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老子−54 [老子]

善建者不抜、善抱者不脱。子孫以祭祀不輟。修之於身、其徳乃眞。修之於家、其徳乃餘。修之於郷、其徳乃長。修之於邦、其徳乃豐。修之於天下、其徳乃普。故以身觀身、以家觀家、以郷觀郷、以邦觀邦、以天下觀天下。吾何以知天下然哉。以此。

 

 善く建てた者からは抜くことはできず、善く抱え込んでいる者から剥ぎ取ることはできない。子孫は栄え祭祀は絶えることがない。「道」をこの身に修すれば、その徳は真となる。家で修すれば、その徳は余りあるほどである。地域一体で修すれば、その徳は永く続く。国で修すれば、その徳によって豊かになる。天下で修すれば、その徳は天下に遍く行き渡る。

 人の身に徳があるかを観て、家に徳があるかを観て、地域に徳があるかを観て、国に徳があるかを観て、天下に徳があるかを観る。私は天下の行く末を知るのは「道」を修して徳があるかによる。以上のようなことである。

 

<他の翻訳例>

しっかり打ち込まれているものは引き抜かれることはなく、固く抱えられているものはすべり落ちることはない。(このようにすれば)子孫代々(祖先を)祭ることは、とだえないであろう。(そのやり方で)ひとりの身において(完全に)修めれば、(「道」の)徳(めぐみ、その効果)はまちがいなくあらわれ、一家族において修めれば、その徳はあり余るほどであり、一つの村において修めれば、その徳は永続するし、一国において修めれば、その徳は大きくさかんであり、天下において修めれば、その徳はひろくゆくわたるであろう。それゆえに、あるひとりの身については、その人の身(の修め方)によって(どこまでも)見てとれるし、ある一家については、その家族(の修め方)によって見てとれ、一つの村については、その村(における修め方)によって見てとれ、一つの国については、その国(における修め方)によって見てとれるのである。私は何によって天下がそのようであると知るか。このこと(以上のこと)によってである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 文字での真意はそのまま伝わることはありません。”川”と書かれても幅や流れの速さ水量・・・各人の勝手なイメージに依存します。つまり千差万別の解釈が出来るということです。翻訳する側も読む人もただの読み物として愉しめればいいかもしれません。

 男性が家を建て、女性が家計を守ってきたのでしょうか。女性が家の中を取り仕切っていれば子孫は繁栄すると言いたいのでしょうか。

 個人・家・地域・国・世界全体と拡大して観ると、「道」に従っていれば安泰ということになるとのことです。理想という言葉は”現在では実現していないこと”という意味かもしれません。現実ではないので、「道」の理想について語ることができます。各人の思いが実現すれば大変なことになります。”ああしたい・こうすべき”という思いは言葉や文字で表現できますが、思いの通りに行くわけがありません。チッポケな個人の思い描いた世界がどうして実現できるのでしょうか。環境に影響を与える存在なのか、環境から影響を受ける存在なのかちょっと周りを見渡せば分かることです。

文字での表現は大袈裟に感じるのはいたしかたないのでしょうか。文字で表現されたことをイメージしてしまうのが人間です。見たことも触れたこともなく体験したこともない概念なのに勝手にイメージできます。”心・魂・死・神・・・”、ただの虚言なのか真実なのかは実際に体験するほかないということでしょうか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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生は偶然、死は必然 [気づき]

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。

よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

<省略>

 知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。

 又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。

 そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。

 のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。」(鴨長明 方丈記より)

 方丈記は火災・竜巻・飢餓・地震などの天変地異を経験し、世間を観察した記録と言われています。

 

<行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。>

 川の流れは絶えること無く続いている。生命は途絶えること無く続いていて、途絶えることなかったので今ここに生きています。源泉を辿れば同じであり万物斉同ということになります。絶滅しないように、環境の変化に耐え生き残れる戦略をとったようです。有性生殖によって様々な遺伝子の組み合わせが可能になり、多様性によって変化への順応と進化が可能であったのでしょうか。源泉の水は(原初の遺伝子)は常に更新されてどこにもありません。

 今流れている水(=この身)は何だと問われても、変化変容して進化多様化した一つの現れにすぎません。生まれようと思って生まれてきたわけでもなく偶然の産物です(生は偶然)。偶然の産物に意味や価値があってもなくてもどちらでもいいし、気にすることではなく自由でいいじゃありませんか。人智の及ばないところで行われた偶然の結果に責任や義務があるでしょうか。

 偶然の産物に何かを達成する責任や義務があったら大変です。”どうしてここにいる”と問われても誰一人答えられません。これから先がどうなるか誰にも分かりません。

 

<よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。>

 淀みにできる水疱は、消えては生まれ(生滅)るということが永遠に行われています。水疱が消えずにそのままにあることなどありません。生まれたものは綺麗サッパリ消え去ることになっています。人も家も生まれては滅することになっていています。(無常)

 様々な状況で千差万別の水疱が出来ては消えていきます。水疱が何する訳ではなく時期がくればあとかたもなく消え去ります。

 

<知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。>

 どこから生まれてきたのかも知らないし、死んだらどこへいくかも知りません。空・無から生まれ空・無へと帰る。空・無など知り得ません。生死不明であるからこそ、何も持ってきていないし何も持っていけません。

 

<又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。>

 ただの仮の住居なのに、誰の(=我)ために悩み、何のために目を楽しませるのだろう。”起きて半畳寝て一畳”とあるように寝てしまえばスイートルームでもワンルームでも一緒なのですが・・。眼・耳・鼻・舌・身・意が喜ぶというのは、人によって異なります。つまり各人が勝手に心地よいと感じている個々の感覚ということになります。

 真実は一つしかありません。真実は一つであっても、受け取る各人の嗜好に依存していているということになります。タバコを吸いたい人もいれば、タバコの煙が苦手な人もいます。科学的に分析したタバコの煙が変動したり自動販売機のコーヒーが買う人によって変化することはありません。タバコの煙はタバコの煙という一つの真実があり、自動販売機のコーヒーの味はコーヒーの味という一つの真実ですが、同じ対象であっても感じ取る人の嗜好や嫌悪感によって分かれます。

