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老子−9 [老子]

老子 第九章

持而盈之、不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉満堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。功遂身退、天之道載。 

 

 器を満したまま両手で持ち続けよう、などということは止めたほうがいい。剣の先端を尖らせれば尖らせるほど長く保つことはできません。金銀財宝を蓄えれば蓄えるほど、守り続けることは困難になる。名声に溺れてしまえば、かえって不名誉を残すことになる。君主としてやるべきことができたならば、直ぐにでも身を引いてしまうのが真の君主であり「道」に従っている。

 

 いつ失われるかも知れない権力に執着し続けるなら、最初から権力を手中にすることなどやめたほうが良い。力によって政権を維持しようとしても、力を誇示すればするほど危うい政権運営になり長続きはしません。金銀財宝を貯えても、却って人目につくようになり守り続けることはできません。君主が自らの地位・権力・財力に溺れるのなら、後世に自らの恥をさらすようなものです。君主としてやるべきことをやったのなら潔く身を退くのが真の君主として「道」を全うしたと言えます。

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  自身も思うようにならないのですが、権力によって他人を自在に動かすことができるとうのは自身がスーパーマンになったような気分になるのでしょうか。だれもが権力に連綿とするようです。いつの時代でもどこの国でも権力者は同じ行動をとるようです。人間の本性を表現した「どこのカラスも黒さは変わらぬ」という諺を思い出しました。

 引き際を間違うと権力に溺れた人とされ、潔い人であれば賢い宰相であったと評価されるようです。君主の問題であって、一般人の我々が考えても始まらないことですが・・。


之:君主の地位や権力

盈:みちる。みたす。あふれる。

不如:良くはない、薦められない。

已:やむ。やめる。

揣:こころみる/はかる/おしはかる/推量

鋭:勢いがある・こと・武力

堂:神仏を祭ったり、人が多く集まったりする大きな建物

驕:おごる。おごりたかぶる。いばる。

遺:のこす。のこる。

咎:とが。罪。あやまち。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー8 [老子]

 知識は人間を自由にする。思考によって束縛から解き放たれる。

一度疑ってみるのもいいかもしれません。赤子を除いて誰もが「知りたい病」の無症状患者かも知れません。仏教(=仏+教え)、宗教(=宗+教え)・・教えとあるのは、固定観念のコレクションをすすめているだけのことかもしれません。

 自由になるというのは束縛から開放されこだわらない生き方ができること。本来、人間は何も学ぶ必要はなかった。苦も楽もあるのが自然の理であり何ら不都合なんてないという事実に気づく。

 

 数字の1は、宇宙のどこかに存在しているでしょうか。1というのが概念であり表象でありどうにでも定義できる自由なものなので、固定した1は存在しません。自由で無限であれば「無」であると同時に「有」として存在させることが自在にできるということにもなります。何を1にしてもいいということのようです。何でもないから何でもあり。無は有であり、有としてあるだけで本質は無。

 無限にあるということは、確定しているものなどないということ。確定したことがないということは捉えることはできないということ。それ(=1)をとらえようとすることは意味がない。

 「私」も数字の1と同じで単なる表象であり、固定されている「私」を発見することはできません。今まで数え切れない人間が生まれ消え去っていきました。無限に「私」があるというのは、真なる「私」と主張できる人はだれもいません。誰かが「私」こそ「私」と主張しても他の誰かも「私」と言い張ります。本当の「私」というべき「私」は存在しなかったし、これからも本当の「私」は存在しません。あらゆる世代のあらゆる人に「私」という表象が自由に使われています。1人の人生においても、時々刻々と刹那に変化している「私」であって、固定された「私」などどこにも存在していません。10年前の写真を見て「私」と言い張っても今その時の「私」にお目にかかることは不可能です。どこにも存在していません。

 

 「私=自我・アイデンティティ」は実体のないただの表象でしかなかった。悟りなんてないので悟ることなんてできない。悟る人(=私)なんてどこにもいません。悟る人がいるのであれば悟りは「悟る人(=私)」が手にすることのできる知識ということになります。

 精神的な探求の目的は、精神的な探求のために何もしなくていいということを確証するだけだった。

 本来自由であって、何もこだわる必要がないので、何にこだわってもいいということがハッキリします。一元であるからこそ、差別・区別があってもいいということがわかるかもしれません。様々な生き方や様々な主義主張が許される。

 自由であるからこそ色々な表現ができる。無限であるからこそ有限であってもいい。知らなくてもいいから、知っても問題ない。人生の設定を全部クリアしてしまえば、どんな設定もありということなのですが・・。

 

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老子 第八章

上善如水、水善利万物而不爭。処衆人所惡、故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、政善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。  

 

 最上の善は水のようである。水は万物に利をもたらし、しかも万物と争わない。水は誰もが嫌がるところに至る。それは「道」に近い働きである。落ち着いて住むには地が最善であり、心は広く寛大であるのが最善であり、仲間となってつきあう人は思いやりのある人が最善であり、信頼できる言葉が最善であり、政治は治まるのが最善であり、能率よく執行するのが最善であり、行動は時を違えないのが最善である。水のように争わないことによって、人に非難されることが無い。

 

 君主が人民に最高の恵みをもたらすためには、水のように接することである。水は分け隔てない。水(=聖者)は生きとし生けるものへの利となっている、水はぶつかり合って傷つけるというよりも、どんなところでどんな状況でも順応できる。それ自身(=水)は混ざり合い争うことがないので、君主の治世は人民と反目することがなくほどよく浸透する。人民に信頼され、人民の困りごとや争いを速やかに解決する。水のようにあることは「道」に近い働きです。

 君主は人民に安らぎの地を提供し、心は寛大なので人民は安心して生活できる。いつくしみの心があり、言葉は信頼される、政(まつりごと)は適切に統治され、事業は速やかに達成される。時を違えずに速やかに行動できる。君主は争いを起こすことがないので恨まれることもありません。

