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老子ー5 [老子]

 ドイツの哲学者ヴィトゲンシュタインは、言葉はどのように意味を獲得していくかに注目しました。言葉が現実の真偽によって定義されている。現実を表現している言葉なのか、それとも現実とは無関係な言葉なのかによって判断されるようです。

 世界を「あるがまま」に記述するために言語があるという立場から、「言語ゲーム」と呼ばれる理論を導き出した。言語ゲームは、ルールに従った人々のふるまいの一致と、ヴィトゲンシュタインは定義しています。

 

 自身の置かれている立場での概念によって言葉を理解している。現在使われている「クール」「ホット」という意味は数十年前の意味とは異なって使われている。二千数百年前に普通に使われていた言葉でも今と同じとは限らない。二千数百年前の文化や庶民の生活に使われていた「木」から受けていた感覚。「木」を見て伝えようとした感覚をそのまま二千数百年後の異国の人が受け取る感覚が同じであることはありえません。

 現実に雨が降っているとすると、それが事実と呼ばれ、「雨が降っている」という文が命題となります。「雨」「降る」とうのが要素です。これらの要素が名と呼ばれます。「雨が泳ぎますか」と聞かれても答えようがありません。

 哲学の問題のいくつかは難題ではなく、言葉の使用規則を誤っているので意味をなしていない

 現実との対応関係が不明で、真偽の判断ができなければ意味をもたない(ナンセンスな)命題ということになります。伝統的な哲学の問題(たとえば、美とは何か)はまさにこのタイプの問であって答えられないということになります。

 「知りたい」「分かりたい」「成りたい」「悟りたい」「解決したい」「意味を知りたい」「本当の幸福」「人生の価値」「楽しく生きたい」すべてが「言語ゲーム」かもしれない。

 理屈をこねて笑えない一生を過ごす人もいれば、理屈なしで笑って生きている人もいる。さて、我々はどう生きているのか。

 「人間は笑うから幸せなのだ、幸せだから笑うのではない」ウィリアム・ジェイムス

 

 アルトゥル・ショーペンハウアーは「生きる意味」を与える(幸せにする)要素として挙げたのは、

1.あなたはどんな人間か

2.何をもっているのか

3.他人はあなたをどう見ているか

「あなたはどんな人間か」が最重要ですが、多くの人は残りの二つに関心を向け、手遅れになってから間違いに気づくと言っています。

  「本来の自分=どんな人間か・私は誰か」と出会う(=腑に落ちる)ことが道・禅・・・。すでに本来の自分で生きているのですが身近すぎて見抜けずに外に探し回って右往左往しているだけのことですが・・・・。

 

 考えることで解決(=考える必要が消滅する)できるなら哲学は必要ない。そもそも対立概念を含み矛盾している言語を使っています。「言語ゲーム」をしていることで、いつまでもゲームから抜けでることができないかもしれません。暇つぶしにはもってこいのゲームであることに異論はないようです。思考しても分かり用のないゲームに興じていられます。何もしない(=妄想に手をつけない)ことでゲームはだんだんと終わりに近づくのですが・・。

 

 考えても知っても笑えるネタにはなりませんが、退屈さを紛らすには複雑で困難な問題の方が最適です。いつまでも考えて退屈しません。

 「研究者は究極の時間つぶしの名人(=達人)である」と誰かが言っていました。宇宙を覗く望遠鏡を見ていても一生飽きない、微生物を顕微鏡で見ていても一生飽きない、石や断層を見ていても一生飽きない、鉄道を一生見ていても飽きない、花を見ていても一生飽きない・・・。研究という大義名分で生活も保証されていれば何も文句はありません。天才と言われる人達が宇宙物理学へと進む理由は、多額の予算を使って天文設備(=研究者のおもちゃ)を作ったり誰にも邪魔されない環境で暮らしていける。何をしているのか凡人に詮索されない、成果なんて分かりはしないし出しても専門家だけにしか理解されない。好きなだけ暇をつぶせると羨む人も多いようです。

 超優秀な人がこまごまとした単純な仕事や指示命令される仕事や結果を求められる仕事を選ぶでしょうか。人里離れて好き勝手に暇をつぶせてなんだか神秘的でロマンを感じることをして生きている・・。

 70億の人生ゲームの一つの選択肢として選ぶ意味や価値のある生き方として選ばれるのも頷けます。

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老子 第五章
天地不仁、以萬物為芻狗、聖人不仁、以百姓芻狗。天地之間、其猶橐籥乎、虚而不屈、動而愈出、多言數窮、不如守中。

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 天地(=今の乱世の世・空間・世界)には仁(=いつくしみ)などない。万物は犬の形につくられた草のように打ち捨てられる。

 聖人も無私で空っぽであり、仁(=いつくしみ)によって統治すると考えてはいない。聖人にとって「臣下・人民」も目を掛けたり優劣を競わさて重用するものではない。気に掛けることなく無為にして自ずと生きているので草でできた犬(=取るに足りないもの)として各自の思うままに任せる。

