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意識とは何か [TED]


<00:57:P.S.氏の症状は 「半側空間無視」と呼ばれ 脳の情報処理と 処理を経験することは 異なるという重要な事実を示しています この経験が いわゆる「意識」です。>

 

 単細胞生物から進化して口と排泄口が一本の管であったものが、腸になり神経となり更には脳へと進化したのでしょうか。腸は第二の脳と言われていますが、進化の過程からすれば脳が第二の腸というのが正しいかもしれません。生命体が生き残っているということは、危険を回避しながらも効率的にエネルギー源を摂取するというシステムが構築できているからではないでしょうか。生命が生まれた瞬間から生き続けるという機能が備わっていたことになります。永遠に生き続けるには自身のコピーを多く作り、生存の可能性を広げるために変異を起こして多様化しなければなりません。あらゆる条件下で一つでも生き残れば生命は繋がっていくことができます。

 危機的な状況であっても多様化できたことで、生命体としての生存は続いていく可能性が残されています。より強いものへと変化変容して今の生態系となっているのでしょうか。あらゆる生命体の元祖は同じ単細胞であり、我々は同じものから派生した同じ生命体ということでしょうか。表面上は食べるということをしていますが、単に同化しているというだけのことかもしれません。生命の存続という立場から見れば、お互いにサバイバルゲームの中で切磋琢磨しながら強化して生き延びているということでしょうか。幸いにも人間種という生命体としてこうやって生を実感できています。

 脳の話へ戻りますが、生命体として生存するために五感から入力される情報を処理し、危険回避・エネルギー源の確保のために行動していることは疑いありません。電磁波の情報が視覚細胞から入力されて、視覚野で映像として処理され、次に記憶と照合されて”危険”や他の感覚として処理しているのでしょうか。「半側空間無視」とは、その映像が左脳で処理できなかったということでしょうか。視覚野では処理されているので”無意識”では”危険”とされていましたが、顕在化(=視覚化)できていないので”意識”として体感できていない。脳内では”危険”と判断されているのですが、見えていなのでどうしてなのか理解できないかもしれません。

 私たちも全てが見えているわけではないのですが、身体が反応して勝手に動くことがあります。

 

<01:44:白色光を 色のない耀きと読み取ります 実際には 白色光は目に見えるすべての色に対応する 波長を含んでいます

 同様に人体に関する脳のモデルは 手足の位置を把握しますが 個々の細胞 または筋肉についてさえ 把握しません このレベルの情報は 動作を計画するのに必要がないからです もし脳にこのモデルがなく 体の大きさや形 瞬間的な動作を把握できなければ 我々はすぐにケガしてしまいます  >

 

 私たちは、私たちには存在を認識できる能力が備わっていると思い込んでいます。人間にとって認識できる存在があって、ありのままを認識できているとしています。そうでしょうか。自身の周りには解りきった存在があって、その存在を認識しようとすれば適切に認識できているとしています。それは我々の認識能力の範囲内のことであって、限られた認識能力しかありません。紫外線は見ることは出来ないし、全ての振動(=音波)を聞き分けることも出来ません。

 認識できる存在が存在としてあるのではなく、認識できる範囲でしか存在を認識できていないということです。どうやっても鳥や蝶が見ているようには見えません。犬が嗅ぎ分けられるように匂いを嗅ぎ分けることはできません。ただ人間の能力の範囲内で認識されたものだけが存在として認められているにすぎません。本当の”花”の色彩を見ているのではなく、紫外線がカットされた”花”を”花”の色彩としています。

 私たちは”言語”を認識しているのではなく、認識できる”言語”が認識されているということです。アラビア語を認識できない日本人にとって、”アラビア語”は”言語”ではなく単なる音(=言葉)・形(=文字)でしかありません。何気なく文章を書いたりしていますが、日本人が認識できるような文章を書いているということです。

 知らぬ間に、日本語という言語を理解できる人に向けた文章を書いていることになります。認識されるモノ(=認識することができるモノ)、つまり認識する人にとって意味や価値がなくてはなりません。詩や音楽や芸術作品は認識される人によって意味や価値が創造されます。子供が砂を積んだだけでは芸術作品にはなりません。認識する人にとって意味や価値がなければ意味がないということになります。必然的に発信する人は意味や価値のあるものを創作し、認識する人は認識できる意味や価値のあるものを見出すことになります。

 全ての存在に意味や価値があると思い込んではいないでしょうか。何故なら意味や価値のあるものを与えられ、意味や価値のあるものを得ようとしてきたからに他ありません。意味や価値のあるものを作らなければ、誰も興味を示しません。多くのものに囲まれていながら、意味や価値の無いことをしたり意味や価値のないものを追いかけるようなことはしません。誰もが意味や価値のあるものを得ようと必死になっています。意味や価値のあるものを求め、得ることが人生そのものだとしています。人生は意味や価値のあるものを探し回り、どうすれば掴んだり得たりできるかを考える続けたり行動することになっているのではないでしょうか。

 あくまでも今生きている人の生きている地域でのみ意味や価値があることでしかないということを理解しなければなりません。100年前のレアメタルは只の厄介な鉱物だったかもしれません。プラスチックは重宝されていたのですが、今では環境に負荷をかける代物です。

 

 意味や価値というものは、創作する人と認識する人がお互いが「虚構(=フィクション)」を共有していなければ成り立たないということのようです。子供には哲学書よりも童話の方が意味や価値があります。子供にはダイヤモンドよりも玩具のほうが意味や価値があります。

 光源である、白色は全ての色の電磁波の波長を含んでいますが、目で全ての波長を認識しても意味がありません。光を反射した物体がどんな形であるかが認識する主体が求めているものです。認識体にとって有益な情報が選び取られて処理されているということになります。人体であっても、大きさや可動範囲が分かればいいのであって足や手の内部構造がどうなっているかは大事なことではないようです。「私」というものも、様々な概念が組み合わさって認識されているただの思い込みということかもしれません。世間一般に使われている「私」は自身が自身に認識されるように、意味や価値をつけて意識されている「虚構(=フィクション)」かもしれません。

 

 仏教では、一切皆空であり無常であるので五蘊に意味や価値を見出せない。意味や価値を見出そうとしていることが無駄なことで虚しいことだと見抜いてくださいということのようです。変化変容している瞬間を捉えているだけで儚く消えゆくものに振り回されていることを直視してください。この世の物質的なことや地位や名誉や権力は一時的なものであって永遠ではない。思い煩うことのない、無達成の達成である”無”こそが「それ」ということ。

 

 

・人生に意味や価値があるとしているのは、意味や価値のあることだけを認識しようとする脳の働きが備わっているからでしょうか。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−33 [老子]


知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。

 

壽:長寿、めでたい

 

他人を知る者は智があり、自身を知る者は明がある。

他人を負かす者は力(=権力・武力)があり、己(=自我)の欲に振り回されない者は強い者である。
足るを知る者は富める者であり、欲に振り回されず自分の思い通りに行動できる人には志があります。
自身を見失わない者は久しい。
死んでもなお亡くならない(存続するモノを見抜いた)者は長寿である。

 

<他の翻訳例>

 他人を了解するものが智のある人であり、自己を了解するものが明察のある人である。他人を負かすには力がいり、自己を負かすにはもっと力がいる。(もっているだけのもので)満足することを知るのが富んでいることであり、自分をはげまして行動するものがその志すところを得るのである。自分の(いるべき)場所をまちがえないものが永続する。死ぬときにも(その肉体の一部分さえ)失っていないものが長寿なのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 私たちは”我が身”が「私自身」であるとしていることにより、”我が身”の欲求や忌避に従うことが行動規範となっているようです。”我が身”が主役なので”自分かわいい”に振り回されて人生を送らされていることに気づかずに一生を終えるかもしれません。

 今ここで感受できている世界で生き続けなければならないという本能はどうすることも出来ません。生命誕生から途切れることなく生き続けてきたという結果として今の生としてあります。我々生命体に脈々と宿っている”生き続けたい”ということには贖うことはできません。望んで生まれてきたわけではなく、偶然にこの時代のこの場所にいるというのは稀に見る奇跡の生と感じずにはいられません。

 ”我が身”に縛られて”我が身”のためだけに生を終わるとすれば、動物の一生と何ら変わることがないことかもしれません。生命現象として寝て食べて排出して動いているという表面上の行動だけを見れば動物と大差はありません。

 他の動物と異なるところは多々ありますが、最たるものは「言語」を発明したということかもしれません。何でもない音(=発音)や形(=文字)に意味や価値を割り振り”概念”というもので存在・感情・感覚・思い・・を相互に伝えて共有できるということでしょうか。「言語」の送受信によって分かったかのような錯覚で繋がりを得ているのでしょうか。

 以前も書きましたが、存在・感情・感覚・思いが先にあって後づけで「言語」を当てはめているというのが事実です。”真”・”美”・”善”というものは最初からあるわけではなく、人間の都合で決められるものであって予め何処かにあるとかないとか議論するのは馬鹿げたことかもしれません。自分たちで決めたのに、決める前からあったはずだとしています。”東から太陽が昇る”のではなく、”太陽が昇る方向を東とした”ということです。東が最初からあるわけではありません。

