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老子−63 [老子]

爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不爲大、故能成其大。夫輕諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難。

 

現代語訳
 無為によって為し、無事を事とし、無味を味わう。小さなことを大きく扱い、少ないものを多いものとして扱い、怨みには徳で報いる。難しいことを簡単なときに処理し、大きな問題でも小さなときに処理する。天下での大きな問題でも些細なことから始めれば、大きな問題でも小さなときに処理できる。だから「道」に従っている聖人はわざわざ大事を成そうとはしない、小さな事を積み重ねて大事を成す。安易に請け負っていては信頼は得られない。安易に請け負うと困難に直面する。聖人は些細な事でも難しい問題として対処し、こともなげにやってしまう。

 

<他の翻訳例>

 行動しないようにせよ。干渉しないことを事とせよ。味のないものを味わえ。小さいものを大きいとし、少ないものを多いとせよ。「怨みのあるものには徳行をもって報いよ」。むずかしいことに対しては、それがまだたやすいうちに処理し、大きなことに対しては、それがまだ小さいうちに処理せよ。天下の困難な仕事は、たやすいことのなかにそのはじめがあり、大きな仕事は、小さなことの中にはじめがある。それゆえに、聖人は決して(みずから)大となろいうとはしない。だから、大となることを成しとげる。

 およそ、軽々しく約束するものは信義をまもることがまれであり、物事をなんでも手軽に考えるものは必ず困難に出あうことが多い。それゆえに、聖人でさえ困難とすることはある。だから、どんな困難にも最後には打ち勝つのである。

「世界の名著 小川環樹訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 現代において聖人になろうとか天下を取ろうとか考えている人はどれくらいいるのでしょうか。政治家・経営者・アスリート・・・各人が活躍しているフィールドで最大限の能力を発揮して活躍することは素晴らしいことです。老子の生きていた時代での聖人とはどんな人なのかよく分かりませんし想像もつきません。

 老子の時代での大問題はどんなことであって、どのようなことが些細なことなのか知る由もありません。何かを成すということに焦点を当てれば、大成するとか名声を得ることが非常に重視されていたことかもしれません。

 VSOPと言われていたことを思い出します。20代はV(Vitality)、30代はS(Speciality)、40代はO(Originarity)、50代はP(Personality)だということです。若いときは元気で活発に働き、次に専門性を身につけ、独創性によって開拓し誰も真似できない個性を身につける。

 よく個性と癖とを履き違える人がいます。個性は伸ばせがいいのですが、癖はとらなければなりません。独創性も時代に合わなければ意味がありません。

 聖人になるために生きるより、平凡に生きることで満足している人に思想を押し売りすることはできません。その時代が欲しているものを提供することが名声を得ることには必要なことのようです。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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決めつけによって迷う(悩む・苦しむ) [気づき]

 私達個々人は異なる教育・家庭環境・信仰・文化・習慣・癖・風習・思い込み・行動パターン・生活環境・趣味趣向・経験・アイデンティティ・・・等々があり、また個々人で異なる状況に接していることでまったく異なる思いが沸き起こっています。

 様々な思いが湧いてくるのはどうすることもできない自然なことです。このとりとめもない思いにつきあう必要があるでしょうか。身体であれば、身体が危険な状況に遭遇したときは、自らの身を守るために自然にホルモン分泌が行われ最適な行動が促されるようです。

 誰もが自身が構築してきた観念を自らが否定することは難しいことです。誰もが自分が正しいとして生きています。世界は常に変化変容しているというのに、自らが構築した観念を世界に押し付けることでは混乱がおさまることはありません。世界を従えるのか世界に従っているのか明白なのですが・・・。人間だけが自然に反して得意満面になっているのでしょうか。

 

「もし今、私たちの知らない遠く離れた地の誰も居ない森で、一本の木が倒れたとします。 その際に、その木は“音を出して”倒れたのでしょうか。」という問いがあります。人は文字や音として表現されたことを勝手に妄想(=想像)することができるので、認知していないにもかかわらず”音”が発生していると思いこんでい疑いません。実際に聞いてもいないのに、妄想(=想像)した場所では”音”している筈だと決めつけています。実際に起こっているのは自身の感受したことだけです。他人の痛みをそのまま感じたら医者や看護師として働くことはできません。単に妄想(=想像)の中での出来事だということです。

