SSブログ

老子−29 [老子]

將欲取天下而爲之、吾見其不得已。天下神器、不可爲也、不可執也。爲者敗之、執者失之。凡物或行或随、或歔或吹、或強或羸、或培或隳。是以聖人去甚、去奢、去泰。

 

將:まったく

已:やむ、やめる

爲:作為的になす

執:執り行う

歔:すすり泣く

羸:つかれる。よわる。

培:養い育てる。

隳:壊す。やぶる。崩す。

 

 天下(=国)を我がものとして好き勝手にしようとしますが、そんなことはできないし不可能です。天下(=国)は神器であって、人が作為でコントロールできるようなものではないし、執り扱うようなものでもない。人為的に天下(=国)をコントロールしようとすれば禍を受けて失敗することになり、我がものとして執り行えば天下(=国)を失うことになる。

 物事の性質として誰かが行う(=天下を取れば)と真似をする人(=天下を取りたくなる人)が出てくる、一方が穏やかにしていても他方は激しくする、一方は強壮であるが他方はおとなしい、一方は育てるが他方は破壊する。

だからこそ「道」に従う聖人は極端な行いを避け、奢りを避け、極端な安らぎ避けなければならない。

 

----

 世の中、思っていることが叶ったら大変なことになります。「私=自我・社会的な自己」が「本当の私」であったら大変なことになります。「私=自我・社会的な自己」が思ったことを実行したり、思ったことに身体が従ったらどうなるでしょうか。小さい頃に親から叱られて、”もういいや・こんな家出ていこう・・・”という思いを実行したら今ここに生きているでしょうか。気に入らない事や気にいらない人に苛立って、その苛立ちが現実になったら誰もが生存できていないかもしれません。血圧を勝手に思い通りにしたり、血流を変えたり心臓を止めたり思いのとおりにできないのでこうして生きていられるかもしれません。

 思いのとおりにするのは映画の中のキャラクター”スーパーマン・悪魔・神・・”だけであって、何を思うかもわからないのに、あるときは”悪魔”になりある時は”神”になったり世の中はメチャクチャになってしまいます。誰もが自身の思いのとおりにならないからこそ、他人を傷つけることも稀で他人から傷つけられることも稀に済んでいるかもしれません。「私=自我・社会的な自己」が「本当の私」でないから救われています。ごく稀にヒトラーのように権力を得て思いのとおりにしようとして他の人を巻き込んでしまうことがあります。愛国主義を唱えるということは他を避難するために作られた子供じみた思考かもしれません。

 国も家も私も神器であり、私物化して思いの通りにはできないので救われています。私達は、とにかく何かを掴んでいたい生き物かもしれません。それは何も掴むことができないからこそ沸き起ってくるようです。掴まれる実体もないし掴む実体もないという証拠かもしれません。部分は全体に付き従って動いていますが、部分の視点では全体の中で自(=部分)らが意志を持って動いていると感じています。因果というものも、これが結果だと断定することで原因を探して特定しているだけのことです。ただ起っては消滅しているだけで無理に原因をこじつけているだけかもしれません。あるがままに善悪をつけさえしなければただ”あるがまま”でしかないので原因をどうのこうの詮索する必要がありません。

 

 歴史上多くの為政者(=俯瞰して見ればちっぽけな人間)が身の丈を超えた制服欲に振り回されてきました。未だに制服欲を丸出しにしている国もあります。神器である天下(=国)を牛耳りたい、思いのままにしたいのでしょうか。戦争になれば誰が苦しみ国がどうなるか、何度も何度も歴史で証明されているはずなのですが・・・。

 

 掴むということを考察してみます。冷静に自己の手を観察してみます。手が塞がるのは何かしているときであり、それ以外はほとんど”空手”です。もし”空手”でなければ物を掴んで持ち上げることはできません。当たり前のことですが、何かを掴めるということは握っていないということです。握っていない状態であるので何かを掴めます。手には何もないということです。コップも空であるから飲み物を注ぎ飲むために使えます。空っぽだからこそ使えます。私達がいつも水が入ったままのコップのように思いが詰まっていたらどうでしょう。他のことを味わえなくなってしまいます。常に消え去って空っぽだから見えたり聞こえたり味わえたりできます。匂いが消えなかったり、味がいつまでも残っていたら大変なことです。滅によって一期一会を楽しむことができます。思いに執着せず手放せれば憂いは減っていくかもしれません。

 

 戦国時代の武将は、武将の家柄か戦績を認められた成り上がり者かのどちらかなのでしょうか。側近には戦略・戦術にたけた智将もいたかもしれません。成り上がり者であれば、家来に見下されたかもしれません。成り上がりの武将は自らの力だけが頼りです。とりあえず力に従うものを従える他ありません。力でしかコントロールする術がなければ”暴君”とならざるを得ないのでしょうか。暴君であれば、家臣に疎まれ常に命を狙われていたかもしれません。

 信じられるものは忠臣であり、忠臣を重用することになります。暴君は相当なストレスを抱え混み、治世より保身に明け暮れたかもしれません。軍に見透かされないように軍の士気を維持し続けなければなりません。戦わない軍備はタダ飯ぐらいの”無用の長物”となります。必然的に勢力を拡大していくしかありません。結局は無理な勢力拡大を行い、無謀な戦いになり自滅していくことになるようです。国土は荒れて多くの人が犠牲になります。

 取り巻きが適材適所で働き、地方の武将が将軍を引き立ててくれれば長期政権も可能かもしれません。しかし、誰にでも死が訪れすべてを奪い去ってしまいます。どんなに気をつけても自然の掟(=死)に逆らうことはできません。”おごれる人も久しからず、 ただ春の夜の夢のごとし”です。

 

 無私無欲で寝食を忘れ自己犠牲を払って国のために働くような人は多くはいません。兵士が戦うために農民から食料を上納させ、戦地で戦利品の略奪を繰り返します。ある国の博物館には略奪品が多く飾ってあります。略奪品を誇るようなことをしたのか甚だ疑問を感じる人もいるようです。

 

 ある人が天下(=国)を取ったと聞けば、他の武将はいても立ってもいられず同じように戦争を仕掛けます。穏やかにしていれば、他の武将は戦争の準備に勤しみます。農地を耕せば、他の武将が乗り込んで奪おうとします。

 極端な行いは敵に知られ、栄華を誇ればすきができます、のほほんとしていれば攻め入られてしまいます。老子さんは、目立つようなことはせずにいなさいと忠告したのでしょうか。

 

 世界中から戦争ごっこが終わり、平和のもとで暮らしてもらいたいのですが・・。

 中国での戦国時代では、識字のできない人に教えるよりも君主に無為自然や徳を促す方が効果的だったかもしれません。人間の制服欲が消える日は訪れるのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(60)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

ただ観察する [阿含経]

南伝 相応部経部22-21 阿含経典二巻 P35 増谷文雄著 筑摩書房

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、長老アーナンダ(阿難)は、世尊のいますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに座した。

