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思量-1 [阿含経]

「思量」

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は、比丘たちに説いて仰せられた。

「比丘たちよ、わたしどもが何事かを思い、あるいは企て、あるいは案ずる。それが識によって存する条件である。その条件があるがゆえに、識が存するのであり、その識が存続し、増長するとき、未来にふたたび新しい有(存在)を生ずるにいたり、未来にふたたび新しい有を生ずるとき、また未来に老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。かくのごときがすべての苦の集積の生ずる所以である。

 比丘たちよ、もしわたしどもが、何事をも思わず、あるいは企てなかったとしても、なお何事かを案じるときは、それが識の存する条件となる。その条件があるがゆえに、識が存するのである、その識が存続し、増長するとき、未来にふたたび新しい有を生ずるにいたり、未来にふたたび新しい有を生ずるとき、また未来に老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。

 だが、比丘たちよ、もしわたしどもが、何事をも思わず、何事をも企てず、また何事をも案じることがなかったならば、それは識の存する条件とはならない。その条件がないので、識は存続することがないのであり、その識が存続し、増長することがないのであるから、未来にふたたび新しい有を生ずることがない。未来にふたたび新しい有を生ずることがないのであるから、また未来に生も、老死も、愁・悲・苦・憂・悩も生ずることがないのである。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である」

南伝 相応部経部12-38 阿含経典一巻 P161 増谷文雄著 筑摩書房

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 私達にどのような思いが浮かんでくるのか分かる人はいません。各個人が置かれている状況は異なり、次にどのような事象が起こるかの予測はつきません。意図的に自分に都合のいい事象を呼び込むこともできません。事象は勝手に起こって勝手に消滅しています。

 「思考する」ということは思考する対象が自身の「外」にあるということです。「外」にある事象をどうにかするために自動的に「思考」します。「思考」することで”私(=我)”が出現します。問題が「外」にあることで、自意識が自身の問題として解決しようとする癖があります。ある問題を解決するときに、辛酸を味わった過去と不安な未来なイメージを伴うことで自身を苦しめることになります。結果的に自身を苦しみから救うのではなく自らを苦しめるために「思考」しているのではないでしょうか。

 自身の脳内で自動的に「思考のループ」が行われ、ますます「苦しみ」が増すことになります。何度も繰り返される「思考」によって「苦しみ」が大きくなり記憶の傷となっているかもしれません。

 「思考」で解決できるというのは数学・物理・化学・・というインプットが決まれば自ずとアウトプットが決まるような単純なことだけかもしれません。人間の抱いている悩みを「思考」で解決しようとすれば、「問題(=対象)を消し去る」・「問題(=対象)から離れる」・「問題を無視する」・「何かに委ねる」「相手をコントロール(地位・金・暴力・権力・・)」・「アイデンティティによって自己承認」・・という解決方法から選ぶことになります。

 学校や社会で教わってきたことが個人の幸せのためであるのなら、誰もが幸せになってもいいのですが・・・。社会に貢献して社会を豊かにするためとか、社会に害を与えたら罰するというのなら個人よりも社会を守るための教えだということです。個人よりは集団維持のためのであったと疑われてもしかたありません。

 人類の歴史で偉大な思想家や哲学者が「思考」してきました。偉人と言われる人は「幸せな世界」を実現できるように努めてきた筈です。一部の人しか理解できないようなことだったのでしょうか。個々人の理解力が不足していたのでしょうか。

 個人にとって一番危険なのは「思考のループ」だと教えてくれる人はいませんでした。後輩の顔に硫酸をかけてしまうような事件が起こりました。この事件は「思考のループ」によって引き起こされたのでしょうか。「思考」した結果として選ばれたのが相手を傷つけるということでした。

 

 お釈迦様の発見された「苦の集積」に識(=心・意)の存続と増長があります。いわゆる「思考のループ」です。極端に言えば、社会全体が「思考のループ」が危険だという認識がまったく無いということかもしれません。社会に問題が起こると個人的な責任としてしまいます。

 阿含経は口伝での対機説法であり、さらに翻訳されたものなので真意を汲み取ることは難しいのですがなんとか実践したものです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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老子-67 [老子]

天下皆謂我大似不肖。夫唯不肖、故似大。若肖、細久矣。我有三宝、持而保之。一曰慈、二曰儉、三曰不敢為天下先。慈故能勇、儉故能広、不敢為天下先、故能為成事長。
今捨慈且勇、捨儉且広、捨後且先、死矣。
夫慈矣戦則勝、以守則固。天將救之、以慈衞之。

 

世の中の人は、私のことを「偉大だが取るに足りない人間のように見える」と言う。私は偉大だからこそ取るに足りないように映る。もし私が物足りない人間であったら、弱々しい人間であっただろう。私には三つの宝がある。その宝を大切にして守っている。第一に「慈」、第二は「倹」、第三は自分が先頭に立つようなことをしない。慈け深いので勇敢になることができる。つつましいので共感をえることができる。先に立つことがないので、指導者としての地位に推される。もし、慈け深くなく単に勇敢であり、つつましくなく、先頭に立とうとすれば、戦場ですぐ死んでしまうだろう。戦いに勝つためにも、守りを固め、慈け深さが必要だ。天が私たちに味方するのは、慈によって守ってくれるからである。

