苦の原因は二元対立 [気づき]
マールンクヤは
・世の中は常住なるものか。無常なるものか。
・世界に果てがあるのかないのか。
・霊魂と肉体は同一か別なのか。
・死後の世界は存在するのかしないのか。
とお釈迦様に解答を迫った、マールンクヤはこの答えを知りたくてたまりませんでした。 しかしお釈迦様は、それらの問いに一切答えられず、問いかけてもいつも黙したままでした。
お釈迦様は「悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。ただしその境地に達したとしても、歳をとり、病気になり、死んでいく、ということを避けることはできない。
ならば何も解決していないではないかと思いたくなるが、真理を悟った人であっても感覚や感受性は変わらないから、悟った人も悟らない人も矢で射られれば同じように痛い。病気になれば同じように苦しい。美しい花や宝石を見れば同じように美しいと思う。 これは誰しも等しく受けるものである。
ところが真理を知らない人はさらに病気になれば不安と悲しみと疲労に襲われて絶望し、美しい花や宝石を見れば美しいと思うだけでなく、盗んででも自分のものにしたいと執着する。真理を知らない人は良いことも悪いことも全て苦の原因にしてしまう。 しかし悟った人は①事実を受け入れても、苦の原因に執着しないのである。今大切なことは、②苦悩、煩悩を克服し、心豊かに生きることにある。その苦しみをどうすれば無くすことが出来るかという事だ。真理を知ることよりも先にやるべきことがある。」と諭されました。
(中阿含経)
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ある疑問に対して、お釈迦様が◯◯であると断言すれば、自分で確認することはしないかもしれません。他人の答えを聞いて納得してどうなるのでしょうか。宇宙に果てがあろうがなかろうが、今ここの自身には何も関係ありません。知ったところで、何かが降ってくるわけでもなく何かがわき起こってくるわけでもありません。
魂が有るとかないとか、輪廻するとかしないとか、分かりもしないことを考えてもどうしようもありません。魂を感じた・見た・対話した・・そんなことが出来たら大変なことです。やたら魂に気を使ったり、面倒でありやっかなことになります。普段でも忙しいのに、日常生活に煩わしさが加わりかえって邪魔となるかもしれません。
一体どれだけの魂がどこにどのようにあるというのでしょうか。魂の方から相手にしてくれと言われている人がいるとしたらうんざりしているかもしれません。
自分だけの願いを聞いてくれる何らかの存在があったらどうなるでしょうか。自身の願望を成就させるために何らかの存在にお願いし、困難(=邪魔)なモノを排除してもらう。自身が”正しく・正義”敵対する相手がすべて”間違い・非正義”ということがあるでしょうか。敵対する対象が”悪”であるのならば、至るところに”悪・敵”がはびこっているということです。相手からすれば私達は”悪・敵”と決めつけられます。
勝負事で勝ち上がり一番になるには相手を倒していかなければなりません。倒す相手ではなく、技量を磨きあう好敵手という存在としなければなりません。スポーツという場を盛り上げる参加者であり切磋琢磨するライバルです。相手を貶めるのではなく、相手をリスペクトしてお互いに高め合うことができます。
ある境地を身体的な開放や精神的に動揺しないような感覚だと勘違いしている人がいるかもしれません。ある境地は非常に心地よく恍惚状態となるだと勝手に想像しています。他人の心境がどうしてそのままわかるでしょうか。体がなくなったり宇宙全体に広がったり・・・・。そのような感覚は一時的でしかありません、ずっーと続いたら大変なことです。ある山に登頂したとしても頂上に居続けることはできません。ほんの一時的な体験だということです。
恍惚状態を体験するために薬物を利用する人もいるようです。特別な体験や特別な境地というものがあるのなら平凡でいることはどういうことなのでしょうか。人生のほとんどの時間よりも特別だとされる刹那の瞬間のほうが大事であり、日々の時間を犠牲にする必要があるでしょうか。ある時間とこの時間を比べられるでしょうか。良い時間も悪い時間もありません。たった今だけがあり前後裁断しています。時間は存在ではなく、記憶・記憶によって有ったと思い込んでいるだけのことです。時間がどこかに存在していたら大変なことです。
思考するだけでスーパーマンになったら大変なことです。生命体であれば、病気になるし老います。インドの聖者であろうが、痛いのは痛い苦しいのは苦しく当たり前のことです。感情が欠落したら大変なことです、我を忘れ感情に振り回されることはどこかおかしくなっています。自分を見失うほど怒こるのは論外です。
事象は事象であり、自身の身に起こったことは起こっただけです。どうして自分だけとか悔いたり嘆いたりしても過去は変えることはできません。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」(良寛)眼の前のことを最善に尽くす他ありません。何もせずに嘆いてばかりいては事は進みません。苦悩・煩悩の悩(=何とかしたい)が元凶だということのようです。苦も煩わしいというのは誰もが経験しますが、さらに次の苦へと自らが自らを苦しめるかどうかです。何とかしたいのは今(=現実)のことでしょうか?ただ頭の中で”何とかしようという考え”に振り回されているかもしれません。ただの思いよりは行動すべきことを行動したほうが優れています。
②苦悩、煩悩を克服し:”克服し”を思考を使って克服しようとすることが大きな間違いかもしれません。”何とかしよう”というのが自我であって、思考の輪廻から抜け出せないかもしれません。
①事実を受け入れても、苦の原因に執着しない:”事実を受け入れる”とは”何とかしよう”という思考に取り合わず放っておくということかもしれません。”何とかしよう”はすでにこの世に存在していない過去(=苦の原因)に執着していないでしょうか。「現実・事実」は何かが見えて・聞こえて・感受されています。何らかの思いが浮かんでは消えているだけなのですが・・・。食べているだけなのに(=どうでもいい思考を追いかけている)ちゃんと食べていない。その思いを追いかける”癖”に振り回されているということに気づくことです。その思いが二元対立(=どちらかに行ったり来たり、一つの事実を分裂している)となっていて混乱を作っているということなのですが・・・。
<ポイント>
・事象はただの事象であってそれそのものでしかない。痛いは痛い。美しいは美しい。汚いは汚い。
・苦は事象を二元対立とすることによって苦となる。痛いは悪であって避けたり排除すべきもの。味(=甘味、塩味、酸味、苦味、旨味)を味として味わえなければ大変なこと。感覚(=触覚、圧覚、温覚、冷覚、痛覚、痒覚、痺れ、吐き気、倦怠感・・)を感覚として感じられなければ大変なことです。
・苦を滅するには、何とかしようというを放っておけば消えるということを体感する。わき起こる思い(=何とかしたい)を追いかけない。ただ感受するだけ。見えたのは見えたまま、聞こえたのは聞こえたまま・・二元対立的に追いかけたり(=執着)忌避したり(=排除)しない。
・二元対立として見る脳の癖に気づき、そのままの一つのままにある。
<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>
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