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老子-56 [老子]

知者不言、言者不知。塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。

 

 感得したすべてを言葉で表現することはできない、言葉で伝えることができると思っている者は分かっていない。人間の入力器官を塞いで、知識での理解を辞める。感覚をすぐに言語化することから離れると、自身の思考(=混乱)は鎮まり塵は除かれる。これが同一と言われる。この同一となっている人は対立がないので親しくすることも疎遠になることもない。利益を得ることもなく、損害を被ることもない。敬い尊ぶ必要もなければ、卑しみ侮ることもない。この世界で最も貴くなる。

 

<他の翻訳例>

 知っているものは、しゃべらない。しゃべるものは、知ってはいない。穴(目や耳などの感覚器官)をふさぎ、門(理知のはたらき)を閉ざす。

(こうして)すべての鋭さはにぶらされ、すべてのもつれは解きほぐされ、すべての激しいようすはなだめられ、すべての塵は(はらい除かれて)なめらかになる。これが神秘な「同一」とよばれる。したがって(人は)それと親しくすることはできず、それを遠ざけることもできない。それに利益を与えてやることはできず、害を加えることもできない。とうとい地位に高めることはできず、低い地位におとしめることもできない。それゆえに、天下で最もとうといものなのである。

 

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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  ”拈華微笑”のように、花を見れば見えたそのままです。お互いに見えたとおりであれば言葉で確認することも言葉で表現する必要もありません。五蘊(=色・受・想・行・識)での色(=対象)・受(=感受)の段階では、意が介入されておらず感受されたままです。この段階での知(=直知・仏知)のままを知者というのなら一人残らず知者ということになります。次の想・行・識によって各個体が二元対立を持ち出して分別してしまいます。この二元対立の世界(=迷いの世界)での知(=記憶知・学習知)によって、良ければ執着し悪ければ忌避することに終始します。自ら迷い(=二元対立)の世界の中で解決しようとしますが、一時的な解決であり根本の解決にはなりません。事象が生滅しているだけなのですが、事象を自身の理想と合致させたい。その理想のために”何とかしたい”と考えることが問題となります。何でもかんでも意が働いて理想と一致するように思案します。考えることは必要ですが、”我”を通そうとして自身も周りも巻き込んで大変なことにしてしまいます。

 この過大な要求(=思い通り)に振り回され続けることになります。迷いの世界(=輪廻・二元対立)から抜け出すことができずに一生を送ることになります。常に思考する癖に苛まれ続けることになっているのではないでしょうか。

 思考で解決できるはずだという思い込みから抜け出せないままに時間だけが過ぎていきます。現実が思考のとおりに成ったら大変なことです。主義主張を押し通すことで戦争になることもあります。

 思考によって老いたくないとか病気になりたくないとか死にたくないと思うことが現実になったら世界はどうなるでしょうか。老いて病気になって死ぬことは極めて自然なことです。自然(=法則)を受け入れずにエントロピーを止めることは不可能なのですが・・・・。”我”は法則も打ち負かそうと不当な要求をしているのではないでしょうか。苦しみから逃れ続けていると、何度も苦しみ受けることになります。これくらいの苦はウェルカムとできれば、苦とならないかも知れません。他人が悩みだとしていることが気にかからなければ悩みではありません。

 幾つもの持病がありますが気にしていないので悩むことはありません。

 

 思考から一度離れ、花を観て幸せな気持ちを味わってみる。紫外線まで見える蝶として花の中を飛び回れるのならどれだけ幸せなのか・・・。人間は最も高等だと言われていますが分別によって悩み続けているのなら、もったいないことかもしれません。

 

「知者不言、言者不知」

 分別以前の知(=仏知・直知)は言葉に変換される前なので、見えたまま聞こえたまま味わったままであり感受したままを味わえます。言葉を発する段階の知(=記憶知・学習知)であって、分別以前の知(=仏知・直知)を経過した後です。言うものは既に分別以前の知(=仏知・直知)からかけ離れた二元対立の分別で決めつけてしまっているのでしょうか。

 分別以前の状態であるには、何もせずに只坐っているのがいいようです。また、散歩するのもいいかもしれません。内側の探求には、感覚器官を閉ざしてみなさいということでしょうか。何かを手に入れることや知識をためこむことで平安でいられるのなら内側に向かう必要などありません。誰一人として外の世界で「それ」を見つけた人はいないようです。地中にある”金”・”石油”・”レアメタル”・”ダイヤ”が「それ」であり、平安をもたらしてくれるのでしょうか。金目のモノを身に着けて埋葬されることで満たされていたのでしょうか。家臣を共連れにしてあの世に行くということは”不安”がつきまとっていたからでしょうか。権力や金銀財宝はいくらあっても安心でいられないので、いくらでも欲しがっていたということの証です。満たされないがために多くの人を巻き込んで戦い、略奪を繰り返していたのでしょうか。

 命を賭けて危険な状況を経験したり、鍛え上げられたアスリートが繰り広げるスポーツを観戦しているときには何らかのホルモンが分泌されているのでしょうか。事象は、自身の中にあって身体的に反応しているということです。宇宙の果に行って「それ」に出会ったとしても、反応が起こっているのは自身の身体的なことです。

 映像・文字・写真・・・小説・経典・・等々は間接的であって、”たった今”のダイレクトなものではありません。今まさに目の前にあって、風に揺れている色鮮やかな花々、湯気を見て香りを嗅いで舌で味わう飲み物、潮風を肌で感じて浜辺の音を聞いて見える地平線・・・・。リアルでダイレクトな躍動を全身全霊で味わうことで生きている感覚が呼び覚まされます。外も内もない一体となった感覚。そこには知による二元対立はありません。味わっている感覚だけがあり、対象が無ければ二元対立を持ち出す必要もなく「一」すらない斉同ということでしょうか。利害もなく貴賤もありません。比べるものがないので貴いということを言いたいのでしょうか。

 

 我々は、言葉を使った観念の世界(二元対立の世界)で瞬時に分別する癖があり、この癖を直さない限り苦悶することになっているのでしょうか。本来は、事事無礙法界(=すべての物事は完全に調和して解け合っている)であり問題はないのですが・・・。”我”があるがままの世界を”何とかしたい”と頑張っていることが問題を作り続けているのですが・・・。考えても頭痛は治りません。頭痛薬を飲めばいいだけのことです。考えても癌は消えません、現代医学で適切な処置をすればいいだけのことです。悩んで良くなれば悩み続ければいいだけですが、良くならないので悩みが続くということのようです。悩んでいるということは良くならずにいる状態だということです。

 白隠は「正念工夫」を推奨しています。「正念工夫」は、雑念が生じる前の状態のようです。雑念を相手にするのは正しい状態ではないということです。”あるがままの現実”を”我”の思いに委ねずに、”現実・事実そのままに”受け取ってみるのもいいかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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