 

<他の翻訳例>

 天下のだれもが私のことを、「道」は広大だが愚かにみえるという。大きいからこそ愚かにみえるのである。もし愚かにみえないとしたら、それはずっと以前に微細なものとなっていたであろう。私には三つの宝がある。それらを離さずに大切にしている。第一は慈愛、第二は倹約、第三は天下の(人びとの)先頭に立たないことである。慈愛があるから勇気を出すことができ、倹約するからいくらでも施しができ、天下の人の先に立たないからあらゆる官の長(かしら)となれるのである。ところが、慈愛をさしおいて武勇であろうとし、倹約をさしおいてひろく施そうとし、あとにつくことをやめて先に立とうとしても、死があるだけで。そもそも慈愛がある人は、それによって戦っては勝利を収め、守っては攻略されがたい。天が(その国を)救おうとすれば慈愛をもって保護する。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 勝手な想像ですが、戦国時代の武将といえば豪快で勇ましく人の先頭に立っていたのではないでしょうか。慈愛・倹約・先頭に立たないというのは弱々しくリーダーとしては頼りがいのない人物像かもしれません。慈愛に溢れ質素で謙虚なリーダーはセンセーショナルであり興味を惹かせるには十分なことです。

 勝てば官軍負ければ賊軍という図式は昔から変わっていません。正義が勝つのではなく、勝った方が正義となります。◯◯主義や〇〇党の勝利が僅差であっても、勝利した方は世間の総意だと主張します。天が味方するということは、天が善悪・正否・美醜・・・という二元を見極め正義を助けるということでしょうか。天が助けてくれたから天の加護の元に生きながらえて今に存在しているということでしょうか。我々の祖先が途絶えること無く確実に遺伝子を伝えたから存在しています。存在が正義であって、存在できないことが間違いということなのでしょうか。

 自らに益(=望みを叶えられた)をもたらしてくれる力が”天”という概念を構築しています。侵略者に味方する”天”は、先住している人にとっては”悪”でしかないのですが・・・。勝ったほうが正義なのですから仕方がありません。

 自身に都合の良いとおもわれるモノが”天”であり、都合の悪いのが”悪”ということです。コインの裏表と同じで、どちらかを”表(=天)”とすれば反対側は”裏(=悪)”となるのは必然のことです。どちらの言い分も正しいとすれば、天も悪もありません。単に結果に理由づけするために、何らかの力が働いたことにして”天”としているのでしょうか。信じている自分たちだけを救ってくれるというのは、あまりにも自分勝手な物語ということになるのですが・・・。天が対価を得て加護を与えるというのはあまりにも人間臭すぎます。人間と取引をするような天はたかが知れているかもしれません。

 ちっぽけな一個人に何らかの力が注がれるというのは想像力が豊かすぎます。アブラムシ・蜂・蟻・毛虫・百足・・・餌にありついたら天のご加護があったと祈り、吹き飛ばされたり踏みつけられたら悪態をつくのでしょうか。誰のおかげでもなく誰のせいでもありません。ただなるようになっているだけのことです。

 ”現実”とはこの身に起こっている事象だけなのですが、人は自身の困りごとを何でも解決してくれる何かを作り出してしまったようです。上手く行かない時は”何か”に責任転嫁してウサを晴らしていないでしょうか。とてつもない想像力で妄想して作り出した”何か”に振り回されているかもしれません。

 大雨が降ったり竜巻が起こったり巨大地震が起こったりハリケーンで大災害になったり・・・、一体誰が何をしでかしたからといって天がピンポイントで災害を起こすのでしょうか。温かく広大な大気を、誰がどうやって持ってくることができるのでしょうか。隣の人が涼しく自分だけ暑いということはありません。

 どこに天があってどんな天が特定の人をどのように選んで、どんな力でサポートするのか。その天の仕組みがサッパリ分かりません。どのタイミングで自分に力が与えられたのか分かればいいのですが・・・・。あらゆる自然現象は自然の道理によって自然に起こって自然に滅しています。自分に都合の良い”天”という概念を作り出しています。”天”が特定の誰かのために自然現象を作り出しているわけではなく、起こるべくして起こっているので自然現象ということです。人類の歴史を紐解くと、天の怒りを鎮めたり宗教的正当性のめに生贄・魔女狩り・月食・日食・天動説・・・という非科学的なことをしていました。

 昔から実体のない何らかの”力”を”天”という概念として、何かを成し遂げたら”天”が味方したとしていたということ。誰かが作り出した”力”を信じてもいいのですが、何でもかんでもその”力”に頼れば頼るほど裏切られた時の反動が大きくなるかもしれません。信じている対象がある限りはその実体と一体化できません。