 自らの習慣や嗜好によって一つしか無い真実が様々に分かれてしまいます。各自が自分の世界で生きているということになります。自分の世界を他人に押し付けたり、他人の世界を批判することで争いになっています。  

 誰もが自身の世界で安住し、自身の世界を否定されたくはありません。湿度◯%で温度◯度という環境は一つですが、人の容姿がことなるように異なった感覚として受け取っています。

 物理的に”月”と呼ばれる衛星は一つですが、見る生命体の数と同じ数の”月”があるということになります。”月”を映す水滴の数と同じく”月”があるようなものです。

 

<一人で”ドーパミン・オキシトシン・セロトニン”を分泌させるためには>

感動や運動することが必要です。多幸感・ストレス発散・免疫機能が上昇します。自己保身の為にも眼・耳・鼻・舌・身・意を通して楽しむということは当然のことです。スキンシップやおしゃべりによってもホルモンが分泌されるので、身体が要求していることに従っているということでしょうか。本能的に多幸感を得る方法を知っていて実践しています。

 

・各自の楽しみは各自の環境や嗜好によって作り上げられた各自の世界です。誰もが自分が正しいとして生きています(自己正当化)。誰もが異なっているという事実が分かれば闇雲に他人を批判できません。

・真実・事実は一つなのですが、自身の固定観念を通して様々な価値観に分けてしまいます。真実・事実を自分の世界に合わせようとして苦悩します。

・生命の多様性という戦略による現れの一つであり、各自の世界を構築して生きています。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−53 [老子]

使我介然有知、行於大道、唯施是畏。大道甚夷、而民好徑。朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文綵、帶利劔、厭飮食、財貨有餘。是謂盗夸。非道也哉。

 

介然:しっかりした

使:政を行う

施:道を外れる

畏:つつしむ

夷:穏やか、平定する

蕪:荒れる

綵:美しい彩の模様のある絹織物

夸:自慢する

 

 私にしっかりした知があるのなら、正しい行い(=大道)をして、道から外れることを慎む。
 正しい行い(=大道)は公明正大であるべきだが、庶民は近道(=小欲・我欲)を(=小道)を好む。
 宮殿がよく整備されているということは、田は荒れ倉に食糧はない。華美な絹織物をまとい、剣を帯び、美食を喰らい、財貨を独り占めしている。こうゆう輩は盗賊が自らを自慢しているようなものだ。道に外れている。

<他の翻訳例>

 私にわずかでも知識があったならば、大きな道をあるくとき、斜め(のわき道)に迷い込みはしないかと恐れるであろう。大きな道はまったく平坦であるのに、人びとは小さな道(近道)を行きたがるものだ。朝廷はきれいに掃き清められていても、畑はひどく荒れはて、米倉はすっかりからっぽである。それでも色模様の美しい上衣を着かざり、鋭い剣を帯に下げ、腹いっぱい飲み食いして、財貨はあり余るほどである。これこそ盗人のはじまりというものだ。道にはずれたことではあるまいか。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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凡人は小欲なり、聖人は大欲なり。」(二宮尊徳)

小欲:我の満足を求める欲

大欲:我はどうでもよく、全体に益を渡らせたいという欲

「人は利を見て害を見ず、魚は餌を見て針を見ず。」

 

 生命体に”我”がなければ今ここに存在しているでしょうか。生存するイコール”我”の働きがあるということなのでしょうか。”我”の善悪を問うということは生存の善悪を問うのと同じことかもしれません。そもそも”善悪”は人間が時代や状況や主義主張によって、自らの信じることを”善”としているだけのことかもしれません。

 存在は一様であり”善悪”などありません。存在に”善悪”の札がついているのでしょうか。存在に”善悪”があったら大変なことです。存在が”悪”なら忌避し、”善”なら集めるということでしょうか。誰かにとって”善”であっても、他の誰かには”悪”であるかもしれません。地球に”善悪”があると主張することができるでしょうか。地球を判断するというのは地球より大きな存在なのですが・・・・。チッポケな人間がどうして地球に”善悪”を下せるのでしょうか。

 自らの存在が如何にチッポケか知ったら一々分別している自分を知らないということかもしれません。

 

 自身の中でも”こうあるべきだ”という”善”を定義すれば”葛藤・混乱”が生じます。自身が裁判官であって”善悪・白黒”をつけています。

 正しい(=善)が必ず勝利するのではなく、勝利した方が正しいとなっているのではないでしょうか。存在自体に”善悪”はなく、人間の勝手な決めつけでしか無いということ。正しいと主張するには、正しくないモノがあるということになります。二元対立での混乱に巻き込まれていることに気づかなければならないのですが・・・・。いつもイライラしているヒトは、自身の中で二元対立を生み出して自らの”正しい”に従わせようとしているのではないでしょうか。自身の周りに思い通りの世界を構築しようとしています。”神”でも無いのに無理な願いを通そうとして、叶わぬことにぶつかって負け続けているということです。誰もが思いの通りの世界を実現できたら大変なことです。”映画”や”小説”だけにしてもらいたいものです。願い事が叶わないからいつまでも願ったり、信じたりしています。何でもかんでも思い通りになったらどうでしょう。抵抗のない(=感覚もなく・苦もなく・願い事もなく・刺激もなく)世界で無限に生きることは天国でしょうか地獄でしょうか。見えるのは電磁波の刺激、聞こえるのは音の刺激、味も味覚細胞への刺激、痛みや快感は皮膚感覚への刺激・・。足の裏に刺激を感受することで歩くことができます。

 

 我々ヒトは幸いにも大脳皮質の働きによって、本能に振り回されることはありません。”我”が幻想であって”我”に振り回され”苦しむ”必要がないということに気づける可能性があります。

