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老子−12 [老子]

老子 第十二章

 五色令人目盲、五音令人耳聾、五味令人口爽、馳騁田猟、令人心発狂、難得之貨、令人行妨。

是以聖人為腹不為目、故去彼取此。

 

 色彩はかえって現実を見えなくしてしまう。音色はかえって現実の音を聞こえなくしてしまう。味付けはかえって味覚を損ねてしまう。馬で駆け回る狩猟は、人を興奮させて狂ったように獲物を追い回す。得がたい貴重なもの(珍宝・財貨)は、人として為すべきこと(当たり前の行い)を後回しにさせてしまう。

 だから為政者は、享楽に振り回されず衣食住で満ちたりた生活で満足する。欲望の何たるかを知り五感に惑わされずに、生活を維持できるだけの必要なものだけで満たされるような心境であるべきだ。

 

令人: 人に~させる

五色:青・黄・赤・白・黒

五音:ド・レ・ミ・ソ・ラ

五味:酸・塩・甘・辛・苦

馳騁(ちてい):馬で駆けること。 または、思うとおりに行動すること。

田猟:狩りをすること。

為腹不為目:腹を満たすという慎ましさのために生き、目などの感覚的な快楽に陥らない。

故去彼取此:彼(=享楽)を捨て、此(=質素な生活)を選択する。

 

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 あらゆる生命体には、心地よさを希求(=執着)し不安・恐怖から逃れたい(=忌避)という本能があるようです。本能があったから生き延びたのか、生き延びている過程で本能が身についてきたのかどうでもいいことですが・・・。生命体として存在している限りは自然に「自分かわいい」が最優先されていることは間違いないようです。

 周囲の環境や状況から入ってくる情報は「そのまま」に五感から感受されます。五感自体にフィルターはなく純粋無垢な働きがあるだけです。どうでもいい情報を選別せず(=拒否しない)にしたままでは、心・感情が鎮まることは難しいことではないでしょうか。

 脳はイベント駆動であって、状況の変化にすぐに対応するようになっているようです。状況の変化(=未来)は自分(=脳)でコントロールできません。状況の変化が先にあって五感で自動的に感受することで何らかのトリガー(=スイッチ)が入って、次に脳が起動(=反応)して分別プログラムによって行動することになります。適切な行動(=保身)を起こすために脳は常に待機しているようです。

 

 脳(=身体の一部)や身体は見られている対象であって「本来の自己」ではありません。心身は目の前のパソコンのディスプレイと同様に見られる(=対象)であり、意志・感情によって動かされている対象ではないでしょうか。

 状況の変化(=諸行無常・天候・他人の言動等々)に従って動かされているということに気づかなければなりません。身体が本当の「私」であり制御の主体であれば、身体の要求(=飲食・睡眠・反応)を制御できてもいいし病気にかからないように免疫細胞を思い通りに作り出すことも出来て良いはずですが・・・。自らの意志では血流の制御も心臓の鼓動の制御もできません。自ら(=私)が手を出すことができない、自律的な生命の営みが繰り広げられているということ。

 

 身体は自分ではないものでありながら、自分であるかのように勘違いしているということに気づかないかぎり、何とか制御しようと努めようとします。完全に制御できない身体として存在してるのですから身体が老いたり病気になったり死という現象があるのは当たり前のことであって逃れることができないことです。自分でなんとかなるという勘違いによって「苦(=あるべき理想と現実のギャップ)」としていることに気づくしかありません。いくら悩んでも「苦」は解消できるものではないのですが。速やかにあたり前のこと(=例えば老・病・死)として気にしない。

 

 そもそも最初から何でもかんでも問題が存在して山積しているのでしょうか。問題は自身が問題にするから問題となっているという根本的なことに目を向けてもいいかもしれません。目の前に問題があって問題を解決しなければならないのが「私」に課せられたことなのでしょうか。それともどうでもいいことに首を突っ込んで些細なことを針小棒大に扱って困り果てているだけなのでしょうか。

 私たちは何事もなく平穏で過ごしたいという一面もあるのですが、「私=自我・アイデンティティ」は「何かがあるはずだ」という思いで血眼になって空っぽを満たそうとしています。「本来の自己」が空っぽだということに気づいているかもしれません。五感で感受しているものが純粋無垢であって、感受したあらゆるものが消え去っていることを知っています、掴めるものも得ることもないし、何者にもなれないことを実感しています。いついかなる時でも何も得ていないし何も掴んでいない自分がいます。感覚は儚く消えてしまっています。

 どんなに素晴らしい体験であったとしても、記憶の片隅に僅かに残っている残像だけしかありません。誰もが以前に味わった素晴らしい体験をもう一度味わいたいと願います。興奮したい刺激が欲しいと心が求めて身体を駆り立てるというのが我々の行動パターンのようです。何故なら全てが消え去っていて空っぽであるからです。「私=自我・アイデンティティ」の提案するゲームにつきあっているだけという見抜き。たまには相手をしてやってもいいですが、ほどほどにしたほうがいいかもしれません。

