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答えは無限にある [気づき]

 日本語がチンプンカンプンな外国人に日本語で「いちたすいちは」と問いかけても何を言っているのかサッパリ分かりません。数式で”1+1=”と書いたものを見せれば”2”という数字を書いてくれるかも知れません。皆が同意しているある特定の決まり(10進法)だという思い込みで答えます。答えが出るというのは、特定の決まりによって導き出されるということになります。

 1というのはただの概念であり1はどこにも存在していません。何かを勝手に1としているだけです。手も1、指も1、爪も1、身体も1、臓器も1、神経細胞も1、ウィルスも1,宇宙も1、素粒子も1・・・、極大から極小までなんでもかんでも人間の作り出した概念で1と定義できます。あらゆるものが1と定義できるので1とされるのは無限です。本当の1はどこにもないと言えるし、どれもこれも1となりえます。

 1+1=10(2進法)1+1=200(1を1cm,200はmmで答えました)1+1=1(水に水を加えても1)1+1=0(水+熱=目に見えない蒸気となった)1+1の答えは無限にあります。1の定義によって無限の答えが見出されます。

 

 例えば、演奏に真の演奏(=正解・真の答え)があるでしょうか。バロック音楽で当時の貴族の前でのある瞬間の演奏が真実の演奏であれば、それ以外の演奏は真の演奏ではなく永遠に真の演奏は無いということになります。全ての事象は生滅していて一期一会であって、二度と同じことなど起こりえません。タイムトラベルなど馬鹿げた妄想かもしれません。同時に多次元に宇宙が存在しているという仮説を作って頭の中で妄想することはできます。あるのは”今”という刹那の瞬間が永遠に生滅しているだけではないでしょうか。つい直前の”今”はどこにもありません、誰も保存することはできません。つい直前の”今”に出会うことが出来るのなら”止まっている”以外ありません。完全に”止まっている”というのなら素粒子も止まっているということになります。部分的な絶対零度の状態があったとしても全体の中にある限り全体が新たな”たった今”と変化変容しているので特定の部分の静止(=絶対零度)は見られて(=観察されて)いるのでつい直前の”今”は観察者の存在によって、観察者の”今”ということになります。真なる答えは観察者に依存することではないでしょうか。

 1+1の答えは観察者(=ある前提によって導く)によって無限にあります。ある前提を共通にすれば、共通の視点をもった観察者によって共通の答えが導き出されます。10進法で答えるという前提の観察者の答えは2という同じ答えとなります。10進法を知らない人間以外の生命体には2と答えることはできません。

 

 野球で誰がどの打順で打つべきかという正解があるでしょうか。どんな投手が出てどんな打撃をするか分かったらおもしろくもなんともありません。何が起こるかわからないのでワクワクして観戦できます。勝利したら正解であり敗戦では間違いだということでしょうか。

 この世で正解の人生・正解の景色・正解の音というものがあるのでしょうか。それぞれの人の好みであって、だれにとっても正解というわけではありません。感受される現象が起こっていて、ただそのように生滅しているだけで、ただなるようになっているだけなのですが・・・。

 何が正解なのかは、受け取る人の感性で決まるのではないでしょうか。今起こっている現象が正解でないとしたら、何が正解でありどうやって正解にすることができるのでしょうか。今起こっている現象を変えられたら大変なことです。私達ができるのはせいぜい、勝手な妄想や手足や口を動かせる程度のことなのですが・・・。

 

・人はある共通のもの(=数式、楽譜、図面・・・)を拠り所としなければ同じ答えを導き出すことはできません。

・たった一つの同じ答えというのは、無限の答えの中の一つであって無に等しく決めごとで導かれた味気ないものかもしれません。

・条件を持ち出さなかったら、無限の答えがあるということです。無限の選択肢の中の一つの答えが展開されています。

・無限の答えは一致することはありません。一致するとしたら”空・無”であり、生じていないのですから”不生”です。

・この世に出現したことも偶然であり、偶然の生を生きている人にどんな答えが割り振られているのでしょうか。偶然の産物に必然の答えがあるなんて・・・。肉体的な”死”は必然ですが・・。

・無限の可能性(=選択)があるのに、たった一つの可能性(=自身で正解としているもの)だけを目指し(=何とかしよう)て悩んでいることは異常(無限の中からたった一つに固執)なことかもしれません。

・起こっている事象は事実という有様(=実相)であって、そのままの事実なのですが・・。このありのままの事実を受け入れられないのは、事実が異常なのでしょうかそれとも事実として受け入れられないということが異常なのでしょうか。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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老子ー58 [老子]

其政悶悶、其民醇醇。其政察察、其民缺缺。禍兮福之所倚、福兮禍之所伏。孰知其極。其無正。正復爲奇、善復爲訞。人之迷、其日固久。是以聖人、方而不割、廉而不劌、直而不肆、光而不耀。

 

現代語訳
統治が緩やかであれば人々は素朴な生活を送ることができる。細かな決めごとで統治すれば、人々は自由が制限されて活力を失う。災いの裏には福のがあり、福の裏には災いがある。事象は裏腹であるこを誰が知っていようか。絶対的に正しいということはない。正しいとされていたことがおかしことになり、善い事であったことは人を惑わす事に変化する。人が迷うのはいつの世でも同じだ。この迷いに対して聖人は、あれこれと分析せずに、距離をおいて清廉であり他人を非難することはなく、自らの道理を押し通すこともなく、自らを目立たせようとはしない。