 

処:集まるところ。ありか。

與:くみする。力をあわせる。仲間になる。味方になる。あずかる。かかわる。

尤:とが。あやまち。欠点。とがめる。責める。非難する。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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「知りたい病」にうんざり [気づき]

 動物は常に身の危険にさらされています。常に緊張を強いられて平穏でいられないというのが現状のようです。善なる「神」が自らの意志で、平安と程遠い弱肉強食の世界で緊張を強いていて、「神」自らは神々しい光を放って笑みを浮かべているとしたら。

 人間も社会の中で様々なストレスを強いられ、病原菌やら差別やら人間関係での軋轢によって悩みがつきないようです。何世代にも渡って、「神」に祈っているのに彼らの祈りはいつになっても聞き入れられないようです。

 

 人間は、身体に似つかわしくない大きな脳を持ったおかげで想像・創造・妄想できてしまうようです。どうでもいい情報に振り回されているのに、どうでもいい情報を真に受けてい対処しているようです。人間も所詮は動物の一つの種なので、本能によって「自分かわいい=自己保身」のために危険を察知しています。危険を察知する脳の癖は、今では何でもかんでも「知りたい」という病的なものになっているようです。

 おかげで子供は教育を受けなければなりません。成長すれば、哲学者・科学者・論理学者・心理学者・歴史家・・・だれもが◯◯者として知識を蓄え、モノを扱うことができています。

 

 言葉・文字を発明できたことで、あらゆることを概念化できるようになっています。大きな勘違いは、概念を得たり何かを操ることができるようになることで何者かに「成る」と思い込んでしまったことかもしれません。

 ボールを蹴ったり、ボールを弾き返したり、速いボールを投げたり、ボールを枠に投げ入れたり・・・・並外れたプレーが賞賛されて豪邸に住むことができているのが現実です。

 何に価値を見出すかは時代や人々の欲求によって変化しています。人類の過去においては常軌を逸した「魔女狩り」のようなことも行われていたのも事実のようです。宗教的な争いや偏見が一番残虐であることはどうしたことなのか、自分たちの信念を守るために徹底的に痛めつけるというのが人間の奥底にあるものかもしれません。

 

 人間はただの人間でしかなく、鳥のように飛べるわけでもなく、イルカのように泳げるわけでもなく、モグラのように土の中で生きれるわけでもなく・・。二足歩行ができる得体の知れない哺乳類でしかないということを肝に命じて、折りに触れて思い出してもいいかもしれません。傲慢に地球環境を好き勝手に荒らすだけでなく、謙虚に生きている自分と向き合えれば平穏でいられるかもしれません。

 人間が何かを知ったからと言って「スーパーマン」や「スパイダーマン」などの超人に変身するわけではなく、体格的に恵まれていることと練習によって普通の人間ではできないことができるというレベルに腕を磨いたということのようです・・。

 

合意的現実

 ほとんどの人が信じれば「それ」が真実や現実だとみなされる物事・状況を「合意的現実」と定義されているようです。

 「神」の存在を一定数の人々が信じていれば「合意的現実」とみなされる。「神」の存在を信じることをやめれば、合意的現実が変化して「神」にたよらなくてもいい現実となるのでしょうか。

 天動説という合意から地動説というコペルニクス的転回によって、「合意的現実」が天動説というのは非現実であるということになったようです。戦時においては自国の正義が「合意的現実」であり、自国の暴走(=不正義)が非現実とみなされる。マスコミや知識人や政治家の誘導によって多数の人が信じてしまえば非も是となってしまうようです。

 

「愚者と賢者は共に害がない。半端な愚者と半端な賢者が、いちばん危険なのである。」ゲーテ

 賢者は半端な人を相手にしない。愚者は半端な人に相手にされない。経験上賢者になれませんので、愚者として日々生活させて頂いています。愚弄されても柳に風で非常に楽に生きていけます。

「人々が思考しないことは、政府にとっては幸いだ」ヒトラー

「偉大な嘘つきは偉大な魔術師だ」ヒトラー

「大衆は、小さな嘘よりも大きな嘘の犠牲になりやすいだろう」ヒトラー

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惟寛という禅師がいた。ある学僧が尋ねた。

「禅師様、犬にも仏性はありますか」「ある」

「ならば禅師様にも仏性がありますか」「わしにはない」

「もろもろの衆生にも仏性があるというのに、禅師様だけはどうしてないとおしゃるのですか」

「わしはもろもろの衆生ではないからである」

学僧がまた聞いた。「ならば衆生でないなら仏ですか」「わしは仏でもない」「ならば一体どんな物ですか」「物でもない」

「見たり考えたりすることはできますか」「考えることも議論することもできぬ」

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 何度も何度も書いていますが、人間は知ることで解決でき問題から解放(=自由)されて安心できると思い込んでいるようです。知らないということは困りごと(=悩み)として捉えているし囚われていることのようです。しかし、知る(=知識)として記憶したらかと言って、何かが劇的に変わるのかはなはだ疑問なのですが。

 人間は他の動物からの危害をほとんど気にすることなく安全に生活できています。しかし、所詮は動物ですから「何もしない」ということに慣れていないので、持て余している時間をどう使うかに苦労しているようです。先進国の人達は、何も生産しないで時間とお金を費やすゲームに興じたりバイクや自動車などや様々なスポーツでストレス発散しているのが現実です。

 途上国では大きなプールを作るお金もないし泳いでいる暇のある人もいません。大きなスケートリンクを作るお金もないし氷を維持管理することもできません。年に何回使うかわからないレーシングコースを作って維持管理し改造車やF1マシンを走らせる人も多くはいません。

