけられています。一切を識別(=認識でははありません)して分別する脳の癖によって苦しんでいるかもしれません。自我意識は全てに意味があって、知るべき対象であり思考して解決しようとしてしまいます。

 本来のあるべき姿では、一切は万物斉同(=一様)であり起こるように起こっている。何も意味や価値など備わってはいない。自身も変化・変化していて恒常不変なものなどない。無常なるものには実体がない。実体のないものに我はないので、無我である。

 自我意識は記憶です、すでに消え去った事象を記憶(=ただの思い込み)から蘇らせて迷っているということではないでしょうか。

 記憶は記憶でしか無く、実体は存在していません。記憶された過去の事象はこの世から消え去っています。どこを探しても見つかりません。幻影(=記憶)でしかないものを取り扱うことでくるしんでいます。過去に振り回され、今に生きていない。過去を蒸し返して過去に振り回されて苦悩していることに気づいてみる。

 存在していない記憶(=幻影)を実体のない思考(=なんとかしようという思い)を使って大騒ぎしています。頭の中で記憶という映写機で映し出された映像に対して、思考という映写機で映像を変化させようとしているかのようです。実体のないものを実体のないものでどうすることもできません。頭の中の上映は放っておいて、映画館(=記憶や思考)から外に出るのがいいでしょう。今ここに強烈に戻ります。呼吸している自分、何かが見えている自分、何かが聞こえている自分、何らかの感覚がある自分。今ここで起こっていることだけを観察してみます。映画館(=頭の中)で何が上映されているかなど気に掛けずに、今ここでの感受だけが自身そのものとしていてみる。

 

 

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"1"は幻 [気づき]

 「数値」は数の量や内容であり計数(=カウント)と計量(=計測器・計量器で調べる)があります。数値は数学で加減乗除の対象として扱って答えを算出できます。一方「数字」は数を表す文字であって計算することはできません。

 自然数⊂整数(負の整数、0、正の整数)⊂有理数⊂実数⊂複素数 

 

 この世に絶対的な"1"があるでしょうか。"1"はただの概念としてあらゆる存在を定義できます。文字も"1"(=1文字)、パソコンも"1"(=1台)、本も"1"(=1冊)、自動車も"1"、自転車も"1"、花も"1"、靴も"1"、茶碗も"1"・・・・。ありとあらゆるものが"1"であって、絶対の"1"などどこにもありません。だれでもが"1"というものを捉えたり掴んだり得たりできません。"1"そのものを見ることはできません。"1"(=表象・呼称)は存在していないということです。

 だれもが認める排他的な"1"なる存在があるでしょうか。もし絶対的な"1"があれば、他の存在は"1"ではありません。そんな絶対的な”1”がどこかにあるのでしょうか。

 自らが対象と認めた時に"1"(=表象・呼称)としています。区別・識別できる何かを"1"(=表象・呼称)と定義して使っています。

 

 ボクシングでのカウント(=1・2・3・・)を見ることができるでしょうか。カウントの実体はどこにもなく、ただの音として認識されるだけです。"1"は便宜上使われている概念でしかありません。概念を捉えたり掴んだり得たりすることはできません。

 宇宙全体を"1"としてもいいし、ウィルスの一つを"1"としても何ら問題ありません。ただの概念であって勝手に定義すればよく、"1"はどこにでも出現させることができます。"1"は固定されたものではないということであり実際はどこにも実在として存在していないことになります。あらゆるものに"1"をあてがうことができるということは、無限に有るということです。

 "1"など本来はどこにも無いのですが勝手に"1"と定義して気にせずに使っているだけかもしれません。"1"を「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」に置き換えて見て下さい。「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」はどこにも実体はありません。感覚・感情・思考を振り返ることで割り当てられた表象(=呼称)です。他者への説明や感覚・感情・思考を処理するために「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」という言葉が使われているだけのことです。

 10年前のままの「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」はどこにも見当たりません、昨日のままの「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」もどこにも見当たりません。今(=思った瞬間には今ではありません・事実はすでに消え去っているちょっと前)ここにあると思っているときにだけ「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」としているだけです。

 

 "私"の意志で目を覚ましているのでしょうか、"私"である身体なのに肩こり一つ治せない。耳鳴りで自らを悩まそうと思ってもいないのに耳鳴りがある。"私"であるのに熟睡できない、老いたくなくても老いる。病気になりたくなくても病気になる。"私"=身体であり"私"=心であるはずなのに、"私"の思い(=こうなりたい・こうなりたくない)と現実の身心はかけ離れている。勝手に変化して消滅している。"私"の思いと身心はリンクなどしていない。"私"は身体でもなく、"私"は心でもない。ただ何らかの因縁で現れた身体(=物質)に備わっている眼・耳・鼻・舌・身・意の働きが勝手に起こっているだけかもしれません。


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刷り込み [気づき]