 

 読み手・聞き手の数だけ解釈があります。”痛い”と言われ分かったような気になりますが、言っている人の”痛み”をそのままに感じることは不可能です。書いた人が本当に言いたいことは書いた本人にしか分かりません。

 全部推測でしかありません。真剣に読んだとしても自分の知り得る範囲で勝手に解釈しているだけですのでご了承ください。

 注目すべきキーワードとして”自・智・明・強・志・富・久・亡・壽”があるように感じます。

 他人を知り行いを推測できる人は智者と言われる。他人を理解するには、自身を鑑みるのが一番手っ取り早いかもしれません。所詮は誰もが”自分かわいい”で生きているので何をするかは手に取るように分かるようです。被害は少なくなるべく多く得るというのがどんな生き物でも同じことです。老子さんは自己の本質を明らかにする方が人間として生まれてきた本分があるのではないかと問いかけているのでしょうか。”明”とは何も障害・束縛がなく自由で開けたことなのでしょうか。

 他人は”自分かわいい”なので力で脅せば言うことを聞くとわかっています。自己を制するには、仏教での六波羅蜜のような実践によってもたらされるもの。欲望は限りありません。何故なら掴むとか得るということがないからかもしれません、無常であり一時的な感覚を味わうだけの儚い夢のようなものだから。

 美味しいモノを多く食べ、素晴らしい景色を見て、心地よい音楽を聞き、芳しい匂いを嗅ぎ、居心地のいい空間にいて・・・これらは無常であり消え去ってしまいます。際限なく求め続けることになります。一番解放され幸せだったのが、食べもせず聞きもせず感じもせず何もしていなかった熟睡だったなんて。”自分かわいい”に振り回されているよりも”自分かわいい”から解き放たれていた方が幸せだなんて・・・・。

 求めずとも一人沈黙のままに何もしていないのが素晴らしく心地よく感じるのは年のせいでしょうか。最近はyoutubeで”焚き火”を見ている人が多くいるそうです。なにかしているよりも何もしないということの有り難さを実感する人が増えているのはいいことかもしれません。

 欲することが少なくなればなるほど豊かな時間を過ごせるように感じるかもしれません。何者でもない空っぽの自分であれば広大な空間が広がっています。ちっぽけな世事にとらわれない真の自己。自然な自己を見失わなければ自然の生を全うできるかもしれません。

 

 死んでも存続している本質とは何なんでしょうか。

 私たちの本質は五感、感情、知性、思考、身体、アイデンティティ・・という知られる対象でしょうか。知られるモノは知る者自身ではありません。知られる対象は、生きている間に働いている知覚されるモノです。血液型・性別・趣味・学歴・出身地・体型・体重・血圧・病気・・は私ではありません。これらは取ってつけたものであり自身ではありません。現れの「社会的な私」を説明する一つでしかありません。

 血液型は私ではありません。爪は私ではありません。学歴は私ではありません。趣味は私ではありません。私に付属しているあらゆる属性、ホワイトボードに書けるもの全ては単なる後づけであって私ではありません。ホワイトボードに書いたものを全て消し去ってある何か、それこそが私です。空っぽにしても残っているモノ・・・気づいている何か(=それ)。瞼を閉じればたちどころに眼前にある全てが消え去ります。何かが残っています。次に自身の身体が無いとしてみてください。感覚も思いも感情も消し去っても残っているモノ(=気づいているそれ)。

 

 実際幼少時の身体は消え去っています、昨日の◯時◯分◯秒と全く同じ状態である身体は何処を探してもありません。変化し続けているので同じ状態は決して再現できないので、完璧に消滅しています。それでも残っているモノ(=気づいているそれ)。

 最後の最後に残っているモノ。気づいているという「それ」。汚されもせず限界もなく捉えることもできない言葉にすることなどできない「それ」。自分で作ったものではなく生まれてもいないし、これからもあり続ける「それ」(不生不滅)。手をつけることなどできない悠久の「それ」。誰にもどこでもいつでもすでに備わっている「それ」。考えてどうにかできるものではない、知性とは全く無関係の「それ」。聞こえたままを受け取っている「それ」。探す必要もなく逃げも隠れもしない「それ」。知性は探し出そうと必死ですが、知性を使う以前に働いている「それ」なので、知性では見つけられません。「青い鳥」と同じで今ここで”あなた”を通して見ている「それ」。知覚される以前の知覚者そのものが「それ」です。身体が死んでも、生き続ける(=長寿)のは「それ」のことでしょうか。正月は思い切って、何もしないで沈黙してみてはどうでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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「意識された現実」という幻覚ー2 [TED]

意識された現実」という幻覚

<前半の概略>

 意識が失われたら何も存在しない。脳が音を聞いたり光を見たりしている訳ではありません。自分の身の周りの世界とその中にいる自分という意識経験は、ある意味制御された幻覚。意識の性質を脳や身体の内部で起きていることから説明していけば謎は消滅していくはずです。身の周りの世界という経験と予測エンジンとしての脳。私たちが知覚するのは世界で起きていることに関する最善の推測です。

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 脳(=神経細胞の集合体)によって意識のようなものが現実という幻覚を作り出しているのでしょうか。それとも、宇宙そのものが意識であって生命体が感受したものを見せているのでしょうか。そんなことが分かったとして、平安と知識の量の相関関係はないようですが・・・。分からないでいいということを見抜けるか。いつまでも尻尾を追い回す犬は頑張り屋でしょうか。


 「真実の世界」とはフルレンジの世界を言っているのでしょうか。全ての電磁波の周波数帯、全ての波長(=低周波から超音波)の振動、全ての匂い、全ての味、絶対零度から超高温まで、湿度・硬度・圧力・・・知りうる限りの宇宙の実相。

 地球での個々の生命体は「真実の世界」からの刺激を各個体の有する感覚器官で感受しています。感覚器官の精度の範囲内でしか知覚できません。感覚器官の限られた精度でしか理解できないので、制御された幻覚というのでしょうか。

 紫外線まで感受できる蝶や鳥の見えている世界、暗闇の中で猫に見えている世界、コウモリが飛んでいる世界、犬が嗅ぎ分けている世界、海洋生物の世界・・・。フルレンジの「真実の世界」が削ぎ落とされた限られた幻覚の世界かもしれません。モザイクの世界、白黒の世界、色彩の世界、音のない世界、超音波の世界、感覚だけの世界、圧力の世界、味のない世界、匂いの世界、無臭の世界・・・・。

 各個体が感受している制御された幻覚の世界で生きています。各個体が限られた感覚器官の能力を最大限に使っているのでしょうか。情報(=刺激)を補って意味のある音や形として処理したり、不要な音や形は認識しない。脳は効率的に生命を維持するために制御・調整して使われているようです。

 個々の生命体は、自身の幻覚の世界(=感覚器官にもたらされる情報(=刺激)を頼りに)の中で必死に生きていると言わざるを得ません。

 個々の感受器官の性能によって、部分的な情報しか感受できないので”群盲象を評す”と同じように存在の「真実の世界」は決して見ることはできません。フルレンジの「真実の世界」ではなく、限られた世界で判断行動しているとの認識が必要です。今見て感じていいる世界は全てではないということ。

 

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<ゴムの手の錯覚>

<09:35つまり統一体としての自分であるということの基本的な背景となる経験は、脳による結構もろい構築物であり、他のものと同じように説明を要する経験なのです。>

<11:06何が自分の身体かという経験すら一種の最善の推測に過ぎず脳による一種の制御された幻覚なんです。>

 

 自らの意志と連動して動く物質を統一体(=身体)としています。身体が自分であるという経験があります。身体は認識される対象であり、知る主体である「本来の私」ではありません。知りうるモノ(=対象=身体)は主体ではありえません。光が当たる部分(=客体・対象・見られるモノ)は光源(=主体・本体・見る者)ではありません。「本来の私」を指し示すことはできませんが、辞書や社会生活で使われている「私」は共通認識としてのただの表象です。社会生活を送る上でアイデンティティを「私」として表現しておけば通じあえるだけの意味合いで使われているだけかもしれません。「自己紹介」お願いしますと言われても、年齢や出身地や趣味やその他の経験でしかありません。ただ表面上の属性でしかありません。一切は無常であり変化しては消え去っています。捉えたそばから変化変容してい固定された何かとして存在できません。「◯年◯月◯日◯時◯分◯秒時点での◯◯」としてあった変化し続ける何かです。捉えられない得られない実体のない何かでいいじゃないですか。尻尾を追いかけるのを止めれば何の障りもなのですが・・・。

 

 私の身体であり意志によって制御されている限りは制御対象です。身体(=対象)は「本来の私」そのものではありません。「偽物の手」でも手として視覚に入り、刺激と連動していれば自分の手のように感じる実験です。

 脳梗塞の療法で、動かない手の方に鏡を置いて”鏡に映し出された手”と勘違いさせて動かしていくと動くようになるようです。ピアノやギターも上手に弾いている人の手の動きを何度も見ることで弾けるようになるかもしれません。自分の手と勘違いするほど見続けるとどうなるでしょうか。

