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老子ー37 [老子]

道常無爲、而無不爲。侯王若能守之、萬物將自化。化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。無名之樸、夫亦將無欲。不欲以靜、天下將自定。


 道は常に人為とは無関係の働きです。しかも何かが為されるということことも無い。諸侯や王が道の道理を心得ていれば、万物は自然に変化していることを目にする。変化して欲しいと願えば、名づけることのできない本質に委ねる他ない。名づけることのできない本質は、無欲においてである。欲心を持たず静かであれば、天下は自ずと平定されるでしょう。

 

樸:本質、ありのまま

 

<他の翻訳例>

 「道」はつねに何事もしない。だが、それによってなされたにことはない。もし諸侯や国王たちがそれを保持したならば、あらゆる物は自然に変形するであろう。変形した物たちが頭をもたげようとしたら、われわれは「名づけられない樸」の重みで抑制すべきである。「名づけられない樸」は、やはり欲望のない状態をもたらす。欲望を断って静かならば、天下は自然に安らかになるであろう。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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意思:行動のもとになる考えや意見。

意志:実行する能力・行動をとることを決め、かつそれを生起させ、持続させる心的機能。物事をなしとげようとする、積極的な心の状態。

 

 生きているということは即今(=たった今)が続き、過去は”過去”というただの言葉だけであり消え去ってしまっている。未来は”未来”というただの言葉であるでもなく無いでもない。出会っているのは常に即今(=たった今)であって未来に出会っているわけではない。もし過去や未来がどこかに有るのであれば掴んだり得たりできるかもしれないがそんなことはできない。即今を振り返った時に、振り返る主体としての”わたし”を持ち出す必要があります。その”わたし”は記憶・経験と言語が結びつき、思いという何かを掴んだような気になります。思いは、色・味・匂い・感覚はありません。頭の中で自らの言語で思いを追っかけて言語化しておしゃべりしています。思いを追いかけたり言葉にしたり文字にすることで存在しているかのように勘違いします。思いはどこから湧き出てどこに残るのでしょうか。頭の中で組み合わせた言葉を発したり文字にすることができるので実在しているかのように扱ってしまいます。

 ”思い”は無色透明なのですが”思い”が最後の最後に現れて”わたし”が気づきます。思い(=言語)が消えていないと感じ、”思い”が自分だと勘違いしてしまいます。思いがなくても自身(=存在)は在ります。「我思う故に我あり」

 大雑把ですが、道(=道理・働き)・元素・存在・水・有機物・熱・細胞・分裂・進化・管・神経・臓器・脳・五感・感情・言語・わたし・思い・分別という順番ではないかと思っています。最後(=分別)が常に一番最新で全てなので、分別が全てだとされるのは当然のことです。”わたし”という言語がなければ”わたし”は存在しません。”わたし”という言語を使って”わたし”が出現しています。”わたし”という言語のない生命体は、現象からの感覚・感情のままに反応して生命維持を行っているだけではないでしょうか。動物に”わたし”がなくても何も不都合はありません。人間だけが、”わたし”という言葉によって自身が全体と分離した”主体”だとしています。見る者(=主体)と見られるモノ(=客体)と分けて見ることにしています。”わたし”があろうがなかろうが五感で自動的に感受されています。”わたし”は感受したことを分別している”主体”であると勘違いしているかもしれません。

 

 私たちの脳は臓器が効率よく連携し集中管理する役割があり、様々な入力デバイス(=目・耳・鼻・舌・皮膚)から情報が入力されソフトウェア(=なんらかのアルゴリズム)で処理されているようです。情報は頭蓋骨の中に納まった闇の中にあり、神経細胞によって存在・音・匂い・味・感覚として認識されるようです。存在はまさに脳内で展開されていて、目蓋を閉じれば存在は映し出されません。

 脳は身体がなるべく心地よく生存できるように手助けする機能なのでしょうか。身体のために脳があるのであって脳のために身体があるわけではありません。脳は身体の一部であって、身体が脳に従っているのではありません。どうしても一番最後で最新の状況を把握しているのが脳なので、脳が主体のように感じられます。

 身体や臓器の働きが先にあり、その情報を脳に伝えて脳が認識して最適に働くようにしているというのが理にかなった脳の働きではないでしょうか。脳が臓器を常に監視して不都合なことが起って修復するよう逐一命令するのであれば、脳の負担は大変なものです。

 身体のメッセージを脳が中継したり最適化する時に、脳のソフトウェア(=意識)の気づきがあり記憶・経験と思考によって”なんとかしよう”という意志が働くかもしれません。この意志を”自由意志”と言っているようですが、すでに脳はどうすべきかを身体に指示を与えているはずです。もし、思考によって身体の臓器に指示を与えることができるなら大変な事が起こります。ふと心臓が止まれと思ったり、腎臓の働きを加速させよとか腸の動きは後5分後からとか・・・。たかが思考(=頭の中のおしゃべり)にそんなことができるわけがありません。

 脳の為に身体があるわけではなく、生命の保持のためにできてきた臓器の一つが脳。脳は身体の一部であり身体とあいまって働いているということではないでしょうか。脳が行動を逐一微細に指示したり脳が思考しているとしたら大変なことです。思考は言葉を追いかけている行為ではないでしょうか。脳自体が思考しているのではなく、思い浮かぶ言葉が繋がれているただの現象かも知れません。

 何気ない身体の動きを脳がどのように逐一指示しているのでしょうか。また、脳が見ようとしたり聞こうとしたり味わおうとしているわけではありません。脳が聴いているのではなく空気中の振動を音として認識しています。脳が現象をコントロールして感受しているわけではありません。脳が意図して感受しているのではなく、意図しなくても(=無為)感受されています。

 

 ”道”(=道理・働き)は、人間の意図とは無関係な宇宙的な道理であり働きのようです。当然ですが、私たちは自分の目線より高くにあるものは見上げて見るだけで、見下ろしたらどうなっているか分かりません。また見えている裏側見ることはできません。立体で見えているようですが、立体の一部が見えているだけです。当然ですが、自身の五感に感受されていることだけが全てです。

 今ここ以外は見ることもできません、今此処以外の空気も吸うことはできません。今此処以外のモノに触れることはできません、遠くの話し声も聞くことはできません。今此処で起っている現象だけが五感の感受能力の範囲で感受されます。自身の身の周りで起っていることだけが分かるのであってそれ以外は想像だということではないでしょうか。何が言いたいのかというと、私たちが話している殆どが頭の中の想像(=イメージ)であって今此処の現実のことを題材にしていないということです。

 相手から聞こえてくる言葉や見ている文字は現実の音(=言葉)であったり形(=文字)ですが、それはイメージを音(=言葉)としたり形(=文字)として表現したものです。あくまでも相手の頭の中にあるイメージを具現化したもので眼前の現実ではないイメージの受け渡しということです。

 

 意志がどうであれ、どうのように行動したかによって他人に評価されます。その評価も人間だけです。狭い人間関係の中でどのように評価されどのように言われたかを考えるだけのことで、その考えにとらわれなければ大したことではありません。他人の内心がどうなっているかなど分かりません、内心が同じである人もいません一念三千です。何故それほどまでに気に掛けるのでしょうか?思いで何かを掴んだり得たり何者かになるわけではありません。

 

 損得・善悪・美醜というのは、結果に対して人間が言葉(=概念)を割り振っただけであって決まったものではありません。ある時代である状況で判断されたことです。自身の意志で悪となったのではなく、周りが悪としたまでのことです。ある国の国益が善であっても他国では悪と捉えられます。

