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「有為の奥山」で頑張らなくてもいい [気づき]

 あらゆる問題は全体と分離した”私”という感覚と、その”私”が自然に抱く「自分かわいい」を具現化したいことに由来しているかもしれません。

 誰もが安全・安心・便利・快適を希求して止みません。名前をつけられ、分離した”個人”として育てられ、教育を受けてきました。この現象世界(=有為の奥山)で何かを掴んだり捉えたり得たりひとかどの人間にならなければとされています。”たった今ここ”で自らが何を掴んで何を捉え何者になったのかと自問自答しても、返すことができるものは見つかりません。一般的にはアイデンティティ・身につけた技能・立ち居振る舞い・知識・・・のようなものかもしれません。知識は手のひらサイズの電子辞書には遥かに及ばないし、インターネットで検索すれば瞬時に答えらしきものを探し出すことができます。ただ老いた身体と向き合っている現実があるだけです。

 

 これから先も何かを掴んだり捉えたり得たりしても、一時の慰め程度のものなのでしょうか。方丈記に「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。 」という一節があります。

 どこから来てどこに行くかも分かっていないのに、人生は意味や価値があるものだと思い込まされたり思い込んだりしているのでしょうか。人生に意味や価値があるということを、一体誰がどこでどのように決めたのかサッパリ分かりません。分かろうとすることは分かっていないことを感じていて、分かることで得すると感じているということです。

 何者かになろうとすることは何者ではないということを感じていて、何者かになることで得すると感じている。常に”私”という感覚を持ち続けていることで”私”という何かがあるかのようにしているだけかもしれません。恒常不変で一定した”天気”なんてどこにもなく常に変化変容しています。恒常不変な”私”もないのですが、”私”を後づけしてあたかも存在しているかのようにしています。

 

 この世に一時的に生命体を得て出現しているだけ。一体誰のために心を悩まして、何のために目を嬉しく思わせようとしているのかということです。身体も感受も無常であって何も残るようなことはないようです。朝顔の露には様々な様子が映し出されるだけで残ることはありません。身体に”私”がついているのか、”私”に身体がついているのか。そんなことも分からずに”たった今”はどこかに消え去ってしまいます。

 

 有為の奥山で、何かを掴んだり捉えたり得たり頑張ることで苦悩を生み出しているかもしれません。”私”というものが”空っぽ”であり存在しないものにつけられた表象だと見抜く。そもそもが”空っぽ”なのだから求めることもなく捉えることも掴むこともできないと理解できれば安心・安全・快適を手にしているかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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