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「意識された現実」という幻覚ー2 [TED]

意識された現実」という幻覚

<前半の概略>

 意識が失われたら何も存在しない。脳が音を聞いたり光を見たりしている訳ではありません。自分の身の周りの世界とその中にいる自分という意識経験は、ある意味制御された幻覚。意識の性質を脳や身体の内部で起きていることから説明していけば謎は消滅していくはずです。身の周りの世界という経験と予測エンジンとしての脳。私たちが知覚するのは世界で起きていることに関する最善の推測です。

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 脳(=神経細胞の集合体)によって意識のようなものが現実という幻覚を作り出しているのでしょうか。それとも、宇宙そのものが意識であって生命体が感受したものを見せているのでしょうか。そんなことが分かったとして、平安と知識の量の相関関係はないようですが・・・。分からないでいいということを見抜けるか。いつまでも尻尾を追い回す犬は頑張り屋でしょうか。


 「真実の世界」とはフルレンジの世界を言っているのでしょうか。全ての電磁波の周波数帯、全ての波長(=低周波から超音波)の振動、全ての匂い、全ての味、絶対零度から超高温まで、湿度・硬度・圧力・・・知りうる限りの宇宙の実相。

 地球での個々の生命体は「真実の世界」からの刺激を各個体の有する感覚器官で感受しています。感覚器官の精度の範囲内でしか知覚できません。感覚器官の限られた精度でしか理解できないので、制御された幻覚というのでしょうか。

 紫外線まで感受できる蝶や鳥の見えている世界、暗闇の中で猫に見えている世界、コウモリが飛んでいる世界、犬が嗅ぎ分けている世界、海洋生物の世界・・・。フルレンジの「真実の世界」が削ぎ落とされた限られた幻覚の世界かもしれません。モザイクの世界、白黒の世界、色彩の世界、音のない世界、超音波の世界、感覚だけの世界、圧力の世界、味のない世界、匂いの世界、無臭の世界・・・・。

 各個体が感受している制御された幻覚の世界で生きています。各個体が限られた感覚器官の能力を最大限に使っているのでしょうか。情報(=刺激)を補って意味のある音や形として処理したり、不要な音や形は認識しない。脳は効率的に生命を維持するために制御・調整して使われているようです。

 個々の生命体は、自身の幻覚の世界(=感覚器官にもたらされる情報(=刺激)を頼りに)の中で必死に生きていると言わざるを得ません。

 個々の感受器官の性能によって、部分的な情報しか感受できないので”群盲象を評す”と同じように存在の「真実の世界」は決して見ることはできません。フルレンジの「真実の世界」ではなく、限られた世界で判断行動しているとの認識が必要です。今見て感じていいる世界は全てではないということ。

 

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<ゴムの手の錯覚>

<09:35つまり統一体としての自分であるということの基本的な背景となる経験は、脳による結構もろい構築物であり、他のものと同じように説明を要する経験なのです。>

<11:06何が自分の身体かという経験すら一種の最善の推測に過ぎず脳による一種の制御された幻覚なんです。>

 

 自らの意志と連動して動く物質を統一体(=身体)としています。身体が自分であるという経験があります。身体は認識される対象であり、知る主体である「本来の私」ではありません。知りうるモノ(=対象=身体)は主体ではありえません。光が当たる部分(=客体・対象・見られるモノ)は光源(=主体・本体・見る者)ではありません。「本来の私」を指し示すことはできませんが、辞書や社会生活で使われている「私」は共通認識としてのただの表象です。社会生活を送る上でアイデンティティを「私」として表現しておけば通じあえるだけの意味合いで使われているだけかもしれません。「自己紹介」お願いしますと言われても、年齢や出身地や趣味やその他の経験でしかありません。ただ表面上の属性でしかありません。一切は無常であり変化しては消え去っています。捉えたそばから変化変容してい固定された何かとして存在できません。「◯年◯月◯日◯時◯分◯秒時点での◯◯」としてあった変化し続ける何かです。捉えられない得られない実体のない何かでいいじゃないですか。尻尾を追いかけるのを止めれば何の障りもなのですが・・・。

 