 大金持ちだといっても、あくまでも人間の社会的な決まりごとです。猫や犬は誰が金持ちなのかサッパリ分かりません。”自由意志”がどうのこうの議論がありますが、右足が先か左足が先かのどちらを選んでも大した差はありません。ラーメンかカレーのどちらを選択しても、自由意志を持ち出すようなことではないのですが・・・。ただの思いを扱っているだけで、自由に考えられるのでそれでいいのではないでしょうか。脳が大事な決定をしているとかしていないとか気にするようなことでもないように思われます。誰が何を思っても自由です。

 ”もし”◯◯していたらと考えるのは自由ですが、時間を遡って思いに振り回されるだけです。現実は瞬間瞬間に移り変わって過去はどこにもありません。

 

<まとめ>

 自由意志があるとしたら、自身で選択したことに全責任があり一喜一憂することになります。たいした選択でもないことに対して思い悩んだり喜んだり悔やんだりするだけのことです。

 自由意志がないとしたら、あるがままをそのままに受け入れて今を生きていけばいいだけのことのようです。

 老子は人為(=自由意志)を使ってはからい悩むよりも、道(=道理・働き)に任せておけばいいということでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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どのように知っているか [TED]

Ted How your brain tells you where you are

脳は今どこにいるかをどのように知っているか。

00:56

ラットが移動した場所ごとに別々の細胞が活動していることがわかりました。こうして神経細胞は地図を作って脳全体に「いま自分がどこにいるか」を知らせ続けているのです。

 

02:01

あなたの周りの建物などの距離や方向を感じ取ることが、海馬にとって非常に重要なことを示します。実際に海馬の入力領域にラットやマウスが歩きまわる際に正確に境界や縁への距離や方向を感知して、海馬に伝える細胞が発見されています。

 

03:57

つまりどこに旗があるかの記憶は、その場所における場所細胞の活性化パターンの記憶により行われているようです。

 

05:36

まとめると、ラットは空間上に仮想のグリッドを置いているようです。要は地図にある経線や緯線のようなものです。三角形ですけどね。ラットがあちこち動き回るとき1つの細胞から別の細胞へと電気活動が受け継がれていくことで現在位置が把握されますだ。から自分の動きを利用して今どこにいるかを知ることができるのです。

 

07:21

空間を認知するための仕組みは、視覚的なイメージを生み出すためも使われているのかもしれません。だから私たちは過去の出来事を思い出そうとする時その空間としての場面を再現できるのです。

 

08:23

私たちがどのように記憶し想像し考えるかなどの心理学的過程を理解し始めた新たな時代の認知神経科学の一例にしか過ぎません。

 

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 私たちは、四六時中何かが思い浮かんでいます。それはただ脈絡もなく思い浮かんでいるだけなのですが、思いを追っかけることで思いを掴んだり得たりしたと勘違いしてしまいます。その追いかけた思いが自身に変革をもたらすのなら、誰もが悪人になったり聖人になったりするわけですが常に勝手に湧き出している思いは一定ではなく千々に乱れています。衝撃的な事があって記憶されなければ、10分前に思い浮かんだことを思い出すこともありません。つまり、気にかけるような思いはなく、忘れ去られてもいいようなことが”思い”だということかもしれません。

 朝起きてから様々な思いがあったとして、別人になったとしたら大変なことです。思いによって急に音楽の才能が開花したり、急にアスリートへと変身したりすることはありえません。

 教科書を丸暗記すれば、物知りとして評価されます。物知りになった主人と以前の主人と比較して、飼い猫が見分けられるでしょうか。電車に乗っている人が、試験勉強して知識を蓄えた人と試験勉強しなかった人を見分けられるでしょうか。顔色が悪いぐらいであって海馬の記憶の増減が分かったら大変なことです。

 

 身体が、今の今どこで何をしているかが分からなければ認知機能が失われていることになります。身体の置かれている状況が不明であれば、身体は欲求のままに動いてしまうのでしょうか。食べたことも分からずに食べてしまうとか、行き先も分からずに歩き回るとか・・・。

 私たちはレーダーのように周りの存在と自身の位置関係を把握して、空間的な自身の存在を確認しているのでしょうか。安心・安全な場所・人であるかを記憶と照合して更新しているかもしれません。私は誰かということは、過去の集積によって築き上げられた幻影でしかないのにお互いが自他のアイデンティティを認め合うことで社会が成り立っています。働き蟻は働くことに違和感なく働いているはずです。雌は自身を雌と認識して行動しているはずです。鳥は思考せずとも飛べるしミミズを丸呑みできます。生命体が進化の過程で身につけている習性は、生まれる前からすでに身についています。役割や行動は教わらずとも自然にできます。生命体は、今どこにいて何を成すべきかは教わらずともできています。

 

 嫌なこと(=苦)は一体どこにあるのでしょうか。嫌なこと(=苦)を思い出した時に嫌な感じになります。思い出されるものは記憶としてとどまっていて自らが記憶にアクセスするか何にかのきっかけによって思い出され嫌な感じになります。記憶にある事象(=嫌なこと)は現実には無く単に記憶という神経細胞の働きでしかありません。意図的に思い出したり何かのきっかけで思い出された時に、”なんとかしたい”(=自我)という情動で苦しむことになります。ただの記憶であって実在していないものを相手にしています。実在していないものを何とかできるわけがありません。消そうとすればかえって記憶が強化されるだけです。無いものと戦って勝てるわけがありません。負け戦を挑んで、記憶を強化するはめになります。空気を切って疲れ果てるようなことをしているのではないでしょうか。

 記憶[→]思い[→]”なんとかしたい”[→]”解決できない”[→]記憶される。堂々巡りに自らを陥らせていると疑問に感じるてもいいかもしれません。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 




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老子ー36 [老子]

將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。


相手の勢力を小さくしたいのなら、必ず拡大させなければならない。相手の勢力を弱めたいのなら、必ず強くさせなければならない。相手を廃れさせたいのなら、必ず繁栄させなければならない。相手の国土を奪いたいのなら、必ず土地を与えなければならない。これは微妙な真実です。柔弱は剛強に勝つ。魚は水を深くたたえているところから離れてどこかに行ってはならない。国の利器は、人にわかるように見せてはいけない。

 

歙:①息をすいこむ②あわせる ③ちぢめる・すぼめる

淵:水を深くたたえている所

利器:武器・才能・権力

 

<他の翻訳例>

 (あるものを)収縮させようと思えば、まず張りつめておかなければならない。弱めようと思えば、まず強めておかなければならない。衰えさせようと思えば、まず勢いよくさせておかなければならない。奪いとろうと思えば、まず与えておかなければならない。これば「明を微かにすること」とよばれる。こうして柔らかなものが剛いものに、弱いものが強いものに勝つのだ。「魚は深い水の底から離れぬがよい。国家の最も鋭い武器は、何人にも見せぬがよい」

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 過去の文献の翻訳は百花繚乱であり、好き勝手に訳されているように感じる人が多いのではないでしょうか。正解は原作者だけでありそれ以外は全て偽りかもしれません。それだけ各人の解釈や表現が異なっているということのようです。  

 そもそも、2千年以上前の状況やその時代に生きていた人が何を言いたかったのかを知る由もありません。また当時の人が、2千年後の人に思いを馳せて書いているわけがありません。

・盛者必衰

・山高ければ谷深し

・柔よく剛を制す

・琴の弦は、張り過ぎると切れてしまう。緩過ぎては、音は出ない。適度な状態(中道)が一番良いのだよ。

 

 今まさに起っている出来事に直面していながら、個々人の受け取り方や処理してアウトプットされる表現も一字一句同じということはありません。私たちは異なる場所で生まれ異なる環境で育ち異なる情報を得て異なる感受をしています。異なる教え・友人・師・本に影響され異なる思考・アイデア・イメージ・目標・アイデンティティ・行動をとるようななります。外観は似ていますが全く別者として生きています。現象として発せられている電磁波や音波や味や匂い分子に違いはないのですが、感受能力と処理能力と判断能力が微妙に異なります。先天的な本能による反射は同じでも、環境の違いによって出力が異なります。どこかの工場で同じ部品で組み立てられ、同じソフトが組み込まれ同じネットに繋がっていれば同じように出力されます。

 データーベースが変わらずソフトも変わらなければ、同じように検索されます。同じように検索できなければ信頼性のない駄目なデータベースということになります。マシンの素晴らしさは、全く同じように反応し裏切らないことです。同一性・信頼性・平等性・画一性・応答性・従順性(プログラム通り)・・・

 人間の良いところは曖昧・不平等・異なる対応・信頼がない・従順ではない・画一的ではない・異なる表現・異なる能力・繊細・丁寧・感情表現・裏腹・正直ではない・柔軟性・多様性・・・・。

 ある状況が発生し、ロボットに組み込まれたプログラムのように全員が全く同じ方向に逃げたとしたらどうでしょうか。all or nothing. Dead or alive.

