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逢佛殺佛 [気づき]

仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。

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 過去・未来はただの概念でありどこを探しても出会うことはできません。悩んでいることは、ありもしない過去や未来に振り回されている今を生きていることかもしれません。

 キーワード:今・価値観・固定観念・二元対立・思考・私・自分・我・何とかできる・解決できる・比較・認識・掴める・達成・変化変容・特別・普通・平凡・・・。

 

 たった今が永遠に続いています。たった今起こっていることは、五感で感受されその感受された事象は生滅しているということです。どこかに目を向けるとその光景があり、さっきまで見えていた光景は綺麗サッパリと消え去っています。ついさっきの光景とたった今の光景がダブって見えることはありません。ついさっき聞こえていた音とたった今聞こえている音がダブることもありません。ついさっきまで思っていたこととたった今思っていることがダブることもありません。自分の中で感受された直前の出来事は綺麗サッパリこの世から消え去っています。どこを探してもありません。

 私が見ているのではなく目を向ければ勝手に見えています。私が思っているんではなく勝手に思いがわき起こってきています。厄介なことに、同じ場所で同じ光景を見れば同じ光景が見えますが、各人の思いは異なっています。そこでその思いが自分固有の自分のものであると勘違いしてしまいます。

 

 ”私・自分”というのは考えることで出現させているだけで、考えの中にあります。この思考で出現させている”私・自分”は勝手な固定観念・価値観を持った主体として働いています。

 成長するに従い自らの固定観念・価値観の牢獄(=有為の奥山)の中に安住することになっています。

 知らないこと・知りえないことを知っている人。分からないことを分かっている人は、思考を超えた人であるということになってしまいます。なんでもかんでも思考で捉えたり掴んだり解決できるとして教え込まれていることが原因かもしれません。思考しても答えにたどり着けないことは思考を超えているという表現になってしまいます。

 冷たい感覚を説明して下さいと言われても説明することはできません。(冷暖自知)言葉を羅列して物事の本質に触れることができるというのは思考が作り上げた幻想かもしれません。言葉は実物の影のようなものであって、影をいくら集めても実物にはなりません。

 

 さあ”仏”という手の届かない概念に出会うと、言葉を使った思考では捉えることができないので素晴らしいとかすごいということになります。先人や親戚の人の経験も想像するだけで理解することができません。分からないことは畏敬の念として分からないままとなります。

 この世に特別なことはなく一様なのですが、特別として見たり気になることだけがあるかのように感じられます。(猫に小判)ワンちゃんには匂いが気になりますが、人間にはさほど気になりません。オリンピックでは、自国の選手は気になりますが他国の選手はあまり気になりません。様々な思いが勝手に浮かんでくるのですが、気にしだすと取り扱わう癖があります。思考に色・香り・味などありません。

 訳のわからない概念を追いかけるのを止めてみます。何でも無い”素”の事実だけを観察します。今を今のままに受け入れる。何のことはない、あるようにあるだけ。”達成しよう”とする気持ちを脇にやってしまい、”達成”なんて問題しなければどうなるでしょう。今のままの自分に寛ぐ。

 自分周りには、未知でありとてつもない何者(=仏)やら身近に年長の人生の経験者である親族がいます。知らないことを知っているとか、未経験のことを経験しているとか様々なことを考えても何も変わりません。

 知りえないことを知っているのが素晴らしいという価値観を根こそぎ消してしまうとどうなるでしょうか。知らないままに今に委ねてみる。探求なんて二の次にして”ありのまま”の今を味わい尽くす。何も求めてず囚われのない今に落ち着くことができるかもしれません。何者にもなれない・何も達成しない・何も掴めない・何も得ない「なんでもない」平凡そのままであれば”私”の出番は無くなります。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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禅僧ティク・ナット・ハンのことば 4 [気づき]

人生の中で最も大切なものは安らぎと幸せです。でもこころは常に未来への不安や過去への後悔、または色々な欲求に引っ張られ、いまここにある幸せを忘れてしまっています。くだらないことにこだわるのをやめて本当に大切ないまこの瞬間、すてきな瞬間に帰ってきましょう。

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 「人生の中で最も大切なものは安らぎと幸せです。」ということは、人生で最も厄介なことは「葛藤・混乱」ということでしょうか。”私(=我)”は今ある自分に納得がいかない、今の自分を受け入れられないのでしょうか。しかし、他人に対して”私(=我)”の主張は正しい(=自己正当化)のです。おかしなことに他人に対する自分=”私(=我)”はいつも正しいのに、自分自身は「葛藤・混乱」を抱いて生きています。自分が正しいのに自分に納得がいかないというのはどういうことでしょうか。自己矛盾がの中で生きています。「絶対矛盾的自己同一」

 ”私(=我)”は今ある自分を見ていると信じて疑いません。自分を直視することなどできないのですが、自分を分かっている”私(=我)がどこかにいると感じています。感じているのでどうしょうもありません。

 自分が自分の顔や背中を直視することなどできません。見えている時に見ている自分がイルカのように感じていますが、勝手に見えているだけで”私(=我)”が見えているのではありません。見えている様子(=光景)が自分自身そのものです。

 自分は常に変化変容していて恒常不変の自分はどこにも存在していないし存在できません。世間も変化しているし自分だと思っているモノも変化しています。”私(=我)”はあるようで無い。”私(=我)”など無いのですが、思った主体としての表象として”私(=我)”があてがわれてしまいます。

 

 道元禅師は、「仏道をならうというは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己をわするるなり」と書いています。何がどうやって思い浮かんでくるかなどサッパリわかりません。目を向ければ勝手に見えてるし、音は勝手に聞こえています。思いも勝手にわき起こってきています。勝手に働いている事象に”私(=我)”をくっつけない。”私(=我)”を忘れさることが安らぎだということでしょうか。

 

 ”私(=我)”が思考することで解決策(=賢者の石)を手にすることで

安らぎを達成することができるとしているのでしょうか。思考で平安がもたらされるのか、思考しなくてもいいことが平安なのかどちらでしょうか。

 ”私(=我)”は自分かわいいですから”私(=我)”の思いを実現したいと努力を重ねます。努力するということはもがき苦しむことになります。自分をいじめ尽くして「刀折れ矢尽きる」までやっても”私(=我)”は更に強くなるだけです。えてして欧米人は成果を求めるので、坐禅することで何かを得ると考えているようです。我執の囚われから抜け出す、坐禅は坐禅のためにする。”私(=我)”の為にすると我欲・我執が一層強化されることになります。

 困ったことに、素敵を味わおうと”私(=我)”が考えます。”私(=我)”の不在(=無我無心)が素晴らしい。我を忘れて北京オリンピックの競技に魅入っている瞬間瞬間。”私(=我)”の損得なしに見ていられれます。

 熟睡(我の不在)した後に爽快感があります。勝手にわき起こる思考は消え去り害悪はありませんが、”私(=我)”が特定の思考を追いかけ回すと葛藤・混乱に振り回されることになります。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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禅僧ティク・ナット・ハンのことば 3 [気づき]

 人生で一番大切なことは安らぎや喜びという宝をみつけ、それを他の人々や生き物と分かち合うことです。そのためにはあなたの歩む一歩一歩の中に平和を見いださなければなりません。つまり一番大切なのはあなたの歩き方なのです。

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 ”私(=我)”の望んでいる条件が満たされている状態が”あるべき姿”とします。”私(=我)”が設定した”あるべき姿”に近づけようとする考えを追い回し続けることが”苦”となっているかもしれません。「病気もしないし老けない身体でいたい。欲しいものが何でも手に入り、美味しいものを好きなだけ食べ快適な住居で安全に暮らせる」いやいやもっともっと欲望はきりがありません。引き寄せの法則を使って思いを実現させたい。神社に行って神頼み。世界に知られているあらゆる願望成就法を修得しよう。得ようとか掴もうと奮闘することは、得ていない掴んでいない不足している自分がいることを認めていることです。理想に遠い「駄目な自分」がいなければなりません。

 「安らぎや喜び」を見つけて下さいとおしゃっています。見つけるのですから得るとか掴むとかなるということではありません。「安らぎや喜び」はどこからか降って湧いてくるようなものではなく、喧騒・葛藤・混乱・あがき・・等の囚われから開放されたり気にせず忘れているときのことかもしれません。こちらから働きかけることではないので、向こうから訪れるとかやって来るという表現になってしまいます。何もせず(=思考を追いかけ回さない)にあるがままに委ねていればいいだけかもしれません。

 眠りを得るとか掴むわけではありません。ただ何もせずに放ったらかすことで、向こうから眠りが訪れます。熟睡している時は何もわかりません。目が覚めるとリフレッシュされ爽快感があります。

「安らぎや喜び」を奪うことはできません。他人の体験(=安らぎや喜び)をどうして自分のモノにすることができるでしょうか。”私(=我)”が介在しなあらゆる瞬間が「それ」。  

 「安らぎや喜び」は熟睡と同じように得たり掴んだり記憶したりすることではありません。熟睡がどこかに「ある」でしょうか。時間は存在ではなく今という瞬間瞬間が前後裁断されて生滅しているだけかもしれません。

 瞬間瞬間の出来事があり起こっては過ぎ去っているだけです。ひと呼吸・一歩一歩・風呂に浸かっている瞬間瞬間・食事の一口一口・家族や友人とのお喋りの一言一言・ストレッチの一瞬一瞬・頬に当たる風・鳥の羽ばたきが見えている瞬間瞬間・川のせせらぎの音が聞こえている瞬間瞬間・コンサートで声援を送っている瞬間瞬間・犬との散歩している瞬間瞬間・猫とじゃれている瞬間瞬間・唇とコーヒーが触れる瞬間・シャッターを切る瞬間・・・・あらゆる瞬間が「安らぎや喜び」であり誰もが体験しています。

 

 何故”苦しみ”を忌み嫌うのでしょうか?”苦しみ”は心身の危険信号であり、様々なお知らせであり放ったらかしにしておくと大変なことになります。”痛み”が必要だから”痛み”があります。”痛み”がなかったら大変なことになります。例えば骨折しているのに”痛み”を感じなければ、どうなるでしょうか。何かに刺されて”痛み”を感じずにいて毒が回ったら死んでしまいます。足先の痛みが強く感じるのは、足を怪我すると死に至ると身体が警告しているのでしょうか。足を怪我した動物は死を覚悟しなければなりません。

 象の足の裏には神経が張り巡らせています。歩けないということは動けないことになり、その象は死に直結します。”痛み”を感じることが身を守ることに繋がっています。嫌な臭い、吐き出してしまうような食べ物・・・嫌なことを感じることで身を守ることができます。”苦痛”を正確に感じるから生きていられます。仏道での”苦しみ”は、実体のない”私(=我)”が思考を追いかけ回して”何とかしよう”と心身に働きかけることではないでしょうか。自分で作った幽霊(=我)に脅され悩まされていること。

 

 坐禅は坐禅のためにする。歩くのは歩くためにする。生きるのは生きるためにある。歩くことに善悪も損得もありません。誰もが大地と繋がっています。今この瞬間、誰もが大地と接しているし大地と争っている人はいません。歩いても何も得ることもないし何者になることもありません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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禅僧ティク・ナット・ハンのことば 2 [気づき]

 坐ることは「何もしない」ためのチャンス。何もしないで、ただ坐って呼吸を楽しむ。感情や思考がわき上がって来たら、空の雲が流れて行くのを見つめるように、ただ見つめていればいいのです。思考を無理になくす必要はありません。身体をリラックスし、ありのままのあなたを受け入れましょう。

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 「マインドフルネス」は、過去や未来のことの囚われ(=マインドワンダリング)から抜け出すことです。今起こっている事実と共にあることを実践します。「何もしない」というのは、”私(=我)”の声に耳を貸さないようにすることかもしれません。

 今起こっている事実はそのまま宇宙の働きであって、二つに分かれることのない一つの事実です。一つの事実を人間の分別によって二つに分けてしまいます。宇宙の営みに正否をつけていることになります。

 今ここにありもしない過去の後悔・怨み・辛さ・悔しさ・・・や、定かでない未来への希望・不安・準備・・・で頭が一杯になっていては今の事実のままを生きていないことになります。余計な思考によって、不安ストレスを自らが作り出して自らを苦しめていることになります。

「心ここに在らざれば視れども見えず聴けども聞えず食えどもその味を知らず」(孔子)

 

 「心」とか「わたし」というのは何らかの思いを言葉にして捉えた言葉であって実体はありません。参照:「達磨安心」

 ”知りたい”・”知らせたい”・”何とかしたい”というのが”私(=我)”の特性です。生命体の保身・維持のためには危険から逃れたい、予め危険を知っておきたいし知らせたいというのが本能かもしれません。

 知ることで安全を確保して身を守ることができます。知らせることで種の保存に貢献することができます。動物が発することができる音の種類は限られていますが、人間は様々な音の組み合わせで無限に近い音(=言葉)を発する事ができます。言葉を使って概念さえも伝達できるようになっています。

 人間は、現実に存在していないものをイメージして創り出すこともできます。霊・魂・妖怪・あの世・天国・地獄・・・・誰も確かめることができないようなことさえイメージできます。言葉やイメージで何でも伝えられたり、受け取ったりできるかのように思い込んだりしています。言葉で全てが伝わったり受け取ることができたら大変なことになります。

 ”痛い”と言ったら相手に”痛い”という感覚が伝わったらどうなるでしょうか。お釈迦様が伝えたいことがそのまま伝わっているのなら修行する必要はありません。”神”と言うことで”神”が出現したら大変なことです。一億人が同時に”神”と言ったらどこに出現すればいいのか”神”も混乱してしまいます。

 実体を音や形に変換したのが言語なのに、音(=言葉)と形(=文字)で実体が出てきたり伝わったり受け取ったりできる訳がありません。

 人間は何でも知りたいし、何でも知らせたい分かりたいのかもしれません。金星の情報も知りたいし、ごく身近な近所の情報も知っていたい。これから、旅行に行くわけでもないのに世界の天気を気にかける必要はありません。NHKのBSで世界の天気をお知らせしていますが、知ってもあまり意味はありませんが・・・・。

