SSブログ

テセウスの船 [気づき]

「「私は誰?」と哲学的に問う」という題目がTEDにありました。”同一性”のパラドックスを問うお題です。またウィキペディア「テセウスの船」も参考になります。

 前にも記述しましたが、認識する人によって存在は存在として認められます。存在が先にありその存在の”名”は後づけです。”名”が先にあり存在が生ずるわけではありません。

 また私達の「言語ゲーム」「思索ゲーム」では、言語をイメージ化したりイメージを言語に変換しています。思索は自身が映画の中の主人公となって考えていることと同じかもしれません。映画の中で何かを得たり掴んだり、何者かになったとしても現実に何かを得たり掴んだり変身したりはしません。

 映画の中(=思索)で主人公が納得したことと現実はリンクしていません。思索は今ここの実相ではありません。実相とはいま眼前にあるありのままの姿・有様です。あるがままを「私=社会的な自己」で分別している限りは、虚妄・虚仮(=真実でないこと)かもしれません。聖徳太子の言葉に「世間虚仮、唯仏是真」とあります。分別以前の「本来の自己」があるがままをそのままに見れば、真実・事実の世界を見ています。誰もが、ただありのままを認識しているだけなら「本来の自己」のままに見聞覚知していると言えます。固定観念のフィルターを通して分別することによって虚妄・虚仮としています。家具や置物を見ても何も感じず分別が起こらなければ「本来の自己」として見ているということかもしれません。既に「それ」が働いていて「それ」として生きています。ただ、あれころ考えることで「私=社会的な自己・自我」の働きが「本来の自己」ではないとしているだけかもしれません。

 見えたままなのに瞬時に”美醜”・”善悪”・”好き嫌い”・・・として悩みます。赤子であればあらゆるモノは何でも無いモノであり、見えたままでしかないのですが・・・・。

 

 「テセウスの船」はギリシアの伝説の船であり、当時実在していたかも定かではありません。この”テセウスのパラドックス”の考察も単なる思索であって、実相でない「思索ゲーム」であって虚妄・虚仮だという前提で検討する必要があります。つまり考えている過程も結果も映画の中での出来事と変わりません。実相と乖離した「知的ゲーム」で知的満足を得ようとするだけのことかもしれません。

 ”テセウスのパラドックス”を考察すると「私は誰?」という問題を解決する糸口を見つけられるかのような問いかけです。誰も「私は誰?」に答えを出せません。「思索ゲーム」の堂々巡りをしているのでしょうか。

 一切は、常に変化していると認めておきながら同じ「あなた」と言っています。哲学は言語によって解き明かす学問ですが、存在の後に発明されたものが存在を解き明かすことができるでしょうか。

 知られる一切は客体であって主体が主体を知ることは出来ません。光源(=主体)からの光が当たることで客体(=対象)を見る(=知る)ことができます。光源(=主体)が光源を照らす事ができるでしょうか。手(=主体)で触れられるものは客体(=対象)として認識できますが、右手で右手を掴むことができるでしょうか。主体は客体になることはできません。知るも者(=主体)そのものを知る(=客体化する)ことはできません。「私は誰?」と自らに問うて出た答えはすべて対象とされたもので「私」そのものではないということです。

 

-----

「テセウスの船」概略:功績を残すためにテセウスの船を残すことになりました。部品が傷んだため全てが交換された船と、傷んだ船で作られた船の二つが存在することになりました。

疑問1:「確実に言える1つの困難は アイデンティティの持続性という 複雑な概念になります。どの瞬間の「私」が本物なのか。この船はこの間 どの時点においても ”テセウスの船”だったと考える人もいるでしょう。

 

 名前が先にあって存在があるのではありません。存在に適当な概念を持ち込んで勝手な名前を後づけしています。「レクサス」という一つの名前がありますが何万台もの「レクサス」が存在しています。一即多です。月を見ていますが各人の内に異なる月として存在しています。人の数だけ月がありますが月は一つであるとされています。多即一。