 極端な例ですが、”天”を信じて20mの高さから飛び降りる人はいません。なぜなら結果が分かっているので信じる(=分からない)必要がないからです。”天”は分からないからこそ、信じ続けることができます。分かれば信じる対象とはなりません。何故信じるかということは、いつまでたっても分からないからです。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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正見 [阿含経]

「大徳よ、正見(しょうけん)、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」

「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。

 カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間に無というものはない。また、カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。

 カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。だが、聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執着し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したとみて、惑わず、疑わず、他に依ることがない。

 ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。」

カッチャーヤナ 南伝 相応部経部12-15 阿含経典一巻 P112 増谷文雄著 筑摩書房

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・「正見とはいったい、どういうことでございましょうか

 現実・事実を正しく見て、現実・事実のままでいることができれば混乱・葛藤・苦悩することがあるでしょうか。現実・事実を否定したり、逃げたりせずに現実・事実のままに生きているとしたら。現実・事実が間違と言っている主体は一体何者なのでしょうか?

 

・「この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。

 我によって二つ(現実と思い通りにしたい)に見てしまう。ありのままの現実・事実を認めたくない、思いを実現してほしいと願ってやみません。過去(=記憶)や未来(=想像)のことで不安に苛まれています。過ぎ去って存在していない過去を悔い、ありもしない未来に期待して頭の中では現実・事実を生きていません。現実・事実を思いの通りに変えたい。

 理想(=思いの通り)の世界が正しく、”今”というありのまま現実・事実が間違っているとして苦悩します。極端に言えば現実・事実が無いことであってほしく、思いの通りの世界があってほしいかもしれません。

 無門関第一則「趙州狗子」:狗子の仏性の有無を問う。迷いを解決する悟りではなく、問題そのものがない悟りとは。狗子に悟れる素質の有無を問うているのではなく、あるがままを生きていて迷うことがない狗子を見よ。迷うことが無い狗子には悟れる素質という二元対立的なことは議論にならない(=無)。”今”という現実・事実のままに生きている狗子には迷い(=問題)はなく迷いの対極にあるちっぽけな悟りは必要がない。逐一の問題解決はちっぽけな悟り。あるがままの現実・事実をそのままに生きていれば、現実・事実が問題にはならない。問題にならなければ、悟る必要も悟るということもない。現実・事実にケチをつけている本体(=我)が出てこなければどうなるでしょうか。

 

・「正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。

 世間に恒常不変のものはなく、無常であり何もしなくても消え去ってしまいます。形あるものも形のない思いも跡形もなく消え去ってしまいます。消え去る”思い”に振り回されています。子供・青春時代の”思い”はどこにもありません。その頃は大事な”思い”だったのに・・。今の重大な”思い”も数年後にはあっさりと忘れ去られているということでしょうか。

 ”今(=刹那)”が完璧に消えなかったら大変なことです。見えたものや聞こえたもの・・感受されたものが消えなかったらどうなるでしょうか。音が残って頭の中で鳴り響いて蓄積されたら次の音を音と認識することはできません。刹那の瞬間に一切は消え去り、まったく別の事象が起こっています。(前後裁断)全く同じ状態として有り続けるというものはありません。

 

・「この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。

 ”我”は貪欲であって、”我欲”を満たそうと一生懸命です。根底には”自分かわいい”があります。”自分を安心させたい・安楽にしていたい・特別でありたい・分かっていたい・救われたい・苦悩したくない”という思いが高じて、命がけの苦行さえ行ってしまいます。お釈迦様も”我”に振り回されて苦行した一人かもしれません。”我”に同調したり逆らったりすればするほど悲惨な目に合うということかもしれません。

 苦悩の原因が現実・事実と異なる思いの通りにしたいという”愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている”ということかもしれません。”我”の”こうありたい・こうしたい・こうあるべきだ”というただの思いです。

 思いの通りの世界が”我”にとって真実の世界であって、現実・事実をなんとかして思いの通りの世界へと変えたい。世間の人々の”我”の働きをずばり言っているのでしょうか。

 

・「聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執着し、こだわるところがなく

 わき起こる思いは自分が意図的に浮かび上がらせているものではなく、縁によって勝手にわき起こってくるものです。勝手に見え、勝手に聞こえ、勝手に思う。ただ思いを追いかけ回して言語でつなぐことで、何らかの意味が通じるようなものになります。

 ”我”に同調したり追いかけなければどうなるでしょうか。

 

・「ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したとみて、惑わず、疑わず、他に依ることがない。

 現実・事実に反して、”我”に同調して思いの通りにしたいと思うことで”混乱・葛藤・苦悩”となります。これ(=混乱・葛藤・苦悩)が苦だということが分かり、苦が生じたと正しく見ることができます。思いのとおりにしたいという”思い”を追いかけずにほったらかしにする。”何とかしたいという思い”を取り合わないでいると、現実・事実のままで一つになります。現実・事実のままであれば”混乱・葛藤・苦悩”が滅します。苦(=混乱・葛藤・苦悩)が滅したという体験によって、疑うことがなくなります。