 何か有益なことや何か楽しいことにめぐり逢いたいと思っている。それは”私(=我)”であり、この”私(=我)”の振る舞いによって今に落ち着くことができなくなっているのではないでしょうか。

 

 ”私(=我)”は未来を考え不安を煽ったり、今に満足がいかないと過去を持ち出して悔いたりします。”私(=我)”の本性は何の力もなく何の責任もとることもできません。困った時に出現して”何とかしよう”と促します。この”私(=我)”の言うことを一々相手にしないというのが「何もしない」ということかもしれません。思考は湧いては消えていくものです。ちょっかいを出している”私(=我)”が問題なのです。責任もとらずに”何か言っている”と無視してみてはどうでしょうか。”私(=我)”が言っていることを単なる外野の声として相手にしない。たった今にあってリラックスしている。ありのままの自分が坐っています。

 

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禅僧ティク・ナット・ハンのことば [気づき]

 マインドフルネスの普及に貢献したティク・ナット・ハン氏が22日に亡くなりました。残されたことばのを掲載させていただきます。

 

 私たちは「いまここ」にある幸せを見ずに、幸せが未来にあると信じているため、いつも走ることが習慣になっています。走らないで止まってごらんなさい。今のあなたは、そのまままで素晴らしいのです。他の人になろうとしないで下さい。あなたが探しているものは、すでにあなたの中にあります。

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 人は未来に思いを馳せることが出来るので希望と絶望を妄想することができます。動物は今だけを生きているので、未来に絶望することはありません。未来に希望だけがあるかのように考える傾向があります。時間は連続した線のようなものではなく、「今」という前後裁断されている刹那が生滅しているのかもしれません。時間を掴んだり得たり分け合ったり保存したり、どこかから持ち帰ったりすることはできません。どこかに「ある」というものではなく「時間」という概念を使って「ある」かのように扱っているだけかもしれません。

 他の誰かになることも出来ませんし、他人がやったこと思ったことは自分ではありません。(他は是れ吾にあらず)自分を観察して「今の自分をよりよくしよう」という”私(=我)”がアレコレ忠告・助言・指導・心配・・・して”何とかしよう”としていないでしょうか。

 三歳頃になると実体のない”私(=我)”が思った時だけ生じるようになります。この思いである”私(=我)”は比較し、二元に分けて執着・忌避・その他自身が満足するように働きかけます。この”私(=我)”は単なる「思い」であって何の責任もとらないし、大した影響力もないただの呟き程度なのですが・・・・。心の声として認識してしまうと従ってしまうようになります。この厄介な”私(=我)”によって人生が振り回され、”苦”を感じる元凶かもしれません。

  起こっていることは宇宙・自然の現象であり事実でしかありません。起こったことが、人間の”我”によって意図的に行われていると認識すると放っておくことができなくなることがあります。

 「いまここ」に善も悪もなく、ただ「いまここ」という現実・事実があるだけです。”私(=我)”は未来に備えるために”知りたい病・知らせたい病・なんとかしたい病”にかかっていることに気づきません。

 いろは歌にある「有為の奥山」の住人として”私(=我)”が関わっている限り「有為の奥山」から脱出することができないかもしれません。

 探すものと探されるものが別々では何時までも探し回らなければなりません。探すもの”私(=我)”がいなくならなくてはなりません。探される何かがあったら大変なことです。探すものもいないし探されるものないかもしれません。

 

 

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何もしない [気づき]

 三解脱門:一切を空と観ずる空解脱、一切に差別相のないことを観ずる無相解脱、その上でさらに願求の念を捨てる無願解脱。(参照:デジタル大辞泉)

 「空」という概念を作り出して「空」を観ずるようになってしまっては本末転倒かもしれません。空っぽのコップ、何も握っていない手、虚空・・・、目を向けた時に勝手に見えています。「無用の用」。コップはいつも空であるからこそ使えます。手は何も握っていないので、いつでも握れます。何も無い空間があるから動いたり物を置いたりできます。すっかり消え去っているからこそ、次の何かを認識できます。空で無かったら入出力できません。

 見えるということは直前に見えていたものはどこかへ消え去ってどこにもないからです。聞くことができるのは、直前の音が完璧に消え去っているからです。我々の五感で感受したものは、何もしなくても綺麗サッパリ消え去ってくれます。残っていたらダブってどちらに反応すればいいのか混乱します。常にニュートラルであるからこそ受け入れることができます。眼は取捨選択しないし好き嫌いもありません。何も掴むこともないし囚われることもありません。自身が下した分別に振り回されています。

 五感で感受されている事象はことごとく雲散霧消しています。驚きや衝撃的なことが記憶に残り、囚われが大きく執着することで脳裏に刻まれます。五感は取捨選択するということはありませんので既に無相です。

 存在は無常であり常に変化して留まることがなく遂には消え去ってしまうので自性(=実体)が無いので無自性と言われています。認識できる何かが事象として認識しなければ事象は起こったことにはなりません。認識されなければ何も起こってはいません。“誰もいない森で木が倒れたら音はするのか”、音がしていると想像しているだけで実際に聞こえていなければ音はどこにもありません。禅の公案も頭の中でアレコレ考えても頭の中の出来事であって、現実の生身の自分がどうなっているかを確認しなければなりません。苦しい修行と引き換えに安楽を得ようとするのは俗っぽい取引の修行でしかありません。修行に勤しみ肉体の限界(「刀折れ矢尽きる」)まで修行しても、それに引き換えに超人になることもできません。苦を制するために肉体的な苦痛を与えるような、「毒を以て毒を制す」ことをしても徒労に終わってしまいます。

 願い求めて達成するということではなく、願い求めること自体が障壁となっていることに気づかなければなりません。

 

 では何をしたらいいのでしょうか。何とかしようという渇望につき合わないように”何もしない”ということに徹するほかないということでしょうか。渇望を相手にせずに無視し続ける。燃焼には可燃物、酸素供給体、点火源の三要素が必要です。渇望(=燃焼)で苦しむには執着(=若さ・健康・生きる)・渇望・思い通りにしたいと思い続ける・分別(=二元対立)して自己正当化する・”自分かわいい”を主張し続ける・自己憐憫・・・が続いています。

 誰もが自分が正しく、思いのとおりにしたい。他人が自分の思いを邪魔して苦しめているというところに帰着しているのではないでしょうか。人間社会で生きて味わう体験は跡形もなく消え去ってしまいます。経験・体験を貯めることもできません。見聞覚知して味わい尽くすしかありません。老いるのも必然、病気も必然、死も必然。誰一人として”たった今”から離れることもできません。ありもしない過去やわかりもしない未来に思いを馳せてばかりいては、”たった今”を見逃し続けることにはならないでしょうか。渇望した先に何かがあるのではなく、今ここが全てがあるということを感じるのもいいかもしれません。

 

 「何もしない」:何かしているというのは、思考で解決しようとしているだけかもしれません。何とかしたいという渇望から自由になる。

たった一人の時間をただ坐る。ただ歩く、ただ見ている、ただ・・・。

1.空解脱:今以外を味わうことはできない。今以外は綺麗サッパリと何もない。見えているという働きが自身そのもの。生起しては消滅しています。

2.解決しようとしている「問題」にかかわらずに断絶する。思考で解決しようとせずにほったらかしにする。

3.分別してもただそのままにして応答しない。次から次へ思うがままに思う。思いを追いかけ回さなければ自然に消えていく。

4.何かを掴んでやろうという期待も捨て去る。

5.努力なく只、只・・・何とかしようとしない。なるがままに任せる。

6.「何もしない」と一体となる。「何もしない」ままの今が続く。

 

 

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賢者の石 [気づき]

 一般によく知られた賢者の石は非金属を金などの貴金属に変えたり、人間を不老不死にすることができるという。(参照:ウィキペディア)

 「百丈野鴨」では、思考する人間以前に生き生きとした生身の人間として活動していることに気づきました。知識や思考で答えを出すことは教え込まれた反応であって、物事を知らず知らずに二元に分けている証拠です。見る自分と見られる対象(=鴨)と分け隔てています。見た後に馬祖を見て答えているのですから、鴨は記憶としてあって実際は馬祖を見ているかもしれません。見る者と見られるモノは別々ではなく、見えているそのものが自分自身ではないでしょうか。どうしても見られる対象があって、見ている自分がいるとしか思えない。ただ見えているという現象(=事)があるだけで、事実はたった一つです。

 必ず自己保身の”自分かわいい”が主となり、見ている自分が立ち現れます。見えているだけなのに、対象を認識して”何とかしようという”自分が存在しているかのように思ってしまう思考過程(=プログラム)が働いてしまいます。考えている時だけ「私(=表象)」が持ち出されて働いているかのように感じますが、ただの考えがあるというだけのことかもしれません。極端に言えば考えた時だけ「私」という何かがいると思い込んでしまっている。「私」を知っている「私」ということは、観察されている「私」は「私」ではなく、観察している「私」が本当の「私」なのでしょうか。観察している「私」はどことにどのように存在しているのかサッパリ分かりません。ただ分かっているように感じている「思い」でしかないのではないでしょうか。瞬間瞬間に変化変容している「私」であれば、そんな頼りない「私」を信じているという「私」もいるのなら誰もが多重人格として生きている事になるのでしょうか。

 

 つねられて「痛ッ」と反応している生身の感覚そのもの思考以前にありのままを見聞覚知している「それ」です。禾山に問うて答えを聞いて分かろうとしているその「思い」が、自分を振り回している原因ではないでしょうか。人の思いを聞いて何かを掴んだり得たりできるというその「思い」が厄介者の正体ではないでしょうか。答えを聞き出そうとして、一生懸命に修行していると誤魔化している「思い」がインチキです。何度も同じことを言われています。毎瞬毎瞬、「私」が居て「私」が思考していたら大変なことです。日々の行動の逐一を「私」が制御することなどできません。ウィルスが侵入したら直ぐに教えてくれる訳でもなく、老化を防いでくれるわけでもありません。混乱を起こして騙していた張本人は自分(=何とかしたいという思い)であるというパラドックス。”何とかしたい”が悪いのではなく、常に主人公面して大手を振っているということです。大人しくしてくれればゆったりとでき、喧騒の中で過ごすことから少しでも自由になれるかもしれません。

 聞こえるのは空気中を伝わるただの振動であり、全ては「隻手音声」かもしれません。ただの振動を意味の有る音(=言葉)と解釈して、”自分かわいい”が主人公として出しゃばると大変なことになります。そういう意見もあるんだなくらいで収められればいいかもしれません。

 

 聖なる書物・偉人が残した言葉・友人・・・影響は計り知れませんが、「賢者の石」となって自らが変貌することはできません。引っかかっている石(=主人公面している”我”)を相手にしないでいると、以外にお気楽に生活できるかもしれません。”我”は”我”として願望を実現しようと一生懸命に働いてくれていますが、つき合っているとほとほと疲れてしまいます。お釈迦様も”我”につき合って生死を彷徨うところまでいったのでしょうか。徹底的に”我”の言うことに耳を貸さずに”何もしなかった”(=坐禅)ことが功を奏したのでしょうか。

 

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知らぬが仏 [気づき]

 動物は自然のままに生きています。人間のように時間を気にすることもないようです。時計を見ることもないし自らの行動を時計によって制約することもありません。何時に起きて何時に寝るという時間の観念を持ち合わせていないようです。動物は「未来」に思いを馳せて悩んだり絶望することはないようです。たった今をありのままに生きているかもしれません。

 人間は時間の概念を使って「未来」という観念を「モノ」であるかのように扱ってはいないでしょうか。「未来」があると言っているのは、どこかにあると考えています。「未来」に希望を抱くこともできますが、絶望もあります。希望と絶望はコインのように表裏一体の関係にあります。

 思いに実体があるでしょうか。思いを文字にすると「モノ」のように扱うことができ、掴むとか得るということができるように感じるかもしれません。文字を本にすれば本という「モノ」にすることができます。思いにも良い思いがあるとすれば、悪い思いもあります。「思考」することを悪い事のように言う人は稀です。

 「思考」すること自体は脳内の発火現象でしかなく、実体はありません。思考した結果を言語化することは、諸刃の剣であって人を助けることも人を傷つけることも騙すこともできます。思考が止んでいる時(=例えば熟睡時)が幸せなのに、思考して思考の中に幸せがあるでしょうか。スポーツ観戦したりコンサートで音楽を聞いている時は、評論家でなければむやみに思考しなくてもいいので気楽でいられます。考えるということを苦痛だと感じることがないでしょうか。いつまでもある問題に悩まされ続けることは大変な労力を必要とします。

 悩み・葛藤・混乱は考え続けていることではないでしょうか。悩みが解消するとはその悩みを考えなくて済んでいることです。「知らぬが仏」という言葉があります。知らないことに惑わされたり苦しんだりしないということです。知らなかったら腹を立てることも悲しむことも悩むこともありません。

 

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全体 [気づき]

 全体であることを推察してみたいと思います。

 もし、宇宙ステーションから地球を見たら、個々の人間を識別することはできません。宇宙ステーション内では、地上で認識できていたことが認識できません。宇宙ステーションから見ることのできるのは、地表・宇宙空間・宇宙ステーションの内部の何れかです。地上にいる我々は、地球を見ているとは思ってもいません。個々のモノを識別しているだけで、同時に地球そのものを見ているとは感じていないかも知れません。しかし、個々のモノだけを見ているだけではなく同時に全体も見ています。

<識別している範囲によって決まります>

・猫のどの部分を撫でようが「猫」を撫でています。猫のある部分であっても猫そのものに触れていることになります。猫と識別できていれば識別された全体(=猫)に触れていることになります。

・友人から電話で「今どこにいる?」と聞かれた時に、家のどこにいても「家にいる」と答えます。家の内部のいたるところを全体(=家)と識別していれば、家のどこにいようが(=リビング・寝室・・)家です。

・外国から電話があり「What country are you in now?」と聞かれたら、「I am in Japan」と答えます。日本(=Japan)と認識しているので、日本のどこにいようが全体(=日本・Japan)にいることになります。

・月のどこに降り立とうが「月に立っている」ことになります。月と認識し識別した全体(=月)に立っていることになります。月に地名が命名されて共通認識される場所があればその場所の名前であると識別するかもしれません。