 後進国の人にとって先進国の人の暇つぶしを見て、何をしたいのかサッパリ理解できないかもしれません。動物から人間を見れば理解不能な二足歩行動物かもしれません。

 

・「禅師様、犬にも仏性はありますか」「ある」

 学僧の知識では、伝統的仏教では「悉有仏性」という観念があるので禅師も同じように確認しているかどうかを聞いてみました。

 「仏性」は単なる概念であって触れたり掴んだり得たりできるものではないようです。実際仏性なんて誰かが考え出したものであって、「無」だったわけですから見えたもの全てが仏性であり触れたものが全て仏性であっていいということ。修行の進捗過程もないしヒエラルキーなどの階層も人間が勝手に想定している作り事なのかもしれません。禅師が「仏性」として見えているのではなく、見えるものを仏性としてるにすぎません。そこで「ある」というふうに答えたかもしれません。

 ある禅師は、お前の抱いている仏性の概念など「ない」と答えるかもしれません。

 

・「ならば禅師様にも仏性がありますか」「わしにはない」

 学僧の二元的見地から、観るものと観られるものであれば見えているものを「仏性」として「ある」です。二元的見地を離れて一元である禅師としては、自身から分離しが何かが自身を観ることはできないので「わしにはない」。

 わざわざ「私=自我・アイデンティティ」の視点で観る必要はないようです。

 

・「もろもろの衆生にも仏性があるというのに、禅師様だけはどうしてないとおしゃるのですか」

 学僧は「私=自我・アイデンティティ」が観ていて「私=自我・アイデンティティ」が衆生を仏性として観ていると思い込んでいます。「本来の自己」があるがままを見れば、あるがまま(=仏性)でしかないので仏性として言われているだけのことだと気づいていません。

 

・「わしはもろもろの衆生ではないからである」

「わしにはない」と答えて時点で、「私=自我・アイデンティティ」の視点での問答ではなく、「本来の自己」として答えているようです。衆生(=私・自我)の視点ではないよ。

 

・「ならば衆生でないなら仏ですか」「わしは仏でもない」

 お前さん(=学僧)の考えている「仏」の概念なんて知りはしない。わし(=禅師)はお前さん(=学僧)の言っている「仏」ではないよ。

 

・「ならば一体どんな物ですか」「物でもない」

 学僧は、こんどは「物」として掴んだり触れたり得たりしようとしています。

人間の「知りたい病」には呆れ返ってしまったようです。そりゃ「物」にまで貶めたら自分の頭や手で好き勝手に扱えます。馬鹿馬鹿しい頭脳ゲームとなってしまったようです。

 

・「見たり考えたりすることはできますか」「考えることも議論することもできぬ」

 遂に人間の「知りたい病」の本性が丸出しとなってしまいました。ここに至っても気づかないのが人間のようです。「見せて」説明してください。「考える」対象として現前させてください。どうしても「知りたい」・・・。

 禅師はまだつきあってくれています。「考えることも議論することもできぬ」

もうあなたの「知りたい病」に気づきなさい。誰も仏性なんて見えもしないし触れることもできません。ただの概念。仏も如来も解脱も輪廻も魂も心もだれもそんな実体を観ることなんてできはしません。議論して暇つぶしをしているだけ。「何もしない(=妄想から離れる)」で見えるまま、聞こえるまま、触れるまま、味わえるままで何の間違いもない現実に戻って来てはどうですかと言っているのでしょうか。

 

 

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老子ー7 [老子]

<自問>

我々人間は束縛されて不自由な生き物なのか。

何故人間だけが人生の意味や価値がなくてはならないのか。

沼地で餌を採っている水鳥に自由はあるのか。

水鳥は誰かや何かに拘束されているのか。

水鳥の一生に意味や価値はあるのか。(人間以外の命ある一切について検討してみる)

水鳥が意味や価値を求めて生きなければならないのか。

人間という動物だけが意味や価値を必要とされるのか。

牢獄に入っている人が終日に渡って手足を拘束されているのか。

物理的に拘束されている人はいるのか。

家にいても、牢獄にいるように感じていれば牢獄と同じか。

精神的に拘束されていれば自由ではないのか。

私たちは管理されストレスの中で生きているのか。

ストレスから物理的に抜け出せば精神的にも抜け出せるのか。

宗教というのは抜け穴・近道なのか。

教えや指導者に導かれなければストレスから抜けだせないのか。

遊びで動物を虐待するハンティングは許されるのか。

何かをすることが人生なのか。

何でもかんでも知ったり、思考で問題を解決することが人生なのか。

一番の贅沢は「何もしない」ことなのか。

誰もいない南国のリゾートで「何かをすること」よりただ寛ぐほうが贅沢なのか。

最高の幸せは何も囚われずにある。

自由を得るのか、自由でいることはできないのか。

夢(=目標)がないと人生はつまらないのか。

人間は「何もしなくても」幸せなのか。

犬がのべつ膜なく吠えてばかりいては嫌がられるのに、人間は話し続けても嫌われないのか。

人間のお喋りを一日中聞かされる動物は人間を不思議な動物だと認識しているのか。

頭の中でお喋りし続けているのは人間だけなのだろうか。

人間は暇と金があると旅行したりゲームに興じているだけなのに、人生の価値や意味などあるのだろうか。

ゲームがなくなることなどあるだろうか。

暇つぶしのために生きているのではないだろうか。

人生もゲームなのだろうか。

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第七章

天長地久、天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私耶故能成其私。 

 

 天(=君主)も長く地(=人民)も久しく続いてきたしこれからも永遠に続く。長くかつ久しいというのは、天(=君主)も地(=人民)も自らが自らの生を決めることができないからです。生まれによって決められているので、長きにわたって続くことができているのです。 

 政治を行う君主たるものは、自らを後(=前面にせず)にすることで先頭に立っていることになり、自分のことには拘わらないことで自身の存在が機能する。私心によって治世することがなければ、自ずから治世が為される。