 

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老子-66 [老子]

江海所以能爲百谷王者、以其善下之、故能爲百谷王。是以欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。是以天下樂推而不厭。以其不爭、故天下莫能與之爭。

 

大河と海は多くの谷を従える王である。低いところにあるがゆえに多くの谷の王である。民衆の上に立とうとすれば、謙虚な言葉で語り、自身の身を後にする。聖人は民衆の上の立っても、人々の重荷にならなし害にはならない。天下の人々は彼を推挙して厭わない。それ故に世の中には彼と争う者がいない。

 

<他の翻訳例>

大江(揚子江)や海が幾百の川や谷の王である理由は、(この二つが)すぐれて下(ひく)い地位にあるからだ。だから、幾百の川や谷の王であることが可能である。それゆえに人民の上にある(統治者になろう)と望むならば、そのことばを下(ひく)くしなければならない。人民の先頭に立つ(指導者になろう)と望むならば、一身をかれらのあとにおかねければならない。それゆえに聖人は、人民の上にいながら人民はそれを重荷とせず、前に立ちながら人民は害があるとはしない。それゆえに天下(の人びと)は喜んでかれを支持して、いやがらない。かれは争うことをしない。だから、天下(の人びと)はだれひとりかれと争うことができないのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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「水の低きに就くが如し」(孟子)という言葉がありますが、自然の道理はどこでもいつでも誰にでも働いてとどまることがありません。

 水は最も低いところに流れ、最後には大海へと流れていきます。大言壮語する王は信頼されないということでしょうか。国王が老子の言うことを理解して実践していれば、平和な世界が構築されているはずなのですが・・・。誰もが自分が正しいと主張するということは、他人は間違いだということです。事象を二元対立として見る限りは対立はなくなりません。言葉(=音)は危険や獲物を獲得するためものだったのが、命令・指示するものに変わったのでしょうか。今では事象を理解したり、何らかの思いを追いかけるのに使われています。どんなに理解力があったとしても、他人の言葉を聞いて他人の味をそのまま味わえるわけはありません。”心地よい”・”痛くない”・・・・と唱えようが叶うわけはありません。もし、言葉が実現したら大変なことです。単に意識の高揚にやだつ一助でしかありません。言語は単なるコミュニケーションツールの一つでしかなかったのに、ただの音でしかないのに最も影響力があるかのように扱われています。言語では全ては伝えられないということを理解した上で、ギリギリのところでコミュニケーションをとっていくしかないようです。


 言語で何かを掴んだり得たりすることはありません。経験者が経験したことに近い言語を組み合わせて表現したことで、自身の体験と照らし合わせることしか方法はありません。


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苦の原因は二元対立 [気づき]

 マールンクヤは

・世の中は常住なるものか。無常なるものか。

・世界に果てがあるのかないのか。

・霊魂と肉体は同一か別なのか。

・死後の世界は存在するのかしないのか。

とお釈迦様に解答を迫った、マールンクヤはこの答えを知りたくてたまりませんでした。 しかしお釈迦様は、それらの問いに一切答えられず、問いかけてもいつも黙したままでした。

 お釈迦様は「悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。ただしその境地に達したとしても、歳をとり、病気になり、死んでいく、ということを避けることはできない。

ならば何も解決していないではないかと思いたくなるが、真理を悟った人であっても感覚や感受性は変わらないから、悟った人も悟らない人も矢で射られれば同じように痛い。病気になれば同じように苦しい。美しい花や宝石を見れば同じように美しいと思う。 これは誰しも等しく受けるものである。
 ところが真理を知らない人はさらに病気になれば不安と悲しみと疲労に襲われて絶望し、美しい花や宝石を見れば美しいと思うだけでなく、盗んででも自分のものにしたいと執着する。真理を知らない人は良いことも悪いことも全て苦の原因にしてしまう しかし悟った人は①事実を受け入れても、苦の原因に執着しないのである。今大切なことは、②苦悩、煩悩を克服し、心豊かに生きることにある。その苦しみをどうすれば無くすことが出来るかという事だ。真理を知ることよりも先にやるべきことがある。」と諭されました。

(中阿含経)

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 ある疑問に対して、お釈迦様が◯◯であると断言すれば、自分で確認することはしないかもしれません。他人の答えを聞いて納得してどうなるのでしょうか。宇宙に果てがあろうがなかろうが、今ここの自身には何も関係ありません。知ったところで、何かが降ってくるわけでもなく何かがわき起こってくるわけでもありません。

 魂が有るとかないとか、輪廻するとかしないとか、分かりもしないことを考えてもどうしようもありません。魂を感じた・見た・対話した・・そんなことが出来たら大変なことです。やたら魂に気を使ったり、面倒でありやっかなことになります。普段でも忙しいのに、日常生活に煩わしさが加わりかえって邪魔となるかもしれません。