 子供の時からの疑問があります。水族館や魚の映像を見ると同じ種の魚がどうして一緒に泳いでいるかということです。魚は他の動物と異なり自身のほんの一部を見ることができる程度か、深海魚では自身を見ることもままならないかもしれません。彼等はどうして同じ種であることがわかり同じ行動ができるのでしょうか。同じ匂いや同じような音を出して共振しているのかサッパリ分かりません。あらゆる生命体は自身を直視できません。何らかの方法で自身が信じ込めばいいかの能力が備わっているということかもしれません。

 鳥類では「刷り込み」という本能があって、最初に見た動くものを親と認識するようです。生まれて最も身近にいる生命体が親(=自身を養育してくれる生命体)であるという決めつけは間違ってはいません。

 魚であれ蟹であれ・・・自身が一体何者であるかなどあらかじめ知っている生命体がいるでしょうか。

 

 私たち人間もあらかじめ「私=表象」があって、「私=表象」の意志で生まれてきたわけではありません。知らない間に自身が人間であることに気づいて周りの人間と同じように振る舞うようになってしまっているということです。

 私たちは人間社会で言語を覚え、周りにいる人間の振る舞いを見て育ちます。最初から◯◯教の信者ではありませんし、◯◯人でもありません。自身が何者であるかも知らずにいます。後から半強制的に知らされるし教育されて染められているのが現実ではないでしょうか。何故◯◯国の人を憎むようにしなければならないのかサッパリわかりませんが、教育に名を借りた洗脳かもしれません。

 

 生命体が同種の生命体と分かるには、同じ匂いや音や味や姿や振る舞いによって判断する他ありません。もし自身の一部さえ認識できなければ他が我であるとしないことには生きてはいけません。生命体は自身を直視できないので、周りに見えたものが自身そのものとしてあるという生活を送っているということです。周りにの動物に育てられれば自身はその動物しか映し出さないので自身が人間であることを知らずに育つしかありません。「野生動物に育てられた人間

 

 生まれてから死ぬまで誰一人として、自身をそのままに直視することはできません。自身は知られ得るものではないということです。自身を直知することができない代わりに、一旦「私=表象」というモノを認めて他を対象としなければならないということです。

 自身そのもものを見ることなしに他によって自身を推測する他無いので架空の「私=表象」が必要とされます。二人で話している時は他人と自身としている一部分だけを見ることができます。しかし、本当の自身はどこを探しても出会うことはできません。ただ自身の声らしい音がして聞こうとしなくても音が聞こえたり、見ようとしなくても見えてしまっています。どこにも「私=表象」の意志など働いていません。意志を働かせて、大きく見えたり小さく見えたりセピア色に見えたりすることもできません。聞きたくない声を聞こえないようにすることもできないし、聞きたい音だけクリアに聞くこともできません。「私=表象」の介入した形跡を探し出すことはできません。

 

 生まれた時はただ見えて、だだ聞こえて、ただ味わい、ただ何らかの感情があっただけです。全てを受容するしか生き残れない生命です。人間社会で成長する過程で、知らぬ間に「私=表象=社会的自己=自我」が身につき時間の観念を使い他を認識するようになります。

 さらに、言語を使えるようになり思考することができるようになります。本来は「無我・無心」であるのに、実在しないものを概念で捉えることができるようになります。実在しないものを実在するかのように扱うことができるようになり、事実でないものを事実のように思い込んでしまったということのようです。

 時間は実在ではありません、時間を掴むこともできないし延ばしたり縮めたりもできません。ただの概念として取り扱っているだけです。◯◯ちゃんのことを話している子供は実在の◯◯ちゃんではなく頭の中でイメージして扱うことができるようになっています。

 

 人間は生まれる前から「私=表象」があって生まれてきたわけではなく、何者(=◯◯人、性別、◯◯教等のアイデンティティ)として生まれているわけでもありません。周りの環境で(=刷り込み)アイデンティティが自分であるとしているだけのことかもしれません。

 私たちは、何らかの縁によって生命体として出現しました。人間社会で育てられてることで否応なしに言語や食生活や文化や様々なものに適合していくようになっています。周囲の環境によっては虫や昆虫や発酵食品でもなんでも食さなければなりません。周りが食べていれば何の疑問もなく同じように食べて育ちます。思い込めば(=刷り込み)何とでも染められるのが私たちの本質かもしれません。

 最初から備わっていない「私」が勝手に刷り込まれて、勝手に出現させていることを見抜かないと、何時までも幻の「私」に振り回されてしまいます。

 

 大事なポイントですが、想起したときだけ「私」が出現するということです。「私」はすべて後づけであり、想起した時点では事象はすでに消え去っています。取り扱いしているのは、ただの頭の中でイメージしてクルクル追っかけているだけのことです。考えで考えをなんとかしようとすることは、煙で煙をなくそうとすることです。問題を問題視していては問題を生きながらえ続けさせていることになります。例えば10年も前に友人に貸した500円を問題にするならば、いつまでも問題のままです。

