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スーパーマンにはなれない [気づき]

 私達はどうしても”偉人・聖人・天才・祖師・・・”と呼ばれている人は特別であり、一般の人とは隔絶された何かを得たり掴んだりした人と決めつけています。言葉はありえないことも大袈裟なことでも表現できます。”灼熱の氷”・”瓶の中に大海がある”・”太陽よりも目映い月”・・・等々。”虚言・妄想”という言葉があるということは”虚言・妄想”が平気でまかり通っているということです。

 人間の想像を超えた”超人”として崇めるようなことになります。人間の身体で生まれたのですから基本的な人体機能が大きく変化することはありません。思考することで身体機能が劇的に変化したら大変なことです。大学を卒業した人が劇的に変化するわけではありません。思考によって何らかの境地に達してスーパーな精神や肉体となるわけがありません。もし思考することでスーパーマンになるなら、哲学している人は漏れなくスーパーマンになっているはずですが・・・。

 人間の振り幅は限られたもので、100mを5秒で走ることは不可能です。せいぜい上手く身体を使いこなしたり、他人より洞察力がちょっと上回る程度かもしれません。

 仏教の中で書かれている事を自身に都合よく解釈していたかもしれません。”苦”が滅するのであれば精神的な”苦”も肉体的な”苦痛”も取り除かれた安楽な状態があるはずだという思い込みです。誰もが自分勝手なイメージを抱くものです。

 もし肉体的な”苦痛”を感じなければ、大病を見逃して”死”に至ります。苦痛はメッセージであって、苦痛がなければいいということはおかしなことだと気づくはずです。極端に言えば肉体の感覚が無くなれば生きていくことはできません。歯茎に麻酔をすればちゃんと食べることもできません。喉に麻酔がかかっていれば飲み込むこともできません。足がしびれていてはちゃんと歩くこともできません。ある程度の感覚や痛みがなければ体は動かせないということになります。精神的なプレッシャーがなければ困難を克服していくということもできません。一人で生きているわけではなく、どうしても他人と関わって生きることになります。その都度ちゃんとした対処が必要になります。

 精神的な苦悩・肉体的な苦痛は自然なことです。苦悩や苦痛を滅するのではなく、苦悩・苦痛の無い状態が本来であり目指す状態だと間違った理想を描いていたのかも知れません。苦悩・苦痛と一体となりどっぷり浸かるようにしています。痛い時には痛いでどこが悪いのでしょうか。苦しい時には苦しいでいいじゃありませんか。もし、大酒を飲んで溝にはまって足の骨が折れても気づかずに更に歩いたら大変なことになります。骨が折れたことを無しにはできません。折れた時は教わらなくても適切な処置ができます。自ら信じていることが素晴らしいと大袈裟な人が多すぎるような気がします。権威とか意味とか価値がほしいということでしょうか。困ったものです。

 思考を突き詰めている哲学者が人間を超える別の生命体に変化したということは聞いたことはありません。ただ言語を組み合わせただけの思考で何かを得たり掴んだり何者に成ったりすることに期待するほうがどうかしていたということかもしれません。

 分別(=相対)の中で思考するのか、分別以前の地点に気づけるのかには大きな差があるのでしょうか。



<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

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