 一体どれだけの魂がどこにどのようにあるというのでしょうか。魂の方から相手にしてくれと言われている人がいるとしたらうんざりしているかもしれません。

 自分だけの願いを聞いてくれる何らかの存在があったらどうなるでしょうか。自身の願望を成就させるために何らかの存在にお願いし、困難(=邪魔)なモノを排除してもらう。自身が”正しく・正義”敵対する相手がすべて”間違い・非正義”ということがあるでしょうか。敵対する対象が”悪”であるのならば、至るところに”悪・敵”がはびこっているということです。相手からすれば私達は”悪・敵”と決めつけられます。

 勝負事で勝ち上がり一番になるには相手を倒していかなければなりません。倒す相手ではなく、技量を磨きあう好敵手という存在としなければなりません。スポーツという場を盛り上げる参加者であり切磋琢磨するライバルです。相手を貶めるのではなく、相手をリスペクトしてお互いに高め合うことができます。

 

 ある境地を身体的な開放や精神的に動揺しないような感覚だと勘違いしている人がいるかもしれません。ある境地は非常に心地よく恍惚状態となるだと勝手に想像しています。他人の心境がどうしてそのままわかるでしょうか。体がなくなったり宇宙全体に広がったり・・・・。そのような感覚は一時的でしかありません、ずっーと続いたら大変なことです。ある山に登頂したとしても頂上に居続けることはできません。ほんの一時的な体験だということです。

 恍惚状態を体験するために薬物を利用する人もいるようです。特別な体験や特別な境地というものがあるのなら平凡でいることはどういうことなのでしょうか。人生のほとんどの時間よりも特別だとされる刹那の瞬間のほうが大事であり、日々の時間を犠牲にする必要があるでしょうか。ある時間とこの時間を比べられるでしょうか。良い時間も悪い時間もありません。たった今だけがあり前後裁断しています。時間は存在ではなく、記憶・記憶によって有ったと思い込んでいるだけのことです。時間がどこかに存在していたら大変なことです。

 思考するだけでスーパーマンになったら大変なことです。生命体であれば、病気になるし老います。インドの聖者であろうが、痛いのは痛い苦しいのは苦しく当たり前のことです。感情が欠落したら大変なことです、我を忘れ感情に振り回されることはどこかおかしくなっています。自分を見失うほど怒こるのは論外です。

 

 事象は事象であり、自身の身に起こったことは起こっただけです。どうして自分だけとか悔いたり嘆いたりしても過去は変えることはできません。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」(良寛)眼の前のことを最善に尽くす他ありません。何もせずに嘆いてばかりいては事は進みません。苦悩・煩悩の悩(=何とかしたい)が元凶だということのようです。苦も煩わしいというのは誰もが経験しますが、さらに次の苦へと自らが自らを苦しめるかどうかです。何とかしたいのは今(=現実)のことでしょうか?ただ頭の中で”何とかしようという考え”に振り回されているかもしれません。ただの思いよりは行動すべきことを行動したほうが優れています。

 

 ②苦悩、煩悩を克服し:”克服し”を思考を使って克服しようとすることが大きな間違いかもしれません。”何とかしよう”というのが自我であって、思考の輪廻から抜け出せないかもしれません。

事実を受け入れても、苦の原因に執着しない:”事実を受け入れる”とは”何とかしよう”という思考に取り合わず放っておくということかもしれません。”何とかしよう”はすでにこの世に存在していない過去(=苦の原因)に執着していないでしょうか。「現実・事実」は何かが見えて・聞こえて・感受されています。何らかの思いが浮かんでは消えているだけなのですが・・・。食べているだけなのに(=どうでもいい思考を追いかけている)ちゃんと食べていない。その思いを追いかける”癖”に振り回されているということに気づくことです。その思いが二元対立(=どちらかに行ったり来たり、一つの事実を分裂している)となっていて混乱を作っているということなのですが・・・。

 

<ポイント>

・事象はただの事象であってそれそのものでしかない。痛いは痛い。美しいは美しい。汚いは汚い。

・苦は事象を二元対立とすることによって苦となる。痛いは悪であって避けたり排除すべきもの。味(=甘味、塩味、酸味、苦味、旨味)を味として味わえなければ大変なこと。感覚(=触覚、圧覚、温覚、冷覚、痛覚、痒覚、痺れ、吐き気、倦怠感・・)を感覚として感じられなければ大変なことです。

・苦を滅するには、何とかしようというを放っておけば消えるということを体感する。わき起こる思い(=何とかしたい)を追いかけない。ただ感受するだけ。見えたのは見えたまま、聞こえたのは聞こえたまま・・二元対立的に追いかけたり(=執着)忌避したり(=排除)しない。

・二元対立として見る脳の癖に気づき、そのままの一つのままにある。

 