 非常に簡単なんことですが、問題を問題としなければ問題ではないということです。どこかの大統領が誰になろうが問題にしなければ問題ではありません。問題にしてなんとかしようというのが「私=自我」だということです。知ろうとしたり関わろうとしたりすることが「私=自我」であって、気づかないで「私=自我」に振り回されているかもしれません。

 意味や価値を一生懸命探し回っているのも「私=自我」です。一々意味や価値があったら大変なことです。後から意味づけや価値をつけているのであって最初から意味や価値があったら、この世はどうなるのでしょうか。固定観念となり分別する前にこのフィルター(=固定観念)を通り判断することになります。ある事象にたいして固定観念を通して二元的な判断となってしまいます。分かりやすい勧善懲悪の映画のように善悪を決めてしまいます。

 ある教義がフィルターになり第◯◯章の◯◯に書かれている、◯◯は善だ悪だと決めつけてしまいます。本来は偏見差別を取り去り平等であるという教えであるべきですが・・・。約束された地であるとか、聖なる◯◯であり正当化することになるかもしれません。◯◯が言ったことだから正しいとか◯◯と書いてあるからと決めつけてしまうことが危険です。意味づけや価値づけには区別・差別が潜んでいないでしょうか。愛国心=嫌国心ということかもしれません。デマや誹謗中傷も何らかの意味をつけているということです。事実でも何でもないのに、あたかも事実のように言葉や文字で作り上げます。その言葉や文字をいとも簡単に受け容れてしまうのが人間です。イメージを共有する能力は素晴らしい反面、偽りも簡単に共有できるという「諸刃の剣」であるということを見抜ければいいのですが・・・。極端に言えば、1日中今ここにある事実ではないイメージの受け渡しに終始しているかもしれません。

 一切は何でもないし、意味も価値もなくただ等しくただあるだけということを見抜く必要があるかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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人間社会の決めごと [気づき]

 今生き残っている人間(=サピエンス)は、人間社会だけに通じる無質量である音の組み合わせからなる「概念」によって「音=言葉」を無限に生み出す能力があります。我々が休むこと無く、口をパクパク動かして音を出し続けているのを見たり聞いている動物は怪訝な顔をすることなくつきあってくれています。

 フィクションの世界にいるわけですから、口をパクパク動かして人を癒やしたり怒らせたり励ましたり何かを教えたりしてお金を貰えるなんて面白い世界に生きているということです。音を交互に出し合っているだけにしか見えないのですが、コミュニケーションと定義され大きな価値や意味があるようです。人を承認したり称賛したり笑わせたり感情に訴えたり・・・・ファンタジーそのものでありワクワク感を日々味うことができます。ただの無重量の音(=言葉)が行き来して、何らかの意味を持っていて世界中を駆け回っています。

 犬や猫の視点を経験するためにTVをミュートで見ることがあります。人間というものはどうゆうものかを客観的に新鮮な気持ちで味わえるかもしれません。

 

 見えない事象(=重力・心・・)も見える対象(=存在)も無質量の「音=言葉」として表現することができます。ただの音(=言葉)なのに人間社会では捉えたり掴んだり得たりできるものとされています。感覚は感覚だけしかないのに「音=言葉」で表現できることで捉えたように勘違いしているかもしれません。皮膚感覚でも「痛い・痒い・心地よい・・」というふうにいくつかに分類され、他に伝えたり自らが感じとり対象とします。感覚が対象化されることで、掴めたり得たりすることができるモノとすることができるようです。

 目に見えないウィルスであっても電子顕微鏡の映像を見ることできること(=対象化に成功)によって、あたかも捉えられ克服できる対象であるかのように錯覚しているのかもしれません。

 どう頑張ってもウィルスを捉えることはできません。捉えられるのなら避けることができますが・・。我々の五感の能力で捉えることなどまったくできません。生身の人間の感覚は限られた範囲でしか世界を知覚できていません。

 

 我々人間は、なんだか分からないものであっても音=言葉にすれば捉えられるという錯覚に陥っているようです。見たこともない魂や心霊やお化けや神や仏でさえ、音=言葉で定義されれば捉えられない未知のものではないのです。避けるべき対象であったり、お願いできる対象として頭の中で扱うことの飽き足らずイメージで絵を書いたりすることもできます。存在しないのですから、違っているとは指摘されません。どんなにイメージしても肌の色や目鼻立ちや髪質がどうしても似てしまうようです。馬と人間を合体させたり、火を吹く鳥であったり空を飛び回る大きな蛇であったり象と亀だったりと創造力も限られています。自然界のほうがアッと驚く多様性で満ちていると言うのに・・・。宇宙人も想像の域を出ることはなく稚拙な想像に留まっています。乗り物もイメージでしかないので円盤のようなものしか描くことができないようです。

 

 古代にあっては人間の制御を遥かに超えた自然現象を神の祟りとしていたようです。生贄を捧げるというバカバカしい行いを真剣に行っていたということです。我々の信じているものなど後の人類からすれば、何の根拠もないバカバカしいことばかりかもしれません。