・将来人類の誰かが金星に降り立ったとして、「あなたはどの星にいますか?」「あなたはどの空間にいますか?」と聞かれたらどう答えるでしょうか。金星と命名されているので金星と答えます。空間は特定されていないのでどう答えるのか分かりませんが「宇宙空間?」でしょうか。

・宇宙ステーションの船外活動中に宇宙ステーションから切り離されて宇宙で一人ぼっちになり、「あなたはどこにいますか?」と聞かれたらどう答えるでしょうか。

 

 何を認識しているかによって、何に触れているかが変わることになります。家の中にいるという認識であれば家の中のどこを触れようが、家に触れていることになります。

 ◯◯県に住んでいると認識していれば、◯◯県内のどこに住んでいようが◯◯県民ということになります。日本の国籍があると認識していれば、どのにいても日本人ということになります。地球の上にいると認識していれば、どこを見ても地球を見ていることになります。宇宙全体とともにいると認識できれば、何を見ても何かに触れても宇宙全体であるということになります。もし、見ている部分が宇宙全体ではないなら、その部分が宇宙全体から切り離なされていると証明しなければなりません。

 個々人が宇宙全体であるという認識を持てば、「わたし」も「あなた」も同一の宇宙全体として見ることになります。何もかもが宇宙全体という認識であれば、単に「わたし」という呼称が使われているだけで本来の姿は宇宙全体そのものかもしれません。個々人に識別名である名前がついていたとしても、そう呼ばれている宇宙全体の一部であり宇宙全体そのものであるのではないでしょうか。全てが繋がって分離分割されていない全体そのものでありながら、識別するために個別の名前がつけられているだけではないでしょうか。富士山もエベレストも地表の隆起でしかなく同じ地表面です。識別のために命名されているだけのことです。

 

 何でも「1」で置き換えられるように、個々に識別していたものを「全体」・「宇宙」・「自分」に置き換えてみるとどうなるでしょうか。何処も彼処も何から何まで「全体」。何処も彼処も何から何まで「全体」です。「全体」が「全体」を見ている。「宇宙」が「宇宙」を見ている。「自分」が「自分」を見ている。もし「全体」という認識で見ることができたのなら、全体は全体としてあり分離分割されたものではありません。

 全体が先にあって、後から人間が勝手に認識できる部分に分割して命名したのではないでしょうか。部分に分けておきながら、部分が集合しているのが全体だというのは順番が逆かもしれません。

 信じられないかも知れませんが、一歩踏み出せば宇宙空間を移動しています。日々宇宙旅行していることになります。宇宙を聞き宇宙に触れ宇宙を感じて生きています。宇宙(=自身が宇宙との認識)が笑い宇宙が泣いて宇宙が嘆いて・・・・。「自分」が動いているのではなく宇宙が動いているという認識。

 個物の集合である全体であれば、個々の対象を認識する「わたし(=我)」がいて、「わたし」が分別して”我”の欲するように現実に働きかけます。世は無常ですから思い通りにはならないので「苦」となります。”我見我欲”によって”何とかしたい”という”我”に振り回されることで「苦」となってはいないでしょうか。老いても病気になっても自然のことなのに、”何とかしたい”と抵抗しているのではないでしょうか。「苦」(=葛藤・混乱・抵抗・受け入れがたい・・・)とならないようにするには、あるがままを受け入れ気にしない知らんぷりでいることかもしれません。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候 」(良寛)

 災難にあったとして、何故自分に災難が降りかかるのかと天を恨んでいては「苦」が続くばかりかもしれません。今出来ることや、やるべきことをやるしかありません。病気になったらちゃんとした病人に成り切るのが最善かもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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イメージと実体 [気づき]

 「誰もいない森で木が倒れたら音はするのか?」という問いがあります。

私たち人間は限られた範囲の中で感受しています。電磁波・音の周波数・匂い・味・感覚・・人によっても異なるし、他の生物が感受している世界とも異なっています。各人の感覚器官が捉えたものが世界だと思い込んでいます。各生命体がそれぞれに感受している世界があります。生命体のそれぞれが違うということは本当の世界を感受している生命体はいないということになります。自身が見えているモノだけを信じているだけかも知れません。見えているモノを疑ったらきりがありません。

 感受する自身が認識できなくなれば、世界は消えてしまいます。受け取る側の生命体が世界そのものということになります。

 聞こえている生命体がいたとしても、聞こえたという認識がなければ音は無かったということになります。実際に木が倒れた現場にいて、聞こえたとしても発生源の音ではなく聞こえたという感覚を確認しているだけです。

 

 実際に聞こえない音は「無い」ということになります。今居るところで感受できている以外は想像することができるだけです。極端に言えば、ブロードウェイで上演している人が居るかどうかもただの想像でしかありません。

TVインタビューで「◯◯さんが死去しましたが・・」と聞かれて「本当ですか、知りませんでした」と答えます。生きていると思い込んでいるだけです。「〇〇さんが結婚しましたが・・・」「知りませんでした、おめでとうございます」。認識できていないことはただの想像で生きていることになります。認識できている人以外はいるかも知れないしいないかもしれません。今ここで「認知」できなければ、頭の中で考えることでしかないので”実体”があるかどうかの確信はもてません。

 危険だと感じたらその場から逃げてしまえば大丈夫ですが、頭の中にあるものは実体がないので物理的に排除したり離れたりすることはできません。

 今から逃れたり、今に迷うことはできません。実体のない頭のイメージに悩まされてしまいます。忄+脳=悩みではないでしょうか。

 「隻手の音声」:頭の中で片手を振り回しても何も聞こえません。

「百丈野鴨子」「非風非幡」という公案があります。禅問答を読むと、イメージで情景を思い浮かべてしまう癖があることに気づきます。何が言いたのかを考察するのも癖です。解ろうとするのも人間の習性です。自身に全ての答えがあると指摘されています。

 外に対象があって、自分は考える主体だと固執していないでしょうか。別々にあるのではなく無我無心に見えていて一体であるということに気づけるかどうか。全てに”自分”という言葉を当てはめていただければどうなるでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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現実をどう見るか [気づき]

 他人の思考を覗き見ることはできないし、一致をみることはほぼ不可能なので単なる推測であり一つの意見として読んでいただければと思います。

 

 現実はとどまることなく変化変容し続けています。混沌としていて無秩序な状態へと変容します。(エントロピー増大)

 言語によってモノや事象との関連付けができないと、ゴミ屋敷の中にいるような状態かも知れません。動物は敵・食べ物・親・状況・・・を認識できればいいので、花の名前や川の名前を憶える必要はありません。 

 不幸にも野生生物に育てられた子供は言語を修得できないので、何がどのようにあるのかサッパリ分かっていないかもしれません。赤子は真っ白なので、どこに生まれたとしてもその国の言語を憶えてしまいます。動物に育てられたろ育てた動物のようになるようです。


 

 見ることも聞くこともできなかったヘレン・ケラーは、乱暴で落ち着きのない子だったようです。サリバン先生はヘレン・ケラーが喉が渇いて飲み物がほしいというジェスチャーを見て、その欲しいモノは「w-a-t-e-r」という名前がついているということを教えました。運良く理解してもらうことができ、モノには「名前」(=意味)があることに気づき感動したかもしれません。現実には秩序があって、ゴミ屋敷のように散らかり放題ではない。図書館の書棚のように整理統合されているかもしれない。

 一つのカテゴリーの中に属性の違いによって分類することができます。言語はモノと関連づけられ、関連づけられた言語は滅多に変化しません。平安時代の「テフテフ」が現代では「ちょうちょ」に変わるぐらいかもしれません。「木ki」がある日から「べ」という発音になるとしたら混乱してしまいます。言語が変わらないということは、変化している現実に追随できないことになります。言語で現さすことができるのは「現実であった過去」ということになります。言語で表現された「過去」をいくら集めても事実ではありません。

 

 私たちは現実をどのように見ているのでしょうか。名前のあるモノが別々にあって、その集合が現実であるとの認識でしょうか。子供は何かを認識したときに名前を聞いてきます。子供が目にしているモノの名前を知って面白がっているかもしれません。”ママ”と言えば反応してくれます。自分が名前(=ただの音)で呼ばれることでコミュニケーションが成立します。

 モノに名前があり、感覚や感情も音で表現できます。他(=客体・対象)と認識する自分(=主体)との分離が自然に生じます。言語は意の働きによって思考となります。そこまでは良いのですが、”自分かわいい”という”我”による分別によって苦しむことになります。”我”は思いのとおりにしたいのですが、思いのとおりにならないので苦しむことになります。

 モノには名前があって分離分割した現実を何とかしようと苦悩することになります。

 

 現実にある一切のモノは、全部繋がっています。全体は全体としてあると解釈してみたらどうでしょうか。見えるモノ触れるモノ全ては全体そのものです。見る者と見られるモノは分離していな一体である。

 主体も客体もなく、ただ見えている・聞こえている味わっっているという現実がある。美味しいは美味しいだけ、不味いは不味いだけという現実があるだけです。食べている私がいて、現実を”自分かわいい”という”我”が分別して”何とかしたい”(=自我)とすれば苦悩することになります。あるがままはあるがままでしかないという現実のままをそのままに受け入れる。

 

<実験>

 名前のついていない原初に戻って、全てを”自分”と名前をつけてみてください。一切が”自分”であると気づくかも知れません。

 

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言語ゲーム [気づき]

 参考:ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』を解読する

 

 ヴィトゲンシュタインは言語活動をゲームと比喩して「言語ゲーム」という考察に至ったようです。

 私たちの使っている言語は同一の生活環境の中で暮らす人達の暗黙のルールによって作り上げられているます。

 言語と意味には一対一の対応関係はありません。

例:「いいです」状況によって、否定でも肯定で解釈可能。

「おいくつですか」状況によって、年齢なのか個数なのか判断が必要。

「結構です」気に入ったのか気に入らないのか分からない。

「検討します」断っているのか、受け入れているのか分からない。

電話で「留守にしています」は、本当にいるかいないのか分からない。

「頑張ったね」まだまだなのか、本当に努力したのかわからない。

「もうちょっと」まだまだなのか、本当に手に届くところまできているのか。

 

 前後の文脈や生活環境・文化・使用言語によって様々な解釈が介入することになります。会話しているグループが子供・大人・友人・見知らぬ人・客と定員・会社の部下と上司・研修中・・・様々な状況で何を言いたいのか推測するゲームをやっています。

 会話の中で相手が言わんとしていることの中から正解を当てるゲームです。ある地域で生まれた子供は、地域や家族の信仰を強制されて生きていかなければなりません。また方言を使われると何をいっているのかサッパリわかりません。

例:

Aさん「け」

Bさん「く」「うめ」

「け」は食べなさい。「く」は食います。「うめ」は美味い。で会話になっています。

 

 自国言語で、状況に応じて言語を使ってゲームをしています。何が言いたいのかを推測する能力を身につけていきます。本来、相手が何を考えているかなど知ることはできません。また、相手の「痛み」をそのまま感じることもできないし、見えている聞こえているそのままを同じように感受することもできません。もし他人の「痛み」をそのまま感じたら医療に従事することはできません。もし他人の本音が聞こえたら、大変なことになります。言葉は本心を歪曲させて使える便利なものかもしれません。発している言葉と思いは裏腹なことがあります。日本では根回しですでに合意ができていたりします。闇献金・談合・闇・・・・等々の嘘偽りが厳然として存在しています。言葉や文字が正しかったら契約書は必要ありません。

 「神」がどんな神かもわからず議論する意味は無い。「善」はなにをもって善と言っているのか曖昧である。「美」は人によって異なる感性であり表現も違う曖昧さがありませう。訳の分からない「言葉」を議論してもしょうがないということに至ったかもしれません。

 コミュニケーションによって自分の言いたいことを上手く伝えたいし、相手の言っていることを理解したい。完璧に思いを伝えられないし、思いを受け取ることはできません。このことが言語ゲームをしているということなのでしょうか。

 漫才・落語・演劇・詩・・・頭の中のイメージを言語化されたものを楽しむこともできます。作者は言葉(=音)や文字(=形)で様々な想像をさせることで楽しみを与えたいと思っています。創作は現実とはかけ離れたイメージを言葉にしたり文字にしたりしています。

 

 現実・事実は言語にする以前に目の当たりに認知できたいます。オープン・シークレット(=公然の秘密)なのに、言語化することでややこしくなってしまっているかもしれません。言葉や文字で表現できることは限られているし、曖昧であって前後の関係で推測するしかありません。なるほど言語は事実を表現する一つの手段かも知れませんが、真実を伝えることはできません。

 

 人間は「知ること」で知った対象を制御したり管理することが出来るかのように勘違いしているかもしれません。「時間」という言葉を作り出したことで「時間」がどこかにあると勘違いしているかもしれません。「時間」を見たり・触れたりすることはできません。時間が積み重なることができるのでしょうか。「時間」を与えたり・奪ったり・交換したり・削ったり・・あたかも操作できるかのように考えてしまいます。言語化するとあたかも存在しているかのように感じてしまいます。「時間」は有るとか無いとかを議論する「何か(=対象)」となりうるでしょうか。「今」という刹那だけが永遠に生滅して続いていだけ。「今」から離れて過去や未来にいることはできません。

 言語化できていないモノは「知ること」ができないし、「知る」対象とならないので存在しません。砂漠の砂の一粒に名前がついていないので、砂粒を特定することができないので実体として考察できません。曖昧な「砂」という概念でしか考えることができません。小惑星イトカワから持ち帰った「砂」は研究者にとっては特別なモノであり検証する対象として存在します。極端に言えば、言葉にできなければ存在していない(=認識できない)ということにならないでしょうか。

例:テーブルの裏にある「キズ」を発見して「キズ」だとしなければ「キズ」はありません。どの程度を「キズ」にするかは個人差があります。「キズ」と認識しない程度ならば「キズ」ではないので「キズ」という言葉を使いません。言語化しなければ「キズ」はないということになります。

 

・言葉と意味は一対一ではない。

・事象や対象を言語化しただけで、言語は事象や対象そのものではない。

・同じ言葉でも人によってイメージは異なる。

・個々人は見えている聞こえている世界を勝手に解釈して自らの世界を構築している。各人の趣味趣向は異なっている。

・そもそも異なる感受で生きているのに、同じ言葉が共通に使われている。

・自分の言葉のイメージと他人の言葉のイメージが異なっている。

・自分のイメージで言葉を発しているが、受け取る人も自分のイメージで解釈しようとするので齟齬が発生する。

・「リンゴ」と言っても黄色いリンゴもあるし赤いリンゴもあります。

 

