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別々の世界で生きている [気づき]

 コペルニクス的転回(=発想を根本的に転換)が必要とされます。物理的には存在は一つであり宇宙も世界も一つです。存在は一つでも見ている生命体によって全く異なっています。一人の”おじさん”は見ている生命体によって異なります。区の役員・スポーツクラブの監督・夫・父・子・孫・祖父・会社員・飲んだくれ・友人・ただのおじさん・通行人・自転車に乗っている人・買い物客・お客・乗降客・案内人・ボランティア・おしゃべりな人・掃除している人・飼い主・餌をくれる人・水をまいている人・・・・・。”おじさん”との関係性・立場・見られた時の状況によって異なる人として認識されます。本当のその人は誰かは分からず、その時々に出会った丁度当てはまるアイデンティティで見ているとしているだけのことです。見られている我々は見る人によります。本当の”あなた”は誰なのかサッパリ分かりません。他人を見ているつもりなのですた、ある瞬間だけであって一体何を見ているのでしょうか。

 

 宇宙・世界・存在は個々の生命体ごとの感受(=認識)として展開されています。各生命体が各生命体固有(唯一無二)の宇宙・世界・存在があるということです。生命体が生命体としての働きが終わってしまえば、その生命体が感受(=認識)していた宇宙・世界・存在の全てが消え去ってしまいます。宇宙・世界・存在は各生命体のスクリーンに映し出されています。

 ”月”は一つではなく生命体の数だけ”月”があるということになります。例えば野に咲く”花”も蝶・鳥・虫・人・・・によって異なる対象として認識されます。

 各生命体は他の生命体が感受している宇宙・世界・存在を直知することはできません。自身の感受している世界を他の生命体に知られることもありません。

 ”痛み”の感覚も各生命体によって異なる感覚であり、その生命体が感じている”痛み”は固有の感覚であって他の生命体がその”痛み”の感覚をそのままに感じることはできません。各生命体には固有の世界が展開されており、自身の世界での出来事は自身の問題であり自身でしか分かりません。似て非なるものが各生命体の世界なのかもしれません。生命体の源泉をたどればたった1つの細胞であり、源泉は同じであり同じ源であり多様性によって異なる現れとしてあるだけです。決められた解釈・価値・意味がないので、自由に解釈・価値・意味をつけることができます。

 誰もが一つの”月”を見たとしても、詩にしたり絵にしたり音楽にしたり勝手に自身の思いによってイメージを膨らませています。何が一つの”月”を異なる”月”に転換させているのでしょうか。それは”私”という主観の出処となっている”自意識”によります。”自意識”の分別心(=二元)というフィルターによって”あるがまま”が歪曲されて感じられるのでしょうか。

 

 ”自意識”は有為(=計らい)であり思考によってなんとかしようという意図をもった働きでしょうか。この”自意識”によって”あるがまま”が瞬時に色づけされて”私”というありもしない表象が働くことになります。主体となった”私”は解釈・価値・意味をつけるために言語を用いて概念化します。言語による概念は二元対立であり”美”には”醜”という概念がないと説明できません。”善”は”悪”なくして語ることはできません。

 何もしない(=思考に取り扱わない・放っておく)ことで、”自意識”の働きが弱まるとフィルターを通さずに”あるがまま”がダイレクトに映し出されるようになるかもしれません。今まで見えていた景色が、初めて地上に降り立ったように”新鮮に見えた”という体験談があります。固定観念なる”私”という自意識なくダイレクトに脳内スクリーンに映し出された映像が見えたのでしょうか。

 ”私”と二元対立という概念によって葛藤・混乱による世界をみているという見抜き。何もしないということによって色のついたフィルターを徐々にクリアにしていくことでダイレクトに世界を味わえるかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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