 当時は多くの材木で組み立てられ、人を乗せて海を移動する物体を”船”と名づけられています。テセウスの功績を残すために”テセウスの船”と呼ばれるようになっただけのことのようです。”テセウスの船”という呼称が一つで変わらないから、”テセウスの船”という存在も一つであるという論法のようです。名が先で存在は名に従うべきだということでしょうか。

 「私」を構成しているアイデンティティは一時的なものであり永続するようなものではありません。

 存在も事象も縷々転変してどどまることがない無常なモノです。無常である存在を変わらない呼称で呼び続けること自体が勘違いかもしれません・・・。傷んで修理した時には”◯年◯月◯日◯時◯分◯秒に修理を終えたテセウスの船”と呼べばいいし。ある時点では、”◯回修理し、建造から◯年◯月◯日を経たテセウスの船”と呼べばいいだけなのですが・・・。

 持続している存在のある瞬間を本物と定義したら、特定した以外の瞬間は全部偽物ということになります。言葉は排他的であり一方を是とすればそれ以外を否定する特性を持っています。特定された以外のどの瞬間も本物の”テセウスの船”でなく変化変容している偽物の”テセウスの船”となってしまいます。また、見ている人の数だけ異なる”テセウスの船”があります。呼び名は同じでも抱いているイメージは百人百様です。

 呼び名が同じで変わらない(=変えない)だけであって、存在自体が変化変容し、見ている人の思いも変化変容しています。”テセウスの船”と呼称するのは、社会的な合意であって実体である”テセウスの船”は当初の”テセウスの船”とは別物です。

 呼称の継続性を維持しなければコミュニケーションを揺るがすことになり混乱をもたらすということが知られています。ただ混乱したくないので呼称を維持しているだけではないでしょうか。呼称に従属して生活を送っているのが、私達の実情であり、真に無常の世界を見ていないことを物語っています。実相ではなく、言葉に振り回されていて言葉の正当性を証明しようと躍起になっている。現実は証明を必要としません。マヤカシであるからこそ証明しようとしますが、矛盾が出てきてしまいます。時間や場所の概念を付加した表現にすればよいのですが・・・。”◯年◯月◯日◯時◯分◯秒の◯◯”という面倒な表現になるので、しないだけかもしれません。

 

疑問2:本物は一つだけで、どちらかが本物のはず?

 本物は一つであり二つはない「不二」。仏教でいう「不二」は、対立していて二元的に見える事柄も、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるということです。一つのコインのどちらかを表とすれば自ずと反対側が裏となりますが、どちらが表でも裏でもなく勝手に定義しているにすぎないということ。二つの国がお互いに自国が正義だとしてして非難しあっています。戦争の勝者は正義が勝利したとしていますが、本当でしょうか。正義なので天が味方(=神のご加護)して勝ったのか、勝ったから正義だと言えるのでしょうか。

 本物が一つであれば、ある特定の一台の「レクサス」が本物であれば他の「レクサス」は偽物(=イミテーション・レプリカ)ということになります。ある製品の1作目だけが本物とすれば、それ以降はすべて偽物ということになります。「ロレックス」のあるモデルの1作目を本物とすれば、それ以外は偽物となります。その偽物を世界中で高価な価格をつけて買っているということになります。 本物は希少なので、この世は偽物であふれかえっていることになります。

 人間も過去のある時点でどこかの地点に本物の”人間”がいれば、私達はその本物の”人間”からコピーされた偽物だということになります。

 新しい”テセウスの船”をまたたく間に分解し新しい材料で作り上げ、さらにまたたく間に分解し新しい材料で作り上げ・・・あっという間に1000隻を作り上げたとします。どれが”テセウスの船”でしょうか。我々もまたたく間にコピーされて70億になっています。本物の「私」と言っていいのは一人だけなのでしょうか。