 

無門関の第4則に「胡子無鬚( こすむしゅ )」というものがあります。

<原文>
或庵曰(いわ)く、
「西天の胡子(こす)、甚(なん)に因(よ)ってか、鬚(ひげ)無き?」

<現代語訳>
或庵(わくあん)が言われた、「達磨(だるま)は、一体どういうわけで、鬚(ひげ)がないのか?」

 

 公案は数学の問題を解くように答えを出すのではなく、迷い(=二元思考)から開放されて自由になるということ。大事なことは誰かが迷わせたり悩ませているのではなく、自身が迷っていて自身が悩ませているということです。周りに責任があるのではなく全てが自身の内で起こっていることに自身で騒ぎ立てているということです。

 小さい頃から達磨の置物や絵を見て”髭”があって赤い衣を着ているというイメージがついています。実際に見たこともないのに決めつけています。見たとしても次の日には髭を剃っているかもしれません。ただの妄想(=想像)にがんじがらめにされて不自由になっている自分に気づかなければなりません。”髭”があるという思い込みがあるということです。

 自身の身を守るということは当たり前のことですが、自身の固定観念も必死で守ってはいないでしょうか。ただの記憶であって傷つくこともないのですが・・・・。記憶というのは積分されて残っている実体のあるものなのでしょうか。釈迦・老子・・・どんな人であったのかは勝手な妄想でしかありません。分かりもしないことに囚われてもどうしようもありません。今この瞬間に体で感受されている実感が全てです。良いも悪いもない只感受されていることだけ・・・・。

 観念の足枷をしていて自由と言えるでしょうか。沸き起こってくる思いを追いかけることを止めて思っていることを放ったらかしにして自由を味わうのもいいかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー62 [老子]

道者萬物之奧。善人之寳、不善人之所保。美言可以市尊、美行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有拱璧以先駟馬、不如坐進此道。古之所以貴此道者何。不曰求以得、有罪以免耶。故爲天下貴。

 

現代語訳
「道」はあらゆるものを生み出す万物の根源である。善人の宝であり、善人でなくても「道」の中で育まれている。綺麗事の言葉で尊ばれている人もいるし、綺麗事の行動によって人の上に立つ者もいる。善行を行わないといって、その人を見捨てる事はできない。天子の即位や三公が任命される時に、豪華な宝物を四頭の馬車に載せて献上するけれど、そんな事をするよりも座ったままで「道」のままにいたほうがいい。昔の人々がこの「道」を貴んだ理由は何であろうか? 「道」によって求めるものが得られ、「道」によって過ちが許される。だからこそ「道」はこの世で最もとうといものとなっている。

 

<他の翻訳例>

「道」はあらゆる生物の隠れ家である。それは善である人が宝とするもの、不善である人が護(まも)られるものである。うるわしいことばは、それをさし出せば報酬を得るであろうし、おもおもしい行いは、(その人を)他人より高めるであろう。善ではない人でさえ、どうして見すててよいであろうか。だから天子が立てられ、三公が任命されるときに、円盤形の玉を四頭の馬の先にして献げるよりも、じっとすわって「道」を贈るほうがよい。昔の(人が)この「道」をとうとうんだ理由は何であったっか。「それによって、人が求めるものを得るし、あやまちがあったときも(その報いを)免れる」といわれるからではないか。それゆえに、天下において最もとうといものとされるのである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 「道」は万物の根源であれば、根源から生み出されたモノに優劣も貴賤も美醜というものに分ける意味はあるでしょうか。宇宙開闢時に遡れば一切は一様でありたった一点に集約されるかもしれません。また、あらゆるモノを分解すれば素粒子であり比較のしようがありません。極大化して一つの宇宙とするなら一つの中に何が含まれようが一なるものです。薔薇の花は根・茎・花弁・葉脈・・・あらゆる部分が結合されて一つの薔薇とされます。根の一本は薔薇でないといってどんどん取り去ってしまえば薔薇は薔薇として花を咲かせることはできません。土と砂利からなる道から、道の一部である土をひとつまみ取り去り砂利をひとつまみ取り去っていくとどうなるでしょうか。そこに道はなくなってしまいます。部分は部分ではなく、全体そのものかもしれません。