 全員が駄目になるよりも、何人かが助かった方が種の保存には適しているかもしれません。異なるモノが入っているということは素晴らしいことです。画一的で何度やっても同じというのは全滅する可能性が大きいということのようです。

 金太郎飴のような同じ顔の俳優や女優が出てくるような映画は面白いと感じるでしょうか。あまりに整いすぎている絵も面白みがありません。平面のキャンパスに立体に見えるものを書き入れたり、アシメントリーにしたほうが味わい深いかも知れません。

 下手な人のおかげで際立つ、不親切な人がいるから親切が際立つ、従順でないから育てがいがある・・・・。失敗するからこそ人間としての生き方を味わえます。差別が悪いと言いながら、差別してくれることで優越感に浸ることができるかも知れません。スイートルーム・ファーストクラス・個室・プレミアム◯◯・贈答用◯◯・会員制◯◯・・。差別するなと言いながら差別・区別を望んでいるのではないでしょうか。性別や年齢や肌の色・髪の色・目の色・・変えられない事象に対して差を持ち出すのは論外のことです。

 

 私たちが見ている存在はただのアイコンだと前回のTEDの中にありました。私たちは三次元の立体をそのままに見えることはなく、立体を想像しているだけです。実際は立体の表面のほんの一部分しか見えていません。立体であるかのように脳が構築しているかもしれません。

 あらゆる存在に名前がつけられています。存在はただ見えているそのものとしてあるだけで名前が貼っているわけではありません。自らが解釈したり人に伝えたりするために、言語という曖昧(=ただの概念)なもので表現しているにすぎません。

 もし言語と関連づけずに記憶や記録しなければ、何事もなくただ瞬間・瞬間だけなのですが・・・。思い返したり、何かを掴もうとしたり何かを得ようとしたり意味や価値を見出そうとすることで思いが重要になってしまいます。ただの思いであって消え去っても問題にはならないのですが・・・。思いの1つに引っかかると、その思いが重要なこととしてクローズアップされていまいます。そのクローズアップされた思いを何時までも追いかけることでどんどん思いが強化されてその思いに引きづられることになります。

 思いに姿形はなく力も無いのですが、思いが身体に働きかけて行動という姿形や力となります。思考が変化をもたらすものとして、重要なものであると思いこんでしまいます。思考と力が結びついて思考力としてもてはやされることになっています。思考(=自我)は思考を愛でてくれると嬉しくてたまりません。”なんとかしよう”ということが自身であり生きているということだと感じてしまいます。思考が主人となって我が身を振り回す力を持ったまま生きることになります。思考しなくても生きているし生きていけるということをどこかで体験したほうが良いかも知れません。

 身体が思考に振り回されていると見抜くことは容易なことではありません。本当は身体(=主)のために思考(=従)させられているのに・・・逆転しているのではないでしょうか。身体の存続のために腸から分化して脳のになっているのであれば、身体のために自然に働かされているということ。身体を安静に(=何もしない)して思い続けていることに違和感を感じ、その思いに取り合わない(=何もしない)。身体に従うように地道に慣らしていくしかないようです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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現実をあるがままに見ているのでしょうか? [TED]

TED「現実をあるがままに見ているのでしょうか?」TranscriptをEnglishから日本語にしてください。

***<辞書での意味>

意識:自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き。「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」

精神分析学

・これは私の経験だと感じることのできることを総体的に意識という。

・自分で現在認識していないが、努力すれば思い出すことができる内容を前意識という。

・自分で現在認識しておらず、努力しても思い出せない内容を無意識という。

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「意識がある」とは、脳において刺激を認識することが可能であり、刺激に対し明確な反応を示す状態を指す。

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00:30

脳の活動と意識体験との関係については今でも解明されていませんなぜ?

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 我々の活動は、進化の過程で先天的に刷り込まれている脳内の神経細胞の働きがあります。また脳のポテンシャルに依存しています。生命体は生存活動に必要十分な肉体構造がありますが、環境変化に適応するように変化変容させられているかもしれません。生命体として生存できているということは、五感から入力される刺激を認識して適切な処理が行われてきたという証だということです。

 私たちが存在している4次元時空間では、あらゆる存在が生滅することで動的な変化が起っています。生命体として存続するには、周りの現象が変化していることにいち早く気づき何が起っているかが知られるようになっています。認識は、あらゆる生命体に備わっている単なるプロセスとして働いていると思われます。

 五感で情報を感受し、脳内で映し出される映像・音・匂い・味・感覚・思いの背後に確固たる存在者は不在であり自然現象としして処理されています。

 過去もこれからも、地球上ではリンゴは落ち続けます。物理現象である万有引力は絶対的な働きとしてあり続けます。ただの現象として起っているだけであり何かの力が働いたり、何者かによって見えたり聞こえたりするわけではないようですが・・・。

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01:15

 眼を開いて1メートル先に赤いトマトがあることを認識します。その結果私は現実に1メートル先に赤いトマトがあるのだと信じることになります。次に目を閉じると私の意識は灰色の世界へと変わります。それでも現実には1メートル先に赤いトマトがあるのでしょうか?私はそう思いますが、間違っているでしょうか?もしかしたら知覚というものを誤って解釈していないでしょうか?

02:30

 我々は地球は不動で宇宙の中心にあると考えました。やはりそのように見えるからです。

03:39

 客観的な現実をそのまま写真として撮るのです。視覚にはカメラのような部分があります。眼球にはレンズがあり眼球の後方に像を写しますそこには1億3千万個の光受容体があるので、眼は1億3千万ピクセルのカメラのようなものです。しかし、これでは視覚に関わる何十億もあるニューロンと何兆にもなるシナプスについて説明できていません。ニューロンは何のためにあるのでしょう?

04:15

 神経科学者は我々が目にする形、物体、色や動きといったものをリアルタイムに創造していくのだと言います。

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 私たちは、「私」という存在者がいて意識が働いて認識することができると思っているのでしょうか。目を向ければ自然と視覚野に映像として映し出されるようになっています。気づいてい認識されたことに”意識”という言葉(=概念)を後づけしているだけではないでしょうか。科学で存在を精細に分析すればするほど、存在は空っぽで”無”であるという認識に近づくのでしょうか。

 存在が在るのでしょうか、それとも各生命体個々に異なる存在として認識されているのでしょうか。蟻はバッタ(=何らかの存在)の一部を認識ことはできても、自身より大きなそれ(=バッタ)の外観を一目で見ることは不可能です。我々もトマトの全体(=表裏)を同時に見ることはできません。見えているのは片側であったり一部分でしかありません。音楽を聴いているようですが断片をつなぎ合わせて聴いた気になっています。立体の裏側を想像し補いながら感じ取っているということでしょうか。

 何か(=対象として)を認識するには、認識する”主体(=私)”がいなければなりません。自らを”主体(=私)”とすることで、見る者(=知るもの)が見られるモノ(=知られるもの)と対峙して知ることができます。

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06:05

 これは標準的な教科書に書いてあることです。ここでは例えば「進化論的に見て知覚はとても正確でありとても有用である」。この概念の背後にあるのは正確な知覚は適応により進化したものであり、生存競争における優位性があると考えています。

09:25

 進化の方程式で中心となる働きをするのはあるがままの現実ではなく適応度です。

10:12

 そこで私の研究室では何十万回という進化のゲーム・シミュレーションを行いました。そこでは多数の異なった世界がランダムに選ばれ生物が生きるための資源を求めて競争するのです。ある種の生物は現実を全て見ることが出来て、またあるものは現実の一部だけが見え、別のあるものは現実が全く見えず適応だけが可能です。誰が勝利するのでしょうか?