 自身の時系列において1歳の誕生日を本物「私」もとすれば、それ以外は偽物となります。今生きているのは偽物の「私」ということになりますが・・・。

 宇宙もビックバン時点が本当の”宇宙”とすれば今は偽物の”宇宙”ということになります。そうではなく宇宙が生まれた瞬間から本当の”宇宙”であり、どんなに変化して変わり、原初の宇宙と全く異なっていたとしても本当の”宇宙”といいはるのなら、偽物の”宇宙”は存在しないことになります。ビックバン時点の宇宙と今の宇宙が同一であるでしょうか。偽物の宇宙が存在しなければ本物の宇宙と言う必要はありません。宇宙は本物でも偽物でもない。「私」も本物でも偽物でもない。人間も本物でも偽物でもない。実相は言葉で表現できないのでしょうか。

 限りない存在の中で原初のモノだけが本物だと決めてしまえば、原初の本物はこの世にはほとんど存在していません。「スーパードライ」の1本目の缶ビールはどこにもありません。この世のほとんどがイミテーション・レプリカということになります。

 動物は大柄・強い・狡猾・逃げ足が速い等々が生き、反対であれば直ぐに死んでしまい遺伝子を渡すことができません。歴史を遡り君主となってきた人は、自尊心も気高くもなく自己正当化せず誠実で正直で優しくて慈悲深く狡猾でない人なのでしょうか。生存競争を勝ち抜いてきて生き残っている我々はどういう能力を備えているのでしょうか。

 

疑問3:あなたは常に変化し続ける 部品の寄せ集めです 物理的な身体 精神 感情 環境 そして癖まで それらは常に変化していますが 驚くことに そして不合理なことに それでもあなたは いつも同じあなたなんです 。

 

 普段「私は私である」と思いながら生きているでしょうか。知り合いや会社関係者の何人かだけが自身のアイデンティティの一部を認識しているだけです。「私」であることを証明しなければならないときや、振り返って思うときにだけ「私」を持ち出しているにすぎません。普段は「私」なしにいきています。

 本当にいつも同じ「私」なのでしょうか、それともただいくつかのアイデンティティがある「私」だとして生きているのでしょうか。社会制度上のアイデンティティを頼りにして、単なる表象・呼称の「私」がいるだけかもいしれません。

 3歳でも「私」15歳でも「私」80歳でも「私」、誰も彼もいつでもどこでも「私」は「私」だと主張します。りんご・たまねぎ・車・人間・・・なんでも”1”と定義できます。全てが”1”で定義可能といういうことは、ある特定のものを”1”とすればそれ以外は”1”ではないことになります。あるものを特定すればそれ以外は排他されます。すべてが”1”と定義できるということは、”1”とされる以前は何でも無かったということです。あらゆる存在は、定義以前は何でも無いということです。

 「私」と認識する瞬間以前は「私」と知らずに行動しています。何でも無い(=無我無心)でいたということかもしれません。自らを振り返り「私」という思いが出てくる以前は「私」でも何でも無かったということになります。振り返っても自身を証明できなかったらどうなるでしょうか。見知らぬ諸外国に行って記憶とパスポートを喪失したら一体誰なのでしょうか?「私」は「私」だと思っているその思いが「私」としているだけではないでしょうか。

 思うことに「私」らしい何かはありません。見知らぬ人がどんな思いを巡らせようが、思いを見ることはできません。有名人でない限り、見知らぬところで、思いを巡らせていたとしても”あなたは◯◯さん”ですかと特定されることはありません。思いは思いであって自身を特定するものではありません。

「我思う」それが他者への「私」の存在証明にはなりません。もし、アイデンティティを認識されなければ「私」は誰なのでしょうか。

 

・ある時点を本物とすれば、それ以外は偽物となります。

・どの瞬間も本物であれば、偽物はありません。

 0歳と90歳の「私」は同一の本物でしょうか。

・本物も偽物もただの定義であり、本物も偽物もない。過去はすでに消え去ってどこにもないし、未来もどこにもありません。

・世間はただ消え去る虚妄・虚仮。

・呼称に存在を合わせるのでしょうか、存在に呼称をあわせるのでしょうか。

 ・存在に言葉が従います。言葉に存在が従ったら大変なことです。

 ”空中浮揚”という思いに存在が従うでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


nice!(53)  コメント(2) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。