傍らに座した長老アーナンダは、世尊に申し上げた。

「大徳よ、滅だ、滅だと仰せられますが、いったい、いかなるものの滅するがゆえに、滅と仰せられるのでありましょうか」

「アーナンダよ、色(肉体)は無常である。因(原因)ありて生じたものであり、縁(条件)ありて生じたものである。だから、それは消えうせるものであり、朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものなのである。そのように滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

アーナンダよ、受(感覚)は無常である。因ありて生じたものであり、縁ありて生じたものである。だから、それは、消えうせるものである。朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものなのである。そのように滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

想(表象)は無常である。・・・

行(意志)は無常である。・・・

アーナンダよ、識(意識)は無常である。因ありて生ずるものであり、縁ありて生ずるものである。だから、それは、消えうせるものである。朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

アーナンダよ、このように、これらのものは滅するがゆえに、滅だというのである」

------

 動物は変化している事象に対して本能的に反応するままにただ生きているのでしょうか。人間は反省したり1年後のことを考える能力があります。動物が1年後の自分を想像することができるでしょうか。動物は、ある特有な”音”を出して知らせることで危険を回避しているかもしれません。動物の発する音は、何かを創造するのではなく身を守るために発したり威嚇のために使われている。

 ホモサピエンスは、言語の発明によって様々な創造力・想像力を発揮していると言っていいかもしれません。地球上で「私は誰?」と自問自答できるのは人間だけです。言語によって発せられたものや記述されたものによって、現実のモノとなって現出しているのでしょうか。反面、見たこともないモノを概念として作り出していることも否めません。世界中のいたるところで、”私”・”神”・”魂”・”心”という概念が作り出され、個々人が自分なりの観念として使っています。全く一致しする”私”があるでしょうか。多分各自の名前やアイデンティティを”私”として抱いているのではないでしょうか。固有の”私”であって真なる”私”はどこにもないことになります。数字の”1”と同じで、どれを”1”にしてもいいということで、正解の”1”はどこにもないことになります。

 

 最初から”天気”・”海原”・”晴天”・”花”・・・・が存在していたわけではなく、ただ”全体”がそのままにあっただけです。だれもが”天気”という決まりごとに同意して使おうということになっています。それもその国の人だけが合意したものです。言葉は合意による便宜的なものです。

 全外があるだけなのですが、全体の一部を切り取って”天気”と命名したまでのことです。誰一人”天気”を掴んだり得たり変えたりすることはできません。存在は変化し続けているし一切が切り離されずに連続して繋がっているというのが存在の姿です。

 ”空気”という言葉が作られたときの、まさにその原初の”空気”はどこにも存在しません。”山”と定義されたまさにその原初の”山”はどれなのかサッパリわかりません。何が言いたいかと言うと、言葉は単なる表象であって各自が思い思いに思い込んでいるイメージであって各人が一致するものはありません。存在は常に変化していて全く同じ状態などありえないのに、言葉が同じであるということは”錯覚”と知りながら使っているということかもしれません。存在が無常であるのに、存在を表現している言語は変化しない(=無常ではない)ということに違和感がないということが不自然です。

 私達は存在を掴みとって解釈したい、知っておきたい理解していたいがために言語を使っているかもしれません。変化するまま繋がって一体のままにいられないのでしょうか。生も人為的に区切り”生まれた”・”死んだ”という区切って考えます。宇宙開闢以来から途切れることなく繋がって変化してここにあるということかもしれません。どこかで途切れていれば今ここにある存在は存在していません。今ここにある存在も変化しながら繋がっていくことでしょう。変化のどこかで区切る必要もないし、全体をどこかで区切る必要もないかもしれません。私達は細分化していくことで分かろうとしていますが、実は細分化することで自らを振り回して混乱しているかもしれません。

 ”川”も”山”も各々の勝手なイメージとしてあります。今ここでヒマラヤを見ていなくてもヒマラヤと言ったりヒマラヤについて語ることができます。この今ここにありもしないことが妄想だということを認められません。

 存在は単に我々の記憶の中に言語とイメージとしてだけあるということを疑うことがありません。存在は今ここで光や音の情報が処理されている像や音や感覚としてあります。それも確実に生滅している無常なモノや現象です。滅しているものを滅しているとそのままに観察し、無常なるモノを無常であると観察できれば今ここの現実から離れることはありません。頭の中のおしゃべりは、単におしゃべりであって勝手に話していて”私”ではないとふと気づくことを繰り返す。勝手なことを言っているなとただそのままに観察する。勝手なおしゃべりに干渉したり、なんとかしようとしない。

 「諸行無常」とは当たり前(=無常)であることを当たり前(=そのまま)に全面的に受け入れることなのでしょうか。

 

概念:物事を言葉で定義して共通の認識

観念:人それぞれの経験や文化や家庭や環境によって抱く個人的な思い

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(49)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

老子−28 [老子]

知其雄、守其雌、爲天下谿。爲天下谿、常徳不離、復歸於嬰兒。知其白、守其黒、爲天下式。爲天下式、常徳不忒、復歸於無極。知其榮、守其辱、爲天下谷。爲天下谷、常徳乃足、復歸於樸。樸散、則爲器。聖人用之、則爲官長。故大制不割。

 

知:物事の本質を知る

守:否定せずにとどまる

谿:細くて狭い山あいの谷

嬰兒:赤子

式:手本、模範

忒:疑う

樸:自然のまま、あるがまま

 

----

雄の本質を理解し、雌の本質を否定せずに保持していれば、あらゆるモノが流れ込む谷のようである。あらゆるモノが流れ込む谷というのは、その人から「徳」は離れることはありません。赤子のような純真無垢へと回帰する。白の本質を理解し、黒の本質を否定せずに保持していれば、天下の模範となる。天下の模範であれば、疑うことのない「徳」が身につき、無分別へと回帰する。繁栄の本質を理解し、屈辱の本質を否定せずに保持していれば、あらゆる事を受け容れる大きな谷となることができる。あらゆる事を受け容れる大きな谷であれば、「徳」に満ち足りて自然の状態へ回帰する。無為自然の人が国中に散らばり、様々な役割を担う人材となり活躍する。

聖人が無為自然の人を登用すれば、それぞれの役割を担う指導者となる。

統治を大成するには選り好みで選ばずに、「徳」のある人を配置することである。

 

<他の翻訳例>

雄鶏のような力強さを知り、雌鶏のような柔らかさを守り、天下に時を告げる鶏となる。

天下に時を告げる鶏となり、自分の本質から常に離れない。

自分の本質から常に離れず、赤ん坊のような柔らかさを回復する。

潔白な人々のあり方を知り、汚辱にまみれた人々のあり方をも受け止めれば、

天下の人々の思いの流れ込む谷となる。

天下の谷となり、その本質が充足する。

その本質が充足し、荒削りの木のような純朴さを回復する。

言葉で表しうる明白な議論を理解した上で、

言葉では表し得ない神秘を守れば、天下の模範となる。

本質は常に歪まず、極まることのない境地を回復する。

荒削りの木を、分割してバラバラにすれば、それぞれが小さな器となる。

果てしない潜在力を持つ人間の本性をそのまま活用せず、

都合に合わせて切り取れば、何かの役を果たす「人材」になる。

そういう人でも、聖人が用いれば、

官吏の長を勤めさせることくらいはできよう。

しかし、そもそも立派な制度のものであれば、荒削りの木を割くことがない。

つまり、ありのままの人間を活用して、役割に押し込めることなどない。

老子の教えあるがままに生きる  安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

----

 生まれてきた生命体は「死」から逃れることはできません。自ずから制御できず必ず訪れる「死」という不安がつきまといます。生きている間も様々な困難辛苦があり不安と背中合わせで生きてかなくてはなりません。動物は進化の過程で身を護る術(=毒・派手な身なり・堅牢な外皮・・)と固有の繁殖方法で少しでも安全に生きられるように変化しながら命を繋いできています。動物界は弱肉強食の世界のままです。人間は言語を発明し、存在に意味や価値を定義したり現実に存在していなものを想像し伝達し同じ認識を抱くことができるところが大きな違いでしょうか。誰一人見たことのないただの概念である「神・魂・心」を想像し不安を解消しようと努めています。

