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刷り込み [気づき]

 子供の時からの疑問があります。水族館や魚の映像を見ると同じ種の魚がどうして一緒に泳いでいるかということです。魚は他の動物と異なり自身のほんの一部を見ることができる程度か、深海魚では自身を見ることもままならないかもしれません。彼等はどうして同じ種であることがわかり同じ行動ができるのでしょうか。同じ匂いや同じような音を出して共振しているのかサッパリ分かりません。あらゆる生命体は自身を直視できません。何らかの方法で自身が信じ込めばいいかの能力が備わっているということかもしれません。

 鳥類では「刷り込み」という本能があって、最初に見た動くものを親と認識するようです。生まれて最も身近にいる生命体が親(=自身を養育してくれる生命体)であるという決めつけは間違ってはいません。

 魚であれ蟹であれ・・・自身が一体何者であるかなどあらかじめ知っている生命体がいるでしょうか。

 

 私たち人間もあらかじめ「私=表象」があって、「私=表象」の意志で生まれてきたわけではありません。知らない間に自身が人間であることに気づいて周りの人間と同じように振る舞うようになってしまっているということです。

 私たちは人間社会で言語を覚え、周りにいる人間の振る舞いを見て育ちます。最初から◯◯教の信者ではありませんし、◯◯人でもありません。自身が何者であるかも知らずにいます。後から半強制的に知らされるし教育されて染められているのが現実ではないでしょうか。何故◯◯国の人を憎むようにしなければならないのかサッパリわかりませんが、教育に名を借りた洗脳かもしれません。

 

 生命体が同種の生命体と分かるには、同じ匂いや音や味や姿や振る舞いによって判断する他ありません。もし自身の一部さえ認識できなければ他が我であるとしないことには生きてはいけません。生命体は自身を直視できないので、周りに見えたものが自身そのものとしてあるという生活を送っているということです。周りにの動物に育てられれば自身はその動物しか映し出さないので自身が人間であることを知らずに育つしかありません。「野生動物に育てられた人間

 

 生まれてから死ぬまで誰一人として、自身をそのままに直視することはできません。自身は知られ得るものではないということです。自身を直知することができない代わりに、一旦「私=表象」というモノを認めて他を対象としなければならないということです。

 自身そのもものを見ることなしに他によって自身を推測する他無いので架空の「私=表象」が必要とされます。二人で話している時は他人と自身としている一部分だけを見ることができます。しかし、本当の自身はどこを探しても出会うことはできません。ただ自身の声らしい音がして聞こうとしなくても音が聞こえたり、見ようとしなくても見えてしまっています。どこにも「私=表象」の意志など働いていません。意志を働かせて、大きく見えたり小さく見えたりセピア色に見えたりすることもできません。聞きたくない声を聞こえないようにすることもできないし、聞きたい音だけクリアに聞くこともできません。「私=表象」の介入した形跡を探し出すことはできません。

 

 生まれた時はただ見えて、だだ聞こえて、ただ味わい、ただ何らかの感情があっただけです。全てを受容するしか生き残れない生命です。人間社会で成長する過程で、知らぬ間に「私=表象=社会的自己=自我」が身につき時間の観念を使い他を認識するようになります。

 さらに、言語を使えるようになり思考することができるようになります。本来は「無我・無心」であるのに、実在しないものを概念で捉えることができるようになります。実在しないものを実在するかのように扱うことができるようになり、事実でないものを事実のように思い込んでしまったということのようです。

 時間は実在ではありません、時間を掴むこともできないし延ばしたり縮めたりもできません。ただの概念として取り扱っているだけです。◯◯ちゃんのことを話している子供は実在の◯◯ちゃんではなく頭の中でイメージして扱うことができるようになっています。

 

 人間は生まれる前から「私=表象」があって生まれてきたわけではなく、何者(=◯◯人、性別、◯◯教等のアイデンティティ)として生まれているわけでもありません。周りの環境で(=刷り込み)アイデンティティが自分であるとしているだけのことかもしれません。

 私たちは、何らかの縁によって生命体として出現しました。人間社会で育てられてることで否応なしに言語や食生活や文化や様々なものに適合していくようになっています。周囲の環境によっては虫や昆虫や発酵食品でもなんでも食さなければなりません。周りが食べていれば何の疑問もなく同じように食べて育ちます。思い込めば(=刷り込み)何とでも染められるのが私たちの本質かもしれません。

 最初から備わっていない「私」が勝手に刷り込まれて、勝手に出現させていることを見抜かないと、何時までも幻の「私」に振り回されてしまいます。

 

 大事なポイントですが、想起したときだけ「私」が出現するということです。「私」はすべて後づけであり、想起した時点では事象はすでに消え去っています。取り扱いしているのは、ただの頭の中でイメージしてクルクル追っかけているだけのことです。考えで考えをなんとかしようとすることは、煙で煙をなくそうとすることです。問題を問題視していては問題を生きながらえ続けさせていることになります。例えば10年も前に友人に貸した500円を問題にするならば、いつまでも問題のままです。

 非常に簡単なんことですが、問題を問題としなければ問題ではないということです。どこかの大統領が誰になろうが問題にしなければ問題ではありません。問題にしてなんとかしようというのが「私=自我」だということです。知ろうとしたり関わろうとしたりすることが「私=自我」であって、気づかないで「私=自我」に振り回されているかもしれません。

 意味や価値を一生懸命探し回っているのも「私=自我」です。一々意味や価値があったら大変なことです。後から意味づけや価値をつけているのであって最初から意味や価値があったら、この世はどうなるのでしょうか。固定観念となり分別する前にこのフィルター(=固定観念)を通り判断することになります。ある事象にたいして固定観念を通して二元的な判断となってしまいます。分かりやすい勧善懲悪の映画のように善悪を決めてしまいます。

 ある教義がフィルターになり第◯◯章の◯◯に書かれている、◯◯は善だ悪だと決めつけてしまいます。本来は偏見差別を取り去り平等であるという教えであるべきですが・・・。約束された地であるとか、聖なる◯◯であり正当化することになるかもしれません。◯◯が言ったことだから正しいとか◯◯と書いてあるからと決めつけてしまうことが危険です。意味づけや価値づけには区別・差別が潜んでいないでしょうか。愛国心=嫌国心ということかもしれません。デマや誹謗中傷も何らかの意味をつけているということです。事実でも何でもないのに、あたかも事実のように言葉や文字で作り上げます。その言葉や文字をいとも簡単に受け容れてしまうのが人間です。イメージを共有する能力は素晴らしい反面、偽りも簡単に共有できるという「諸刃の剣」であるということを見抜ければいいのですが・・・。極端に言えば、1日中今ここにある事実ではないイメージの受け渡しに終始しているかもしれません。

 一切は何でもないし、意味も価値もなくただ等しくただあるだけということを見抜く必要があるかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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