 

 当時の人が見てきた世界では、君主も人民も世代交代しながら生きながらえている。君主と人民という構図が壊れない限りこの関係は続いていく。

 当時は君主を庶民の投票によって選ぶ民主主義など思いもつかないことだった。これから数千年後の社会制度など誰にも想像できません。統治する君主がいて、君主に従って生きざるをえない人民という関係は永遠に続くと考えていたかも知れません。

 君主も人民も自らが勝手に君主や人民を選べるわけではなく、生まれによって君主は君主として人民は人民として長きに渡って続いくことができている。

 真なる君主(=聖人)であれば、現在の身分を気にすることがなくても君主として認められている。身分を気にしなくても、自身の生まれによって存在が確立されている。私心をもって統治することをしなくても、自身の思いは人民が聞き入れることになっている。

 

長:長い、永遠。自らが長短を決めて長くできることなのか。

久:古くからあり時間が長い。自からが決められず結果としての長さなのか。

 

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老子ー6 [老子]

 春秋戦国時代は専制君主のやり放題、ある種狂気の時代だったかも知れません。知性も理性も二の次で権勢欲にまみえた専制君主が覇権争いを繰り返したいたのでしょうか。人民は虫けらのように扱われていたのかもしれません。

 日々惨状を目にしていた孔子や老子などは、人間らしい生き方を実現しようと模索していたかもしれません。日々の生活に追われ、学もなく識字できない人民に教えを説くことはできません。横暴な君主を諭し無意味な圧政を止めて、仁や天地自然の力によって統治して欲しいと願い行動を起こしたかもしれません。

 老子は、この世には君主の力では及びもつかない力がある。あらゆる事象は「無」から生み出され自然に統制されてる。専制君主よ、私心を捨て大自然の営みに従えば良いと説いているようです。

 「私=自我・アイデンティティ」がいくら徳を身につけようが、葛藤の世界のお話。深遠な「道Tao」によって統治すれば天下泰平になりますよという主張なのでしょうか。

 

 ただ生きていくことで精一杯の人民は「道Tao」を理解する能力は殆どなかったと想像されます。人民一人一人よりも、君主一人が「道Tao」を実践することで、全人民に多大な恩恵を与えることができると考えたかも知れません。今も昔も独裁政権下では、人民は統制されるばかりで自由のない生活を強いられているようです。

 

 歴史を振り返ると、一般庶民の自立性の目覚めは宗教よりも哲学によるところが大きいかもしれません。哲学が「平等で幸せな世界」を思索し主張してきたことによって、現在の社会システムが整ってきたかもしれません。

 

 一人のカリスマの教えを拡大し様々な肉付けをして、我が宗教の教えを受ければ救われる。押しつけがましい宗教に頭を悩ませている人もいるかと思います。

 固定された信念体系に人々を拘束させているのが宗教であると見抜いたニーチェ。ニーチェの「神は死んだ」という言葉は、キリスト教信仰の固定観念から脱すべきだという宣言かもしれません。ニーチェはキリスト教の世界観を否定し、世界には何も意味がなく虚構であると主張したようです。

 気づかれないように人々を自らの教えの奴隷としているのが既存宗教と疑ったのかもしれません。一度宗教を脇において、真正面から宗教を批判し自らの知性によって現実を生きて下さいと言いたかったのでしょうか。

 信奉する教えさえ身につければ考えなくてもいいですよ。この教えに従って生きれば救われます。ヴィトゲンシュタインは、信じることで自主性を奪うのも「宗教ゲーム」の一つと言うのでしょうか。

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老子 第六章

谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根、綿綿若存、用之不勤。 

 

 万物を生み出す天地(=物質世界)の谷は不死であり永遠のようだ。それは玄(=無)牝(=生殖能力)のようなものと言えます。玄牝には門があり、この門は天地を生み出す根源と言えます。玄牝は今ここに綿綿と生み続ける能力を働かせています。あらゆるものを生み出す玄牝の働きは永遠に尽きることがありません。

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 専制君主よ「無」は人知を超えているし、見ることも聞くこともできない。しかし、「無」を言葉でどうにか表現しなければなりません。表現できないことを表現するのですから、極端に言えば何とでも言えるということになります。

 人間の知見によれば、何かが生み出されることに神秘性があるようです。生み出される場所には水があって、洞窟とか地が裂けたような場所を想像してしまうのでしょうか。万物が生じる過程は、天(=空)から物質が降って生じるというより、地から湧き出してくる方が妥当のようです。天からの恵み(=雨)と地(=土地・母)の恵みによって地から湧いてくるほうが妥当性があるようです。

 二千数百年前の人が「谷+神」という言葉を選択したことに感心させられます。

 深遠であり壮大な様を「谷」として喩え、人知の及ばない無限の空間と無限の創造と変化を「神」としたのでしょうか。固い地が一見無力な水に削られ谷となり、谷の底には水が流れている。一番低きところにある水というのは、一番高きところ(=天・雲)にあったものです。

 老子(=他の道教者を含む)が実際にどのような谷を見たかなど想像もつきません。切り立った山の底を流れる川があって、大地を潤す水を湛えていたかもしれません・・。壮大な空虚に圧倒された空間を見たのかもしれません・・。

 人間には捉えることができない「無」をそこ(=谷)に感じたのでしょうか。敢えて形で表現すればということで「谷」という表現になったかもしれません。

 

 「道Tao=無」は無限で不滅であり、一切の影響をうけることはない。どんなに使おうが尽きることがなく無限のうようです。

 「道Tao」の根源は「無」であり、深遠で際限のない壮大さがある。あらゆるものを生み出す母性として喩えられます。我々も「道Tao=無」から創造され「道Tao=無為自然」として生き「道Tao=無」へと戻らざるを得ないかもしれません。