 子供はサッカー選手や野球選手などのプロの動きを見るだけで上達するようです。見ることによって手足の動きを頭の中で自分の手足として再現しているかもしれません。弓道では”看取り稽古”があり、重要な稽古と位置づけられています。達人の技を記憶して、自己が稽古したかのように再現しようとするものです。

 歯に麻酔が効いて、感覚がないときには唇も歯も自分ではないと感じたことがあるかもしれません。足が痺れた時も自身の足であるという感覚はありません。

 内蔵もよっぽどの痛みがない限り膵臓や脾臓や腎臓がどこにあるかなどサッパリ分かりません。見えなくて感覚がなければ「私」が身体であることさえ気づかずにいるかもしれません。身体が見えないくらいに目線を上げて「空=空間」を見るでもなく眺めていると身体の存在を忘れ”無我無心”になり、空間と一体になったような感覚を感じるようになるかもしれません。

 

 ”鏡に映った自分”の姿を見ている”自分がいる”というのは観念です。鏡を覗き込んでいる「私」がいるから見えているとして思い込んで(=観念)いるだけです。鏡に何か映っているということがあるだけです。自身の身体が鏡に映し出されて、鏡の反対側から見ているという予測があるだけです。鏡を見ている自身を直視して確認したわけではありません。

 猫や犬は人間が見ている人間の姿が見ていません。蝶や鳥やコウモリも人間の見えているようには人間が見えていません。魚は魚眼レンズにに映ったように私たちの姿が見えているの消化。自身が他人を見ているように、自身があるはずだというのは、自身の存在を予測しているだけです。

 自分で聞いている自分の声と他人が聞こえている自分の声とは違います。自分が見ている自分と他人が見ている自分も異なります。自分が味わっている味と他人が味わっている味は異なります。自分が自分だとしている自分は、他人が感じている自分とはかけ離れているのではないでしょうか。この世で自分を自分としているのは自分だけだということです。自分であると信じ込んでいる自分は自分自身以外は誰もいません。

 自分である自分は自分だけであって、他の人から認識されている存在とは異なります。つまり世界から認知されている自分は、幻影の自分でしかありません。自分が自分と信じている自分と世間の見ている自分とはズレがあります。認識されている自分と異なる自分として生きています。

 自分はこんな自分であるというのも自分だけの思い込み(=観念)で作り上げているだけのことで、自分だとしているのも対象であり「本来の私」ではありません。結局は、自分だとしている思いだけであって、知りえない分からない捉えられない何もないということかもしれません。

 

<16:01私たちは自然の構成要素であって、切り離された存在ではないとより強く認識するようにもなります。そして・・・意識の終わりが来ても恐れるべきことなんてー何もないのです。>

 

 二元対立がよくないのは、対立によって葛藤が起こり平安がかき乱されるからです。対象と認識してしてしまうと”なんとかしよう”という思いが起ってしまいます。そこに葛藤(=火)が生まれてしまいます。”なんとかしよう”というのは鎮火させるどころか、油を注ぐことになっているということだと見抜かなければならないのですが・・・。厄介なことに、葛藤(=火)を見にくる見物人を登場させることになります。

 鎮火するにはどうしたらいいでしょうか。燃焼は可燃物、酸素供給体、点火源のどれか一つを断てば燃焼は起こりません。例えば、可燃物(=自己・主体)、酸素供給体(=〜したい、理想)、点火源(=なんとかしよう)として観察してみてはどうでしょうか。

 

意識:自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き。

心:知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。

 

・スーパー感覚器官を持っていないので、限られた情報しか入力されません。

・限られた情報の中で固有の世界(=幻覚)を見ています。

・それぞれの生命体は異なる世界(=幻覚)の中で生きています。

・自分というのも、自分で構築した自分だけの思い込みの自分。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−32 [老子]

道常無名樸。雖小、天下莫能臣也。侯王若能守之、萬物將自賓。天地相合、以降甘露、民莫之令、而自均。始制有名。名亦既有、夫亦將知止。知止所以不殆。譬道之在天下、猶川谷之於江海。

 

樸:ありのまま、切り出したままの木

雖:たとえ…でも

莫:ない

臣:使える、従う

賓:みちびく、従う
甘露:天から与えられる甘い不老不死の霊薬

制:とりきめる、つくる

不殆:あやうからず、危険が迫ることはない

猶:まるで〜のようだ。

江海:大河、海

 

「道」とは名のつけようが無いあるがままである。

たとえささいなことでも、天下において「道」を使いこなすことができる者などいない。

もし王や諸侯が「道」を知り守れば、天下の万物は自ずから「道」のままに従うだろう。そして、天と地は統一され、甘露を享受できる。

 

始めに決めごとにより名がつけられ、その名にも根源が有り、その根源を知ることで知は止む。

 

知が止めば殆うからずという所以です。

天下に「道」があまねくあるということを譬えれば、まるで谷川の水が大河や海にそそぐようなものである。

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<他の翻訳例>

道は本来、名付けることもできない。

道は、言葉でとらえようがなく、本来、名付けることもできない。

道に従って生きる荒削りの木のような人は、

身分が低いとしても、これを従属させようとする者はいない。

 

候王が、このようなあり方を守りえたなら、

万物はまさに自ら帰順してくるであろう。

 

天地が調和して、すばらしい甘露をすべての命にもたらす。

民は命令されることなく、おのずから品行を正して秩序を生み出す。

 

名付けようのない神秘たる道を、

樹木の枝葉を切りそろえるように制すれば、

それは名付けの可能な道具となる。

ひとたび、名付けうる道具としたなら、

その作動の限界を知らねばならない。

限界を知っていれば、危険はない。

 

道の天下におけるそのありさまは、

小さな谷が大河や大海の源流となっているようなものであう。

老子の教えあるがままに生きる 安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

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 「道」は宇宙の道理(=働き)でありモノや概念として名をあてがう対象ではありません。赤子の時は「私」という観念がなく、見る者(=主体・私)と見られるモノ(=存在)には分かれていなかったはずです。ただ存在が映し出さてていてただ音が鳴り響いてた。ただ感覚があってただ何らかの感情が沸き起こっていたのではないでしょうか。個としての自分(=私)は認識されず開かれた全体がそのままに在っただけ。赤子は言語を持っていないので、存在に意味や価値を見出すことはできていません。意味や価値は人間社会で勝手に作り上げたものです。人間にとって意味や価値があったとしても、そのモノを使うことも持つこともできなければ意味や価値はありあせん。犬猫が車をもらっても、何の価値もありません。

 自動車やお金や貴金属や絵画・・・人間以外は必要としていません。また、未開の地で物々交換で成り立っている所では一万円札はただの紙でしかありません。人生に意味や価値を見出さしたり探し回っているとしたら、何でも無い人生を虚しいと捉えていることでしょうか。何かを掴むべきであり何かを得るべきなのが人生であると、何かを得れば幸せという安直な思考はどこから来るのでしょうか。誰もが他人の内心を知りえないとうことであり、見た目でしか判断できないという人間の即物的な価値判断が優先していることを象徴しています。

 誰もが同じモノやことに意味や価値を見出してはいません。最初から意味や価値は無かったということです。現代のように、強力な磁石を作るのにレアメタルに価値があるだけで以前はただの鉱物の一種です。有用であったプラスチックが厄介なモノにもなります。意味や価値は時代にもよるし、個人の趣味嗜好に委ねられているのであって、意味や価値が最初から存在にくっついているのではないということかもしれません。

 人間だけが達成すべき何かがあるとしていて、各自に割り当てられたその目的を見出して達成するという物語に酔いしれているかもしれません。誰一人として、生まれようとして生まれてきたわけではありません。人間であると分かった時から人間としての自覚が起こります。各個人に達成すべき目的や何者かに成るということが割り振られていたら大変なことです。生まれた時代や環境が設定された通りでなかったらどうするのでしょうか。カーレーサーという設定なのに江戸時代に漁師の家に生まれてしまった。裁判官という設定なのにAI裁判官で事足りる時代に生まれるかもしれません。

 あらゆる生命体は遺伝子によって決められていて、生まれたては空っぽ。生き残るために他の同種の生き物が食べない”笹”を食べたり、害のある”ユーカリ”を食べたりして生き残ろうとしてきたのでしょうか。動いて食べて排出して寝て子孫を残して死んでいくだけを繰り返しています。

 

 人間だけが「言語ゲーム」によって、意味や価値や目的を達成すべき何かを持っていると頑なに信じているのかもしれません。死の床にある人に、何を掴んだか何を得たか何を達成したかを問うても”Nothing”が正直な答えかもしれません。どの瞬間においていも、何も掴んでいないし何も得ていないということを見抜けばどうなるでしょうか。失うものなんて何もないということに気づくかもしれません。いや私はいろいろなものを所有し様々な繋がりがあると思っているかもしれません。会社組織では、誰かがいなくなっても他の誰かがやってくれます。ある人が死んで、世界が混乱に陥るということもありません。気象が激変するなどということもありません。