 

 空っぽの感覚を満たしたい。素晴らしい景色や絵画を観たり旅したい。リズミカルな音楽や癒やされるメロディーに包まれていたい。食べたことのない味を味わって満足したい。誰もが求めることであり否定することはできません。老子は、過度に振り回され続けては本末転倒となることを警鐘を鳴らしているかもしれません。

 単調な日々には幸せはなく、どこかに青い鳥がいてその青い鳥を捕まえようとしている限りは青い鳥と生活することは難しいかも知れません。青い鳥は「今ここ」に在り続けています。非日常は稀であり、圧倒的に平凡な日常(=有閑階級の日常と一般人の日常は異なります)の中で生きていてニュートラルな現実のほうがノーマルです。見えているものや聴こえているものや食しているものが違ったとしても、意識自体に差があるわけではありません。

 他人と比較しても意味はありません。日常の「あるがまま」から逃避して非日常の酒池肉林ばかりを求めていては感覚の楽しみの奴隷になり、日常を否定することになります。普段の日常がベースにあって、楽しむことには何の問題もありません。誰かを巻き込んだり周囲に迷惑をかけることなく、ほどほどを心得てということでしょうか。

 

 富を制御することができずに、富に振り回され快楽を追い求めるだけになって人間の感覚機能が低下し、見境のない行動へ駆り立てられる恐れがあります。

 欲望のままに薬物に手を染めてしまえば、身体を制御するどころか心の思うままに従って身をほろぼす最悪の結果となるかも知れません。

 狩猟でない、興奮して殺気立った「狩り」は狂気の沙汰ではないかと指摘しているのでしょうか。肉食動物であっても必要以上に殺すことがあれば食物連鎖を乱すことになります。殺すことだけが目的の「狩り」は猛獣にも見下される行為かも知れません。

 

 自身が行動して状況が変わる(=断捨離・草取り・掃除・・)のならまだしも、ゴシップや他国での出来事や火星のことや宇宙の成り立ちに頭を悩ます必要があるでしょうか。専門家に任せておけばいいだけのことであって興味の対象から外してもいいかもしれません。どうにもならないことを面白がるのが「私=自我・アイデンティティ」の癖のようです。

 只管打坐・ヴィパッサナー瞑想・手動瞑想・マインドフルネスなどは、興味(好奇心)を持てる感覚的な刺激を意図的に断ち、雑事に関わらない時間と共にある修練です。興奮や欲望と縁がなければどうなるかを直に経験できる貴重な体験を味わうことが出来ます。体験した人だけが知りうる感覚を味わうのもいいかもしれません。

 

 <まとめ>

・身の丈を超えて五感の味わいを求めて、身体を疲弊させる必要があるのでしょうか。

・イベント(=事象)が先に起こっていて、次に思いが湧き起こるので思いを制御できない。

・どうでもいい事に思考を使って、思考を追いかけていては悩みは尽きない。

・「今ここ」でのありふれた生活の中に「青い鳥」がいるのでは。

・当たり前の事(=老・病・死)を杞憂してもしょうがない。

・問題は自作自演ではないのか。

・自力で解決できないことに首を突っ込まない。

・どうでもいいことを問題にしない。

・問題がない時(=修練)の後の心境を体験してみる。

 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−11 [老子]

 2020/7/23 NHKの「おはよう日本」で偶然に「Niksen(ニクセン)」という言葉を耳にしました。ワークライフバランスで世界一位のオランダで「ニクセン」が根づいているそうです。「ニクセン」とは「何もしない」で心をふらつかせたままにしておくことのようです。「何もしない」ことで精神安定ホルモンのセロトニンが分泌されるようです。

 あえて思考しないことによって結果を求めないでいる。「ニクセン」を実践するには、周りの目を気にせずに自分で自分の時間をコントロールを持つ必要があるそうです。干渉されない干渉しない環境が必要です。ニクセンが日々の生活に根づくには、自分のが干渉されたくないのですからまずは他人の事には干渉しないということが必要かも知れません。日本人は何かと「ちょっかい」を出さないと気がすまない人が多いように感じられます。家庭内であって個人は個人の空間と時間を尊重してあげることが重要となるのではないでしょうか。

 動画Web ←ニクセン

 声を出したり文字を入力したり行住坐臥したり・・・いったいどんな意味があって価値があるかなど、その時代や社会が決めていいのでしょうか。我々は個々で生きていて個々で感受して・・・どこまで行っても個々での感覚でしか分かりようがありません。誰がどんな心境かなど気にする必要はまったくありません、気にしても他の心境が自分にそのまま実現することはありません。