 人間が考え出していること(=無重量のイメージ)がただのファンタジーかフィクションに酔いしれていて、ゲームやお遊びに夢中になっていたということかもしれません。ゲームやお遊びを「哲学・思想・宗教」だという大袈裟な「音=言葉」で高尚なものとしているだけだったら・・・。

 

 直知と間接知について・・・。誰もが自我が芽生える以前の生まれたばかりの乳児から幼児という期間を経ていたはずです。「音=言葉」が意味を持っていると分らない期間です。この期間では「あるがまま」を「あるがまま」に見えていた「直知」であった。「直知」では分離はなく全体そのものであった。

 「音=言葉」に意味があると知ることで他(=対象)に意味があることを知ることで自(=主体・自我)が生み出されていったかもしれません。自が最初からあったわけではなく、他(=対象)として見る癖を周りの(=先に人間社会に洗脳された人々)先輩から教え込まれて身につけて(=脳の癖)しまったかもしれません。

 

 現在我々が使っている「知るsiru」という「音=言葉」は、全てに名前がついている既知の存在の決められた「音=言葉」を間接的に教わる知(=間接知・分離知・分別知)ではないでしょうか。

 同じ言語圏で共有しているフィクションの中で生きている。「知る」ということは、過去の人間が勝手に決めた決めごと(=対象につけた名前)を無意識的に受け入れているだけかもしれません。勝手に決められた決めごとを疑ることなく鵜呑みにしている・鵜呑みにさせられている。「山yama」を「山yama」と発音したり文字にする必要性は、同じ言語圏の社会でのフィクションを共有して生活するために求められるだけのことだと気づけるか・・・。

 「山yama」を自分自身で勝手に「mippe」という音にして新しい「ภูเ」という文字にしてもいいはずです。勝手な命名は、同じ言語圏の人間社会に反する行為となります。我々の今の生活は同じ言語圏の人間社会に束縛されているのではないでしょうか。「山yama」は誰のものでもなく「山yama」と発音しなければ祟りがあるものでもなく、ただ盛り上がった何でもないものですからどう発音しても自由なはずですが・・。この固定観念を破ることが非常に難しいということのたとえです。社会の決めごとという暗黙の縛りを何十年も当たり前として生きて来たのではないでしょうか。リンゴが落ちることは当たり前、風呂に入って水があふれるのも当たり前・・・。当たり前の連続であって疑ってみることをすっかり止めています。社会ではこう決まっている(=固定観念)からなかなか抜け出せない自分がいる。

 

 「純粋知・直接知」は我々から無くなり消え去ったのでしょうか。「あるがまま」に接している時に「純粋知・直接知」が働いています。「純粋知・直接知」があまりにも高速に過ぎ去ってしまうので認識できない。知らない間に人間社会での決めごとの世界に入ってしまっています。人間社会で生きていくためのに使われている記憶(=海馬)から人間社会で使われている言葉が自動的に浮かんできます。瞬く間に「見えている」ものと照合されて「音=言葉=無重量」として頭の中で読んでいます。数え切らないほど繰り返されてきたのですから、疑う術はありません。

 「富士山」の写真を見て「富士山」であると照合され、瞬時に「富士山」という言葉が浮かび上がってしまう脳に躾けられているかもしれません。脳は脳を疑うでしょうか。習慣(=癖)となったこと、自身が身につけたものであって疑うことではありません。「富士山」という言葉が浮かび上がる以前に「純粋知・直接知」が働いていて、何らかの形として認識されているはずです。視覚野に名前のない像が描かれたことはすっかり忘れられています。記憶としっかりと結びついてしまっている脳になっています。人間社会の決めごとの世界では好都合に働いてくれる脳となっています。

 

 刻一刻と変化しているあるがままの「富士山」ではなく、記憶にあるイメージと結合された言葉としての「富士山」を見ていてます。今ここにある「富士山」を味わっているといえるでしょうか。

 

 動画では1秒間に何フレーム再生するというfps(=フレームレート)とい指標があり、TVでは30fpsであり滑らかに動いているように表示されています。見えているものは、パラパラ漫画のように少しずつずれたものがただ繋がっているだけだということです。「富士山」と認識できるようになるには、日本に生まれて日本語という決められた言語を習得させられている前提があります。「富士山」という決めつけられた日本人の共通認識があります。この暗黙の強制された知識に逆らえない中で生きてきました。日本人として教え込まれた「富士山」の姿は誰が見ても「富士山」です。「富士山」を見て「富士山」という言葉を思い浮かべずに、純粋にただ見ることは難しいことです。それほどしみついた固定観念から脱するには困難なことのようです。

 

 人間社会で生きていくには社会の決めごとの一つである知識を身につけることが大切です。しかし、歩いたり食べたり水を飲んだり排泄したり眠ったりすることに知識が必要でしょうか。事あるごとに知識がないと何もできないのでしょうか。知識は人間社会で生きる助けになるだけであって、必ずしも必須のものではないかもしれません。知識で痛みがなくなるとか知識でよく眠れるとか知識で消化が良くなるとか・・・。