 今この瞬間に消え去ったとしても宇宙は何事もなく続いていきます。何も心配することはありません。一時的に周りに混乱が生じるかもしれませんがやがて平穏を取り戻します。

 ”心”・”悟り”・”涅槃”・”私”・”神”・・「言語ゲーム」の産物であって勝手に思い巡らせているだけで”雲”のようなもので掴むことも得ることもできません。  実体のない無常な”雲”を目的にする必要はありません。探し求める対象ではないので”迷う”ということもありません。意味や価値も極端に言えば人間が作り出した”幻想・妄想・幻覚”であった、自身で作ったもので自身が振り回されているだけかもしれません。”尻尾を追いかけている犬”

 

 「言語」は対象を知ろうとするための道具ですが、対象を事細かく分析して言葉を割り振っただけのものです。実体のない無常な対象に仮に命名した程度のものが「言語」です。この曖昧模糊な音と形だけの「言語」で問題を切り刻もうとしてできるでしょうか。空気玉のような概念でできた音と形で、何かを構築したり誰もが目に見える明晰な実体を作れるでしょうか。

 真実(=あるがまま)は五感で感受したままであり、誰もが直知しています。本当のところはこういうことですと「言語」で明らかに示すことのほうが優れているのでしょうか。存在が先で「言語」が後だという現実から乖離しています。          

 例えば、目の前の”水”を分析して、温度・密度・水質・硬度・含有物・・の説明で”水”が明晰になるのかサッパリ理解できません。眼の前の”水”が実物で、分析した結果の数値はただの数値であって数値を見て水を味わうことはできません。一口飲めば「言語」の説明は不要で簡単に明晰な実体を直知できます。

「言語」に意味や価値があるのではなく、存在に「言語」を割り振っただけです。存在に意味や価値が見出された後からその存在に付けられた「言語」が意味や価値を持ったということです。”善”も”悪”も音と形からなう「言語」としては優劣のない等価です。

 

 本当のことを「言語」で解き明かす学問があるそうですが、本当でしょうか。遠回りして、かえって現実から遠ざかっているかもしれません。存在には言葉などついていません。存在に言葉を付けて分かったように思い込んでいるのが実情です。例えば、ある国で”神”の概念も知らぬ子供に「カー」とは”神”と繋がる尊い音だよと教えたとします。願いを叶えてくれる魔法の言葉だと教えたとします。寝ても醒めても「カー」と唱え続けますが、カラスが寄ってくるか逃げるだけで、変な子供だと烙印を押されてしまいました。日本では、共通の認識によって”神”の概念を持っています。日本人が”kami”という音を出して何かが起これば素晴らしいことですが、ブラジル人が”kami”と発音して何かが起こるのでしょうか。もっと極端に言えばオウムが”kami”と発音して神々しいオウムになってくれればいいのですが・・・。

 

 宇宙の道理(=働き)を「道」と命名しただけのようです。「道」の何たるかを説明することができるでしょうか。動きをどうして動きのない一語で語りうることは不可能です。宇宙全体の働きを”Tao”という音や”道”という形で理解できるわけがありません。

 宇宙の働きそのものである我々が宇宙を使いこなすことは、一滴の水滴が大海を動かそうとすることかもしれません。その時代その環境で起っているあるがままに委ねることが宇宙と同期しているということ。「私心」を持ち出して、自らの見解で分別して白黒つけていれば大いに悩むことになります。楽は楽のままに苦は苦のままにあるだけなのですが、追いかけて得るべきものにしたり避けて逃げ回るものとすれば振り回され続けるのが目に見えています。痛みを感じなければ大変なことです、知らぬ間に致命傷となり助かるものも助かりません。苦しみを苦しみとして味わいつくすことは有益です。平常時がいかに救われていたのかを実感できます。何事もない平凡がすでに「それ」だったということに気づきます。180度を行ったり来たりしているメーターの針のように楽と苦を行き来していては平安をかき乱して一生を終えてしまいます。苦なら苦に成り切れば苦は苦でなくなります。比べる楽を持ち出すことで苦が倍増してしまいます。

 名づけは単なる決めごとであって、見たまま聞こえたままで既に了解しているはずです。”なんとかしよう”という思い(=分別)によって静寂を自らが壊していることを見抜かなければなりません。沈黙する他ありません。何が思い浮かんできても相手にしない。勝手に沸き起こってくる自分ではない思いを放っておくしかありません。

 

甘露:天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体。

・宇宙の働きに名はつけられるものではないが、ギリギリのところで「道」

・名は知りたいという欲求によって、存在に割り当てられた曖昧な音と形。

・働きを言葉で解き明かすことなどできないし、宇宙の働きを操ることなどできません。

・分別以前の無為なる自身を見抜いて欲しい。誰もがすでに「それ」。

・あるがままをあるがままにして見解を持ち込まなければ、知は止む。

・存在のほうが教えてくれる、直知があるのみ。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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「意識された現実」という幻覚 [TED]

TEDに『脳が「意識された現実」という幻覚を作り出す仕組み』というのがありました。

 

 今現在、生きている生命は絶滅を免れて生き残った最強な生命のようです。環境の変化に適応し、遺伝子が途絶えることなく繋がっています。生き続けたいという生命が生きているのですから、生まれた瞬間から死にたくない(=生き続けたい)ということのようです。”なぜ生きる・なぜ生きたい”と自問しますが、子孫を残し生きたいと願う生命だけが今ここに生きています。何としても生きていたい生命として生まれたのですから、”生きたい”という本能が引き継がれています。”何故生きなければ”・”何のために生きる”と問うても、答えは生命に宿っているこの事実が物語っています。

 

<01:14意識がなければ世界も自分も何も存在しない。>

 私たちは、”私が存在しなくても”世界は存在していると確信しているようです。毎日眠りから目覚め、周りを見回せば普段と変わらぬ世界があります。”世界はあり続けている”というふうに思い込む(=観念となる)のも無理はありません。しかし、認識主体が消え去ったらどうして存在があると分かり証明できるのでしょうか。”死”によって存在は無くなって(=存在を認める主体が消え去る)しまいます。存在は生命体の意識によって存在と認識されることによって存在と認められます。

 例えば、誰かに聞かされたブラジルの”サントスさん”は存在しているでしょうか。私たちが認識できなければ存在しているとは断定できません。もし、ブラジルの”サントスさん”が私たちを認識せずに死んだら、”サントスさん”にとって私たちは存在していたと言えるでしょうか。

 もっと身近なことで検証してみましょう。散歩している時にある家の玄関先に「忌中」と書いた札を見たとします。生前から面識もなくどんな人かも全く分かりません。見ている自分と、死んでしまった人のそれぞれに互いの存在はありません。一度も認識できなければただの思い込み(=幻覚)だと言われても否定できません。

 

<04:19頭蓋骨の中には光はありません音もありません。唯一利用できる電気的インパルスに頼らざるを得ないのですが、何であれ世界の事物とは間接的に関わっているにすぎません。ですから何がそこにあるかを知るという「知覚」は情報に基づく推測の過程にならざるを得ません>

 生命が存在・存続できるには、水とエネルギーと炭素・水素・酸素などの物質が欠かせません。生命はエネルギーを摂取するためにエネルギー源にいち早く近づき、また自身の身を危うくさせる事象から速やかに逃れなくてはなりません。神経系が未発達な生命体は、原始的な感覚で感知するしかありません。好環境に近づいたり危険から離れなくてはなりません。高度に進化できたのは、環境の変化に順応できる能力を獲得できたからかもしれません。生命の存続のためには、リスク(=リスクの推測)を分散しなくてはなりません。多様なエネルギー源からエネルギーを摂取する方が有利です。どんな食物でも消化する臓器とエネルギーを蓄える臓器が発達したと考えられます。ざまざまな感覚器官の中で、耳は陸上の空気があることで必要とされたのでしょうか。音を意味のある音として感知する機能は後から発達したのかもしれません。寝てても聴覚や臭覚は働いているようです。

 私たちは危険なモノに触れて手遅れになる前に、予め推測することが優れていると知っています。神経細胞の集積された脳の役割は、自ら神経細胞の数を増やすことだったかもしれません。それには多くのエネルギーが必要とされ、多くのエネルギー源からエネルギーを摂取しなければなりません。

 多様なモノから効率的(=熱で調理)にエネルギー摂取できたからこそ脳が発達したのかもしれません。

 

 存在は様々な刺激(=熱・音・光・温度・圧力・流れ・振動・・)に満ちあふれています。太陽・水・空気・有機物・・・の類まれな条件によって生命のバランスが保たれています。脳の進化によって神経細胞が増加することで明暗から白黒のモザイクさらにカラーの精細な画像として存在を認識できるようになっています。さらに3次元の画像や音がある世界として認識しています。

 脳は五感から入力される情報を最適な推測によって生命の維持に役立とうとしています。

 空気中を伝わるただの振動を意味のある言語として認識するように努めています。光を反射している電磁波を意味のある色や形として認識するように努めています。勝手に意味のある世界に変換しているのが脳の働きです。存在に意味があるのではなく、意味のある存在として感じなければいけない脳の働きがあるということなのでしょうか。脳にエネルギーの供給があり脳が働く限りは、存在に意味があるかのように推測しているということでしょうか。

 