 

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老子ー65 [老子]

古之善爲道者、非以明民、將以愚之。民之難治、以其智多。故以智治國、國之賊。不以智治國、國之福。知此兩者、亦稽式。常知稽式、是謂玄徳。玄徳深矣、遠矣。與物反矣。然後乃至大順。

 

現代語訳

昔から「道」によって善政をなす君主は、民衆に知識を与えるのではなく素朴に暮らせるように務める。民衆がバラバラになるのは知識が多くなることによる。知識で国を治めようとするのは、賊である。民衆が素朴に暮らせるようにすることは国の福となる。知識ではなく素朴に暮らせるということを理解することが正常な状態にすることである。正常な状態にすることを「玄徳」という。「玄徳」は深遠であり遠い。万物と共に戻るところである。大いなる道に従い無為自然へと至る。

 

<他の翻訳例>

 「道」を行うことにすぐれた昔の人は、(「道」によって)人民(の知恵)を輝かせたのではなかった。(それによって)人民を無知にしようとしたのである。人民を治めることがむずかしいのは、(かれらに)知恵が多すぎるからである。だから一国を治めるのに知恵をもってすることは、国の損失になるであろう。知恵によらずして国を治めることは、国にとって幸いであろう。この二つがやはり規範であると知る(べきだ)。つねに規範を知ること、それは神秘の「徳」とよばれる。神秘の「徳」は奥深くて遠くまでとどく。(しかも)物といっしょにかえってくる。そのときこそ完全な随順となるのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 知るために生きているのか?生きるために知るのでしょうか?赤子の時は知らなくても生きていました。知識によって無知であることがよく分かります。知履帯ということで混乱葛藤が増えていきます。一体どこまで知識を蓄えたら満足するのでしょうか。

 言葉となっている花の色(=記憶にある真紅)と実際に見ている花の色のどちらが真実・現実なのでしょうか?知識となっているモノをは事実を言語に変換しています。事実・現実は”今”感受している事象そのものです。知識は知識として良いのですが、現実・事実をおろそかにして知識に振り回されていては”今”に生きているとは言えないかもしれません。

 知識を振りかざして何も行動に起こさなければ口だけの人です。どんなに口うるさく言っても当事者が行動しなければ何も変わりません。「案ずるより産むが易し」という諺があります。あれこれ考えるよりも行動してみるほうが手っ取り早いというのは経験でわかっています。

 楽をしたい、それには簡単・便利を選びます。単に面倒くさい部分がブラックボックス(=例えば誰かが作ったソフト・配送システム・・)となっているだけで、仕事量は変わりません。配送する車を動かすエネルギーが必要となります。地球の裏側の美味しい果物を食べたいという願望を叶えるためにどれだけのエネルギーが使われているのでしょうか。人間の楽したいという願望の実現のために後戻りできないような気候変動がもたらされています。過度な願望に振り回されることなく平凡・純朴に生きたいものです。

 

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本質は変わりようがない [気づき]

無門関の第4則に「胡子無鬚( こすむしゅ )」というものがあります。

<原文>
或庵曰(いわ)く、
「西天の胡子(こす)、甚(なん)に因(よ)ってか、鬚(ひげ)無き?」

<現代語訳>
或庵(わくあん)が言われた、「達磨(だるま)は、一体どういうわけで、
鬚(ひげ)がないのか?」

 

 私達は固定されたイメージに縛られているのではないでしょうか。釈迦・老子・達磨・・・様々なイメージを持っていてそのイメージから抜け出せません。人類史において突出した偉人であり神格化していると決めつけているかもしれません。

 今の高校生の知識量は数千年前の人よりはるかに上回っています。数学・物理・化学・地理・歴史・地学・語学・・・中学生よりも劣っていたかもしれません。知識によって何かを得たり捉えたり掴んだりしたわけではないということです。知識で得られることなら現代人の方が速やかに得ることが出来て当然のことです。学習してどうなるということではないということでしょうか。物理的な環境である、インフラなどの生活環境・衛生環境・医療環境・住環境・科学技術・道路・・・・は比べようもありません。

 数千年を経ることで、人間の人体構造の劇的な変化があったでしょうか。人間の発見・発明・創意工夫によってインフラ・社会システム・消費財・製品・生活環境の改善がみられます。人間そのものの働きには何の違いもないということなら、その働きの部分の中で発見したことが”それ”だということになります。

 

 偉人という言葉からして、普通の人とはどこかが違うという思い込みから抜け出せません。なるほど何らかを感得したかもしれませんが、人間としての人体構造や感覚の働きに相違はありません。何らかの新たな能力を身につけたのではなく、間違った見方で世界を認識していたことに気づいただけのことかもしれません。何らかの能力によって世界を変えることができたら大変なことです。人間の欲するままに行われてきた経済活動によって世界の気候が変わってきた事を否定することはできません。何かを知ったり感得することと、行動することは異なります。人間も動物も自然の生き物であって、所詮は寝て起きて飲んで食って排出して動き回っているだけかもしれません。

 

 どうして達磨は”髭”があって赤い衣を着ているのでしょうか。どうして釈迦だけが”仏”とされているのでしょうか。と問いかけられたら何と答えれば良いのでしょうか。「達磨(だるま)は、一体どういうわけで、鬚(ひげ)がないのか?」どうして”髭”があると決めつけているのか?”髭”がなくてもいいのでは?普通の人と同じでどこが悪いのか?どうして普通の人と異なって見てしまうのか?どうして決めつけたイメージから抜け出せないのか?同じ人間であってどこがどう異なっているのか?

