SSブログ

思考で苦しむ [気づき]

 社会的構造的な問題から自身の問題にフォーカスしてみます。社会構造的な問題は政治家や学者が考えて解決する問題であり我々が責任を負う問題ではありません。

 私たちは、悩みを生じさせている原因が思考を追い回している思考であるという事実に気づいているでしょうか。あたかも自身の尻尾を掴もうとしている犬や猫のようです。

 思考こそが、私たちの諸問題解決に必要なものでしょうか。一旦立ち止まって観察したり何もしないというところに留まってみるのもいいかもしれません。

 よく言われている「一切転倒」というのは問題が先にあり思考が後であるということかもしれません。思考が問題を作り、その問題を思考を使ってどうにかしようとしています。掻いて痒みを増しているのに、さらに掻いて痒みを抑えることができるでしょうか。更に痒くなるか炎症を起こしてしまうか・・・。

 

 問題を起こしていながら思考でなんとかしようとします。教育によって思考で問題(=ペーパー上の問題)を解く訓練を受けて育っています。自身の問題を解いてきたわけではなく、作られた問題をルールに従って答えてきただけの話です。自身の問題を解決してきたわけではありません。コペルニクス的転回が必要とされます。自身が感受することを分別して取り扱う(=思考の対象とする)ことで問題となっています。認識で終わっているのに、次の識別作用を働かせて分別してしまうことで問題とするか。

 

 私たちは自らの意志で生まれてきたわけではありません。自我意識も知らぬ間に身についていて、思いの通りにしようと勝手に働いてしまいます。生まれ出る環境も選ぶことも出来ず、習慣も言語も環境に従うしかありません。◯◯人として◯◯語を話さなければなりません。

 生まれた環境の一切にあがなうことができません。半強制的に従わなければ生きていけません。あらゆる事象をそのままに受け入れるようにできているのが人間かも知れません。

 何者でもないただの生命体が周りの大人と言われる人たちによって構築されているガチガチの社会があり、その社会の枠組みに組み入れられているというのが事実・現実です。

 生まれたからには、集団の一員として生きるしかありません。集団の生活スタイルを自動的に自身が受け入れるので、集団がそのまま自身にコピーされます。周りの環境そのものが自身そのものとなります。周りの世界=自身の世界。自我意識(=自他の分離・分別)が身につく前の赤子にとっては、感受したものは外ではなく自分自身そのものということのようです。

 取捨選択できない赤子には一切(=感受=見えるのは、聞こえる音、味、匂い、感覚)が自身そのものです。

 

 言葉を覚えるに従って、一(=一との定義は多を含む)でない全体があるだけです。大人によって、存在が個々に分離されているように教え込まれていきます。何でも無い全体があるだけでした。その何でもない全体から花とカテゴライズされたモノが抽出され、次に薔薇という名前がついているというこを教わります。あらゆるものには予め名前が付与されていて、それらのものは認識される対象であるという錯覚が植えつけられます。ただ全体があるだけということは忘れ去られ部分が集合されたものが全体だと思うようになります。

 次に、「私=社会的自己=自我・思考・記憶=アイデンティ=身体」という何らかの主体があるという錯覚が錯覚と思えなくなっていきます。

 

 先に対象があって次に対象を認識している「私=社会的自己=自我=主体」が徐々に確立されていくかもしれません。「私=社会的自己=自我」という確固たる実体は存在していないのですが、五感は機能として認識し続けます。私たちは、ただ鏡のように映し出しているだけなのに、瞬時に対象とする癖によって分別します。この二元対立の分別によって”なんとかしたい”自我意識が起こります。ただの”なんとかしたい”という思い(=頭の中のイメージ)に振り回されてしまいます。

 このプロセスは、

1.感覚と感情が結びついて何らかの思いが沸き起こる。

2.言葉を覚えたので感情を言語化するよに脳が働く。

3.思いが言葉になり、”なんとかしよう”と頭の中でお喋りする。

4.お喋りしている「私=社会的自己=自我=主体」がどこかにいるかのように感じる。

 本来はただの思いが言葉になってしまった現象でしかないのに、「私=社会的自己=自我=主体」という錯覚・幻想が錯覚・幻想でなく実在のように感じられてしまいます。

 

 成長するに従い、感覚を言語化していただけから言語である言葉(=ただの音)や文字(=ただの形)が自身と密接につながり言語と自己同一化するようになります。

 言語でイメージ(=頭の中だけの現象)を展開できるようになり、それを図面や楽譜や芸術作品や建造物・・・として出現(=アウトプット)させることができるようになっています。言語を瞬時にイメージ化することができることには弊害もあります。あまりにも言語が身近になり自己同一化することで、感情や感覚に多大な影響を及ぼしているということです。SNSでの誹謗中傷で心(=実体がなく現象を捉える働き)が病み身体まで深刻なダメージを負ってしまうということです。

 例えばタイ語で”คุณสวยมาก”と投稿されても意味が分からなければ全く気になりません。また、外国のTVドラマで字幕がなければ何を言っているかサッパリ分からず感情移入することもありません。ただの音でありただの形でしかないというのが事実ですが・・・。

 見えるまま、聞こえるままにして意味を識別しなければ問題にはならないということです。カラスが”カッー”と何の意味もない音として聞こえれば何も問題はありません。しかし、ある鳥が”アホ”・”ドジ”と鳴いていると気になるのではないでしょうか。

 私たちは対象に意味や意義があるという前提を植えつけられています。一切を識別(=認識でははありません)して分別する脳の癖によって苦しんでいるかもしれません。自我意識は全てに意味があって、知るべき対象であり思考して解決しようとしてしまいます。

 本来のあるべき姿では、一切は万物斉同(=一様)であり起こるように起こっている。何も意味や価値など備わってはいない。自身も変化・変化していて恒常不変なものなどない。無常なるものには実体がない。実体のないものに我はないので、無我である。

 自我意識は記憶です、すでに消え去った事象を記憶(=ただの思い込み)から蘇らせて迷っているということではないでしょうか。

 記憶は記憶でしか無く、実体は存在していません。記憶された過去の事象はこの世から消え去っています。どこを探しても見つかりません。幻影(=記憶)でしかないものを取り扱うことでくるしんでいます。過去に振り回され、今に生きていない。過去を蒸し返して過去に振り回されて苦悩していることに気づいてみる。

 存在していない記憶(=幻影)を実体のない思考(=なんとかしようという思い)を使って大騒ぎしています。頭の中で記憶という映写機で映し出された映像に対して、思考という映写機で映像を変化させようとしているかのようです。実体のないものを実体のないものでどうすることもできません。頭の中の上映は放っておいて、映画館(=記憶や思考)から外に出るのがいいでしょう。今ここに強烈に戻ります。呼吸している自分、何かが見えている自分、何かが聞こえている自分、何らかの感覚がある自分。今ここで起こっていることだけを観察してみます。映画館(=頭の中)で何が上映されているかなど気に掛けずに、今ここでの感受だけが自身そのものとしていてみる。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(58)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 58

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
老子−22老子−23 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。