<08:12実際には私たちは皆ずっと幻覚を見続けているんです。今ここでもです幻覚について一同が合意している時それを「現実」と呼ぶんです>

 プラナリアが接している世界、鷹が接している世界、ウサギが接している世界、70億の人が接している世界・・・。それぞれの個体が接している世界は一つであり、どんな個体が接していてもまったく同じ反応でしょうか。酷暑の砂漠で生きている個体が感じる太陽と酷寒の山で生きている個体が感じる太陽は同じでしょうか。雲も風も水も匂いも音も味も・・・それぞれの個体に依存して認識されているのではないでしょうか。同じ音楽(=音の振動)であっても心地よく癒やされる個体もあれば身の危険を感じる個体もあります。同じ個体であっても状況によって異なることもあります。存在も無常であり瞬間瞬間変化してその時限りの一期一会です。感受される情報も無常、感受しているモノも無常です。脳の推測も変化しています。

 個々に感受しているのが異なるということは世界は個体の数だけあるということになります。同じ世界ではないにもかかわらず同じとしているのは、個々の見ている世界が真の世界ではなく単に合意された”幻覚”ということ。  個々に認識している世界は個々の脳が推測した”個々の真の世界”です。(参照:一水四見)自身と異なる世界を”真の世界”だと主張している”世界”を真だと認められない限りは、自身以外の個体の推測している世界は”幻覚”となります。個々の個体が他の個体の推測している世界をそのままに知覚できない限り、他の個体が知覚している世界を”幻覚”と言っても何ら不都合はありません。自身の見ている世界と他人の見ている世界もだいたい同じだと社会的な合意によって「現実」ということにしているだけのことかもしれません。

 

意識:自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き。

心:知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー31 [老子]

夫兵者不祥之器、物或惡之、故有道者不處。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器。不得已而用之、恬惔爲上。勝而不美。而美之者、是樂殺人。夫樂殺人者、則不可以得志於天下矣。吉事尚左、凶事尚右。偏將軍居左、上將軍居右。言以喪禮處之。殺人之衆、以悲哀泣之、戰勝、以喪禮處之。

 

夫:そもそも
祥:めでたい

器:才能、使いみち
物:人々、大衆、民衆。
右・左:右を上とし、左を下とした。
恬淡:無欲

尚:とうとぶ、重んじる

偏将軍:副将軍

上將軍:総大将

 

 そもそも軍隊は不祥のモノであり、人々がいやがるモノです。「道」の有徳者は軍隊を拠り所としない。君子は左を尊いとするが、軍隊を拠り所とする人は右を尊いとする。軍隊は不祥のモノであり、君子は軍隊を使うものではない。軍隊をやむなく使っても、欲を出さずに切り上げる。軍隊を使って勝利しても称えられることではない。軍隊での勝利を称える者は、殺人を楽しんでいることになる。

 殺人を楽しんでいるような者が天下を得られることはない。うまくことが運ぶのは左(君子)を重んじる、ことがうまくいかないと右(軍)を重んじる。

 副将軍は左で、大将軍は右にいる。葬儀での作法の配置と言われている。戦いで多くの人命が奪われ、悲しみで泣いてしまう。勝利したとしても葬儀の場にいるのと同じことだ。

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 君主が軍隊を統率できなければ、実質的な統率者は大将軍となります。軍隊は人為的に作られ敵とみなせば破壊し殺戮する暴力的な組織だということは誰もが認めるところです。軍人は大将の命に背くことは出来ず命令を従わなければならないロボットのようなモノでなければなりません。

 統率ができなければ厄介な組織であり、めでたいものではないというのが古今東西で一致しているようです。軍隊によって治世するようでは人民を苦しめることになります。戦いによって弱い人が虐げられ、多くの軍人も死ぬことになります。耕地は荒れ果て働き手は軍に奪われ飢餓となります。

 戦国時代では誰もが君主の座を狙っていたと思われます。信じられるのは血の繋がった人というこのになります。近隣諸国との無益な戦いを防ぐために、婚姻によって繋がりを築いていたようです。

 今まで虐げられた人が権力を得ることになれば、倍返しとなり虐げてきた人たちを根絶やしにしたようです。プライドが高く自尊心を傷つけられたと思う人は、なんとかして仕返しをしたいと思い実行していたかもしれません。

 悔しい気持ちを晴らすことができな自身と向き合い苦しんでいたかもしれません。負けたくないという思いを晴らすために策略を練って時間を浪費していたかもしれません。

 

 いつの世でも人間関係に苦悩します。誰もが主導権をとって思いのとおりに物事を運びたいようです。誰もが幸せを掴もうとか得ようとかなりたいと思っています。幸せは掴めたり得たりなったりするものでしょうか?何かの感覚を掴んだり得たりなったりするのではないかもしれません。わだかまり・苦悩・混乱・錯乱・・から開放されて突き抜ける青空のように何にも束縛されていない自由に浸っているということではないでしょうか。熟睡時に何かに束縛されたり何かの感覚を掴んでいたりしているでしょうか。自身が何者でもなく、何かを得てもいないし何かを掴んでもいない、何もすることがない何もする必要もない・・とことん”無”に徹して”無”であることもわからない。それが「それ」であり、掴もうとしたり得ようとしたりすることではないようです。

 何もしなければすでに「それ」そのもの、誰もが熟睡で日々経験しているはずです。何もしないために、何か(=修行)をしているということです。何もしないために学んでいる、何もしないために経験している。何もしないために苦しんでいる。

 信じられないかもしれませんが、何もせずにボッーとしているのが最高の境地かもしれません。気をつけることは”思い”を追いかけてしまっては台無しになるということです。”思い”は起ってしまったので追いかけてしまっても自分を責めずに”なんとかしよう”とも思わないことです。”思い”は自分ではなく、思いは”なんとか”できません。見えてしまったものを見えてないことには出来ないと同じことです。見なければ良かった、知らなければ良かったと言っても後の祭りです。放っておいて、次にどんな思いがくるか見ていればいいだけのことです。

 

 今ここでは何かを見て何かを感じているだけなのに、どうでもいいことにエネルギーを使っているかもしれません。なんとかしたいという物語(=虚仮)で頭が一杯になっているのではないでしょうか。”負けるが勝ち”です。プライドでご飯が美味しくなるわけではありません。誰かに宣言する必要もないし、誰も自身の思いなど分かりません。自身の持っているプライドなど全部捨てて”バカになってみる”のもいいかもしれません。

 天才バカボンの”バカボン”は仏教では”薄伽梵(バキャボン、バカボン)”でお釈迦様という意味だそうです。”これでいいのだ”は悟りの境地で”あるがまま”そのままがすでに「それ」ということ。

 

 私たちは自身の物語でまわりを動かせるかのように思っているようです。結局は他人をどうにかしようと疲労困憊し、自身をおろそかにしています。自身の生活を楽しむどころか、他人に振り回されているということに気づきません。自身がコントロールしているようですが、実際は自身で自身を振り回して苦しんでいるだけです。些細なことを晴らすために無駄な時間と労力を使っていないでしょうか。愚かなのは他人ではなく自身だったということのようです。ただの”思い”に振り回されず、気にかけずに放っておけば消えるということです。

 

 世界が”思いの通り”になったら大変なことです。幸いにも”思いの通り”にならないのがこの世です。存在は”言葉=思い”からできてはいません。存在が先にあって、次に”言葉=思い”があるのです。”言葉=思い”が先にあって、次に存在があるのではありません。有り難いことに、椅子に坐っていて”浮き上がれ”と思っても身体が浮き上がることはありません。恨みが現実になったら・・・恐ろしいことになります。

 私たちは、順番を間違って理解しているかもしれません。味わった後に味が分かりますが、味を感じてこれこれの味だと判断しています。判断によって味が分かったかのように感じています。

 白い物質を舐めて味覚細胞から脳に電気信号が伝わり、もうここで感受して終わっています。しかし、自動的に記憶と照合されて”しょっぱい”という言葉と一致して”塩”と断定します。そこで”塩”と呼ばれる物質がここに存在しているとなります。そうではなく、何でも無い白い”存在”を”塩”という言葉と認定したということです。

 ”塩”があるのではなく、そこにあるものを”塩”と言葉に変換しているということです。

 ”言葉”が先にあるかぎり、存在のなんたるかを”言葉”で理解しようとしてしまいます。”私”という言葉が先にあることで、”言葉”で”私”を分かろうとします。”言葉”は便宜上のものであってそのものではありません。”平和”という言葉は”平和”でもなんでもなく、本当はたんなる音と形でしかありません。

 

 存在は一様であり何らかの意味も価値もないただ存在としてありました。何らかの意味も価値も無いからどうにでも意味や価値を付与できます。何でも無い(=予め意味や価値づけされていない)ものです。ただの光の波長によって色があり、音の振動や硬さや質量や温度や・・存在には様々な性質があるだけです。

 存在は、個々人によって瞬時に言葉に変換されてしまいます。何でも無い存在が、見る人の分別によって何らかの意味や価値のある存在となってしまいます。あるがままの存在が瞬時に言葉に変換されて、言葉が貼り付いている存在だとされます。この勘違いから脱しないかぎり意味や価値に振り回されます。一切の存在は区別・差別のない万物斉同(=等価)なのですが・・・・。私たちは思い以前のあるがままを感受していますが、どうしても思い(=気づき)が意識されます。どうしても思いが先にあって存在があるという循環から抜け出せません。何もしないを体験してはどうでしょうか。