 惑星や彗星や衛星・・・の一つ一つは宇宙ではない。宇宙でない惑星や彗星や衛星を一つ一つ消し去ってしまったら宇宙といえるのでしょうか。ちっぽけな砂粒ひと粒でも宇宙そのものだと言えないでしょうか。我々一人ひとりとしてみれば一人なのですが、だれ一人をとっても宇宙そのものかもしれません。もっと極端に細胞・ウィルスさえも宇宙そのものということです。

 高度100kmが宇宙なのでしょうか、それとも眼前の空間も宇宙そのものなのでしょうか。宇宙と眼前の空間に隔絶した何らかの隔壁があるのでしょうかサッパリ分かりません。宇宙を吸って宇宙を吐き出して宇宙そのものとして生きている。宇宙として宇宙の中で宇宙そのものとして生きていないとしたら、宇宙と隔絶した何者として生きているのでしょうか。

 人は善悪とかに分別しているのですが、分別以前に住すれば一切が異なることのない全くの一ということなのですが・・・・。

 

 

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刹那に相違なし [気づき]

 私達の人生の時を微分した瞬間に違いがあるのでしょうか。刹那の瞬間に、それぞれの生命体が感受するのはただ見え・ただ聞こえ・ただ感じ・ただ味わいがあるだけです。意味や価値の軽重はないのですが、振り返って軽重として見ています。極端に言えば意味づけ価値づけをしなければ刹那の瞬間は全てに平等です。

 この”刹那の今”に覚者や凡夫という違いがあるでしょうか。どこから何らかの”差”が出来てくるのでしょうか。だれもが”自分かわいい”が自然と起こってきます。この”自分かわいい”は各個人の経験・固定観念・宗教・信仰・価値観・・・等々が記憶されているフィルターを通ることで分別が起こるからかもしれません。

 分別は二元対立として認識され、執着・忌避という生命体自体を守るために働く自然な機能です。今感受された情報が”自身”にとって良いのか悪いのかを瞬時に判別され次の行動に起点となります。

 誰もが自分が正しく自分がかわいいというベースがあります。自意識が芽生え言葉を覚えると、言葉を使って考えるということを常に繰り返してきました。自意識(=我)は考えて”何とかしたい”考えれば”何とかできる”という思い込みから脱することができません。目にするモノ聞こえる音感覚に何らかの意味や価値があるものだとして生きてきました。自らの人生にも意味づけ価値づけを行っています。

 もし微分された瞬間(=刹那の今の瞬間)が間違いであったとしてもどうすることもできません。刹那の今が間違いということは宇宙が間違っているということになりますが、宇宙は間違っているのでしょうか。

 この刹那は誰にも平等です。刹那の今は、完璧に過ぎ去り消え去っています。次の瞬間を思いのとおりに作り出すこともできないし、消え去った過去を再現することもできません。自意識(=我)はどうにもならないことをどうかしようと葛藤しているのでしょうか。

 一体直前の瞬間はどこへ行き次の瞬間はどこからくるのでしょうか。宇宙全体がフラッシュのように生滅を繰り返しているようです。”思いの通りにしよう”という”思い”を無視して眼の前の刹那がどのように繰り広げられているか目撃し続けるのもいいかもしれません。

 

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老子−61 [老子]

大國者下流。天下之交、天下之牝。牝常以靜勝牡。以靜爲下。故大國以下小國、則取小國、小國以下大國、則取大國。故或下以取、或下而取。大國不過欲兼畜人、小國不過欲入事人。夫兩者、各得其所欲、大者宜爲下。

 

現代語訳
大国は大河の下流に位置するようなものである。天下のあらゆるモノが流れて交わるところであって、あらゆるモノを生み出す牝のようである。牝は常に静かで受け身でありながら牡よりも勝っている。それは静かで受け身であるからなせることだ。この様に大国が小国より下手にでれば小国は服従し、小国が大国に下手に出れば大国のように振る舞える。このように人は下手になることで信頼を得る、ある人は下手になることで同等となる。大国は小国の人々を養い、小国は大国に従って仕えようとする。大国も小国もお互いに欲するような状態になりたければ、大国が下手に出るべきである。

 