 戦国時代にあって、人々は”不安”を抱えて日々の生活を送っていたのでしょうか。弱肉強食の「力」によって権力争いをしていたと想像できます。”不安”の解消には動乱が治まり安定した治世が必要だったかもしれません。リーダーの「徳」による治世となれば”不安”が和らげられると期待したのでしょうか。

 孔子も老子も「徳」による治世を望んでいたと思われれます。孔子は言葉で定義された”徳”を身につけた君主を望み、老子は言葉以前である二元対立以前(=思考以前)の「道Tao」を体得した君主を望んでいたのでしょうか。

 孔子の言う「徳=仁・義・礼・智・信」で治世するより無為自然を実践している「道Tao」の人こそ治世ができると説いているのでしょうか。

 

 孔子さん言葉の世界では言葉に翻弄され続けますよ。思考を超えた先に何かがあるのではありません。言葉以前(=嬰兒)、思考・分別以前(=無極)、誕生以前(=樸)を体得しなければ決めごとや策に溺れてしまうのではないですかと言っているのでしょうか。実際、我々は男でも女でもありません。世間で性別を教え込まれ、区別されるのが当然のことのように育てられてきたからからでしょうか。

 

 二元対立的に考えるのは、人間が存在を好き勝手に分離分割して区別差別してきたことによるかもしれません。二元対立的に分別する癖によって互いに対立する言葉があります。一方の本質を理解すれば他方は〜でないとすれば理解できます。雄の本質さえ理解すれば雌の本質は自明のことです。赤子にとっては雌雄などの区別なくあらゆるものを個(=自身)で受け入れなければなりません。よって”小さな谷”と比喩したかもしれません。赤子には私利私欲や私心がついていないので”徳”が備わっています。私心が芽生え、言葉を憶えることで区別差別するようになり観念で汚れていく事になります。

 

 次に、存在自体には善・悪も垢・浄もなく(=不垢不浄)レッテルも貼っていません。常に両極に揺れ動いていれば平静でいられません。また「清水に魚棲まず」とあるように、清濁・明暗・・のある世界に生きていながら一方を否定することなど意味のないことです。神の概念が通用するのは悪魔の存在によってです。犯罪者がいなければ正義など大威張りすることはできません。困苦を味わっている人がいなければ慈悲心ということすら存在しません。何度も書いていますが、”悪役”や”困難”のない映画など味気ないものかもしれません。TVスタジオで撮影されている、晴天続きのドラマは現実離れしていると思うのは当然ことです。現実は雨や嵐や雷や・・・日々状況が変化しています。日々同じ天候は人工的なものであって、自然のものではないく現実離れしています。変化に富み深みがあることで人生に味わいがあります。”苦”があってもいいし”病気・老化”があってもいい、予想だにしないことが起こっても”あるがままに受け入れ”ることでじっくりと味わってみるのもいいかもしれません。一見意味のないことや不必要なことや忌み嫌うことがあることで、人生が輝いていると知ることがあります。どんなに美味しい料理でも毎日同じでは飽きてしまいます。たまには苦味・渋味・辛味・・・色々の味があってもいいのではないでしょうか。

 

 最後に、瞬間瞬間を前後裁断してその瞬間だけを見聞覚知しているとしたら、その瞬間はただ結果としてあります。その結果である”あるがままの状態”を否定することはできません。否定すれば今の世界(=宇宙全体)を否定したことになります。宇宙が間違っているということは自身の存在も間違っていると言っているようなものです。結局は”あるがまま”を”あるがまま”に受け容れることしかできないということです。それが無為自然の状態かもしれません。計らいのない自然に即した生き方ができる人(=徳)が適材適所に配置できれば国は安泰かも知れません。治世者が言葉で徳を理解し、策略を練って生きている部下が人民の為に働くでしょうか。私利私欲のない真の「徳」を備えた人が望まれていたのは今も変わらないようです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(56)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

 [阿含経]

南伝 相応部経部22-21 阿含経典二巻 P35 増谷文雄著 筑摩書房

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、長老アーナンダ(阿難)は、世尊のいますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに座した。

傍らに座した長老アーナンダは、世尊に申し上げた。

「大徳よ、滅だ、滅だと仰せられますが、いったい、いかなるものの滅するがゆえに、滅と仰せられるのでありましょうか」

「アーナンダよ、色(肉体)は無常である。因(原因)ありて生じたものであり、縁(条件)ありて生じたものである。だから、それは消えうせるものであり、朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものなのである。そのように滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

アーナンダよ、受(感覚)は無常である因ありて生じたものであり、縁ありて生じたものである。だから、それは、消えうせるものである。朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものなのである。そのように滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

想(表象)は無常である。・・・

行(意志)は無常である。・・・

アーナンダよ、識(意識)は無常である。因ありて生ずるものであり、縁ありて生ずるものである。だから、それは、消えうせるものである。朽ち衰えるものであり、貪りを離るべきものであり、滅するものであるがゆえに、滅だと説くのである。

アーナンダよ、このように、これらのものは滅するがゆえに、滅だというのである」

 

-----

 私たちを本当に幸せにしてくれる何かが存在していて、それを得て何の不安もなく生きている人がいるでしょうか。映画に出てくような願いを叶えてくれる魔法の◯◯が存在しているでしょうか。そんな◯◯を得て老・病・死から解放された人などいません。幸せは外から与えられるものではないということでしょうか。

 自身の内に苦を認めないで「私」を満足させてくれるものを探し回ってはいないでしょうか。楽は外にあって外から手に入れようとしてはいないでしょうか。苦楽は外にあるのではなく自身の中の苦を解決することで平安であったと気づくのでしょうか。苦をなんとかしようと対処療法だけに頼れば、外に楽を求め続けなければなりません。苦の根本治癒は自身にかかっているようです。

 

 何回も記述してきましたが、経典の中で「得る・掴む・成る」とは書かれていません。「滅・断つ・離れる・無我・無常・あるがまま・観察」という表現が多く見られます。私たちは、本を読んだり人の話を聞くことで何かを掴んだり得ようとします。言語で何かを掴むことで変身できるでしょうか。本を読み終えて変身したり、朝起きたらカフカの小説のように変身するでしょうか。ライトペンを掲げてウルトラマンに変身したり、手を回して仮面ライダーに変身したりスパイダーマンに変身したりスーパーマンに変身して空を飛んだり・・・。映画や小説の中の絵空事は現実には起こらないので映画として成立します。お釈迦様も同じ人間であり、寝て起きて食べて排出していた普通の人間だったはずです。

