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人間社会の決めごと [気づき]

 今生き残っている人間(=サピエンス)は、人間社会だけに通じる無質量である音の組み合わせからなる「概念」によって「音=言葉」を無限に生み出す能力があります。我々が休むこと無く、口をパクパク動かして音を出し続けているのを見たり聞いている動物は怪訝な顔をすることなくつきあってくれています。

 フィクションの世界にいるわけですから、口をパクパク動かして人を癒やしたり怒らせたり励ましたり何かを教えたりしてお金を貰えるなんて面白い世界に生きているということです。音を交互に出し合っているだけにしか見えないのですが、コミュニケーションと定義され大きな価値や意味があるようです。人を承認したり称賛したり笑わせたり感情に訴えたり・・・・ファンタジーそのものでありワクワク感を日々味うことができます。ただの無重量の音(=言葉)が行き来して、何らかの意味を持っていて世界中を駆け回っています。

 犬や猫の視点を経験するためにTVをミュートで見ることがあります。人間というものはどうゆうものかを客観的に新鮮な気持ちで味わえるかもしれません。

 

 見えない事象(=重力・心・・)も見える対象(=存在)も無質量の「音=言葉」として表現することができます。ただの音(=言葉)なのに人間社会では捉えたり掴んだり得たりできるものとされています。感覚は感覚だけしかないのに「音=言葉」で表現できることで捉えたように勘違いしているかもしれません。皮膚感覚でも「痛い・痒い・心地よい・・」というふうにいくつかに分類され、他に伝えたり自らが感じとり対象とします。感覚が対象化されることで、掴めたり得たりすることができるモノとすることができるようです。

 目に見えないウィルスであっても電子顕微鏡の映像を見ることできること(=対象化に成功)によって、あたかも捉えられ克服できる対象であるかのように錯覚しているのかもしれません。

 どう頑張ってもウィルスを捉えることはできません。捉えられるのなら避けることができますが・・。我々の五感の能力で捉えることなどまったくできません。生身の人間の感覚は限られた範囲でしか世界を知覚できていません。

 

 我々人間は、なんだか分からないものであっても音=言葉にすれば捉えられるという錯覚に陥っているようです。見たこともない魂や心霊やお化けや神や仏でさえ、音=言葉で定義されれば捉えられない未知のものではないのです。避けるべき対象であったり、お願いできる対象として頭の中で扱うことの飽き足らずイメージで絵を書いたりすることもできます。存在しないのですから、違っているとは指摘されません。どんなにイメージしても肌の色や目鼻立ちや髪質がどうしても似てしまうようです。馬と人間を合体させたり、火を吹く鳥であったり空を飛び回る大きな蛇であったり象と亀だったりと創造力も限られています。自然界のほうがアッと驚く多様性で満ちていると言うのに・・・。宇宙人も想像の域を出ることはなく稚拙な想像に留まっています。乗り物もイメージでしかないので円盤のようなものしか描くことができないようです。

 

 古代にあっては人間の制御を遥かに超えた自然現象を神の祟りとしていたようです。生贄を捧げるというバカバカしい行いを真剣に行っていたということです。我々の信じているものなど後の人類からすれば、何の根拠もないバカバカしいことばかりかもしれません。

 人間が考え出していること(=無重量のイメージ)がただのファンタジーかフィクションに酔いしれていて、ゲームやお遊びに夢中になっていたということかもしれません。ゲームやお遊びを「哲学・思想・宗教」だという大袈裟な「音=言葉」で高尚なものとしているだけだったら・・・。

 

 直知と間接知について・・・。誰もが自我が芽生える以前の生まれたばかりの乳児から幼児という期間を経ていたはずです。「音=言葉」が意味を持っていると分らない期間です。この期間では「あるがまま」を「あるがまま」に見えていた「直知」であった。「直知」では分離はなく全体そのものであった。

 「音=言葉」に意味があると知ることで他(=対象)に意味があることを知ることで自(=主体・自我)が生み出されていったかもしれません。自が最初からあったわけではなく、他(=対象)として見る癖を周りの(=先に人間社会に洗脳された人々)先輩から教え込まれて身につけて(=脳の癖)しまったかもしれません。

 

 現在我々が使っている「知るsiru」という「音=言葉」は、全てに名前がついている既知の存在の決められた「音=言葉」を間接的に教わる知(=間接知・分離知・分別知)ではないでしょうか。

 同じ言語圏で共有しているフィクションの中で生きている。「知る」ということは、過去の人間が勝手に決めた決めごと(=対象につけた名前)を無意識的に受け入れているだけかもしれません。勝手に決められた決めごとを疑ることなく鵜呑みにしている・鵜呑みにさせられている。「山yama」を「山yama」と発音したり文字にする必要性は、同じ言語圏の社会でのフィクションを共有して生活するために求められるだけのことだと気づけるか・・・。