10:39

 皆さんを落胆させたくはないのですが現実を認識するものが滅びます。殆ど全てのシミュレーションで現実を全く見ることなく、ただ適応していくものだけが現実をあるがままに見る生物を絶滅に追いやるのです。

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 人間の食に対しての適応力は驚くべきものだと感心させられます。納豆・ナマコ・マンボウ・カエル・蛇・カタツムリ・クラゲ・蜂の幼虫・イナゴ・栗・銀杏・イノシシ・クマ・鹿・ワニ・・何でも食べることのできるホモ・サピエンスは、生き残こるべくして生き残ってきたかもしれません。他の生物が食べないユーカリや笹を食べて生き残っている種もあります。

 生存の為には危険を回避して捕食によってエネルギーを摂取し子孫を残さなければなりません。有利な特徴(=子孫が生き残れる雌雄)を持ったものと交配してきたかもしれません。眼前の環境に適応できるものが生き残れている。

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11:40

 あなたが今知覚している空間と時間は、あなたにとってのデスクトップであり物理的に存在する物体はデスクトップ上のアイコンに過ぎません。

13:55

 物理学によれば強固に見える金属製の電車も実際には微小な粒子がほとんど空っぽの空間を飛び回っているだけだとずいぶん前からわかっていた。新しい考えではないではないか、でも厳密にはそうではありません。こういうことです。デスクトップ上の青いアイコンは現実のパソコンそのものではありませんが、ちゃんとした虫眼鏡で近づいて見てみると小さなピクセルが見えますがこれこそがパソコンの現実なのです。

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 存在は形や色や質感として感受されますが、その存在はパソコンのデスクトップ上に表示されている図形でしかない。ファイルのアイコンにはファイルが入っていますが、ハードディスク内のdocument/myfile/doc/というディレクトリーを表している。また番地で言えば0001000010001000111110011かもしれません。

 また、https://mujyo-ku-muga.blog.ss-blog.jp/が可動しているのは日本なのかアメリカなのか全く分かりません。ただの文字を見ているのですが、IPアドレスが割り振られて管理されています。”h”はASCIIコードで16進数では0x68となります。見えているモノと実体とはかけ離れています。鉛筆の芯もダイヤも同じ炭素原子でできている結びつきや密度の違いだけです。印刷前の1万円札と印刷後の1万円札は紙としては同じです。

 数日で入れかわるヒト小腸の上皮細胞では、世界で最も美しい女性の上皮細胞と90歳の女性の上皮細胞を比べても変わらないかも知れません。

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14:38

 誰にでも立方体が見えるのはそれぞれの人が見た立方体を構築しているからです。電車についても同じことがいえます。誰にでも電車が見えるのは各人が構築した電車を見ているからです。全ての物理的に存在する物体について同じことが言えます。

15:15

 現実は3次元のデスクトップのようなもので、現実の世界の複雑さを隠ぺいし適応的な行動をとるように設計されています。知覚する空間がデスクトップであって、物理的に存在する物体はデスクトップ上のアイコンに過ぎません。

15:44

 我々は地球が平らであると考えてきました。そのように見えるからです。次に地球は宇宙における不動の中心であると考えました。そのように見えるからです。でも我々は間違っていました。知覚は誤解されていました。時空と物体はあるがままの現実であると信じています。

 我々は知覚による体験を誤って解釈しているのです。我々が目で見なくても存在している何かがありますが、それは時空でも物理的な物体でもありません。体験する時空や物体を否定することは、玉虫がボトルから離れることと同様に難しいことですなぜでしょう?

 我々は本当のところが見えていないことに対し盲目だからです。それでも玉虫よりは優れていることがあります。それは科学と技術です望遠用のレンズを通して眺めることにより地球は現実の世界における不動の中心ではないことを発見しました。

 また進化論を注意深く考察することで認識する時空と物体が現実の真の姿でないことも分かりました。私が赤いトマトと表現するものを知覚によって体験する時現実との作用が起りますが、現実は赤いトマトとは全く異なるものなのです。

脳ないしニューロンによって知覚的な体験をするとき現実との作用が働きますが、現実は脳やニューロンによって構築されたものではなく脳やニューロンの構築物とは全く異なったものです。現実はそれが何であれ世の中の原因と結果の元となる真の存在であり脳やニューロンの構築物ではありません。脳とニューロンには原因を引き起こす力は無く、我々の知覚的な体験や行動そのものを引き起こしません。脳やニューロンが構築するイメージやその方法は種に依存します。

18:53

 知覚とは真実を見ることではないと認めましょう。

19:48

 私が主張しているのは知覚したものが現実であり、現実は知覚したものとほぼ等しいという1つの理論が過ちと判明したということです。

20:24

 知覚は現実を隠蔽すようにデザインされています。しかし論理学や数学についてはその限りではありません。

21:27

 意識が物を生じさせその逆ではないと。

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 ほとんどの物理的な存在には識別名(=名前)がついています。”飴”という言葉を発音しても文字としても頭の中で呟いても、ただの名前であって実際に”甘さ”を味わうことはできません。見えた対象を記憶と照合して一致した識別名をあてがい”電車”としています。教え込まれ記憶された識別名によって”電車”となるだけで、電車を見たことがなく教え込まれていなければただの物体でしかありません。花・虫・料理・野菜の名前を知らなければ見えたままとして受け取る他ありません。

 物理的な存在はアイコンであって、表面の一部だけが見えているだけです。自身の身体や他人の身体の一部を見ることができますが、身体(=アイコン)の内部でどのようなことが行われているのか全く分かりません。食べたものがどうやって食道を通って胃の中でどこから消化液が出てどのようにして消化されて・・・・。家の居間にいたとして、壁(=アイコン)は見えるのですが壁の内部がどうなっていて壁の向こう側はどうなっているかさえ全く分自身の身体だと思いこんでいる身体も、侵入したウィルスを自由自在に撃退することは出来ません。単に筋肉を収縮させてある程度動かせる程度です。かりません。車(=アイコン)の外観を見ることができますが、ガソリンがどのように噴射されてピストンがどんな形状でどのように動いているかなど全く分かりません。

 物理的な存在として認識されるのはほんの一部の外観であって、内部で起っている詳細は全くのブラックボックスだということでしょうか。アイコンを見て世界を見ている気になっていることに気づいてくださいということでしょうか。

 見えていないところは全く知りえない。見えたものは脳が構築した構築物であって表面上の外観であって人間の感受できる範囲での像(=脳の視覚野では全ての電磁波を色として再現出来ていません)。ある種によっては、世界は白黒のモザイクとして見えているかもしれません。あたかも匂いの分子が川のように流れている世界かもしれません。

 知覚は各生命体の感受能力の差異によって再現され、ことなる世界として映し出されているようです。知覚されて存在は、ホモ・サピエンスが都合よく再現しているということでしょうか。極端に言えば各生命体の数だけ異なる存在として受け取られているかもしれません。

