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有為の奥山 [気づき]

 様々な悩みから自由になりたいということは、自分の思う通りにしたいということと同じことでしょうか。どうしても”私”という何かがどこかにいて、考えることで”何とかできる”という”癖”から抜け出せないことによるかもしれません。”思考”によって自由になれるでしょうか、”思考”しつづけるかぎり”私”というものを出現させてしまいます。

 ”我思う、故に我あり”というのは、思いが”我”を出現させているということかもしれません。目の前のPCは”私”ではないと知っています。知られるモノ・認識できるモノは”私”ではありません。身体は知られるモノであり”私”ではありません。この”分かろうとしている思い”も知られているので”私”ではなく、わき起こってくるものの一つです。”本来の自己”を知ろうとしているのは、仮想の”私”であって”本来の自己”ではありません。

 対象とされ知覚されるモノ(物質・感覚・感情・思い)は”本来の自己”ではありません。

 知ろうとする限り知るモノ(=対象)であり、”本来の自己”ではありません。探求して見るかるものは、知られるモノであって”本来の自己”ではありません。

 

 熟睡している時に熟睡していると知ることはできません。目が覚めてから熟睡していたと感じるだけです。”私”という思いが幼少期から教え込まれて想起する習慣づけ(=癖)されたものだということです。社会生活を送るためにどうしても”私”という自意識がなければなりません。社会全体で作り上げた”私”という自意識によって悩み続けたり妄想したりしています。”私”がいて”思考”して生活しているのが”当たり前”となっています。なにかを掴んだり何かを捉えたり何者かになれるという”有為の奥山”にいる限り”私”という呪縛から自由になるのは難しいということでしょうか。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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