<他の翻訳例>

 大きな国は(川)の下流であって、天下の(すべての流れが)交わるところである。天下の牝(母)である。牝はいつでも静かであることで牡に勝つ。静かにしていることで(牝は)下位にある。ゆえに、大きな国が下位にあるならば、小さな国を併合する。小さな国が下位にあるならば、大きな国に併合される。ゆえに、あるものは下位にあることによって併合されるのだ。大きな国が望むのは、あらゆる人をみな養おうということだけであり、小さな国が望むのは他国に従属し奉仕すること、それだけである。もし両者いずれもが望むとおりにしたいのだとすれば、大きなほうが下位にあることがふさわしい。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

 

 

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生の微分積分 [気づき]

 微分積分を抜きで物理・天文学で現象を解明することはできません。この世界での現象を予測したり現象を解き明かすにはどうしても微分積分が必要となるようです。微分とはある瞬間の傾き(変化)とされています。積分は細分化した短冊(最小は線)を合計した面積とされています。微分で重要なポイントは変化量がゼロ(=傾きゼロ)のところがトップ・ボトムとなりそれまでの逆へ変化するポイントとなります。上昇から下降へ、下降から上昇へと変化する地点が傾きがゼロの瞬間です。

 私達の感情・感覚・思い・・・は常に変化変容しています。無数に存在する生命体が全く同じ感情・感覚・思いが全く同じで(=一致して)あることはありえるでしょうか。それぞれの個体は異なる場に存在していて、微妙に異なる環境の中に存在しています。場が異なれば重力・湿度・温度・・・・等の外部環境も異なっています。個々の生命体の経験が異なることで異なる反応となります。異なるエネルギー状態・精神状態・身体状態となっている各個体の感情・感覚・思いが一致するということは無理があります。また、客観的に調べたとしてもその瞬間に一致していたということで永遠に一致することはありません。個々の生命体はそれぞれがユニークであり比較することができないし、比較する意味もありません。

 

 各生命体の感情・感覚・思い・身体・・は様々であり異なる曲線を描いています。各生命体で同じような状態(=曲線の部分)を見出すことができるのは、傾きがゼロのとろこではないでしょうか。

 釈迦・達磨等々(=自身以外)がどのような感情・感覚・思いでいたのか、今生存している他者がどのような感情・感覚・思いでいるかなど知る術はありません。知ったからといって、その聖者に寄せて真似てどうなるのかサッパリわかりません。何かに自身を一致させるためにコントロールができたら大変なことです。身体能力も環境も異なる人が思考や修練で自らをコントロールしてある人物に変身するわけがありません。錬金術が失敗していることで証明されています。

 他人の心境がどうなのか分かったら大変なことです。分かりもしないのに比べていることは愚かなことです。例えば、あの人は幸せそうだ・あの人は可愛そうだ・・・・分かりもしないことに思考をめぐらせて自身をコントロールしようとすることは徒労に終わります。

 また、自身の人生を積分したとしても、たった今の自分でしかありません。何かが積み重なった自身を見出すことができるでしょうか。様々な感情・感覚・思いが積み重なって(積分され)感情が積み上がり感覚が積み上がり思いが積み上がった自身がいるわけではありません。感情・感覚・思いはただ泡沫のように生まれては消え去っているだけです。

 瞬間瞬間新たな感情・感覚・思いがあるだけです。常に新鮮であって一期一会だということです。それぞれの人生の経験は単に記憶としてあるだけで、他人には全くわかりません。家族や友人は経過を知っているようですが上っ面だけであって本当に自身の経過を事細かく知っているのは自身しか存在しません。見知らぬ他人の何を知っているというのでしょうか。

 数息観・ヴィパッサナー瞑想・只管打坐・・・での思いを取り扱わない(=追いかけない)瞬間を微分すると傾きゼロ。普段から思いを追いかけなければ曲線は段々と直線に近づいていくかもしれません。傾きゼロ(=起伏ゼロ)が多くなれば感情・感覚・思いに振り回されることがだんだんと少なくなっていくかもしれません。我々の生を微分して一瞬を切り取ったとして、偉人・悪人・聖人・一般人という区分けが妥当なのでしょうか。