 もし、何かを得てある境地に達したのなら同じ境地であるはずです。異なる生活環境・教育・言語・習慣で生活し、異なる見聞覚知であるにもかかわらず何かを得ることで全く同じ境地に達するでしょうか。

 異なる思考を経て同じ結果に行き着くのなら多くの哲学者は無駄骨を折ることになります。思考で同じ境地が得られるのならとっくに何人かが得ていてしかるべきなのですが・・・。思考によって正解には達していないようです。科学技術は似たような実験で同じ結果として出てくるので誰にでも分かるのですが・・。

 思考を経てある境地には達することはできないということではないでしょうか。思考を経るのではなく思考以前のただ見えているただ聞こえているままが正解であり、誰もが既に達成しています。ただ気づきません。

向かわんと擬すれば すなわち そむく

 

 私たちが認識している”存在”は、”存在”自体が”存在”そのものであるとしているからです。”存在”は私たちが認識しなくても存在しているんでしょうか。私が死んだら”存在”認識できないので、”存在”は存在しません。事実熟睡中に存在を認識できません。”存在”は認識されることによって存在となっているということ。”存在”自体に自性はないということです。

 私たち(=主体)は、”存在”(=客体)が認識する以前にあるという観念(=思い込み)で見ているということです。しかし、認識できないものがどうして”存在”していると言えるのでしょうか。天文学以前では、冥王星は存在していたでしょうか。誰一人見たこともなく名前がつけられていない星は存在していたでしょうか。彼等には冥王星は存在していませんでした。現代の我々は知識の中だけで存在しているのですが、実際の存在を認識できていません。ただ存在(=冥王星)としてあるはずだという観念(=思い込み)で認めているだけにすぎません。

 私たちはマジックを見て驚くことがありますが、実は騙されているだけかもしれません。我々が思い込みに翻弄されているからです、自身の思い込みに騙されているかもしれません。人体を切断するマジックでは箱の中に一人しかいないと思い込まされてしまっているからです。マジックの種明かしによって、思い込みであったと眼が覚めます。自身の思い込みを笑うしかありません。

 私には眼があるというのも観念であって、自身の眼を直視できる人などいません。他人の眼を見たり鏡で間接的に見ることで眼があると思い込んでいるだけのことです。どうして見えているかなど今でも分かりません。分かってもコントロールすることなどできないので不思議のままです。

 

 ある現象(=光の反射、空気中を伝わる振動、味、臭い・・)を感受して反応することで”存在”として認識されます。気づいている「私」というのも観念(=思い込み)かもしれません。対象とされる一切は「私=本来の自己」ではありません。ディスプレイは認識される対象なので「私=本来の自己」ではありません。”手”は認識される対象なので「私=本来の自己」ではありません。概念化されて名前がついている一切は対象となるので、「私=本来の自己」ではないということです。「私」としているものはすべて観念(=思い込み)だということになります。

 

「私」が見ているのではなく、光の反射によって眼の網膜に像ができ光の周波数に応じた色調ができあがっています。次に3次元の像として認識されたものを見ている、見えているものに気づいています。

 よく他人といいますが、”他者”は自己の外に存在しているのでしょうか。例えば自宅で会社の人のことを話題にしている時には、外に存在している他人を見ているのではなく、自身の記憶にあるイメージとしての”他者”を話題にしています。実在ではなく自身の頭の中でつくられたイメージ(=幻影)です。他者は自己が認識しているときだけ存在しています。自己こそがあらゆる存在を存在たらしめています。殆どが自己の内にあるイメージを何とかしようとしています。

 他者は自己の中で構築された”他者”として存在しているので、結局は自己を見ているということになります。他者を恨んでいるように思っていますが、自己の中にある恨むべき他者として作り上げた”自己の思い”を攻撃対象としています。自己が自己の思いをなんとかしたいと悩んでいます。つまり、幻影(=他者のイメージ)を幻影(=自己の思い)でなんとかしようとするゲームに一生懸命に夢中になっているだけかもしれません。

 

<問題(=混乱・葛藤=苦)を見抜くには>

※主観・客観・解決したい、全ては同じ思考であって次から次へと展開されているだけで同根の自我の働き。

・貪りが起こる(=主観)貪りはいけない(=客観)貪りの葛藤に気づく(=気づき)葛藤を解決したい

・怒りが起こる(=主観)怒りはいけない(=客観)怒りの葛藤に気づく(=気づき)怒りを解決したい

・夢を抱く、希望を抱く、何かを手に入れたい、何者かになりたい

※全てはある条件によって起こった、ただの”思い”だということです。

1.主観側

 どうしても「私」という感覚があり、現象(=光の波長、空気の振動・・)を意味のあるものとして解釈してしまいます。解釈したものを自身の固定観念で判断して分別(=白黒・是非・・)します。自身の感覚は天気のような現象であり、自身でコントロールできるものではありません。しかし、現象を認識したのは「私」であるので、「こうあるべき」という自身の思いで処理しようとします。自身の”固定観念”が正しく”現象”は間違っているとしてしまいます。

 マジックの種明かしによって「私」は存在していないと理解しなければなりませんが、種明かしを理解できず思い込みが解けない限りつねに騙されつづけることになります。

 期待通りの天候であれば何も気になりませんが、期待を裏切っている天候では気になります。コントロールできない自然現象なのですが、受け入れがたい気持ちのほうが強いままのようです。

 よく観察すれば、自身もコントロールできない自然現象だということです。感受も無常ですから必ず消滅します。嫌な思いが出たらそのまま味わうことで消え去るという体験をするしかありません。嫌な思いを否定すると混乱・葛藤がかえって燃え上がります。煩悩を力ずくで抑えようとすると煩悩は強められ、さらに大きく強固なものとなってしまいます。手に入りにくいと知ると貴重なものだと思い込みかえって欲しくなってしまう経験があるのではないでしょうか。

※思いによって解決できるのなら悩む人はいません。思いも無常なので放っておくと自然にきえてしまいます。未だに小さい頃の欲望に振り回されている人はいません。自然に消えています。

 

2.客観側

 嫌な感情が起こった時に、その感情は平静を乱しているので反対概念によって主観を否定しようとします。反対概念が強くなれば主観側も強くなり、火に油を注ぐことになります。反対概念に意味がないと諭していきます。

デモ隊に対立するデモ隊がちょっかいを出さずに解散する。

※対立が無くなると警察の出動も必要がない(=消え去る)

 

3.マスコミ(=目撃者・伝達者・解説者・評論家・記憶)

主観と客観との混乱・葛藤があるということを目撃しています。

混乱・葛藤に気づいている自分がいます。実際のニュースであればTVを見ないようにする。マスコミの伝えることは、知らなくても困らないことだと理解する。

 

4.警察(=平静を保ちたい)