 マズローの欲求五段説では、「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」を満たしていくことに意味や価値を見出しているようです。

 老子の生きた時代の一般市民は「安全の欲求」が満たされているかどうかも怪しい時代です。老子の説く内容は一般市民には程遠いものであったように推測されます。当時の人で「ニクセン=何もしない」ということが理解できるの人は、ほんのひと握りの人だけかもしれません。

 幸いなことに現代人は「何もしない」ということを実践しその恩恵にあずかれる環境にあるようです。「ニクセン」は誰もがすでに「それ」であることに気づく(=見抜く)1つの方法だと思われます。

 脳は頭の理解があって物事を進めようとします。頭で分からなくていい。実践することで身体が脳にダイレクトに伝えてくれます。頭で分かってから実践しようとするのが「私=自我・アイデンティティ」の最も悪い癖です。アッこれは「妄想」だなとただ気づいて相手にしない、「妄想」を相手にしなければ自然に消えていくようです。

 宗教なんてどうでもいい。教えなんてどうでもいい。宗教を信じ続けているということは、宗教では何ら根本解決できていないという証拠です。一体いつになったら宗教という古びたものがあったと懐古する時代がくるのでしょうか。宗教は、ただの対処療法であって根本治癒はできていないかもしれません。

 偉大な教えもどうでもよくて、実践して自身の身体の変化が一番の福音かもしれません。身体が理解すれば教えが分かる、教えが分かって身体が理解することはないようです。順番が逆であって、身体が最初で教えは確認の為にあるのではないでしょうか。教えで得ることもなくただの確認。結局は自身の身体が証明するしかないということのようです。

 いますぐにでも、ニクセンで「何もしない」で寛いでみる。見返りなんか何も期待しない。我々は、最初から自由であることが実感できればそれだけでいいのかもしれません。

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老子 第十一章 「無用の用」

三十輻共一轂、当其無有車之用。埏埴以為器、当其無有器之用。鑿戸牅以為室。当其無有室之用、故有之以為利、無之以為用。

 

三十本もの棒は車輪の中心部に繋がっている。
其の無(=車輪の内側の空間)があることによって、車輪が作られ車輪として使われる。
器として出来上がるには粘土をこねる。
器の中が無(=中空)であることによって、器としての役割が果たせる。
戸や窓という枠を空けて家として使われる。
家は無(=空間)によって、家として用をなしている。

なにかが有って利用できるということは、それぞれに無(=空間)があることによってこそ利用できる何かがある。

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 存在(=有)と非存在(=無)は、二元対立のようで実は表裏一体かもしれません。無限の空間(=無)の中に、存在としてある。空間があることによって存在が自由に動いたり働いたりできます。

 我々が自由奔放に思考できるのもその思考が消えてなくなり無となり、いつもニュートラルだからかもしれません。目から入ってきた情報は光がスクリーンに映し出されだけでスクリーンに焼き付くこと無く速やかに点滅しているだけです。耳から入ってくる音の振動も消滅して無(=静寂)となります。鼻から感じられる匂いも舌で感じる味も皮膚からの感覚も・・・知らぬ間に完璧に消え去って無となっています。五感は常にニュートラル(=無)。

 我々は空っぽ(=ニュートラル・無)だからこそ、何でも自由にあるがままを感受できているのかもしれません。

 抵抗・圧力・刺激・興奮・変化・反応・感覚・葛藤・混乱・驚き・感動・・・これらによって生きている実感が感じられます。生きている感覚をじっくり味わいたいものです。それも宇宙開闢以来、我々が感じる些細な一つ一つが宇宙で1回限りの体験です。体験から逃げずに味わう。

 何故こうなっているのかなんて誰一人として分からないし、分かったとしても自分一人の力でガラリと変えることはできません。接する自分自身が気づくしか ありません。生きている理由や今やっていることがどうして起こっているかなど誰の責任でも義務でもないのではないでしょうか。

 勝手にそうなっているだけで、誰かが何かをしているわけではないようです。誰一人として他人と変わることはできません。自身の人生は自身がしっかりと味わい尽すほかありません。

 

 人生を旅だとすれば、旅は目的地に到着することではなく一歩一歩が旅そのもの。だとすれば人生そのものが旅であって目的地(=夢や達成)に到着しなくても、すでに達成していると言っていいのではないでしょうか。瞬間瞬間、一日一日が旅であって旅が達成されている。

 私たちは、人生に意味や価値(=目的地)を見出そうと必死ですが、そんな必要もなくすでに目的(=旅)は生きている。生きていることによってすでに成就していると考えてもいいのではないでしょうか。自らに対しても何らかの意味や価値を強制することもなく、自らの願望を満たす必要もない。ただあるがままそのままで既に「それ」です。