 見えているまま・聞こえているまま・放尿している仏陀・痒いところを掻いている仏陀・欠伸をしている仏陀・躓いた仏陀・歩いている仏陀・垢をこすっている仏陀・・・一体私達の行為・状況と仏陀の行為・状況にどんな差異があるというのでしょうか。神格化して人間ではないように扱っていますが、本当に人間ではなかったのでしょうか。食べて排出しないでどうやって生きていたのかサッパリ分かりません。同じように見えて同じように聞こえて同じように排出して同じように病に侵され同じように死んでいくだけです。

 ただ違うとしたら、二元対立という分別(=苦悩の原因)に振り回されずに生きただけのことかもしれません。”我”の思い(=なんとかしよう)をただ観察して消えるままに放っておいたのでしょうか。

 

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老子ー60 [老子]

治大國、若烹小鮮。以道莅天下、其鬼不神。非其鬼不神、其神不傷人。非其神不傷人、聖人亦不傷人。夫兩不相傷。故徳交歸焉。

 

現代語訳
大国を統治するには、小魚を煮る料理の様にすることが必要である。「道」によって国を統治するならば、鬼神が邪魔をすることはない。鬼神が邪魔をしないだけでなく、人民に害を及ぼすこともない。人民に害を及ぼすことがないだけでなく、「道」に従っている聖人も人民に害を及ぼさない。鬼神も聖人も害を及ぼすことが無いので、その徳が人民に帰すのである。

 

<他の翻訳例>

 大きな国を治めることは、小さな魚を煮るのに似ている。「道」に従って天下に君臨すれば、精霊たちはその威力をふるわない。(いや、精霊たちが威力をふるわないというよりは、かれらは威力をもちつつ、人民を傷つけない(というべきだ)。かれらが威力をもって人民を傷つけないばかりでなく、聖人もまた人民を傷つけない。どちらも傷つけることがないのだから、たがいにその徳を相手に帰するのである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 領土が広く統治する人が多ければ多いほど、様々な手を尽くしたくなります。骨も小さく食べるところも少ない小魚をかき混ぜてしまうと小魚の姿形は無くなってしまいます。細かな法でアレコレせずに自然に任せたほうがいいというのが「道」での統治したほうがいいということでしょうか。

 鬼というのは人民の反発心ということでしょうか。法で細かく縛れば抜け道を探すようになります。闇の取引や闇での悪事が増えるとでもいうことでしょうか。

 統治者は「道」に従って統治するのがいいですよ。「道」とは無為自然に任せるのですから何かを意図的にするものではなさそうです。なるようになっているのが現実です。人が意図的になにかすれば、何かという着地点が出来上がります。着地点と現実の差が悩みとなります。なるようになっていることに任せきる。あるがままと現実にギャップがなくなれば一体となります。見えているモノとすでに一体となっているのですが、見たいものを持ち込み見たいモノが正しいとして現実を見たいモノへと向かわせると問題が起こってきます。聞きたいモノを持ち込み、聞きたいモノが正しいとして現実を無理矢理に変えてしまおうとすると問題となります。こうあってほしい、こうあるべきだというのが第一になると、現実が間違っていることになり分離してしまいます。

 過ぎ去って存在しない過去は修正することはできません。未だどうなるかもわからない未来をどうにすることもできない。現実は現実でしかないのに、過去や未来を持ち込んで何とかしようとして悩むことは現実を味わうことができていません。見えているモノは一体であり自分自身そのものです。聞こえている音は一体であり自分自身そのものです。分離していると感じて生きているだけかもしれません。聞いている自分を作り出してしまっています。見ている自分を作り出してしまっています。ここに気づいてみるのもいいかもしれません。見えているだけがあり、聞こえているだけがあり、味わっているだけがあり、触れている感覚だけがあり・・・・。

 

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学問となる前 [気づき]

文部科学省のHPから抜粋させていただきました。

学問」とは

・学問の意義は、人類の知的認識領域の拡大である。それは、個人の知的好奇心を満たすということを超えて、人類共有の知的財産の拡大を意味している。

・学問には2つの効用がある。第1は、生活上の便宜と利得の増大である。第2は、自分を作り上げていくこと、確立していくこと、いわゆるBildungとしての教養であり、このような教養による人間形成を通じての社会の形成である。前者も後者も重要であるが、後者の効用を忘れてはならない。