 幸運?にもヒトとして生活できています。残念ながら、”我”が二元対立に分けて判断する癖がついていしまっています。この癖に気づき癖が出ているなと分かることがなければ、癖をとることは難しいことです。癖のとり方は癖だと気づき癖を直す必要があります。思考で癖(=分別する)を止めるることはできません。思考するというのは放っておけば自然に治る傷口なのに、傷口をいじって更に悪化させるようなことかもしれません。雑念が出ても相手にせずに何もしなければ消えていきます。傷口が自然に治るのと同じかも知れません。

 

 タバコ・酒・賭け事・陰口・いじめ・・・・「分かっちゃいるけど、やめられない

 ヒトは、言語を獲得してスムーズなコミュニケーションができるようになりました。言語によって共通認識やコンセンサスを得ることで社会を作ることに成功してきました。道具も作れるようになっています。現在の我々は便利・快適を享受しているようですが、あまりにも過度の工業化によって生態系の恒常性や環境を歪めてしまったようです。自らが生きている環境を破壊するまでになってしまいました。密室の中で自らの排泄物で自らを苦しめているようなものです。

 

 思考によって解決できるということが、脳の癖として染みついてしまっています。様々な問題は”我”によって作り出されたものではないでしょうか。”我”は飽くなき進歩を求め続けます。技術に善悪はありませんが、使い方を間違うと自らを苦しめることになります。核の技術が武器に転用され悲惨なことが起こりました。

 華美な服装で着飾ったり、武器で脅したり、財貨を蓄えているような国家は盗賊のようなものだと糾弾しているのでしょうか。昔も今も”我”の働きは変わらないようです。これからも変わらないということでしょうか。

 

・現実が間違っていて、自身の思い通りに描いた世界が正しいのか。

・個人的に問題があって考えるのか、”我”が問題を作る(何とかしようと考えて)ことで問題となっているのか。

・存在には”善悪・白黒”があって分裂しているのか、分裂させて見ているほうが分裂しているのか。

・”我”に寄り添って生きることが楽なのか、”我”に振り回されない方が楽なのか。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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何も変わらない [気づき]

 修行者が望むことは、

・煩悩を克服して、さとりを得たい。

・心穏やかに生きたい。

・戒律を守ることと引き換えに何かを得たい。

・忍耐・我慢することで自分を超えたい。

・穢れた世界から脱したい。

・慢心・嫉妬などに振り回されている自分を捨てたい。

・幸せになりたい。

・満たされた人生を送りたい。

・納得する人生を送りたい。

・生きる意味を見つけたい。

・モヤモヤを解決できる答えが得たい。

・違う自分になりたい。

・迷いの世界から悟りの世界に移行したい。

・・・その他でしょうか。

 

 修行して何かを得たり掴んだり、何者かに変化したら大変なことです。修行するということは、今の自分自身を受けいれられずどこか違和感があるという前提です。自己を自己(=見る人)と対象(=見られる人・他己)という二つに分離しています。見る自己(=我)と見られる自己(=他己)、対象(=見られる人)であるということは他(=他己)であり自己と他己が同居しているということでしょうか。自己としているのが偽物の自己(=社会的な自己)であって、見られる他己はどこにも存在していません。見ている自己(=通常私)は実体として存在しているのではなく、表象として名付けられた数字の”1”のようなものです。その時々・状況に応じて何でも”1”にすることができるようなものです。真なる”1”はどこにも存在していないのですが、人の都合によって何でも”1”にすることができます。”私(=自己)”も、姿形もない10年前であっても”私”と言うことができます。赤子の頃の”私”と現在の”私”と同じであるわけがないのですが、”私”は”私”だとしています。恒常不変の”私”など存在しません。

 

 本来の自己(=ただ見えている、ただ聞こえている・・)は分別以前のただ感受しているだけの状態です。感覚を自己の思い(=固定観念)によってふるいにかけて問題としています。分別という二元対立的に捉えてしまい分裂して決めつける。決めつけたことが思いとのギャップがあれば”何とかしよう”として問題とする。問題とすれば迷うことになります。問題としない、問題とならなければ迷う必要はなくただそのままに従う。現状をそのままに受け入れた従うことができないので”苦”となります。他己(=見られる自己)は自己(=社会的な自己=我)が作り出している亡霊かもしれません。

 修行することでどっちに転ぶかわからないにも関わらず、良い方に変化することを期待して修行します。修行しても掴めるものもないし得ることも何もありません。結局は何の確証も得られないままリタイヤせざるをえないかもしれません。掴むことも得ることもなく、掴もうとしているゲームをしているだけと気づくこと。

 ”我”の思い通りになるという前提で修行します。この思い通りにすすめていこうというのがまさしく”我”だということです。変わった自分を見てやろうとしている者が”我”であって、それが問題を作り出している張本人だと気づけません。なかなか見破ることは困難です。

 

 自己成長という題目を後ろ盾に頑張っているのですから・・・。頑張っている自身を否定することは難しいことです。迷っている自身を救うのですから従わざるをえません。迷いがあるから”悟り”があるということに疑問を持ちません。分別の働く以前の「一の箭」では誰でも同じだということです。分別によって混乱をもたらしているのが”我”であって、”我”の指示を受け入れたり反抗するとますます”我”が強くなるばかりです。本来はだれもが悟っているので殊更”悟る”ということはないのですが・・・。

 

「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり」 (現成公案)

 仏法という大袈裟なところから眺めると、迷いのある自身がクローズアップされます。迷いのある自身から抜け出して”悟る”ことができた自身を見つけ出そうとします。それには修行が必要だという単純な図式通りに動き出します。”我”によって二元対立の分裂が自然と発生することになります。この世に善悪はどちらの立場に立つだけのことであったり、明暗の境目がどこにあるのかもわかりません。昨日まで賊軍だったのが勝利すれば官軍になります。◯◯主義からすれば◯◯主義を非難する方は悪であるということにしなければ自己の正当化ができません。どちらが正しいのかはどちらで生まれたという偶然性しかありません。