混乱・葛藤を”なんとかしたい”というのも自我です。ただ”なんとかしたい”という事が起こっただけのことです。この思いも無常ですから放っておけば消えてしまいます。何もしないで消えるという体験を重ねます。

 

※思いは自然に湧き起こっているだけであって、「私=本来の自己」ではありません。

前後裁断、続きモノとせずに何もしない(=手を付けない・関知しない)只管打坐が効果的です。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




nice!(51)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

老子−27 [老子]

善行無轍迹。善言無瑕?。善數不用籌策。善閉無關楗、而不可開。善結無繩約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。

 

善:正しい。すぐれた

轍:わだち、跡

迹:足跡

謫:あやまり

數:算術

籌:数を数える竹の棒
關楗:かんぬきを通す
襲明:大道を明らかにする

雖:ではあるが
-----

 うまく行う人は跡を残さない。雄弁には滞りはない。すばやく計算できる人は道具を使わない。閂をとおさなくてもしっかりと門を閉めることができる。しかも簡単には開けられない。縄を使わなくてもしっかりと結合することができる。しかも簡単には解けない。このように痕跡もみせず道具も使わない聖人であればこそ、人を救えるし、人は見捨てられない。物をうまく使えれば、捨てることなど無い。このことを「大道を明らかにする」という。故に善人は、不善人の師である。不善人は、善人のたすけとなる。善人を師と貴ばず、不善の者を己のたすけとして愛さないのなら、智慧があったとしても迷ったままである。これを「奥深い真理」と言う。

-----

 この章で使われている”善”は道理に従って熟達していることを言っているのであって、”善悪”の概念の”善”ではないようです。”善人”も「道Tao」にそった生き方をしている人を念頭にしているのでしょうか。また、万物斉同の視点と無為自然な生活を実践している人のことかもしれません。

 

<うまく行う人は跡を残さない>

 武道の達人となるとどこから手が出るかもわからないし、とらえたと思ったら逃げられています。バレーダンサーは重力がないかのように跳ぶことができます。包丁さばきの達人はどうやって包丁を動かしているのかわからないくらい見事にさばきます。狩りをしている動物も動作を気づかれないように近づきます。

 達人はいつどのように仕上げたかもわからず、痕跡を残さずにやり遂げています。中途半端(=道の途中)な人は、名を残そうとか目立つために”らしさ”を見せびらかすようです。いかにも芸術家・音楽家・舞踊家・・・の外見をしています。(能ある鷹は爪を隠す)

 新潟県で”国際ロマンス詐欺”が新聞の三面記事として掲載されました。カメルーン人の男性が米国人の軍人の写真で信じ込ませたようです。いわゆるなりすましです。かなり昔ですが、軍服やパイロットの制服で詐欺行為をしていた人もいます。私たちはSNSで姿のない人の言っていることを簡単に信じたりしているかもしれません。ここで書かれていることも安易に信じないようにお願いします。

<雄弁には滞りはない>

 山岡鉄舟が三遊亭円朝に「舌ではなく心で語らなければ噺は死ぬと説いた」ことで気づきがあり「無舌居士」の号を得たとの逸話もあります。

<すばやく計算できる人は道具を使わない>

 「名人伝(青空文庫)」で弓を使わずに射ることができ、最後には弓の使い方も弓という言葉さえ忘れてしまった人の話です。画家は筆を隠し、音楽家は弦を切ってしまったという。算盤の達人は算盤を使わなくても計算ができます。自転車を乗りこなしていくうちに、ハンドルもブレーキがない一輪車を操ることができます。その道に通じた人は道具を選ばずに道具を使いこなします。「人馬一体」

 ピアノでも習い始めから「打つ→叩く→弾く→奏でる」というふうに、道具と人間との接点がほんの僅かでも使いこなすようになります。何の力みもなく淀みもなくサラサラと流れるように・・。

 初心者の頃は道具と「私」が分離していて、何とか思い通りにしたい「私」が道具に手懐けようと一生懸命です。次第に道具の特性を理解して確認しながら道具を使うようになります。道具が自身の手足の延長のようになっていきます。次に「私」が消えて一体となれば達人の域(=ゾーン)に入るのでしょうか。

 何かをしている人もいないし、使われている道具もない。ただ音が鳴り響いていたり、ピンポン玉が勝手に弾かれていたり、文字が書かれていたり絵が描かれていたり歌声が響いていたりしています・・。

 噺す人もいないし聞く人もいない、ただ”笑い声”だけがある。動いている選手もいないし見ている人もいない、ただ”大きな歓声”だけがある。選手も「私」が動いていると思っていないし、観客も「私」が観ていると思っていない。選手はただ動き、観客はただ観えていた。ただ自然に歓声が渦巻いている。その”大歓声”があるだけで、「私」を意識すること無くノーサイドとなる。だれもが”無我無心”になりきっていたということかもしれません。

 

 思考によって”無我無心”がもたらされているのでしょうか。それともだれもが既に”無我無心”であるのに気づいていないのでしょうか。もしかしたら、思考を無闇に回すゲームに夢中になりすぎて見抜けないのかもしれません。そう、私たちはすでに「それ」なのに、直視できるわけのない自身の「顔」を見ようと頑張っているだけなのかもしれません。思索した先に何かにたどり着くのではなく、主客未分の直接経験が「それ」であり”青い鳥”は遠くのどこかにいるわけではないようです。

 不思議なままでいいのに、不思議を知ろうとします。不思議の表面上のことが分かったとしても、コントロールすることも本質を変えることもできません。花の開花の仕組みを知っても条件を整えることしかできません。不思議を不思議のままに味わいたものです。甘いものを食べて何故甘いかを知っても、口の中で苦くすることはできません。不思議なまま甘いまま味わえばいいだけではないでしょうか・・・。

<閂をとおさなくてもしっかりと門を閉めることができる>

 塀で囲まれて外から見えない住宅より人目につく住宅の方が泥棒から敬遠されるようです。老子の生きていた時代は閉めるというより開けさせない、結ぶというよりは取られないようにしていたかもしれません。目先を変えて観音開きから引き戸にするとか、結ぶのではなくはめ込み式にするとか様々な工夫ができます。閂や縄を使わなければならないというのは固定観念でしかないということかもしれません。平行動作から垂直動作へ垂直動作から回転動作へと展開していけばアイデアも尽きないかも知れません。

 

 私たちは事象を二元対立(=白黒等)で見る癖がついていますが、玉石混交でありファジーで不確かなのが現実の姿かも知れません。甘い食べ物に塩を入れたり苦味を入れると奥深い味となったり、香水の中にトイレ臭を混ぜると奥深くなりいい香りが引き立ったりするようです。オーケストラに管楽器・木管楽器・金管楽器・弦楽器・打楽器・鍵盤楽器・和楽器・・・様々な音域と音色があり混ざり合うことで迫力のある音として感じられるようです。

 芝居でも脇役が重要なスパイスとなったりします。ボクシングでも捨てパンチが重要であったりするそうです。最高のものだけでは最高を表現できず、無駄なものやとるに足らないものや反対のモノも必要かも知れません。

 

