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"1"は幻 [気づき]

 「数値」は数の量や内容であり計数(=カウント)と計量(=計測器・計量器で調べる)があります。数値は数学で加減乗除の対象として扱って答えを算出できます。一方「数字」は数を表す文字であって計算することはできません。

 自然数⊂整数(負の整数、0、正の整数)⊂有理数⊂実数⊂複素数 

 

 この世に絶対的な"1"があるでしょうか。"1"はただの概念としてあらゆる存在を定義できます。文字も"1"(=1文字)、パソコンも"1"(=1台)、本も"1"(=1冊)、自動車も"1"、自転車も"1"、花も"1"、靴も"1"、茶碗も"1"・・・・。ありとあらゆるものが"1"であって、絶対の"1"などどこにもありません。だれでもが"1"というものを捉えたり掴んだり得たりできません。"1"そのものを見ることはできません。"1"(=表象・呼称)は存在していないということです。

 だれもが認める排他的な"1"なる存在があるでしょうか。もし絶対的な"1"があれば、他の存在は"1"ではありません。そんな絶対的な”1”がどこかにあるのでしょうか。

 自らが対象と認めた時に"1"(=表象・呼称)としています。区別・識別できる何かを"1"(=表象・呼称)と定義して使っています。

 

 ボクシングでのカウント(=1・2・3・・)を見ることができるでしょうか。カウントの実体はどこにもなく、ただの音として認識されるだけです。"1"は便宜上使われている概念でしかありません。概念を捉えたり掴んだり得たりすることはできません。

 宇宙全体を"1"としてもいいし、ウィルスの一つを"1"としても何ら問題ありません。ただの概念であって勝手に定義すればよく、"1"はどこにでも出現させることができます。"1"は固定されたものではないということであり実際はどこにも実在として存在していないことになります。あらゆるものに"1"をあてがうことができるということは、無限に有るということです。

 "1"など本来はどこにも無いのですが勝手に"1"と定義して気にせずに使っているだけかもしれません。"1"を「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」に置き換えて見て下さい。「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」はどこにも実体はありません。感覚・感情・思考を振り返ることで割り当てられた表象(=呼称)です。他者への説明や感覚・感情・思考を処理するために「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」という言葉が使われているだけのことです。

 10年前のままの「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」はどこにも見当たりません、昨日のままの「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」もどこにも見当たりません。今(=思った瞬間には今ではありません・事実はすでに消え去っているちょっと前)ここにあると思っているときにだけ「私(=社会的な自己・アイデンティティ・自我)」としているだけです。

 

 "私"の意志で目を覚ましているのでしょうか、"私"である身体なのに肩こり一つ治せない。耳鳴りで自らを悩まそうと思ってもいないのに耳鳴りがある。"私"であるのに熟睡できない、老いたくなくても老いる。病気になりたくなくても病気になる。"私"=身体であり"私"=心であるはずなのに、"私"の思い(=こうなりたい・こうなりたくない)と現実の身心はかけ離れている。勝手に変化して消滅している。"私"の思いと身心はリンクなどしていない。"私"は身体でもなく、"私"は心でもない。ただ何らかの因縁で現れた身体(=物質)に備わっている眼・耳・鼻・舌・身・意の働きが勝手に起こっているだけかもしれません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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