 天地の間(=今の乱世・世界・世間)では、「道Tao」はふいごのようなものです。空虚が力を失うことはなく、「道Tao」によりふいごが動くことでますます勢いが増すことになります。「道Tao」は多く語ることはしない。寡黙でいることにこしたことはない。

 

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 孔子の思想ではに意志があり、は悪を罰するようです。老子の「道Tao」では玄(=無)から天地が作られていて、擬人化した神などはいないようです。儒教の最高の徳とされる仁は天にはないとあっさりと否定します。

 道教の儒教に対する敵対心があからさまに表現されているようです。道教の正当性をアピールしたものであって、道徳経といっても書かれている内容はさながら他の教えを排除するために書かれたものかもしれません。

 人間は捉えることのできない「天とか神」を勝手に自分たちに似せて神格化しているようです。東洋で青い目で金髪の神がいるでしょうか。西洋で黒い目で黒髪で肌が黄色の神がいるでしょうか。仏陀の像もその地域の人に似た仏陀の像になっているようです。神は概念なので神を見ることなどできません。人間だけが妄想によって「祈れる能力」を身につけたのかもしれません。神に似せた像は人間の想像力を働かせて創り出したのであり、身近で見えるものからイメージする他ないようです。

 「信じる=不明・理解できていない」であり、不明である限り信じるしかありません。自身で「冷暖自知」できれば信じる必要ありません。ヘレン・ケラーに「水」という言葉だけを教えても意味はないようです。「水」という言葉と本当の「水」が一致したときに全てが氷解し、存在のなんたるかを自知したのではないでしょうか。

 

 天地は「無」の働きである「」である。万物は名がつけられた有の結果としてある「」です。万物はただ名があるだけで特別なことはありません。天は万物な中からあるものを抜き出して特別な物とする働きではない。万物は区別・差別されておらず平等(=万物斉同)です。天地(=世間)には統制者など存在せず、無為によってなされています。

 万物に美醜や善悪があるとして区別・差別して個々の存在たらしめているのが人間です。万物は「無」から作られ、色は光の周波数によって決まり、形は輪郭によって在るとしている。我々のスクリーンに映し出されている単なる映像なのですが質感や質量を何故か感じているだけのことかもしれません。この世に生をうけ肉体という物体(=心身)に具わっている五感を通して認識できています。

 「私=自我・アイデンティティ」であれば個別の固定観念という私の心で分別しているようです。おおいなる心(=一心)として万物斉同として見えているのですが、刹那の瞬間で「私」の心で分別する癖がついてしまっているだけなのですが・・。

 万物は区別・差別のない一つであったのに、勝手に名前がつけられ分別(=固定観念によって判断され重みづけされる)の対象とされている。

 

 万物が何でも無いということは等価であって優劣はない。取り立ててどうのこうのする対象になりえない。等価であるということは貴重としたければ貴重とすることができるということです。水銀やウランは使い方によって有益にも害毒にもなります。元来万物は対象として認識されなければ、儀式が終われば捨てられる草で作った犬のようにただ見えている聞こえているだけの何か。

 聖人であれば仁(=いつくしみ)をもって治世する必要はない。無私であり臣下・人民を特別扱いすることなく無為に任せておける。心を配る必要もなく気にすることはないことのようです。

 天地(=生きてる世界)には人間の抱いているような慈しみなど通用しません。弱肉強食、自然淘汰、生存のために盗み破壊し殺戮を平気で行っている。人間も自然界の一部であって自然界から独立した生き物ではありません。

 荒れ狂う暴風雨から逃れることはできないし、天災は平等に被るしかない。万物に特別扱いはないし、これは不要で使い物にならないというものもない。天空から俯瞰してみれば比較するような対象ではない。万物は仁という徳で区別・差別されるようなものではありません。

 

 天地(=この世)は統制者など存在せず、無為に動いてるだけのこと。波動・振動というエネルギーで動いてる。いかに多く語っても混乱や葛藤が増えて自らを苦しめることにはなるまいか。それよりも静かに寡黙でいるほうがよっぽどいいのではないか。何もしない(=妄想につきあわない)ことで「あるがまま」を楽しめばそれでいいのかもしれません。

 

 

天:東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。

天地:存在世界

妙:事象の本質。無の働きによって天地が始まる

徼:始末の物の末端。物事の帰着点。

玄:暗黒。人の目には見えない、神秘なもの。深遠な神秘。奥が深い道理。

哲学:人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。真理を探究する知的営み

思想:生活の中に生まれ、その生活・行動を支配する、ものの見方。哲学や宗教の一部との区分は曖昧である

信仰:神・仏など、ある神聖なものを(またはあるものを絶対視して)信じたっとぶこと。そのかたく信ずる心。その教えをよりどころとすること。

仁:親しみ、いつくしみ、なさけぶかくある、思いやりの心。

芻狗:とるに足りないもの、草でできた犬、

儀礼に使う牛の生贄の代用に犬の形を草で作られその後に捨てられるもの

橐籥:ふいご。空気の流れを生み出す器具

愈:前よりもなお一層。ますます。

窮:行きづまって身うごきができない。こまる

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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