 

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テセウスの船 [気づき]

「「私は誰?」と哲学的に問う」という題目がTEDにありました。”同一性”のパラドックスを問うお題です。またウィキペディア「テセウスの船」も参考になります。

 前にも記述しましたが、認識する人によって存在は存在として認められます。存在が先にありその存在の”名”は後づけです。”名”が先にあり存在が生ずるわけではありません。

 また私達の「言語ゲーム」「思索ゲーム」では、言語をイメージ化したりイメージを言語に変換しています。思索は自身が映画の中の主人公となって考えていることと同じかもしれません。映画の中で何かを得たり掴んだり、何者かになったとしても現実に何かを得たり掴んだり変身したりはしません。

 映画の中(=思索)で主人公が納得したことと現実はリンクしていません。思索は今ここの実相ではありません。実相とはいま眼前にあるありのままの姿・有様です。あるがままを「私=社会的な自己」で分別している限りは、虚妄・虚仮(=真実でないこと)かもしれません。聖徳太子の言葉に「世間虚仮、唯仏是真」とあります。分別以前の「本来の自己」があるがままをそのままに見れば、真実・事実の世界を見ています。誰もが、ただありのままを認識しているだけなら「本来の自己」のままに見聞覚知していると言えます。固定観念のフィルターを通して分別することによって虚妄・虚仮としています。家具や置物を見ても何も感じず分別が起こらなければ「本来の自己」として見ているということかもしれません。既に「それ」が働いていて「それ」として生きています。ただ、あれころ考えることで「私=社会的な自己・自我」の働きが「本来の自己」ではないとしているだけかもしれません。

 見えたままなのに瞬時に”美醜”・”善悪”・”好き嫌い”・・・として悩みます。赤子であればあらゆるモノは何でも無いモノであり、見えたままでしかないのですが・・・・。

 

 「テセウスの船」はギリシアの伝説の船であり、当時実在していたかも定かではありません。この”テセウスのパラドックス”の考察も単なる思索であって、実相でない「思索ゲーム」であって虚妄・虚仮だという前提で検討する必要があります。つまり考えている過程も結果も映画の中での出来事と変わりません。実相と乖離した「知的ゲーム」で知的満足を得ようとするだけのことかもしれません。

 ”テセウスのパラドックス”を考察すると「私は誰?」という問題を解決する糸口を見つけられるかのような問いかけです。誰も「私は誰?」に答えを出せません。「思索ゲーム」の堂々巡りをしているのでしょうか。

 一切は、常に変化していると認めておきながら同じ「あなた」と言っています。哲学は言語によって解き明かす学問ですが、存在の後に発明されたものが存在を解き明かすことができるでしょうか。

 知られる一切は客体であって主体が主体を知ることは出来ません。光源(=主体)からの光が当たることで客体(=対象)を見る(=知る)ことができます。光源(=主体)が光源を照らす事ができるでしょうか。手(=主体)で触れられるものは客体(=対象)として認識できますが、右手で右手を掴むことができるでしょうか。主体は客体になることはできません。知るも者(=主体)そのものを知る(=客体化する)ことはできません。「私は誰?」と自らに問うて出た答えはすべて対象とされたもので「私」そのものではないということです。

 

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「テセウスの船」概略:功績を残すためにテセウスの船を残すことになりました。部品が傷んだため全てが交換された船と、傷んだ船で作られた船の二つが存在することになりました。

疑問1:「確実に言える1つの困難は アイデンティティの持続性という 複雑な概念になります。どの瞬間の「私」が本物なのか。この船はこの間 どの時点においても ”テセウスの船”だったと考える人もいるでしょう。

 

 名前が先にあって存在があるのではありません。存在に適当な概念を持ち込んで勝手な名前を後づけしています。「レクサス」という一つの名前がありますが何万台もの「レクサス」が存在しています。一即多です。月を見ていますが各人の内に異なる月として存在しています。人の数だけ月がありますが月は一つであるとされています。多即一。

 当時は多くの材木で組み立てられ、人を乗せて海を移動する物体を”船”と名づけられています。テセウスの功績を残すために”テセウスの船”と呼ばれるようになっただけのことのようです。”テセウスの船”という呼称が一つで変わらないから、”テセウスの船”という存在も一つであるという論法のようです。名が先で存在は名に従うべきだということでしょうか。

 「私」を構成しているアイデンティティは一時的なものであり永続するようなものではありません。

 存在も事象も縷々転変してどどまることがない無常なモノです。無常である存在を変わらない呼称で呼び続けること自体が勘違いかもしれません・・・。傷んで修理した時には”◯年◯月◯日◯時◯分◯秒に修理を終えたテセウスの船”と呼べばいいし。ある時点では、”◯回修理し、建造から◯年◯月◯日を経たテセウスの船”と呼べばいいだけなのですが・・・。

 持続している存在のある瞬間を本物と定義したら、特定した以外の瞬間は全部偽物ということになります。言葉は排他的であり一方を是とすればそれ以外を否定する特性を持っています。特定された以外のどの瞬間も本物の”テセウスの船”でなく変化変容している偽物の”テセウスの船”となってしまいます。また、見ている人の数だけ異なる”テセウスの船”があります。呼び名は同じでも抱いているイメージは百人百様です。

 呼び名が同じで変わらない(=変えない)だけであって、存在自体が変化変容し、見ている人の思いも変化変容しています。”テセウスの船”と呼称するのは、社会的な合意であって実体である”テセウスの船”は当初の”テセウスの船”とは別物です。

 呼称の継続性を維持しなければコミュニケーションを揺るがすことになり混乱をもたらすということが知られています。ただ混乱したくないので呼称を維持しているだけではないでしょうか。呼称に従属して生活を送っているのが、私達の実情であり、真に無常の世界を見ていないことを物語っています。実相ではなく、言葉に振り回されていて言葉の正当性を証明しようと躍起になっている。現実は証明を必要としません。マヤカシであるからこそ証明しようとしますが、矛盾が出てきてしまいます。時間や場所の概念を付加した表現にすればよいのですが・・・。”◯年◯月◯日◯時◯分◯秒の◯◯”という面倒な表現になるので、しないだけかもしれません。

 

疑問2:本物は一つだけで、どちらかが本物のはず?

 本物は一つであり二つはない「不二」。仏教でいう「不二」は、対立していて二元的に見える事柄も、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるということです。一つのコインのどちらかを表とすれば自ずと反対側が裏となりますが、どちらが表でも裏でもなく勝手に定義しているにすぎないということ。二つの国がお互いに自国が正義だとしてして非難しあっています。戦争の勝者は正義が勝利したとしていますが、本当でしょうか。正義なので天が味方(=神のご加護)して勝ったのか、勝ったから正義だと言えるのでしょうか。

 本物が一つであれば、ある特定の一台の「レクサス」が本物であれば他の「レクサス」は偽物(=イミテーション・レプリカ)ということになります。ある製品の1作目だけが本物とすれば、それ以降はすべて偽物ということになります。「ロレックス」のあるモデルの1作目を本物とすれば、それ以外は偽物となります。その偽物を世界中で高価な価格をつけて買っているということになります。 本物は希少なので、この世は偽物であふれかえっていることになります。

 人間も過去のある時点でどこかの地点に本物の”人間”がいれば、私達はその本物の”人間”からコピーされた偽物だということになります。

 新しい”テセウスの船”をまたたく間に分解し新しい材料で作り上げ、さらにまたたく間に分解し新しい材料で作り上げ・・・あっという間に1000隻を作り上げたとします。どれが”テセウスの船”でしょうか。我々もまたたく間にコピーされて70億になっています。本物の「私」と言っていいのは一人だけなのでしょうか。

 自身の時系列において1歳の誕生日を本物「私」もとすれば、それ以外は偽物となります。今生きているのは偽物の「私」ということになりますが・・・。

 宇宙もビックバン時点が本当の”宇宙”とすれば今は偽物の”宇宙”ということになります。そうではなく宇宙が生まれた瞬間から本当の”宇宙”であり、どんなに変化して変わり、原初の宇宙と全く異なっていたとしても本当の”宇宙”といいはるのなら、偽物の”宇宙”は存在しないことになります。ビックバン時点の宇宙と今の宇宙が同一であるでしょうか。偽物の宇宙が存在しなければ本物の宇宙と言う必要はありません。宇宙は本物でも偽物でもない。「私」も本物でも偽物でもない。人間も本物でも偽物でもない。実相は言葉で表現できないのでしょうか。

 限りない存在の中で原初のモノだけが本物だと決めてしまえば、原初の本物はこの世にはほとんど存在していません。「スーパードライ」の1本目の缶ビールはどこにもありません。この世のほとんどがイミテーション・レプリカということになります。

 動物は大柄・強い・狡猾・逃げ足が速い等々が生き、反対であれば直ぐに死んでしまい遺伝子を渡すことができません。歴史を遡り君主となってきた人は、自尊心も気高くもなく自己正当化せず誠実で正直で優しくて慈悲深く狡猾でない人なのでしょうか。生存競争を勝ち抜いてきて生き残っている我々はどういう能力を備えているのでしょうか。

 