 事実は一つしか無いのに、二つに分離させて考える癖が染みついています。自身も思い通りの自分と思い通りになっていない自分というふうに分けてしまいます。一つの身体でありながら、二つにして見られる自分と見る自分というふうになっているのが分裂しています。見えている事実、聞こえている事実しかありません。聞こえなければ音ではないという簡単なことも分かりません。

 「誰もいない森の中で木が倒れたら音がする?」が思考対象となっています。聞こえないのに音があったら大変なことです。幻聴ということになります。火星を見ることなしに火星があるという前提で会話することもできますが、ただの空論なのですが・・・。人間には素晴らしい想像力がありますが、事実(=真理)の中に生きつづけているにもかかわらず、妄想することが出来ます。妄想と事実の境目が分からずウロウロしているので、迷っているということになっているようです。

 既に事実の中で生きているのですから、事実をさらに思いの通りにすることはできません。個人がどうしてこの宇宙での出来事を左右できるのでしょうか?事実のままに既にいきているのですから、”何も変わりません”。釈迦や老子がどうのこうの考えても所詮はただの想像でしかありません。何とかしたいという”我”を事実と融合して、おとなしくなるように”我”に同調せずに見守るということを根気よくやっていくしかありません。

 何かを得たり掴んだりすることなどなく、ましてや何者かになるということはあり得ません。思考することで、身体のシステムが激変する人がどこにいるでしょうか。人間は人間として生まれ人間として死んでいく。単純なことです。物理的な”生老病死”という”苦”を滅することなどできません。そんなことができていれ今生きています。

 

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老子−52 [老子]

天下有始、可以爲天下母。既得其母、以知其子。既知其子、復守其母、没身不殆。塞其兌、閉其門、終身不勤。開其兌、濟其事、終身不救。見小曰明、守柔曰強。用其光、復歸其明、無遺身殃。是謂襲常。

 

兌:とおる、通じる 目、耳、口、鼻などのあな。

勤:憂え、心配

殃:災難

 

この世での全てには始まりがあり、万物の母によって全ての存在がある。万物の母を理解すれば、そこから生み出された万物を理解できる。万物を理解し、万物の始まりを理解しているのなら死を気にすることはない。    身体の器官を塞ぎ囚われなければ、心配することは無い。身体の器官を使って逐一反応するなら、一生惑わされて救われることは無い。見えないことに気づくことを「明」といい、柔軟であることを「強」という。この万物のありのままを「明」として見れば、災難を受けることはない。これを常なるに従うということである。

 

<他の翻訳例>

この世界にははじめがある。(そしてこのはじめが)世界の(すべての)母だといえる。母を知ったものは、さらにそこからその子どもを知る。子どもを知ったものは、その母をさらにしっかり保持する。(そうすれば)死ぬときまで危害を受けることはない。穴(耳や目などの感覚器官)をふさぎ、門(周知のはたらき)を閉じるならば、一生の終わりまでくたびれることはない。穴をひらき、わずらわしさを増すならば、一生の終わりまで救いはないであろう。小さなものまでみることが明察とよばれ、柔弱(すなおさ)を保持することが(真の)強さとよばれる。光(外にある光)を用いるものが明察(内にある光、みずから知ること)へかえってゆくならば、身に不幸がふりかからないようになる。これこそ永久なるものにしたがうことといわれるものである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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1章、5章、21章でも記述してあります。

 天地は「無」の働きであり名を「妙」と名付けた。存在に名がつけられ万物という「有」という存在であり「徼」と名付けられた。陰陽図の白が天地の始まり(無=妙)、黒が万物の母(有=徼)。

 存在が先にあって後から認識されるということは当然のことです。人間は常に言語によって思考しているので、言語が先にきて存在を後から認識できるようになっています。後から名がつけられて万物としてあるのに、名によって万物を認識しています。目の前に存在しなくても、「天国」という言葉がああるので「天国」があるかのように思い込んでしまっています。 動物は視覚・匂い・触覚等で存在を識別することができますが、人間は「名」によってイメージを描くできるようです。

 言葉はありもしないものをイメージや概念で生み出す魔法のようなものです。

 

 天地の始まりは「無」からであり、万物を生じさせたものが母であり「有」です。万物は斉同であり、存在は一体なのですが命名によって個々の存在(=万物)として認識できるようになっています。生死も生きることを「生」と名づけ、生きていない対極を「死」と名づけただけのこと。

 自らが「死」から目覚めれば「死」ではなく「仮死」ということで「死」ではありません。当たり前のことですが「死」を語れる人などいません。「死」についてどうのこうのは想像であって言われても知識でもなんでもありません。

 生きている我々が知りえない「死」という対極を持ち出して大騒ぎしているだけかもしれません。「死」であれば意識・認識できないのですから「死」を悩む対象にすることは馬鹿げたことかもしれません。

 「死」はただの概念であって「死」を経験する主体はどこにもいません。「熟睡」している時は何も分からないのに、「熟睡時」のことを話すことはできないのと同じことです。

 

 ほとんどの宗教には天国と地獄という対極の概念が用意されてあります。赤子・動物や「天国」・「地獄」を聞かされていない幼児に「天国」・「地獄」があるでしょうか。「天国」・「地獄」のイメージを植え付けられて「天国」・「地獄」に振り回されることになります。知らなければよかったのですが、大人が面白おかしくイメージを押し付けてしまいます。教わるから「天国」・「地獄」がイメージできるということです。「言葉」を教わることで概念とイメージを一緒に描く事ができます。全てが後づけてということです。

 コインに表裏があるように、「天国」というイメージを説明するのに「地獄」が対極として必要になります。「天国」という概念を作ったら必ず「地獄」があるということになります。”善”には”悪”という対極、”悪”には”善”という対極が必要とされ一方だけでは説明できません。”明”も”暗”も存在しておらず、状況を捉えた概念です。光の反射の有無によって明暗となっているだけです。”明”が存在としてあるのならどこかから”明”と持ってきたり”暗”と交換することができるのでしょうが・・・。「天国」という場所が存在としてあるのでしょうか。「天国」は”苦”から解放された状況だということでしょうか。同じ南国のパラダイスにいながら、観光で来ている人と灼熱のもとで重労働を課せられている人がいます。場所ではなく感じている各個人の感覚ということのようです。