 

<他の翻訳例>

 政治がほんやりしているとき、その人民は純朴で重厚である。政治が目を光らせているとき、その人民は不満で(争いを起こすので)ある。「不運なとき、そこには幸運がよりそっており、幸運なとき、そこには不運がひそんでいる」。この(循環の)終わりをだれも知らない。正しさということは存在しないのであろうか、正しいものが、やがて邪悪にかわり、吉兆であったものが、やがて不吉にかわる。まったく人が困惑するようになってから久しくなった。それゆえに、聖人は方であるが、それで(物を)切り裂くことはなく、廉(かど)があるが、人を傷つけることはない。まっすぐにのびても、ものに突きあたることはなく、(心の中に”)光があるが、(人の目を奪う)きらめきはないのである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 人民をがんじがらめに統治しようとすれば、抜け道を見つけ出して姑息なことをするようになる。「災いは忘れた頃にやってくる」と言われますが、あらゆる事象は変化して止みません。次の瞬間に何が起こっても不思議ではありません。何事もない日常などあるわけがないのですが・・・・。

 災として対処するのか、想定外であっても起こることが今起こっているとして現実に対処するほかありません。心肺停止を死とするなら、生まれた瞬間に死は必然の出来事であり驚くようなことではないかもしれません。生まれた生命体で死ぬことがなかったら大変なことです。

 国・文化・風習・言語・時代・・・各人が絶対的な正としていても、それは各人の正であって必ずしも他人の正とは言い切れません。アニメ・演劇・映画・思想・信仰・・・正として表現するには悪である対立するものを必要とします。悪とされたものが悪を認めずに自らを正当化すれば、正と主張している人はアクトなります。戦争はどちらも正当性を主張しますが、勝ったほうが官軍となり負けたほうが賊軍とされるまでのことです。

 聖人は事象に対し「どうして」とか「なんとかして」という自身の思い描いたことを主張することはないということでしょうか。何故私だけとか何とか思い通りにしようとか、自然に起こっていることを制御することは無理なことと分かっているのでしょうか。聖人が目立たなければ、誰が聖人かも分からないのが聖人ということでしょうか。聖人と愚人という区分けそのものがあるんかどうなのか、よく分かりません。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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スーパーマンにはなれない [気づき]

 私達はどうしても”偉人・聖人・天才・祖師・・・”と呼ばれている人は特別であり、一般の人とは隔絶された何かを得たり掴んだりした人と決めつけています。言葉はありえないことも大袈裟なことでも表現できます。”灼熱の氷”・”瓶の中に大海がある”・”太陽よりも目映い月”・・・等々。”虚言・妄想”という言葉があるということは”虚言・妄想”が平気でまかり通っているということです。

 人間の想像を超えた”超人”として崇めるようなことになります。人間の身体で生まれたのですから基本的な人体機能が大きく変化することはありません。思考することで身体機能が劇的に変化したら大変なことです。大学を卒業した人が劇的に変化するわけではありません。思考によって何らかの境地に達してスーパーな精神や肉体となるわけがありません。もし思考することでスーパーマンになるなら、哲学している人は漏れなくスーパーマンになっているはずですが・・・。

 人間の振り幅は限られたもので、100mを5秒で走ることは不可能です。せいぜい上手く身体を使いこなしたり、他人より洞察力がちょっと上回る程度かもしれません。

 仏教の中で書かれている事を自身に都合よく解釈していたかもしれません。”苦”が滅するのであれば精神的な”苦”も肉体的な”苦痛”も取り除かれた安楽な状態があるはずだという思い込みです。誰もが自分勝手なイメージを抱くものです。

 もし肉体的な”苦痛”を感じなければ、大病を見逃して”死”に至ります。苦痛はメッセージであって、苦痛がなければいいということはおかしなことだと気づくはずです。極端に言えば肉体の感覚が無くなれば生きていくことはできません。歯茎に麻酔をすればちゃんと食べることもできません。喉に麻酔がかかっていれば飲み込むこともできません。足がしびれていてはちゃんと歩くこともできません。ある程度の感覚や痛みがなければ体は動かせないということになります。精神的なプレッシャーがなければ困難を克服していくということもできません。一人で生きているわけではなく、どうしても他人と関わって生きることになります。その都度ちゃんとした対処が必要になります。

 精神的な苦悩・肉体的な苦痛は自然なことです。苦悩や苦痛を滅するのではなく、苦悩・苦痛の無い状態が本来であり目指す状態だと間違った理想を描いていたのかも知れません。苦悩・苦痛と一体となりどっぷり浸かるようにしています。痛い時には痛いでどこが悪いのでしょうか。苦しい時には苦しいでいいじゃありませんか。もし、大酒を飲んで溝にはまって足の骨が折れても気づかずに更に歩いたら大変なことになります。骨が折れたことを無しにはできません。折れた時は教わらなくても適切な処置ができます。自ら信じていることが素晴らしいと大袈裟な人が多すぎるような気がします。権威とか意味とか価値がほしいということでしょうか。困ったものです。

 思考を突き詰めている哲学者が人間を超える別の生命体に変化したということは聞いたことはありません。ただ言語を組み合わせただけの思考で何かを得たり掴んだり何者に成ったりすることに期待するほうがどうかしていたということかもしれません。

 分別(=相対)の中で思考するのか、分別以前の地点に気づけるのかには大きな差があるのでしょうか。



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老子-57 [老子]