疑問3:あなたは常に変化し続ける 部品の寄せ集めです 物理的な身体 精神 感情 環境 そして癖まで それらは常に変化していますが 驚くことに そして不合理なことに それでもあなたは いつも同じあなたなんです 。

 

 普段「私は私である」と思いながら生きているでしょうか。知り合いや会社関係者の何人かだけが自身のアイデンティティの一部を認識しているだけです。「私」であることを証明しなければならないときや、振り返って思うときにだけ「私」を持ち出しているにすぎません。普段は「私」なしにいきています。

 本当にいつも同じ「私」なのでしょうか、それともただいくつかのアイデンティティがある「私」だとして生きているのでしょうか。社会制度上のアイデンティティを頼りにして、単なる表象・呼称の「私」がいるだけかもいしれません。

 3歳でも「私」15歳でも「私」80歳でも「私」、誰も彼もいつでもどこでも「私」は「私」だと主張します。りんご・たまねぎ・車・人間・・・なんでも”1”と定義できます。全てが”1”で定義可能といういうことは、ある特定のものを”1”とすればそれ以外は”1”ではないことになります。あるものを特定すればそれ以外は排他されます。すべてが”1”と定義できるということは、”1”とされる以前は何でも無かったということです。あらゆる存在は、定義以前は何でも無いということです。

 「私」と認識する瞬間以前は「私」と知らずに行動しています。何でも無い(=無我無心)でいたということかもしれません。自らを振り返り「私」という思いが出てくる以前は「私」でも何でも無かったということになります。振り返っても自身を証明できなかったらどうなるでしょうか。見知らぬ諸外国に行って記憶とパスポートを喪失したら一体誰なのでしょうか?「私」は「私」だと思っているその思いが「私」としているだけではないでしょうか。

 思うことに「私」らしい何かはありません。見知らぬ人がどんな思いを巡らせようが、思いを見ることはできません。有名人でない限り、見知らぬところで、思いを巡らせていたとしても”あなたは◯◯さん”ですかと特定されることはありません。思いは思いであって自身を特定するものではありません。

「我思う」それが他者への「私」の存在証明にはなりません。もし、アイデンティティを認識されなければ「私」は誰なのでしょうか。

 

・ある時点を本物とすれば、それ以外は偽物となります。

・どの瞬間も本物であれば、偽物はありません。

 0歳と90歳の「私」は同一の本物でしょうか。

・本物も偽物もただの定義であり、本物も偽物もない。過去はすでに消え去ってどこにもないし、未来もどこにもありません。

・世間はただ消え去る虚妄・虚仮。

・呼称に存在を合わせるのでしょうか、存在に呼称をあわせるのでしょうか。

 ・存在に言葉が従います。言葉に存在が従ったら大変なことです。

 ”空中浮揚”という思いに存在が従うでしょうか。

 

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老子−30 [老子]

以道佐人主者、不以兵強天下。其事好還。師之所處、荊棘生焉、大軍之後、必有凶年。善者果而已。不以取強。果而勿矜、果而勿伐、果而勿驕、果而不得已。是謂果而勿強。物壯則老。是謂不道、不道早已。

 

「道Tao」によって君主を補佐する者は、武力に頼って天下(=国)を治めない。武力に頼ればいずれその報いを受けることいなる。
軍隊(数千人規模)が駐留すれば土地は荒れ野となる。

大きな戦いの後には国土は荒れ凶作になる。

※別の解釈:大きな軍隊(数十万〜)を維持することになれば、若い働き手は徴兵され作物のつくり手が減るが、消費する人が多くなり飢饉となる。消費>生産※

優れた者は目的を達成してからさらに武力に頼ることなく。
結果を出しても尊大にならず、自慢せず、驕らず、避けることができずに戦っただけである。

目的を達したら無理なことはしない。
物事が盛んであれば衰退するものだ。
この様な(=自尊・驕り)ことは「道」をわきまえない行為であり「不道」と謂う。
この様な(=自尊・驕り)ことは「不道」であり、長くは続かない。

師:軍隊

荊棘:あれた地

矜:ほこる

伐:うつ

驕:おごる

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<他の翻訳例>

道理に従って君主を補佐する者は、兵力を用いないで、天下に強勢を張ろうとするので、その政事はうまくまわる。

その国の軍隊は、守備一辺倒となるため、基地の周辺にバリケードのための茨が植えられる。

優れた者が考えることは、成果を挙げることだけである。

戦場での殺傷によらないで、強勢を張る。

成果を挙げても傲慢にならない。

成果を挙げても誇示しない。

成果を挙げても自己顕示しない。

成果を挙げて仕事が終わったというのに、

必要もなく長居してはならない。

これを『成果を挙げても、強者にならない』という。

物は盛んであれば老いる。これを道にかなわない、という。

道にかなわなければ、すぐに行き詰まってしまう。

老子の教えあるがままに生きる 安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

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 武力を増大すれば行使したくなり、刀を持てば切りたくなり、弓を持てば射たくなり、車があれば乗りたくなり、身体を鍛えれば見せたくなり、知識があれば自慢したくなり、高価なモノを持てば見せたくなり、人より優れたところがあれば誇示したり行使したくなる・・・・優れたところを見せたり誇ったり、優れたところを見たり称えるのも人間だけができる特筆すべき点かもしれません。

 宇宙から俯瞰すれば、人間はいったい何のために自らを誇り他を辱めているのかと不思議に思うかもしれません。

 武力を増強すればその武力を維持しなければなりません。そのために他国を侵略しなければならなくなります。昔の君主は自己の権勢欲のままに侵略に明け暮れていたのでしょうか。戦争によって潤うのは限られた少数の人だけであり、ほとんどの人が悲惨な生活をしいられます。戦争とは、理性や人間的な思考の通じない本能レベルの感情に振り回されているとしか思えません。

 個人でも国でも自己正当化(=固定観念)によって対立が生み出すされています。物事はただ過ぎ去り変化しているだけなのに、自らの観念を固辞しようとします。ただの思い出あり消え去るものです。自らの正当性を固辞しなければいいだけなのですが・・・。

 どうしても”自分かわいい”が主役となり自己正当化してしまいます。自己正当化は”苦”を生み出す源泉です。観念とは自らを守っているようで実は自らを苦しめることになっているかもしれません。”我が身(=自分)かわいい”は結局自らを苦しめ他を苦しめることになっているかもしれません。

 人為(=個のはからい)以前に大道(=無為自然)が働いています。”自分かわいい”の人為による自己正当化は、流れに逆らって泳ぐようなことであり苦しみや報いは自らにかえってくることになるのでしょうか。

 

 戦国時代にあっては、若い人は戦争に駆り出され農地は荒れ、人は家を失い多くの人が犠牲となります。今まで一切の面識がなく、好きでも嫌いでもなかったのです。ただ国境を挟んで平穏に暮らしていたかもしれません。僅かな人の権勢欲に振り回され”愛国心”というわけのわからぬ論理を押し付けられ従わされることになります。境界線を隔てただけで無慈悲にも敵となってしまいます。他国の人命は消し去るべき”敵”となります。戦争が終結するには徹底的に痛めつけられ、戦意喪失するまでにならないと終わることがないようです。

 

 戦国時代であっても、自国民の安全と生活の安定が一番であるべきです。自国民を守る最低限の軍備に満足すべきであり、強大な軍備を持たないことが人民のためになるとの進言かもしれません。強大な軍備は禍を招くことになります。

 戦争は理性というブレーキが効かず、人間の欲望をさらけ出してしまうのでしょうか。動物は必要以上の狩はしません。人は必要以上に虐げます。これほどまでに残虐なことが平気でできるとは驚くべきことですが・・・・。戦国時代を目の当たりにしていた人は、辟易していたかもしれません。軍隊は有益ではなく、度を超すと害をもたらす組織だと肌で感じていたかもしれません。

 

 当時は、神と通じることができるのは特別な人(=神官・道師・司祭・・)であり王だけが願い事ができたのでしょうか。一般庶民が願い事をするなど許されません。神とのパイプは一本だけで、他の者が神とのパイプを持つことは王を侮辱することになります。高貴でない者の願い事など聞く耳をもたない神であると考えられたのでしょうか。時を経てることで神が変わったのか神がこうあってほしいと人間の考えが変わったのか定かではありません。社会制度の変遷によって、庶民の願い事を聞いてくれる寛容な神へと次第に変容したのでしょうか。

 

 争いは絶えることがありません。イデオロギー・宗教・信念・個人的な固定観念・好き嫌い・主義主張・社会制度への反発・上司と部下・先輩後輩・同僚・道路での優先・スピード競争・乗車マナー・接客・医療での患者と医療従事者・近隣住人・納税者と公務員・・・・。自身の思いと他との思いが食い違いどちらかが自らを正当化して譲らないことで争いとなります。自らも現状(=あるがまま)を是としない限り葛藤がおさまることはありません。

 世界中の至るところで争いが繰り広げられています。争いのない場所や時間を探し出すほうが不可能なくらいです。せめて”あるがまま”にケチをつけて争いうことのないようにしたいものです。自身の内で争わない状態(=涅槃)を実現したいものです。