 ビジネスチャンスとは楽をしたい面倒を減らしたい困り事を少なくしたい時間を無駄にしたくない楽に移動したい重いものを持ちたくない快適でいたい、苦労したくない難儀をしたくない・・・。とにかく楽できるモノやサービスを希求しているように感じられます。そんなにも苦と感じて生きているのでしょうか。現代版の不善人は楽をしたい人で、善人はモノやサービスを提供する人のことでしょうか。そうではなく、道の人が善であり道を志さなければ不善と決めつけているのでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(73)  コメント(1) 
共通テーマ:学問

苦の生滅 [阿含経]

プンナ

 南伝 相応部経部35-88 阿含経典三巻 P55 増谷文雄著 筑摩書房

「プンナよ、①眼は色(物体)を見る。その色は、心地よく、愛すべく、心を浮きたたせ、その形もうるわしくして、魅力的である。②もし比丘が、それを喜び、それに心を奪われて、執着していると、やがて彼には、喜悦する心がおこる。そして、喜悦する心がおこると、プンナよ、苦が生起するのだ、とわたしはいう。」

プンナよ、また、耳は声を聞く。・・・鼻は香を嗅ぐ。・・・舌は味をあじわう。・・身は接触を感ずる。

もし、③比丘が、それを喜ばず、それに心を奪われず、執着することがなければ、いつしか彼には、喜悦する心が滅する。そして、喜悦する心が滅すると、プンナよ、苦は滅する、とわたしはいう。

 

------

 「不思議」という言葉は「不可思議」という言葉の略だそうです。

1.説明のつかないこと。2.仏語:人間の認識・理解を越えていること。

 以降、思議できない。議(=正否)の対象として思わない、思えない。考えることではない。

 花は何故咲くか、魚は何故泳ぐか、人間は何故ここに存在するか、なぜ宇宙があるのか・・。解明したとしても、知識のコレクションの一つが増えるだけかもしれません。知識があったとしても、宇宙空間で花を咲かせることはできません。気候システム知ったとしても気候を制御できるわけではありません。

不思議のまま、考える必要のない”ただそのようになっている”だけのままではいけないのでしょうか・・。

 

①「眼は色(物体)を見る」

 眼の網膜に光の波長が刺激となり、像は自分自身のスクリーンに映し出されたものとして認識されます。像は外にあるのではなく像自体が自分自身そのもの。音(=空気中を伝わる振動)も外にあるのではなく、耳から入り自身が鳴っています。見るのではなく見えている、聞くのではなく聞こえている・・・外にあるのではなく自身そのものとして一体となっているので認識できているのではないでしょうか。

 通常は自他の区別があるため、色(物体)を見れば得ようとします。眼自体に我は無いので”無我”です。眼は危険なものでも忌み嫌うものも恐ろしいものも魅惑的なものも華美なものも・・平等つまり絶対(=対・対立を断ったもの)なるそのものとして受け入れています。なんでもかんでも拒否することはありません。しかし、意の働きによって瞬時に二元(=善悪・好き嫌い・・)に分け分別(=判断)するので平等ではなくなってしまいます。思慮分別する以前には無我であり平等(=迷いのない・苦のない)でした。分別すれば執着か忌避が起こり混乱・葛藤が起こり”なんとかしよう”と平静ではいられません。

 

②「もし比丘が、それを喜び、それに心を奪われて、執着していると、やがて彼には、喜悦する心がおこる。」

 ただ五感で感受するだけ(=第一の箭)なら何も問題はありませんが、分別が起こり執着すると、やがて得たい掴んでいたいという所有へと向かいます。

 心は今ここを離れ対象に向かい、得ようとする対象と得ようとする自身という分裂(=主客)が起こります。葛藤・混乱(=苦)となります。どんな対象であっても無常なので必ず消え去ります。所有も執着もことごとく無へと帰するので満足とはならず苦という結果となります。得たとしても、無常であり劣化して遂には消え去ります。結局は満たされず苦となります。

 無常なものであり執着する価値のないものです。”不思議(=考えることではない事実)”とし見ている他ありません。縁によって手にしていれば大事に使えばいいし、手にすることができなくてもそのまま放っておけば忘れてしまいます。三歳児の頃に欲しがっていた玩具が今でも欲しいでしょうか。1年前に欲しかったモノは古くなり執着対象から外れているかも知れません。同じ機能で価格の安い同等品が出たり、デザインが古臭くなっているかもしれません。

 

③「比丘が、それを喜ばず、それに心を奪われず、執着することがなければ、いつしか彼には、喜悦する心が滅する。」  いつしか:自然に、知らぬ間に

 五感で感受しているだけでとどまることができていれば、欲しいという心も無常でありいつしか滅していきます。放っておけば一切が消滅するというのがこの宇宙全体の決まりごとです。良いことも悪いことも喜びも悲しみも記憶から呼び戻さなければ綺麗サッパリ消えてしまいます。無理矢理ある時点で区切れば差があるように見えますが、最終的(=死)には全くの平等(=対立が絶たれている=同じ結果)ということです。「起きて半畳寝て一畳、天下とっても二合半」1億円のベットで不眠症よりはありふれたベットで熟睡できたほうがいいかもしれません。大金持ちが"特別な空気"を吸えるわけでもないし”特別な音”として聞こえるわけでもないし、”特別な臓器”があって老化しないわけでもないようです。意味のない比較は疲れるだけかもしれません。

「他人の生活と比較することなく、君自身の生活を楽しめ。」コンドルセ

*****

 私たちの頭の中で起こっていることは社会でも起こっています。検証してみます。

 最近の事例として、米国の大統領選で起こっている問題点を見ていきます。分断(=分裂)が起こるということは混乱(=苦)が起こるということを観察します。

※重要ポイント:対立する念は同時ではないということです。つまり、自身の念であり同じ自分が異なる念となっていることに気づきます。自身が自身で混乱しているということです。

 

・米国で共和党のトランプ大統領が”票を数えるな”と不満をぶつける。

私たちの頭(=主観)の中で現状への不満が起こります。

 同調する共和党員が不正投票だと騒ぎ立てます。

・対する民主党は票を全て数えろと対立します。

自身の頭の中で反対意見(=客観=自己)が起こります。

 不正投票などしていない全ての票を集計するべきだと主張します。

・マスコミ(=対立に気づいている自己・記録・記憶)

自身の頭の中で対立(=混乱・葛藤)があるということを認識しています。

 対立している事実を世の中に伝えます。知らせるべきであり知るべきであるという働きがあります。

・警察が出動し暴動化しないように牽制します。

自身の頭の中で混乱をなんとか鎮めたいという思い。

 混乱・葛藤をなんとかして沈静化したい。

 

 部屋の椅子に坐って、ディスプレイの文字を読み進めていられることと思います。今ここではただディスプレイに点滅している反転した形(=文字)が見えているということだけが真実です。脳は何かを知ろうと読み進めています。自身には何の問題もありません。

 報道機関のお節介によって、アメリカの大統領選挙を知らされることになりました。知ったところで空気が変わることもなく、食べ物の味が変わることもなく、天候が変化するわけでもなく、体調が変わるわけでもありません。極端に言えば”知ること”で今の状況に一切変化はありません。しかし、執着すると囚われてしまい余計な思考が働いてしまいます。