 

 私たちの思いつきはどこから生まれてくるのでしょうか。探し当てることができないのなら「無」ではないでしょうか。私たちが生きているという事実は宗教が教えてくれるのではなく、自身が今ここで感受できているということそのものが「生きている」というそのもの。誰かに教えるとか教わるということではないようです。私たちは宇宙が存在していて、過去があって未来もあるとしています。また、物質世界があって、この物質世界の中に自身がポツンと存在して物質世界を認識している存在であると思いこんでいます。

 

 コペルニクス的転回:三次元のパラパラ漫画のように、宇宙は瞬時に消えているし瞬時に顕れている。即座に死んでいて即座に生まれている。1歳の身体はどこにもありません。18歳のままの身体はどこにもありません。1ヶ月前のままの身体はどこにもありません。1日前のままの身体はどこにもありません。1秒前のままの身体はどこにもありません。今の身体の状態は、10分後の身体の状態のままの身体ではありません。恒常不変の身体であれば新陳代謝もなく思考もストップしていて冷凍保存の身体だということ。生きているようで死んでいて、死んでいるようで生きている。有るというようで無い、無いというようで有る。(参照:一切空不可得)

 

谷神:谷は地形の中での女性の比喩であり万物を生み出すことができる。天地が生まれる根源。「神」という語で不滅の永遠性と自律的な働きを表現している。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

玄牝:玄(=無)からあらゆるものを生み出す、生殖能力の源として牝牛=繁殖力。

綿綿:絶えることなく続く

勤:心力をつくしてはたらく。せいを出す。いそしむ。

 

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老子ー5 [老子]

 ドイツの哲学者ヴィトゲンシュタインは、言葉はどのように意味を獲得していくかに注目しました。言葉が現実の真偽によって定義されている。現実を表現している言葉なのか、それとも現実とは無関係な言葉なのかによって判断されるようです。

 世界を「あるがまま」に記述するために言語があるという立場から、「言語ゲーム」と呼ばれる理論を導き出した。言語ゲームは、ルールに従った人々のふるまいの一致と、ヴィトゲンシュタインは定義しています。

 

 自身の置かれている立場での概念によって言葉を理解している。現在使われている「クール」「ホット」という意味は数十年前の意味とは異なって使われている。二千数百年前に普通に使われていた言葉でも今と同じとは限らない。二千数百年前の文化や庶民の生活に使われていた「木」から受けていた感覚。「木」を見て伝えようとした感覚をそのまま二千数百年後の異国の人が受け取る感覚が同じであることはありえません。

 現実に雨が降っているとすると、それが事実と呼ばれ、「雨が降っている」という文が命題となります。「雨」「降る」とうのが要素です。これらの要素が名と呼ばれます。「雨が泳ぎますか」と聞かれても答えようがありません。

 哲学の問題のいくつかは難題ではなく、言葉の使用規則を誤っているので意味をなしていない

 現実との対応関係が不明で、真偽の判断ができなければ意味をもたない(ナンセンスな)命題ということになります。伝統的な哲学の問題(たとえば、美とは何か)はまさにこのタイプの問であって答えられないということになります。

 「知りたい」「分かりたい」「成りたい」「悟りたい」「解決したい」「意味を知りたい」「本当の幸福」「人生の価値」「楽しく生きたい」すべてが「言語ゲーム」かもしれない。

 理屈をこねて笑えない一生を過ごす人もいれば、理屈なしで笑って生きている人もいる。さて、我々はどう生きているのか。

 「人間は笑うから幸せなのだ、幸せだから笑うのではない」ウィリアム・ジェイムス

 

 アルトゥル・ショーペンハウアーは「生きる意味」を与える(幸せにする)要素として挙げたのは、

1.あなたはどんな人間か

2.何をもっているのか

3.他人はあなたをどう見ているか

「あなたはどんな人間か」が最重要ですが、多くの人は残りの二つに関心を向け、手遅れになってから間違いに気づくと言っています。

  「本来の自分=どんな人間か・私は誰か」と出会う(=腑に落ちる)ことが道・禅・・・。すでに本来の自分で生きているのですが身近すぎて見抜けずに外に探し回って右往左往しているだけのことですが・・・・。

 

 考えることで解決(=考える必要が消滅する)できるなら哲学は必要ない。そもそも対立概念を含み矛盾している言語を使っています。「言語ゲーム」をしていることで、いつまでもゲームから抜けでることができないかもしれません。暇つぶしにはもってこいのゲームであることに異論はないようです。思考しても分かり用のないゲームに興じていられます。何もしない(=妄想に手をつけない)ことでゲームはだんだんと終わりに近づくのですが・・。

 

 考えても知っても笑えるネタにはなりませんが、退屈さを紛らすには複雑で困難な問題の方が最適です。いつまでも考えて退屈しません。

 「研究者は究極の時間つぶしの名人(=達人)である」と誰かが言っていました。宇宙を覗く望遠鏡を見ていても一生飽きない、微生物を顕微鏡で見ていても一生飽きない、石や断層を見ていても一生飽きない、鉄道を一生見ていても飽きない、花を見ていても一生飽きない・・・。研究という大義名分で生活も保証されていれば何も文句はありません。天才と言われる人達が宇宙物理学へと進む理由は、多額の予算を使って天文設備(=研究者のおもちゃ)を作ったり誰にも邪魔されない環境で暮らしていける。何をしているのか凡人に詮索されない、成果なんて分かりはしないし出しても専門家だけにしか理解されない。好きなだけ暇をつぶせると羨む人も多いようです。

 超優秀な人がこまごまとした単純な仕事や指示命令される仕事や結果を求められる仕事を選ぶでしょうか。人里離れて好き勝手に暇をつぶせてなんだか神秘的でロマンを感じることをして生きている・・。