 「山yama」を自分自身で勝手に「mippe」という音にして新しい「ภูเ」という文字にしてもいいはずです。勝手な命名は、同じ言語圏の人間社会に反する行為となります。我々の今の生活は同じ言語圏の人間社会に束縛されているのではないでしょうか。「山yama」は誰のものでもなく「山yama」と発音しなければ祟りがあるものでもなく、ただ盛り上がった何でもないものですからどう発音しても自由なはずですが・・。この固定観念を破ることが非常に難しいということのたとえです。社会の決めごとという暗黙の縛りを何十年も当たり前として生きて来たのではないでしょうか。リンゴが落ちることは当たり前、風呂に入って水があふれるのも当たり前・・・。当たり前の連続であって疑ってみることをすっかり止めています。社会ではこう決まっている(=固定観念)からなかなか抜け出せない自分がいる。

 

 「純粋知・直接知」は我々から無くなり消え去ったのでしょうか。「あるがまま」に接している時に「純粋知・直接知」が働いています。「純粋知・直接知」があまりにも高速に過ぎ去ってしまうので認識できない。知らない間に人間社会での決めごとの世界に入ってしまっています。人間社会で生きていくためのに使われている記憶(=海馬)から人間社会で使われている言葉が自動的に浮かんできます。瞬く間に「見えている」ものと照合されて「音=言葉=無重量」として頭の中で読んでいます。数え切らないほど繰り返されてきたのですから、疑う術はありません。

 「富士山」の写真を見て「富士山」であると照合され、瞬時に「富士山」という言葉が浮かび上がってしまう脳に躾けられているかもしれません。脳は脳を疑うでしょうか。習慣(=癖)となったこと、自身が身につけたものであって疑うことではありません。「富士山」という言葉が浮かび上がる以前に「純粋知・直接知」が働いていて、何らかの形として認識されているはずです。視覚野に名前のない像が描かれたことはすっかり忘れられています。記憶としっかりと結びついてしまっている脳になっています。人間社会の決めごとの世界では好都合に働いてくれる脳となっています。

 

 刻一刻と変化しているあるがままの「富士山」ではなく、記憶にあるイメージと結合された言葉としての「富士山」を見ていてます。今ここにある「富士山」を味わっているといえるでしょうか。

 

 動画では1秒間に何フレーム再生するというfps(=フレームレート)とい指標があり、TVでは30fpsであり滑らかに動いているように表示されています。見えているものは、パラパラ漫画のように少しずつずれたものがただ繋がっているだけだということです。「富士山」と認識できるようになるには、日本に生まれて日本語という決められた言語を習得させられている前提があります。「富士山」という決めつけられた日本人の共通認識があります。この暗黙の強制された知識に逆らえない中で生きてきました。日本人として教え込まれた「富士山」の姿は誰が見ても「富士山」です。「富士山」を見て「富士山」という言葉を思い浮かべずに、純粋にただ見ることは難しいことです。それほどしみついた固定観念から脱するには困難なことのようです。

 

 人間社会で生きていくには社会の決めごとの一つである知識を身につけることが大切です。しかし、歩いたり食べたり水を飲んだり排泄したり眠ったりすることに知識が必要でしょうか。事あるごとに知識がないと何もできないのでしょうか。知識は人間社会で生きる助けになるだけであって、必ずしも必須のものではないかもしれません。知識で痛みがなくなるとか知識でよく眠れるとか知識で消化が良くなるとか・・・。

 

 「純粋知・直接知」の段階では何でもない(=名前以前)形として見えているだけなのに。日本人であり誰もが疑うことを許されない(=非常識という烙印)という中にいるために、必然的に「富士山」という言葉を思い浮かべてしまうことに違和感はありません。これほどまでに強固に洗脳されているかもしれません。

 最後に思い浮かんでいる(=言葉)が認識されるので、最後の言葉が最新の認識とされてしまいます。認識以前の「純粋知・直接知」には気づかないし、気づかなくても何の支障もありません。人間社会では「純粋知・直接知」に気づくことを必要とされていません。

 

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・見えないものも実体を捉えることができないものも、音=言葉で定義できれば対象となり捉えたり掴んだり得たりできるとしてしまう愚かさに気づかない。

・知る(=間接知・分離知・分別知)ということは何かを掴んだり得たりして分かったり根本的に解決することではなく、人間社会で誰かが既知として決められた「音=言葉」を知っただけのこと。

・何かを知ろうとしていることは、人間社会での決めごと。どこかに書かれたことであったり、辞書にある概念。

・知ったこと(=無重量)を頭の中で追従しているだけでは、エネルギーが浪費され混乱するだけ。

・何かを知った(=人間社会の決めごと)からといって自身は何も変わりはしない。

・何も知ろうとしなくてもいい。ただ「純粋知・直接知」のままにあることにいてみる。人間社会そのものがイルージョン・ファンタジーで彩られた夢の世界かもしれません。楽しむだけならいいのですが、振り回されて苦しんでいるかもしれません。

・「富士山を荒縄で縛ってもってきなさい」という公案を真剣に考えて答えを出そうする愚かさに気づかない。

・一切の固定観念(=人間社会での決めごとからなるもの)を持ち込まずにそのままに見聞覚知する。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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