 放っておけなくなりトランプ大統領にケチをつけたり、バイデンを応援するような思いが浮かんでくるかも知れません。”知らなければ”考える必要がなかったのですが混乱させられるということです。このバカバカしいお付き合いが頭の中で繰り広げられているということを見抜くことが大事ではないでしょうか。

 

 問題(=混乱・葛藤=苦)が大きくなる要因

1.主観側

 自分たちだけで騒ぎ立てていればいつしか疲れ果てますが、対立者が乗り込んで反対意見を言われることで反発エネルギーが大きくなります。”火に油を注ぐ”ことになってしまいます。

 もとより反対意見を聞く耳がない主観側は、自己正当化・自己保身行動によって次第に反発が大きくなります。負けたくはないので、自分が正しいと主張し続けます。信じていることを否定されると自身を否定されていると同じに感じます。プライドが許さず、攻撃的になります。反対する人は全て敵とみなし攻撃することを正当化するようになります。興奮状態になり聞く耳を持ちません。

 宗教戦争が一番残虐だ言われるのは自身の信じていることを否定されることが一番の屈辱だと感じるかもしれません。自分は正しいとして生きてきたことを真っ向否定されるのですからいたしかたありません。

2.客観側

 主観側の根拠のない問題提起に対して冷静に意見を言っていましたが、主観側の思わぬ反発に客観側も次第にエスカレートしていきます。主観側が攻撃的になれば客観側も過激になっていきます。

3.マスコミ(=目撃者・伝達者・解説者・評論家・記憶)

 第三者のように冷静に状況を伝えようとします。対立(=混乱・葛藤=苦)が起こっていれば、居ても立ってもいられません。野次馬根性によって知りたい伝えたいという本能的なものが働くようです。報道機関が解決するわけでもなくただ知らせたい。厄介なお騒がせ者かもしれません。責任をとるようなことはありません。私たちの記憶やイメージのようなものかもしれません。

4.警察(=平静を保ちたい)

 対立を鎮めて平静を保ちたい。強行すると怪我人が出たり罪人として連行することになる。しこりが生まれ、しこりが残ることになります。頭の中で”なんとかしたい”という思いです。

5.マスコミ(=目撃者・伝達者・解説者・評論家・記憶)

 すでに消滅してしまった事象(=記録されているだけ)を何度も何度も放送して思い起こさせています。今ここで起こっている事象とは全く関係ありません。何かのきっかけで記録から映像(=イメージ)を引っ張り出して対立(=混乱・葛藤)を思い出します。

 

1〜5まで全てが自己が頭の中で起こっているかもしれません。自身の周りで起こってはいないでしょうか。

例:同僚・ネット・ライン等々でいわれのない誹謗中傷を受けた。上司から無理難題をつきつけられた。ご近所トラブル、相続争い、職場でのトラブル、取引先とのトラブル。人間関係の悩み。自己を悩ますのは同じ人間同士であり、自分自身かもしれません。

※次回は問題自体を消すにはについて。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(58)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

老子ー26 [老子]

重爲輕根、靜爲躁君。是以君子、終日行、不離輜重。雖有榮觀、燕處超然。奈何萬乘之主、而以身輕天下。輕則失本、躁則失君。

 

躁:動き回る

輜重:軍需品の総称
雖:いえども

榮觀:遊び楽しむ場所

燕:くつろぐ
奈:どうして
万乗:一万の兵車

 

重いということによって軽いということが明白になる、静かでいられるかどうかによって軽薄であるかどうかが明白になります。だから、君主は一日を過ごしていても、彼の後ろ盾となる(=落ち着いていられる)ところから離れることはない。
君主が楽しむ場所で寛いでいたとしても、我を忘れずに静かにして心が動じることはない。
一万の兵車を操る君主であったとしても、天下(=人民)を軽んじることはできません。
慎重さを欠けば天下を失う。自身も浮ついて軽薄であれば君主の座を失うことになります。

 

****

<他の翻訳例>

重いものと、軽いものとを繋ぐと、

重いものが下に来て、両者の根となる。

静かにしている者と、騒がしい者とが共にいると、

静かなものが根となって、騒がしい者の君主となる。

 

大軍をひきいる君主は、

終日旅をしてもその輜重を離れるわけにはいかず、

また取り巻きの者がいつも側にいるが、

それでも、神経を尖らせて、騒いだりせず、

私的空間にくつろげば、すぐに安らかになることができる。

 

何万という戦車をひきいる国の王であるというのに、

天下において身を軽くできようか。

軽ければ根本たりえず、躁であれば君位を失う。

老子の教えあるがままに生きる  安冨 歩著 ディスカバー・トウェンティーワン」

****

 老子の生きていた時代の君主は贅沢・軽薄・傲慢のままに好き勝手にやりたい放題だったかもしれません。君主が人格的に優れ人望があれば君主論のような書は必要ありません。今の時代のように企業が大衆へのサービス・娯楽・生活用品等の販売によって収益を上げるという社会システムではありません。物々交換や略奪や人民を武力で守るという代わりに食糧を献上させるということだったかも知れません。力(=武力)によって支配していた。

 人民は操り人形のようであり、君主の命令に従わざるを得ない状況であったことが想像されます。現在のテクノロジーでいとも簡単に、誰かの”つぶやき”がまたたく間に数百万人に伝わることはありません。識字もできない人民に思想を流布するよりも、君主を教化して人民を総取りしたほうが効率的であると考えるのは当然のことです。自らの思想を広めるには、君主にご機嫌をとって重用されるのが一番の近道です。

 

 本来、美醜・長短・善悪・軽重・優劣・是非・・・という対立的なことは人為的に作り出したものかもしれません。比較するものがなければ”あるがまま””そのまま”でしかありません。”美”と感じるのは単に避けるべき違和感を感じずに魅せられるか飽きのないありふれたものに感じる感覚かもしれません。個性的ではなく色々の角度から見れば、色々な見え方ができるだけかもしれません。

 軽いものがあるのではなく、そのものが”そのまま”にあるだけなのに比較対象や基準となるモノがないと真の”そのもの”を確認できないのが脳の癖としてあるかもしれません。動物としての本能である闘争反応・逃走反応(fight-or-flight response)があります。得るべきか避けるべきかを判断しなければならないと思い込んでいます。「私=自我=裁判官」が色々と注文をつけているのではないでしょうか。

 どうしても判断基準となるものが必要とされます。軽いと分かるには基準となるある程度の質量があるものと比較されなければなりません。落ち着きがあり信頼される君主であるかどうかは、静かな佇まいで分かりますよとでも言いたいのでしょうか。

 当時の君主の身の置きどころと言えば、城門から遥か離れ護衛に守られ宝物を背にしていたのでしょうか。現代の一家の主も書斎に籠もったり趣味に熱中したり落ち着ける場所に居たいようです。

 

 君主の怖れることは、自身の軽薄さが人民の噂話によって広がって嘲笑されて信頼を失うことことかもしれません。現代のリーダーも失政によって嘲笑されるようでは政権も長続きすることは難しいようです。

 