 70億の人生ゲームの一つの選択肢として選ぶ意味や価値のある生き方として選ばれるのも頷けます。

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老子 第五章
天地不仁、以萬物為芻狗、聖人不仁、以百姓芻狗。天地之間、其猶橐籥乎、虚而不屈、動而愈出、多言數窮、不如守中。

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 天地(=今の乱世の世・空間・世界)には仁(=いつくしみ)などない。万物は犬の形につくられた草のように打ち捨てられる。

 聖人も無私で空っぽであり、仁(=いつくしみ)によって統治すると考えてはいない。聖人にとって「臣下・人民」も目を掛けたり優劣を競わさて重用するものではない。気に掛けることなく無為にして自ずと生きているので草でできた犬(=取るに足りないもの)として各自の思うままに任せる。

 天地の間(=今の乱世・世界・世間)では、「道Tao」はふいごのようなものです。空虚が力を失うことはなく、「道Tao」によりふいごが動くことでますます勢いが増すことになります。「道Tao」は多く語ることはしない。寡黙でいることにこしたことはない。

 

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 孔子の思想ではに意志があり、は悪を罰するようです。老子の「道Tao」では玄(=無)から天地が作られていて、擬人化した神などはいないようです。儒教の最高の徳とされる仁は天にはないとあっさりと否定します。

 道教の儒教に対する敵対心があからさまに表現されているようです。道教の正当性をアピールしたものであって、道徳経といっても書かれている内容はさながら他の教えを排除するために書かれたものかもしれません。

 人間は捉えることのできない「天とか神」を勝手に自分たちに似せて神格化しているようです。東洋で青い目で金髪の神がいるでしょうか。西洋で黒い目で黒髪で肌が黄色の神がいるでしょうか。仏陀の像もその地域の人に似た仏陀の像になっているようです。神は概念なので神を見ることなどできません。人間だけが妄想によって「祈れる能力」を身につけたのかもしれません。神に似せた像は人間の想像力を働かせて創り出したのであり、身近で見えるものからイメージする他ないようです。

 「信じる=不明・理解できていない」であり、不明である限り信じるしかありません。自身で「冷暖自知」できれば信じる必要ありません。ヘレン・ケラーに「水」という言葉だけを教えても意味はないようです。「水」という言葉と本当の「水」が一致したときに全てが氷解し、存在のなんたるかを自知したのではないでしょうか。

 

 天地は「無」の働きである「」である。万物は名がつけられた有の結果としてある「」です。万物はただ名があるだけで特別なことはありません。天は万物な中からあるものを抜き出して特別な物とする働きではない。万物は区別・差別されておらず平等(=万物斉同)です。天地(=世間)には統制者など存在せず、無為によってなされています。

 万物に美醜や善悪があるとして区別・差別して個々の存在たらしめているのが人間です。万物は「無」から作られ、色は光の周波数によって決まり、形は輪郭によって在るとしている。我々のスクリーンに映し出されている単なる映像なのですが質感や質量を何故か感じているだけのことかもしれません。この世に生をうけ肉体という物体(=心身)に具わっている五感を通して認識できています。

 「私=自我・アイデンティティ」であれば個別の固定観念という私の心で分別しているようです。おおいなる心(=一心)として万物斉同として見えているのですが、刹那の瞬間で「私」の心で分別する癖がついてしまっているだけなのですが・・。

 万物は区別・差別のない一つであったのに、勝手に名前がつけられ分別(=固定観念によって判断され重みづけされる)の対象とされている。

 

 万物が何でも無いということは等価であって優劣はない。取り立ててどうのこうのする対象になりえない。等価であるということは貴重としたければ貴重とすることができるということです。水銀やウランは使い方によって有益にも害毒にもなります。元来万物は対象として認識されなければ、儀式が終われば捨てられる草で作った犬のようにただ見えている聞こえているだけの何か。

 聖人であれば仁(=いつくしみ)をもって治世する必要はない。無私であり臣下・人民を特別扱いすることなく無為に任せておける。心を配る必要もなく気にすることはないことのようです。

 天地(=生きてる世界)には人間の抱いているような慈しみなど通用しません。弱肉強食、自然淘汰、生存のために盗み破壊し殺戮を平気で行っている。人間も自然界の一部であって自然界から独立した生き物ではありません。

 荒れ狂う暴風雨から逃れることはできないし、天災は平等に被るしかない。万物に特別扱いはないし、これは不要で使い物にならないというものもない。天空から俯瞰してみれば比較するような対象ではない。万物は仁という徳で区別・差別されるようなものではありません。

 

 天地(=この世)は統制者など存在せず、無為に動いてるだけのこと。波動・振動というエネルギーで動いてる。いかに多く語っても混乱や葛藤が増えて自らを苦しめることにはなるまいか。それよりも静かに寡黙でいるほうがよっぽどいいのではないか。何もしない(=妄想につきあわない)ことで「あるがまま」を楽しめばそれでいいのかもしれません。

 

 

天:東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。

天地:存在世界

妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる

徼:始末の物の末端。物事の帰着点。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

哲学:人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。真理を探究する知的営み

思想:生活の中に生まれ、その生活・行動を支配する、ものの見方。哲学や宗教の一部との区分は曖昧である

信仰:神・仏など、ある神聖なものを(またはあるものを絶対視して)信じたっとぶこと。そのかたく信ずる心。その教えをよりどころとすること。

仁:親しみ、いつくしみ、なさけぶかくある、思いやりの心。

芻狗:とるに足りないもの、草でできた犬、

儀礼に使う牛の生贄の代用に犬の形を草で作られその後に捨てられるもの

橐籥:ふいご。空気の流れを生み出す器具

愈:前よりもなお一層。ますます。

窮:行きづまって身うごきができない。こまる

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー4 [老子]