 認識できている状態が意識であり、物が生じたり滅するわけではありません。認識できている人にとって存在があり、その人が認識できなければその人にとって存在はないということになります。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 




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老子ー35 [老子]

執大象、天下往。往而不害、安平太。樂與餌、過客止。道之出言、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。


道に従い行動すれば、天下へ人々が集う。その天下に集まれば害はなく(=治安がいい)、安泰である。楽しみと食べ物があれば、人が訪れ立ち止まる。「道Tao」のことを言葉にすれば、味気のない淡白なものとなる。目で見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえない。しかしこの「道Tao」は使い尽くせないものである。

 

象:現れたもの、法、道、道理。
淡:あっさりしている。

 

<他の翻訳例>

 大いなる象(かたち)をしっかり握るものには、天下(の人びと)がそこへ向かって集まるだろう。そこへ行っても何の害にもあわない。(すべてが)平和で静かに、また安泰である。音楽(の響き)と(うまい)食物(のにおい)は、通りすがりの他国のものを立ちどまらせる。「道」が人のことばに出されるとき、いかにも淡白で味がない。それは、見つめてよく見るほどのものではないが、耳をすませいて聞くほどのものでもない。だがそれは、用いてもいつまでも使い尽くせないほどである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 今も昔も統治下に住んでいる人民は税に悩まされいたのでしょうか。天下の土地は国王が統治している土地であり、その土地からの収益も国王のものであるということなのでしょうか。人民の生命や土地を守るために軍隊が必要であり、軍隊を維持するにはそれなりのお金が必要となります。その軍隊を維持するために応分の費用を負担してもらわなければなりません。

 租税を物納するよりは「交換価値」があり偽造できない軽くて持ち運びやすい貨幣を流通させるようになったようです。誰かのお墨付き(=信用)がなければただの金属でありただの紙でしかありません。現代ではネット上で受け渡しできるただの数字であり、口座にある貯金が増減されるようになっています。現物の貨幣を見ることなく物品の受け渡しができています。

 「サピエンス全史」に書かれている認知革命で「あるがまま」の事実の世界に「虚構(=フィクション)」という虚構の世界を想像し共有させることで、ホモ・サピエンスが生き残り現在に至っているようです。人間以外の生命体から見れば言語(=音・形)・貨幣・政治経済・・・人間は虚構の中で生きている動物ということでしょうか。

 虚構の中にいるので頭の中での思いが真実だと誤解しているかもしれません。現実に”起っている”ことが真実なのに、現実を否定する”でも・だって”という思考が苦悩を生み出し続ける源泉かもしれません。”でも・だって”は無意識のうちに現実を現実として受け入れることを拒むために発せられる”言葉”かもしれません。

 

 人は知ることや体験によって何かを掴んだり何かを得たり何者かに変わることを期待している部分があるようです。様々な物質を様々な条件で混ぜ合わせても錬金できないように、人間に知識や体験を混ぜ合わせることで別物の何者かになることはできません。世間体のいい頭でっかちの人格者ぶった人や博士や熟練者として大成するかもしれません。

 お釈迦様は自ら人体実験(=苦行)をしても何も変わらなかったと実証してみました。実体験の錬金術が失敗して身心が自分ではなかったと気づいたのでしょうか。明けの明星で覚る身心なんて無かったのかと分かったのでしょうか。”なんとかしよう”というというのが無くなっていたかも知れません。

 人間として生まれてきて、誰もが意味や価値のあるものを追い求めているのですが”ゴールが分かっている”のなら「それ」は一体何なんでしょうか。もし”ゴールが分かっていない”で向かっているのなら既に迷子かもしれません。”ゴールが分かっていない”から意味や価値のあることが”ゴール”であるとしているのでしょうか。すでに”ゴールにいる”のにもかかわらず”ゴール”を探し出そうとしているパラドックス。誰も騙してはいません、自身が自分ゲームをし続けているかもしれません。

 

 「道Tao」は言葉で表現し尽くせない道理と書かれているので、「道Tao」は探す必要のない眼の前の現実そのままということになります。何処にでもあるということは特定することのができないので、あるともないともいえません。「有る」といったら特定してしまうので間違いであり、「無い」と言ったら「有る」を前提としているので「有る」が特定できないのに「無い」は間違いとなります。瞬間は捕らえたと思った時にはありません。瞬間・瞬間はあるようで無いのと同じです。時間は概念であって、あるようで無い。

 生も何処に行っても何時でも瞬間・瞬間です。探す必要のないもので、今まさに感受している全てであり生として取り扱える何かの概念ではありません。

 死も概念上で取り扱っているだけで、死んだのに生きているわけがありません。死の真相を語れる人はいません。死があるとどうして分かるのでしょうか。死んで生きている人なら死を語る資格がありますが、誰一人死んでから語ることはできません。生も死もただの概念であり想像上のことでしかありません。

 

 空気はあるとか無いとか感じることなく、気にせずに生きています。普通に生活しているのなら、空気(=生)を探すこともないし真空地帯(=死)が何処かにあって自ら飛び込むこともありません。生がこれだという感覚はどこにでもあるしどの瞬間でも感じることができます。特定・特別の生などどこにもないということになります。エベレストの空気(=生)が真の空気(=生)であって、今吸っている空気(=生)が偽物なのでしょうか。子供の頃の空気(=生)が真で年老いて吸っている空気は偽物なのでしょうか。昨日の生はもうないし、明日の生がどこか鎮座していることもありません。生は探し出すのではなく瞬間・瞬間の実感そのもの

 「道Tao」とおなじで「生」はなにかなど定義したり知る対象にはなりません。感受されたままに全てがすでに受け入れられているという事実を見抜く。余計な分別が生を思い煩うものにしているかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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洞察 [TED]

TED 「My stroke of insight」

 脳科学者(神経解剖学者)自身の脳卒中(左脳内での脳内出血)での体験です。

自身の脳内で起ったことを分析し記憶したことを述べてくれている貴重な体験談です。

 私たちの周りで起っていることは大袈裟に言えば宇宙で初めての出来事でこれからも起こることのことのない一回限りの出来事です。経験則というものを持ち出していますが、起こることは似て非なるものです。数十億年前から試行錯誤を重ね身についている本能的な部分は間違うことはありません。危険を察知する完璧な感覚(臭覚・味覚・身体感覚・聴覚・視覚)が備わっています。

 膨大な時間をかけて造り上げられたシステムを大脳皮質で制御できるでしょうか。生き残るためにあるシステムを制御しようとするのなら自らを危険に陥れることになるのは明らかです。各生命体の感受能力の範囲内で、各生命体の都合のいいような世界があるはずです。魚の感受している世界をそのとおりに感受しても地上で生活できる保障はありません。鳥の感受している世界をそのとおりに感受しても地上で生活できる保障はありません。ネズミ・ミミズ・・・他の生命体が感受していることなどどうでもいいのですが・・・。人間の◯◯倍の能力があるから凄いとか素晴らしいとか知りたいというのが人間の特質でしょうか。

 感受したことを制御しようとしたら大変なことです。人間という生命体が築いてきたことが台無しになります。脳が脳を制御できるのでしょうか。生きていくために世界を都合の良い世界として見ているし聞こえている味わうために脳がある。ただ働きとして作られてきたのですが、言語という発明によって勘違いしているかもしれません。

 目を向けると光景が見えるように、自動的なそれまで見えたいたものは綺麗サッパリと消え去り今見えている光景だけが見えています。熟睡時以外は何かを感受して反応しています。微妙な思いが沸き起こっていて、それを自動的に言葉に変換してつぶやいています。そう思ったのですから仕方がないのですが、何故か”意”というものは”意”を何とかできる(=制御)とすることで問題としています。