 サウナ施設で”ボッー”として横になり、スポーツをTV観戦しながら冷えたビールを飲んでいる。この状況が「天国」でなければどんな状況が「天国」なのでしょうか。日々「天国」と感じられる体験をしているはずですが。同じ地球上で軍事政権に発泡されたり、頭の上をロケット弾が飛び交うような状況は「地獄」かもしれません。

 苦労して登頂して見る景色も、ロープーウェーで見る景色も同じです。なるほど一歩一歩登る味わいもありますが景色は同じです。修行た人だけ脳内の構造が一変してしたら大変なことです。いい方に一変するとは限りません。そんなに簡単に脳が一変する訳がありません。真言を唱えて超人になるとういうことを信じる人はいないと思います。

 

 苦痛にも限度があって気絶するかもしれないし、快感にも限度があって気絶するかもしれません。死んでから「天国」を希望する人は、一体どんな快感をどれだけ欲しているのでしょうか。快感を始終味わっていると快感でなく苦痛になるかもしれません。ちょっとの苦労が有るからこそ楽を感じられます。苦楽は表裏一体の関係です。苦も適度に味わうことが楽を味わうコツかもしれません。

 魂があり魂にいままで記憶が埋め込まれ、死んだ後に「天国」か「地獄」に分けられるのでしょうか。それとも「天国」・「地獄」は我々が感じている状態なのでしょうか。

 涅槃も悟りも何処かにあって得たり掴んだりするのではなく、単に気づいていないだけかもしれせん。勝手なイメージを抱いて求める人には”有る”のですが、実際はイメージ・概念であってそんなものは最初から”無い”。人間が言葉で作り上げたでっち上げだとしたら。

 ”無いモノ”を何とかして掴もうとしているので掴むことはできません。眠っている自分を確認しようと眠れなければ、眠っていないことが続きます。眠っっている自分を確認できるわけがありません。思考によって思考していない自分を確認できません。

 イメージ(=虚構)の「天国」を先に抱いていて、そのイメージを実現しようとしています。現実にはないイメージの方が主となっていては現実を生きていないことになります。あるかどうかも分からないまま、ただイメージとして植え付けられた「天国」に行きたい。この執拗な欲望を持ったままの”魂”(=これもただの概念)が「天国」へ行けたとして、その「天国」で満たされるでしょうか。欲望に染まった”魂”はもっともっと素晴らしい「天国」を望むかもしれません・・・・。もし「天国」があったとしても、もっと上の「天国」を希求しどの「天国」に居てもその「天国」に飽き足らないことになるかもしれません。地上にいるのですから、地上の空気を吸って散歩することで幸せを感じるだけで有り難いことなのですが・・。

 

 もし、思考することで幸福ホルモンが分泌するのなら、誰もが学校で多幸感を味わってもいいものですが・・・。考えすぎてストレスにさらされているかもしれません。何もしないで何も考えないで熟睡した後に目覚めると、幸せな感覚があります。リラックスと同時に思考から解放されているからでしょうか。

 宗教によって別種の人間に変容したら大変なことです。ただ何かを信じることで人間の脳が変容することがあるでしょうか。多幸感は身体で感じるものであって、思考で幸福感が得られるのではありません。もし思考で多幸感を味わえるのなら、とことん思考を使う哲学者を目指すべきなのですが・・・・。

 

 神は全知全能であり、現実が神の意志で行われている。現実はなるべくしてなっているのがこの世界だと定義するでしょう。神が人々の”願い事”を一々聴くでしょうか、それともなるべくしてなっている事に”つべこべ言わずあるがままに文句を言うとはけしからん”ということでしょうか。特定の人の願いを叶えたあげるというのであれば、それは一体何者なのでしょうか。見たこともない会話したこともない得体の知れない何かを信じているのなら大変なことです。どれがインチキでどれが正しいのか確証はあるのでしょうか。”私は詐欺師ですが”お話を聞いて下さいと言うでしょうか。”私は偽物の神だ”と言うわけがありません。

 もしこの世がなるべくしてなっているとしたら、災難は災難ではなくただ起こるべくして起こったこと。自身の身体でありながら血管がどこにどう張り巡らされ、どのように血流があるのかさえ分かりません。身近な目に見える皮膚の内側で何が起こっているのかも知りません。身近なことさ知らずに生きているのに、災難を知って逃れることなどできるでしょうか。注意深く現状を観察するしかありません。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候

 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」良寛

 

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誰もが既に体験しているかも [気づき]

 同じ対象であっても認識する生命体によって異なる対象として写っています。また、同じ生命体であってもその時の状況や心境で異なった捉え方をします。”ミミズ”を食糧とする鳥もいれば忌み嫌う人もいます。農家にとってはいい土を作ってくれるありがたい存在です。”竹”はパンダにとっては食糧ですが他の動物には食糧でもなんでもありません。個々にまったく異なる世界として捉えられているということかもしれません。

 海で溺れて死にそうになった人には海に近づきたくないかもしれません。真冬の海は荒れ狂っていて恐ろしく感じますが、真夏の海は魅力的に感じます。

 肌を刺すような真夏の日差しは避けたいのですが、新緑の日差しは心地よく感じまず。太陽はそのままですが、地軸が変化して気候が変化しているだけです。感受している生命体が変化を感じ取っています。

 ある生命体はモノクロの世界を見ているかもしれないし、他の生命体は極彩色で見えているかもしれません。他の生命体がどうのように感受しているかなど分かりません、あくまでも想像するだけです。

 