 思考して何者かになるのではなく、間違ったものの見方(=二元対立・分裂)で過ごしていたことに気づいて一つに観る(=あるがまま)ことができるようになる。そのもの一つだけを見て比べることがなければ、善悪・美醜・長短・貴賤・・などありません。

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二見に住せず 慎しんで追尋すること勿れ

<省略>

一心生ぜざれば 万法咎無し(信心銘)

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縁起の法は「これがある時、それがある。これが生じる時、それが生じる。これが無い時、それが無い。これが滅する時、それが滅する。」とあります。よく因果関係だと説明されていますが、釈迦が発見した苦を滅する法のようです。これ(=分別・二元対立・二見)を持ち込めば”苦”となり、これ(=分別・二元対立・二見)がないとき”苦”が滅するということかもしれません。物事を勝敗・優劣・美醜・貴賤・・・比べること無くありのままの一つとして見ればいいということかもしれません。勝者と敗者ではなくただスポーツのルールに従って各自の能力を発揮したという事実があるだけ。レッテルをはって一喜一憂して振り回されているだけかもしれません。全身全霊で今ある自身の能力を発揮できればいいのかもしれません。誰がどれだけやったかなど本人にしか分かりません。良し悪しを言うのは簡単なことです。個々の能力は僅差であって、人間の本質は変わりようがないのではないでしょうか。

 常に比べてみる癖に気づき、”何とかしよう”が出てきたらほったらかしにする。”何とかしよう”が消えてきたら混乱・葛藤も滅していくかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>




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老子−64 [老子]

其安易持、其未兆易謀。其脆易泮、其微易散。爲之於未有、治之於未亂。合抱之木、生於毫末、九層之臺、起於累土、千里之行、始於足下。爲者敗之、執者失之。是以聖人、無爲故無敗、無執故無失。民之從事、常於幾成而敗之。愼終如始、則無敗事。是以聖人、欲不欲、不貴難得之貨。學不學、復衆人之所過。以輔萬物之自然、而不敢爲。

 

現代語訳

変化のないときには静観し、変化の兆しがあるときには事を起こしやすい。問題がたやすいのであれば簡単に解決するとができ、些細な問題は消滅させることはたやすい。問題が表面に出てくる前に処理し、問題となって混乱する前に収拾するのがよい。幹が一抱えもある大木でも一筋の毛のような芽から育つ、九層からなる大きな建物もひと盛りの土から建てることができ、千里の道も一歩から始まる。意図的に何かを為そうとすれば失敗し、権力にこだわっていてはその権力を失うことになる。聖人は意図的にすることが無いので、失敗することもなく、権力を手中にすることがないので権力を失うこともない。

一般の人は、何かを成し遂げようとするときに失敗してしまう。完成となる時にこそ初心を忘れずに慎重になれば失敗することもない。聖人は欲しても得られることが出来ないことを欲し、得ることのできる財貨を貴ばず、学んでも得られないことを学び、一般人が過度に欲しているところから戻る。自然に従い意図的なことはしない。

 

<他の翻訳例>

 じっとしてるあいだはとらえやすい。まだ兆しが現れないうちは処理しやすい。もろいものは融けやすく、微小なものは消滅させやすい。まだ何でもないうちに処理し、混乱が大きくならないうちに秩序だてておくことだ。ひとかかえくらいの大木でも、毛すじほどの芽からはえるのだし、九重の高さの築山でも、ひと盛りの土から築きはじめられるし、千里の遠方への旅行も、足もとからふみ出されるのだ。何かしようとするものは害を与え、固執するものは失うであろう。それゆえに聖人は、何もしないから何ものをもそこなわず、何ものにも固執しないから何ひとつ失わない。人びとが仕事をする場合、いつでも完成に近づいたときにだめにしてしまう。「やりはじめと同じく、終わりぎわを慎重にせよ」。そうすれば仕事がだめになることはない。それゆえに、聖人は欲望を起こさないように望み、手に入れにくい品物をとうといものとはしない。学ばないように学び、大衆の通りすぎてしまったあとへみなをもどらせる。こうして万物がその本性に従うことを助けてやる。しかし、行動することを進んではしないのである。