 生命体として身体というものを動かせないといけないので身体としての空間認識を脳が作り出しているかもしれません。どうしても他者を見るように自己を見る癖が抜けきらないので自意識というものに振り回されて行くことになります。

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<03:36

右脳にとっては“現在”がすべてです“。この場所この瞬間”がすべてです。右脳は映像で考え、自分の体の動きから運動感覚で学びます。情報はエネルギーの形をとってすべての感覚システムから同時に一気に流れ込み、この現在の瞬間がどのように見えどのように臭いどういう味がしどんな感触がしどう聞こえるかが巨大なコラージュになって現れるのです。右脳の意識を通して見ると、私という存在は自分を取り巻くすべてのエネルギーとつながった存在なのです。>

 

 記憶が有りもしない幻影の過去のイメージを思い出し将来に憂いをいだきます。今ここという”瞬間・瞬間”があり、”過去・未来”という”時間”というただの概念であって存在などしていません。未来を経験することはなく常に”今”だけです。過去の遺物はありますが、未来が存在するのなら未物というものに出くわしてもいいのですがどこにもありません。それは既に生存しているものや存在しているものを”発見”するだけのことです。

 

<04:47

私たちの左脳はまったく異なった存在です。私たちの左脳は直線的系統的に考えます左脳にとっては過去と未来がすべてです。左脳は現在の瞬間を表す巨大なコラージュから詳細を拾い出し、その詳細の中からさらに詳細についての詳細を拾い出すようにできています。そしてそれらを分類し全ての情報を整理しこれまで覚えてきた過去の全てと結びつけて将来の全ての可能性へと投影します。そして左脳は言語で考えます継続的な脳のしゃべり声が内面の世界と外の世界とをつないでいます。その小さな声が私に囁きます“帰る途中で―”“バナナを買うのを忘れないで”“明日の朝いるから”>

 

 ”今という瞬間”に問題があったら大変なことです。”今という瞬間”に手出しすることは不可能だからです。過去や未来を持ち出すから問題となるので、”今という瞬間”を操作しようとした瞬間に”今という瞬間”は消え去っているので、”今という瞬間”を掴んだり得たりするような問題にはなりません。危険であれば身体が反応して勝手に危険回避しています。

 

<07:55

私はバランスを崩し壁にもたれました。そして腕を見るともはや自分の体の境界が分からなくなっていることに気付きました自分がどこから始まりどこで終わるのかその境界が分かりませんでした。>

<09:31

この空間の中では仕事に関わるストレスが全て消えました。体が軽くなったのを感じました。外界全ての関係とそれにかかわるストレスの元がすべてなくなったのです。平安で満ち足りた気分になりました。想像して下さい37年間の感情の重荷から解放されるのがどんなものか!(笑)ああ!なんという幸福幸福とても素敵でした。>

 

<15:17

しかし私は“でもまだ私は生きてる!”と思いました。“そして天国を見つけた私が天国を見つけて―”“まだ生きていられるのであれば生きている皆も―”“天国を見つけることができるんだ”と気付きました。世界が美しく平安で思いやりに満ちた愛する人々で満たされ、みんないつでもこの場所に来られると知っているのを思い描きました。意図して左脳から右脳へと歩み寄りこの平安を見出すことができるのだと。この体験がどれほど大きな賜物となるか、生きている人たちにどれほど強い洞察を与え得るか、そのことに気付きそれが回復への力になりました。>

 

 思考(=ことば)偏重の脳から離れることができ、おしゃべりをやり過ごして静かになることができれば平安だと実体験をしたのでしょうか。おしゃべりが普通であり積極的に思考に関わることが正常だと思いこんでいるのが現代人です。スポーツマンは何度も何度も練習して、身体に覚え込ませ思考を使わないようになるまで訓練するのでしょうか。左脳を使わずに右脳で知らぬ間にできる”ゾーン”になっているのでしょうか。本能の反射レベルまでになるように、脳の記憶から身体の記憶になるようにしているのでしょうか。

 

<16:32

さて私たちは一体何者なんでしょう?私たちは器用に動く手と2つの認識的な心を備えた宇宙の生命力です。そして私たちはこの世界の中でどんな人間でいたいのかどのようにありたいのか、すべての瞬間瞬間において選ぶ力があります。今ここでこの瞬間私は右脳の意識へと寄る事が出来ます。そこでは私は宇宙の生命力です。私を作り上げる50兆もの美しい分子が一体となった生命力の塊です。あるいは左脳の意識へと寄って1人の堅実な個人としてあることを選べます。大きな流れや他の人とは別個の存在です。私はジルボルトテイラー博士理知的な神経解剖学者です。この2者が私の中にある“私たち”なのです。皆さんが選ぶのはどちらでしょう?どちらをいつ選びますか?私たちがより多くの時間を右脳にある深い内的平安の回路で生きることを選択すれば、世界にはもっと平和が広がり私たちの地球ももっと平和な場所になると信じています。>

 

 左脳重視の”アイデンティティ”を押し通していくのか、個という概念は単なる概念であると見抜くのか。人生の意味や価値があったら大変なことです。ヒトラーの演説(=ただの音)を聞いて”ユダヤ人”を敵として見立て、団結してドイツ国民として自意識を増長させたことで大変なことになりました。新大陸が約束の地であると”意味や価値”を見い出せば先住民はどうなるのでしょう。我らが神から祝福された人間だと”意味や価値”を受け付けられたらどうなるでしょうか。

 熟睡している時に”意味や価値”がなくても生きていました。今この瞬間に”意味や価値”がなくても平気です。赤子や幼児には”人生の意味や価値”など問題になりません。”意味や価値”を見出すことは危険を孕んでいるのではないでしょうか。”意味や価値”が無いからこそ次の瞬間に自由と解放があります。”意味や価値”に縛られた人に自由と解放はあるでしょうか。”意味や価値”は成功をもたらすと主張しますが挫折もあります。その人になり切れるわけがないので、人と比べる前に自身が平安でいられる方を選択するのがよっぽど幸せかも知れません。

 ********

  生命体は各感覚器官で感受できる情報に何らかの意味を感じます。対象とされたモノを捕まえるか退散するか本能的に行動しています。人間が集まって生活している場では、音や形に意味があると教え込まれ音(=言葉)に意味があり、形(=文字)にも意味があるとして生きています。なるほど伝達手段としては素晴らしいのですが、この音と形に意味や価値があると思い込んでしまって振り回されています。ただ浮かんでは消えたしまう思いでしかないのに、言葉と文字と結びつくことで意味や価値が創出されてしまいます。

 感情や感覚が先で次に言語という順番なのですが、あまりに密接であり瞬時・同時となっています。ラジオでは表情や態度は分からないのですが、音(=言葉)で感情を感じてしまうまでに一体となっています。

 言語という思考の道具が作られてから思考こそが問題を解決するとされています。思考で解決できるのなら、悩んだら思考で何でもかんでもバッサリと解決できるようなものですが・・。人類の思考能力はいつになったら完成するのやら。

 思考が悪いわけではなく、必要な時に使えばいいだけのことです。思考を追い回すという最悪なことを何時もしていることを見抜かなければなりません。どうしても存在に言葉の無かった状態(=万物斉同)に一旦は立ち戻る必要が在ります。言葉での思考で振り回されない生命体は狂気になるでしょうか?眠っていて狂うことはできません。思考を追っかけてだんだんとズレが大きくなって制御できなくなるのでしょうか。