 

 「純粋知・直接知」の段階では何でもない(=名前以前)形として見えているだけなのに。日本人であり誰もが疑うことを許されない(=非常識という烙印)という中にいるために、必然的に「富士山」という言葉を思い浮かべてしまうことに違和感はありません。これほどまでに強固に洗脳されているかもしれません。

 最後に思い浮かんでいる(=言葉)が認識されるので、最後の言葉が最新の認識とされてしまいます。認識以前の「純粋知・直接知」には気づかないし、気づかなくても何の支障もありません。人間社会では「純粋知・直接知」に気づくことを必要とされていません。

 

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・見えないものも実体を捉えることができないものも、音=言葉で定義できれば対象となり捉えたり掴んだり得たりできるとしてしまう愚かさに気づかない。

・知る(=間接知・分離知・分別知)ということは何かを掴んだり得たりして分かったり根本的に解決することではなく、人間社会で誰かが既知として決められた「音=言葉」を知っただけのこと。

・何かを知ろうとしていることは、人間社会での決めごと。どこかに書かれたことであったり、辞書にある概念。

・知ったこと(=無重量)を頭の中で追従しているだけでは、エネルギーが浪費され混乱するだけ。

・何かを知った(=人間社会の決めごと)からといって自身は何も変わりはしない。

・何も知ろうとしなくてもいい。ただ「純粋知・直接知」のままにあることにいてみる。人間社会そのものがイルージョン・ファンタジーで彩られた夢の世界かもしれません。楽しむだけならいいのですが、振り回されて苦しんでいるかもしれません。

・「富士山を荒縄で縛ってもってきなさい」という公案を真剣に考えて答えを出そうする愚かさに気づかない。

・一切の固定観念(=人間社会での決めごとからなるもの)を持ち込まずにそのままに見聞覚知する。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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フィクションを見抜く [気づき]

サピエンス全史」によると7万年前頃に認知革命というものが起こったそうです。

 「あるがまま」の事実の世界に「虚構(=フィクション)」という虚構の世界を想像し共有することができるようになり、ホモ・サピエンスが生き残り現在に至っているようです。

 言葉は存在や概念を”ただの音”で表している単なる表象であり、文字も言葉を”ただの形”にしたものだということをしっかりと理解しなければならないのではないでしょうか。そもそも存在や現象自体に二元対立などありません。雨や風や花や雲・・・に悪意などありません。存在は「あるがまま」にあるだけであって評価を差し挟んでいるのは我々のその時々の気分かもしれません。我々の純粋意識は単に見聞覚知しているだけであって、その「あるがまま」に二元対立(=善悪・美醜・・)が具わっているわけではありません。人間の自分勝手な分別(=脳の癖)によって二元対立として執着すべきか忌避すべきかを決めているようです。

 ある存在が命名される以前には何でもない「あるがまま」としてあるだけです。例えばディスプレイですが、目の前に見えているものは見えているだけでしかないのですが、誰かが”ディスプレイ”と命名したことによって”ディスプレイ”と認識しています。人間だけが共有しているフィクションですから、猫や犬に”ディスプレイ”と教えることに意味はないようです。

 

 私たちは言葉や文字を操って(=操られ)、ありもしない物語(=フィクション)を共有しイメージできる能力があります。この能力によってお互いにイメージを信じ込むことができ、その信じたことを現実として受け入れることができます。フィクションであるのに、フィクションがあたかも現実(=事実・常識)のように思い込み当たり前のように振る舞っています。

 今まで世界に存在しないものをフィクションでイメージして、そのイメージ通りに組み立てて現実の世界に目に見える形として出現させることができます。他の動物では巣を作る程度ですが、人間は社会での仕組みや宇宙や過去の話や未来さえも想像できるから厄介です。過去や未来が現実のように扱うこと(=扱い慣れている)で自らを悩ませ混乱しています。

 

 単なる表象でしかない言葉を勝手に組み合わせるだけですから、無限に概念を作ることができます。現代のテクノロジーでは、メディアを通じて同時に多数の人に新しい概念を送ることもできます。

 お金はただの紙でコインはただの金属ですが、ある地域内では通貨としての交換価値を持たせています。本来は、国も国境もないのですが勝手に法律を作ったり政治家という役割を担う人も出現しています。コンサルタント・アドバイザー・キャスター・・・カタカナの職業の人も続々と生まれているようです。

 

 極端に言えば、見聞覚知している「あるがまま」以外はすべてフィクションと言っても過言ではないということになりますが・・・・・。

 神話はフィクションであり旧約聖書もフィクション、霊や魂や悪魔や地獄や善悪や二元対立もすべてフィクションと見抜けるでしょうか。フィクションが悪いわけではなく、フィクションだと見抜いていればある程度覚めて見ることができるのではないでしょうか。

 現代はフィクションの中にフェイクまであるのでさらに混迷しているように思われます。

 