 当時の君主は、国を我がモノとして君主に従うことが即ち国の為になる。国の繁栄が人民の繁栄につながる。よって、人民は国の為に命を賭けて戦うのが当然という単純な思考回路なのでしょうか。戦いによって命を失ったり、生活基盤に打撃を受けるのは人民です。実害に苦しんで嘆き悲しむのは人民です。蓄えもないしその日暮らしの人民を軽視していながら、都合の良いときだけ国の為(=人民の為)としているのには矛盾があります。

 宇宙船地球号の中で、覇権争いに何の意味があるのか。いつまで強国としてぶんどり合戦をしていたいのかサッパリ理解できない人も多いのではないでしょうか。土地ならまだしも、海や空や宇宙空間の境界を争っている場合なのか。ありもしない境界を奪い合っている愚かな行為で国の根幹となる人民の生活をないがしろにしてはいないでしょうか。

 

 当時の思想家で戦争の無意味さを説くという発想は無理なことだったのでしょうか。それとも君主に無分別の無為自然という生き方によって理想世界を構築してほしかったのでしょうか。日々の生活に振り回されること無く、自らを見つめることができる時間的余裕があれば内観することを期待していたのでしょうか。

君主よ、私利私欲から無私無欲へ混乱から平静へと変化して国のリーダーと成って欲しいと切実に願っていたかも知れません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(77)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

自洲−2 [阿含経]

 概念とは、物事を言葉で定義して共通の認識となっていることのようです。観念は人それぞれの経験や文化や家庭や環境によって抱く個人的な思いかもしれません。

 例えば、海の概念は「地球上の陸地以外の部分で、海水に満たされたところ。」と定義されています。海の観念はというと、人によって異なり「魚が泳ぎ回っている場所」、「青くて深くて神秘的なところ」、「生活の糧を得る場所」、「一度は見て泳いでみたい」、「溺れそうになったので怖い」等々・・・様々なイメージと結びついた思い込みのようです。

 私たちは何の疑いもなく「私」という言葉を頻繁に使っています。「私」は共通の認識であり、いつまでも自己を指す言葉として使われていくはずです。個々人の観念として使われる「私」であって「本来の自己」ではありません。「私」という言葉は同じですが、思い思いの千差万別の「私」として使われるます。

 今まで正しい1キロとして、世界各国に40個の1キロが存在していました。真実の1キロも人間が定義したものです。

 「私」という言葉が使われていますが、数字の”1”と同じく恒常不変なる「私」はどこにも存在していません。今ここでのその時限りの一過性の「私」であって恒常不変の「私」などどこにも存在していないということです。正しい「私」や変わらぬ「私」がどこかにあるでしょうか。ちょっとしたことで気分が変わる「私」が不変の「私」と言えるでしょうか。


 「私」は心身であるとか、記憶であるとかアイデンティティであるとか・・、すべて観念(=各個人の思い込み)として捉えています。3歳児の時の身体はどこにもありません。3歳児の心はどこにもありません。3歳児の記憶もあやしいものです。極端に言えば、1分前の「私」の記憶・思い・心境・体調・感覚・体温・血圧・血流・体内細胞等々と1分後の今の「私」では全く異なっているはずです。1分前の「私」と今の「私」がまったく同じということはありえません。 

 

 「私」というのは、後づけで自己証明のために使っている単なる表象。ただ見えている、ただ聞こえている、ただ感じている、ただ味わっている・・・というのが本当の事実そのものです。五感から入ってくる何かが感覚としてある。感覚を言語化して意味や価値を見出している。意味や価値を識別して判断を下している、その判断に賛否に分けて”なんとかしたい”という「私」が後づけされる。

 認識する自分、判断する自分、判断にとやかくケチをつける自分という三人が登場します。その三人も”なんとかしたい”という思いによって「私」としての主体性を持つようになります。考えればなんとかなるという脳の癖によって出現している幻覚のようなものなのですが・・・。相手にしなければ沈静化してどこかに消え去ってしまうようなものです。3時間前のなんとかしようと思っていたことなどどこにもないはずです。何を思っていようが何を感じようが何を感情的になろうが、他人に危害を加えるようなことがなければ過去のただの思いでしかありません。

 最も厄介な自我意識が”なんとかしよう”と頑張る自分です。考えの上で何とかなると思い込んでいる「私」という観念そのものです。自身でしか味わえない特別な「私」を思い描いて葛藤している自分が最悪なのですが・・。自我意識にとって”あなただけ”とか”特別です”とか”褒められる・称賛される”ということが自我意識をさらに強めることになります。特別になりたいということに全精力を使い自我意識に振り回されて苦しんでいるかも知れません。

 自分自身以外の何者かにはなれません。同じ空気を吸って同じようなものを食べて同じように感受しているのに・・、何かを読んだり唱えたりすれば聖者になるなんてありえるでしょうか。常識的に考えても何者かには変化することはありません。新しいアイデンティティが加わったり別のアイデンティティに更新されることが何者かになったような気にさせてくれるかもしれません。

 誰もが同じように空腹になり食べては排出して、痛い時は痛みを感じ年を重ねれば老い病気をして死んでいきます。人間という身体を持った生き物として当たり前の生涯を終えるだけです。ただ、煩悩を引き算していくことで煩悩に振り回されないようにして平穏無事に生きていけるかもしれません。

 

 「私」は「私」と思っている時に出現している「私」であって、「私」と思っていなければ何でも無いとらえようのない変化している何か。何だかわからないというのが本当のところであって、分かる必要もなく分かることが出来るような対象ではありません。対象であれば認識したりしることができますが、主体は対象になることはできません。主体が主体を知ることなどできません。

 自分だと思っていたもの(=感覚・感情・思考・経験・知識・身体・心・・)は認識できる対象(=客体)なので主体(=本来の自己)ではありません。認識できる全ては自分(=「私」)でなく自分(=「私」)とみなしていたただの観念だと見抜く。自分(=「私」)だと思っていたものが他の一切存在と同じ対象であったと気づいた時には、主体(=本来の自己)はどこにもいないということになります。ただ現れがあり縁によって働きがある、見ようとせずとも見えている聞こうとしなくても聞こえています。この五感の働きはいつ生まれたかも分からずに働き続けています。

 

<辞書での定義>

概念:大まかな意味内容、ある物事がどうゆものかを言葉で定義したもの。共通認識(concept)。

観念:人がそれぞれ抱く考え。人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。

各人の認識にある程度の違いがある。

私:自分を指し示す語

自分:おのれ、自身、自己、一人称

自意識:自分自身がどうであるか、どう思われているかについての意識。

自我意識:自己について持っている意識。心を自分で全体的に統合・制御しているという感覚を伴う。能動性の意識、単一性の意識、時間が経過しても同一であるという意識、外界と他人に対して自分が存在しているという意識の4側面からなる。

人:特定の個人、霊長目ヒト科に属する哺乳類。ホモ・サピエンス

他人:自分以外の人

相手:一方の人

主体:認識と行動の担い手として意志をもって行動し、その行動の影響を他におよぼすもの。

対象・客体:主体の意志・認識・行為などの対象となるもの。

主体の意志・認識・行為などとは関係なく外界に存在するもの。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(79)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。