以正治國、以奇用兵、以無事取天下。吾何以知其然哉。以此。夫天下多忌諱、而民彌貧。民多利器、國家滋昬。民多智慧、邪事滋起。法令滋彰、盗賊多有。故聖人云、我無爲而民自化。我好靜而民自正。我無事而民自富。我無欲而民自樸。

 

現代語訳
国を治めるには正しく行い、兵を統率するには驚くようなことをする、何事もなく天下を統治することができる。私が何故そう思うのかと言うと、次の通りである。天下に決まり事を多くすると、自由が奪われて民衆は貧しくなる。民衆が生活を豊かにしようと、悪知恵を使うようになる。その悪事を取り締まるためにさらに決まりごとを増やすことになる。

 聖人は次のように言う、私は余計な計らいをせずに無為によって統治すると、民衆が自ら変化する。私が静かにしていると、民衆は自らを正していく。私が何もしなければ民衆は富んでいく。私が無欲であるからこそ、民衆も素朴な生活を楽しめるようになる。

 

 

<他の翻訳例>

 国家を統治するには、正直にする。戦いを行うには、人をだます。しかし、天下を勝ち取るのは、手出しをしないことによってである。どうしてそうだと知るかといえば、これ(内部の力)によってである。天下に禁忌(きんき)が多くなればなるほど、人民はいよいよ貧しくなる。人民が鋭い武器を多くもてばもつほど、国家はますます暗黒になる。こざかしい技術者が多ければ多いほど、見なれない品物がますますできてくる。法令が厳格になればなるほど、盗賊が多くなる。だから聖人はいう、「わたしは行動しない、それゆえに人民はおのずから教化され、私が静寂を愛すれば、人民はおのずから正しく、私が手出ししなければ、人民はおのずから富み栄え、私が欲望をなくしていれば、人民はおのずから『削られていない樸』のよう(に簡素)であろう」

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 正しいということはお互いの共通の基準・定義・観念・主義主張等が一致していて、その基準・定義・観念・主義主張等にそった答えであるということでしょうか。例えば1+1=2というのは10進法での正解であり、2進法では10です。8進法・12進法・16進法・・・好き勝手に定義できます。時計の12進で16時は4時というのが正解であり子供の頃に悩まされたことと思います。ある国の◯◯主義はある国の◯◯主義を敵対するものとしています。お互いの国の首長は自らの国が正しいと主張して譲りません。一体どちらが正しいのでしょうか。マイノリティー・トランスジェンダー(=LGBTQ)男・女・子供・青年・壮年・老年・政治家・経営者・労働者・主婦・医師・患者・外国人・・・それぞれの立場でそれぞれが正しい。日本人は変だとか、あのドライバーの運転は間違っているとか・・・。ある法律・条例(=子供のシートベルト・バイクのヘルメット・公的施設での禁煙・・・)の成立によって、法律違反・条例違反となってしまいます。法律施行以前は気にせずにタバコを吸うことが出来たのに、施行後は罰金をとられ悪いことと見なされます。

ある土地に昔から住んでいた人(=例:先住民)が、国の法律によって退去させられたらどうでしょうか。ある日、裁判所の紙切れ1枚を提示されて住んでいた家から出ていってくれと言われたらどうでしょうか。法的に決められたことは多数が正しいということでしかありません。

 環境汚染で騒ぎ出すということは、自らに降り掛かってこなければ何も対処する意思はなかったという証拠でしょうか。

 ある時点以前は咎められないのに、ある時点以後は「悪いこと」になります。正しさは人間によって作り出されるということです。心の内で何を思っても良いのですが、言葉にしたり文字にしてしまったら要職を追われたり謝罪しなければなりません。心と裏腹な(=嘘)ことを言っても誰にも分かりません。嘘(=オベッカ)と分かっても褒められたりおだてられたりして喜ぶ人もいます。励ますつもりで背中を押しても、悪意にとられれば暴力として訴えられる始末です。自らが正しいとして行動しても、受け取る人が勘違いすれば悪行とされます。善悪は受け取る人の判断にかかっているようです。受け取った人がどう解釈するかによって正義が決定されるのでしょうか。

<我無爲而民自化>

 変化しないモノなど一つとしてありません。(諸行無常)立憲政府が民衆から集めた税金の使い方によって、社会システムを変化させることは可能です。何もしないで多くの民衆が教化されて変化するというのは、寺院にある物言わない仏像や神像にお願いごとをして自らの健康や繁栄を願うことくらいでしょうか。感銘するとか影響をうけるとか、殆どは自身の抱いている勝手なイメージに感化されているだけ。誰もが同じ物質でできているのに、特定の誰かが莫大なエネルギーで人々を感化するようなことが起こったら大変なことです。どっちに転ぶか分からないのに良い方に変化すると思い込んでいるというのがどうかしているかもしれません。

 

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一つのものが別々に見てしまう [気づき]

 今現在、私達が認識している世界があります。あらゆる生命体が個々の感覚器官を通して異なる世界を構築しています。映画館で隣り合わせに坐っていても数十センチずれているだけで異なった環境であり異なった光彩・異なった音の振動を受け取っています。入力情報がほぼ同じであっても記憶・経験・知能・感覚器官・観念・育った環境・・・等によって判断・反応が異なります。