 

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「知りたい病」にうんざり [気づき]

 動物は常に身の危険にさらされています。常に緊張を強いられて平穏でいられないというのが現状のようです。善なる「神」が自らの意志で、平安と程遠い弱肉強食の世界で緊張を強いていて、「神」自らは神々しい光を放って笑みを浮かべているとしたら。

 人間も社会の中で様々なストレスを強いられ、病原菌やら差別やら人間関係での軋轢によって悩みがつきないようです。何世代にも渡って、「神」に祈っているのに彼らの祈りはいつになっても聞き入れられないようです。

 

 人間は、身体に似つかわしくない大きな脳を持ったおかげで想像・創造・妄想できてしまうようです。どうでもいい情報に振り回されているのに、どうでもいい情報を真に受けてい対処しているようです。人間も所詮は動物の一つの種なので、本能によって「自分かわいい=自己保身」のために危険を察知しています。危険を察知する脳の癖は、今では何でもかんでも「知りたい」という病的なものになっているようです。

 おかげで子供は教育を受けなければなりません。成長すれば、哲学者・科学者・論理学者・心理学者・歴史家・・・だれもが◯◯者として知識を蓄え、モノを扱うことができています。

 

 言葉・文字を発明できたことで、あらゆることを概念化できるようになっています。大きな勘違いは、概念を得たり何かを操ることができるようになることで何者かに「成る」と思い込んでしまったことかもしれません。

 ボールを蹴ったり、ボールを弾き返したり、速いボールを投げたり、ボールを枠に投げ入れたり・・・・並外れたプレーが賞賛されて豪邸に住むことができているのが現実です。

 何に価値を見出すかは時代や人々の欲求によって変化しています。人類の過去においては常軌を逸した「魔女狩り」のようなことも行われていたのも事実のようです。宗教的な争いや偏見が一番残虐であることはどうしたことなのか、自分たちの信念を守るために徹底的に痛めつけるというのが人間の奥底にあるものかもしれません。

 

 人間はただの人間でしかなく、鳥のように飛べるわけでもなく、イルカのように泳げるわけでもなく、モグラのように土の中で生きれるわけでもなく・・。二足歩行ができる得体の知れない哺乳類でしかないということを肝に命じて、折りに触れて思い出してもいいかもしれません。傲慢に地球環境を好き勝手に荒らすだけでなく、謙虚に生きている自分と向き合えれば平穏でいられるかもしれません。

 人間が何かを知ったからと言って「スーパーマン」や「スパイダーマン」などの超人に変身するわけではなく、体格的に恵まれていることと練習によって普通の人間ではできないことができるというレベルに腕を磨いたということのようです・・。

 

合意的現実

 ほとんどの人が信じれば「それ」が真実や現実だとみなされる物事・状況を「合意的現実」と定義されているようです。

 「神」の存在を一定数の人々が信じていれば「合意的現実」とみなされる。「神」の存在を信じることをやめれば、合意的現実が変化して「神」にたよらなくてもいい現実となるのでしょうか。

 天動説という合意から地動説というコペルニクス的転回によって、「合意的現実」が天動説というのは非現実であるということになったようです。戦時においては自国の正義が「合意的現実」であり、自国の暴走(=不正義)が非現実とみなされる。マスコミや知識人や政治家の誘導によって多数の人が信じてしまえば非も是となってしまうようです。

 

「愚者と賢者は共に害がない。半端な愚者と半端な賢者が、いちばん危険なのである。」ゲーテ

 賢者は半端な人を相手にしない。愚者は半端な人に相手にされない。経験上賢者になれませんので、愚者として日々生活させて頂いています。愚弄されても柳に風で非常に楽に生きていけます。

「人々が思考しないことは、政府にとっては幸いだ」ヒトラー

「偉大な嘘つきは偉大な魔術師だ」ヒトラー

「大衆は、小さな嘘よりも大きな嘘の犠牲になりやすいだろう」ヒトラー

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惟寛という禅師がいた。ある学僧が尋ねた。

「禅師様、犬にも仏性はありますか」「ある」

「ならば禅師様にも仏性がありますか」「わしにはない」

「もろもろの衆生にも仏性があるというのに、禅師様だけはどうしてないとおしゃるのですか」

「わしはもろもろの衆生ではないからである」

学僧がまた聞いた。「ならば衆生でないなら仏ですか」「わしは仏でもない」「ならば一体どんな物ですか」「物でもない」

「見たり考えたりすることはできますか」「考えることも議論することもできぬ」

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 何度も何度も書いていますが、人間は知ることで解決でき問題から解放(=自由)されて安心できると思い込んでいるようです。知らないということは困りごと(=悩み)として捉えているし囚われていることのようです。しかし、知る(=知識)として記憶したらかと言って、何かが劇的に変わるのかはなはだ疑問なのですが。

