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遍界不曾蔵 [気づき]

 あらゆる存在は隠されること無くあらわになっています。秘密にされていることなく、その運動・性質の法則性が後から定義されることでしかありません。誰もが重さを感じていた筈です。水の中に入れば「浮力」を感じていた筈です。アルキメデスが働きに気づき命名する前から「浮力」は至るところで働いていました。”月”が”月”と名付けられる前から、誰もが”月”の存在に気づいていました。

 積み重ねられた実験と定義と命名によって法則となり”法則名”として周知されます。隠されているのではなく、法則として見ることができなかったというだけのことです。

 

 「拈華微笑」という逸話(公案)があります。秘伝のようなものが特定の人だけに伝えられた?ということを信じていいものかという公案でしょうか。公案には、思い込みが間違いであると気づかさせる公案もあります。人は自身の判断が”正解”としています。各自の固定観念によって決めつけていることに気づきません。固定観念の数だけ正解があるということです。自身の見解を真の正解とすればするほど、他の見解は偽りだと主張することになります。自己の見解を守るには、他を攻撃する他ありません。他を認めず自らを主張します。世界の国々では主義主張を押し通すことで混乱に拍車がかかっています。

例1:看護師が女性で大型トラックを運転している人が男性だという思い込みがあります。

例2:一流のお店で飲む高額のワインは高級ワインだという思い込み。

例3:肩書がある人は漏れなくそれなりの人であるという思い込み。

例4:警察は悪いことをしないという思い込み。最近はそうでもないということに気づくようになっています。

例5:教師・僧侶・裁判官・・・は真っ当な人だという思い込み。

 各人が各人の勝手な基準(=固定観念)で社会で起こっている事象を判断しているだけのことです。正解は各自の思い込みでしかないということです。自身の固定観念を押し通そうとすると軋轢が生じて悩むことになります。誰もが自身の法(=固定観念)で裁く裁判官だということではないでしょうか。

 

 この世で隠されていることはないのですが・・・。”あるがまま”は”あるがまま”でしかないのですが、”なんとかしたい”という思惑により、二元対立(=善悪・損得・・)の判断によって混乱しています。

 お釈迦様が面倒なことをするでしょうか。スペシャルな秘伝を特別な場所で特定な人にだけ伝えるようなことを考えて実行するようでは、大した人ではありません。あなただけ特別な効能のある”壺”を売ってくれる、そんなものは正当なものでしょうか。高額なお布施を頂ければ、伝授してあげます・・・。あなただけに効能があるスペシャルな真言・・・。

 特別なこと・隠し事・特別な方法・・・はなく、”ありのまま”を”ありのままに見る(=正見)”。特別な事や、特別な人としているのは社会が認めることであって社会にまかせればいいだけの話です。些細なことに振り回されることなく、人と比べることなく平安に平凡に生きていければいいだけ。

 特別な能力を身につけなければならないのなら大変なことです。坐禅や作務では特別な能力は得られません。瞬時に分別する癖を落とし、特別な人にならなくてもいいという”当たり前”の生活が”それ”です。社会生活では、社会が必要とする能力が重宝されるのは当然のことです。”本来の自己”は”我”の活躍しているアプリケーションソフトの優劣ではなく、誰もが共通のオペレーションソフトの働きがどうなっているかを感得することかもしれません。

 何かを掴んだり何かを得たり何者かに成ろうというのが、”我(=アプリケーションソフト)”の優劣争いです。アプリケーションをいくら操作しても、オペレーションソフトを変えることはできません。競争・混乱・優劣という二元対立の分別(=アプリケーションソフトの操作)のバックグラウンドではオペレーションソフトが働いています。

 蓮華の花に秘密などありません。何も秘密などなく、お釈迦様は”綺麗な花だよね”。摩訶迦葉は”そうですね、綺麗な花ですね。ニコッ”。あえて秘伝とするなら、眼前の”当たり前”の”あるがまま”が秘伝。特別な能力と言えば”あるがまま”そのままに感得できる能力。修行して身につくものではなく、”あるがまま”を見えなくしていた”固定観念・瞬時の分別”・”余計な勘ぐり”なく素直な感性で見る。六根は誰もが清浄なのですが、”思い込み”というフィルターを通して、私の判断として異なってアウトプットされてしまっています。

 お釈迦様はアスリートのように特別な能力を身につけた人でしょうか。例えば、坐禅で鞍馬や吊り輪ができるようになると思い込んでいるとしたらどうかしています。坐禅である境地・心境に達するわかがありません。坐禅は坐禅の為にするようです。坐禅に目的があったら、”我”の思う壺です。

 何かができるようになるのではなく、余計なことをして(=分別)混乱している自身の癖を辞める。”頑張ろう”という”我”が鎮まって出てこないようになっていく。望んだわけでもなく偶然生まれたのに、どういう責任が課せられているというのでしょうか。

 

・意味・価値・秘伝・秘法・特別・・”我”の大好物です。”我”が良いとか悪いとかではなく、”我”に振り回されて平安を乱されたままで良いのかということです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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