 各々の自己の内にそれぞれの世界があるということに同意できるでしょうか。自身の世界でありながら、状況によって刻々と変わっています。青春時代に聴いた曲であってもTPOによって様々な感覚となります。全く同じ状況が続くということはありません。全てが一期一会の1回きりの瞬間を経験しています。二度とお目にかかれない今が変化変容しながら生滅しているということです。時間の中に我々がいるのではなく、時間を概念として捉えてしまっています。

 こちら側に認識している主体としての”私”がいるのでしょうか。それとも”何か(=絶対主体)”勝手に見聞覚知しているのでしょうか。

 眼前に客体としての対象を認めるようになっています。対象(=客体)によって主体があるはずだというふうに捉える癖があるようです。見る者と見られるモノという分離が生じます。対象に対して意味や価値づけして獲得すべきか逃避すべきかを決めるようになっているのでしょうか。

 このような思考回路を牛耳っている何者かが背後にいるのでしょうか。 生命体である我々は本能的に個体として存続していたい。そのためには危害を加え命を脅かす”他”を認識できなければなりません。また、生命体を維持するために食糧を摂取して生きながらえ、子孫を残すという本能があります。つまり、瞬時に危険や獲物を識別しなくてはなりません。瞬時の判断がなければ生きてはいけないというのが古い脳(=爬虫類脳)に刻まれているからでしょうか。

 

 私達はある程度の距離によって他を認識するようにできています。各生命体の行動範囲と動作スピードによって危険から逃避したり、獲物を捕獲できる距離というものがあります。猛禽類・魚・蜘蛛・蛇・猫・ネズミ・・等々はそれぞれの距離感によって行動して自らの命を守りながら食糧を調達してそれぞれが構築している世界の中で生きています。同じものが目の前にあっても、ある生命体にとっては危険かもしれないしある生命体にとっては餌となるものかもしれません。

・個々の生命体は個々の世界の中で認識して生きているのではないでしょうか。

 

 私達ヒトという生命体は、存在(=対象)から発せられる粒子・振動(=周波数)を感覚器官を通して脳内に世界を構築します。この感受された後に、記憶・経験から最適な判断を下す何らかの主体(=”我”・”私”)がいるかのように思い込んでいます。この主体(=”我”・”私”)としている物理的なモノは全体から分離・孤立しているでしょうか。ある一人の人間という個体からどんどん離れていくとします。一体どの距離までなら一人の人間として対話したりお世話したりできるのでしょうか。100kmも離れていては一人の人間として話すことも触れることもできないので特定された対象ではなくなります。単に存在していると思い込んでいるだけのことになります。次に肉体の内部さらに細胞へ、分子・原子レベルで構築されている地点では、実体としての存在を認めることはできません。素粒子レベルになれば善悪などありません。素粒子の集まりが綺麗も汚いもあるでしょうか。10m先の新聞の記事は読むことが出来ないので記事ではありません。読んでいるときだけ記事となります。

・人は、ある距離感で認識できるものだけが認識されます。認識できないものがあると言われても認識できなければ”無い”ということです。存在は認識によって存在たらしめられる。

 

<考察>

・あらゆるものを対象として見る癖がつているので自己が生じる。自己は獲得・忌避・何もしないという選択をする。常に二元対立的に分けてしまいます。この世界は分断されたものとなり混乱の中で生きていることになります。混乱の中では平安でいられません。

・世界が混乱しているのか、自らが混乱しているのでしょうか。

・一切に善悪のラベルがついていて、そのラベルを見て判断しているのでしょうか。あるきっかけで好物になったり、嫌いになったりするのは対象が変化したのか対象に対する自身が変化したのかどちらでしょうか。

 

 

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老子-56 [老子]

知者不言、言者不知。塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。

 

 感得したすべてを言葉で表現することはできない、言葉で伝えることができると思っている者は分かっていない。人間の入力器官を塞いで、知識での理解を辞める。感覚をすぐに言語化することから離れると、自身の思考(=混乱)は鎮まり塵は除かれる。これが同一と言われる。この同一となっている人は対立がないので親しくすることも疎遠になることもない。利益を得ることもなく、損害を被ることもない。敬い尊ぶ必要もなければ、卑しみ侮ることもない。この世界で最も貴くなる。

 

<他の翻訳例>

 知っているものは、しゃべらない。しゃべるものは、知ってはいない。穴(目や耳などの感覚器官)をふさぎ、門(理知のはたらき)を閉ざす。

(こうして)すべての鋭さはにぶらされ、すべてのもつれは解きほぐされ、すべての激しいようすはなだめられ、すべての塵は(はらい除かれて)なめらかになる。これが神秘な「同一」とよばれる。したがって(人は)それと親しくすることはできず、それを遠ざけることもできない。それに利益を与えてやることはできず、害を加えることもできない。とうとい地位に高めることはできず、低い地位におとしめることもできない。それゆえに、天下で最もとうといものなのである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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  ”拈華微笑”のように、花を見れば見えたそのままです。お互いに見えたとおりであれば言葉で確認することも言葉で表現する必要もありません。五蘊(=色・受・想・行・識)での色(=対象)・受(=感受)の段階では、意が介入されておらず感受されたままです。この段階での知(=直知・仏知)のままを知者というのなら一人残らず知者ということになります。次の想・行・識によって各個体が二元対立を持ち出して分別してしまいます。この二元対立の世界(=迷いの世界)での知(=記憶知・学習知)によって、良ければ執着し悪ければ忌避することに終始します。自ら迷い(=二元対立)の世界の中で解決しようとしますが、一時的な解決であり根本の解決にはなりません。事象が生滅しているだけなのですが、事象を自身の理想と合致させたい。その理想のために”何とかしたい”と考えることが問題となります。何でもかんでも意が働いて理想と一致するように思案します。考えることは必要ですが、”我”を通そうとして自身も周りも巻き込んで大変なことにしてしまいます。