 人間は他の動物からの危害をほとんど気にすることなく安全に生活できています。しかし、所詮は動物ですから「何もしない」ということに慣れていないので、持て余している時間をどう使うかに苦労しているようです。先進国の人達は、何も生産しないで時間とお金を費やすゲームに興じたりバイクや自動車などや様々なスポーツでストレス発散しているのが現実です。

 途上国では大きなプールを作るお金もないし泳いでいる暇のある人もいません。大きなスケートリンクを作るお金もないし氷を維持管理することもできません。年に何回使うかわからないレーシングコースを作って維持管理し改造車やF1マシンを走らせる人も多くはいません。

 後進国の人にとって先進国の人の暇つぶしを見て、何をしたいのかサッパリ理解できないかもしれません。動物から人間を見れば理解不能な二足歩行動物かもしれません。

 

・「禅師様、犬にも仏性はありますか」「ある」

 学僧の知識では、伝統的仏教では「悉有仏性」という観念があるので禅師も同じように確認しているかどうかを聞いてみました。

 「仏性」は単なる概念であって触れたり掴んだり得たりできるものではないようです。実際仏性なんて誰かが考え出したものであって、「無」だったわけですから見えたもの全てが仏性であり触れたものが全て仏性であっていいということ。修行の進捗過程もないしヒエラルキーなどの階層も人間が勝手に想定している作り事なのかもしれません。禅師が「仏性」として見えているのではなく、見えるものを仏性としてるにすぎません。そこで「ある」というふうに答えたかもしれません。

 ある禅師は、お前の抱いている仏性の概念など「ない」と答えるかもしれません。

 

・「ならば禅師様にも仏性がありますか」「わしにはない」

 学僧の二元的見地から、観るものと観られるものであれば見えているものを「仏性」として「ある」です。二元的見地を離れて一元である禅師としては、自身から分離しが何かが自身を観ることはできないので「わしにはない」。

 わざわざ「私=自我・アイデンティティ」の視点で観る必要はないようです。

 

・「もろもろの衆生にも仏性があるというのに、禅師様だけはどうしてないとおしゃるのですか」

 学僧は「私=自我・アイデンティティ」が観ていて「私=自我・アイデンティティ」が衆生を仏性として観ていると思い込んでいます。「本来の自己」があるがままを見れば、あるがまま(=仏性)でしかないので仏性として言われているだけのことだと気づいていません。

 

・「わしはもろもろの衆生ではないからである」

「わしにはない」と答えて時点で、「私=自我・アイデンティティ」の視点での問答ではなく、「本来の自己」として答えているようです。衆生(=私・自我)の視点ではないよ。

 

・「ならば衆生でないなら仏ですか」「わしは仏でもない」

 お前さん(=学僧)の考えている「仏」の概念なんて知りはしない。わし(=禅師)はお前さん(=学僧)の言っている「仏」ではないよ。

 

・「ならば一体どんな物ですか」「物でもない」

 学僧は、こんどは「物」として掴んだり触れたり得たりしようとしています。

人間の「知りたい病」には呆れ返ってしまったようです。そりゃ「物」にまで貶めたら自分の頭や手で好き勝手に扱えます。馬鹿馬鹿しい頭脳ゲームとなってしまったようです。

 

・「見たり考えたりすることはできますか」「考えることも議論することもできぬ」

 遂に人間の「知りたい病」の本性が丸出しとなってしまいました。ここに至っても気づかないのが人間のようです。「見せて」説明してください。「考える」対象として現前させてください。どうしても「知りたい」・・・。

 禅師はまだつきあってくれています。「考えることも議論することもできぬ」

もうあなたの「知りたい病」に気づきなさい。誰も仏性なんて見えもしないし触れることもできません。ただの概念。仏も如来も解脱も輪廻も魂も心もだれもそんな実体を観ることなんてできはしません。議論して暇つぶしをしているだけ。「何もしない(=妄想から離れる)」で見えるまま、聞こえるまま、触れるまま、味わえるままで何の間違いもない現実に戻って来てはどうですかと言っているのでしょうか。

 

 

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何もしない人 [気づき]

 ある日、修行に悩む弟子から、「仏とは何か」と問われた雲門和尚は答えました。「乾屎橛

 

 人間は具体的な目標や目指すべき対象となるイメージがはっきりしていればその目標なりイメージに近づくことができると考えます。人間は現実に接しているよりも頭の中でイメージして生きている方が長くなっているかもしれません。イメージが主となっていて頭の中のイメージを実現しようと努力します。

 現実よりもイメージの中に真実があるとしているからかもしれません。言葉や文字は現実のものではないのですが、言葉や文字で思考する習性が身についてしまっています。言葉や文字が現実よりも重要視されていないでしょうか。言葉や文字が現実を変えると信じるようになっています。

 現実の「山」や「川」を見なくても「山」や「川」の絵を描くことができます。イメージで料理を作ったり物を作ったりしているのでイメージがあらゆるものを作れるとしています。現実は常に変化して生滅しているのに言葉や文字はちっとも変わりません。変化することと変化しないこととどちらが正常なのでしょうか。変化しているものにあえて変化しない言葉や文字で表現しているということに気づかなければなりません。言葉や文字は便宜上のものであって単なる表象でしかないということではないでしょうか。