 偶然に同じ場所に隣り合わせ同じ光景を目の当たりにしたとしても、お互いにどんな心境でありどんな思いをしているかなど全く分かりません。  自身も瞬間瞬間に様々な思いが勝手によぎっています。自身が思いをコントロールしているのではなく状況によって変化させられているということです。自身も常に変化変容しているのに他人の変化変容している内心を知るなど不可能なことです。

 自身の内面を表現することもできないし、正確に伝えることも出来ません。他人の内面を知ることも出来ないし、正確に受け取ることも出来ません。百も承知の上で、始祖と言われる人が”悟り”・”涅槃”・”道”・・という訳のわからない概念を持ち出したのでしょうか。個人的な見解ですが、何もしない(=思考ストレスから解放され)ことで幸せホルモンが分泌されたということかもしれません。

 

 大前提ですが他人が感得したことなど知るすべもなく、照合することもできません。実際、禅の公案に”言葉”で表現したとしても、聞いた方は相手の内心を知るすべがありません。よって、何を言っても全部正解であり全部間違いということになります。表現したということでよく出来た、表現できるわけがないので不正解。公案は思考することの馬鹿らしさ愚かしさを体験することかもしれません。

 所詮”言葉”はその人が経験したことを持ち合わせている語彙から選んでいるだけです。フランス人の語彙と米国人の語彙とは異なります。フランス人が公案の答えをフランス語で言っても、聞いている方はサッパリ分かりません。

 ”言葉”では答えられないというのが本当のところかもしれません。何もわだかまりがないい地点の何もない(=空)がソレ。

 心境を”言葉”で表現した途端に心境からかけ離れたことになります。”素晴らしい”としか言いようがありません。その人の感じた”素晴らしい”という言葉を聞いたからといって、同一体験を体験することはできません。始祖がどんなに言葉匠に語りかけても”拈華微笑”とはいかないものです。ましてや文字から分かろうということは困難なことです。

 

 涅槃寂静:「煩悩、迷いや悩みが完全になくなった悟りの世界(涅槃)をいい、静かな安らぎの境地(寂静)であるということ。」とあります。貪・瞋・痴が無くなり安らかになったということでしょうか。一の箭を受けるのは始祖でも我々でも同じです。悔しい・憎らしい・悲しい・嬉しい・びっくりした・可笑しい・・・当たり前の感情であって否定することはできません。ある感情は駄目である感情はいいということなら、我々は矛盾した生命体ということになります。当然の感覚を否定して生きなさいという方がおかしなことです。”苦い”・”辛い”・”塩っぱい”・”酸っぱい”・”旨い”・・様々な味を味わってこそ料理となります。甘いものばかり食べていては甘いということに鈍感になるかもしれません。あらゆる味・香りを感じてこそ感覚が研ぎ澄まされます。

 悩みは”悪”であり悩みのないことをひたすら目指しなさいということでしょうか。悩みを自身と別物として”なんとかしよう”とすればいつまでたっても”悩み”という困ったこととしてあり続けます。悩みをジッーと味わう、悩みを解消するために逃げたり他人に八つ当たりししては自分と一体となっていません。悩みに振り回されず悩みが来たら悩みを味わうしかありません。”悔しい”は”悔しい”でいい。味わいの一つだということです。”悔しい”を自身から切り離して消滅させるできるのが”仏”でしょうか、それとも”悔しい”をとことん味わい尽くすのが”仏”でしょうか。何が起こっても(=どんな味でも)味わい尽くせれば、それこそ安らぎかもしれません。逃げ回ったり八つ当たりしたり他人に責任をなすりつけたり知らん顔したりいじめとなったり・・・一時しのぎであって安らかではありません。

 涅槃とは思考の結果として至る境地でしょうか、それとも脳の癖から脱して幸せホルモンが分泌している状態のことでしょうか。ホルモンの力は想像を絶するモノがあるようです。誰もが思春期の身体の変化を実感していることと思われます。動物は季節の変化によって身体的な行動が起こります。木々も日差しや温度・湿度の変化に影響されます。我々は精神的な変化が最後に感受されるので精神的なことが気にかかります。精神を変化させるのが思考だと思いこんでいます。肉体の変化こそが自身であって、思考によって肉体が変化したら大変なことです。“エンドルフィン”はモルヒネの6倍以上の鎮静効果と恍惚感をもたらすと言われています。”オキシトシン”は多幸感を与えてくれるそうです。思考することでホルモンが分泌するのならいいのですがそうではないらしい。思考するとストレスが溜まり疲れるばかりではないでしょうか。

 仲のいい人と触れ合ったり、犬と散歩したりゆったりと過ごしたほうがホルモンの分泌に効果があるようです。既にだれもが涅槃を味わっている

かもしれません。残念ながら涅槃という訳のわからない概念に取り憑かれて思考で追い求めていて見過ごしているかもしれません。平凡な生活の中でちょくちょく涅槃いるのに、どうでもいいことに首をつっこんで分別し”何とかしよう”として涅槃から出ているとしたら・・・・・・。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−51 [老子]

道生之、徳畜之、物形之、器成之。是以萬物、莫不尊道而貴徳。道之尊徳之貴、夫莫之命而常自然。故道生之、徳畜之、長之育之、亭之毒之、養之覆之。生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。

 

畜:やしなう

 

「道」が万物を生み出し、徳が万物を養い、物が形となり、器となる。この道理が理解できれば「道」を尊び、徳を貴ばなければならない。「道」が尊ばれ、徳が貴ばれるのは自然のことである。だからこそ「道」は万物を生み出し、徳が養い、万物を成長させ育てている。万物を結実させ成熟させて種を為す。万物を養い保護して万物を循環させているのだ。それでいながら「道」は万物を自分の物とせず、偉大な事をしてもその事に頼らず、万物の長であるのに取り仕切ったりせずあるがままにさせている。この「道」の働きは「玄徳」すなわち自然の働きという。

 