 この過大な要求(=思い通り)に振り回され続けることになります。迷いの世界(=輪廻・二元対立)から抜け出すことができずに一生を送ることになります。常に思考する癖に苛まれ続けることになっているのではないでしょうか。

 思考で解決できるはずだという思い込みから抜け出せないままに時間だけが過ぎていきます。現実が思考のとおりに成ったら大変なことです。主義主張を押し通すことで戦争になることもあります。

 思考によって老いたくないとか病気になりたくないとか死にたくないと思うことが現実になったら世界はどうなるでしょうか。老いて病気になって死ぬことは極めて自然なことです。自然(=法則)を受け入れずにエントロピーを止めることは不可能なのですが・・・・。”我”は法則も打ち負かそうと不当な要求をしているのではないでしょうか。苦しみから逃れ続けていると、何度も苦しみ受けることになります。これくらいの苦はウェルカムとできれば、苦とならないかも知れません。他人が悩みだとしていることが気にかからなければ悩みではありません。

 幾つもの持病がありますが気にしていないので悩むことはありません。

 

 思考から一度離れ、花を観て幸せな気持ちを味わってみる。紫外線まで見える蝶として花の中を飛び回れるのならどれだけ幸せなのか・・・。人間は最も高等だと言われていますが分別によって悩み続けているのなら、もったいないことかもしれません。

 

「知者不言、言者不知」

 分別以前の知(=仏知・直知)は言葉に変換される前なので、見えたまま聞こえたまま味わったままであり感受したままを味わえます。言葉を発する段階の知(=記憶知・学習知)であって、分別以前の知(=仏知・直知)を経過した後です。言うものは既に分別以前の知(=仏知・直知)からかけ離れた二元対立の分別で決めつけてしまっているのでしょうか。

 分別以前の状態であるには、何もせずに只坐っているのがいいようです。また、散歩するのもいいかもしれません。内側の探求には、感覚器官を閉ざしてみなさいということでしょうか。何かを手に入れることや知識をためこむことで平安でいられるのなら内側に向かう必要などありません。誰一人として外の世界で「それ」を見つけた人はいないようです。地中にある”金”・”石油”・”レアメタル”・”ダイヤ”が「それ」であり、平安をもたらしてくれるのでしょうか。金目のモノを身に着けて埋葬されることで満たされていたのでしょうか。家臣を共連れにしてあの世に行くということは”不安”がつきまとっていたからでしょうか。権力や金銀財宝はいくらあっても安心でいられないので、いくらでも欲しがっていたということの証です。満たされないがために多くの人を巻き込んで戦い、略奪を繰り返していたのでしょうか。

 命を賭けて危険な状況を経験したり、鍛え上げられたアスリートが繰り広げるスポーツを観戦しているときには何らかのホルモンが分泌されているのでしょうか。事象は、自身の中にあって身体的に反応しているということです。宇宙の果に行って「それ」に出会ったとしても、反応が起こっているのは自身の身体的なことです。

 映像・文字・写真・・・小説・経典・・等々は間接的であって、”たった今”のダイレクトなものではありません。今まさに目の前にあって、風に揺れている色鮮やかな花々、湯気を見て香りを嗅いで舌で味わう飲み物、潮風を肌で感じて浜辺の音を聞いて見える地平線・・・・。リアルでダイレクトな躍動を全身全霊で味わうことで生きている感覚が呼び覚まされます。外も内もない一体となった感覚。そこには知による二元対立はありません。味わっている感覚だけがあり、対象が無ければ二元対立を持ち出す必要もなく「一」すらない斉同ということでしょうか。利害もなく貴賤もありません。比べるものがないので貴いということを言いたいのでしょうか。

 

 我々は、言葉を使った観念の世界(二元対立の世界)で瞬時に分別する癖があり、この癖を直さない限り苦悶することになっているのでしょうか。本来は、事事無礙法界(=すべての物事は完全に調和して解け合っている)であり問題はないのですが・・・。”我”があるがままの世界を”何とかしたい”と頑張っていることが問題を作り続けているのですが・・・。考えても頭痛は治りません。頭痛薬を飲めばいいだけのことです。考えても癌は消えません、現代医学で適切な処置をすればいいだけのことです。悩んで良くなれば悩み続ければいいだけですが、良くならないので悩みが続くということのようです。悩んでいるということは良くならずにいる状態だということです。

 白隠は「正念工夫」を推奨しています。「正念工夫」は、雑念が生じる前の状態のようです。雑念を相手にするのは正しい状態ではないということです。”あるがままの現実”を”我”の思いに委ねずに、”現実・事実そのままに”受け取ってみるのもいいかもしれません。

 

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遍界不曾蔵 [気づき]

 あらゆる存在は隠されること無くあらわになっています。秘密にされていることなく、その運動・性質の法則性が後から定義されることでしかありません。誰もが重さを感じていた筈です。水の中に入れば「浮力」を感じていた筈です。アルキメデスが働きに気づき命名する前から「浮力」は至るところで働いていました。”月”が”月”と名付けられる前から、誰もが”月”の存在に気づいていました。

