SSブログ

老子−33 [老子]


知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。

 

壽:長寿、めでたい

 

他人を知る者は智があり、自身を知る者は明がある。

他人を負かす者は力(=権力・武力)があり、己(=自我)の欲に振り回されない者は強い者である。
足るを知る者は富める者であり、欲に振り回されず自分の思い通りに行動できる人には志があります。
自身を見失わない者は久しい。
死んでもなお亡くならない(存続するモノを見抜いた)者は長寿である。

 

<他の翻訳例>

 他人を了解するものが智のある人であり、自己を了解するものが明察のある人である。他人を負かすには力がいり、自己を負かすにはもっと力がいる。(もっているだけのもので)満足することを知るのが富んでいることであり、自分をはげまして行動するものがその志すところを得るのである。自分の(いるべき)場所をまちがえないものが永続する。死ぬときにも(その肉体の一部分さえ)失っていないものが長寿なのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

------

 私たちは”我が身”が「私自身」であるとしていることにより、”我が身”の欲求や忌避に従うことが行動規範となっているようです。”我が身”が主役なので”自分かわいい”に振り回されて人生を送らされていることに気づかずに一生を終えるかもしれません。

 今ここで感受できている世界で生き続けなければならないという本能はどうすることも出来ません。生命誕生から途切れることなく生き続けてきたという結果として今の生としてあります。我々生命体に脈々と宿っている”生き続けたい”ということには贖うことはできません。望んで生まれてきたわけではなく、偶然にこの時代のこの場所にいるというのは稀に見る奇跡の生と感じずにはいられません。

 ”我が身”に縛られて”我が身”のためだけに生を終わるとすれば、動物の一生と何ら変わることがないことかもしれません。生命現象として寝て食べて排出して動いているという表面上の行動だけを見れば動物と大差はありません。

 他の動物と異なるところは多々ありますが、最たるものは「言語」を発明したということかもしれません。何でもない音(=発音)や形(=文字)に意味や価値を割り振り”概念”というもので存在・感情・感覚・思い・・を相互に伝えて共有できるということでしょうか。「言語」の送受信によって分かったかのような錯覚で繋がりを得ているのでしょうか。

 以前も書きましたが、存在・感情・感覚・思いが先にあって後づけで「言語」を当てはめているというのが事実です。”真”・”美”・”善”というものは最初からあるわけではなく、人間の都合で決められるものであって予め何処かにあるとかないとか議論するのは馬鹿げたことかもしれません。自分たちで決めたのに、決める前からあったはずだとしています。”東から太陽が昇る”のではなく、”太陽が昇る方向を東とした”ということです。東が最初からあるわけではありません。

 

 読み手・聞き手の数だけ解釈があります。”痛い”と言われ分かったような気になりますが、言っている人の”痛み”をそのままに感じることは不可能です。書いた人が本当に言いたいことは書いた本人にしか分かりません。

 全部推測でしかありません。真剣に読んだとしても自分の知り得る範囲で勝手に解釈しているだけですのでご了承ください。

 注目すべきキーワードとして”自・智・明・強・志・富・久・亡・壽”があるように感じます。

 他人を知り行いを推測できる人は智者と言われる。他人を理解するには、自身を鑑みるのが一番手っ取り早いかもしれません。所詮は誰もが”自分かわいい”で生きているので何をするかは手に取るように分かるようです。被害は少なくなるべく多く得るというのがどんな生き物でも同じことです。老子さんは自己の本質を明らかにする方が人間として生まれてきた本分があるのではないかと問いかけているのでしょうか。”明”とは何も障害・束縛がなく自由で開けたことなのでしょうか。

 他人は”自分かわいい”なので力で脅せば言うことを聞くとわかっています。自己を制するには、仏教での六波羅蜜のような実践によってもたらされるもの。欲望は限りありません。何故なら掴むとか得るということがないからかもしれません、無常であり一時的な感覚を味わうだけの儚い夢のようなものだから。

 美味しいモノを多く食べ、素晴らしい景色を見て、心地よい音楽を聞き、芳しい匂いを嗅ぎ、居心地のいい空間にいて・・・これらは無常であり消え去ってしまいます。際限なく求め続けることになります。一番解放され幸せだったのが、食べもせず聞きもせず感じもせず何もしていなかった熟睡だったなんて。”自分かわいい”に振り回されているよりも”自分かわいい”から解き放たれていた方が幸せだなんて・・・・。

 求めずとも一人沈黙のままに何もしていないのが素晴らしく心地よく感じるのは年のせいでしょうか。最近はyoutubeで”焚き火”を見ている人が多くいるそうです。なにかしているよりも何もしないということの有り難さを実感する人が増えているのはいいことかもしれません。

 欲することが少なくなればなるほど豊かな時間を過ごせるように感じるかもしれません。何者でもない空っぽの自分であれば広大な空間が広がっています。ちっぽけな世事にとらわれない真の自己。自然な自己を見失わなければ自然の生を全うできるかもしれません。

 

 死んでも存続している本質とは何なんでしょうか。

 私たちの本質は五感、感情、知性、思考、身体、アイデンティティ・・という知られる対象でしょうか。知られるモノは知る者自身ではありません。知られる対象は、生きている間に働いている知覚されるモノです。血液型・性別・趣味・学歴・出身地・体型・体重・血圧・病気・・は私ではありません。これらは取ってつけたものであり自身ではありません。現れの「社会的な私」を説明する一つでしかありません。

 血液型は私ではありません。爪は私ではありません。学歴は私ではありません。趣味は私ではありません。私に付属しているあらゆる属性、ホワイトボードに書けるもの全ては単なる後づけであって私ではありません。ホワイトボードに書いたものを全て消し去ってある何か、それこそが私です。空っぽにしても残っているモノ・・・気づいている何か(=それ)。瞼を閉じればたちどころに眼前にある全てが消え去ります。何かが残っています。次に自身の身体が無いとしてみてください。感覚も思いも感情も消し去っても残っているモノ(=気づいているそれ)。

 

 実際幼少時の身体は消え去っています、昨日の◯時◯分◯秒と全く同じ状態である身体は何処を探してもありません。変化し続けているので同じ状態は決して再現できないので、完璧に消滅しています。それでも残っているモノ(=気づいているそれ)。

 最後の最後に残っているモノ。気づいているという「それ」。汚されもせず限界もなく捉えることもできない言葉にすることなどできない「それ」。自分で作ったものではなく生まれてもいないし、これからもあり続ける「それ」(不生不滅)。手をつけることなどできない悠久の「それ」。誰にもどこでもいつでもすでに備わっている「それ」。考えてどうにかできるものではない、知性とは全く無関係の「それ」。聞こえたままを受け取っている「それ」。探す必要もなく逃げも隠れもしない「それ」。知性は探し出そうと必死ですが、知性を使う以前に働いている「それ」なので、知性では見つけられません。「青い鳥」と同じで今ここで”あなた”を通して見ている「それ」。知覚される以前の知覚者そのものが「それ」です。身体が死んでも、生き続ける(=長寿)のは「それ」のことでしょうか。正月は思い切って、何もしないで沈黙してみてはどうでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(49)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。