 全ては「有る」ようで綺麗サッパリと無くなっています。その瞬間に見えたものはただの記憶であって、現実(=今ここ)だけが事実です。記憶は現実ではなく事実でも何でも無い「ただの記憶」であってこの世に実在するものではありません。記憶は人生のスパイス程度であって主食としなくてもいいかもしれません。

 

 老子は、誰もが実在だけに目を奪われて、背景に潜んでいる空虚に気づていなと言っているのでしょうか。万人に共通の「空っぽ=役に立っていないこと」が本質であることを見抜いてほしいのでしょうか。

 

輻:車輪の中心部(=ハブ)から輪に向かって放射状に出ている棒

轂:車輪の中心部(=ハブ)

埴:粘土

埏:土をこねる

鑿:突き通す、貫く

戸牖:戸や窓

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子−10−3 [老子]

老子 第十章  

載営魄抱一、能無離乎、専気致柔、能嬰児乎。玄覧滌除、能無疵乎。愛民治国、能無為乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無知乎。生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳。 

 

①身体は働きを止めず(=営)魂(=心・精神)を抱きながら(=一緒に)生きている。身体と魂(=心・精神)は一体ですが、身体と魂が離れずに(=一致するように)できますか?

②自らの気(=思い)を集中(=統一)しながらも身体を柔軟にし、赤子のように純真無垢でいれますか?

③妄想を取り去って、三毒にまみえない聖者のような状態でいれますか?

④人民を愛し国を治めているのに、無為のままでいられるでしょうか?

君主は万物を命名して主導しているのに、雌のように現実を受け入れられるだろうか?

あらゆることを理解していながら、何も知らないように振る舞うことができるだろうか?

之(=万物)を生み(=命名)、之(=万物)を育てながら、その万物を自分の所有物としない、何かを成し遂げても奢らず、長となっても統治していない。これを「玄徳」という。無から生まれた原初(=玄)なる徳という。

 

載:運ぶ。

営魄:たましい。営々と活動している魂。

乎:疑問

玄覧:心がみる様々な物事。妄想。
滌除:洗って除きさる。

疵:あやまち。欠点。病気。
開闔:開閉。開ききる。
四達:四通八達、聡明叡智で四方の事情に精通。

宰 :司る。治める。

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③妄想を取り去って、三毒にまみえない聖者のような状態でいれますか?

 手動瞑想で手を動かしていること自体に意味や価値はあるでしょうか。何のために手の動きに注目しなければならないのでしょうか。それは「心」が散漫であり、過去や未来に彷徨って「今ここ」をないがしろにしているからに他なりません。

 ただただ「今ここ」が永遠に続いているだけです。ぱらぱら漫画の一枚が一瞬ごとにめくられ続けているだけのことかもしれません。一枚が立ち現れ直ぐに消え去ってしまっている。

 「今ここ」が事実(=真実)であることを否定することはできません。「今ここ」が間違いであるとすれば存在全てが間違いということになります。間違いの世界であれば真実はいつでもどこにもないということになります。探し出そうとすることは無意味なことです。

 「今ここ」が事実(=真実)ですから、「今ここ」に居続けなければ何を探し求めても決して出会うことはありません。「今ここ」を離れている「心」が行っていることは「妄想」と言えるかも知れません。この現実離れした「妄想」で、何かを掴んだり何者かになることは妄想の自己ではないでしょうか。

 「本来の自己」は「今ここ」を離れたどこかに鎮座しているのでしょうか。ヒマラヤのある場所に「本来の自己」があるのなら限られた人だけのものということになります。それでは「本来の自己」とは言えません。

 頭の中のお遊び(=ゲーム)を止めて、「今ここ」という事実(=真実)である身体とともに在り続けるしかありません。

 「今ここ」を否定することは、「本来の自己」を否定することになります。「心」は有りもしない過去やまだ来ぬ未知なる未来で遊びたい(=妄想)性質なのでしょうか。ただこの妄想が妄想だと気づくしかないようです。妄想している本人が妄想だと気づくには手動瞑想で強烈に「今ここ」にとどまり続ける他ないようです。

 

 次に記憶のお話です。誰もが経験があると思われる事例ですが、友人でも同僚でも電車でいつも見かける人の記憶があったとします。今日、その人と出会ったときに手に包帯を巻いていたとします。私たちは、親しい人なら「どうかしたの切ったの?」と直接言葉をかけますがそれほど気に掛けなければ何かしら心の中で呟くかも知れません。