 本質は諸行無常の世界であり留まることなく消滅しています。10秒前の世界は完璧に消え去っています

 

 明けても暮れても坐禅・読経・食事・掃除するだけの修行で調身・調息・調心(身体,呼吸,心を調える)となる。日常=修行=寂静と見抜いていかなければならない。日常以外に何かを求めるということが異常であると気づかなければなりません。日常以外が「それ」であれば、「それ」であることは特別でありめったにありえないことなので「私=自我・アイデンティティ」が最も喜ぶものです。

 「私=自我・アイデンティティ」が目指すものはマヤカシであり現実離れしたただの妄想だということではないでしょうか。

 

 弟子は修行で何かに成れたり何かを掴みたかったのでしょうか。和尚はどんな「仏」をイメージしているのだろうか。私(=弟子)は目指すべき「仏」のイメージを知りたいのかもしれません。

 具体的なイメージがあれば手っ取り早くそのイメージに近づいていけば現実となるという考え方です。

 

 所詮、「仏 Hotoke」は単に文字(=形)であり発音(=音)でしかありません。最初から「仏 Hotoke」という文字や音が存在していたわけではなく、誰かが概念を作り言葉や文字をあてがって同意した人々が使っているでけです。名のない天地だけだったのに、「名」によって万物を作ってしまいました。言葉や文字には反対概念があると非常に理解しやすいので往々にして打ち消すような言葉があるようです。

 

 弟子は「仏」は人間を超えたスーパーマンのようなとてつもないことを成し遂げた存在とイメージを膨らませていたかも知れません。

 弟子の抱いていた「仏」の概念を見事に打ち砕きました。弟子にとって目標となる和尚が実現している「仏」を教えて欲しい。

 後づけの概念でしかない「仏」を教えてもらっても言葉を貼り合わせただけのただの知識でしかありません。言葉を記憶して何になるのでしょうか。

 知識が寂静や幸福感へ結びつくという保証はどこにもありません。知識が静寂や幸福をもたらすのなら何も苦労する人などいません。

 仏教大学に行かなくても修行しなくても小学生の記憶力があれば「仏」は何かなど記憶できます。2千数百年前の人である仏陀・老子・荘子・孔子・・・の知識量は現代人の科学知識やインターネットからもたらされる知識量に比べたら微々たるもので足下にも及ばないことは誰でも分かっていることです。

 物知り遊びや概念遊びではないということのようです。

 

 修行者が何らかの心境を得たとかというわけではなく、私達から身体や感覚や思考や感情を取り去って残るものは何か。全て取り去っても働いているのは何かということのようです。「それ」が誰もが持ち合わせている不生不滅の「それ」。身体的な死とは無関係な「それ」が常に働いていて見ている。見ている者(=私=自我・アイデンティティ)は「それ」を通して見ているだけです。見ている者は「それ」に見られている。

 お釈迦様とヒトラーも人間機能としては五感があり内臓があって脳があった筈です。両者を解剖しても人間機能にさしたる違いは見いだせないのではないでしょうか。支配欲のままに立ち回ったのか、思いに振り回されずに沈黙していたかの違いだけかもしれません。思いが自分のものでイメージを実行しなければならないとして行動に出た人。思いが自分のものではないと見抜いて菩提樹のもとで何もしなかった人(=妄想につき合わない)

 

※四六時中の頭の中の「おしゃべり」は、本当は異常なのに異常と思えないところが異常かも知れません。身体中の至るところが何らかの感覚を持っていたら異常だと思うのですが・・・。異常な思いに付き合ってたら大変だと気づいてもいいかもしれません。※

 

 自分かわいいが高じると、自分を守らなくてはなりません。自然と敵がいなくては愛することができません。愛国心は敵がいて敵対心がなければなりません。善を為している証拠を得たい人は、自粛していない人を見つけて制裁を加えることで自己正当化できないし自分を自分で評価できません。自粛は当たり前であり誰も褒めてくれる人がいないので、自分で自分を褒めるしかありません。

 美と醜はペアであり、どちらが明でどちらが暗であると定義しているだけです。夜行生物にとっては夜が活動の場であり明るいときは行動を控えています。ある国にとっては善であっても敵対する国にとっては悪となっているだけのようです。二元対立の世界で行ったり来たりしているかぎり一元の世界の見方は難しいようです。

 

道:絶対無、名称はない。すべてのものが成立する根拠。万物をおおい尽くす。玄の玄

名:存在の存在たる所以 君主が名をつける権利がある 玄

無:名によって相対の有無となって、無という概念と名

有:名づけによって存在が認識されて万物となる。

有と無は同根であり、ただ名が異なるのみである。

道の字は辶(しんにょう)が終わりを、始まりを示すそうです。(参照:ウィキペディア)

妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる

徼:始末の物の末端。物事の帰着点。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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