 ネットで検索すると第四章での道を「器・空虚・心・思い」など様々にイメージして解釈されているようです。二千数百年前も今も「言葉・文字」は当人の心象を表現するために選ばれたものであって「真意」は「言葉・文字」の背後にあって書き記した本人以外では闇の中です。

 

 ある人が眼前の川を見て見たとおりに指し示すことができるのは「動画・写真・絵画」という媒体で捉えたものです。それも主観ではなく客観として捉えられたものであり、見えている全体ではなくほんの一部だけかもしれません。そこに、捉えた人の主観を見出すことは困難です。

 もし「川」という文字を見たとしても、「川」という文字を書いた人が育った環境や置かれている状況が前後の文脈で読み取れなければ「川」は単なる表象でしかありません。「川」は見る人によって異なっている「川」であって、恒常不変の「川」があるわけではありません。

 川は川ですが認識されなければ川は川としては存在していません。信濃川も長野県では千曲川と言っているだけです。県境に立っている人にとってどこからが信濃川になるのでしょうか。

 アマゾン川は今存在するでしょうか?(馬鹿げた問いです)どんなに考えてもアマゾン川を目の当たりに見ることができないのでアマゾン川は存在していません。(イメージ上にあるだけです)ブラジルでアマゾン川の岸辺にいたとしてもアマゾン川ではなく単に水の流れを目にするだけです。行き先を告づに日本から目隠しと耳栓をして、アマゾン川の岸辺に立たせ目隠しと耳栓をとったとしてアマゾン川と分かるでしょうか。川の流れに「アマゾン川」を読みとることができるでしょうか。川に「名前」がついているのではなく「名前」がついている川を見ているということです。見えたままそのままであり、本来は名前のない何でもないのでどんな名前をつけてもかまいません。見えた川を「アキタイヌ」と名前をつけてもなんでもかまいません。

 

 「川」という文字(=漢字)はこれからも変化することのない単なる「表象」としてあり続けます。川は「川」として表象されているだけです。ある人(=他人)が見たそのままの川を見ることはできません。(常に変化しています)

 表象は現実に目の当たりにした変化し続けているものを変化のない言葉・文字に置き換えられたもの。現実・事実でなく、変化しない動きのない死んでいる「言葉・文字」としているということです。

 

五月雨を集めてはやし最上川

 なんとなくイメージできるのですが、芭蕉が対峙した動きのある最上川ではありません。表象は再変換されて頭の中でイメージを妄想することができるようです。

 

 自国の言語でなんとかイメージできるのですが、二千数百年前の異国の人が語った内容をうんぬんするのは非常に困難なことと思われます。当時の人(=老子・道教の人たち)にとってみれば、中国語が通じない異国の人はどのような存在でしょうか。グローバル化している現在の我々にとっては、言葉の通じない宇宙人のような存在かもしれません。そんな得体の知れない宇宙人のために書き残すような文章なのかは甚だ疑問です。ましてや二千数百年後の人へのメッセージとして書き残すのでしょうか。今現在の思想家が二千数百年後の文化や文明を想像してメッセージを書こうという人がいるでしょうか。

 長い年月を経て残っているというだけで貴重とみなしているのが人間の習性のようです。荘子の人間世篇で「無用の用」という話しがあります。役に立たない櫟(くぬぎ)が切られずに神木として崇められているというお話です。

 道徳経は当時の人には「無用の用」であり、意味不明であり難解なものだったかもしれません。文字の読めない一般庶民の読むためのものではないようです。教養があり聞く耳を持ち、世を動かせる人のためのに書かれたものではないでしょうか。

 お釈迦様や老子や荘子が言いたいことは何でもかんでも特別視している「私=自我・アイデンティティ」の癖に気づいて下さい。万物斉同の視点があることを見抜いてください。今の自身の本来の「あるがまま」は何でしょうかということではないでしょうか。4つの幻影から脱するためにあえて「乾屎橛」と指摘したことを思い出してみる。

 

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老子 第四章  

道冲、而用之或不盈、淵兮、似萬物之宗。挫其鋭、解其粉、和其光、同其塵。湛兮似常存。吾不知誰之子、象帝之先。

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恥ずかしながら無知な人が解釈するとどうなるかということで書いてみます。

 

「道Tao」は言葉以前であって「玄」であり無である、無であるから際限がない。道は深淵で果てがないようです。「道=無」から万物が生み出されている。「道」の働きによって力を誇示する必要もなく、難題を容易に解決し、威光に頼らずとも、気にかける必要など無い些細な塵と同じように対処できる。「道」に満たされていてる存在として常にあるようにする。(自身を無にすれば思うように治世できる。)私は誰々の子であると宣言して偉ぶる必要もなく、天地を創った天帝以前の「道」から顕れたのである。

 

 道は名称もない存在以前の無。無からあらゆるものが創り出されている。無の中に何かが有れば有であり無ではありません。儒教は「私=自我・アイデンティティ」が思考して考え出された「知識」による治世を推奨している。道教は「道Tao」による治世を推奨する。無を感得した人が治世するのと人間の計らいによる儒教との違いを示さなくてはなりません。

 儒教においては、自(=自我・アイデンティティ)を知ることが第一のようです。天命に従い『中庸』の徳を身につけた「至誠のある人」を目指すようです。

 人をもって人を治む=「人間の道をもって人間を治めることが最上の政治」ということのようです。「私=自我・アイデンティティ」が人格を磨き達成できる最高の人間としてのリーダー。

 道教では、「道Tao」の心境を見抜くことによって鋭(=勢い、かしこい)に頼らず、粉(=紛争、怒り)を解決し、光(=名誉、威光)をかざさず、問題は問題にはならず、ちっぽけな塵同然にスイスイと事が運べるようになると主張する。「道」を身につけた実践者という存在であれ。どのような家系で生まれてきたかなど卑下したり誇ったりすることはない。私は誰々から生まれたと言う必要はない。「無」という根源から生まれてきたということ見抜けば、存在を創り出したと言われる天帝以前の「無」から生まれた私が今ここに顕れている。