 自らの内に争いごとがある人がどうして国内の争いごとを鎮めることができるでしょうか。何千年を経てもヒトの性根が根本的に変わることはないようです。教育環境や社会環境や生活環境・・・等が改善されても問題が尽きることはありません。問題解決能力を鍛えたりAIを使ったとしても問題が無くなるわけではありません。問題とする本体(=自我・〜でありたい)が不在であると見抜くことで問題とする意味を考えてみるのもいいかもしれません。

 何もしていない時(=坐禅)に、本当に何もしていない(=思いを相手にしない)ことを体験してみる。

 

・自己正当化が葛藤を作り、自らも他を苦しめている。

・”あるがまま”に対して”こうあるべきだ・なんとかしよう”として放っておけない。

・勝手に沸き起こっている思いを取り扱い続けている。思いは自分のものでしょうか。

・結果はそうならざる事をしてついてくることです。

・自尊心(=プライド)を持ち驕り高ぶれば、自らが苦しみ他を苦しめることになります。功績など忘れて日々淡々と過ごしている方がいいかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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己身 [阿含経]

南伝 相応部経部38-15  阿含経典三巻P108 増谷文雄著 筑摩書房

「友よ、これらの五つの人間を構成する要素が、世尊によって己身と称されるのである。すなわち、色(肉体)という構成要素、受(感覚)という構成要素、想(表象)という構成要素、行(意志)という構成要素、そして、識(意識)という構成要素がそれである。友よ、これらの五つの構成要素が、世尊によって己身と称せられるのである。」

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 人間として生きていることを実感できているのは、”五蘊=色・受・想・行・識”という構成要素が働いているからに他ありません。五感が勝手に感受し、意も勝手に働いています。”私”というものがあって働かせているのではないようです。あらゆる存在があるのは、存在を認識できている私達がいるからです。私達の認識がなければ存在は存在とはなりません。

 私達がいなくても存在はあり、これからもあり続けるというのは単なる思い込んでいる(=観念)かもしれません。もし認識する自身(=主体)が死んだら、存在(=客体)をどうやって確かめることができるのでしょうか。存在があって後から我々が認識することで存在を確証しているのではなく、我々が先にあって存在を直に認識してこそ存在があります。自身の直知の認識のない存在は、頭の中にある記憶や教え込まれた憶測の存在ということになります。

 ”アメリカ大陸”は、アメリカ大陸が発見され”アメリカ大陸”と命名されたことで広く周知されています。実際にアメリカ大陸の地に足をついてアメリカ大陸を実感した人だけが”アメリカ大陸”の存在を自知できています。自知している人以外は、極端に言えば知識によって”アメリカ大陸”の存在を信じているだけかもしれません。”エベレスト”もあると信じているだけというのが事実ではないでしょうか。何度も写真や動画や知識に刷り込まれると”在る”ということを疑わなくなります。”私”はなんだか知らないのに、だれもが使っている言葉として刷り込まれているので使っているだけのことかもしれません。

 

 ”海”という言葉も聞いたこともなく、”海”の情景も見たことのない人には、”海”は頭の中でもイメージできないので存在していません。人間は、言語を使ってイメージできるという点が他の動物と大きく異なるところです。嘘を何回も言い続ければ真実として信じ込んでしまいます。ヒトラーが証明しました。動物に信じ込ませようとしてもイメージできないので条件反射(=パブロフの犬)によって獲得させる他ありません。

 頭の中で描いているイメージは存在しているだろうという絵空事かもしれません。私達が直下に自知したものだけが確かな存在であり、それ以外は多分存在しているかもしれないという曖昧なものを扱ったいるのではないでしょうか。イメージとして残っているのは、体験した人だけが味わえたその時の”存在”ということになります。この世は無常なので、イメージも都度書き換えなければなりません。数年ぶりに再会した人のイメージは自動的に書き替えているようです。”ユートピア”・”神の国”・”地獄”・・すべて自知できなければ絵空事のイメージだけということになります。

 今この文章をキーボートから入力している人が、どんな身なりでどんな家でどんなパソコンで・・・すべて絵空事であって存在を確認することはできません。つまり本人以外は入力している人の存在を認識できません。入力者の存在は憶測でしかないということです。どう頑張っても、ブログが更新されたので生きていると推測するのが精一杯です。代筆者かもしれませが確証は決して得られません。認識者の認識によって存在があります。

 

 次に名前があるから存在があるという思い込み(=観念)からなかなか抜け出せません。名前によって存在をイメージできるので、名前があれば存在があるかのように思います。事実は、存在が先にあって名前が後です。存在には予めレッテルが貼ってあるわけではなく、人間が好き勝手に命名しているだけのことです。名前を聞いて存在していると思うのは自身の頭のイメージの存在を固く信じている証拠かもしれません。”梅干し”をイメージしただけで唾液がでてくるかもしれません。”梅干し”を知らない外国人が日本人と同じ身体的な反応は起こりません。

 存在があって名がある。この順番が逆になっているので思い違いを見抜くことが難しくなっています。”富士山”という名前を知る前から”富士山”を見ていた人(=例えば静岡・山梨県民)は”あの山が富士山と呼ばれているのか”という感想があるかもしれません。写真や学校で教わり、名前が先で実物の”富士山”が後の人は”富士山と言われていたのがあの山か”という感想かもしれません。名前のイメージが頭に構築されていて、実物よりイメージが先行しています。

 実物を先に認識していた人と、名前が先でイメージが出来上がっている人とは大きく異なります。

 実物(=存在)があるがままにあって名は後からつけられたものです。教育は実物を見ないままに名を覚えてから実物のイメージを構築しています。いかに多くの名前を覚え(=知識)ることが優先されます。

 頭の中でイメージを作り上げ、イメージを操作する能力を訓練することなります。現物を見ないで議論できるようになります。現実からかけ離れた映画やアニメもなんの違和感なく受け入れられます。マントをつけて空を飛んだり、手首から糸を出したり・・・。子供の頃は真似をして楽しんでいましたが・・。

 きっと頭で考えれば現実になるという癖がついているかもしれません。現実は頭で掴むこともできないし得ることも出来ません。真言を何億回唱えることで何者に成ることなどありえません。

 存在を存在のままに見れるか、名(=意味や価値も付随している)で存在を見てしまうかの分かれ目です。アイデンティティなしで見ることできるか、アイデンティティで人を見るか。

 

 ”地獄”という言葉や概念を聞いたこともない赤子に”地獄”が存在するでしょうか。先輩方の勝手な押し付けによって余計なイメージが植え付けられて育ってはいないでしょうか。自らが自知したことでなく、自身(=先輩)が脅された絵空事で自身の子供を脅して言うことを聞かせるために利用していないでしょうか。

 人間はこの絵空事を創造(=イメージ)できるので、文化的な生活が送れるようになっていることも確かです。イメージ力は、役に立つことに使えばいいのですが下手をするとイメージに弄ばれて一生を過ごすことになるかもしれません。必要なときに使えばいいツールですが、現実を顧みず現実の生活を犠牲にしてまで”ユートピア”を目指すのは行き過ぎかもしれません。

 

 今ここで自知できている以外の存在は、多分存在しているだろという憶測であり思い込みかもしれません。鏡の前に”私”がいるというのも憶測であって思い込みです。何かが映し出されている鏡の像があるという事実しかありません。見ている”私”がいると思っていはいないでしょうか。その思いがただの思い込みであって観念です。観念でなく、見ている”私”を誰かが直視しているのなら、「見ている”私”」は見られているので”私”なのでしょうか。

 鏡(=対象)を見ている本体を見ることができれば、”見ている本体”は本体ではなく見られる対象なので”本体”ではありません。本体が本体を見ることはできません。顕微鏡で”ゾウリムシ”を観察している自分を見ることはできません。”ゾウリムシ”と”観察している自分”がダブって見えたら大変なことです。 

 デカルトは「疑いようのない真実」を探求し、「全てを疑っている私の自意識は確かに存在している」それが「我思う、ゆえに我あり」だと言われています。認識している何かを”私”として、その”私”が”思っている”ことによって”私”という存在があるということのようです。”私”を認識しているということは”私”は対象であり、真の”私”ではないことになります。”私”は”私”を知ることはできません。知るべき本体(=主体)がどうして知られる客体(=対象)となりえるのでしょうか。

 思ったときだけ我という感覚があるということは否めません。振り返って思わなければ我という自意識が続いているでしょうか?熟睡時に自意識が働いていて呼びかけに答えるということはありません。”私”という自意識は働きであり、ある出来事(=イベント)がトリガーとなって働くのであって、四六時中働いているわけではないようです。歩行や食事や会話は無意識でできています。右足の筋肉の特定の部位を使い、踵をおおよそ何センチあげて足首を返してどれくらいのスピードでどこで着地してどれくらいの力で地面を押す・・・そんなこと頭で一々命令していたら歩くことはままなりません。ほとんどのことが訓練されて無意識下でできています。

 自意識でやっていることの方がはるかに少ないのではないでしょうか。出来ないので自意識が”なんとかしよう”とするので、その意識が”私”として主役のように思えるかもしれません。

 

概念:物事を言葉で定義して共通の認識

観念:人それぞれの経験や文化や家庭や環境によって抱く個人的な思い

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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