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社会の問題と自己の問題 [気づき]

 何かを掴んだり何かを得たり何者かになるというのは社会的な出来事であるということを認識しなければなりません。社会制度の中で社会的な自己(=自我)を何とかしていこうと葛藤します。なんでもかんでも思考で解決できると教わり実践してきました。思考することが解決することができると疑うことがありません。

 社会的な問題は社会的な自己(=自我)がその置かれている状況で知恵を絞るか、政治家・思想家・哲学者・科学者・医学者・・・の叡智で解決することは当然のことです。仏道のような、個人的な問題は個人が解決するべきです。

 私的な迷いを頭で解決できる人と迷いを根本的に脱落した人は違います。迷いを思考で解決するのは知識や経験で何とかするということです。問題(=迷い)自体が無いということでなければなりません。学生は学業成績で悩みますが、学生でなければ学業成績で迷う必要はありません。ペットの飼い主はペットのことで悩むことがありますが、ペットを飼っていなければ悩むことはありません。医者は患者に私情を持つと悩みますが、私情を介入させずに誰に対しても全力を尽くせば迷う必要はありません。区別・差別をすると悩みが起こります。”自分かわいい”が介入するので悩みが大きくなります。痛いのは痛い以上でも以下でもなく痛い感覚そのものでしかありません。

 個人的な問題(=迷い)を解決すべきは社会の問題ではありません。仏道は自己の問題を全て解き明かす方程式を手に入れることではありません。問題(=迷い)を問題(=迷い)として取り扱う必要がなくなることではないでしょうか。

 

仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(道元)

 

 自己の問題を解決するには、自己が何とかしようとし続けるのでは大変なことです。常に問題に振り回されます。赤ちゃんには”我”はありませんでした。なされるまま生きていて、何とかしようとしても何にもできません。大人になると問題が増えるのは、自分で何とかできるという”癖”があるからかもしれません。”我”が”我”を使って”我”のために何かできるということから抜け出せません。”何とかできる”が叶わないと”神”という概念を持ち出して、願掛けをするようになるかもしれません。”何とかできる”という呪縛から離れることは最も困難なことです。

 分別(=二元対立)の世界で生きて何とかしようと頑張っているのは社会的な自己です。この分別(=二元対立)以前の無分別を一瞥してみる。分別するから混乱・葛藤があるということを実感する。あらゆる事象はそのようにあるということを変えることはできません。

 一切は宇宙物質から出来ています。素粒子レベルでは何ら違いはありません。一切は「エントロピー増大の法則」によって分解されることになっています。どうしょうも出来ないことで悩んでいないでしょうか。”我”がそんなにもかわいい、愛おしいければ”我”に振り回され続けてしまいます。”何とかしよう”というエネルギーを放ったらかしにして鎮めてみるのもいいかもしれません。

 NetflixのCMの「退屈は犯罪です」というのは”我”に振り回されることを推奨しているのでしょうか。静寂・平安であるには退屈とお友達になることかもしれません。

 

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>


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