 ここで当たり前の事を疑ってみてください。「どうしたの?」と何の疑問もないということは、あたかも自身の記憶が正しくて見られている人は記憶と異なる間違いとして処理しています。もし、パソコンに日々データを入力しているのなら今日のデータは今日のデータであり昨日のデータと比較するのなら今日のデータが優先されるはずです。今日(=基準となるべき)は昨日(=すでに昨日は消滅している)よりもプラス・マイナス◯◯だということです。しかし、我々の頭は記憶を拠り所としていて昨日と比べて◯◯だとしています。基準が自らの記憶であって、今見ている「あるがまま」を基準としていないのではないでしょうか。知らぬ間に当然のように、見る主体(=自分自身の記憶)が基準で見られる客体(=他人)は記憶と比べられる対象としています。

 

 現実世界はとどまること無く変化し続けています。(=無常・恒常不変ではない)記憶には、長期・短期・宣言的記憶(陳述記憶・知識)・非宣言的記憶(非陳述記憶・習得能力)があるようです。今の「あるがまま」の現実世界以前のものであって、いまだ更新されていないあやふやな脳内記録(=比較的長期の記憶)が自分を形作っているようです。長年積み重ねてきた「私」という実在が「私=自我・アイデンティティ」としての立ち位置です。

 あなたは何者と問われれば◯◯人で◯◯市にある◯◯家で生まれ・・・。まさに「私=自我・アイデンティティ」は自己証明そのものとして生きています。それゆえ記憶・記録が自分であって自分が主体ですから記憶・記録そのものが自分自身だとしている。

 

 記憶はあやふやであり「今ここ」での事実(=現実)ではなく頭の中の海馬にあるただの化学物質のようなものとシナプスかもしれません。頼るべき基準ではなく、目の前にある事実(=現実)を実感するにはかえって邪魔となるものかもしれません。記録があれば記憶に頼らず、目の前で起こっている現実とともに生きたほうがいいかもしれません。「今ここ」にあれば、妄想という束縛から段々と離れることができ自由になっていくかもしれません。

 「記憶」と比べるのは脳の癖であって、過去に引き戻され現在を見失うことになっていないか見抜いてみる。

 過去の所持金を思い出しても現在の所持金が増えることはありません。過去は過去であってもうすっかり消え去っていると諦める。

苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり」

 

 

<まとめ>

・身体に「心」を従わせ強烈に「今ここ」に在り続けるように「心」を調教していく。

「今ここ」の「あるがまま」が事実(=現実)であって、記憶はあやふやなものでしかない。

・知らず知らずのうちに「記憶」という過去に引き戻されてはいないかと疑ってみる。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー10−2 [老子]

<自問>

・生まれたということは寿命が尽きるまで生かされるのか。

・生かされる(=生命維持)とはエネルギーを補給し続けなければならないのか。

・生は身体を維持することなのか、脳を維持することなのか。

・脳を生かすために身体を使うのか、身体を生かすために脳が使われるのか。

・考えるために生きているのか、生きているから考えられるのか。

・脳があって身体があるのか、身体があって脳があるのか。

脳が身体を生かしているのか、身体があって脳が生かされているのか

・健康に動けるために脳を使うのか、脳を使うために健康を維持しているのか。

・脳が食べさせてくれるのか、身体が脳にエネルギーを与えているのか。

・脳が食べ物を消化して体全体に栄養を行き渡らせているのか。

・生きるために食べているのか、食べているから生きているのか

・身体が飢えや渇きを感じるのか、脳が飢えや渇きを感じるのか。

・脳が身体に休息を与えるのか、身体が脳に休息を与えるのか。

脳が主で身体が従なのか、身体が主で脳が従なのか。

・身体の欲望を叶えるのが脳の機能(=仕事)なのか

・ゴール(=達成)とかホームにいるということは、為すべきことがなく寛いでいることなのか。

・ゴールにいて脳が寛いでいるのが最高の状態なのか。

・脳は必要な時に必要な働きをして、それ以外は何もしないのがいいのか。

・脳がどうでもいいことに感心を示し働き続けるのが最高の状態なのか。

 

 脳を過大評価して、脳で全てを解決できると思い込んでいることに疑問を呈してもいいかもしれません。脳は腸から分化した臓器でしかなく他の臓器を統制しているわけではないのでは。情報の収集と効率の良い動作の指示命令を司っているだけの臓器。身体全体のために働いている臓器の一つでしかない。ちゃんと身体に従うように躾けないと、勘違いして主人面してしまう。

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老子 第十章  

載営魄抱一、能無離乎、専気致柔、能嬰児乎。玄覧滌除、能無疵乎。愛民治国、能無為乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無知乎。生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳。 

 

①身体は働きを止めず(=営)魂(=心・精神)を抱きながら(=一緒に)生きている。身体と魂(=心・精神)は一体ですが、身体と魂が離れずに(=一致するように)できますか?

②自らの気(=思い)を集中(=統一)しながらも身体を柔軟にし、赤子のように純真無垢でいれますか?