 積み重ねられた実験と定義と命名によって法則となり”法則名”として周知されます。隠されているのではなく、法則として見ることができなかったというだけのことです。

 

 「拈華微笑」という逸話(公案)があります。秘伝のようなものが特定の人だけに伝えられた?ということを信じていいものかという公案でしょうか。公案には、思い込みが間違いであると気づかさせる公案もあります。人は自身の判断が”正解”としています。各自の固定観念によって決めつけていることに気づきません。固定観念の数だけ正解があるということです。自身の見解を真の正解とすればするほど、他の見解は偽りだと主張することになります。自己の見解を守るには、他を攻撃する他ありません。他を認めず自らを主張します。世界の国々では主義主張を押し通すことで混乱に拍車がかかっています。

例1:看護師が女性で大型トラックを運転している人が男性だという思い込みがあります。

例2:一流のお店で飲む高額のワインは高級ワインだという思い込み。

例3:肩書がある人は漏れなくそれなりの人であるという思い込み。

例4:警察は悪いことをしないという思い込み。最近はそうでもないということに気づくようになっています。

例5:教師・僧侶・裁判官・・・は真っ当な人だという思い込み。

 各人が各人の勝手な基準(=固定観念)で社会で起こっている事象を判断しているだけのことです。正解は各自の思い込みでしかないということです。自身の固定観念を押し通そうとすると軋轢が生じて悩むことになります。誰もが自身の法(=固定観念)で裁く裁判官だということではないでしょうか。

 

 この世で隠されていることはないのですが・・・。”あるがまま”は”あるがまま”でしかないのですが、”なんとかしたい”という思惑により、二元対立(=善悪・損得・・)の判断によって混乱しています。

 お釈迦様が面倒なことをするでしょうか。スペシャルな秘伝を特別な場所で特定な人にだけ伝えるようなことを考えて実行するようでは、大した人ではありません。あなただけ特別な効能のある”壺”を売ってくれる、そんなものは正当なものでしょうか。高額なお布施を頂ければ、伝授してあげます・・・。あなただけに効能があるスペシャルな真言・・・。

 特別なこと・隠し事・特別な方法・・・はなく、”ありのまま”を”ありのままに見る(=正見)”。特別な事や、特別な人としているのは社会が認めることであって社会にまかせればいいだけの話です。些細なことに振り回されることなく、人と比べることなく平安に平凡に生きていければいいだけ。

 特別な能力を身につけなければならないのなら大変なことです。坐禅や作務では特別な能力は得られません。瞬時に分別する癖を落とし、特別な人にならなくてもいいという”当たり前”の生活が”それ”です。社会生活では、社会が必要とする能力が重宝されるのは当然のことです。”本来の自己”は”我”の活躍しているアプリケーションソフトの優劣ではなく、誰もが共通のオペレーションソフトの働きがどうなっているかを感得することかもしれません。

 何かを掴んだり何かを得たり何者かに成ろうというのが、”我(=アプリケーションソフト)”の優劣争いです。アプリケーションをいくら操作しても、オペレーションソフトを変えることはできません。競争・混乱・優劣という二元対立の分別(=アプリケーションソフトの操作)のバックグラウンドではオペレーションソフトが働いています。

 蓮華の花に秘密などありません。何も秘密などなく、お釈迦様は”綺麗な花だよね”。摩訶迦葉は”そうですね、綺麗な花ですね。ニコッ”。あえて秘伝とするなら、眼前の”当たり前”の”あるがまま”が秘伝。特別な能力と言えば”あるがまま”そのままに感得できる能力。修行して身につくものではなく、”あるがまま”を見えなくしていた”固定観念・瞬時の分別”・”余計な勘ぐり”なく素直な感性で見る。六根は誰もが清浄なのですが、”思い込み”というフィルターを通して、私の判断として異なってアウトプットされてしまっています。

 お釈迦様はアスリートのように特別な能力を身につけた人でしょうか。例えば、坐禅で鞍馬や吊り輪ができるようになると思い込んでいるとしたらどうかしています。坐禅である境地・心境に達するわかがありません。坐禅は坐禅の為にするようです。坐禅に目的があったら、”我”の思う壺です。

 何かができるようになるのではなく、余計なことをして(=分別)混乱している自身の癖を辞める。”頑張ろう”という”我”が鎮まって出てこないようになっていく。望んだわけでもなく偶然生まれたのに、どういう責任が課せられているというのでしょうか。

 

・意味・価値・秘伝・秘法・特別・・”我”の大好物です。”我”が良いとか悪いとかではなく、”我”に振り回されて平安を乱されたままで良いのかということです。

 

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老子−55 [老子]

含徳之厚、比於赤子。蜂蠆虺蛇不螫、猛獸不據、攫鳥不搏。骨弱筋柔而握固。未知牝牡之合而全作、精之至也。終日號而不嗄、和之至也。知和曰常、知常曰明。益生曰祥、心使氣曰強。物壯則老。謂之不道。不道早已。

 

徳を持っている人は、赤子(無邪気)に例えられる。蜂や毒蛇が刺したり噛みつくこともない。猛獣や猛禽類も襲ったりはしない。骨は弱く筋肉は柔らかいが拳を握る握力は強い。男女の交わりは知らないが、身体は立派で精力は絶大だ。一日中泣き叫んでも声がかれないのは、「気」が乱れずに最高の状態であるからだ。この調和を知ることを常の道という。常の道を知ることを「明」という。常の道の中で生活していくことを「祥」といい、心がうまく「気」を使うことを「強」という。物事が盛んになると衰退するのも早い。「気」を使わずにすることを「不道」という。「不道」では終りが早い。