<省略>

「科学」の成立

・「科学」が、現在のような意味での「科学」になったのは18世紀のいわゆる啓蒙主義の時代である。世界を説明したり記述するときに「神」を必要とする立場を「聖」、「神」を必要としない立場を「俗」とするならば、18世紀に「聖」から「俗」への転換(「聖俗革命」)が起こった。この時代以降、「神の計画を知ること」という動機付けは消え去り、「科学」の動機付けは「知的好奇心」が中心となる。

・このような歴史的経緯を踏まえ、「知的好奇心」を動機付けとして、「真理の探究」を目的とした「科学」が成立する。このような意味での「科学」とは、純粋な知識体系であり、「科学」の成果を活用するクライアントが外部に存在しない、即ち、他の目的の手段ではないという古代ギリシャ以来の特性も併せ持っている。

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辞書での「学問」

 学問(がくもん)とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法であり、哲学や歴史学、心理学や言語学などの人文科学、政治学や法律学などの社会科学、物理学や化学などの自然科学などの総称。

 

 我々の生存している現象界では無常の世界であって、永遠に同じであるという事はあり得ません。生命体として生まれたということは必ず消え去ることは自明のことです。物質的な肉体は必ず消滅するのですが、有性生殖での生命体は自らのDNAを後世へと引き継ぐようにプログラムされています。DNAを受け継いだ子孫が誕生すれば生きている必要は無いのですが、人は様々な知恵・知識を伝承するために生きながらえています。

 生物としての役割を終えているのですが、何とかして生きながらえて生を謳歌していたいようです。

 偶然の生の中で出来るだけ安全・安心に生きていきたいというのは誰もが望むことです。因果関係を紐解いてあらゆる事を先回りして予測できれば困難に対処することができます。知るということは、恐怖を軽減することが出来るという思いが強いからこその自然のことなのでしょうか。

 人は因果関係を解き明かし、悪い結果となりうる原因を取り去りたい。現状を変えることで未来をより良い結果となるようにしたい。学問はヒトの保身のために必要とされていることかもしれません。

 学問は原因があって結果が起こるということの繰り返しの経験を知識として記憶できます。言葉や文字を用いて伝えたり理解するために役立ちます。仏道は身の回りで起こっている事象の因果を知る知識ではないようです。知識であれば記憶してペーパテストで60点以上で合格ということになりますが、個人的なことであって一般的な知識ではありません。

 学問ではなくあくまでも分別の起こる以前の状態というところに着眼しなければならないようです。

 

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老子−59 [老子]

治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以早服。早服、謂之重積徳。重積徳、則無不克。無不克、則莫知其極。莫知其極、可以有國。有國之母、可以長久。是謂深根固柢、長生久視之道。

 

現代語訳
国の人々を治め、天に従って行こうとするなら無駄な出費をしないことに勝ることはない。無駄な出費をしなければ、早く「道」に従う事ができる。早く「道」に従うことで徳を積むことができる。徳が積み重なることで、物事を成し遂げることができる。物事を成し遂げることができれば、その成果に限界はない。成果に限界が無ければ国家は安定する。国が安定する母となり、無駄な出費を抑えることで国は長く栄えるであろう。このことは木が深く根を張り、末永く継続する道であると言う。

 

<他の翻訳例>

 人民を治めるにも天に仕えるにも、(君主にとって)最もよいのはものおしみすることである。ものおしみであることによってこそ、(君主は)はじめから道理に従うものとよばれる。はじめから道理に従うことで、(かれは)「徳」を積み重ねたよばれる。「徳」を積み重ねれば、何ひとつ打ち勝てないものはない。打ち勝てないものがなければ、何人にもかれの(力の)極限は知られない。極限が知られないとき、(かれは)国家を保有することができるであろう。(かれが)国家の「母」を保有したとき、永続できるであろう。このことが、根を深くし幹を固くして、いつまでも生きながらえる道とよばれるものである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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国(=ある範囲の土地につけられた単なる名前)は土地が海底に沈まない限り無くなりはしません。永遠に生きる君主もいなければ永遠に生きる人民もいません。全てが生滅して入れ替わります。ほんの歴史の一瞬の間の出来事です。現代社会では制度や人々の考え方も様々です。天・徳・道がそのまま通用するかどうかも怪しい。

 歴史から学べと言われますが、社会制度を学んでも役には立たないかも知れません。社会制度よりも、個々の人間としての本来の有り様を確かめることに注力を注ぎたいものです。

 

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