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分析哲学 [気づき]

 哲学は言葉で思考し、人生の問題を解決したり物事の”本質”とらえる学問のようです。哲学がいまだ廃れないということは人類の抱えている問題が解消されないからでしょうか。思考する個人(=哲学者)は自らのことよりも人類全体の問題を解決するために頑張ってくれています。個の思考で全体を変革することは容易なことではありません。

 誰もが意が勝手に使われて思考しています。それは目を開けば見えるし音がすれば聞こえるという当たり前のことです。大事な点は”何とかしたい”という衝動によって分別して自分の都合のいいように現状を変えたいということです。思いを追いかけ続けて疲弊してしまいます。だれもが”自分かわいい”で自分の問題を第一に解決したいと思っています。”何とかしたい”という衝動には”何もしない”ということしか手立てはありません。

 

 ヒトが言語を発明しあらゆる事物や現象を概念化し、今でも多くの言葉を作り続けています。これほどまでに思考しているのに解決できないということは、何時まで経っても言語に依存し続けていても解決できない証拠かもしれません。膨大な人が膨大な時間を言語に費やし、思考に費やしてきました。人類の歴史を振り返っても闘争の歴史です、言語というツールを使っているのか振り回されているのかどちでしょうか。

 

 ヒト以外の動物・昆虫は、何らかのコミュニケーションツール(=吠え声・鳴き声・ジェルチャー)だけですが、妄想することなく自然のままに生きています。ヒトが考えるというのは、生きることに余裕ができたからかもしれません。

 言語は得るべきモノや忌避するモノを伝えるのに必要なツールであったかもしれません。言語には意味が付随した音(=言葉)と形(=文字)です。道具(=言語)を使って思考し、結果としてのモノ(=言語)もただの音と形でしかありません。 

 分析哲学では、世界は事実の総体です。事実に対応した「科学言語」で事実を表すことができる。事実と「科学言語」は一対一の関係がある。「科学言語」によって世界を確かめることができるという。

 事実を言語に変換し、変換された言語を紐解けば事実から成り立っている世界を確かめられる。

・「神」や「善と悪」などは、事実とセットとなっているか確かめることができない。

・「神」が事実かどうか検証することはできない。

・「善」「真」「美」・・・・が何を指しているのか何を表しているのか厳密な定義が定まってはいない。

  ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」では、「おおよそ語りうることについては、明晰に語りうる。そして、論じ得ぬものについては沈黙しなければならない」と書いてあります。

 

 事実を「科学言語」にしたとしても、変換された事実はもうどこにもありません。すでに消えてしまった事実を張り合わせても事実であったという過去のものです。言語の集合を読んでも事実だったことはありますが生々しい事実に触れることはできません。言語によって事実が現前するわけではありません。事実は瞬時に消え去っている一期一会の事象ではないでしょうか。

 言葉に変換する以前に、誰もが本質を見たり聞いたりしています。何もしなくても勝手に見え勝手に聞こえています。幻影が見えているわけでもなく見えたままがそのままの本質を見ています。聞こえたままに何も間違いはありません。犬の鳴き声を聞く人が言語にすると”バウワウ”であったり”ワンワン”と解釈してしまいます。言語化する以前ではあるがままをそのまま受け取っていて、何も間違いはありません。

 自分達に意味があるモノが見えたり聞こえたりしています。色の違いや音の違いは意識しないと分かりません。自分にとって必要なことは自然と意識されます。アフリカの有る部族では緑の色の濃淡に合わせて言葉があるそうです。虫の声を聞き分けるのは日本人とポリネシア人だけのようです。

 「太陽」という言葉自体は暑くもないし眩しくもありません。文章の中で「太陽」という文字を見て眩しく感じる人はいません。砂漠で生活している人の感じている「太陽」と北欧の白夜での「太陽」は同じでしょうか。同じように「太陽」を認識していますが、異なる感覚があります。

 誰もが「太陽」を感じているときには太陽の本質を感じています。「太陽」の本質を言葉で説明してもらう必要はありません。言葉で解き明かす前に、見聞覚知しています。物事を深堀りする癖によって自らを迷わせているのではないでしょうか。いくら考えても「太陽」を緑色にすることはできません。現実・事実は常に変化していて、感受してしまった後で変えることはできません。

 

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唯名論 [気づき]

 高校の教科書に「ものとことば」(数研出版 国語総合)が掲載されているようです。「もの」以外にも感情や状況や物の状態など様々な概念を言葉で表しています。国家・人権・力・浮力・優しさ・美・善・真・・・目にすることができなくても感覚的に分かったように使うことができます。

 認識できているということは、名前があるということで存在している。名前がないということは存在していないということになります。

 「ヘラヤガラ」(魚)という名前があるということは何かが存在しているということになります。庭にある「石」に名前が無くても「石」はないのでしょうか。そんなことはありません、存在が先にあって後から名前をつけているだけのことです。

 哲学者に全く興味のない人にとって哲学者の名前を言われても何も反応しません。その哲学者の存在は無いという事になります。

 見たり触れたり直接に認識されたもので、同時に名前と関連付けされることによって存在として「有る」とされます。空を見上げると、空中に浮かんでいる「白い塊」があります。自らの記憶と照合して「雲」という言葉と一致します。今見て今認識されている「雲」は自分だけが見えているものであって他人が見ている「雲」やイメージしている「雲」ではありません。つまり自分だけが目にしている「たった今」の一期一会の「雲」ということになります。「雲を見た」という文は間違いではありませんが、どんな人が何時どこでどのような「雲」を見たかなどサッパリ分かりません。文となっているから想像することができるだけのことです。

 ある人が見た「雲」を探そうと思ってもどこにもありません。文字としてあるだけのことです。

 

公案に「百丈野鴨子」という一則があります。

百丈和尚の修行時代のことである。馬祖大師のお供をして歩いている所へ鴨が飛んできた。大師が言った。

馬 : 「あれは何だ」

百 : 「あれは雁(野鴨子)でございます」

馬 : 「雁はどこへ行った」
百 : 「向こうへ飛んでいきました」

 すると大師は百丈の鼻を思いきりひねりあげた。あまりの痛さに百丈が悲鳴をあげると大師が言った。

「ここに居るじゃないか」

---

 人の思考パターンを指摘しています。モノを見たら名前があり脳で照合し言葉にする。それから二元対立になれば執着したり忌避しようとする。そこから”何とかしよう”とする「私(=我)」を出現させて悩み苦しむというお決まりのコースから脱することができない。毎日毎瞬やっている習慣であり、自らを苦しめていると疑うことはありません。私たちは自分が間違っているとは思ってもみません。しかし、自分が考えているのにスッキリしないのでしょうか。”何とかしよう”とかもっと”スッキリするはずだ”と今の自分を認めない我が介入しています。

 

 認知ー認識ー分別ー我ー悩む主体の働きの連続が途切れない。認知ー認識したままで、後は勝手に意を働かせるだけにする。放ったらかしにして、”何とかしよう”という我を意図的に介入させない。誰もが知らず知らずの内に、分別という論争に巻き込まれています。自分の中での論争もあり、他者との論争もあり大変な中で生活しています。「実在論」とか「唯名論」という論争を知らなければ悩む必要もありません。「実在論」でも「唯名論」でもどちらを支持しても、天地がひっくり返ることもありません。頭の中で考えたとしても実体がある”ぼた餅”のようなものは出現しません。

 「隻手の音声」の公案も同じです、頭の中で「片手の音」を聞こうと思っても聞こえるわけはないのですが・・・・。どうしても問題を出されると頭で答えを出そうとする癖があります。実際に片方の手を振ってみれば分かります。すでに色んな音が聞こえているという事実に気づきます。車の走る音や風の音や冷蔵庫の振動の音やTVの音や鳥の鳴き声・・・・。良いも悪いもないただの音を聞いているのに、聞こえもしない音を一生懸命に探して(=答えらしいもの)いるのではないでしょうか。

 言葉や文字に瞬時に反応する脳は素晴らしいのですが、この反応が苦悩の元凶だとは思ってもいないということに気づかなければなりません。存在は人間の合意で創り出した「虚構」の名前だということ。一旦は、言葉(=音)や文字(=形)に瞬時に結びつく癖から離れて、”ただ見る”ということをやってみてもいいかもしれません。

 

 

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事実と妄想 [気づき]

 人はそれぞれ異なった環境(国・政治・法律・思想・家庭・食文化・教育・信仰・気候・言語・・)で生まれ育てられています。経験することも異なり、経験から学び自らの判断基準(=固定観念)を構築しています。自分にとって何が良くて何が悪いのかを瞬時に判断することが身についています。自ら作り上げた判断基準ですから、だれもがその時々の判断は自らの判断に基づいてやっているので正しいはずです。それぞれが正しと主張するということは、他の人には正しくないということです。万人が正しいとすることであれば「正しい」と主張する必要はありません。「正しい」ということは「間違っている」と表裏一体であって、「間違い」がなければ「正しい」と主張する必要はありません。

 「善」は「悪」がなければ「善」になりません。善人となるには悪人が必要です。勝者であるには敗者がいなくてはなりません。「美」には「醜」という概念が無くては「美」を定義できないのが言語の仕組みのようです。「闇」を表現するには「光」を持ち出さなければなりません。

 2歳の子供に「見える」「闇」「夜」「明るい」という概念を使わずに「光」を説明できるでしょうか。例えば遠く離れた人に電話で眼の前にある「壁」を「壁」という言葉を使わずに見えている「壁」そのものを説明できるでしょうか。

 言語はその言語圏での約束事でしかありません。事実が先にあって言語は後づけでありただの合意によって使われているだけです。「1」はどこにもありませんが、何かを「1」とすることができます。それぞれが定義する「1」は何でもいいということだということになります。その都度使える仮の「1」です。「山」「川」も合意であって、それぞれがイメージしている「山」「川」は異なります。各人が勝手に使っている仮の「山」「川」ということになります。

 悩まされ続けているのは、言葉をイメージして実在のように扱ってしまう癖によるかもしれません。頭の中では電気信号や化学物質が行ったり来たりしているだけのことが実在として感じる。もし、他の言語圏の人の悩んでいる言葉を音として聞いたらどうでしょうか。何らかのイメージが湧いてくるでしょうか。自身の悩み(=日本語)を他国の人が聞いても何を言っているのか分かりません。トラブルメーカーは他人ではなく自身が作り出しているということに気づかなければなりません。その悩みも実はただの妄想であって実体が無いということ。放っておけば消えていってしまうものです。若い頃の悩みは一体どこにあるのでしょうか。

 

 禅の公案に「富士山を荒縄で縛ってもってきなさい」というのがあります。悩みを疑似的に作っってもらい悩む体験をします。言葉となっているので意味や価値があるかのように思ってしまうのが脳の癖です。考えてしまうのも脳の癖です。「山」もただの合意であって頭でイメージすることができます。大人の日本人であれば「富士山」もイメージできるし「荒縄」もイメージできます。なんとイメージで絵を描くこともできるしCGでディスプレイに表示することもできます。出来もしないことを真剣に妄想して悩むことができてしまいます。誰かから出された問題は絵空事として笑うことができますが、自身が悩んでいることは絵空事ではないと感じています。今の悩みは数時間後・数日後・数週間後・数カ月後・・・記憶されなければどこかに消え去っているはずなのですが・・・。

 思い通りに”何とかしたい”という意を追いかければ、自らが悩みを作り続けることになります。悩むことは二元対立を持ち出して”何とかしたい”ということです。ただ坐って何も選択しない時間を体験するのもいいかもしれません。

 

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追尋しない [気づき]

 私達が直面している事実・現実は生滅している「たった今」の連続です。「たった今」は獲得する対象でもないし、掴めるようなモノでもありません。得ることもできないし掴むこともできません。誰もが平等に「たった今」と同期して存在しています。誰もが生滅しているということになります。「たった今」は有るようでありません。(非有非無)

 「たった今」に何かが入り込む余地もなく「たった今」から何かを取り出すこともできません。過去や未来は頭の中のただの概念です。過去は記憶でしかなく、「未来」がどこかにあるわけでもありません。「未来」に出会うのではなく、未来のいつかも「たった今」です。時間は分け与えることもできないしどこからか取ってくることもできません。「たった今」が永遠に続いています。

 すでに消え去ってしまい変更することのできない過去を悔やんだり、どうなるか分かりもしない未来にとらわれて悩んではいないでしょうか。過去や未来に振り回されて一度きりの「たった今」を生きることができなければどうなるでしょうか。過去の「たった今」も未来の「たった今」をちゃんと生きたという実感がないままに時が過ぎさることになります。

 自分が「正しい」と思っていても他人にとっては「間違い」かもしれません。自分が「間違い」を分かっていながら「間違い」を押し通そうとします。二元対立的に分別して思いのとおりにしようとする、我の働き(”何とかしよう・どうにかしよう”)が混乱・葛藤という悩みの原因ではないでしょうか。私達の癖として、「悩み」を思考で解決しようとします。思考は必要な時に使えばいいのですが、なんでもかんでも思考で解決できるという思い込みから離れられないのではないでしょうか。

 思考で解決できないから思考し続けてはいないでしょうか。一切は変化・変化・・の連続であり思いの通りにはなりません。あらゆる事象は因縁生起しています。因も変化し続け、どんな縁があるのか誰にも分かりません。

 

 思考してしまう癖から一旦離れるのがマインドフルネスです。”何とかしよう・なんとかしたい・どうにかしよう”という思いをそのまま放ったらかしにする体験をします。我の働きですが、追い回さなければ消えていきます。思いを追尋しない。追尋すれば蟻地獄の中に自らが進んで入るようなものです。

 思いを追い回して疲れ果ててしまいます。”なんとかしよう”として自らを苦しめることになります。庭をいじったり趣味に没頭しているときには、思いを追いかけてはいません。思考を追いかけていな時間を振り返ってみると、とらわれのない安楽な時を過ごしたと気づくことがあるかもしれません。個人的な問題は、考えるから楽になるのではなく考えていない時に楽であるということかもしれません。