 

<他の翻訳例>

 「徳」を豊かにもつ人は、(生まれたばかりの)赤子に比べられる。蜂やまむしも食いつくことはなく、猛獣もつかみかかることはなく、猛禽もとびつくことはない。骨は弱く筋肉は柔らかだが、しっかり握りしめる。男女の交合をまだ知らないのに、(体は)完全につくられている。精(生命力)が最高だからである。一日じゅう泣き叫んでも声はかれない。和(の気)が最高だからである。この和(の気)を知ることが「永久であるもの」(との一致)とよばれ、「永久であるもの」を知ることが「明察」とよばれる。生命に何かをつけ加えようとすることは「不吉」とよばれる。心が息を激しくつかうのを「強」(粗暴)とよぶ。活気にあふれたもの(生物)には、その衰えのときがある。これ(粗暴)が「道」に反することとよばれる。「道」に反することは、すぐに終わってしまう。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 地球上の生命体(=動植物)の根源を遡ればたった一つの細胞に行き着くことは明白なことかもしれません。統制者など存在せず、ただ原理と法則の中で生命体が生き続けているという事実があります。多様な環境に多様な生命体が息づいています。

 生命体は環境に従い生滅を繰り返すことで次から次へ命が繋がっています。生命体は環境の変化に従って生きてきたようです。生命体が環境に対し多大な影響を及ぼすなどありえませんでした。しかし、地球のバランスを崩してしまうほどに人間の活動が大きくなっています。際限のない欲望のままに振る舞ってしまったことで、取り返しのつかない影響を与えてしまったのでしょうか。既に手遅れの状況かもしれません。今から100年後は、ほぼすべての人が入れ替わってしまいます。

 我々は、偶然に人間としての生を受けて存在しています。多くの先人が様々な問いかけをしてきたと思われます。誰もが”本来の自己”と問いかけ、納得したいのではないでしょうか。先人の残してくれた言葉にヒントがありますが、”本来の自己”を感得できるのは自分自身だけです。他人のメッセージだけで感得することなどできません。

 

 徳のある人は臭みがとれているので、人間の臭みがつく前の赤子のようだということでしょうか。蚊は足の匂いを嗅ぎ分けて近づいてくるようです。他の動物も人間の匂いを嗅ぎ分けることができるかもしれません。赤子は大人と同じ食事ができるよになれば人間として臭みが増し、次第に人間として匂いを発するようになるかもしれません。精神面でも”我”が自動的に作られます。”我”の活動によって人間としての分別が徐々に出来上がり”貪・瞋・痴”という働きに振り回されるようです。

 

 赤子はまだ歩き回れず、獲物として襲われることもないかもしれません。それにしても例えが大袈裟すぎるのは歪めません。言葉はありえないことでも平気で表現できるものです。鵜呑みにしないほうがいいかもしれません。

 違う見方では、人間としての策略によって地位・権力の中で生きていないということでしょうか。誹謗中傷されたり、敵対する人に命を狙われるということがないかもしれません。

 徳を持って生まれてくるとか、選ばれた人(=選民思想)というのは”我”が喜ぶようなことであり映画の題材としては最適です。ただの生命活動の結果として生まれてきたものに貴賤や善悪があったら大変なことです。単に多様な顕れがあるというのが当然なことです。”徳”は人間の作り出して概念です。人懐っこい動物もいれば、獰猛な動物もいます。自然は多様生に満ち溢れています。徳を持って生まれてくる人などありえません。引き継がれる魂という概念があれば可能ですが・・。魂という概念は強い思い込みであって、この魂という概念によって”徳”がある人とという妄想か可能なのかもしれません。

 誰もがマッサラ(=一切衆生悉有仏性で生まれてきているのですが、分別する相対(=善悪・美醜・・・)の中で迷って(=混乱)いるというのが現実です。生まれた瞬間に”死”が宣告されます。”死”ということだけにフォーカスすると、”死”から逃れることができないので”死”に打ち勝つ勝者はいません。全ての生命体は生まれた瞬間に”消滅”が確約されています。過去も存在していないし、未来に出会うこともできません。”たった今”と出会い続けているだけです。”たった今”を変えることもできないので、只々”今”にあるしかありません。

 人生に良い生とか悪い生とかもなく、ただただ個々の生命体が個別に経験する生という他ありません。他の生命体の経験をすることができないのに比較することに意味はありません。良いとか悪いとかはただの想像であって、経験できないことを想像するだけであって想像の中の出来事に振り回されるだけです。”我”は完璧な自分というイメージを持っていて、現状が完璧な自分でないといけないと思いこんでいるかもしれません。ちょっとしてことでも、困っていない自分と比較して困っていない自分に成ろうとするように働きます。この働きが”自我”であって混乱の元凶です。困ったら困った自分が本当の自分なのですから、困った自分のままを許してしまえばいいだけのことなのですが・・・。”どうしよう”と言っているのが”自我”だということに気づかなければなりません。”どうしよう”と言っているのは放っておいて、やるべきことをやれば”どうしよう”は消えていきます。