 

 仏教では、「和光同塵」を自己の才能をかくして、塵の世に交わり入るという意味としているようです。後世の人は自分たちの教理に合うように都合よく解釈しているかもしれません。何事も疑ってかかり、自身がよりどころであり自身が平穏で無事であるかどうか。自身の胸に手をあてて確認する他無いようです。

 

表象:ある概念・イメージをあるもの(=記号・言葉・文字)で表すこと。

沖:わく。水がわき動く/むなしい =空虚・無

盈:みちる/みたす/いっぱいになる

挫:くだける/へし折る/折れて痛める

光:ほまれ。名誉

塵:利用価値のないこまごました汚いもの。ちり。/俗事。俗世間。

湛:たたえる/水をたたえる/満ちている/深い

象:目で見られない物を何かの形によって示す。

和光同塵:自己の才能をかくして、塵の世に交わり入る。聖人君子がその知徳を和げて、つまり隠して俗塵の世界に入る。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー3 [老子]

 2千数百年前に孔子に対抗すたために書かれた道教の君主論かもしれません。2千数百年後の我々に向けて書かれてものでないことは明らかです。2千数百年経っても人間の人体機能や心は劇的には進化していないようです。私達の社会生活や環境から導きだされた哲学や思想を2千数百年後の人が重宝しているでしょうか。現代の私達の著書を2千数百年後の人が優れた著書としているとすれば、残念で嘆かわしい気がしないでもありません。未来の人類の精神はいつまでもたっても過去の資産を破棄するほどには変革されていないのでしょうか。

 いつまでも◯◯教に束縛され抜け出せていなければ精神的な進歩は遅々としたものでしかないということのようです。◯◯教の◯◯教祖と今現在生きている自分自身とどちらがリアルな主役でしょうか。「自灯明」であって自らが答えを見つけることが本筋です。誰々が◯◯を言っていたとしてもその人の生い立ちや経験で出てきた言葉であって、誰にでも当てはまる言葉ではないようです。

「仏道をならふというふは、自己をならふなり。

 

 古典には語り継がれるべき価値があり今こうして読むことができます。時代や環境がすっかり消滅しても言葉は変わることがありません。言葉は変化しないようです。数千年前の「山」が風化や人為的によって元の姿とかけ離れた姿になったとしても、「山」という文字で表現されます。「山」を表現する言葉・文字は「山」しかありません。変わることなく永遠性があるように扱われます。これから数千年を経ようが「山」を表現するのに「谷」を使うことはありません。

 2千年前に存在していた人民と現在の人民は全く異なった人民ですが、言葉では同じ「人民」としてしか表現されません。人民という言葉は2千年前も現代でも変わらずに使われます。しかし、2千年前に存在していた人民と現代の人民とは全く異なっています。文字で「人民」とありますが、2千年前の人民の姿や生活は想像すらできません。2千年前のそれも他国の文字から推測するのは非常に無責任です。言わんとしている雰囲気が分かればいいのかもしれません。書かれている内容について勝手に推測している未来人をどのように思うでしょうか。妄想もいい加減にしろと嘆くこと間違いありません。

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第三章

不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不亂。是以聖人之治、虚其心、実其腹、弱其志、強其骨、常使民無知無欲使夫知者不敢為也、為無為、則無不治不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不亂。

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賢い者に力を与えなければ、臣下や民は競い合うことはない。
君主が財を得ることや賢者を貴ぶことがなければ、臣下や民は盗みや不正をすることはない。
欲望を刺激するものを見せなければ、臣下や民の心は平静であり乱されない。

 よって聖人(=道教の推奨する君主)の治めるべきは、人々の心を煩わせず、腹を空かせさせず、臣下の野心を鎮め人民の欲心を弱め、身体増強させ、常に臣下と人民を小賢しくさせず、欲心に惑わされず暮らせるようにする。
 無をなせば「無」に治まる。

治めようとしなくても自ら治まり賢くなろうということもなくなる。

臣下も人民も争うことはない。

財貨を得ることも自ら尊くなることはない。

臣下も人民も盗むことはなく。欲心を起こすこともない。

臣下も人民も心が乱れることはない。

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 賢者とは孔子のように君主に機嫌取りをするような人たちのことを言っているのでしょうか。国を治めるのに孔子の勢力台頭を牽制し批判しているかのように思われます。賢者(=孔子)が中枢に入り込むこは、人心を乱すことになると警告しているようです。

 欲望を刺激するものを見せることは、こと更に心を乱すものである。知らなければ知らないで何事もないのですが、これを持てば便利になるだとかあるものを見ることで心が満たされるとか、心の情動を揺さぶることはいつの世でもあった。人の心の性向はおいそれと変わることがないようです。

 食べることに困ることなく、人々の心身が健全でるようにする。欲心に振り回されないように暮らせるようにする。(恒産なくして恒心なし 孟子)

 臣下と人民に自らが何かを為そうとする欲心が掻き立てられることで人心が乱されないようにする。君主は臣下や人民に干渉したり規制することなく自然に治世できているようにする。(為無為)

 臣下は自らの仕事に専念し、人民は欲心なく日々の生活を全うする。人民は欲望を満たすために財貨を得ようすることはなくなり、争うこともなくなります。

 欲望を掻き立てるようなものを見せなければ、臣下も人民も心が乱れることがなくなります。

 

 文字も読むことができず学のない当時の人民のための書ではなさそうです。あくまでも教養があり理解力を持ち合わせるべき君主に向けた指南書のようです。現代人が我が身に鑑みて鵜呑みにするような内容ではないと思われます。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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