 

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本来 [気づき]

 ”本来”の意味は「はじめからその状態であること。もとからずっと。もともと。元来。また、物事の由来、道理から言ってそうあるはずのこと。」とあります。素粒子とは、あらゆるものを構成する最小単位です。眼で見えている姿と本来の姿はかけ離れているかもしれません。物理的な我々の本来の姿はスカスカの空っぽかもしれません。心と言っても実体があるわけではなく瞬間瞬間の働きが続いているだけです。心身ともに空であり無だということでしょうか。

 各生命体が固有に認識している世界は異なっています。ある動物にとって天敵であっても他の動物には意識する必要がなく無視してもいいものもあります。同じ種類の動物であっても猿のボスはボスの座を狙っている猿には警戒しますが、小猿は警戒することがないかもしれません。

 感覚器官で感受している生命体は同じ状況にあれば同じように感受できます。しかし、個々の体験によって異なる判断があり、異なる行動をしています。異なる体験によって、異なる見方をするので異なる世界を見ているとも言えます。生命体の数と同じ数だけ世界があるということです。70億の人がいればそれぞれが異なる世界(=観)を持っています。私達は自分(=我)の眼で世界を認識しています。誰もが自身の基準があり判断しています。困ったことに誰もが自分が正しいのです。なにせ自分だけの世界ですから間違ってはいないのです。

 「本来の自分」は特徴(=経験・固定観念・アイデンティティ・相対主体)以前の自分(=絶対主体)ということになります。絶対的な意識があって、次に個々の経験や特徴によって個々の意識作用が働いてしまうことになっています。一即多であり多即一です。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」は、自己が不二なる絶対的な主体でありながら個々の相対的な主体を経験しているという矛盾を抱えて生きていることを表した言葉なのでしょうか。

 

 「本来の姿」は後天的に獲得した個性・特徴・癖を取り去っていけば現れてくることになります。よく譬えられるのが玉ねぎの皮(=獲得していったモノ)を剥がしていくと最後には何もない空・無ということになります。

 ある環境で条件(=縁)が揃えば同じように変化変容していくことが想像されます。個々の生命体は成長する過程で微小な入力情報の差異で様々に変化します。例えば「本来の薔薇」を発見するには、薔薇の特徴(=個性・我)を削り取っていけばいいことになります。ついには原点の薔薇に遡ることができます。「本来の植物」へ戻るには植物と定義される最低限の構造に立ち返ることで本来の植物がどのようなものかが分かります。根・茎・葉・花・雌しべ・雄しべ・・・。人間の「本来の姿」は赤子のような純粋な感受のまま、あるがままが見えたまま聞こえたまま匂ったまま味わえたまま・・・。

 楽器をその特徴で分類すると鍵盤楽器・打楽器・弦楽器・管楽器となります。これらの特徴を削り取り単純化していくと、空気を振動させことができるモノということになります。「本来の楽器」とは空気を振動させることになります。「本来の地球」「本来の宇宙」「本来の自然」・・・考察することができます。

 何が言いたいのかおわかりのことと思います。後づけの特徴を取り除いてくと素・根源にたどり着くことになります。

 自然の根源は不自然なものを取り除いていく。とにかく削れるものを極限まで削っていくことで原点回帰ができます。

 

 「本来の自己」に後づけされた、アイデンティティ(=肩書・地位・名誉・・・)・固定観念・・・。これらは後づけされた特徴であって「本来の自己」から離れていることになります。

 感受されているだけの状態は「本来の自己」であるのに、感受されたことに”自分かわいい”というフィルターを通して分別して自分なりの結果を自己であるとしています。「本来の自己」にフィルターかけて貪・瞋・痴に自らが苦しんでいるのが現状ではないでしょうか。

 ”自分かわいい”というフィルターがついていない、ただの感受そのままが「本来の自己」であると気づかなければなりません。

 

 主体も客体もない、見る者も見られるモノが一体(=分離してない)でありただ見えている「働き」が生滅しています。身体があると認識するのも、心を追いかけて自ら思い悩むのも癖であって「本来の自己」ではありません。

 無分別の見聞覚知のままであれば、個人的な特徴(=自分かわいい)は介入されていません。誰もが既に仏心そのままに生きていますが、分別心で迷っています。私達は、瞬きの間に”自分かわいい”というフィルターを通し、二元対立(=好悪・美醜・高低・・・)に分けていることに気づきません。日々二元対立で分別している事自体に気づきません。二元対立が混乱・葛藤を招いているということにも気づきません。執着と忌避を行ったり来たりして葛藤しています。執着したものは求不得苦・愛別離苦であり、忌避できたと思われるものは怨憎会苦・五陰盛苦です。

 現象界は諸行無常・諸法無我・一切皆苦であるということを身にしみて腹で分からなければなりません。

 

 考えても考えてもどうにもならないのなら、放ったらかしにするのが一番の解決策です。試してみて下さい。

 禅語に「放下著」というのがあります。考えを「手放そう」と考え続ければかえって考えにとらわれ続けることになります。考え(=意の働き)を受け入れてみてはどうでしょうか。ある考えを追いかけて答えがでるのなら、いつか考えは止むはずですが・・・。考えても答えは出ないということに気づく必要があります。”考え続ける”訓練をして来たのに、いまだに悩んでいるということは”考えれば”解決するという信念でしかないということかもしれません。「思考」が万能だというマヤカシかもしれません。救われている人が考えて右往左往しているでしょうか。考えの後に救いがあるのか考えていないことに救いがあるのか自問自答してみるのもいいかもしれません。

 諸行は無常(=エントロピー増大=分解して消滅)であるので、考えですらいつの間にか消えてしまいます。救われるのではなく既に救われているのですが・・・・。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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バーヒヤ経 [気づき]

「バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。

『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。

聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。

思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。

識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。

 

バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、

見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、

聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、

思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、

識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、

バーヒヤさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。

 

バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。

 

バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極“おわり”です」と。

 

 そこで、まさに、樹皮行者のバーヒヤですが、世尊の、この簡略なる法(教え)の説示によって、まさしく、ただちに、〔何ものをも〕執取せずして、心は、諸々の煩悩から解脱しました。

 

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「主なくて見聞覚知する人をいき仏とはこれをいふなり」至道無難

 

 眼はただ光が通過するだけで、眼自体が好き嫌いを判断することはありません。眼識はただ色を認識するだけです。見る者としての我(=末那識)によって、見られるモノ(=対象)を二元対立に分けて(=分別)好き嫌いを判別してしまいます。好きなものに執着し嫌いなものを排除したり避けたいが、我の思うようになりません。「愛別離苦・怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦」となります。色(=光の周波数)に良いも悪いもありません。

 耳はただ音が通過するだけで、耳自体が好き嫌いを判断することはありません。耳識は音を認識するだけです。聞く者としての我(=末那識)によって、聞かれるモノ(=対象)を二元対立に分けて(=分別)好き嫌いを判別してしまいます。音(=空気中を伝わる振動)に良いも悪いもありません。

 勝手に思い浮かんでくることを追いかけなければ、思いは勝手に消えてしまいます。”何とかしたい”・”解決したい”と、我(=末那識)を働かせてしまうと苦悩となります。

 認識されたものは、ただ認識されただけです。存在は認識する人がいてその人の経験・アイデンティティ(=フィルター)によって異なってとらえられます。存在と認識する人の縁(=接触)によって現象としてとらえられます。認識している心が働いていなければ、その他の存在はありません。今見ているディスプレイの文字が認識されるだけで、ディスプレイの向こうに誰かが存在しているわけではありません。「たった今」認識されている存在がすべてであり、認識されていなければただの想像であって実体はありません。記憶やイメージとしての存在があったとしても、諸行無常であり変化変容しつづけていて恒常不変の確固たる実体はありません。

 認識している心も変化変容して同じではなく、恒常不変な心というものはありません。心は、実体のないその時その時の縁によって生滅している幻のようなものかもしれません。

 対象としている存在・事象も人それぞれの主観であって、過去の記憶となっていつかは消え去ってしまいます。「空」であって実体のないものです。

 

<バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。>

 見えている聞こえているという働きがあって、誰かが意図的に見たり聞いたりという見聞覚知しているわけではありません。もし見ているというのならより鮮明に見えるようにしたり、おぞましい光景を眼にしたときに自動的にモザイクがかかるようにできてもいいのですが・・・。私達は、聞きたくない金切り声をソフトに聞こえるようにすることもできません。五感で感受しているその瞬間には、”あるがまま”に受けとっています。操作している「私」はみつかりません。”自分かわいい”という我が”どうしよう・なんとかしよう”と頑張ることで苦しみとなります。無分別に感受された後に、我(=末那識)によって分別が起こって執着したり忌避すると混乱・葛藤となります。すでに見終わっているし、聞き終わっているし、思い終わっているし、認識し終わっています。ありもしない事象を取り扱っているかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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比べずに事実のまま [気づき]

 私達は自然に”我(=自意識)”が形成されます。成長するに従い、自然に自国語でコミュニケーションがとれるようになります。”我”は”自分第一”であり、自己保身・自己防衛する働きです。子供の頃の”我”は言葉を使って何が欲しく何が嫌なのかを分別して意思表示を行います。言葉を憶え理解することで、周りの存在を言葉で把握できるようになります。成長するに従い自国語で考えることで問題に対処する”癖”がつきます。考えることこそが問題解決であると思い込みます。問題には社会的な問題と個人的な問題があります。個人的な問題に二元対立の思考を使うと自分勝手な思い込み(固定観念)に振り回されて苦しむことになっているかもしれません。

 

 言語の性質上、言語は二元対立となっています。何かを知るには対立概念を同時に理解しなければなりません。何か(=対象・客体・問題)を考える(=主体)には対立概念が必要となります。

 善を行うには悪の概念がなくてはなりません。美という概念は同時に醜と表裏一体となっています。速いというのは何らかの基準が有って基準を上回っていれば速いし下回れば遅いということになります。存在を理解するために、あらゆる存在に後づけで識別名をつけています。存在が先にあって識別名は後につけれられます。

 ある存在の識別名は世界の言語の数だけあります。例えば日本語では”東”ですが、他言語では異なる識別名として使われています。北極点では、”東”はなくどの方向でも”南”です。

 各国で好き勝手に命名し、命名された言葉はどれも正解(その言語が使われている国の人)でありどれも不正解(他の国の人にとっては意味不明)です。分かっている国の人しか分からないし、分からない国の人にはちんぷんかんぷんです。世界中に住む人がその人が住んでいる人だけに通じる言語を使って勝手に命名しました。

 目を閉じて自分の周りの空間を調べてみます。空間が”東”と語りかけてくれることもなく、”東”という文字が浮かび上がることもありません。空間のどこを探しても”東”を特定することはできません。”東”には実体はなくただの概念であり合意です。”東”という実体を見たり掴んだりすることはできません。

 人間は一つの存在そのもの(=物理的実体)を分けて、細かく命名しました。その言葉は実体そのものではなく表象(=概念)であってただの音と形です。考えるには言葉を使うので「実体」を扱っていません。頭の中に「実体」があったら大変なことです。”鉛筆”を考えて頭の中に「実体」の”鉛筆”が存在するわけがありません。

 思考は「実体」そのものを取り扱っていないので「妄想」ということになります。思考はただの意の働きであって良いとか悪いとかはありません。”我”の”癖”ですぐに分別して二元に分けます。”我”は思い通りにしようと頑張るのですが、これが迷いということになります。

 事実から離れて「妄想」の中で”何とかしよう”と自分自身を振り回わすことになります。意の働きであって放っておけば消え去るのですが、どうしても”ああしたい・こうしたい”という”我”がちょっかいを出してきます。”我”は事実よりも、二元に分けた”我”の望む「妄想」を実現しようとします。自分勝手な思い込みが、複雑に絡み合った因縁を思い通りにすることは不可能です。どんな問題でも解決する思考法を手にするのが正解(=対処療法)ではなく、そもそも問題にしない問題にならないというのが正解(=気にかけない)かもしれません。

 お金が不足している(=問題)ので自分の思いの通りの金額にしようとすますが、不足でもなんでもなく事実のままを受け入れてしまえば少なくも多くもない事実のままがあるだけです。事実なのですから事実に従うしかありません。他人と比べることなく、我欲に振り回されることがなければ平穏かもしれません。

 

 

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当たり前 [気づき]

 私達は日々の生活の中で知らぬ間に二者択一のどちらかを選択する場面があり、それ以外は習慣化した行動があります。

 「有り難い」の反対は「当たり前」。私達は日々稀有な恩恵を受けています。恩恵が習慣化されてしまうと当然の事(=当たり前)となってしまいます。「有り難い」という感覚が減少して「当たり前」となり最後には何も感じなくなってしまいます。蛇口から水が出たりスイッチが入ると電灯が明るくなったり・・・・常に同じことが起こると驚きが無くなって当然のことのようになっています。台風・地震・火事・水害・・・によって当たり前の日常が奪われると、平凡な生活が「幸せ」に満ちていたと痛感するかもしれません。

 世間は様々な存在が因縁生起して様々な現象が起こっては消滅しています。自身の思い通りにはできない(諸法無我)のが世間です。

 

 異なる文化・言語・生活習慣・食事・環境・風景・経験・・で成長した人が同じであるわけがありません。一人一人が異なる自分だけの世界(=世界観)で生きています。全く同じものを見たり聞いたりしても(=インプット)全く同じ感想(=アウトプット)だとうことがあるでしょうか。唯一同じなのが分別以前の無分別の感受です。見えたまま聞こえたままに感受されている時点では、そこには分別する誰かはいません。感受して色々の思いが出てきてもいいのですが、良い・悪いという二元対立の念が起こって囚われて思いの通りにしようとしまう。人それぞれにバイアス(=偏り)があって、”我”の思いのとおりにしようとします。自身では気づかずに自らの固定観念に依存している(=依存症)かもしれません。自身の思いのとおりにしなければならないという感情がいつまでも収まらないかもしれません。

 アメリカで生まれ育ったスミスさんと日本で生まれ育った恵子さんとでは全く異なった世界(=世界観)で生きているのではないでしょうか。私達の本質は”空っぽ”なので、この空虚感を満たそうとしているかもしれません。