 私の身体であり意志によって制御されている限りは制御対象です。身体(=対象)は「本来の私」そのものではありません。「偽物の手」でも手として視覚に入り、刺激と連動していれば自分の手のように感じる実験です。

 脳梗塞の療法で、動かない手の方に鏡を置いて”鏡に映し出された手”と勘違いさせて動かしていくと動くようになるようです。ピアノやギターも上手に弾いている人の手の動きを何度も見ることで弾けるようになるかもしれません。自分の手と勘違いするほど見続けるとどうなるでしょうか。

 子供はサッカー選手や野球選手などのプロの動きを見るだけで上達するようです。見ることによって手足の動きを頭の中で自分の手足として再現しているかもしれません。弓道では”看取り稽古”があり、重要な稽古と位置づけられています。達人の技を記憶して、自己が稽古したかのように再現しようとするものです。

 歯に麻酔が効いて、感覚がないときには唇も歯も自分ではないと感じたことがあるかもしれません。足が痺れた時も自身の足であるという感覚はありません。

 内蔵もよっぽどの痛みがない限り膵臓や脾臓や腎臓がどこにあるかなどサッパリ分かりません。見えなくて感覚がなければ「私」が身体であることさえ気づかずにいるかもしれません。身体が見えないくらいに目線を上げて「空=空間」を見るでもなく眺めていると身体の存在を忘れ”無我無心”になり、空間と一体になったような感覚を感じるようになるかもしれません。

 

 ”鏡に映った自分”の姿を見ている”自分がいる”というのは観念です。鏡を覗き込んでいる「私」がいるから見えているとして思い込んで(=観念)いるだけです。鏡に何か映っているということがあるだけです。自身の身体が鏡に映し出されて、鏡の反対側から見ているという予測があるだけです。鏡を見ている自身を直視して確認したわけではありません。

 猫や犬は人間が見ている人間の姿が見ていません。蝶や鳥やコウモリも人間の見えているようには人間が見えていません。魚は魚眼レンズにに映ったように私たちの姿が見えているの消化。自身が他人を見ているように、自身があるはずだというのは、自身の存在を予測しているだけです。

 自分で聞いている自分の声と他人が聞こえている自分の声とは違います。自分が見ている自分と他人が見ている自分も異なります。自分が味わっている味と他人が味わっている味は異なります。自分が自分だとしている自分は、他人が感じている自分とはかけ離れているのではないでしょうか。この世で自分を自分としているのは自分だけだということです。自分であると信じ込んでいる自分は自分自身以外は誰もいません。

 自分である自分は自分だけであって、他の人から認識されている存在とは異なります。つまり世界から認知されている自分は、幻影の自分でしかありません。自分が自分と信じている自分と世間の見ている自分とはズレがあります。認識されている自分と異なる自分として生きています。

 自分はこんな自分であるというのも自分だけの思い込み(=観念)で作り上げているだけのことで、自分だとしているのも対象であり「本来の私」ではありません。結局は、自分だとしている思いだけであって、知りえない分からない捉えられない何もないということかもしれません。

 

<16:01私たちは自然の構成要素であって、切り離された存在ではないとより強く認識するようにもなります。そして・・・意識の終わりが来ても恐れるべきことなんてー何もないのです。>

 

 二元対立がよくないのは、対立によって葛藤が起こり平安がかき乱されるからです。対象と認識してしてしまうと”なんとかしよう”という思いが起ってしまいます。そこに葛藤(=火)が生まれてしまいます。”なんとかしよう”というのは鎮火させるどころか、油を注ぐことになっているということだと見抜かなければならないのですが・・・。厄介なことに、葛藤(=火)を見にくる見物人を登場させることになります。

 鎮火するにはどうしたらいいでしょうか。燃焼は可燃物、酸素供給体、点火源のどれか一つを断てば燃焼は起こりません。例えば、可燃物(=自己・主体)、酸素供給体(=〜したい、理想)、点火源(=なんとかしよう)として観察してみてはどうでしょうか。

 

意識:自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き。

心:知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。

 

・スーパー感覚器官を持っていないので、限られた情報しか入力されません。

・限られた情報の中で固有の世界(=幻覚)を見ています。

・それぞれの生命体は異なる世界(=幻覚)の中で生きています。

・自分というのも、自分で構築した自分だけの思い込みの自分。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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