 何もしていないのに(=例えば只管打坐)思いが出るのは自然現象ですが、思考を追っかけて”何とかしよう”とししている「その思考」を只観察して放ったらかす。”何とかしよう”という思考と観察の根比べです。只坐っているのに”何とかしよう”は間違いだと見抜いて、それこそ何もしない。自我にとって、この世で一番の苦痛は”何もしない”・”かまってもらえない”・”何とかしようをスルーされる”ことのようです。

 この文章を読んでいる時点で、社会的自己(=自我)は予防線を張っています。”何もしない”ということができるわけがないと高をくくっています。身体を痛めつけるのが修行ではありません。果たして”何とかしたい”に打ち勝ち”何もしない”でいられるか。何故そうするかも分からず、何かを掴みたい何かを得たい何者かになりたい、意味や価値があるはずだと決めつけている。教え込まれ刷り込まれ、疑うことはありません。掴んだ人はもっと掴みたい得たい人はもっと得たい何者かになりたい人は最高の人になりたい。何処まで行っても終わりのない旅を続けていていいのでしょうか・・・・。

 何も掴まない何も得ない何者にもならなくていい、何物にも何事にも意味や価値を見出さずただ感受していればいい。社会的自己(=自我=何かをしていたい=何とかしたい・解決したい)は何もしないことでおとなしくなっていきます。出る幕(=出番)を減らして相手にしないようにする。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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老子−34 [老子]

大道汎兮、其可左右。萬物恃之而生而不辭。功成而不名有。愛養萬物、而不爲主。常無欲、可名於小。萬物歸焉、而不爲主、可名於大。是以聖人、終不自大、故能成其大。


 道は広大無窮であり、道はいたるところで働いている。万物は道(=宇宙・自然の理)によって生まれ、尽きることがない。

 道(=宇宙・自然の理)は生みだすが名はつけられていない。

 道は万物を慈しみ育てていながら、コントロールしているわけではない。

 道は欲とは無縁であり、”小”と名づけてもいい。万物は道へと帰っていくが、誰かがコントロールしているわけではない。”大”と名づけてもいい。

 この道理に従っている聖人は、自らを大いなるものとすることはない。だからこそ大いなることをなすことができる。

 

汎:広大無窮、果てしないこと。

兮:助字として使われ語末、句末に置かれる。

左右:いたるところ

肯定・命令請求・疑問の語気を示す

恃:たよりにする
辭:やめる

 

<他の翻訳例>

 大いなる「道」は漂いゆく(船)に似ている。左へゆくことも右へゆくこともできるのだ。万物はそれぞれの生存をそれ(「道」)にたよっているが、そのことを(「道」は)こばまない。「道」は仕事を完成しても(その功績の帰属と)保有を主張しない。大きな衣のように万物を包み養っても、それらの主であること(利権)を主張しない。永久に欲望をもたないから、小さな(卑しい)ものとよぶことができるであろうが、万物がそれに向かっていながら、その主であることを主張しないから、大いなるものと呼ぶことができる。その偉大さをみせびらかすことは決してない。だからこそ、その偉大さが完全となる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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****<辞書等での大まかな意味

◯観念:ある物事がどういうものか言葉で定義したもの。物事に対してもつ考え。

主観的(=自分だけ)であり、頭の中だけで考えていること。

人が物事に関して抱く、主観的な考えのこと。対象物に対して心の働きが加わったもの,つまり認識されたもの。内的・個人的なものです。

※個々人によって対象について考えている内容が異なる。※

類義語:イメージ・考え・心像・想念 対義語:実在

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 私たちは今ここで何かを感受しています。様々な電磁波から色や形を認識し、空気中を伝わる振動を音として認識しています。何かを見て何かを聞いて何かを味わい・・・・。寝て目覚めては食べ排出しています。なぜだか知りませんが身体が動き何かが思い浮かんできます。周りに起っていることに気づき自然に反応しています。知らぬ間に生まれ名前がつけられ名前を呼ばれたり”あなた・君”と言われて過ごし「私」というモノがあると思いこんでしまいました。

 身体と思いがただの観念でしかないのに、”自分”というものがあって誰もが”自分かわいい”によって保身第一に考える癖によって振り回されることになっています。

 何かを知って何かを思って何かを感じて何かを得るのは”自分かわいい”のために行われます。”自分かわいい”が元凶(=苦悩の根源)であると認めることができなければ”自分かわいい”い翻弄されて一生を終わってしまうかもしれません。

 

 宇宙を創造し、今もあらゆる法則として働き続けている。名はないので「道Tao」と名づけたのでしょうか。発見される法則は全てすでにあり「道Tao」が根源。見ることも触れることもできないが宇宙に遍満し働き続けているのが「道Tao」なのでしょうか。

 ニュートンは質量を持った物体がお互いが引き合うという「万有引力の法則」を発見しました。当時の世界観は天上界(=宇宙)と地上界(=地上)と分けて考えられていたようですが、実は別々に分離されたものではなく同じ法則だということを発見しました。

 地上界でのあらゆる物体は地球とお互いに引き合っている。ニュートンは”どれもこれも引き合っている!!なんで気づかなかったんだろう”と驚きの目で世界を見ていたのでしょうか。

 老子も”これもそれも全てに「道Tao」の働きがあるという発見をしたのでしょうか。見るもの聞こえるもの感じるもの全てが「道Tao」だと叫びたかったかもしれません。”どうして気づかないのだろう”と嘆いていたのでしょうか。

 私たちの周りには見えないモノ、触れることのできないモノ、掴むことのできないモノだらけです。エネルギー・圧力・重力・気圧・温度・光・ウィルス・素粒子・電子・本来の自己・・・これらは勝手に働いていています。鳥が囀り飛び回り、魚は泳ぎ、動物は駆け回り、花は季節になれば自ずと花開く。人間の一挙手一投足も自分がやっているわけではなく宇宙全体の動き一つに過ぎない。大海の大きなうねりの中のほんの一滴の動きのようなもの。

 鳥は自身がどうやって飛ぶか分かってるのでしょうか。魚は自身がどうやって泳いでいるのか分かっているのでしょうか。犬は自身がどうやって駆け回っているか分かっているのでしょうか。犬は自身がどうやって背中を掻いているか分かっているのでしょうか。猫は自身がどうやって舌を使って食べているのか分かっているのでしょうか。猫はどうやって鳴き声を出しているか分かっているのでしょうか。蜘蛛はどうやって巣を作っているのか分かっているのかいるのでしょうか。見えている聞こえている味わっている・・・自分がやっているなんていつから勘違いしてしまったのでしょうか。

 人間はどうやって自国語を話しているのか分かっているのでしょうか。声帯を振動させて声の大小をコントロールしたり、口・唇・舌をどのように動かしてどのタイミングでどの程度息を吸ったり吐いたりしているのでしょうか・・・・自分で一語一語確認して制御しながら話しているのでしょうか。「私」がどこにいてどのようにコントロールしているか見つけることができません。眠っている時に「私」はどこにいるのでしょうか。

 一切が何かわからない道理に従っていると言わざるをえません。道理に従うままに生きることが「道Tao」であり、大きなものと一体となる生き方をすべきだと言いたいのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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意識とは何か−2 [TED]

TED「意識とは何か

<04:35 こうした証拠により意識が脳に組み込まれている仕組みが分かりつつありますが、知るべきことはまだ多くあります。例えば意識に関わるネットワーク中の神経細胞が特定の情報を処理する仕組みについては現在の科学技術が及ぶ範囲を超えています。私たちが科学を通して意識に迫るとき人間とは何かという疑問に対する新たな探求が始まるのです。>

 

****<辞書等での大まかな意味>

◯観念:ある物事がどういうものか言葉で定義したもの。物事に対してもつ考え。

主観的(=自分だけ)であり、頭の中だけで考えていること。

人が物事に関して抱く、主観的な考えのこと。対象物に対して心の働きが加わったもの,つまり認識されたもの。内的・個人的なものです。

※個々人によって対象について考えている内容が異なる。※

類義語:イメージ・考え・心像・想念  対義語:実在

 