 

 諸行は無常であって変化しては消え去っています。”我”の思いの通りにはならない(=諸法無我)という答えが出ています。泡沫夢幻の中で満たされないと分かっていながら、”我”は何とかしたいとあがき続けているのではないでしょうか。天災・疫病・事故・老化・病気・・・何が起こるのかサッパリ分かりません。考えでどうにかできる世界に生きているわけではないのに、考えでなんとかしようとすることで”苦”となっています。肉体的な苦痛がなくなるわけではありません。現実・事実は気づいたときには消滅してしまっているので、思考でもとに戻すことはできません。しかし、”我”は”何とかしよう”とするので”苦”となっていることに気づかなければなりません。”我”には実体のないただの思いなので、何を思っても取り合わなければ消えていくしかありません。”何もしない”というのは考えるままにしておいて、取り合わない。

 

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ただ◯◯が難しい [気づき]

 ヒトは生まれてしばらくは、口・目・鼻・舌・耳・手足がどこにあるのかサッパリ分からずに手足をバタバタと動かしているだけです。大人になったとしても胃・肝臓・膵臓・腎臓・・・がどのくらいの大きさでどこにどのようにあるのかサッパリ分かりません。臓器やホルモンがどのように働いているか分からずに平気で生きています。自分の身体といいながら自分のことを制御できているとは言えないようです。自分の臓器を逐一制御している自分がどこにいるのでしょうか。どこを探しても自分という確固たるモノはどこにもみあたりません。私達が”自分”と言っている”自分”はこれだと指摘してくれる人はいません。あなたの性格・体型・血圧・血液検査での数値・・・は恒常不変ではなく常に変化していて変化が止まることはありません。恒常なる自分はどこにもないということになります。”川”の流れを”川”と呼ぶことはできないのですが”川”であると言い張っているのと同じことです。

 名前(=川)は同じですが瞬間瞬間に異なっている自分(=流れ)ということになります。流れはありますがその瞬間だけです。流れはあるようでない、ないようである。非有非無

 

 赤子にとって、どこかに音があるのではなく、突然に自身が音(声・物音・虫の鳴き声・・・・)そのものになります。どこかに光景があるのではなく、突然に自身が光景そのものなります。何かを味わうのではなく、突然に自身が味そのものとなります・・・・。どこかに対象があるという認識がないので、主も客もない主客未分のままの感覚。”自分”は作られていいないので、どこかに音があって、その音を聞いている自分があるというプロセスはできていません。

 感受された感覚・感情がありますが、感覚・感情を出力するためにはただ声を張り上げるしかありません。

 

 成長するに従って、僅かながら手足を動かせるようになっていきます。生命として在るということは、生き続ける能力が備わっているということです。自己保身が自然に働くようになっています。自己保身のために周囲の状況を知り、自己がどのように振る舞うかを決めなければなりません。自分と知るべき世界(=対象)に分けて見る癖がつくようになります。近づくべきか離れるべきかを決めて行動しなければなりません。”自分かわいい”が第一である”私”という仮想の自己が確立されていきます。

 子供は、日々名前で呼ばれ続けるます。名前が自分であると刷り込まれてしまいます。存在が先にあって名前が後ですが、名前が先で存在(=自分)が後となっても不都合を感じなくなります。存在があって名前があるのに、名前のついた存在があるというふうに世界を解釈する癖がつきます。

 「これは何と言う名前ですか?」名前を聞くことで存在を知ったことにしてしまっているかもしれません。”ロサ・アルバ”という名前を知ることと、目の前の花を見ることは全く異なります。

 名前によって切り分けられて、切り分けられた集合物が世界であという見方に変わるかもしれません。眼の前の存在そのものを感受することよりも、知識として知っていることのほうが優れているかのようになってはいないでしょうか。

 

 子供の頃は”私”は身体と名前だったものが、大人になると”私”にさらなるモノがつけ足されます。”私”は複雑化して、どの”私”のことなのか迷ってしまうくらいになります。固定観念・経験・アイデンティティ・信念・信仰・所有物・知識・・・様々なモノと結びついた”私”が出来上がります。

 一番困るのは、”考え”を”私”としていることです。”考え”は単なる”考え”であって物理的な目に見えるモノではありません。”考え”の背後に”考え”を制御している”私”がいる勘違いしています。”考え”自体が自分であると決めつけていないでしょうか。”考える”から自分があるのに、”考え”で自分を無くすことはできません。

 ただ見えている、ただ聞こえている、ただ思っているだけなのに、自分が思っていると勘違いしてしまったようです。”思い”を制御できるのなら、嫌なことを思わないようにできてもいいのですが・・・。

 

 自然の道理(生・老・病・死)は、頭では理解できるのですが素直に受け入れられない。我が身が自分であると頑なであれば、我が身に起こることは自分を苛むことになり”苦”となるのは当然のことです。全てに隔たりがなく一切は繋がっています。”こうあってほしい”・”こうあるべき”という自分(=我)が不自然であるので苦しむことになります。頭で描く(=幻想・妄想)ことと事実は異なっていることは分かってはいますが、解って(=腹から解る)はいません。思考して自然の道理を解決することはできません。思考に頼らずに身体で納得するには、思考に手をつけずにいるしかありません。余計な分別をせずに、ただ見えている、ただ聞こえる、ただ思いがある、ただ動いている、ただ食べている、ただ歩いている・・

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不思量−4 [気づき]

「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」(普勧坐禅儀)

 

 過ぎ去ったことは、いつまでも、くよくよしないがよろしい。まだ来ぬことは取り越し苦労をしないがよい。それよりも、冷静に、そして力いっぱいに、現在するところのことを、よくよく観察して、なんの“揺らぐことなく、動ずることなく”して、ただ“今日まさに作すべきことを力いっぱいに”実行するがよろしい。それが人間のもっとも賢明な生き方である。

「一夜賢者の偈」『中部経典』

 

 私達が自身の人生を正直に観察してみると、思いのとおりにならないことは”苦”であると実感していることと思われます。諸行は無常(変化変容して消滅する)であり、一切は必ず消滅します。老い・病気になり・死は避けることができず、誰もが真理に平等です。若くいたい・健康でいたい・死にたくないという思いが強ければ強いほど打ちひしがれることも大きくなります。

 子供の頃は若くいたいというよりは速く大人になりたかった。大人になったら大人よりも子供の方がいいと、無いものねだりです。無いものが欲しい、失ったものが欲しいとしていれば、現実の自分を受け入れないで生きていることになります。一体いつになったら今に生きることができるのでしょうか。今にしか生きていないのに、今が気に食わなければ人生を棒にふることになります。今のあるがままを生きるということは次の瞬間も次の瞬間もOKということになります。そうであれば永遠にOKということになります。

 余計なこと(過去を悔み、未来に思いを馳せる)で気を病むより、今を正直に受け入れる他ありません。他の誰かが救ってくれるでしょうか。どう生きるかではなく、どう生きているのかを直視してみる方がいいかもしれません。”我”(ああしたい・こうなりたい)に振り回されず、事実の自分に向き合う。

 

 ”あるがまま”が見えないこと(=無明)で、四顛倒(=常・楽・我・浄)のままでいれば”苦”から逃げ回ることになります。”自分かわいい”が第一の”我”は、”我”の欲することを実現するように自らを叱咤激励しつづけます。”我”は現実を変えることができるという前提で働いています。しかし、”我”はころころ変わり常住不変でもなく、”我”の思う通りにはなりません”無我”です。

 ”我”は過去を回想し、あの時◯◯であったら、◯◯しておけば・・・未来に思いを馳せて◯◯すれば、◯◯が実現すれば・・・・と現実を離れた思いの世界に彷徨っています。消え去った”過去”や実現の保証のない”未来”を思い、”デモシカ”、”タラレバ”と考えては嘆いています。眼前の事実そのままの”あるがまま”以外に真実(=現象)はありえません。

 

 ”我”は事実を瞬時に分別・解釈・説明・判断・評価・・・します。分別すると”自分かわいい(=自己保身・自己正当化・自己憐憫)”が第一であり、自己を責めるよりも他を責めてしまいます。自分が正義であるのと同じく、他は他の正義があります。お互いに自らの正義を主張し、自らの正義を貫こうとします。お互いに正義なので悪いとは思っていません。戦いは”狂気”でありながら聖戦という大義名分で正当化します。どちらが勝っても自らの”正義”が勝ったことになります。

 

不:「不使用」使おうとすれば使えるが使わない。意図がない。

未:「未使用」使っていない状態。未だ◯◯していない。時間の経過で変わる。

非:「非使用」使ってはいけない。禁止。

 

 

 ”不思量底を思量せよ”は”思量を思量すべからず”と言っているのでしょうか。”不思量底”を体験させるために持ち出した(月を指す指)言葉かもしれません。”不思量底”という言葉自体に振り回されて指し示している思量以前の何たるかを体験させようということでしょうか。”不思量”は、分別以前の無分別の状態であり思量に至っていない状態のままにある。見れば見えたまま、聞こえれば聞こえたまま、味わえば味わえたまま、思いが浮かべば浮かんだまま、気づいたら気づいたまま・・・・次へ進まずに完結している。

 ”非思量”は、”我”が働かせている分別から起こる思量を相手にしない(=思量してはいけない)ことでしょうか。坐禅中に起こっている頭の中の現象である思量は、”我”のおしゃべりであって放ったらかしにする。”思考のルーチン”に手をつけないようにする。

 

 分別は、見えたまま聞こえたままを振り返ってからでないとできません。すでに消滅し終わっている現象に対して、聞こえたという記憶をたよりに過去のこと(=存在していない)を取り扱うことができます。実在していない現象が考えることのできる対象だということです。今まさに起こっている現象を思考(=分別)が捉えることはできません。

 存在していない(完璧に消滅している)現象だからこそ考える対象となります。対象が識別された後でなければ思考の対象とはなりません。今起こっている現象を考えることはできません。つまり考えていることは現実に起こっている現象ではなく、過去や未来のことだということです。現実と乖離したもう一つの心が起こっているので二心になっており分裂しています。

例:交差点で停車中に後ろからクラクションが鳴らされた(クラクションの音が聞こえたという事実だけ)。”気に入らない”と思った時にはクラクションの音は消えています。”自分かわいい(=保身)”によって次から次へ思考が起こって巻き込まれてしまいます。間違ってクラクションを鳴らしたかも知れません。聞こえた事実があっただけのことで済ませればおしまいです。

 

 ”不思量”はただ見えているただ聞こえている、思量以前であり善も悪もない”あるがまま”の混乱・葛藤のない救われている状態。誰もが経験していることに気づいてほしいということでしょうか。思い通りにしたいという”我”の働きであり”なんとかしよう”という葛藤・混乱。”非思量”は”我”の働きを放っておく(=手をつけない)ことで”我”のおしゃべりが小さくなっていきます。

 

参考(要クリック)

道元さまのお言葉

不思量を思量する

不思量底を思量する

非思量とはなにか

 

 

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不思量ー3 [気づき]

「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」(普勧坐禅儀)

 

 全ての生命体は同じ世界を見ているというのが一般的な常識です。たった一つの世界を多数の生命体がその場でその時に見ているということです。そうでしょうか。アマゾンの川に棲む魚を直接に見ることができなければ、たぶん魚はいるだろうという想像でしかありません。我々が世界としているのは想像の世界と現実に見えて聞こえて体感している事実の世界の二つの世界があるのではないでしょうか。想像はあくまでも想像であって事実の世界は今ここで体感しているあるがままの世界です。誰も他人の世界に入ることもできないし、自分の世界に他が入ってくることもありません。

 生命体の数だけ世界があって、その生命体だけの世界を経験していることになります。見る主体の観念(=経験・環境によるフィルター)によって異る世界が展開されています。動物はその種が生き残るために独自に発達させた感覚器官を使って世界を感じています。犬は嗅覚が発達した匂いの世界で生きているかもしれません。鳥は優れた視覚・聴覚・磁気感覚や風を掴む能力があります。人間の感覚を遥かに超えた感覚器官と飛行能力で想像もつかない素晴らしい世界を体験しているかもしれません。

 人間だけが素晴らしい世界を体験していということではないかもしれません。鳥になって飛べたら人間なんてやってられないかもしれません。蝶になってあらゆる色彩の世界を見たらどうでしょうか。モグラは世界がどうであろうと、気にすることもなく土の中でゆっくりと休息しているかもしれません。

 

 人は自身の観念(=経験・環境によるフィルター)を通してしか世界を見れないので、自分の見たいものだけを見てしまいます。自分に関係のあることしか目に入りません。例えば子供にとって、誰が総理大臣になるかなど全く興味はありません。幼稚園の授業料が上がろうが下がろうが気になりません。お金を使うという概念が無ければお金の所有に心が動くことはありません。できれば、好き勝手に見たい番組を見ていたい。我々大人でも、芸能人のファッションチェックに興味がなければ、そうゆう放送番組は見ることはありません。仏道に興味がなければここに書かれていることは目に止まりません。ただの文字の羅列であり何の意味もないかもしれません。

 花を育てたり花を鑑賞することに興味がある人は、花の名前や花の色や先具合という世界に没頭しているかもしれません。各人が見ている世界は自身の観念を通して見えている世界です。

 つまりは、見えている世界は自分が構築した世界(=自分自身)を見ていることになります。日本人にとって、アラビア語が聞こえていても聞き分けられないので雑音と同じかもしれません。意味のある音(=言葉)や意味のある形(=文字)だけが捉えられるようになっています。

 例えば、日本も日本語も日本文化も全く知らない外国人の見ているモノや聞こえている音は、我々日本人の感受している世界とは異なります。彼らが日本語で書かれた形から意味を見出すことはできません。

 

 世界は外にあるのではなく、自身が映し出した自分自身の世界と言ってもいいかもしれません。”我”がなんとかしようという対象としての世界のままであれば、いつまでも”我”の思い描いている世界とありのままの世界という対立した世界のままかもしれません。あるがまま(=真実)の世界を思量(=分別)して”我”の思いが作り出した仮想のへ変換させようとしているかもしれません。思量(=考え)が中心にあって思量(=考え)に導かれた理想の世界を願って止まない。事実から目をそらし迷いのほうが正しいとしているのなら・・・・。思考は事実を変えることはできません。思考が自由に働けるのは、過去と未来ということになります。