③妄想を取り去って、三毒にまみえない聖者のような状態でいれますか?

④人民を愛し国を治めているのに、無為のままでいられるでしょうか?

君主は万物を命名して主導しているのに、雌のように現実を受け入れられるだろうか?

あらゆることを理解していながら、何も知らないように振る舞うことができるだろうか?

之(=万物)を生み(=命名)、之(=万物)を育てながら、その万物を自分の所有物としない、何かを成し遂げても奢らず、長となっても統治していない。これを「玄徳」という。無から生まれた原初(=玄)なる徳という。

 

載:運ぶ。

営魄:たましい。営々と活動している魂。

乎:疑問

玄覧:心がみる様々な物事。妄想。
滌除:洗って除きさる。

疵:あやまち。欠点。病気。
開闔:開閉。開ききる。
四達:四通八達、聡明叡智で四方の事情に精通。

宰 :司る。治める。

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②自らの気(=思い)を集中(=統一)しながらも身体を柔軟にし、赤子のように純真無垢でいれますか?

 

 心身とは精神と肉体と言われていますが、一般的には精神が主で肉体は従であるとしているようです。私たちがはたと現実に気づく時に、思考(=思い)があります。思考(=思い)が物事の最後にあると同時に思考(=思い)がスタート地点になっています。どういうことかというと、気づいている時は気(=気の一つとして気配を察する力)は肉体よりも思考にあります。剣道に遠山の目付というものがあるように、集中する部分を特定すると他がおろそかになります。思考しているということは思考部分だけに集中(=クローズアップ)してしまい他の部分(=肉体)がおろそかになります。

 

 精神(=心)が主とする癖がついているので、精神(=心)によって成し遂げるようと精神を働かせるようになります。あまりに精神にたよりすぎ、精神で肉体を酷使して疲弊しているのが現実ではないでしょうか。

 精神に使われて苦しんでいるというのがいつの世の人間は変わらないようです。極端な例が苦行といわれるように死をかけてまで肉体をいじめ抜いて何かを得ようとする行為です。肉体が先に存在していて、次に精神があるということを忘れているようです。

 我々は細胞⇒組織⇒器官⇒器官系⇒個体と進化してきています。我々の根源はただの細胞であって、細胞の基本構造はエネルギー(=栄養)を取り入れカスを排出することです。個体となっても入り口(=口)と腸と排泄まで繋がるただの管(=腸)から、全ての臓器が分化して作られているようです。腸は第二の脳といわれていますが、脳は腸から分化した臓器と認識したほうがいいかもしれません。

 ウィルスの攻撃を受けて脳が指示命令をするわけではなく、腸でつくられている免疫細胞がメッセージ物質の交換によってウィルスと闘っていようです。身体で起こっていることに脳が直接指示することがどのくらいあるのでしょうか。五感からの感受と思考という部分を担っているというだけなのに・・・。あまりにも脳偏重であるから肉体がおろそかにされています。脳を単純なシステムとして理解すれば、いくつかのセンサー(=五感)から入力される情報を処理してどのように身体を動かせばいいのかの指示命令を与える臓器といえるのではないでしょうか。

 脳は傷や病気を治したりはせずに、病院に行って薬をもらうか寝ているかの判断をする程度の代物であって過大に持ち上げすぎているかもしれません。

 

 お釈迦様も精神(=心)に従って「刀折れ矢尽きる」ほどの苦行をしたようです。精神(=心)が肉体の極限まで追い詰めても肉体は何も掴めず安楽はなかった。何も得ることもできず何者にもなれないということにようやく気づいたかもしれません。精神の限界が訪れ万策が尽きました。ようやく身体が主で精神が従である自然な有り様に委ねることになりました。自然に身を任せ何もしない(=妄想しない・精神を働かせない)ということに落ち着いた。

 精神(=心)が妄想を作ることで悩まされていたのであって、実際に生き生きと生きているのは肉体だと気づく。精神で精神を治せるのなら誰も悩んだり苦労する必要はないのですが。精神は物質のうよに扱うことができないので思うようにはいかないようです。人間は動物を自分たちより劣っていると見なしている向きがあります。しかし、動物から見ると人間は精神に頼りすぎていて悩ましい生き物として映っているかもしれません。

 

 精神に肉体がつき従うのではなく、肉体に精神がつき従うようになれば問題はないのですが・・・。肉体はあるがままの現実に対峙しています。思考は道具ですから使うべき時に使えばいいだけのことですが、面白がって道具(=思考)を振り回していると知らぬ間に自身や他人を傷つけるているかもしれません。特に現実からかけ離れた妄想に一日中浸っていると現実が何だかよく分からずに生きることになり、地に足がつかない生き方になる恐れがあります。