◯概念:物事の大まかな意味内容。概念は物自体に関したもので,心の働きとは無関係。外的・共通的なもの。客観的であり辞書で記述していること。

※意味がない言葉には概念は存在しない。欧米人に「おこわ」という概念はない。※

類義語:意味・内容・解釈・体用・全体像  対義語:実体・具現・具体 

 

◯意識:私の経験だと感じることのできることを総体的に意識という。(精神分析学)

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 意識を科学的な見地から解明しようということです。科学では再現性・普遍性・客観性・法則性がなくてはなりません。主観が入り込まないということが科学なので期待したいものです。意識を探ろうとすることに主観を入り込ませないことが可能なのかはなはだ疑問ですが・・・。

 地球上の生命のDNA塩基配列から“全生物の共通祖先(=単細胞生物)”があって、全生物が進化して今のようになったという確率が高いようです。地球の存在以前に宇宙が存在していなければなりません。意識がそれぞれの生命体にどの段階で何処からどのように組み込まれたかを解明してくれるのでしょうか。宇宙の根源に宇宙全体が備わっていなければ今の宇宙としてあるのでしょうか。植物の種に将来の植物の全てが無かったら植物として現れることがないのと同様ではないでしょうか。

 物質が燃焼したり分解して消滅したとし、この宇宙の外に消え去るわけではありません。物質が宇宙の外からやって来るなど考えも及びません。あらゆる存在あらゆる空間あらゆる時間に意識が無かったら、何処からどのように意識がやってくるのでしょうか。

 科学的な解明をするなら、意識の起源をハッキリしなければならず、意識がどのように変化変容しているかも解明しなければ応用することは出来ません。科学で意識の法則性を確認したとして、どのように使うというのでしょうか。ロボットに意識を埋め込んで人間のように振舞えとでもいうのでしょうか。また、昆虫に人間の意識を埋め込むのでしょうか。既にピクサーの映画に出演している動物たちのようなものを出現させたいのでしょうか。コメディーのような世界ならばいいのですが狂気の世界となるかもしれません。

 

 人間は他人の内面(=感覚・感情・思考・経験・知識・心・・)をそのまま直知することはできません。人間の数だけ異なる内面があり、たった今の瞬間瞬間にも変化変容しています。意識があらゆる生命体にあるとするならば無限の意識がとなって現れていることになります。

 人間の内面を知るには、素の自己(=本来の自己)を知る以外はありません。素の自己(=本来の自己)とはどいうことでしょうか。五感(=視・聴・嗅・味・触の五つの感覚)から入ってくる情報は常に生滅しています。前の感覚がいつまでも残って重なることはないということです。あらゆる情報を選り分けることができず無差別に感受されています。選り好みできないので平等に入力されるだけです。五感での入力時点では、万物斉同であり単なる情報だということでしょうか。

 見たくなくても見えるし、聞きたくなくても聞こえます。全てが消え去り、すぐにニュートラルになり全てをあるがままに受け入れています。数十億年懸けて手に入れた感覚は素晴らしいものです。見えたまま・聞こえたまま・味わったまま・・・・。残念ながら感受したものは記憶され瞬時に固定観念というフィルターを通ることによって思慮されて個人的な思いとなってしまいます。生まれて数十年で身につける知識や固定観念が数十億年で身につけたものに勝るものでしょうか。たかだか学校で得た知識や、社会生活で磨いた思考でなんとかしようとするであるがままを歪めてしまっています。大脳皮質優先の頭でっかちとして教育され、躾けられてしまって虐げられていることに気づきません。

 只感受したままで何も問題はないのに、自我(=なんとかしよう)によって着色され”なんとかしよう”に振り回されていないでしょうか。

 例:会社で3時の休憩時間にケーキが配られました。全く同じケーキなのに好意を持っているAさんの差し入れと嫌っているBさんの差し入れのケーキが置いてあります。同じケーキ屋さんで切り分けたケーキです。何で同じように食べれないのでしょうか?

 例:空から平等に降ってきた雪なのに、どうして”あなたの雪・私の雪”というふうに分かれるのでしょうか?春になればすっかり消えてしまうのに?

 

 『方丈記』の冒頭の一節に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」とあります。

 人間は裏腹であり、思いも勝手に沸き起こっています。誰かの感情・感覚・思想・貪・瞋・癡をインストールするとでも言うのでしょうか。権勢欲・所有欲・・・を持った生々しいロボットが出現して欲しいのでしょうか。現代の錬金術師よろしく”賢者の石”を手に入れて生命体に注入し、まったく別の生命に作り変えようと試みるのでしょうか。

 他人の内面を直知することができないので、”人間とは”と答えを導き出すには自問自答して導き出すしかありません。他人(=例えばお釈迦様)の内面を保存し、そのまま移し替えることができれば”人間とは”の答えを知ることができるかもしれませんが・・・。残念なことに”人間とは”と問うているのは問うているその人であり、問うている人が出した答えは当の本人のことです。

 研究者が導き出すことができる人間モデルは、他人ではないので研究者自身の人間モデルということになるのではないでしょうか。科学者・音楽家・哲学者・表現者・芸術家・ビジネスマン・農業従事者・・・、それぞれが自身こそが人間モデルであり他のモデルを理解することはできません。

 

 ”人間とは何か”という疑問には、すでにお釈迦様が答えを出しています。王子であったシッダールタは、私たちが人生の目標とする財力や権力を既に手にしていました。彼の出発地点は、我々の最終目的地点だったということになります。もし私たちが”人間とは”のスタート地点(=王子のような生活)を人生の目標地点にしているのなら、スタート地点にすら到達出来ていないことになります。スタートできなければ、永遠に”人間とは”の答えに巡り会えないかもしれません。

 王子シッダールタは、物質的に恵まれていたにもかかわらず”自分かわいい”に従っていたようです。彼は物質的なことに頓着することはなく”苦”に感じることはなかったと想像されます。一般市民の”生・老・病・死”ということをマジマジと見ることで将来を気にやんで”苦”と認識し、”なんとか・どうにかして”解決しようと命を懸けたようです。人格の向上だとか人間としての進化など大袈裟なことのためでしょうか。人格を向上しましょうと言う人がいますが、自身の人格のようになってはどうですかと、自身の人格が高いと暗に言っているように感じる人もいるかもしれません。たかだか身体を痛めつけることで、簡単に進化するのならオリンピック選手の殆どが進化しているのでしょうか。また瞑想で進化するようなことがあったら大変なことです。一体何者に変身するのでしょうか。進化したのなら是非科学的に分析してもらいたいものですが・・・。

 一つの例ですが、静寂は得たり作り出すものでしょうか。それとも騒乱・混乱・葛藤がおさまれば静寂であるのでしょうか。いつでもどこでも静寂であるのに、静寂をかき乱していただけのことではないでしょうか。静寂を覚りとか涅槃とかに置き換えてみればわかるはずです。得たり掴んだり成ったりするものであれば、錬金術のように苦心惨憺しても無駄足となることは自明のことではないでしょうか。自ら(=ありもしない自我)がかき乱して乱痴気騒ぎしていたことを見抜き、ありもしないもの(=自我)を相手にしなければ自然と退散します。いつまでもゲームを続けるのか、一旦ゲームオーバーして本当にゲームとしてゲームを眺めるのか。

 権威もなにもないので説得力に欠けますが、”なんとかしたい”には何もせずに相手にしなければいいだけなのですが・・・。何もせずに、ぐうたらになるというのではありません。”なにかしよう・なんとかしよう”という騒動を鎮め勝利することは大変なことです。

 

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