 

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不思量−2 [気づき]

「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」(普勧坐禅儀)

  参考:「曹洞宗の坐禅」 「坐禅Q&A

 「坐禅のために坐禅をする」と言われています。「安楽の法門」(普勧坐禅儀)とあるように楽にならなければ間違った坐禅をしていることになります。足の具合が悪くて坐禅を組めない人は椅子に坐っての坐禅もあります。年齢・体型・聴力・視力・・・その他自身のできる範囲で自分に向き合えばいいということのようです。自己を観るのですから知識や知性は必要ありません。

 

・目的を持って坐禅をしない。「求心休むところ即ち無事

 平安(=混乱・葛藤のない)である「本来の自己」。

 何者かになりたい・何かを掴みたい・何かを得たい・・・という目的を持たない。目的は意味や価値を持ったものです。思考するということは「言語」を使わなければできません。意味・概念が付与されているのが「言語」ですから思考するということ自体が意味や価値を掴み取ろうとしています。

 世界は一様であったのですが、人間が存在を分離・分割して理解するために意味や価値を付与しました。それぞれの存在にレッテルとして「言語」を割り振って共通の認識としました。考えるということはすべて意味が伴うことなので何らかの目的となります。二元対立として分けてどちらかを是とし他を非としてしまいます。本来是も非もないのに是非を持ち出すので混乱・葛藤するのは当然のことです。

 思考は頭の中でやっていることなので、誰にも迷惑はかけません。頭で嫌だと思っても嫌なことが襲ってくるわけではありません。思いが起こったというだけです。誰かが思いによって身体に傷がつくことはありません。

 雑念が出てくるのは意が働いている証拠ですので放っておくしかありません。頭の中のおしゃべりに付き合うと意味や価値にこだわって分離・分裂して収拾がつかなくなります。

 40分間の間坐ると、別人になったり何かを掴んだり何かを得たりしたら大変なことです。こだわりがなくなっていくのが平安なのに、なにかを掴むことは反対(=葛藤)のことを望んでいることになります。

 

 目的があるということは、今の自分に不足感を感じているからかもしれません。不足を満たして悩みを解消したい。坐って不足分がどこからか補充されるようなことはありません。自分を変えたい、自分を救いたい・・根底には自分を責めていないでしょうか。許せない自分を許せる自分に引き上げようとしても、思いで引き上げることはできません。それよりも許せない自分でOKと言ってやればどうでしょうか。「今の事実のままでOK」それで終わりです。

 

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不思量 [気づき]

「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。」(普勧坐禅儀)

 

 自問です。

1.眼前の事実は一つでしょうかそれとも二つ以上あるでしょうか。

 事実は不二であり無分別(=分別されないまま)にあります。一つの事実を認識してから分別(=いくつにも分かれる)が起こります。

 例えば、”月”はどんな小さな水滴であろうが大きな湖面であろうが二つに映し出されることはありません。誰一人として月が二あるという人はいません。誰もが無我無心で無分別に見えています。こちらに自分がいて自分が考えてから見えているのではなく、考える以前に見えています。考えは見えた後から起こります。

 事実の後で、自身の置かれた状況に応じて分別がおこります。一つの事実がいくつにも感じとることができます。気味の悪い月、清々しい月・・・・・。

2.真理を掴んだり、真理を説くことができるでしょうか。

 我々は真理から離れたことはありません。真理が隔離されてヒマラヤに保存されているわけではありません。手で空中のどこかを掴んでも何も変わりはしません。もし真理を掴んだのなら、掴めないのは真理ではないということになります。私は掴んだということは、掴んだ以外を取り逃がしているということです。真理のまっただ中にあるので掴むこともできないし取り逃がすこともできません。

 「魚は水中にありて水を知らず 人は妙法にありて妙法をしらず」

 

 誰かが文字にしたとして、その文字は真理を顕しているでしょうか。誰かに知られたもの(=対象)は意識が働いて言語にされたものであり客観的なものです。真理は対象化される何かではありません。今ここの主観そのものです。主観であるハタラキそのもの(=真理)は口を動かしている当人でありキーボードを叩いているその動きそのものです。言葉(=音)や文字(=形)は真理そのものでなく、意識の対象(見られるモノ)である記録でしかありません。

 他人の食レポで”美味しい”と聞こえたとして、その音を聞いて自身も”美味しい”を体感できるでしょうか。言葉自体は月を指し示す指(=言葉)であって月を見ることとは異なります。いくら指(=言葉)を見て思案しても実際の月を見ることはできません。”無分別”と何度唱えても”無分別”を体験することはできません。文字は文字であって自らの体験そのものではなく、他者の体験を概念で現しただけのことです。般若心経を読経することで感得することは????

 

 道元禅師は人は「本来本法性天然自性身」であるのに何故修行しなければならないのか悩んでいたそうです。修行によって「いまだ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」と感得されたようです。

 発見とはdiscoverであって、はじめからあるものなので覆いを剥がせば自然と現れるものです。では覆いとはどのようなものなのでしょうか。

 人は3歳頃から、親や周囲の人の言葉を沢山覚えて使いこなすようになります。また概念も理解できるようになるようです。赤子の時は見えるだけ・聞こえるだけであって、意味も価値もない一様な世界を体験していました。その一様な世界が分離・分割されていて個々に識別された存在(=識別される対象)の集合体だというのが大人の世界です。子供は大人に世界は分離・分割されていて見られ・知られる対象であると教えられます。

 あらゆる存在に識別名がつけられていて、識別名(=名前)を言うことで大人から褒められるようになります。知ることで自己承認が満たされるので、とても心地よく感じます。大人は悪いこと(=されては困ること)と善いこと(=困らないこと・大人にとって都合のいいこと)を教え勧善懲悪を躾けてきます。

 

 赤子のときは、六識と純粋意識(=阿頼耶識)がダイレクトに繋がっていました。成長するに従って行動範囲が広がると、人間社会で上手く立ち回らなければなりません。自我(=末那識)によって我が身を守る術を身につけなければならなくなります。小さな我が身を守る意識が働き、”自分かわいい”に徹しなければなりません。自然と裏と表を使い分ける、二元性を身につけるようになります。大人の世界に順応できるように平気で嘘をつけるようになっていきます。大人の世界を学習して適応するようにフィードバックされ自我は更新され続けます。「世界は分離・分割されたモノ」「私も個人として身を守らなければならない」。二元の世界(=迷い)を是として生きなければなりません。

 あらゆる事象を二元対立的に捉えるように脳が働くようになっていきます。二元対立を混乱ではなく当然のこととして疑うことがなくなります。良い悪いで世の中が成り立っている。大人と同じように振る舞うようになります。二元(=相対)に見てしまう自己となってしまいます。知識を蓄え、人よりも多くの収入を得れば幸せになると思い込むようになります。二元性が進んで極端になると、虚栄心が大きくなりただ所有するためだけに大金を投じることも厭わなくなります。アイデンティティこそが唯一の自己証明であり、すがりつくようになります。いつかは奪われるか捨て去らなければならないので、大きなギャップ(苦)となってしまいついにはアイデンティティも社会から奪われてしまいます。会社であれば退職によってアイデンティティを奪われ、肩書の通用しないただのおじさんとなってしまいます。

 

 事実は不二であるのに、わざわざ二元(=相対)に分けて苦しんで(=混乱・葛藤)いることに気づかなければなりません。痛いは痛いで終わり適切な処置をすればいいだけです。しかし、二元で思考する癖がついているので何かのせいにしようとします。”痛い”と一つになって”痛い”を味わい尽くせば終わるのですが・・・。二元(=相対)に分けてしまう脳の癖によって「思考のループ」が始まります。憂さを晴らすにはどうすれば良いのかという解決方法を探すようになります。

 物事は勝手に起こっているだけなのですが、二元に分ける癖があるので意味や価値がなくてはなりません。”何のために”・”何の価値がある”というふうに自然に自我が働いてしまいます。覆い(=自我)を払いのけると何があるのでしょうか。

 自我は、目的がないと困ります。やることがないというのが自我のやりがいを削ぐことになります。坐禅のために坐禅をするというのは自我にとって一番の苦痛です。秀でた者になろうとか素晴らしい心境を手に入れようと勝手にすり替えてしまいます。何にもならないというスタンスを貫きます。

 

・阿頼耶識はただ気づいていて認知するだけのハタラキであり、二元対立(=善悪・・・)を判断するわけではありません。

・世界という対象(=客体)と世界を見ている私(=主体)という二元対立として捉えるようにしているのが末那識(=自我)。

・末那識(=自我)は”自分かわいい”であり、事象を二元的に捉え執着か忌避によって身を守るように働く。

・末那識(=自我)によって混乱・葛藤が起こっているが、保身のために働いていると主張する。

・諸行無常であって、末那識(=自我)の”思いの通り”にはならないので”苦”を痛感するようになる。

・末那識(=自我・自分)は”苦”を解決するために精神修養を手助けする。

 

思量:考える、分別する

不思量=思量しない。分別しない。無分別。

非思量=思量することにあらず。考えることではない。静寂

概念:物事を言葉で定義して共通の認識

観念:人それぞれの経験や文化や家庭や環境によって抱く個人的な思い

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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苦の原因は二元対立 [気づき]

 マールンクヤは

・世の中は常住なるものか。無常なるものか。

・世界に果てがあるのかないのか。

・霊魂と肉体は同一か別なのか。

・死後の世界は存在するのかしないのか。

とお釈迦様に解答を迫った、マールンクヤはこの答えを知りたくてたまりませんでした。 しかしお釈迦様は、それらの問いに一切答えられず、問いかけてもいつも黙したままでした。

 お釈迦様は「悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。ただしその境地に達したとしても、歳をとり、病気になり、死んでいく、ということを避けることはできない。

ならば何も解決していないではないかと思いたくなるが、真理を悟った人であっても感覚や感受性は変わらないから、悟った人も悟らない人も矢で射られれば同じように痛い。病気になれば同じように苦しい。美しい花や宝石を見れば同じように美しいと思う。 これは誰しも等しく受けるものである。
 ところが真理を知らない人はさらに病気になれば不安と悲しみと疲労に襲われて絶望し、美しい花や宝石を見れば美しいと思うだけでなく、盗んででも自分のものにしたいと執着する。真理を知らない人は良いことも悪いことも全て苦の原因にしてしまう しかし悟った人は①事実を受け入れても、苦の原因に執着しないのである。今大切なことは、②苦悩、煩悩を克服し、心豊かに生きることにある。その苦しみをどうすれば無くすことが出来るかという事だ。真理を知ることよりも先にやるべきことがある。」と諭されました。

(中阿含経)

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 ある疑問に対して、お釈迦様が◯◯であると断言すれば、自分で確認することはしないかもしれません。他人の答えを聞いて納得してどうなるのでしょうか。宇宙に果てがあろうがなかろうが、今ここの自身には何も関係ありません。知ったところで、何かが降ってくるわけでもなく何かがわき起こってくるわけでもありません。

 魂が有るとかないとか、輪廻するとかしないとか、分かりもしないことを考えてもどうしようもありません。魂を感じた・見た・対話した・・そんなことが出来たら大変なことです。やたら魂に気を使ったり、面倒でありやっかなことになります。普段でも忙しいのに、日常生活に煩わしさが加わりかえって邪魔となるかもしれません。

 一体どれだけの魂がどこにどのようにあるというのでしょうか。魂の方から相手にしてくれと言われている人がいるとしたらうんざりしているかもしれません。

 自分だけの願いを聞いてくれる何らかの存在があったらどうなるでしょうか。自身の願望を成就させるために何らかの存在にお願いし、困難(=邪魔)なモノを排除してもらう。自身が”正しく・正義”敵対する相手がすべて”間違い・非正義”ということがあるでしょうか。敵対する対象が”悪”であるのならば、至るところに”悪・敵”がはびこっているということです。相手からすれば私達は”悪・敵”と決めつけられます。

 勝負事で勝ち上がり一番になるには相手を倒していかなければなりません。倒す相手ではなく、技量を磨きあう好敵手という存在としなければなりません。スポーツという場を盛り上げる参加者であり切磋琢磨するライバルです。相手を貶めるのではなく、相手をリスペクトしてお互いに高め合うことができます。

 

 ある境地を身体的な開放や精神的に動揺しないような感覚だと勘違いしている人がいるかもしれません。ある境地は非常に心地よく恍惚状態となるだと勝手に想像しています。他人の心境がどうしてそのままわかるでしょうか。体がなくなったり宇宙全体に広がったり・・・・。そのような感覚は一時的でしかありません、ずっーと続いたら大変なことです。ある山に登頂したとしても頂上に居続けることはできません。ほんの一時的な体験だということです。

 恍惚状態を体験するために薬物を利用する人もいるようです。特別な体験や特別な境地というものがあるのなら平凡でいることはどういうことなのでしょうか。人生のほとんどの時間よりも特別だとされる刹那の瞬間のほうが大事であり、日々の時間を犠牲にする必要があるでしょうか。ある時間とこの時間を比べられるでしょうか。良い時間も悪い時間もありません。たった今だけがあり前後裁断しています。時間は存在ではなく、記憶・記憶によって有ったと思い込んでいるだけのことです。時間がどこかに存在していたら大変なことです。

 思考するだけでスーパーマンになったら大変なことです。生命体であれば、病気になるし老います。インドの聖者であろうが、痛いのは痛い苦しいのは苦しく当たり前のことです。感情が欠落したら大変なことです、我を忘れ感情に振り回されることはどこかおかしくなっています。自分を見失うほど怒こるのは論外です。

 

 事象は事象であり、自身の身に起こったことは起こっただけです。どうして自分だけとか悔いたり嘆いたりしても過去は変えることはできません。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」(良寛)眼の前のことを最善に尽くす他ありません。何もせずに嘆いてばかりいては事は進みません。苦悩・煩悩の悩(=何とかしたい)が元凶だということのようです。苦も煩わしいというのは誰もが経験しますが、さらに次の苦へと自らが自らを苦しめるかどうかです。何とかしたいのは今(=現実)のことでしょうか?ただ頭の中で”何とかしようという考え”に振り回されているかもしれません。ただの思いよりは行動すべきことを行動したほうが優れています。