 肉体の欲求(=満たされれば消滅)は些細なことなのですが、精神の欲望(=限界がない)に振り回される肉体はたまったものではありません。

 肉体は腹八分目でいいのですが、精神は我儘放題に暴飲暴食を繰り返し取り返しのつかないことになりかねません。

 あるがままにつきしたがっている肉体のままに、精神もあるがままの赤子のように純粋無垢でいられますかと問うています。考えることが第一として生きてきたのですから、純粋無垢ほど難しいことはありません。それを老子や道教の方々が君主に問うたかもしれません。問いは答えですから君主にそう(=純粋無垢)ありなさいということのようです。

 

 ヴィパッサナー瞑想(=気づきの瞑想)では、身体の行いに心を合わせていくことが要点です。心を成長させるのではなく身体と乖離しているのが心だと気づく。心が主役だとしているのが歪み。心を身体につき従うように訓練する。身体につき従うようになれば、後は身体が静かであれば心も身体に従うので静寂となります。身体の動作を観察し、心を動作に合わせて一致せせていく。身体につき従うようになれば、心は一人遊び(=妄想)から離れていきます。身体と思いが一体となっていくようになります。身体があっての心だということです。

 見えているまま・聞こえているままでいるのが身体の状況であれば、心もその状態でつき従います。自身を悩ます妄想がだんだんと減っていきます。見えているまま・聞こえているままに善悪も執着もありません。身体が欲しておらずただ「あるがまま」であれば、つき従う心も「あるがまま=純真無垢」でありそこに二元対立(=心が両端に大きく揺さぶられ不安・不満・葛藤の原因)があるのでしょうか。

 ただ坐っている時や何かをただ眺めている時は、何も掴まず何も得ず何者にもなっていません。心も空っぽであり心に障りはありません。

 手動瞑想も身体に心が従うようにする良い訓練です。(参考:手動瞑想

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子ー10−1 [老子]

 私たちは母親の胎内で進化の過程を経験して生まれてくるようです。生まれてからは人類の進化の過程を経験しています。赤子の時は「あるがまま」を「あるがまま」に感受し、成長し二足歩行で歩けるようになります。次に言語を憶えいつの間にか自我が芽生え、自我が主体であると思い込んで生きています。

 私たちの本質は、世界を認識できている何か(=意識・それ・本来の自己)であり気づきそのものです。身体というものに閉じ込められている何か(=意識・それ・本来の自己)であり身体と共に気づきがあります。赤子の時は、身体と気づきが一致していないようです。足に触れて身体の感覚と何か(=意識・それ・本来の自己)が徐々に繋がっていくようです。身体を認識できる物質世界を五感で感受しています。この物質世界の中で生きているという感覚をだんだんと味わうようになっていきます。

 見ようとして見ているわけでもなく、聞こうとして聞こえているわけでもなく、息を吸おうとして吸っているわけでもなく吐こうとして吐いているわけでもありません。

 生命体は身体というものを維持するようにプログラミングされていて、欲求の感覚が起これば感情を伴って自然と喉を震わせて声を出すようになっているかもしれません。赤子の時には社会的な重圧や思考から来る悩みなどとは無縁です。とにかく身体の不自由さと身体の不快を解消したいだけかもしれません。

 成長するにしたがい二足歩行ができるようになり行動範囲も広がります。言葉も憶え、不快の解消から欲求を満たそうと自己主張するようになります。

 

 日々生きていながら「本来の自己」をすっかり見失っているので、「私は誰なんだろう」と自問しながら生きているようです。他人が教え示したとしても、見抜くのは自分自身をおいて他にありません。もし、「本来の自己」が変化するものであれば探すことはできません。また、本当に「本来の自己」かどうかも分かりません。変化するものは本物ではない。「無」は生み出しますが、変化のしようがあるでしょうか。

 それ(=本来の自己)が自己以外のどこかにあったり、掴んだり得たり「本来の自己」へと成るようなものでしょうか。掴もうとか得ようとかしてるのは実態のない表象である「私=自我・アイデンティティ」でありゲームをしているということを見抜かなければなりません。つかもうとしている限り終わりのないゲームが続きます。

<自問>

・我々は自身の身体の欲求のために心を使ってはいないだろうか。

*身体の欲求:苦しみたくない、快適でいたい、できれば安楽で満たされていたい、極端になれば快感に浸っていたい(薬物に依存する人もいます)

・心が身体を操っているのか、身体が主人で心は下僕なのだろうか。

・身体の渇きが収まらない限り、心は働き続けるのだろうか。「心猿意馬」

 

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老子 第十章  

載営魄抱一、能無離乎、専気致柔、能嬰児乎。玄覧滌除、能無疵乎。愛民治国、能無為乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無知乎。生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳。 

 

①身体は働きを止めず(=営)魂(=心・精神)を抱きながら(=一緒に)生きている。身体と魂(=心・精神)は一体ですが、身体と魂が離れずに(=一致するように)できますか?