「世界の名著 小川環樹 訳 中央公論社」小川環樹:京都大学名誉教授 中国文学者

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 安定していたと思ったら、ちょっとした油断やほころびで崩壊してしまいます。頑丈そうな土手でも水は弱いところを削ってあっという間に崩壊してしまいます。「鎖の強さは一番弱いつなぎ目で決まる」とよく知られています。他の輪がどんなに丈夫であっても弱い部分が最初に切れるので弱い輪がその輪の強度となっています。

 宇宙ステーション・F1・高速列車・飛行機・・・ボルト1本がちぎれたり外れてしまえば全体に大きなダメージとなってしまいます。1本数十円のボルトが数百億円の価値と同等ということです。我々の体も1個のがん細胞やウィルスが増殖して死に至らしめることがあります。目に見えないウィスルも人体と同等であると言えます。農作物の病気もそうです。「バタフライ効果」というものがあります。些細なことであっても大きな出来事とつながっているというものです。

 「千里の道も一歩から」:小さな積み重ねによって大きなことがなされている。私達が今生きている”異常な気象現象”も些細なことの積み重ねによってもたらされているようです。

 学んで得られたことで幸せになるのならこの世に不幸はないのですが・・・。学ぶのは”我”ですが、学ぶ以前の”あるがまま”がどうなっているのでしょうか。二元対立はなく、見えたまま聞こえたままであり一切に斟酌しない。良いも悪いもないそのままということです。〇〇は綺麗で◯◯は汚いとか、◯◯は高価で〇〇は廉価というのは人間の勝手な分別で区別・差別しているだけのことです。

 死んでしまった人はどんなに神格化されたとしても真実の姿がどうだったのかは憶測でしかありません。仏陀であろうが達磨であろうが、何日も同じぼろ切れのような衣を着て何日も風呂に入らなかったらどうでしょうか。人間も動物ですから歯も磨かずに爪も切らなければどんな姿になっているか想像することは難しくありません。勝手に崇高にしているだけのことかもしれません。今に生きているのですから、今の素晴らしさを体験する他ありません。

 

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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社会の問題と自己の問題 [気づき]

 何かを掴んだり何かを得たり何者かになるというのは社会的な出来事であるということを認識しなければなりません。社会制度の中で社会的な自己(=自我)を何とかしていこうと葛藤します。なんでもかんでも思考で解決できると教わり実践してきました。思考することが解決することができると疑うことがありません。

 社会的な問題は社会的な自己(=自我)がその置かれている状況で知恵を絞るか、政治家・思想家・哲学者・科学者・医学者・・・の叡智で解決することは当然のことです。仏道のような、個人的な問題は個人が解決するべきです。

 私的な迷いを頭で解決できる人と迷いを根本的に脱落した人は違います。迷いを思考で解決するのは知識や経験で何とかするということです。問題(=迷い)自体が無いということでなければなりません。学生は学業成績で悩みますが、学生でなければ学業成績で迷う必要はありません。ペットの飼い主はペットのことで悩むことがありますが、ペットを飼っていなければ悩むことはありません。医者は患者に私情を持つと悩みますが、私情を介入させずに誰に対しても全力を尽くせば迷う必要はありません。区別・差別をすると悩みが起こります。”自分かわいい”が介入するので悩みが大きくなります。痛いのは痛い以上でも以下でもなく痛い感覚そのものでしかありません。

 個人的な問題(=迷い)を解決すべきは社会の問題ではありません。仏道は自己の問題を全て解き明かす方程式を手に入れることではありません。問題(=迷い)を問題(=迷い)として取り扱う必要がなくなることではないでしょうか。

 

仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(道元)

 

 自己の問題を解決するには、自己が何とかしようとし続けるのでは大変なことです。常に問題に振り回されます。赤ちゃんには”我”はありませんでした。なされるまま生きていて、何とかしようとしても何にもできません。大人になると問題が増えるのは、自分で何とかできるという”癖”があるからかもしれません。”我”が”我”を使って”我”のために何かできるということから抜け出せません。”何とかできる”が叶わないと”神”という概念を持ち出して、願掛けをするようになるかもしれません。”何とかできる”という呪縛から離れることは最も困難なことです。

 分別(=二元対立)の世界で生きて何とかしようと頑張っているのは社会的な自己です。この分別(=二元対立)以前の無分別を一瞥してみる。分別するから混乱・葛藤があるということを実感する。あらゆる事象はそのようにあるということを変えることはできません。

 一切は宇宙物質から出来ています。素粒子レベルでは何ら違いはありません。一切は「エントロピー増大の法則」によって分解されることになっています。どうしょうも出来ないことで悩んでいないでしょうか。”我”がそんなにもかわいい、愛おしいければ”我”に振り回され続けてしまいます。”何とかしよう”というエネルギーを放ったらかしにして鎮めてみるのもいいかもしれません。

 NetflixのCMの「退屈は犯罪です」というのは”我”に振り回されることを推奨しているのでしょうか。静寂・平安であるには退屈とお友達になることかもしれません。

 

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