 

 ②苦悩、煩悩を克服し:”克服し”を思考を使って克服しようとすることが大きな間違いかもしれません。”何とかしよう”というのが自我であって、思考の輪廻から抜け出せないかもしれません。

事実を受け入れても、苦の原因に執着しない:”事実を受け入れる”とは”何とかしよう”という思考に取り合わず放っておくということかもしれません。”何とかしよう”はすでにこの世に存在していない過去(=苦の原因)に執着していないでしょうか。「現実・事実」は何かが見えて・聞こえて・感受されています。何らかの思いが浮かんでは消えているだけなのですが・・・。食べているだけなのに(=どうでもいい思考を追いかけている)ちゃんと食べていない。その思いを追いかける”癖”に振り回されているということに気づくことです。その思いが二元対立(=どちらかに行ったり来たり、一つの事実を分裂している)となっていて混乱を作っているということなのですが・・・。

 

<ポイント>

・事象はただの事象であってそれそのものでしかない。痛いは痛い。美しいは美しい。汚いは汚い。

・苦は事象を二元対立とすることによって苦となる。痛いは悪であって避けたり排除すべきもの。味(=甘味、塩味、酸味、苦味、旨味)を味として味わえなければ大変なこと。感覚(=触覚、圧覚、温覚、冷覚、痛覚、痒覚、痺れ、吐き気、倦怠感・・)を感覚として感じられなければ大変なことです。

・苦を滅するには、何とかしようというを放っておけば消えるということを体感する。わき起こる思い(=何とかしたい)を追いかけない。ただ感受するだけ。見えたのは見えたまま、聞こえたのは聞こえたまま・・二元対立的に追いかけたり(=執着)忌避したり(=排除)しない。

・二元対立として見る脳の癖に気づき、そのままの一つのままにある。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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本質は変わりようがない [気づき]

無門関の第4則に「胡子無鬚( こすむしゅ )」というものがあります。

<原文>
或庵曰(いわ)く、
「西天の胡子(こす)、甚(なん)に因(よ)ってか、鬚(ひげ)無き?」

<現代語訳>
或庵(わくあん)が言われた、「達磨(だるま)は、一体どういうわけで、
鬚(ひげ)がないのか?」

 

 私達は固定されたイメージに縛られているのではないでしょうか。釈迦・老子・達磨・・・様々なイメージを持っていてそのイメージから抜け出せません。人類史において突出した偉人であり神格化していると決めつけているかもしれません。

 今の高校生の知識量は数千年前の人よりはるかに上回っています。数学・物理・化学・地理・歴史・地学・語学・・・中学生よりも劣っていたかもしれません。知識によって何かを得たり捉えたり掴んだりしたわけではないということです。知識で得られることなら現代人の方が速やかに得ることが出来て当然のことです。学習してどうなるということではないということでしょうか。物理的な環境である、インフラなどの生活環境・衛生環境・医療環境・住環境・科学技術・道路・・・・は比べようもありません。

 数千年を経ることで、人間の人体構造の劇的な変化があったでしょうか。人間の発見・発明・創意工夫によってインフラ・社会システム・消費財・製品・生活環境の改善がみられます。人間そのものの働きには何の違いもないということなら、その働きの部分の中で発見したことが”それ”だということになります。

 

 偉人という言葉からして、普通の人とはどこかが違うという思い込みから抜け出せません。なるほど何らかを感得したかもしれませんが、人間としての人体構造や感覚の働きに相違はありません。何らかの新たな能力を身につけたのではなく、間違った見方で世界を認識していたことに気づいただけのことかもしれません。何らかの能力によって世界を変えることができたら大変なことです。人間の欲するままに行われてきた経済活動によって世界の気候が変わってきた事を否定することはできません。何かを知ったり感得することと、行動することは異なります。人間も動物も自然の生き物であって、所詮は寝て起きて飲んで食って排出して動き回っているだけかもしれません。

 

 どうして達磨は”髭”があって赤い衣を着ているのでしょうか。どうして釈迦だけが”仏”とされているのでしょうか。と問いかけられたら何と答えれば良いのでしょうか。「達磨(だるま)は、一体どういうわけで、鬚(ひげ)がないのか?」どうして”髭”があると決めつけているのか?”髭”がなくてもいいのでは?普通の人と同じでどこが悪いのか?どうして普通の人と異なって見てしまうのか?どうして決めつけたイメージから抜け出せないのか?同じ人間であってどこがどう異なっているのか?

 思考して何者かになるのではなく、間違ったものの見方(=二元対立・分裂)で過ごしていたことに気づいて一つに観る(=あるがまま)ことができるようになる。そのもの一つだけを見て比べることがなければ、善悪・美醜・長短・貴賤・・などありません。

**

二見に住せず 慎しんで追尋すること勿れ

<省略>

一心生ぜざれば 万法咎無し(信心銘)

**

縁起の法は「これがある時、それがある。これが生じる時、それが生じる。これが無い時、それが無い。これが滅する時、それが滅する。」とあります。よく因果関係だと説明されていますが、釈迦が発見した苦を滅する法のようです。これ(=分別・二元対立・二見)を持ち込めば”苦”となり、これ(=分別・二元対立・二見)がないとき”苦”が滅するということかもしれません。物事を勝敗・優劣・美醜・貴賤・・・比べること無くありのままの一つとして見ればいいということかもしれません。勝者と敗者ではなくただスポーツのルールに従って各自の能力を発揮したという事実があるだけ。レッテルをはって一喜一憂して振り回されているだけかもしれません。全身全霊で今ある自身の能力を発揮できればいいのかもしれません。誰がどれだけやったかなど本人にしか分かりません。良し悪しを言うのは簡単なことです。個々の能力は僅差であって、人間の本質は変わりようがないのではないでしょうか。

 常に比べてみる癖に気づき、”何とかしよう”が出てきたらほったらかしにする。”何とかしよう”が消えてきたら混乱・葛藤も滅していくかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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社会の問題と自己の問題 [気づき]

 何かを掴んだり何かを得たり何者かになるというのは社会的な出来事であるということを認識しなければなりません。社会制度の中で社会的な自己(=自我)を何とかしていこうと葛藤します。なんでもかんでも思考で解決できると教わり実践してきました。思考することが解決することができると疑うことがありません。

 社会的な問題は社会的な自己(=自我)がその置かれている状況で知恵を絞るか、政治家・思想家・哲学者・科学者・医学者・・・の叡智で解決することは当然のことです。仏道のような、個人的な問題は個人が解決するべきです。

 私的な迷いを頭で解決できる人と迷いを根本的に脱落した人は違います。迷いを思考で解決するのは知識や経験で何とかするということです。問題(=迷い)自体が無いということでなければなりません。学生は学業成績で悩みますが、学生でなければ学業成績で迷う必要はありません。ペットの飼い主はペットのことで悩むことがありますが、ペットを飼っていなければ悩むことはありません。医者は患者に私情を持つと悩みますが、私情を介入させずに誰に対しても全力を尽くせば迷う必要はありません。区別・差別をすると悩みが起こります。”自分かわいい”が介入するので悩みが大きくなります。痛いのは痛い以上でも以下でもなく痛い感覚そのものでしかありません。

 個人的な問題(=迷い)を解決すべきは社会の問題ではありません。仏道は自己の問題を全て解き明かす方程式を手に入れることではありません。問題(=迷い)を問題(=迷い)として取り扱う必要がなくなることではないでしょうか。

 

仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(道元)

 

 自己の問題を解決するには、自己が何とかしようとし続けるのでは大変なことです。常に問題に振り回されます。赤ちゃんには”我”はありませんでした。なされるまま生きていて、何とかしようとしても何にもできません。大人になると問題が増えるのは、自分で何とかできるという”癖”があるからかもしれません。”我”が”我”を使って”我”のために何かできるということから抜け出せません。”何とかできる”が叶わないと”神”という概念を持ち出して、願掛けをするようになるかもしれません。”何とかできる”という呪縛から離れることは最も困難なことです。

 分別(=二元対立)の世界で生きて何とかしようと頑張っているのは社会的な自己です。この分別(=二元対立)以前の無分別を一瞥してみる。分別するから混乱・葛藤があるということを実感する。あらゆる事象はそのようにあるということを変えることはできません。

 一切は宇宙物質から出来ています。素粒子レベルでは何ら違いはありません。一切は「エントロピー増大の法則」によって分解されることになっています。どうしょうも出来ないことで悩んでいないでしょうか。”我”がそんなにもかわいい、愛おしいければ”我”に振り回され続けてしまいます。”何とかしよう”というエネルギーを放ったらかしにして鎮めてみるのもいいかもしれません。

 NetflixのCMの「退屈は犯罪です」というのは”我”に振り回されることを推奨しているのでしょうか。静寂・平安であるには退屈とお友達になることかもしれません。

 

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決めつけによって迷う(悩む・苦しむ) [気づき]

 私達個々人は異なる教育・家庭環境・信仰・文化・習慣・癖・風習・思い込み・行動パターン・生活環境・趣味趣向・経験・アイデンティティ・・・等々があり、また個々人で異なる状況に接していることでまったく異なる思いが沸き起こっています。

 様々な思いが湧いてくるのはどうすることもできない自然なことです。このとりとめもない思いにつきあう必要があるでしょうか。身体であれば、身体が危険な状況に遭遇したときは、自らの身を守るために自然にホルモン分泌が行われ最適な行動が促されるようです。

 誰もが自身が構築してきた観念を自らが否定することは難しいことです。誰もが自分が正しいとして生きています。世界は常に変化変容しているというのに、自らが構築した観念を世界に押し付けることでは混乱がおさまることはありません。世界を従えるのか世界に従っているのか明白なのですが・・・。人間だけが自然に反して得意満面になっているのでしょうか。

 

「もし今、私たちの知らない遠く離れた地の誰も居ない森で、一本の木が倒れたとします。 その際に、その木は“音を出して”倒れたのでしょうか。」という問いがあります。人は文字や音として表現されたことを勝手に妄想(=想像)することができるので、認知していないにもかかわらず”音”が発生していると思いこんでい疑いません。実際に聞いてもいないのに、妄想(=想像)した場所では”音”している筈だと決めつけています。実際に起こっているのは自身の感受したことだけです。他人の痛みをそのまま感じたら医者や看護師として働くことはできません。単に妄想(=想像)の中での出来事だということです。

 

無門関の第4則に「胡子無鬚( こすむしゅ )」というものがあります。

<原文>
或庵曰(いわ)く、
「西天の胡子(こす)、甚(なん)に因(よ)ってか、鬚(ひげ)無き?」

<現代語訳>
或庵(わくあん)が言われた、「達磨(だるま)は、一体どういうわけで、鬚(ひげ)がないのか?」

 

 公案は数学の問題を解くように答えを出すのではなく、迷い(=二元思考)から開放されて自由になるということ。大事なことは誰かが迷わせたり悩ませているのではなく、自身が迷っていて自身が悩ませているということです。周りに責任があるのではなく全てが自身の内で起こっていることに自身で騒ぎ立てているということです。

 小さい頃から達磨の置物や絵を見て”髭”があって赤い衣を着ているというイメージがついています。実際に見たこともないのに決めつけています。見たとしても次の日には髭を剃っているかもしれません。ただの妄想(=想像)にがんじがらめにされて不自由になっている自分に気づかなければなりません。”髭”があるという思い込みがあるということです。

 自身の身を守るということは当たり前のことですが、自身の固定観念も必死で守ってはいないでしょうか。ただの記憶であって傷つくこともないのですが・・・・。記憶というのは積分されて残っている実体のあるものなのでしょうか。釈迦・老子・・・どんな人であったのかは勝手な妄想でしかありません。分かりもしないことに囚われてもどうしようもありません。今この瞬間に体で感受されている実感が全てです。良いも悪いもない只感受されていることだけ・・・・。

 観念の足枷をしていて自由と言えるでしょうか。沸き起こってくる思いを追いかけることを止めて思っていることを放ったらかしにして自由を味わうのもいいかもしれません。

 

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刹那に相違なし [気づき]

 私達の人生の時を微分した瞬間に違いがあるのでしょうか。刹那の瞬間に、それぞれの生命体が感受するのはただ見え・ただ聞こえ・ただ感じ・ただ味わいがあるだけです。意味や価値の軽重はないのですが、振り返って軽重として見ています。極端に言えば意味づけ価値づけをしなければ刹那の瞬間は全てに平等です。

 この”刹那の今”に覚者や凡夫という違いがあるでしょうか。どこから何らかの”差”が出来てくるのでしょうか。だれもが”自分かわいい”が自然と起こってきます。この”自分かわいい”は各個人の経験・固定観念・宗教・信仰・価値観・・・等々が記憶されているフィルターを通ることで分別が起こるからかもしれません。

 分別は二元対立として認識され、執着・忌避という生命体自体を守るために働く自然な機能です。今感受された情報が”自身”にとって良いのか悪いのかを瞬時に判別され次の行動に起点となります。

 誰もが自分が正しく自分がかわいいというベースがあります。自意識が芽生え言葉を覚えると、言葉を使って考えるということを常に繰り返してきました。自意識(=我)は考えて”何とかしたい”考えれば”何とかできる”という思い込みから脱することができません。目にするモノ聞こえる音感覚に何らかの意味や価値があるものだとして生きてきました。自らの人生にも意味づけ価値づけを行っています。

 もし微分された瞬間(=刹那の今の瞬間)が間違いであったとしてもどうすることもできません。刹那の今が間違いということは宇宙が間違っているということになりますが、宇宙は間違っているのでしょうか。

 この刹那は誰にも平等です。刹那の今は、完璧に過ぎ去り消え去っています。次の瞬間を思いのとおりに作り出すこともできないし、消え去った過去を再現することもできません。自意識(=我)はどうにもならないことをどうかしようと葛藤しているのでしょうか。

 一体直前の瞬間はどこへ行き次の瞬間はどこからくるのでしょうか。宇宙全体がフラッシュのように生滅を繰り返しているようです。”思いの通りにしよう”という”思い”を無視して眼の前の刹那がどのように繰り広げられているか目撃し続けるのもいいかもしれません。

 

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