<他の翻訳例>

「道」が(すべてを)生み出し、「徳」がそれらを養い、物それぞれに形を与え、環境に応じて成熟させた。それゆえに、あらゆる生物はすべて「道」をうやまい、「徳」をとうとぶものである。だが、「道」と「徳」がうやまいとうとばれるのは、(何か権威のあるものから)任命されたからではなくて、それらはつねに自ら然(そう)なのである。こうして、「道」は生み出し、徳は養う。そして生長させ育てあげ、凝縮させ濃厚にし、食物を与えかばってやる。生み出しても、自分のものだと主張せず、はたらかせても、それにもたれかからず、その長(かしら)となっても、それらをあやつることをしない。これが「神秘の徳」とよばれる。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 哲学の一部門である「存在論」を論じてたのでしょうか。古代ギリシャ以前は「存在は生き生きと変化し生まれ出る、自然に出てくる」ということのようでした。プラトン・アリストテレス・ デカルト・カント・ヘーゲルでは神秘的な力や神の力によって作られ、作られてあるというのが存在でした。20世紀最大の哲学者とい言われているハイデッガーは今まさにここに在る私を「現存在」と定義しています。「神」という超越的な創造主という概念を取り去り自然になり出てくるというところへ回帰したのでしょうか。

 また、存在者の中でも「私はなぜ在るか」と自分の存在を自分に問える特別な存在者(=人間)が「現存在」ということのようです。この自らの現存在によって、あらゆる他の存在を存在させている。認識する者がいなければ存在は無いということに気づいたのでしょうか。

 プラトンは、人間が存在していなくても「存在」は、存在し続けるという考え方のようでした。

 存在が「神」によって創造されたとすれば、一切の役割も「神」の意志で決められているということへと発展します。さらに自由意志の問題が起こってきます。

 存在を存在としてあらしめているのは、現存在である各自が存在に対して「存在」との関係性によって決められるということなのでしょうか。

 存在(=モノ)を徹底的に使い切ることでモノの存在としての価値と一体となります。だたモノと接するだけでなくモノが自身の一部であるとすれば一切は自身のように大切だと感じられるかもしれません。

 

 宇宙の根源であり名のないものをあえて「道Tao」と命名しています。「道」の働きは「玄徳」と命名しています。宇宙の根源(=道)から全ての存在が生み出されては消滅しています。現代ではエントロピー増大によってあらゆる存在は解体し消滅するということが分かっています。「道」には何らかの意志はなく為さずして為されているというところに落ち着いたのでしょうか。「存在」はどうして生じたのか、自分は何者なのか生きる意味はあるのかという問があります。新しい概念を定義して真剣に答えようとしている人がいます。

 「誰もいない森の中で木が倒れたら音がするか」という問いで音はしないということは周知の通りです。現存在がそこにいなければそこにあるであろう「存在」は、あるであろうという想像でしかありません。庭の小石でさえその場で観察しなければ「存在」としてあるだろうというただの想像でしかありません。超越的な「誰か」が存在してほしいというのが頭の中で描いている幻想でしかなく、その「誰か」に出会ったり声を聞いたりということはただわき起こってきた幻聴かもしれません。「誰か」の声を聞いたから世界を変えることもできるわけではありません。

 「神秘」ということも、神秘的に感じるだけであって人間の感受性の違いによって生ずる素晴らしい体験の一つかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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二の箭を受け流せないというだけの相違点 [気づき]

箭(や)によりて」を先に読まれることをお勧めします。



<比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子と、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、なにを特異点となし、なにを特質となし、また、なにを相違とするであろうか>

 普通の人(=凡夫)と聖なる弟子との相違点があるそうです。それは身体的な相違ではありません。何かを掴んだとか何かを得た後のことではありません。修行したり経典を読んで習得したり記憶した結果によって相違するということではありません。経典を解読できる学者や写経した人や経典を暗記できたりすることである境地に達するということがあるでしょうか。宗教的な行事を修めたり、宗教知識を得たり経典を覚えることで何者かになったら大変なことです。宗教的な修練をしなかったら道が閉ざされていると宣言しているようなものです。宗教は聖者への切符を手に入れることではありません。宗教が一番の固定観念かもしれません。宗教臭さも捨てさった自身が真に自由で解放されていることかもしれません。

 身体的な感受の時点ではだれもが聖者ですが、恣意的(=固定観念を通して)に分別して二元対立的に思考してしまうことが問題です。脳の癖で自らを凡夫として混乱の中に導き入れています。善も悪も人間が勝手に定義したものであり、その人間が決めた善悪に振り回されています。”勝てば官軍負ければ賊軍”です。闘って勝ったほうが正義としているだけのことです。戦争自体が”我欲”の集大成であり狂気であり正義なんて勝手な言い訳でしありません。原子爆弾を投下して正義と言い張るところには首をひねってしまいますが・・・。

 身についてしまった脳の癖(=”我”のために何とかしようとして思考を働かせる)だと見抜いて相手にしない。私だとされている”私”は”本来の自己”ではないということです。対象(=客体・私と認識されるもの)がどうして主体であるでしょうか。私が考えた、私がしたとされている”私”は対象だということです。”私は誰?”と問うて出てくる全ては”私”ではありません。我(=”私”)が私(=本来の自己)を知るとうことはできません。知られる者(=我)が知る者を知ることができるでしょうか。見られるモノ(=対象・例えばドア)が見ている者を知ることはできません。見ている者も存在せず、見えていることだけがある。映像自体が自身で、音自体が自身で、感覚自体が自身で・・・。頭で一生懸命に理解しようとしているのが”我”。見えているそのままで無問題・No problem。

 

<比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。>

 身体的な感受は釈迦・弟子・達磨・祖師達・・我々凡夫であろうがほぼ同じです。誰もが同じ人間であり同じ身体構造を持っています。感受している感覚はほとんど同じであって、”痛い”は”痛い”であり”痛い”を”痒い”と感じる人はいません。感覚を感覚通りに感じなければ、歩くこともできません。もし、下半身に麻酔をかけられ感覚がなければ歩くことはできません。当たり前の話ですが、身体的な感覚は聖者であろうが凡夫であろうが変わりません。身体構造だけを比較すれば凡夫も聖者も異なる点はありません。聖者になると手のひらから怪しげな気を自由にコントロールしたり、宇宙の特別な場所に繋がっているという馬鹿げたことがあるわけがありません。