 古典から”どうしよう”のヒントを得るのではなく、”どうしよう”に巻き込まれないようにしたいものです。考えてばかりいないで”行動”することで”どうしよう”の声が小さくなっていく経験を積むことが必要かも知れません。

 

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考えた時にだけ現れる [気づき]

人間の脳は三層構造(人間脳、哺乳類脳、爬虫類脳)になっていることが分かっています。一番古く、生きていくための根幹をなしている爬虫類脳があります。瞬時に反射する脳であり本能のままに行動します。次に進化して作られたのが感情というフィルターを通して世界を見ることができるようになった哺乳類脳でしょうか。親子の繋がりや親愛の情を理解して行動するようです。ある程度の記憶ができ学習することができます。爬虫類脳と哺乳類脳とはストレスに対して「戦うか逃げるか」という反応をするようです。我々は直に爬虫類脳・哺乳類脳に働きかけることができるでしょうか。大脳皮質を活動させて何かを得るのではなく、大脳皮質についた癖をとるということによって正常(=清浄)な働きをするかもしれません。”我”の妄想を見破り分別以前の本来の自己を知る。

 一番新しいのが大脳新皮質であり、特に人間は言語によって思考することができるようになっています。存在しない”私”・”時間”という概念で過去・現在・未来という時間を思い浮かべ、”私”がいかにあるべきかということを考えることができるようになりました。

 他の動物から襲われることはほとんど無くなりました。人間の敵は他の動物ではなく、環境・他の人間・自分自身かもしれません。作物を貯蔵することができるようになり、農耕によって定住することが可能となりました。より多くの土地を求めて安定したいという企てによって、領土争いをしてきました。人間の最大の敵であり恐れるべきは人間であり、戦争で命を落としています。戦争の当事者は正当性を主張するのですが、勝ったほうが正しいということになります。正当性は後付でどうにでもなり、勝てば官軍負ければ賊軍ということです。

 

 ストレスから逃れ「安全・確実」に子孫を残せるようにするために有性生殖へと進化したのでしょうか。自己分裂によってコピーを作り続ける無性生殖から、環境変化に順応できるような多様性という生存形態で進化してきました。今ここに生存しているということは、命が繋がっている証拠です。他の生命体は生殖行為が終われば個体としての生存理由はなくすぐに死を迎えるようです。多くの命を食して体内に合一して生かされています。偶然に人間として生まれたのですから、生きている間に”本来の自己”に巡り会えるチャンスがあればそのチャンスを生かしたほうがいいと思われます。

 

 人間のストレスは、他の人間からの攻撃(=征服・権威・服従・従順・金銭欲・愛憎・暴力)があります。どうしても爬虫類脳・哺乳類脳が主体と成って働くようになっています。爬虫類・哺乳類の行動を抑制する中間体としての”私”を大脳皮質が作り上げたのでしょうか。

 人間社会という枠組みの中で「安心・安全」に生きていくために、言語を使い概念をこねくり回して思考することを学ぶことになります。理性に基づいた行動をするように教えられて成長します。

 ”私”・”時間”・”概念”というモノを使って思考する癖がついてしまった脳は、社会的な問題を解決することに使われます。問題の根本解決とは、問題を問題としないということです。自給自足で生きていくことができればお金に振り回されることもありません。少欲知足(清貧)であれば、無ければ無いという事実であって困ることはありません。(良寛さんは一つの鍋しかなかった)

 将来の”私”ということを考えたらどんどん不安が膨れ上がるばかりです。シミ・シワでも悩みになるのですから身体の至る所に気を使い始めたら不安で眠れなくなるかも知れません。

 

 ”私”が考えるのではなく、考えたからには考えた主体があるはずだという思い込み(=観念)で”私”がいるとしているようです。何でもかんでも”私”によって為されるとしたら大変なことです。上手く行かないということは”私”がやっているのですから”私”は思うように働いておらず、”私”が”私”を非難することになります。”私”の思いの通りになったら”私”を全面に出してどいこうする必要はなくなり”私”はいつかお払い箱になります。”私”がいようがいまいが現在起こっている”今”になるのなら、”私”は神かもしれません。世界全体の至るところで起こっているほんの一つの現象なのですが、その一つを”私”が起こしているのでしょうか。それとも一つの現象の集まりが全体の現象なのでしょうか。さざ波の一滴が海のうねりを発生させているわけではありません。海のうねり(=全体)によってさざ波の一滴としての現象があります。

 例えば、足を組み替えたというのは全体(=極端に言えば宇宙)の動きとして起こった一つの現象だということです。爪を切った・髪をとかした・歯磨きした・・・自身の一瞬一瞬の行いは宇宙の動きそのものだということかもしれません。どんな些細な出来事も、宇宙とは切り離されていないと言うことです。ちょっと背筋を伸ばすのも、宇宙的な出来事が起こったということです。違うと言うなら、些細な出来事を全てフリーズさせたら宇宙は動いていないことになります。我々が何らかのエネルギー(=宇宙エネルギー)で動いているのは間違いありません。

 

 我々人間はストレスに対処するために”私”・”時間”・”概念”というものを作り出して来ましたが、この”私”というものが何かを達成したり自らを助けてくれるという思い込みを持ってしまったかもしれません。”私”は考えたときにだけ”私”として認識してしまいます。

 

※脳の癖:瞬時に選り好み(=分別・相対)して問題としている。自らが問題を作って悩み苦しんでいる。

参考:至道無難唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う(信心銘)

 

 

 

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