②自らの気(=思い)を集中(=統一)しながらも身体を柔軟にし、赤子のように純真無垢でいれますか?

③妄想を取り去って、三毒にまみえない聖者のような状態でいれますか?

④人民を愛し国を治めているのに、無為のままでいられるでしょうか?

君主は万物を命名して主導しているのに、雌のように現実を受け入れられるだろうか?

あらゆることを理解していながら、何も知らないように振る舞うことができるだろうか?

之(=万物)を生み(=命名)、之(=万物)を育てながら、その万物を自分の所有物としない、何かを成し遂げても奢らず、長となっても統治していない。これを「玄徳」という。無から生まれた原初(=玄)なる徳という。

 

載:運ぶ。

営魄:たましい。営々と活動している魂。

乎:疑問

玄覧:心がみる様々な物事。妄想。
滌除:洗って除きさる。

疵:あやまち。欠点。病気。
開闔:開閉。開ききる。
四達:四通八達、聡明叡智で四方の事情に精通。

宰 :司る。治める。

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①身体は働きを止めず(=営)魂(=心・精神)を抱きながら(=一緒に)生きている。身体と魂(=心・精神)は一体ですが、身体と魂が離れずに(=一致するように)できますか?

 

私たちは何のために瞑想をするのでしょうか。

 身体が存在していて、心は付き添っているという根本に立ち返るということではないでしょうか。ヨガ・武道・スポーツであれ身体が主であり身体の動きに心を同調させていきます。身体が欲求に従わないように制御していく。心が身体につき従うように鍛錬します。心が身体に従順となる境地にいたれば、あとは身体を静寂に保てば心も静寂になるという原理のようです。

 「健全な精神は、健全な肉体に宿る」という言葉があります。(ローマの詩人ユベナリス)〔原詩の中での意味は「人は神に、健全な身体に宿った健全な精神を与えられるように祈るべきだ」である〕(参照:大辞林)

 当時は健全な肉体があったとしても、「心猿意馬」という言葉あるように精神が肉体に従わず暴力や犯罪が横行していたかもしれません。

 

 現在でも、身体の欲求のために心が付き従って身体を満足させようと一生懸命です。精神世界では心の煩悩をどうにかしようと躍起になっていますが、心が問題ではなく身体の下僕として働く仕組みの「私=自我・アイデンティティ」ある。身体が主人ですので、主人たる身体を観察して身体を統制することから始めなければなりません。勝手に湧き出る思考は身体とは無関係なので取り合わない。ただ、身体が何を感受しているかを観察する。現実の身体が欲しない環境に馴れ柔軟にする。

 身体が感受していることだけが事実のようです。事実に思いを一致しなければなりません。見えているだけ聞こえているだけそのままが事実、心は事実のままでいて何かが起こった時に使えばそれでいい。

 身体は何もしていなければ何も思考する必要はないのはないでしょうか。身体に思考が従う、身体が平安であれば思考も平安のはずなのですが・・・。

 身体は今ここにあるのですが、思考は天国を作ったり地獄を作ったり宇宙に行ったり諸外国に行ったりと落ち着きがありません。身体が静かなのに心が彷徨っていて、静寂がもたらされるでしょうか。身体を沈黙(=静寂)させ自身も沈黙する。

 身体に心を従わせる、食べている時は食べるだけ。掃除とか草取りとかの作努をやることで身体が統制され動いた結果が見えるので非常にいいと思われます。心が身体に従っていて無心でできている。掃除をしている時は掃除をしているだけ。走っている時は走っているだけ。走っている時は何を考えていますかと聞く人がいますが、頭を空っぽにして走ることだけにしていればランナーズハイは向こうから訪れるはずですが・・・・。

 ※掃除や草取りなどの雑事を嫌がる身体であれば、身体が瞑想に適していないと判断されるかもしれません。どんな些細なことでも身体が動くことはそれなりに身体の制御が出来ている証拠のようです。

 

<参考>

瞑想:心を静めて無心になること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことである。

マインドフルネス:スピリチャル的なものや宗教色を排除して、雑多な考えを減らしていく。副交感神経が優位になる。普段の脳内では「デフォルトモードネットワーク(DMN)」と呼ばれる活動がおこなわれていますが、これを鎮める。「オキシトシン」という幸せを感じられるホルモンが分泌されます。

 静かな場所でリラックスして座り、目をつぶって注意を呼吸に向けます。そうすると何かしら考えが浮かんできますから、それに気づいてください。気づいて、でも注意を向けないようにする。呼吸に注意を向けて、考えが出てきたらそれに気付くだけ気づいて、また戻す。そうすると結果的に何も考えなくなる。

(参照:医学博士が語る「瞑想」

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

 


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