 ”特別”ということが”我”の特徴であるということです。”特別”に惹かれるから”特別”になりたいとおもってしまいます。”我”にとって”平凡”でいるということが一番難しいことのようです。身体的な感覚だけで終われるのなら誰もが赤子であり聖者です。大人には脳に癖がついて”言語”によって思考活動が行われてしまいます。思考・学習・知識・先人の知恵・処世術・躾・訓練によって人格を磨いて行くということになります。社会生活での適切な言葉の使用と儀礼や所作を身につけて世渡りをするということです。論語を知っていて実践できる等々の人間社会での表面上の付き合い方です。相手の気分を害さずに自己の主張を受け入れさせるように画策するというのが優れた人徳とされるのでしょうか。悪く言えば、言葉巧みに相手を丸め込む術を習得する。善く言えば相手を尊重しつつ納得してもらえるように自己の思いの通りにしたい。そこには”我”があって、”我”を通すということが前提です。仏道では”我”に振り回されない”本来の自己”を発見することであって”我”のない自分自身で生きていくことかもしれません。

 いくら道徳心があったとしても貪・瞋・痴が見え隠れしていれば偽りの道徳心かもしれません。人に道徳を教えるということは、あなたには道徳が出来ていないという前提で教えることになります。謙虚の裏には”自尊”があるということかもしれません。動物世界には謙虚なんて通じません。謙虚な動物が存在するでしょうか。謙虚は意図的であって、自然ではありません。謙虚の”虚”は上辺だけの偽りかもしれません。人間社会で考えた優しさ(=謙虚)よりも、分け隔てなく(=平等)自然な行動であればいいのですが・・・。どうしても考えるステップを経て行動するような脳の癖が抜けません。咄嗟の行動には思考が介入していません。

 例:買い物袋が破れて物が落ちたらすぐに拾ってあげる。

 自然な行いには考えなくても(=我の入る隙間・余地は無く)できるので、意図(=有為)”我”による行動ではありません。無為(=”本来の自己”)のままで行動しています。

 ”お茶を召しあがれ”と言われて考える必要はないので”我”はありません。(喫茶去という公案

”以前来た”とは”本来の自己” 考えないでできているのが”本来の自己” たった今(此間)の自分


<すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。苦なる受にたいして瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の素質が彼を捉える。また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。なぜであろうか。比丘たちよ、おろかなる凡夫は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知らないからではないか。>

 感受した刹那の後に”苦”と認識してしまい、”苦”を与えた対象に対して怒りをぶつけるとか。”我”の思うままに怒りを解消しようとしたりするのが二の箭を受けたということです。”何とかしてやろう”という”我”が主役として振る舞い、思考が追従するということで悩み苦しむということのようです。

 

<すでにわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、それは、身における受であって、心における受ではないのである。>

 ”心における受”としなければいいだけということが分かりました。どうすれば”心における受”とならないようにできるのか・・・。読経・写経・真言・印・苦行・戒律を守る・・・・・これらは補助的なことで形式的なことかもしれません。答えは”取り扱わない・取り合わない・何もしない”ということかもしれません。思考して追いかけ回しているということは”取り扱って”取り憑かれているということになります。思考で思考を止めることなどできません

 日本では人間社会への適応のために義務教育を受けます。学校教育で訓練することは”思考”を使って問題を解決するということです。”思考”こそが問題に対処する武器だと教わり続けました。何度も何度も繰り返すことで脳に癖として染みついてしまいました。洗脳ではなく染脳されています。教育が悪いというのではなく、思考は必要な時に使い闇雲に使うものではないということを学んでいないということにあります。脳を癖をとるということは困難なことです。”何もしない”・”放っておく”ということができません。二の箭を受けないようにするには・・・。

 達成ということは、努力して行動の先にあるものだというのが通常です。(無達成の達成)思考や行動という努力で達成することではありません。学びとか知識とか思考とか行動では達成できないというパラドックスです。我々は既に達成しています。何とかしようとすると離れていいき、底なし沼にはまり込んでしまいます。色々なセミナーで教わり、経典を丸暗記しても達成できません。(無達成の達成)

 

<わたしの教えをきいた弟子は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知っているからではないか。そして、欲楽を願わないから、眠れる貪欲の素質が彼を捉えないのである。また、彼は、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、よくよく知っている。それらのことをよく知っているからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えるようなことはない。>

 あらゆる事象は消えて無くなるので変化(=無常)しています。混乱から脱出するには、ただ放っておけば霧散するという経験を重ねる他ありません。”我”は考え続けることで”我”を生き続けさせます。”我”が”我”であり続けるために考えて考えている主体があるということで”我”を”我”としています。(我思いう故に我あり)自らが混乱の中にいることで自らの存在を可能としているという、馬鹿げた一人芝居を続けています。

 

<心にそうも、そわざるも
みなことごとく消えはてて
清浄無垢の道を行き
彼の岸にこそ立てるなれ>

 思考すべき時以外で様々な思いがわき起こっても”つき合わず”知らんぷり。状況が変化すると勝手に思いがわき起こってきます。自分で思いをコントロールしてるわけではないので、自分の考えではありません。やみくもに思考を追いかけ回さずに、必要な時に思考を使ってあげればいいだけなのですが・・・。どうでもいい思考を追いかけ回さない限り、必ずどこかへ消え去っていきます。”自分(=我)の為に何とかしよう”というのが”我”であって真我ではありません。自分為にやっているのがどうして悪いのか、その”我”に悩まされ続けていませんか。”何とか”しなくても”何とか”なっています。以前の悩みは続いているでしうかそれとも消えているでしょうか。思い出せばありますが、今は今を生きているだけです。考えなければならないとき以外は、どんな思いがわき起こっても相手にせずに気にかけなければ既に彼の岸(=寂滅の状態)にいるかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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